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2006年9月15日

閾値、可変性について。

世のなかには確固としたモノサシがある、と考えたい。しかしながら人間の尺度というものは伸びたり縮んだりするものです。長さを測る道具は変わっちゃいけないものですが、人間を測るモノサシは常に変化するものです。

変化し生成する人間を標本箱に押し込んで測るために、統計的な処理も可能だとは思うけれど、統計的に処理されたくない「個」としての自分もいる。頭があまりよくないので、感覚に頼った見解ばかりなのですが、今日は、可変性ということについて考えみます。

昨日、「閾値」という言葉を使ってみたのですが、はてなのキーワードでリンクしたところ「Threshold」という英語の解説があり、一気に親しみを覚えました。音楽をやっているひとならわかるかもしないのですが、エフェクター(音を歪ませたり、エコーをかけたりする機械)に、スレッショルドというつまみがあります。効果の効き方を調節するつまみです。たとえばコンプレッサー(リミッター)であれば、どこから音を圧縮しはじめるか、という部分を設定するのがスレッショルドのつまみで、低めに設定するとはやくから効果が効きはじめる。ゆるめに設定すると、ちいさな音のときには効かないのですが、大きな音になると効くわけです。

ぼくがDTMで使っているSONARというアプリケーションに付属しているSonitus:fxのコンプレッサーでは次のような画面になっています。

comp.jpg

赤く丸で囲んでしまったのですが、左側の「-14.0db」という値がThresholdで、その下のグラフをみると、-14.0dbあたりからカーブががくんと曲がっているのがわかると思います。つまり、この部分からエフェクトが効きはじめるということです。

昨日は、このエフェクトが効きはじめるということを、人間の「満足」に置き換えて、この値をぐぐっと下げてしまえば満足しやすくなるし、一方でどばっと上げてしまうと満足であると感じられにくくなる、という解説を試みてみました。

人間のことを考えてみると、この「閾値」は常に変化しています。一定の設定のまま、いつでも効果の効き目が決まっているということはない。ひとりの人間の場合も可変ですが、ひとそれぞれ設定が違います。だから、ばらばらな閾値が、常にめまぐるしく変わっている状態が人間の世界といえるかもしれません。

そして、意識的に閾値を変えている、ということもある。親しいひとに対しては、大目にみる(閾値を下げる)のだけど、敵対する誰かに対しては非常に厳しい評価をする(閾値を上げて、満足の敷居を高くする)。あるいは「空気」というものも影響して、「なんとなくみんなの評判が悪い」という事前の情報があると、先入観を生じさせて閾値を高めてしまうこともあります。よいものであったとしても、バイアスがかかってしまう。

普遍的なモノサシがないばかりか、満足させようと思っても効き目が一定ではない、ということをぼくらはもっと意識すべきだと思うし、逆に、前提として閾値のハードルを下げることができれば、ささいなことでも満足を向上させることができるかもしれません。

たとえばですね、仕事でお客様を訪問したときに、いきなり難しいことを言う、お客様を批判する、売り込みを開始する、というと、一気に閾値を上げてしまうことになりかねません。けれども、当たり前のことですが、最初はウォーミングアップとして、あえてプライベートなことを語ってみる。すると、ガード(閾値)が下がることもあるかもしれない。もちろん、すべてに通用するテクニックではありません。プライベートはいいから本論へ!という方もいます。ただぼくは、身体が温まっていないところに強行突破をかけても無理だと思うし、逆にその強行な印象がすべてを壊す場合もあり得ると思う。相手のレベルメーターがどの辺りを指しているのか推しはかりつつ、前進、留保、迂回、撤退、飛翔、潜行、隠蔽、消去などの方策を練ることが重要という気がします(もちろんテクニックの話ではありませんが)。

感動の閾値が低い状態にあると、どんな映画を観ても小説を読んでも泣けてくるのかもしれないのですが、じゃあこの程度で十分だろう、とたかをくくって制作されたりすると、つまらん、なんだこりゃ?と批判が殺到する場合もある。かといって、顧客重視の観点が行き過ぎて、お客様に媚びたりすると作為的な姿勢がマイナス評価になり、「この製品は、ぼくが欲しかったものですっ!」のようなピュアなプロダクトアウト製品のほうが、やんやと受けたりもする。

あらゆる状況に適応するセオリーはありません。すべては変化しつつあり、「いまここで」と言った言葉が過去になっている、ということなのかもしれません。

さて、ひとの心が変わりつつある浮動的なものであるからこそ、誰かの心を変えることもできるかもしれない、という夢もある。一定の法則が支配する世界ほど殺伐としたものはないと思うのですが、法則が生成し、消滅し、また誕生するような世界であるからこそ、誰かを、そして世界を変えてしまうような言葉が創造できそうな、わくわくした感じもある。

言葉は世界を定義し、静的な構造に落とし込もうとするのですが、言葉化したときに、その対象は既に過去のものになっています。まだ言葉になっていないもの。言葉にしようとするとするりと脳のなかを潜り抜けていってしまうものにこそ、ぼくは目を向けなければいけないのかもしれません。

まったく可変性について語っていませんね。可変性について語りたいことがあったのですが、忘れてしまいました。思い出したら追加します。

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2006年9月14日

満足って何だろう。

限りのある人生なのできちんと生きたい、満足できる人生を送りたい、と思う秋のとばぐち。しかしながらきちんと生きることと満足のいくように生きることは違うのではないかと思いました。きちんと生きても満足できないこともあるし、ちゃらんぽらんであっても大満足ということもあり得る。

満足というのは幅広い分野で使うことができる言葉で、たとえば仕事では顧客満足(CS:Customer Satisfaction)などということが重視されます。そのためにマニュアルを整備したり、調査を行ったりする。またモチベーションのマネジメントにおいても重要で、マズローの欲求五段階説なども、ある段階の欲求が満たされると高次の欲求を求める、という充足(満足)の考え方が基本にあったような気がします。Webサイトのコンテンツにも満足は重要な観点になるし、子育てにも満足できるかできないかということはあるし、趣味であっても満足をどこまで追求するか、ということがある。

そんなわけで今日は、満足について考えてみます。

満足の反対は不満だろうか、と思うのですが、何かの本で読んだのですが、不満を取り除いたとしても満足を向上させることにはならないようです。不満を取り除いたときには、マイナスをゼロに戻すようなもので、そこからプラスに転じるのは、まったく考え方が異なる。

ということをつらつら考えつつ、ぼくのなかにひとつの法則というか言葉が浮かんできたので、書いてみます。検証していないので、既に誰かが述べていることかもしれません。そもそもの発想は、最近よく考えている「全体」と「部分」の考え方にあり、その思考を下敷きにしたものです。つまり、

「満足は全体思考からもたらされて、不満は部分思考に起因する」

ということです。どういうことか、例を挙げて説明してみます。

いまここに定年を迎える夫婦がいて、仮に女性の方をペケ子さんとするのですが、彼女が定年を迎えた夫に言うわけです。「あなた離婚してください」と。ええっそりゃまたどういうことだい?と晴天の霹靂のように驚く旦那さんなのですが、彼女がつづけていうことには、

「あなたの鼻をかむ音が嫌なんです」

と。がーん、そんなぁ(へなへな)と力が抜けてしまう旦那さんは悪人かというとそんなこともなく、結婚記念日には花束とケーキを買って家に帰ってきていたし、息子と休日にはキャッチボールもしていた。彼の特長的な10の傾向のなかで1つだけ、鼻をかむ音がひどい、という短所があった。けれどもペケ子さんには、それが許せなかったわけです。その鼻の音はなんなんだ、と。

一方で、ここにもうひとりの夫婦がいて、仮に女性の方をマル子さんとするのですが、彼女の夫はとんでもない男で、ギャンブルはするは浮気はするは顔のバランスは崩れていて足はミニチュアダックスなみだったりして、傍からみていると、どうして夫婦になっちゃったかな、という印象がある。けれどもマル子さんは言うわけです。

「いいひとなのよ」

と。ええっ、いったいどこがいいひとなんですか挙げてみてください列挙してください、と追求したくなるのですが「どこと言われると困るけど、いいのよ彼」などと言って笑ったりする。

と、書きながらこの理論には問題がある、ということに気付いてしまったのですが、ある部分の不満が全体に影響を及ぼすこともあれば、同様に、ある満足が全体をフォローすることもある、ということもあります。10のうち9はひどいことばかりなんだけど、笑顔がステキ、というようなパターンです。

うーむ・・・。この理論、使えませんね。とほほ。

とはいえ、多くの場合、ひとつでも不満が生じると、あらゆるよいことを駆逐してしまうような現象があるのではないか、と思いました。熱烈なファンがクレーマーに転じるのもそういうときで、だからこそ不満(クレーム)というのは留意する必要があります。企業ブログが炎上する場合はもちろん、リスクマネジメントでも重要になる。部分の問題が、全体に波及することがあるわけです。それが怖い。

だからといって、ぼくはペケ子さんよりマル子さんの方が偉くて、みんなマル子さんのようによいところだけみよう、美点凝視だ(新人時代に習った言葉です。みんなのよいところだけをみましょう、という考え方)という風には思いません。ペケ子さんにとっては、鼻をかむ音こそが世界を図るモノサシであり、「鼻をかむ音がひどくないこと」が世界を正常に保つために重要なことであって、代替的にほかのどのような美点があったとしても、それは使いものにならない。

ぼくは、そういうひともいてよいと思います。そんなひとに「もっと世界のほかの部分をみようよ」ということほど、おせっかいなこともないと思う。つまりそれがペケ子さんの価値観であり、その価値観をありのままに容認することが重要な気がしています。国際化の基本も、異なる価値観を押し付けるのではなく、理解できない文化を理解しようとするところ(ありのままにみようとするところ)に、あるのではないか。

ぼくからみると変だけどさ、その考え方もありだよね、という許容力。それが成熟した社会には重要ではないか、と思います。異端な考え方を排除し、集中的に批判したり吊るし上げることこそが稚拙であり、もっと多様性を許容できる社会になると日本の未来も面白くなりそうな気がしているのですが、いかがでしょう。

ぼくの考え方も変わりつつあるようですが、こんな風にも思います。

たとえば満足の閾値(threshold)を下げてあげると、どんなことにも満足するようになるかもしれません。空が青い=満足、風が吹いた=満足、みんな仲良し=満足、ランチが美味しい=満足、のように。

それはそれでしあわせなのかもしれないのですが、高い満足を求めなくなるような気がしました。理想と現状の距離が課題である、ということをビジネス書で読んだ覚えもあるのですが、ときには身の程知らずの高みに挑戦するのも大事です。その跳躍が高ければ高いほど、影響があるのは個人だけではなくて、社会も変わる。そして、達成したときの満足度は桁はずれなものなのです。もちろん手の届かない理想ばかり追いすぎると、満足できない=不満になってしまいますが、閾値を下げすぎると向上心がなくなってしまう。そのあたりの匙加減はものすごく重要です。

足というのは、青天井のようなものかもしれません。一度満足してしまうと、もっと満足できる刺激を求める。満足には際限がない。

えーと。まとまりがつかなくなったので、断片的にいろんな考えを書きとめることにしますが、不満を不満で消去することはできないか、ということも考えました。というのは先日、何のテレビだったか忘れたのですが、騒音を騒音でやわらげるというシステムが紹介されていたからです。位相を反転させた音をぶつけると、音は消える。そんな風にして、騒音を減少させていたようでした。

その映像をみてぼくが思い出したのは、遠い昔まだぼくが少年だった頃、カセットテープの音をカラオケにする機械があった、ということでした。たいていボーカルはステレオの場合、中央(センター)に定位しているもので、そのセンターの音の位相を反転すると、センターの音だけ消えて、L(左)とR(右)が残る。つまりボーカルの消えたカラオケになる。この機械を使ったとき、少年のぼくは、ほんとうにびっくりしました。センターの音を消すと同時に、左右の音をくっきりと際立たせるので、カッティングギターの音などが明瞭になる。え?こんな音が鳴っていたの?という驚きでした。

位相の反転という考え方を応用すると、不満を満足で解消するのではなく、不満には(位相を反転した)不満をもって打ち消すという方法もあるのではないか、と。具体的にどうなのか、というと困ってしまうのですが、子供の教育のためにあえて反面教師になる、というようなことでしょうか。破綻してしまったのですが、「満足は全体思考からもたらされて、不満は部分思考に起因する」論を用いると、不満である状態は思考にブラインドが落ちて、全体思考ができない状態ともいえます。そこで、あえてさらに細部を追求することによって、ああ、そんなことやってちゃダメだ、全体をみなければ、と思わせるようにするショック療法もあるかもしれません。ネガのネガはポジである、という発想に近いかも。

というわけで、満足って何だろう?、という問いに対して、わからんっ!、という答えだけが残りました。わからないので、もっと考えてみようと思います。

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2006年9月13日

10年ひとむかし。

うちの息子(次男3歳)は去年から喘息です。昨日も風邪から喘息の発作を引き起こしてしまい、夜中の2時から4時まで救急の小児科に駆け込むということになってしまいました。とはいえ、さすがにもう慣れたもので、落ち着いて彼を連れて行くことができました。

苦しい彼の気持ちを思うとつらい。しかし、とにかく親が落ち着いているだけで、いろいろなことが冷静に判断できるものです。しかしながら、結局のところぼくが眠ったのは5時をまわっていて、しかも午前中に外せない仕事があったので、眠くてめまいがする一日でした。そんな日もあります。

ぼくにはふたりの息子がいます。長男はいま9歳です。ということは、もうすぐ父親暦10年ということになる。

父親も10年やっていると、さすがに慣れるものです。そして、何よりも忍耐力がつく。そもそもぼくは忍耐という言葉とは遠いところにある性格なのですが、子供たちのおかげで忍耐力をつけさせていただきました。まだ長男がちいさい頃には、自分の時間が奪われるような気がしたこともあったのですが、いまではどちらかというと彼等の時間を優先することもあります(いつもではないのですが)。独身で時間があればもっと映画を観たり本も読めたりするのになあ、趣味のDTMだって細部にこだわった作品ができるかもしれない、と思うこともあるのですが、実際に暇な時間ができたとしたら、ぼーっと過ごしてしまう気がします。

結局、人間と言うものは(と、言い切ってしまうのも問題ですが)、豊かであると豊かであることに気付かずに、その豊かさを浪費してしまうのかもしれません。かえって、時間がないっという切迫した気持ちのときの方が、ちゃっちゃっと器用にさまざまなことをできたりする。

時間と言うものは永遠にあるような錯覚がありますが、ぼくらの生命が有限である以上、時間もまた有限です。大前研一さんも書いていましたが、老いていく自分をリアルにシミュレーションすると、あと何回スキーに行ける、というようなことは明確になる。いまを大事にしたいと思います。

昨日、ドナルド・フェイゲンのソロアルバムについてエントリーを書いたのですが、彼は11年、13年という周期でソロアルバムを出しています。この10年という周期は長いようで短い。かつて、ITの世界はドッグイヤーなどということも言われたのですが、変化の激しい世界はそれだけ短く感じられます。ただ、だからといってせせこましく活動するのではなく、ながーい目で腰を落ち着けて何かに取り組む、ということもよいと思います。

セルジュ・ゲンズブールには、シャルロット・ゲンズプールという素敵な娘がいるようです。今月のELLE Japonの表紙にもなっています。

ELLE.jpg

なんと彼女は今年20年ぶりにセカンドアルバムを出したとのこと。glasshouseさんのブログでそのことを知り、なんとなく面白かったのでコメントしたのですが、その後、フランス事情に詳しい、しゃるろっとさんのコメントを得て、シャルロット情報でものすごく盛り上がっていました。おふたりの情報収集力と深い知見には、たじたじという感じです。しかし、深堀りができるのもネットの面白さです。

ところで、DTMで曲を創っていて思うことですが、ぼくの制作方法はステップ入力というアプローチで、さらにキーボード(鍵盤)を使わずに、マウスでちくちく音を置いていきます。しかしながら、その手法に慣れてしまったのでストレスは感じないけれど、それでも4時間PCに向って8小節が完成、ということも多い。1ヶ月そんなことをつづけて、やっと3分の曲が完成するわけです。

CGで映画を作っているクリエイターの方にも共通することでしょう。ものすごい制作時間をかけたとしても、作品のなかではほんの一瞬であったり、画面の片隅の部分であったりする。いわゆる石を積み上げている状態で、それがピラミッドになるとは想像もつかないわけです。ところがこの部分の石を手抜きすると、全体がガラガラと崩れていってしまうことがある。部分と全体はそんな風に密接に関わっていて、部分だからといってあなどれません。

10年ひとむかしと括ってしまうことがいいのか、それとも、いやいやひとむかしといっても10年も毎日、毎時間、毎分、毎秒の積み重ねだよ、と、分解していくことがいいのか。ぼくにはどちらがいいとは言えません。はっきりしていることは、さらにあと10年後には、うちの息子(長男)も成人してしまうということです。頼りない彼が成人することは想像もつかないのですが、いつまでも子供でいるということはあり得ないもので、容赦なく過ぎ去っていくのが現実です。

・・・さて、睡眠不足で意識が朦朧としてきたので、今日はこの辺で。ちなみに、次男は風邪と喘息の発作で、一日でものすごくスリムに変身したのですが、今日はものすごい元気でした。心配かけてもう、という感じがします。とはいえ、やはり若さというか、回復力にはびっくりします。

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2006年9月11日

自分OSをつくる。

ものすごいカミナリと雨のために明け方叩き起こされて、寝不足と体調不調のままつらい一日を過ごしながら、ああ今日は9・11だと思いました。あれから5年になるのか。はやいものです。地下鉄の駅で電光掲示された時計に目をやったところ、まさに19:11でした。ちょっとした偶然を楽しみつつ、5年前の今日から3日後、ぼくの父親は脳梗塞で倒れたことをぼんやりと思い出しました。テロと父の死は、ぼくのなかでは密接に重なっています。もしかするといまでもどこかに影を落としているのかもしれません。

といってもLife goes onというか、ぼくの毎日は容赦なくつづくわけで、立ち止まっているわけにはいきません。ブログを書くこと、書きつづけることがどういうことなのか、ということを常に考えつつ書いているわけなのですが、最近、さまざまな方々から刺激もいただいて、うまい具合に思考をドライブできるようになった気がしています。

ブログとは何か、ということを考えてみたのですが、さまざまなひとが、さまざまな目的でブログを書かれているかと思います。そして、ぼくの場合には、

「自分OSをつくる」

という目的のために書いているのではないか、と思いました。

OSというのは、オペレーティング・システムの略であり、要するにWindowsとかMac OS Xとか、Linuxなどのようなものです。

人間の思考をOSと言ってしまうことには抵抗もあって、今週にはIPOも予定されているかつてのイー・マーキュリー(現在はミクシィ)が会社名を変更するとき、mixiは事業のOSである、という方針を出したことがあり、なんとなく抵抗を感じたことを思い出します。ただ、その考え方は非常にわかりやすいと思います。そんなわけでOSという比喩を使ってみるのですが、OSだけでは何もできません。その上にアプリケーションがのらないと何もできない。けれども、一方でどんなアプリケーションものせることができます。ビジネス用のワープロをのせることもできれば、音楽制作ソフトを使うこともできる。可能性が開かれています。

大前研一さんの「ザ・プロフェッショナル」という本を読んで感じたことが、まさにこの「OSの上にどのようなアプリケーションをのせることも可能である」ということでした。

4478375011ザ・プロフェッショナル
ダイヤモンド社 2005-09-30

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かつては命令にしたがって専門的な能力を発揮するスペシャリストが求められていました。ところがこれからの時代では、環境の変化にしたがって自分で考え(アプリケーションを切り替えて)力を発揮できるフレキシブルな能力を持ったプロフェッショナルを求めている、というようなことを述べられています。自分OSとは、思考のフレームワークともいえるのですが、自分なりのパターン認識や処理の高速化をしていれば、どんな環境にあってもフリーズせずにさまざまな創造的な仕事ができるのかもしれません。

自分OSをブログに求めたとき、それはオープンソース的なものになると思います。基本的には自分ひとりで思考を構築していくのだけど、ネットで公開している以上、コメントをいただくことによってバグを修正することもできる。感情的に暴走したとしても、批判によって食い止めてくれるひとが出てきてくれるかもしれない。とてもありがたいことです。そんな反応をいただくことによって、自分OSを改良し、よりよいものに向上させることができます。

最近の技術では、仮想化(Virtualization)が注目を集めていますが、この動向も技術だけでなく考え方自体に興味深いものを感じました。

仮想化とは、乱暴に言ってしまうと、ひとつのマシンのなかで複数のOSを起動できるようにすることです。一般的にはWindowsとLinuxを立ち上げるなど、異なったOSを立ち上げることが考えられますが、ぼくが注目しているのは、同じOSをふたつ起動して、ひとつは利用者からはみえないバックエンドで監視用として動かす、という使い方です。

つまりユーザー側からみると、ふつうのPCを使っているようにみえる。ただ、クライアントマシンのなかでは、ユーザーにはみえない監視用OSが立ち上がっていて、たとえばネットワークからウィルスなどの攻撃があったとすると、そのOSが自律的にマシンをネットワークから隔離して、ユーザーの領域を守る、ということができるようです。

これは考えてみると、人間に近いものがあって、監視用OSの働きは人間の脳における「無意識」なのではないか、と考えました。無意識の働きはものすごく大きいものです。直感によって、なんとなく虫の知らせとして意識に表れてない脅威から自分を守ってくれることがあります。さすがに直感を再現するところまで技術は追いついていないのかもしれませんが、パソコンはどんどん人間の脳に近づいているような気がします。

ところで、再び自分OSの話に戻るのですが、このOSをバージョンアップさせていくためにはどうすればいいか、というと、これはもうこつこつと積み上げていくしかない。とにかく一行でもいいから、毎日ブログを書くことです。この積み上げることの大切さについて面白いと思ったのは、いま読んでいる(P.74のあたり)「「脳の鍛え方」入門」という本に書かれている池谷裕二さんの見解でした。この本はプレジデントの記事をまとめたものですが、各界のできる方の仕事術などがあって、とても参考になります。

4833450232「脳の鍛え方」入門―40歳を超えてから頭は良くなる! (PRESIDENT BOOKS)
プレジデント社 2006-07

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仕事は区切りのいいところではなく先読みしてちょっと先の仕事をやっておくと、眠っている間にも意識は処理してくれるので効率的という話とか(眠っているあいだにコビトが仕事してくれるといいのに、と思っていたので、ああ脳のなかにコビトさんはいたのか、と思いました)、先日ブログにも書いたセレンディピティ(serendipity:「偶然から思わぬものを発見する力」)などもあって参考になります。そしてセレンディピティを池谷さんは「誰でも知っていることの中に重要性を発見する力」と定義して、次のように書いています(P.25 )。

では、脳の中の神経細胞はどうすれば繋がるのかといえば、外から入ってくる刺激が多いほど、繋がることがわかっています。このことは、アメリカの生物学者ゲイジの研究によって明らかにされています。

ネズミを遊具のある環境とまったくない環境においたとき、遊具のある環境の方が海馬の神経細胞が15%も多くなったそうです。このように一点集中ではなくて分散された刺激を楽しむことが大事であり、蓄積された「手続き記憶」が力を伸ばすということが書かれていました。手続き記憶というのは、「自転車の乗り方」のようなもので一度覚えてしまうと意識しなくてもできるようになる記憶らしい。そして、手続き記憶はインプットの量によって「"べき乗(累積)"で増える」そうです。以下、引用します。

さて、この手続き記憶は「"べき乗(累積)"で増えるという性質を持っています。Aを覚え、次にBを覚えると、A、Bそれぞれの手続き記憶が相乗効果を起こして、それぞれの理解を一層深めます。これを「事象の連合」といいます。
この事象の連合が起きると、二つ覚えたことが四つ(二の二乗)になり、次には八つ(二の三乗)になるというように、勉強の成果が幾何級数的なカーブを描いて上昇します。

そうして次のように結論します。

つまり、凡人でもたゆまぬ努力を続けていれば、爆発的に能力がアップする瞬間が必ずやってくるのです。

凡人であるぼくにとっては、非常に勇気づけられる言葉でした。

かつて、「はじめの一歩」というマンガを引用して、野生的な天才チャンピオンに立ち向かう鷹村が最後に勝てたのは、意識がなくなっていても日々の練習によって積み重ねられたフットワークを身体で覚えていて、その身体が覚えていた力が圧倒的に効いた、という日記を書きました。そして、こつこつ積み上げることが大事である、ということを認識したのですが、あらためて自分OSを向上させるためには近道などはなく、日々考えつづけること、書きつづけることなのかもしれないな、と思っています。

この積み上げたOSの上に、どんなアプリケーションをのせるか、ということが重要なんですけどね。ただ、今日のエントリーで書いた方向性としては、ぼくのブログは完成されている必要はなく、むしろとんでもないカオスであってもかまわない。そして、多様性に開かれていた方がよいのかも、などと考えています。

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2006年9月10日

シリアナ

▽cinema06-053:全体を静かに覆う社会の不条理と、ちっぽけな人間のかなしみ。

B000QUU83Sシリアナ [DVD]
スティーブン・ギャガン
ワーナー・ホーム・ビデオ 2007-07-13

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石油をめぐって企業や過激派などの動きが絡みつつ、その大きな社会の陰謀や策略のなかに巻き込まれていく人間たちを描いた映画です。ジョージ・クルーニーが出演しているので、「トラフィック」や「スリー・キングス」などを重ねてしまうのですが、スティーブン・ソダバーグ監督が総指揮をとって「トラフィック」のチームでつくった映画のようです。なるほど、こまかく揺れ気味の映像とか、ちょっと引き気味で撮影する感じとか、社会的なテーマとか、確かにソダバーグっぽい気がしました。

サスペンスによくあるように、さまざまな登場人物と複雑な伏線を辿るのが困難なのですが、最後で腑に落ちます。子供がプールの事故で亡くなるシーンなど、淡々と描かれているのだけど、それが逆に哀しい。とはいえ、ぼくは拷問のシーンが苦手で、反対勢力に捕まったボブ(ジョージ・クルーニー)の爪を剥ぐシーンは、正視できませんでした。ドキュメンタリーっぽい全体の雰囲気のなかでそこだけが刺激が強すぎて、逆に浮いてしまった感じがする。なんとなく平坦につづく物語なのですが、観終わるとずーんという感じで重い何かが残ります。ただ、最近映画から遠ざかっていたのですが、リハビリのためにはもう少し軽い映画がよかったなあ。9月10日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(66/100冊+53/100本)

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「旅の極意、人生の極意」大前研一

▼book06-066:スケールが違いすぎ、でも視野を変えてくれる一冊。

406212968X旅の極意、人生の極意
講談社 2006-07-07

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まず、お恥ずかしいことなのですが、ぼくは大前研一さんの本はこれで三冊目です。そんなわけで、もっと優れた本があるかもしれません。ただこの本を読んで、「大前さんはスケールが違いすぎる」とため息が出ました。仕事に対する取り組み方も、人生の楽しみ方も、人間の器が大きすぎる。コンサルタントって難しいことを言っているけど実際はどうなの?という表層的なことは今後、ぼくは語れません。

添乗員時代の大前さんの経験を踏まえつつ、海外15ヶ所の大前添乗員おすすめのプレミアムツアーを紹介していただける本です。クラリネットを買うために早稲田の学生時代に史上最年少で通訳案内史の資格を取り、外国人を相手に英語で日本の名所を紹介していくなかで、国際社会に通じるコミュニケーションを身につけると同時に、日本のよいところも見つめなおしていかれたとのこと。すごいのは、言葉を補うために、自分でフリップの資料を作り、それが非常に受けたようです。そんな大前添乗員には、旅行者が帰国してからも感謝の手紙がたくさん届いたそうで、つまりどんな相手にとっても最高の仕事をしていたわけです。

これこそがプロフェッショナルだ、と思いました。フリップで説明することは、上から言われてやったことではないでしょう。けれども自発的に自分を高めていったのだと思います。そんな大前さんがお客様である旅行者に評価されないわけがないし、一方で自分のためにもなっているわけです。

とにかくパラオにしてもドバイにしても、最高級の旅が紹介されていて、大前研一さんのテンションも他の本とぜんぜん違います。文章が熱っぽいし、きらきらしている。ほんとうに旅行が好きで、その旅行が仕事はもちろん人生も豊かにしているんだなあと感じました。大前研一さんにはぜったいになれませんが、この本には旅行の知識はもちろん、タイトルにもあるように「人生の極意」のエッセンスが詰まっています。より豊かに生きるためのヒントがあります。

写真も美しい。ああ、世界にはこんなに美しい場所があるんだ、願わくばこのうちのどれか一ヶ所に行ってから往生したいと思います。そのすべての場所を経験済みの大前さんには、頭がくらくらするほど脱帽なのですが。9月8日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(66/100冊+52/100本)

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2006年9月 9日

「脳の中の人生」茂木健一郎

▼book06-065:反復とやさしい言葉が心地よい、茂木さん的世界。

4121502000脳の中の人生 (中公新書ラクレ)
中央公論新社 2005-12

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脳ブームといわれていますが、ぼくはどちらかというと目的なしに脳を鍛えるのはどうかと思っていて、ひねくれものなのでDSなどで「あなたの脳年齢は50歳」とか勝手に判断されたくないし、無目的で暗記や速読や視覚的な発見ができても、それであなたはしあわせになれるのか?と思ってしまうわけです。

ただ、茂木健一郎さんの本がよいところは、世界をより豊かに生きるための方法として脳や科学や文学について考えられています。ここがぼくが全面的に気に入っているところであり、そして、どの本を読んでも元気づけられる。反復して書かれているテーマもあるのですが、それが心地よい。特にこの本はやさしく書かれていて、すっと理解できるようなコラムばかりです。理解できるし、反復されたテーマが多いのだけど、これはものすごい真理ではないか、ということがある。

たとえば、「創造することは思い出すこと」という視点(P.31)。これは谷川俊太郎さんの「芝生」という詩を思い出してしまうのですが、脳の可能性を感じさせる言葉です。つまり、もしかするとこのちいさな脳のなかに、過去も現在もあらゆる世界の成り立ちの法則すべてが既に格納されているのかもしれない。したがって、木のなかの仏を掘り出すように、ぼくらは既にある法則を掘り出せばいいだけであって、それが創造することなのかもしれないわけです。といっても、それが難しいんですけど。

そして、ぼくは「思い出せない記憶よ、ありがとう」の最後に泣けました(P.225)。長いのですが引用しておきます。

親や教師は時折、子供たちが自分たちのことを将来、どれくらい思い出すのだろうかと考えて、寂しく感じるものである。確かに、自分の体験を振り返っても、学校の授業で「あんなことがあった」と思い出せたり、幼少期に「親があんなことを言った」とはっきりと想起できることは、ごくわずかである。
それでも、私たち一人ひとりは、間違いなく、親や教師が与えてくれた無数の「思い出せない記憶」によって支えられている。それが記憶の地層の奥深くにひっそりとしまわれているものであればあるほど、私たちの人生観、生き方は有形無形の深い影響を受けるのである。
子供たちは、「ありがとう」を言わずに大きくなっていき、やがて巣立って行く。それは寂しいことではあるが、子供たちの脳に刻まれた「思い出せない記憶」は必ず人生の支えになるはずなのである。

そう信じていたいと思います。9月7日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(65/100冊+52/100本)

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リフレイン、ユニゾン。

長すぎる、と自分でも反省しているのですが、最近のぼくのブログのエントリーは長文になりつつあります。その理由としては、テーマが整理されていないこともあるのですが、さまざまな視点が錯綜しているということもある。それにしても、実際にはエントリーした文章量の5倍ぐらい書きたいことがあり、徹夜になりそうなので断念しています。一方で、もっと歯切れよく簡潔に書きたいのですが、なかなか思うようになりません。難しいものです。そんなわけで、今日はブログを書くことについて考えてみます。

ぼくの場合、うまく書けたと思うエントリーは、トランプのゲームで「手札が揃う」感じに近い感じがあります。はてなブックマークなどでストックしておいた複数のニュースや、感銘した書籍、映画、雑誌の記事、経験したことなどがいっきにつながるときがあり、そんなときは書いていて楽しい。

手札を揃えるためには、なるべくインプットの量を増やす必要があり、情報源はジャンルを横断しているほうがよいようです。そして、できれば一次情報のほうがよい。

ランチでこんなものを食べた、という写真つきのブログが楽しいのは、そのひとがリアルタイムで経験した一次情報だからです。ブログから引用の引用ということをぼくもやってしまうのですが(昨日もそれだ)、そこに自分なりの見解などを付け加えることはできます。けれども、やはりどこか使い回しという感じがする。しかしながら、使い回しがいけないのか、別に独自の何かを書かなきゃいけないわけでもなくて、新しいことを書かなきゃ、とプレッシャーを感じていたこともあるのですが、最近では同じことを繰り返し書いてもよいのではないか、と考えています。

木曜日に茂木健一郎さんの「脳の中の人生」を読み終えました。このなかに書かれていることは、茂木健一郎さんのほかの著作でも書かれていることであり、週刊誌の連載ということもあるのですが、非常にやさしくわかりやすい言葉で書かれています。書かれていることは同じネタであっても、またこれか、という風には思わない。むしろ、待ってました、的な感じがあり、その茂木健一郎的な思考に再会するのが楽しい。さらに、っちょっと難しいタイプの本には書かれていなかった茂木さんのプライベートがさらりと書かれていたりして、そんなところが魅力的でもあります。

同じことを何度も書く、スパイラル(螺旋)状態で書きつづけるテクニックは、ブログでも使えそうな気がします。どういうことなのか理屈にしてみようと思って考えていたところ、音楽用語の「リフレイン」、「ユニゾン」という言葉を思い出しました。ちなみにぼくは音楽家でもなく、思想家でもないので、単なる思いつきにすぎないのですが。

まずは、リフレイン。YAMAHAの音楽用語辞典から引用します。

リフレイン refrain[英・仏]
〔1〕有節形式の詩で、各節の最後に繰り返される、同一の詩行。通常、同一の音楽が与えられる。〈ルフラン〉〈反復句〉とも。

同一の用語にリピートもあるのですが、これは単純に「楽曲のある部分を繰り返すこと」と解説されています。リフレインというのは、いわゆるサビの部分を何度も繰り返すことです。繰り返すことによって、頭のなかに詩句が刷り込まれていく。しかし、ここで「通常、同一の音楽が与えられる。」というところが微妙ですが重要であると思って、繰り返されるのだけど少しづつ歌い方を変えたり、アレンジが変わっていくものではないでしょうか。特に歌謡曲でサビといえば、覚えやすかったり印象的なメロディが多い。複雑なものを繰り返されても覚えられません。

ここでメタファ(隠喩)的にブログの書き方に転じるのですが、何度もリフレインすることでファンを増やしていく書き方もあるのではないか、と思いました。ぼくは、やわらかい文章やほのぼのとした話題とともに、ちょっと文語的なブログも好きだったりするのですが、家族の話や仕事に関する悩みなど、何度もリフレインされると、その世界にはまっていくところがあります。

つづいて、ユニゾンです。

ユニゾン unison[英] Unisono[独] unisonus[ラ]
〔1〕高さが同じ2音間の音程。〔2〕複数声部が同一旋律を演奏すること。unis.と略記。

これは、校歌斉唱のような感じでしょうか。複数のひとが同じメロディを歌うことです。メタファ(隠喩)的にブログの書き方に転じると、これは引用して記事を書くことに近いのではないでしょうか。つまり「共感」を軸として、引用元の記事に書かれた趣旨をなぞることになります。なぞったとしても書かれたひととは別人なので、声質などが違うのでまったく違う。

テーマをどれだけ変奏できるか、ということもあるかと思うのですが、新しいネタを追わなくても、同じテーマで書きつづけるブログがあってもよいと思います。大前研一さんはその著書のなかで、一年間に自分でテーマを設定してそれを追求していく、と書かれていました。今年は中国である、と設定したら、中国について知見を深めていくそうです。なかなかそんな風に戦略的に腰を据えて取り組むことはできないのですが、目移りしがちなぼくとしては、同じテーマをリフレインあるいはユニゾンしつつ、太い思考に変えていく、という方向もありかもしれないな、と考えました。

+++++

■YAMAHAの音楽用語辞典。
http://www.yamaha.co.jp/edu/dictionary/index.html

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2006年9月 8日

宝とゴミについての長い論考。

最近、ぼくが注目しているブログに棚橋弘季(gitanez)さんのDESIGN IT! w/LOVEがあります。そもそもはMarkeZineに書かれていた棚橋さんの記事を読んで、これは面白い!と思ったのですが、本日のエントリーで「俳句の有限性と自己組織化するWeb」というテーマで書かれていました。

冒頭でまず「404 Blog Not Found]」から「ゴミなきところに知なし」というエントリーが引用されています。ふむふむ、これは情報にはノイズが必要ということですかね、と思いつつ読んでみると、R30さんの「そろそろ」というエントリーの批判なのでした。

批判されている部分を引用してみます。以下はR30さんのブログから抜粋です。ブログを「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」と言っています。

端的に言っちゃうと、要するに「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」ということなんじゃないかと。パーソナライズドされた検索結果から機械的に知的生産に役立たないゴミクズを「見えなく」し、しかもゴミクズからの一切のアクセスを禁じるという技術が生まれないと、どうにもならない気が。でもそれって結局人でフィルタするしかないわけだし、つまりはSNSっつーことじゃないですか。じゃあブログでやる意味なんか、ないよね。

この表現について、danさんは次のように書いています。

ゴミに埋もれたくないのはいい。ゴミ掘りに疲れてSNSに癒しを求めるのも自由だ。しかしゴミに手を出さず知的生産と言い張るのは、「知的」でも「生産的」でもないのは確かなのではないか。

これらの文脈を読んでまずぼくが感じたのは、何が「ゴミ」で何が「宝」か、ということです。

誰かにとってはゴミかもしれないが、誰かにとっては宝かもしれない、そんなことがあると思います。ブラインドがおりていると価値というのはみえにくいもので、けれども意識が変わると「地」となっていたものが「図」として浮上することもある。機械的にみえなくしたゴミのなかにこそ宝があることも考えられるし、みんながよいと評価したものであっても個人的にはゴミなものもある。

つまり養老孟司さん的な言葉を借りると、情報は変化しないが、ぼくら人間は変化しつづけるということです。社会的な文脈(コンテクスト)が変われば、いままでゴミだった情報が宝にもなりうる。逆に、宝だった流行語がいっきに陳腐化することもある。光の当て方によって、情報はゴミにも宝にもなり得るものです。その光とは、ぼくらの意識かもしれない。

棚橋さんの書かれていることを読んで感じた印象を述べると、「ゴミ」か「宝」かについては、組み合わせの問題でもないと、ぼくは思っています。俳句は確かに言葉の組み合わせだけれど、詠むひとの直感や人生が言葉を貫くからこそ、そこに組み合わせを超えた意味が立ち上がってくるものではないでしょうか。

音楽だって音符の組み合わせにしか過ぎない、ということもいえます。ただそこで思考停止になる。作曲家は組み合わせのオプションのなかから検索・選択して曲を作っているわけではないと思います。もちろん制作の過程には、「このドラムは、どこすこどん、だろうか、すたたかたかたん、だろうか」というパターンの選択はあるのですが、結局のところ感性で選ぶ。可能性を羅列するのではなく選ぶという行為が重要で、茂木健一郎さんの本にも書いてありましたが、こうした判断の機能は右脳にあるようです。右脳を損傷すると、選択肢はいくつも列記できるのだけど判断できなくなるそうです(うろ覚えですが)。

さらにそこには作り手だけでなく、受け手(読者、視聴者)の関係性もあります。俳句にしても音楽にしても、関係性のなかで成立するものであり、作り手がただ面白いからランダムに入れ替えた言葉や音符は、「情報」としてのデータはあるけれど創作ではないと思いますね。

科学的あるいは理系的な発想について、ときどき苛立ちを感じてしまうのは、組み合わせれば何でもできるという驕りです。もちろん広告マンのバイブルであるジェームズ・W・ヤングさんの著作や、野口悠紀雄さんが述べているように「アイディアは既存の何かの組み合わせである」という観点はわかるのですが、それはアイディアという意味がある単位であって、音素(Phenome)や音階のように意味を持たない単位で分断されたものではありません。また、ランダムに組み合わせるものでもない。

いまある数学的な発想ですべての創作活動も定義あるいは解明できるという姿勢に、ぼくは科学者の権威的な暴力を感じてしまうこともあるのですが、茂木健一郎さんもPodcastingの講義でお話されていたのだけど、創造性を科学的に検証すると、現在の数学とはまったく違うフレームが必要になる気がします。

ということを書きつづけると、長くなるので後日。いまぼくは、問題の源となったR30さんの言説、ブログが「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」ということについて、考えてみたいと思います。

+++++

ぼくはR30さんについて何も知らないので不躾に勝手な感想を述べさせていただきますが、R30さんは、ひょっとすると新聞社系の方、もしくはご出身ではないでしょうか。

新聞社系のジャーナリストにありがちな姿勢として、社会全体を支配しているかのようにふんぞりかえって斜に構えて、権威的な言動をする傾向を感じています。マスの視点からみて「今度はこれだ!」かといったかと思うと「あれはもう終わった!」と手のひらを返して騒ぎたがる。

すべてのマスコミにおいて考えられる傾向かもしれないのですが、ちょうど今週のR25の巻末コラムで石田衣良さんが、「てのひら返しのアップ&ダウン」として、あのボクシングの狂騒的な報道から、マスコミの手のひらを返した騒ぎぶりを批判していました。深く共感しました。以下、R25 NO.108より引用します。

そんなことよりも気になるのが、例によってマスコミのてのひら返しの報道姿勢なのである。ライブドアのH氏、村上ファンドのM氏、あるいは人気の占い師など、すぐに幾人かの名前をあげることができるだろう。てのひら返しは日本のマスメディアの常套手段なのである。
視聴率をあげるため、発行部数を増やすためといった手段で、特定の個人を散々もちあげておいて、なにかトラブルが発生すると、てのひらを返して攻撃に走るというマスコミの報道姿勢が、ぼくは嫌いなのだ。

ひとりの「個」としては、必ずしもマスの現象としての社会で生きているわけではありません。終わったものにしがみつかなければならない人間もいるし、それを糧としているひとたちもいる。

ところが新聞社系の人間は、そんな「負け組」はどうでもいいようです。つまり「読まれる=騒がれる」ネタであれば、なんであってもよいのではないか(と思えるほど、騒がしい)。突っ込みどころのあるネタには、とことん追求する。格差社会を過剰に騒ぎ立てて進展させるのも、マスメディアの責任のない発言によるところが多いと思うのですが、いかがでしょう。

ぼくはCGM(Consumer Generated Media:消費者が生成するメディア)としてのブログの台頭よりも、その傲慢な姿勢がマスメディアを終わらせているような気がします。

もちろんジャーナリストとして立派な倫理観をもった方もたくさんいて、グーグルの本を出した佐々木俊尚さんのオーマイニュースに関する批判などは共感できると思ったのですが、一般的には、石田衣良さんが批判しているようにマスコミは「手のひらを返して」騒ぎたがる傾向にあるようです。憤りまではいかなくても、なんかおかしいんじゃないのか?とぼくも感じている。

R30さんは、いつかエントリーで「Web2.0はもうおしまいだ」と書くのではないでしょうか。そして、つづいて「SNSにはうんざりだ」と書くかもしれない。ただ、そういうおしまいを宣言するひとがいてもいいと思う。それもまたブログの自由です。しかしながら、ひょっとするとR30さんはブロガーと言うより、ぼくらブロガーが批判の対象とすべき「マスコミのひと」なのかもしれませんね。その姿勢は、マスコミ的です。

R30さんは8月のあいだ、1ヶ月に2つのエントリーしか書いていません。個人的な印象と推測ですが、書ける人間に対するやっかみもあるのでしょう。そんな心理を冷静に眺めると、かわいそうだな、と同情もするわけで、いさぎよくブログなんて辞めてしまえば楽になれるのになあ、で、SNSで自分によいしょしてくれるひとたちに囲まれてしあわせに癒されていればいいじゃん、と余計なお世話を考えてしまう。ただ、ぼくはR30さんは永遠に「あれが終わった」を言いつづけるひとのように思います。不満を言いつづけることで精彩のあるひともいれば、終わりを宣言することで胸を張るひともいるものです。

さて、ぼくは好きでブログを書いています。誰から頼まれたわけでもないし、誰かに評価されるのを期待しているわけでもない。

SNSでも、マイミク300人みたいなことは絶対に無理です。できません。でも、きちんとコメントいただいている方のブログはきちんと読みたいと思うし、いただいたコメントに対しては誠実にお返事していきたい。それがぼくの生き方であり、価値観です。

そして、ブログを書ける人間が偉いとは思っていないし、書けない人間が劣っているとも思いません。だから、書ける人間が「ブログも知らないと時代についていけないぞ」というのもおかしい気がするし、逆に書けない人間が「ブログなんて書いてないでもっとリアルに生きろ」というのもおかしいと思います。それは能力というより価値観の違いであり、どちらも「正解」なわけです。モノサシが違うものを比べてもしょうがない。

別の価値観としては、好きなものに対しては、どんなに裏切られようとも信じていたいし、最後まで付き合いたいと思っています。ふたりの息子たちに「パパあっちいけー」と言われても、「そんなこと言ってもひっついちゃうもんねー」と言い返してべたべたするし、運動会の競走でビリであっても、これからどんなにダメな息子になってしまったとしても、こいつはぼくの最高の息子だ、こいつらがいてくれたからぼくの人生は最高だった、文句あるか、と言いたい。その価値観を守れなかったときに、ぼくは自分自身を最低だと思います。

ブログやSNSは、まだよちよち歩きの子供です。終わりもしない。はじまってもいない。成長の過程にはいろんなことがあると思うのですが、どんなにだめになっても、ぼくはこのブログスフィアが大好きだし、つづけていようと思うし、その可能性を信じていたい。自分の大切なものに、ツバを吐く人間だけにはなりたくないと思います。

辛辣に書いてしまった部分もあるかもしれませんが、R30さんを否定するものではありません。このエントリーにむかついた、ということであれば、ごめんなさい、と謝るしかない。ただ、正直に考えたことを書いたらこうなっちゃいました、というだけのことです。

ひょっとすると正直に垂れ流した言葉が「ゴミ」かもしれないですね。とはいっても、インターネットにあるゴミたちは、すべて人間たちが生み出したものです。どんなに酷い言葉にも、しょうもない画像や映像にも、その向こう側には、ときには高みにありときにはダークサイドにも落ちる人間たちの生活があると考えると、いとおしくなりませんか? まあ、ご自身の知的生産に役立たないブログはゴミだ、といってしまうR30さんには、そんな愛情はないかもしれませんけど。

終わってしまえば、ぼくらの人生はゴミのようなものでしょう。どんなに偉いひとの人生も、偉くないひとの人生も、みんな忘れ去られる運命にあります。

ただ、だからこそ佐高信さんがサンデーモーニングで言っていたように、みられることがなくても美しく咲いている山奥のサクラでありたい。ゴミにも存在の意義があります。世のなかに存在するものたちに、意義のないものはひとつもないんじゃないか、とぼくは思う。甘いかもしれないのですが。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2006年9月 6日

親も大変、けれども子も大変。

東京は雨模様の一日だったのですが、さわやかなニュースがありました。紀子さま、男の子をご出産とのこと。おめでとうございます。健やかに成長されることをお祈りいたします。皇位継承の問題だとか、過剰な報道についてだとか、社会的な文脈に絡み取られがちなのですが、ぼくはシンプルに、ひとりの生命が誕生したことをお祝いしたい気持ちです。

女性ではないのでわかっていないことも多いと思うのですが、やはり子供を持つ親としては子供が生まれるときの大変さというのは痛いほどに感じるものです。というわけで今日は、親について考えてみたいと思います。

ちょうど、週刊ダイヤモンドの9.9号で「父親力」という特集がありました。

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オープンオフィスで父親の働く姿を子供にみせる、という取材からはじまって、多角的に父親の子育てについて考えられる興味深い特集でした。最近、重松清さんの「小さき者へ」という小説を読んで、親の在り方などについて考えていたのですが、この特集にも重松清さんのインタビューが掲載されていました。これがまた泣けた。電車のなかで不覚にも涙が出そうになって困りました。以下、引用します(P.33)。

僕は家族、非行、イジメなどをテーマに小説を書いているが、一冊の父親論を書いて、これが正解というものがあるなら、小説を書くことはない。いろんなお父さんがいて、いろんな悩みがあるから、小説のネタは尽きない。
子供のことで悩むことも大事だ。もうやめたといって逃げるよりも、一○○倍いい。正解に辿り着くのは大変なことで、何が正解かも実際わからない。

共感します。しかし、小説だからこそパラレルにさまざまな正解を描くことができますが、現実に生きる以上、ひとつの正解を選ばなければならない場面もあります。ここで悩む。ものすごく悩むわけです。たいしたことではなかったとしても、子供ときちんと向き合おうとすると、悩むことばかりです。そして悩んだにも関わらず、嫌われる。父親の悩みなんて子供には理解できないもので、結構、残酷に嫌われます。ただ、それが父親の宿命かもしれない。重松さんも以下のように述べています。

「お父さんなんて大嫌い」と言われたら、ある意味、一人前になったな、と思えばいい。いつも仲のいい家族であるわけではない。思い通りにならないときに踏ん張ることができる力、くじけない力、めげない力というのも、父親として大事な能力だと思う。

それを明示するかどうかはともかく、親であることは精神力はもちろん体力も要求されます。そしてみえないところで努力しなければならない。冒頭にオープンオフィスで働く姿をみせるという話もありましたが、頑張っている背中をみせることが、子供に対するいちばんの教育かもしれません。

ぼくの親父は高校教師だったのですが、夜が更けてからスタンドの明かりのもとで、がりがりとガリ版で試験問題を作っている姿が印象に残っています。コピーなどのなかった時代で、鉄筆でロウのような薄い紙に問題を書き込む。それを輪転機にかけて印刷するわけです。

そういえば、試験問題のマルつけをやらされたこともあって、親父が書くマルの形を真似させられた。これ、ぼくがマルつけちゃっていいの?と小学生のぼくは、ささやかな罪悪感を感じたのですが、一方でえへんという気持ちもあった。ぼくに期末試験のマルをつけられた高校生の気持ちを考えると、申し訳なかったなあ、という感じがするのですが、いま考えるとそれが親父なりの「オープンオフィス」であり、まだ小学生のぼくに教師の仕事について教えようとしていたのかもしれません。どうなんだろう、親父?

最終的に親父は校長を勤めた優秀な教師だったのですが、教頭時代には上下からのプレッシャーに悩み、朝起きると身体の形がわかるほど寝汗をかいていた、ということを最近になって母が教えてくれました。また、悪性の腫瘍で右手を手術したこともあったのですが、傷を隠しながら職場に行っていたようです。リハビリのために書いた日記が残っているのですが、文字はほとんど読めません。読めないのにどうやって仕事をしていたのだろう。つらい時期だったのだと思うのですが、親不孝な子供であったぼくは、そんなことには気付かずにのほほんと生きていました。

ダイヤモンドの特集には、奥谷禮子さんが父を亡くしたときのエピソードも掲載されています。かつて格差社会について、負け組みの努力が足りないような発言をされていた奥谷さんについて批判的なことを書いたことがあるのですが、その厳しさはきっと父親から受け継いだものかもしれません。次のように書かれています。

私の「許せないことは許せない」と相手に立ち向かっていく性格は、まさしく父親譲りだと思う。

少し奥谷さんを理解できたような気がします。やはり、人間というものはさまざまな角度からみなければいけないもので、ひとつの発言だけを取り上げて批判するのは浅いかもしれない、と反省しました。

ところで、ぼくの個人的な気持ちをカミングアウトしようと思うのですが、10代の真ん中あたりのぼくは、結婚して子供をつくるのはまっぴらだと思っていました(前にも書いた気がしますけど)。ぼくは一生結婚なんかするもんか、子供も作らない、と思っていた。というのは、自分と同じ遺伝子を持った、しょうもない自分の劣悪なコピーがこの世の中に生まれ出ることは、ぜったいに許せないと思っていたからです。

もしかすると、そんな10代のぼくの気持ちに共感するひともいるかもしれないので、聞いてほしいのですが、その考え方は全面的に間違っている。何が間違っているかというと、子供は自分の創作物であり、そもそも「子作り」というように、親が創作者であるような優位という発想がおかしい。子供は親のコピーなどではない。そんな風に思うのは若い人間の思い上がりであり、親とは何か、子供とは何か、ということをまったくわかっていないと思います。その考えの延長線上に、子供を虐待したり、殺めてしまう発想もあるような気がします。わたしが生んだものだからどう扱ってもいいじゃないの、というような。生んだのはあなたかもしれないが、子供はあなたのものではない。

子供は親とはまったく別の「個」だと思います。子供は所有できない。血縁関係はあったとしても、他人です。多くの他人がそうであるように、自分の「思い通りにはならない」ということを親はもっと理解すべきだとぼくは思います。「思い通りにならない」からこそ楽しいし、親の想像を超えた成長もしてくれる。

逆に思い通りにならないから、切ないこともあります。

上の子(長男)が小学校低学年ぐらいのときのことですが、ちょっと内気な息子は運動会などのイベントを前にして、夜寝るときに「むねが、ぽこんぽこんして、ねむれない」といっていたことがありました。胸がどきどきする、というステレオタイプな表現を知らないので、感じたままに「ぽこんぽこん」と表現したのかもしれません。確かにどきどきも度を越すと、ぽこんぽこんになるかもしれない。その気持ちが痛いほどにわかるんだけど、じゃあどうすれば治るのか、親であるぼくにはわからない。お話をしてあげたりしたような気もするのですが、治らない。思い通りにはならない。

しかし、考えてみるとパパだって、過剰にプレッシャーのかかる仕事をするときには今でも「ぽこんぽこん」するのであって、ちょっとばかり長く生きていたとしても、息子と何も変わらない。なんとかしてあげたいけど、パパにもどうしようもないんだよ、という無力さが切なかった。そうして息子はこれから、何度も「ぽこんぽこん」する場面を切り抜けていかなければならないわけです。そのことを思うと、やりきれない気持ちになりました。

ところで、20代になってからの独身時代のぼくは、将来こんな父親になりたい、という理想像を、あるマンガに見出していました。それは、ジョージ秋山さんの「浮浪雲」です。

4091800513浮浪雲 (1) (ビッグコミックス)
小学館 1975-07

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品川の宿場町で人足のリーダーとしてのらりくらりと暮らす「雲」が主人公で、酒を呑んだり女性の尻を追いかけたり、どうしようもないやつなのですが、実は家族思いで、子供のことが大好きで、じーっとみつめることで何かを教えようとする。子供のほうは、ちゃらんぽらんな父親を反面教師としてみているのだけど、なんだか憎めない。ときには親子が友達のように笑いあったりしている。いまでも理想だなあ、こんな父子。しなやかだけど強く生きたいものです。

さてさて。肉親であるからこそ、共感する力も強いと思うのですが、血はつながっていたとしてもお互いに別々の「個」として生きていかなければなりません。アドバイスができたとしても、最終的に息子に届かなければ、その言葉も意味がない。もしかすると(ぼくのように)親父が亡くなったあとに親父の意図に気付く、ということもあるので、願わくばそうあってほしいものですが。

茂木健一郎さんの「脳の中の人生」という本のなかで、養老孟司さんのエピソードについて書かれていて、これもなんとなくあたたかいお話でした。「死の壁」という著作からの引用のようですが、さらに引用します(P.18)。

父の死については、よく思い出していました。しかし、それを本当に受け止められたのは、三十代の頃だったと思います。(中略)その頃、ふと、地下鉄に乗っているときに、急に自分が挨拶が苦手なことと、父親の死が結びついていることに気づいた。そのとき初めて「親父が死んだ」と実感したのです。そして急に涙があふれてきた。

この経緯として、父が臨終のときは夜中だったので、幼少の養老さんは「さようならを言いなさい」と言われたのに寝ぼけて言えなかった、という経験を語られています。父に最後の挨拶ができなかったという罪悪感が、挨拶が苦手だという形でずっと養老さんの人生に影を落としていたわけです。ぼくも似たところがあって、いまは亡き父親に告げたいことがあったのに言えなかった、という経験がありました。だから、過剰にネットで語りはじめたのかもしれません。

これから世界に生まれる新しい生命、いまはもうここにはない生命の記憶、さらに今を生きようとしているぼくらのように、さまざまな生を想像することが大事なのでしょう。

いまぼくは、親でありながらまだ子供である、そんな役割のなかで生きています。ときにそれは面倒なものであり、先日の北海道の旅行では(ばーちゃんと息子とぼく、という日程もあったので)面倒さにくたびれ果てたこともあったのですが、そもそも人生というのは基本的に面倒なものなのかもしれません。しかしながら、面倒であっても、笑っていられるぐらいの人物でありたいですね。

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2006年9月 5日

変わっていく世界に夢をみたい。

どうもカラダが重いなあ、いまいち元気ない、と思っていたら、奥さんに「夏バテよ、それ」と言われていっきに腑に落ちました。そうか、夏バテだったのか。なあんだ。厳しい暑さがつづく毎日には緊張感もあるから身体が持ちこたえているものの、急に涼しくなると、夏のあいだの疲労がいっきに表出するようです。みなさまもお気をつけください。

昨日もブログを書いていて、歯切れが悪く、いつになく長い時間こつこつと文章を直したりしていました。しかしながら身体が夏バテであると、文章も夏バテ気味で、無意味にだらだらと長くなってしまう。しゃきっとしたいものです。

ついでにここへきてさまざまな電化製品が壊れつつあり、先日はデジタルカメラが壊れたのですが(というか落っことして壊しちゃったのですが)、夏の終わり、エアコンまでぶっ壊れました。そもそも結婚したときに奥さんが寿退社の手前で社員割引を使って購入したエアコンであり、もう13年間使っていたことになります。13年も使いつづけていればどこかに問題は生じるもので、それは夫婦というハードウェア(もしくはソフトウェア?)も同じかもしれないのですが、エアコンが壊れるとさすがにしんどいので、先週新調して、日曜日には届きました。東芝の大清快という製品です。

流行というか、勝手にお掃除をしてくれるので、10年間お掃除が不要らしい。大正解かどうかはしばらく使ってみないとわからないのですが、とりあえず東芝製品とはいえ、いまのところは出火することもないのでほっとしています。

10年後というと・・・と考えると、思わず遠い目になってしまうのですが、テレビは確実にデジタルに変わっていて、しかしながらインターネットがどうなっているのかは予測もつきません。一方で息子たちはものすごく難しい世代になっていて、ぼくの身体もさらに問題を抱えつつある時期ではないだろうか。10年前に比べると確実におじさん化していく自分を認めざるを得ない現在、老化していく自分にきちんと向き合う必要がある、と感じています。若い頃には少しも考えなかったんですけどね。考えずに不摂生したからこそ、いまの自分があるわけで。

昨日、音楽や本はパッケージがなくなり、コンテンツもしくは情報のみになる、ということを書いたのですが、それだけではまだ先見性などぜんぜんないもので、ありきたりのような気がしています。もう少しだけ考えてみると、iPodの爆発的な人気に追随するハードウェアやサービスが次々と出てきているようです。マイクロソフト+東芝のZUNEも注目されている動きのひとつです。

ZUNE.jpg

Engadget Japaneseの「マイクロソフトのiPodキラー"Zune"まとめ」という7月のまとめ記事を読むと、ZUNEというブランドは、ハードウェアや音楽配信サービスだけにとどまらず、コミュニティも含めているようです。以下、引用します。

・ZuneはPC側ソフトウェアのブランドでもあり、またZuneファミリーの機器に音楽・映画などのコンテンツを提供するサービスのブランドでもある。当初は音楽にフォーカスが置かれるが、"Connected Entertainment"が目標。
・サービスとしてのZuneはコミュニティと「おすすめ」要素を重視。Zuneは音楽を聴くだけでなく新しいアーティストや作品を発見する道具。

「新しいアーティストや作品を発見する道具」という部分が面白そうですが、具体的にどんなものとして現実化されるのでしょう。ちなみに音楽関連では、ぼくはインディーズにも興味があるのですが、最近注目したのは「音楽原盤権を1口1万円から個人で購入できるサービスが開始」でした。CNET Japanの記事から引用します。

音楽原盤権は、これまで共同原盤方式によって、レコード会社やプロダクションといった複数の会社による共同出資で各々がプロモーションを展開し、原盤権の共有を行ってきた。CRXは、音楽業界内の法人に限られてきた音楽原盤権の所有を、ネットを通じて1口1万円からの投資で、個人にも参加しやすいサービスとして提供する。

投資といえば、現在は株などの証券をすぐに思い浮かべるのですが、これは!というアーティストに投資するというのは夢があっていいと思います。勉強不足なのですが、投資対象として扱っていいのかどうかという法律的な規制のようなものがあり、知財の観点からも考えなければいけないのかもしれません。けれどもジャニーズのあの子を応援する、と同じように、好きなアーティストに投資することもあっていいかもしれない。アフィリエイトと同様に、個人の能力が求められる世界かもしれないのですが、仕事とパラレルに夢に投資するのもいいんじゃないか、などということを考えました。しかしながら、そこで儲けるひとも出てきそうな気がしていて、一歩倫理を踏み外すと、とんでもない詐欺まがいのビジネスも発生しそうな懸念もあります。

ブログにおいてはビジネスファンドのようなものもあったように記憶しています。このことを金儲けという単一的な視点でとらえてしまうとどうかと思うのですが、夢をみるためのひとつの方法、と考えると広がりも出てきます。夢はやっぱりみていたいものですから。

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2006年9月 4日

「小さき者へ」重松清

▼book06-064:父親として痛い、研ぎ澄まされた物語としての現実。

4101349185小さき者へ (新潮文庫)
新潮社 2006-06

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重松清さんの小説は、痛い。特にぼくを含めて父親であるみなさんには痛すぎるのではないでしょうか。とある外部協力会社さんの社長さんと飲んだときに、「流星ワゴンは泣ける」という話で盛り上がってしまったのですが、とにかく父親の辛さや喜びや、そんな感情を凝縮して物語に詰め込んだような感じがします。そして、リストラ、鬱、いじめ、死、不登校、パートナーの不倫、人生における負けなど、できれば目をそらしていたい事実を、先鋭的なかたちでどうだ!とばかりに突きつけてくるような作品ばかりです。

これは、職業ライターとして下積みされた圧倒的な力量があるからこそ書けるのだと思うのですが、「小さき者へ」も冒頭の小説から泣けるストーリーで、これは電車のなかでは読めないなあという感じでした。娘が高校を退学するまでを描いた「団旗はためくもとに」も泣けた。ビートルズに出会った自分自身の少年時代を回想しながら、息子への手紙を書く「小さき者へ」も、通勤電車のなかでは読めない一品でした。連続で数冊読むと食傷気味なところもあるのですが、重松さんの作品としては、次はgadochanさんがおすすめしていた「その日のまえに」を読んでみたい。9月1日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(64/100冊+52/100本)

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「ザ・プロフェッショナル」大前研一

▼book06-063:箍(たが)を締めるためには、プロ志向であること。

4478375011ザ・プロフェッショナル
ダイヤモンド社 2005-09-30

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日曜日にTBSのサンデーモーニングという番組で、日本人の「箍(たが)が緩んでいる」という特集をやっていて、なかなか興味深いものがありました。そのなかで評論家の佐高信さんが、山奥のサクラは見られることがないけれども美しく咲いている、という喩えを使って、自らを厳しく律する必要性を説いていたのだけど、それがプロフェッショナルではないかという気がしました。

総表現社会というと聞こえはいいけれど、パフォーマンスばかりが目立つ社会になっているような印象があります。つまり、すべてが表層的で、本質の部分で襟を正すようなことがない。なんとなくきれいに繕うけれども、見えない部分では手を抜いている。そこそこできれば、まあいいか、という力の抜き方が、日本全体の箍を緩めているのかもしれません。

大前研一さんの本では、そうした手抜きを「知的怠慢」と戒めています。そして、いま求められるのは融通の利かないスペシャリストではなく、プロフェッショナルであると説かれている。スペシャリストは命令された仕事を専門知識によってきちんとこなす人間です。もちろんそうした能力も必要だけれど、環境が大きく変化する時代においては、フレキシビリティを持って対応することが求められる。どんな環境であっても環境に適応した力を発揮できるのが、プロフェッショナルだそうです。

何度かブログでも取り上げたのですが、この本から学ぶことは多く、先見性、構想力、議論する力、矛盾に適応する力など、ひとつひとつが背筋を正してくれるものでした。技術から特定の業界知識まで、幅広い知見と常識を疑うような視点にも、がつんと殴られたような衝撃がありました。仕事は稼ぐためのもの、と割り切る考え方もあるのですが、ぼくはどうせ仕事をするのであれば、高みをめざしたい。だからといって理想と現実のギャップに苛立つのではなく(というか実際、苛立ちがちなのですが)少し気持ちを抑えて、ゆっくりと、一歩ずつ努力していきたいとあらためて思いました。8月31日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(63/100冊+52/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

セレンディピティ、偶然の楽しみ。

求めていたことには出会えなかったのだけれど、まったく別の何かに出会えてしまった、という偶然の楽しみというものがあります。昨日のエントリーで書き足りないことがあったので、もう少し考えたことを追加してみます。

北海道の旅行で息子は、旭山動物園で動物をみるよりもトンボを捕まえることに夢中でした。けれどもそれはそれでしあわせであって、決して動物をみなかったからダメということはない。動物園でトンボを捕まえても、悪くないわけです。

目的はひとつである、これしかないと決めてしまわずに、いろいろと動き回っているうちに結果として、しあわせになることがあります。目的なんて決めないほうがいいのかもしれません。動き回っていれば、しあわせの方からやってくる。やってきたしあわせは、求めていたしあわせとは違うかもしれませんが、しあわせであることには変わりがありません。それで満足する。風の吹くままに彷徨う生き方ともいえる。

もちろんその方法がすべてうまくいくとは思えないけれど、いい加減な生き方もときにはよいものです。結果ばかりを追い求めていると疲れてしまうので。

このことを「セレンディピティ」と言うようです。茂木健一郎さんの著作には何度か出てきていて、いま読書中(P.60のあたりを読んでいます)の「脳の中の人生」にも出てきていました。もともとは造語であり、イギリスのホラス・ウォルポールというひとが創作したようです。以下、引用します(P.126)。

4121502000脳の中の人生 (中公新書ラクレ)
中央公論新社 2005-12

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一七五四年に友人に向けて書いた手紙の中で、ウォルポールは、ペルシャに伝わる古い童話『セレンディプの三人の王子たち』に言及した。「セレンディプ」とは、スリランカの古称である。王子たちは、旅を続ける中で、決して自分たちが探し求めていたのではないのに、たびたび幸運に出会う。王子たちが示したような「偶然、幸運に出会う力」を、セレンディピティと名付けようとウォルポールは提案したのである。

どこかロマンティックな響きもありますが、実際に、古本のなかにメッセージを挟んで、そのメッセージがみつかったらもう一度会う、恋人になる、という「セレンディピティ」という映画もあったような気がします。クリスマスの恋人たち向けの映画という感じでした。ひとりでそんな映画を深夜に観ていたら、なんだかもぞもぞ落ち着かなくなったものでした(以前にも取り上げたような気がします。確かクリスマスあたりに)。

B0002L4CMOセレンディピティ~恋人たちのニューヨーク~ [DVD]
マーク・クライン
ショウゲート 2006-06-23

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茂木健一郎さんの本には、現実に起こっていることではなくても、起こり得ることを想像するだけで脳のなかには実際に起こったのと同様の物質が分泌される、というようなことが書いてありました。つまり、起こっていなかったとしても、想像は現実の一部というわけです。

重松清さんの「三月行進曲」という小説(「小さき者へ」に収録)にも出てくるのですが、少年の頃には「もしも」ばかりを考えているものです。ところが年齢を重ねるにつれて、「もしも」の可能性はどんどん狭まって、考えなくなる。けれども豊かに生きるためには、現実だけでは不十分で「もしも」という仮想の世界も必要ではないか。小説のなかでは、30代の主人公であるお父さんは「もしも」を少年野球に託すわけですが、自分の子供は女の子であり、そのあたりのジレンマが切なくて、とてもうまく描かれています。

インターネットが面白いのも、仮想の世界のなかで「セレンディピティ」があるからだと思います。検索はアルゴリズムを使った技術にすぎない、とまとめてしまうと終わるのですが、そのクールな技術がテキストの海からひっぱってくるのは、さまざまなひとの生きている現実です。だからとんでもない出会いもある。

ただ、リアルな世界の「セレンディピティ」も面白いと思っています。たとえば本を購入するときを考えてみると、ネットによる購入は確かに便利であり、リコメンデーションエンジン(おすすめ機能ですね)によって、同じ傾向の作品を知ることもできます。けれども本屋がすごいと思うのは(というか、ものすごーく当たり前なのですが)、「サイズで整頓されていること」だったりします。

つまり文庫の棚に行くと、同じ大きさで統一された本が並んでいる。ところが、内容はビジネス書からブンガクまで幅広かったりするわけです。新書なら新書のコーナーで、さまざまなジャンルの本を横断することができる。ネットでもサイズで検索して本を抽出することはできそうですが、あまりにも莫大な候補が規則性なく表示されると思われるので、ふつうのひとはあまりやらないでしょう。それにネットの大きさは、リアルの大きさとは違います。これもまた当然ですが。

本には装丁とサイズがある、という事実に気付き、あらためてぼくはそのことが重要だと思ったりしているのですが、冷静に考えてみると、大騒ぎすることではないですね。けれども当たり前なんだけれども、レコードがほぼなくなってしまった現在、CD世代の子供たちはレコードの大きさなんてわからないのではないでしょうか。

ネットのオークションなどで昔のジャズの名盤などのレコードの写真が表示されていたとしても、CD世代の若者は、CDぐらいの大きさでしょ?と思っているかもしれない。

やがてすべての音楽コンテンツがデジタル配信されると、パッケージの大きさという概念すらなくなるのかもしれません。そのときに存在感として残るのは、音そのものと情報です。歌詞カードすらなくなるかもしれない。書物も紙や装丁や厚さなどのクオリア(質感)がない、ただの情報になってしまうかもしれない。

「セレンディピティ」について書いていたら、記録メディアとサイズ論になってしまいました。これも「偶然、幸運に出会う力」の一種なのかもしれません。思索の楽しみは、そんな風に脇道にそれるからこそ楽しい。決められた道ばかりを歩くのは、つまらないものです。

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2006年9月 3日

切り取られなかった現実。

太古の昔からそうだったのかもしれないのですが、洞窟のなかに閉じこもって動かないでいれば安全だけれども、洞窟から外に出て動き出すとリスクもともなうものです。そして、自分の思惑通りに進展しないのが世のなかというもので、現実は予想外の偶然であふれている。

茂木健一郎さんの著作などでは、その偶有性を楽しむことが重要であると書かれていたのですが、設計図にない偶然という生成される現在が面白いものであり、自分の思い通りにはいかない現実を楽しめるようになると、自分の幅も広がるような気がしました。そして、一般的なWeb1.0的なコンテンツではなく、ブログやSNSが面白いのも、どうなるかわからない生成する現実にあるかもしれません。

夏休みの終わりに北海道を旅行して、その旅行記を書こうとしたのだけれども、自分には無理であるということに気付きました。書こうと思えば書けるのだけど、その旅行記を発表する自分に抵抗がある。ひねくれているのかもしれません(たぶんそうだ)。しかしながら、結局のところ今週はブログで何らかの形で北海道のことを取り上げていて、なんだ、書いてるじゃん、という気もします。たぶんそれがぼくのスタイルなのでしょう。

北海道では人気を集めている旭山動物園にも行ったのですが、長男(9歳)が動物園で面白かったのは、なんとトンボでした。夏の終わり、とにかく北海道は至るところトンボ天国で、層雲峡では木の柵の上に5匹ぐらい並んで止まっていたりする。うちの息子はそんなトンボたちを追いかけ回していて、追い掛け回しているうちに帽子の上に止まったりしているのですが、18匹目を捕まえたっ!とか自慢する。ダイビングする北極熊とか、チューブのなかを遊泳するアザラシとか、それが見所でしょう、と思うのですが、気がつくと彼はトンボを追い掛け回してました。写真はトンボを捕まえている息子です。

tombo.jpg

ただ、それがいいと思うんですよね。別に旅行の正解を強制する必要はないし、トンボをたくさん捕まえることができたので北海道は楽しかった、というのであれば、それは息子の思い出として価値があるわけです。別にガイドブック的な名所をまわらなくても、本人にとって価値がある経験をすれば、それが旅の醍醐味でもある。

写真を撮影するという行為もそういうところがあって、何を切り取るかということはカメラマンの意図が大きく反映することになります。同じ風景をみていたとしても何を被写体としてクローズアップするかによって、みているものの意味さえ変わってしまう。そこが単なる記録と違って面白いと思うのですが、逆に怖い部分もあって、たとえば報道などの映像や写真は、何を切り取るかによって観るひとたちの意識を操作することにもなり得るわけです。

ぼくはどちらかというと切り取ってしまった現実よりも、切り取られなかった現実のことを思うのが楽しい。たとえば写真のフレームの外で佇んでいる子供とか、収拾のつかない諍いに困惑しているカップルとか。

息子には、使い捨てカメラを2本持たせて自由に撮らせたのだけど、いちばんうまく写っていたのは、層雲峡の展望台に据え付けられた望遠鏡をのぞいているどこかのおじさんでした。こりゃ誰だ?あまりにもうまく写っていないか?ということで盛り上がったのですが、息子のコメントとしては「風景を撮ったら、おじさんが入っていたんだよう」とのこと。狙って撮影したのではないショットは、なかなか楽しいものがあります。

という意味ではあまり面白みはないのですが、以下は、ぼくが北海道旅行で撮影した写真です。北海道大学の風景と、旭山動物園の一部です。

上段左から、飛行機からみた雲(息子撮影)、クラークさんの銅像の台座にあるボーイズ・ビー・アンビシャスの碑を触っている息子(大志もってくれるといいのですが)、北大で公開されていたモンゴルの恐竜展の骨(パラサウロロフス?)、恐竜の子供の化石、ポプラ並木の前にあったベンチの地面、校舎(何学部の校舎だったか忘れた)、子供たちが水遊びしていた公園の水、次からは旭山動物園でペンギン、観覧車(乗ってみたかったけど乗らずに終了)です。

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写真は難しいですね。また日をあらためて掲載することにしましょう。

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2006年9月 2日

空気の透明度。

夏が終わって秋に向かうこの季節。空気の透明度が増すような感じがして好きな時期です。と、なんとなく詩的な言説になってしまったのは、トラックバックをいただいた茅須まいるさんのブログで感性とかセンスとは何か、ということを読んでそんなことを考えたからなのですが、秋の夜長にしみじみと哲学や芸術などについて考えられる季節になってよかったなあ、という気がしています。夏の暑い時期には、頭のなかはあちーばかりで埋めつくされていて、それだけでもう思考停止の状態だったので。暑いのは嫌いではないのですが、暑すぎるのは問題です。適当に暑くあってほしい。

夏の休暇を使って札幌の駅に降りたときに感じたことも、空気の透明度が違う、ということでした。それは単純に湿度の問題なのかもしれませんが、日差しは強かったのに(日焼けしてしまった)、さらりとした触感の空気が印象的でした。それは慣れてしまうとふつうになってしまうもので、たとえるならビールの一杯目のうまさ、という感じでしょうか。きりりと冷えた液体が喉を通過していくような感覚がありました。

さて、昨日は近所のCD屋さんに立ち寄って、ドナルド・フェイゲンの13年ぶりのソロを買いそびれていたので買うつもりだったのですが、いろいろと物色しているうちに思わずトラッシュ・キャン・シナトラズの完全生産限定版の「snow」を買ってしまった。夏なのにsnowは早すぎだろう、という気もしたのですが、CDを聴いてみたところ彼等らしい透明なギターの音に感激でした。さらにDVDも付いているのですが、一曲目のアコースティックギターにしびれた。美しい。ボーカルも美しすぎる。

B000FJHFG8snow(2006 Edition)(DVD付)
ランディ・ニューマン トラッシュ・キャン・シナトラズ
ソニー・ミュージックレコーズ 2006-06-28

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ところで、雪といえば、しばた歩実さんというインディーズアーティストさんに「ゆき」という素敵な曲があり、渋谷のライブハウスで演奏するときには、なんきんさんのアニメーション付きで、これがまた泣けるアニメーションで、夏の暑い時期にも「ゆき」は定番だったのですが、透明感あふれる歌声とピアノの演奏で暑さを忘れさせてくれたことを思い出しました。ママミュージシャンとしてNHKのポップジャムにも出演されたしばた歩実さんの音楽は、ぼくの志向している音楽とはまったく違うのだけど、ときどき聴きたくなる音楽です。聴くと癒されて、現実を受け止めようという気持ちになります。いま、しばたさんは二人目のお子さんが生まれて音楽活動を休止されているのではないかと思うのですが、またぜひ聴きたいですね、「ゆき」。

ぼくも稚拙ながらDTMを趣味としているのですが、「ハツユキ」という曲を作ったことがあります。これは社会人バンドをやっていた時期、多重録音をしてデモテープをメンバーに聴いていただいたことがありました。このバンドはものすごく強力なアーティストがふたりいて、それはぼくの学生時代のゼミの先輩とそのお兄さんだったのですが、おそるおそる曲を提出するのですが喧々諤々の議論が行われる。なかなかよい評価をもらえることが少なかったのですが、比較的よい評価をいただいた曲です。打ち込みで作り直して、Vocaloidという歌うソフトウェアに歌わせた曲をmuzieで公開しています。いちばん最初にVocaloidでつくった曲でした。未来的なアプリケーションだったけれど、なんて面倒なんだ、と思ったことを思い出します。その後、Vocaloidのエンジンがバージョンアップしてかなりよくなりましたが。

透明であるためには不純物を排する必要があります。けれども、クリーンルームのような無菌状態で人間は生きてはいけないものだとぼくは思う。問題や課題を抱え込んだまま生きなければならないのがぼくらの宿命でもあり、完全な透明性は不可能だからこそ、透明であることに憧れるのかもしれません。空気が少しずつ澄んでいく夏の終わりに、そんなことを考えてみました。けれども、やっぱり暑い。まだまだ夏がつづいています。

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■トラッシュ・キャン・シナトラズの公式ページ。音が出るのでご注意ください。遠く垂れ込める雲、草原を渡る風というようなイメージがよいです。1枚目の「Cake」は聴きまくりました。
http://www.trashcansinatras.com/

■しばた歩実さんの「ゆき」は、「東京ホットインディーズ」のバックナンバーのページで試聴ができます。
http://www.hot-indies.co.jp/RA71/ra71.html

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2006年9月 1日

インプット、アウトプット。

旅行中にデジタルカメラが壊れて、札幌のヨドバシカメラで3万円ほどでFinePix V10を購入したのだけど、なんとなく歯ブラシを失くしてしまったからコンビニエンスストアで購入するような感覚がありました。

それまで持っていたデジタルカメラはFinePix F401で、5年ぐらいは使った気がします。以前には、デジタルカメラを購入するにはかなり真剣に悩んだような気もしていて、さらに高級なものだという印象があった。ところが、今回は必要に迫られてということもあるのですが、なんとなくひょいと買ってしまったわけです。

もちろんいまでも10万円以上するデジタル一眼レフについては、そんな風に買えるものではないけれども、それ以外のものはどちらかというと生活必需品に近い。コモディティ(日用品)化しているともいえる。実際に、なんとなく従来から使っていたことと価格帯からFinePixを選んだのですが、乱暴な話をしてしまえば、記録ができれば何でもよかったわけです。

ちょうど読んでいた大前研一さんの「ザ・プロフェッショナル」という本に、この現象に対する答えのような部分があり、興味深いものがありました。写真ファンという一部を除いて、デジタルカメラはパソコンに「入力」するための部品であるということです。以下、引用します(P.106)。

人間の目は三○○万画素以上の画像を識別できません。つまり、それ以上の画素数は無用です。部品としてのデジタルカメラはこのハードルを越えています。もはやデジタルカメラは、プロのカメラマンや愛好家を除いて、ボーナスをはたいて購入するような商品ではなくなってしまいました。アメリカでは使い捨てデジタルカメラが一○ドルで販売されています。一世を風靡した使い捨てカメラという業界も死に瀕しているのです。

携帯電話に付いているカメラも最近では高い画素数になっていますが、やはり用途としては記録もしくはインプットするための「部品」です。そして、インプットという機能はアウトプットとも無関係ではなく、アウトプットがどれだけ高速かつきれいであるかということも関わってくるようです。

フィルムのカメラは写真屋さんに持ち込んで紙で出力しなければならないために、最速でも1時間ぐらいかかるものであり、その時間がもどかしい。一方でデジタルカメラや携帯電話のよさというのは、撮影した画像をその場で画面上でアウトプットして確認できることです。

ブログのよさというのも、キーボードで入力した文字を画面上ですぐに確認できる点にあります。ワープロ以前の時代には、原稿を書いて印刷所に持ち込んで写植屋さんなどが活字を組まなければ、活字という形で確認できませんでした。それがワープロ時代には、すぐにプリントアウトできるようになった。そして、いまではプリントアウトしなくてもネット上の画面で確認できる。もちろんプリントもできますが、画面で確認できれば印刷しなくてもよいという印象もあります。

はてなの編集画面では、「編集」の横に「プレビュー」というタブがあり、作成した内容をすぐに確認できるようになっているのですが、何気ない機能でありながらこれがぼくには結構うれしい機能だったりします。もちろん編集画面の下部には従来どおり、「確認する」というボタンがあるのですが、こちらは編集画面に戻りにくい。完成に近い状態でプレビューする場合には画面下部のボタンを押すのですが、書きながら確認する場合には、タブで切り替えたほうが使いやすい。

ブログのアウトプットといえば通常横書きですが、日本人はやっぱり縦書きでしょ、という感覚もあって、最近みつけて面白いなあと思っていたのは、縦書きブログ「八軒屋南斎」 です。以下はスクリーンショット。

060691_tate.JPG

フォントがいまひとつという気がするのですが、やっぱり日本語のよさは縦書きで発揮されるような気もしていて、横のものを縦にアウトプットするだけで雰囲気はまったく別物です。このような技術の開発は、応援したいですね。あるといいなあ、と思いつつ、なかなかありません。

ところでカメラというカテゴリーで考えると、フィルムカメラとデジタルカメラは競合するように思えますが、実はインプットという視点では、デジタルカメラと競合するのは、キーボードかもしれません。静止画・動画の入力機器と、テキストの入力機器という意味です。ということは、アウトプットで競合するのは、ディスプレイとプリンターになる。

この考え方を基盤とすると、テレビとパソコンは競合ではないともいえます。というのは、テレビはいまのところはインプットできないので。双方向型のテレビになったとしても、たとえばボタンを押して投票して簡易アンケート集計のようなものができるだけでは、まったく競合にならない気がする。

インプットとして競合するのは、デジタルカメラ、ビデオ、キーボード、ペン入力のボード、マイクであり、そして人間の目でしょうか。いまのところデバイスとしてあまりないのが触感、嗅覚のようなものであり、そんな装置もこれから開発されていくのかもしれません。ただ難しいのは、アウトプットがしにくいということでしょう。パソコンからよい匂いが出てきたり、ディスプレイに表示された女性に触れるとやわらかい、というのはちょっと楽しそうですが、パソコンから悪臭が放出されてくさくなったりすると困る。

音声をテキストに置き換えたり、鼻歌をMIDIのデータに置き換えるようなソフトウェアもありましたが、やはり何が問題化というとインプットの問題はもちろん、アウトプットの精度という気もしています。開発者の方としては当然のことかもしれませんが、インプットとアウトプットは別々に考えることではなく、両側面から考えることかもしれない。

映画を観たり小説を読むのも同じであって、知人によかった内容を教えてあげる=アウトプットしたり、ブログにレビューを書くことによって、逆にインプットの幅が広がるような気もしています。たくさんインプットしてもほんのわずかしかアウトプットできないこともあったり、一瞬のひらめきが膨大なテキストを生産することもあるのですが、頭のなかを活性化するためには、バランスよく入力と出力を繰り返すことが必要だと思います。

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■FinePix V10の製品ページ。ほんとうはiフラッシュ搭載の機種がよかったんですけどね。iフラッシュは、フラッシュが届かない暗い背景もきれいに撮れる機能のようです。

http://fujifilm.jp/personal/digitalcamera/finepixv10/index.html

■縦縦書きブログ「八軒屋南斎」。しかしながらこれは単純に横のものを縦にすればいいという問題ではなく、縦書き思考で文章を考える必要があると思います。つまり、横と縦では書く姿勢を変えるべきである、とぼくは思う。こだわりすぎかもしれませんが。

http://www.nansai.net/blog.swf

■鼻歌ミュージシャン2。DTMを趣味としているのですが、ぼくの場合はコード先行が多いので、どうかなという気もします。けれどもソフトウェアという道具を変えると、曲づくりもメロディ先行型に変わるかもしれない。

http://www.medianavi.co.jp/product/hana2/hana2.html

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