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2006年9月 8日
宝とゴミについての長い論考。
最近、ぼくが注目しているブログに棚橋弘季(gitanez)さんのDESIGN IT! w/LOVEがあります。そもそもはMarkeZineに書かれていた棚橋さんの記事を読んで、これは面白い!と思ったのですが、本日のエントリーで「俳句の有限性と自己組織化するWeb」というテーマで書かれていました。
冒頭でまず「404 Blog Not Found]」から「ゴミなきところに知なし」というエントリーが引用されています。ふむふむ、これは情報にはノイズが必要ということですかね、と思いつつ読んでみると、R30さんの「そろそろ」というエントリーの批判なのでした。
批判されている部分を引用してみます。以下はR30さんのブログから抜粋です。ブログを「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」と言っています。
端的に言っちゃうと、要するに「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」ということなんじゃないかと。パーソナライズドされた検索結果から機械的に知的生産に役立たないゴミクズを「見えなく」し、しかもゴミクズからの一切のアクセスを禁じるという技術が生まれないと、どうにもならない気が。でもそれって結局人でフィルタするしかないわけだし、つまりはSNSっつーことじゃないですか。じゃあブログでやる意味なんか、ないよね。
この表現について、danさんは次のように書いています。
ゴミに埋もれたくないのはいい。ゴミ掘りに疲れてSNSに癒しを求めるのも自由だ。しかしゴミに手を出さず知的生産と言い張るのは、「知的」でも「生産的」でもないのは確かなのではないか。
これらの文脈を読んでまずぼくが感じたのは、何が「ゴミ」で何が「宝」か、ということです。
誰かにとってはゴミかもしれないが、誰かにとっては宝かもしれない、そんなことがあると思います。ブラインドがおりていると価値というのはみえにくいもので、けれども意識が変わると「地」となっていたものが「図」として浮上することもある。機械的にみえなくしたゴミのなかにこそ宝があることも考えられるし、みんながよいと評価したものであっても個人的にはゴミなものもある。
つまり養老孟司さん的な言葉を借りると、情報は変化しないが、ぼくら人間は変化しつづけるということです。社会的な文脈(コンテクスト)が変われば、いままでゴミだった情報が宝にもなりうる。逆に、宝だった流行語がいっきに陳腐化することもある。光の当て方によって、情報はゴミにも宝にもなり得るものです。その光とは、ぼくらの意識かもしれない。
棚橋さんの書かれていることを読んで感じた印象を述べると、「ゴミ」か「宝」かについては、組み合わせの問題でもないと、ぼくは思っています。俳句は確かに言葉の組み合わせだけれど、詠むひとの直感や人生が言葉を貫くからこそ、そこに組み合わせを超えた意味が立ち上がってくるものではないでしょうか。
音楽だって音符の組み合わせにしか過ぎない、ということもいえます。ただそこで思考停止になる。作曲家は組み合わせのオプションのなかから検索・選択して曲を作っているわけではないと思います。もちろん制作の過程には、「このドラムは、どこすこどん、だろうか、すたたかたかたん、だろうか」というパターンの選択はあるのですが、結局のところ感性で選ぶ。可能性を羅列するのではなく選ぶという行為が重要で、茂木健一郎さんの本にも書いてありましたが、こうした判断の機能は右脳にあるようです。右脳を損傷すると、選択肢はいくつも列記できるのだけど判断できなくなるそうです(うろ覚えですが)。
さらにそこには作り手だけでなく、受け手(読者、視聴者)の関係性もあります。俳句にしても音楽にしても、関係性のなかで成立するものであり、作り手がただ面白いからランダムに入れ替えた言葉や音符は、「情報」としてのデータはあるけれど創作ではないと思いますね。
科学的あるいは理系的な発想について、ときどき苛立ちを感じてしまうのは、組み合わせれば何でもできるという驕りです。もちろん広告マンのバイブルであるジェームズ・W・ヤングさんの著作や、野口悠紀雄さんが述べているように「アイディアは既存の何かの組み合わせである」という観点はわかるのですが、それはアイディアという意味がある単位であって、音素(Phenome)や音階のように意味を持たない単位で分断されたものではありません。また、ランダムに組み合わせるものでもない。
いまある数学的な発想ですべての創作活動も定義あるいは解明できるという姿勢に、ぼくは科学者の権威的な暴力を感じてしまうこともあるのですが、茂木健一郎さんもPodcastingの講義でお話されていたのだけど、創造性を科学的に検証すると、現在の数学とはまったく違うフレームが必要になる気がします。
ということを書きつづけると、長くなるので後日。いまぼくは、問題の源となったR30さんの言説、ブログが「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」ということについて、考えてみたいと思います。
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ぼくはR30さんについて何も知らないので不躾に勝手な感想を述べさせていただきますが、R30さんは、ひょっとすると新聞社系の方、もしくはご出身ではないでしょうか。
新聞社系のジャーナリストにありがちな姿勢として、社会全体を支配しているかのようにふんぞりかえって斜に構えて、権威的な言動をする傾向を感じています。マスの視点からみて「今度はこれだ!」かといったかと思うと「あれはもう終わった!」と手のひらを返して騒ぎたがる。
すべてのマスコミにおいて考えられる傾向かもしれないのですが、ちょうど今週のR25の巻末コラムで石田衣良さんが、「てのひら返しのアップ&ダウン」として、あのボクシングの狂騒的な報道から、マスコミの手のひらを返した騒ぎぶりを批判していました。深く共感しました。以下、R25 NO.108より引用します。
そんなことよりも気になるのが、例によってマスコミのてのひら返しの報道姿勢なのである。ライブドアのH氏、村上ファンドのM氏、あるいは人気の占い師など、すぐに幾人かの名前をあげることができるだろう。てのひら返しは日本のマスメディアの常套手段なのである。 視聴率をあげるため、発行部数を増やすためといった手段で、特定の個人を散々もちあげておいて、なにかトラブルが発生すると、てのひらを返して攻撃に走るというマスコミの報道姿勢が、ぼくは嫌いなのだ。
ひとりの「個」としては、必ずしもマスの現象としての社会で生きているわけではありません。終わったものにしがみつかなければならない人間もいるし、それを糧としているひとたちもいる。
ところが新聞社系の人間は、そんな「負け組」はどうでもいいようです。つまり「読まれる=騒がれる」ネタであれば、なんであってもよいのではないか(と思えるほど、騒がしい)。突っ込みどころのあるネタには、とことん追求する。格差社会を過剰に騒ぎ立てて進展させるのも、マスメディアの責任のない発言によるところが多いと思うのですが、いかがでしょう。
ぼくはCGM(Consumer Generated Media:消費者が生成するメディア)としてのブログの台頭よりも、その傲慢な姿勢がマスメディアを終わらせているような気がします。
もちろんジャーナリストとして立派な倫理観をもった方もたくさんいて、グーグルの本を出した佐々木俊尚さんのオーマイニュースに関する批判などは共感できると思ったのですが、一般的には、石田衣良さんが批判しているようにマスコミは「手のひらを返して」騒ぎたがる傾向にあるようです。憤りまではいかなくても、なんかおかしいんじゃないのか?とぼくも感じている。
R30さんは、いつかエントリーで「Web2.0はもうおしまいだ」と書くのではないでしょうか。そして、つづいて「SNSにはうんざりだ」と書くかもしれない。ただ、そういうおしまいを宣言するひとがいてもいいと思う。それもまたブログの自由です。しかしながら、ひょっとするとR30さんはブロガーと言うより、ぼくらブロガーが批判の対象とすべき「マスコミのひと」なのかもしれませんね。その姿勢は、マスコミ的です。
R30さんは8月のあいだ、1ヶ月に2つのエントリーしか書いていません。個人的な印象と推測ですが、書ける人間に対するやっかみもあるのでしょう。そんな心理を冷静に眺めると、かわいそうだな、と同情もするわけで、いさぎよくブログなんて辞めてしまえば楽になれるのになあ、で、SNSで自分によいしょしてくれるひとたちに囲まれてしあわせに癒されていればいいじゃん、と余計なお世話を考えてしまう。ただ、ぼくはR30さんは永遠に「あれが終わった」を言いつづけるひとのように思います。不満を言いつづけることで精彩のあるひともいれば、終わりを宣言することで胸を張るひともいるものです。
さて、ぼくは好きでブログを書いています。誰から頼まれたわけでもないし、誰かに評価されるのを期待しているわけでもない。
SNSでも、マイミク300人みたいなことは絶対に無理です。できません。でも、きちんとコメントいただいている方のブログはきちんと読みたいと思うし、いただいたコメントに対しては誠実にお返事していきたい。それがぼくの生き方であり、価値観です。
そして、ブログを書ける人間が偉いとは思っていないし、書けない人間が劣っているとも思いません。だから、書ける人間が「ブログも知らないと時代についていけないぞ」というのもおかしい気がするし、逆に書けない人間が「ブログなんて書いてないでもっとリアルに生きろ」というのもおかしいと思います。それは能力というより価値観の違いであり、どちらも「正解」なわけです。モノサシが違うものを比べてもしょうがない。
別の価値観としては、好きなものに対しては、どんなに裏切られようとも信じていたいし、最後まで付き合いたいと思っています。ふたりの息子たちに「パパあっちいけー」と言われても、「そんなこと言ってもひっついちゃうもんねー」と言い返してべたべたするし、運動会の競走でビリであっても、これからどんなにダメな息子になってしまったとしても、こいつはぼくの最高の息子だ、こいつらがいてくれたからぼくの人生は最高だった、文句あるか、と言いたい。その価値観を守れなかったときに、ぼくは自分自身を最低だと思います。
ブログやSNSは、まだよちよち歩きの子供です。終わりもしない。はじまってもいない。成長の過程にはいろんなことがあると思うのですが、どんなにだめになっても、ぼくはこのブログスフィアが大好きだし、つづけていようと思うし、その可能性を信じていたい。自分の大切なものに、ツバを吐く人間だけにはなりたくないと思います。
辛辣に書いてしまった部分もあるかもしれませんが、R30さんを否定するものではありません。このエントリーにむかついた、ということであれば、ごめんなさい、と謝るしかない。ただ、正直に考えたことを書いたらこうなっちゃいました、というだけのことです。
ひょっとすると正直に垂れ流した言葉が「ゴミ」かもしれないですね。とはいっても、インターネットにあるゴミたちは、すべて人間たちが生み出したものです。どんなに酷い言葉にも、しょうもない画像や映像にも、その向こう側には、ときには高みにありときにはダークサイドにも落ちる人間たちの生活があると考えると、いとおしくなりませんか? まあ、ご自身の知的生産に役立たないブログはゴミだ、といってしまうR30さんには、そんな愛情はないかもしれませんけど。
終わってしまえば、ぼくらの人生はゴミのようなものでしょう。どんなに偉いひとの人生も、偉くないひとの人生も、みんな忘れ去られる運命にあります。
ただ、だからこそ佐高信さんがサンデーモーニングで言っていたように、みられることがなくても美しく咲いている山奥のサクラでありたい。ゴミにも存在の意義があります。世のなかに存在するものたちに、意義のないものはひとつもないんじゃないか、とぼくは思う。甘いかもしれないのですが。
投稿者 birdwing : 2006年9月 8日 00:00
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