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2006年9月 4日

セレンディピティ、偶然の楽しみ。

求めていたことには出会えなかったのだけれど、まったく別の何かに出会えてしまった、という偶然の楽しみというものがあります。昨日のエントリーで書き足りないことがあったので、もう少し考えたことを追加してみます。

北海道の旅行で息子は、旭山動物園で動物をみるよりもトンボを捕まえることに夢中でした。けれどもそれはそれでしあわせであって、決して動物をみなかったからダメということはない。動物園でトンボを捕まえても、悪くないわけです。

目的はひとつである、これしかないと決めてしまわずに、いろいろと動き回っているうちに結果として、しあわせになることがあります。目的なんて決めないほうがいいのかもしれません。動き回っていれば、しあわせの方からやってくる。やってきたしあわせは、求めていたしあわせとは違うかもしれませんが、しあわせであることには変わりがありません。それで満足する。風の吹くままに彷徨う生き方ともいえる。

もちろんその方法がすべてうまくいくとは思えないけれど、いい加減な生き方もときにはよいものです。結果ばかりを追い求めていると疲れてしまうので。

このことを「セレンディピティ」と言うようです。茂木健一郎さんの著作には何度か出てきていて、いま読書中(P.60のあたりを読んでいます)の「脳の中の人生」にも出てきていました。もともとは造語であり、イギリスのホラス・ウォルポールというひとが創作したようです。以下、引用します(P.126)。

4121502000脳の中の人生 (中公新書ラクレ)
中央公論新社 2005-12

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一七五四年に友人に向けて書いた手紙の中で、ウォルポールは、ペルシャに伝わる古い童話『セレンディプの三人の王子たち』に言及した。「セレンディプ」とは、スリランカの古称である。王子たちは、旅を続ける中で、決して自分たちが探し求めていたのではないのに、たびたび幸運に出会う。王子たちが示したような「偶然、幸運に出会う力」を、セレンディピティと名付けようとウォルポールは提案したのである。

どこかロマンティックな響きもありますが、実際に、古本のなかにメッセージを挟んで、そのメッセージがみつかったらもう一度会う、恋人になる、という「セレンディピティ」という映画もあったような気がします。クリスマスの恋人たち向けの映画という感じでした。ひとりでそんな映画を深夜に観ていたら、なんだかもぞもぞ落ち着かなくなったものでした(以前にも取り上げたような気がします。確かクリスマスあたりに)。

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ショウゲート 2006-06-23

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茂木健一郎さんの本には、現実に起こっていることではなくても、起こり得ることを想像するだけで脳のなかには実際に起こったのと同様の物質が分泌される、というようなことが書いてありました。つまり、起こっていなかったとしても、想像は現実の一部というわけです。

重松清さんの「三月行進曲」という小説(「小さき者へ」に収録)にも出てくるのですが、少年の頃には「もしも」ばかりを考えているものです。ところが年齢を重ねるにつれて、「もしも」の可能性はどんどん狭まって、考えなくなる。けれども豊かに生きるためには、現実だけでは不十分で「もしも」という仮想の世界も必要ではないか。小説のなかでは、30代の主人公であるお父さんは「もしも」を少年野球に託すわけですが、自分の子供は女の子であり、そのあたりのジレンマが切なくて、とてもうまく描かれています。

インターネットが面白いのも、仮想の世界のなかで「セレンディピティ」があるからだと思います。検索はアルゴリズムを使った技術にすぎない、とまとめてしまうと終わるのですが、そのクールな技術がテキストの海からひっぱってくるのは、さまざまなひとの生きている現実です。だからとんでもない出会いもある。

ただ、リアルな世界の「セレンディピティ」も面白いと思っています。たとえば本を購入するときを考えてみると、ネットによる購入は確かに便利であり、リコメンデーションエンジン(おすすめ機能ですね)によって、同じ傾向の作品を知ることもできます。けれども本屋がすごいと思うのは(というか、ものすごーく当たり前なのですが)、「サイズで整頓されていること」だったりします。

つまり文庫の棚に行くと、同じ大きさで統一された本が並んでいる。ところが、内容はビジネス書からブンガクまで幅広かったりするわけです。新書なら新書のコーナーで、さまざまなジャンルの本を横断することができる。ネットでもサイズで検索して本を抽出することはできそうですが、あまりにも莫大な候補が規則性なく表示されると思われるので、ふつうのひとはあまりやらないでしょう。それにネットの大きさは、リアルの大きさとは違います。これもまた当然ですが。

本には装丁とサイズがある、という事実に気付き、あらためてぼくはそのことが重要だと思ったりしているのですが、冷静に考えてみると、大騒ぎすることではないですね。けれども当たり前なんだけれども、レコードがほぼなくなってしまった現在、CD世代の子供たちはレコードの大きさなんてわからないのではないでしょうか。

ネットのオークションなどで昔のジャズの名盤などのレコードの写真が表示されていたとしても、CD世代の若者は、CDぐらいの大きさでしょ?と思っているかもしれない。

やがてすべての音楽コンテンツがデジタル配信されると、パッケージの大きさという概念すらなくなるのかもしれません。そのときに存在感として残るのは、音そのものと情報です。歌詞カードすらなくなるかもしれない。書物も紙や装丁や厚さなどのクオリア(質感)がない、ただの情報になってしまうかもしれない。

「セレンディピティ」について書いていたら、記録メディアとサイズ論になってしまいました。これも「偶然、幸運に出会う力」の一種なのかもしれません。思索の楽しみは、そんな風に脇道にそれるからこそ楽しい。決められた道ばかりを歩くのは、つまらないものです。

投稿者 birdwing : 2006年9月 4日 00:00

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