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2007年3月31日

「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」茂木健一郎

▼book012:天才もひとりの人間、でこぼこな人生を容認すること。

4022599189天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣 (朝日選書 818) (朝日選書 818)
茂木 健一郎
朝日新聞社 2007-03-16

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東京国立博物館でダ・ヴィンチの「受胎告知」が公開されていますね。観に行きたいのですが、うちの家族はこういうことに対して異様にノリが悪い。パパはひとりで行っちゃうもんね、と拗ねてみたくなります。子連れで行くようなものでもないかもしれないし。

既に何度もブログのなかで文章を引用させていただいたのですが、茂木健一郎さんの「天才論」は、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を茂木さんの視点から再構築しつつ、創造性について、あるいはぼくらが創造的に生きるためのヒントを示してくれる本です。前半部分のダ・ヴィンチの仕事について解説されている部分は、なるほどなと思うもののそれほど深い知的な刺激はなかったように思うのですが、後半からの待ってました!という感じの茂木さん真骨頂的な言説には考えさせられるものが多くありました。

総合力の重要性を説きながら、「でこぼこ」のある人間であることを肯定するところが茂木さんらしい。すべての力を平均的に持っていることが大切ではなくて、知的好奇心の網を多方面に広げながらも、いびつな個性を発揮する。そんな不器用な生き方をあたたかくみつめる視点がやさしくて、読んでいてほっとします。

天才というのは天から与えられた才能だから、なりたくてなれるものではないし、そもそもダ・ヴィンチにはなれません。けれども天才もまたひとりの人間であるということを理解するとき、才能や作品の意味が変わる気がしました。

ダ・ヴィンチは遠い過去の手が届かない存在ではなくて、同じ人間として、ぼくらのように仕事もしながら、いろんな悩みや変わった癖(ダ・ヴィンチのようにホモセクシャルな趣味はありませんけどね)なども抱えつつ生きてきたわけです。作品は凄いけれど、人間として考えるならば、ぼくらとそれほど変わっているわけではない。そういえば、ダ・ヴィンチ的なひとはどこにでもいます。プチ・ダ・ヴィンチになら、なれそうな気もする。いや、なれないかー。

正確な解剖図を描くことができた彼は、実は人間を(愛情の外で)機械的に見ることしかできなかった、というダ・ヴィンチの特異な感覚について触れられている部分には、興味深いものがありました。

ここで茂木さんは、彼は人間を機械的にとらえる目と文学(芸術)的にとらえるふたつの目を持っていたことを指摘されています。文学的な視点からは、たとえば愛するひとの身体はロマンティックな感情でみつめる。ところが、科学的な視点からはそのメカニズムに注目することになり、性愛の行為もひとつの生殖活動にすぎなくなる。確かに文学的な視点と科学的な視点という「ふたつの目」を獲得し、共存させることは難しいものです。難しいけれども「ふたつの目」があるからこそ世界の見え方は面白くなると思うし、ふたつの目があるにもかかわらず、結局は偏った生き方しかできない人間にぼくは魅力を感じます。

バランスなんて崩しちゃってもいいじゃないですか。ときには常識なんてひっくり返してしまってもいい。けれども、子供たちの世界に関していえば、バランスを崩した存在は異端ではあり、だからこそバッシングを受けたりいじめにもあったりする。いつでも平均的な人間が求められるし、常識があることがいちばんだと思われているものです。だからみんな同じスタイルになる。

常識や効率と創造性は、まったく違った価値観のもとにあるものかもしれませんね。ただし、究極の理想は、常識や効率を追求しながら創造的であるという折衷案かもしれない。

大人たちが考えるべきことは、バランスを崩した「でこぼこ」な子供たちを守ってあげることでしょうか。でこぼこな能力のなかに未来を変える天才の芽がある、ということをきちんと理解することであって、でこぼこを一生懸命に潰して均してしまうことが教育ではない。でこぼこを生かすような環境を整えておくことだと思います。決して、社会からはみ出した存在にするのではなくて。

自分のなかにある「でこぼこ」がいとおしく思えること。でこぼこの自分のままでいいと安心できること。天才にはなれないけれども、できれば自分の子供たちは準・天才的に育っていってほしいものですよね。そのためには無理矢理に常識を押し付けるのではなく、何時間やっても飽きないぐらいに興味を持った何かを支援してあげることも必要でしょう。そして、でこぼこのままでいいんだよ、と言ってあげることが大切かもしれません。3月26日読了。

※年間本100冊プロジェクト(12/50冊)

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「歳月」茨木のり子

▼book07‐011:身体を失っても持続する愛情のかたち。

詩集を買うのは、貧乏な読書家にとっては、このうえない贅沢ではないでしょうか。というのはまず物理的に考えて、詩集には活字が少ない。活字が少ないのに本自体は値段が高い。コスト・パー・ワードのようなものを考えてしまうと、ものすごくコストが高いわけで、びっしりと文字で埋め尽くされた古典の文庫を買ったほうがよい。楽しめる時間が長いし、内容も濃い。

そんなわけで効率を追求するビジネスマンは、ふつうは詩集なんて買いません。そんなものを読むぐらいだったら、ジムで身体を鍛えたり健康管理に費やしたほうがよほどいい。

けれどもぼくは最近、プライベートでは効率的ではないものを追求しようと思っているので、ちょっとだけ贅沢な自分の時間のために茨木のり子さんの「歳月」を購入しました。

「歳月」は、茨木のり子さんが夫の死後に夫を慕いつつ書いた詩篇を、彼女の死後にまとめたものとのこと。トビラに夫婦の写真が掲載されているのですが、医師であったという旦那さんはかっこいいですね。きりっとしていて、大人の雰囲気です。寄り添う茨木さんも微笑ましいものがあり、仲の良いご夫婦であるという雰囲気がモノクロの写真からも感じられました。

詩人のみずみずしい文章は、細かな雨のようにぼくらの乾いた(というか、乾いてるのはぼくだけかー)心に染み込みます。女性らしい愛情が溢れています。官能的でもあり、その解説は難しいのですが、あえて挑戦してみましょうか。たとえば「夢」。以下、全文を引用します(P.14 )。

ふわりとした重み
からだのあちらこちらに
刻されるあなたのしるし
ゆっくりと
新婚の日々よりも焦らずに
おだかやに
執拗に
わたくしの全身を浸してくる
この世ならぬ充足感
のびのびとからだをひらいて
受け入れて
じぶんの声にふと目覚める

隣のべッドはからっぽなのに
あなたの気配はあまねく満ちて
音楽のようなものさえ鳴りいだす
余韻
夢ともうつつともしれず
からだに残ったものは
哀しいまでの清らかさ

やおら身を起こし
数えれば 四十九日が明日という夜
あなたらしい挨拶でした
千万の思いをこめて
無言で
どうして受けとめずにいられましょう
愛されていることを
これが別れなのか
始まりなのかも
わからずに

四十九日の前夜、「わたくし」は夢のなかで夫に抱かれます。そのおだやかなやさしい愛撫に「からだをひらいて」夫を受け入れようとする。けれどもそのときに思わず洩らした自分の悦びの声で、目が覚めてしまう。現実に引き戻されると、そこに夫はいない。しかし肉体の存在はないのだけれど、そこにいない「あなた」の気配で「わたくし」は満たされている。

言葉で織り成される世界はひそやかなのだけれど、そこには一種の閉塞感がある。女性にとっての官能とは、この窒息するような閉塞感ではないでしょうか。男性にとっては違う。男性の官能とは、衝動的に愛するひとを貫きたい、奪いたいというような攻撃的な欲望だと思う。

それは受け止める/満たされる女性の身体と、貫く/放出する男性の身体という、身体的な機能の差異から生まれる官能の違いかもしれません。身体の違いは必然的に思考にも、言葉にも表れます。その違いを認識すること、理解できないとしても理解しようとするときに解釈の力が生まれる。

生きている身体は精神とともにあるのですが、身体が失われると精神だけが残る。これは言葉と実体の対比にも重ねられるかもしれません。実体が失われても記号としての言葉が永遠に残るように、身体が失われたあとの精神も、言葉として刻めば永遠に残る。何気ない夫の記憶の断片から生活のなかの大切な言葉を浮き彫りにしつつ、しかも湿度が高くて重たい具体的な現実から切り離して、さらりと書いてしまう詩人の感性が素晴らしい。

肉体を失っても永遠に持続する愛が、この詩集のなかには書き連ねられています。時空を超えたこの感覚および綴られたしとやかな言葉は、男性には決して書けないものではないか。

「肉体を失って/あなたは一層 あなたになった/純粋の原酒になって/一層私を酔わしめる//恋に肉体は不要なのかもしれない/けれどいま 恋いわたるこのなつかしさは/肉体を通してしか/ついに得られなかったもの」という「恋唄」、「姿がかき消えたら/それで終り ピリオド!/とひとびとは思っているらしい/ああおかしい なんという鈍さ//みんなには見えないらしいのです/わたくしのかたわらに あなたがいて/前よりも 烈しく/占領されてしまっているのが」という「占領」など、その言葉はしなやかではあるけれども、強い。

死んでしまったら何も感じないでしょう(死んだことがないからわからないのですが)。肉体が消滅しても想いは残るかもしれない、という幻想はあるけれど、現実にはきっとそんなことはありません。死んでしまえば、おしまいです。しかし、現実にはありえないことだからこそ、詩人の言葉はぼくらに響くのではないか。男性であるならば、「歳月」に書かれた言葉のように一途に想われてみたいものですね。

言葉にすることは永遠に想いを結晶化して残すことかもしれません。茨木さんが亡くなった後、甥である宮崎治さんが遺稿を整理していると、この詩集のために作品はきれいに原稿整理されて「Y(夫である安信さんのイニシャル)」の箱に入れられていたとのこと。

ひそやかに書きとめられた詩人の言葉。生前には出版をためらった文芸でありながらプライベートかつ誠実な想い。この詩集は、泣けます。3月25日読了。

※年間本100冊プロジェクト(11/50冊)

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2007年3月29日

fennesz + sakamoto/cendre

▼music07-019:音のアフォーダンス、触感に訴えるノイズとピアノ。

cendre
fennesz + sakamoto
cendre
曲名リスト
1. OTO
2. AWARE
3. HARU
4. TRACE
5. KUNI
6. MONO
7. KOKORO
8. CENDRE
9. AMORPH
10. GLOW
11. ABYSS

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一般的にはノイズといえば、雑音にすぎません。耳に障る不快、リダクション(排除)したい余計なもの、攻撃的な轟音。そんな風にとらえられているのではないでしょうか。アヴァンギャルドな音楽で好まれることが多いので、難解なイメージもあります。最近では、ノイズキャンセラー付きのオーディオプレイヤーも人気がありますね。ノイズは嫌われものかもしれない。

けれども「cendre」の音楽におけるノイズは、あたたかい。周囲からふわっと包み込むような音響がやさしい。なんだろう、これは。最近、ノイズを多用した音楽を集中して聴いてきたつもりですが、いままで聴いたことのない音でした。思わずノイズに耳を澄ましてしまった。すると連なる音の向こう側にいろいろな風景がみえてくる。

たとえば、3曲目「haru」。ぼくはこの曲を聴いていて、草原の上を風が渡っていくような、高速度撮影で雲がめまぐるしく動く空を眺めているような、そんな風景が目蓋の裏側に浮かんできて(目をつぶりながら聴いていたんですね)、空間的に広がりのある場所にぽつりと佇んでいる錯覚を覚えました。そうして、イメージはもちろん言葉の断片も浮かんでくる。しかも浮かんでくる言葉は、ちょっと思索めいています。

脳内に浮かんだ言葉のひとつは「音のアフォーダンス」でした。詳しく理解していないので直感的なイメージですが、アフォーダンス(affordance)とは、アメリカの知覚心理学者ジェームズ・ギブソンによる造語らしく、「空間において、物と生体との間に出来する相互補完的な事態」とのこと(Wikipediaより)。

デザイナーである深澤直人さんの「デザインの輪郭」という本にも書かれていて(P.248)、人間は立体を立体として認識しているのではなく、平面的なテクスチャー(素材)の重なりとして認識している、というようなことが説明されていました。つまり前景と背景として複雑な重なりを認識することによって、世界を立体化して見ている。「cendre」における臨場感は作られたものですが、やはり距離を感じさせる音のテクスチャーによって、立体的な音像になっていると思います。

一方で「ノイズとピアノのブリコラージュ」という言葉も浮かんできた。なんとなく思想っぽい言葉がつづくと嫌味っぽくていやだなとも思うのですが、ブリコラージュ(Bricolage)はフランスの思想家レヴィ・ストロースの言葉で、「器用仕事」と日本語に訳されるようです。日常にある道具や材料を使って、創造的な仕事をするということ。

基本的にこのアルバムで用いられている楽器は、ピアノとラップトップだと思うんですよね。フェネスの場合は素材としてギターを加工していますが、有限の道具が無限の音の広がりを生み出す。限りなくミニマルな構成なのだけれど、表現された世界は広い。

その広がりは、ぼくにとっては聴覚というよりも触覚的な広がりとして感じられました。

フェネスとサカモトの音は、ときに背景として遠ざかり、ときに前景としてすぐ手の届く場所に存在し、聴いているぼくの脳のなかにある種の手触り=触感を残していきます。10曲目「glow」を聴きながら感じたのは、ピアノの音に絡みつく針金のような金属的な手触りでした。きりきりと巻きついて成長していく針金的な植物というか。いつしか坂本龍一さんの弾くピアノはぼくの指になって、フェネスのノイズがぼくの指に絡みついていく。そんな幻想。

たぶんフェネスのノイズだけの音楽、坂本龍一さんのピアノだけの音楽では、こうした世界観は成立しなかったのではないか。ノイズ×ピアノというコラボレーションがあったからこそ、人工的・電子音でありながら、まるで仮想世界に手を触れるようなリアリティを持った音楽が生まれたのでしょう。

そもそも自然にはノイズが溢れています。ノイズが存在することは、人工的というよりも自然なのかもしれません。電子音でありながら自然を感じさせるノイズは、メタファとして技術と人間の共存を思わせました。その音のなかに身をゆだねていたら、いつしかまどろんでしまっていました。音楽のせいかもしれないし、春のせいかもしれません。3月28日観賞。

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ところで、余談をふたつほど。

余談1:

ショップでこのCDの隣りに置かれていたのは、ジャック・アタリの「ノイズ―音楽/貨幣/雑音」という思想系の本でした。

4622072777ノイズ―音楽/貨幣/雑音
Jacques Attali 金塚 貞文
みすず書房 2006-12

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これって、ぜったいにずるい(泣)。坂本龍一さんのCDの隣りにこんな本を置かれたら、知的好奇心が刺激されて、読んじゃうじゃないですか。うわー、そういえばこういう本あったっけな、と思わず手にとってしまい、ページをめくったら置くに置けなくなった(苦笑)。で、つい購入。十数年ぶりに買ったのですが、みすず書房の本って高いんですよ(3,200円)。結局、他にほしかったエレクトロニカのCDを諦めました。くそー。CDショップのマーケティング戦略(クロスセリングですかね)に負けてしまった。ちぇっ。

余談2:
趣味でDTMをやっているのですが、昨年の秋頃からがらりと作風を変えました。この新しい音作りのキーワードとなったのがノイズでした。ノイズをどうやって音楽に取り入れていくか、ということを考えつづけています。まだ、うまくできてはいませんが、いろんな音楽を聴いて参考にもしています。ノイズを考えるきっかけになったのは、ネットで閲覧した記事だったのですが、そのおかげで思考がずいぶん広がりました。有り難いことです。

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2008年2月4日追記

坂本龍一さんのインタビューです。このアルバムについて「ロマンティック」と言及されているところが興味深いですね。コモンズレーベルでは、ダウンロード配信のみ(CDは作らない)、アナログ版しか作らない、などと流通についての自由度が高い、とのこと。コモンズというと、クリエイティブ・コモンズがどうしても頭に浮かぶんですけど。また、環境に対する取り組みについても語られています。

■fennesz + sakamoto(ryuichi sakamoto Special Interview)

*年間音楽50枚プロジェクト(19/50枚)

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2007年3月28日

自然の音を標本に。

春ですね。風がずいぶんやわらかくなった気がします。重いコートを脱いだら肩の荷がどっさりと降りた感じです。荒涼とした冬のような気分もふっと軽くなりました。われながら単純ですが。

ブログで2日ばかり連続して理屈っぽい長文を書いたところ、なんだか疲れてしまった。いったいぼくは何をそんなにムキになっていたのでしょう。よくわかりません(苦笑)。そこで今日は脱力して、やわらかいことを書きます。

雪解け、あるいは小川のせせらぎのような

趣味のDTMで作った曲として、「ハツユキ」「サクラサク。」と過去の曲ばかりハードディスクから発掘して公開していますが、現在進行中の曲もあります。

最近はタイトルやイメージを固めて準備ができてから作り出すのではなく、なんとなく思い付いたときにDAW(音楽制作用のソフト)を立ち上げて、気の向くままに制作しています。ブログの原稿を書くためにテキストエディタを立ち上げるようなものです。

したがって、タイトルも「07_mar6」のように無味乾燥な感じで作り始めます。これは2007年の3月の6つめのプロトタイプ、という意味なのですが、イメージも何もない。連番を付ければいいので簡単に作り始められるけれども、完成したあとで探すのに困るのが難点です。といっても一度ミックスダウンした曲はなるべく振り返らないようにしているんですけどね。というのは、永遠にやり直しをしたくなってしまうので。

いまのところ3月のプロトタイプは「07_mar6」まであるので、6曲ばかり作っていることになります。作り込みすぎて複雑な構成のためにマシンで再生できなくなって立ち往生したものもあれば(泣)、数小節しかできていないものもあります。

このなかで、もっとも未完成の短いプロトタイプ(07_mar5)を公開してみます。イメージとしては、雪解けでしょうかね。そんなわけで仮にタイトルをYukidokeとしてみました。


■Yukidoke_proto 1分30秒 2.09MB 192kbps




曲・プログラミング:BirdWing


うーむ。まとまっていません(苦笑)。

小川のせせらぎのような感じでもあります。季節が変わり、風が暖かくなると、すべてのものがゆるゆると解け出します。頑なに閉ざしていた気持ちもやわらいで、解放的になるものです。そんなイメージでしょうか。

素材として使った音については、以下のフリー音源のサイトからピックアップしました。

■The Freesound Project
http://freesound.iua.upf.edu/index.php

このサイトは素晴らしい。クリエイティブ・コモンズのライセンス下に置かれているようですが、無料音源の宝庫です。もちろん有料のサンプリング音源ほど使い勝手はよくないけれども、ちょっとしたアクセントを加えるのには重宝します。サイトの効果音などにも使えるのではないでしょうか。

Yukidokeは背景にアンビエントな雰囲気のノイズが入っていますが、これはイギリスのメトロ(地下鉄)のノイズだったと記憶しています。そんなサンプルを逆回転させて使いました。上記のサイトには、鳥の声などもあって、思わず生録に憧れていた少年時代の熱い気持ちを思い出しました。

生録というのは、高性能なカセットデッキ(主としてソニーのデンスケ)とマイクを抱えて、自然の鳥の声などを録音するために出かけるアウトドアライフのようなものです。少年の頃、ソニーのデンスケとか欲しかったんですよね(誰も知らないか)。写真はソニーファンのページからデンスケです。

映画のなかの生録

The Freesound Projectに収録されているいくつかの自然の音を聴いていて、思ったことがあります。定年を過ぎたら、自分で音楽を創るのではなく、自然の音楽を記録するような趣味もいいかな、と。

老人になったぼくは、昼間は街や郊外を歩いて(ときには少しだけ遠出して)、海の音、風の音、木々のざわめき、鳥の声、雑踏の騒がしさを採集、サンプリング(標本化)する。夕方になったら家に帰ってリビングでJBLの立派なスピーカーを前にして、採集した音を再生して聴くわけです。少しだけお酒を飲みながら、本なども読んでうとうとしつつ。そんな風に自然の音を記録したり再生して愉しみながら、日々を穏やかに暮らしていく余生もいい。

生録で思い出したのですが、ぼくが観賞した日本の映画のふたつの作品で、偶然にも同じ役者さんが生録を趣味とする役柄として登場していました。役者さんは浅野忠信さんで、ひとつめは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、ふたつめは「珈琲時光」です。

B000FQWH14エリ・エリ・レマ・サバクタニ 通常版
青山真治
バップ 2006-07-26

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B0007MCICE珈琲時光
一青窈, 浅野忠信, 萩原聖人, 余貴美子, 侯孝賢
松竹ホームビデオ 2005-03-29

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浅野忠信さんといえば、大林宣彦監督の「青春デンデケデンデケ」を思い出すのですが、ミュージシャンやカメラマンのような役柄(しかも寡黙)が多いような気がします。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は近未来の話で、その社会では感染すると自殺したくなるウィルスが蔓延しています(うーむ、なんだかタミフルを思い出しちゃったぞ)。浅野さんはふたりのユニットで前衛的な音楽をやっているのですが、なぜか彼等のユニットの轟音かつノイジーな音楽を聴くと、ウィルスが消滅する。つまり音楽がワクチンになる。そこで、ひとりの金持ちが病気に感染した娘を救ってほしくて彼等に会いにいく・・・・・・という物語でした。

「珈琲時光」は、小津安二郎の生誕100年を記念して「東京物語」のオマージュとして作られた映画です。一青窈さんとの淡々とした日常が描かれます。浅野さんは電車の音を生録するのが趣味、という地味な役柄でした。

生録が出てくる映画は、洋画でいうと「イル・ポスティーノ」でしょうか。

B000E8NA0Kイル・ポスティーノ
マイケル・ラドフォード マッシモ・トロイージ
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント 2006-04-19

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詩人に憧れる郵便配達人が、詩人から預かったテープレコーダーを持ち歩いて、海の音や夜の音などを録音する。音にはなぜか詩的なものを感じます。郵便配達人は詩人に憧れるのだけれど、結局のところ詩人にはなれない。静かなせつなさが残るいい映画でした。

生録に関心があると、そんな映画を引きつけてしまうのですかね。あるいは映画制作には録音が大事なので、映画の脚本を作るときに自然とそんな役を設けているのかもしれません。

音に関する映画というのは、まだまだたくさんあるような気がします。あれば観てみたいです。

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2007年3月27日

Low / Drums and Guns

▼music07-018:ノイズとヴォーカルで構成された、荒涼とした世界。

Drums and Guns
Low
Drums and Guns
曲名リスト
1. Pretty People
2. Belarus
3. Breaker
4. Dragonfly
5. Sandinista
6. Always Fade
7. Dust on the Window
8. Hatchet
9. Your Poison
10. Take Your Time
11. In Silence
12. Murderer
13. Violent Past

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昨日レビューを書いた「Some Loud Thunder」と同時に購入したのですが、偶然にもプロデュースはクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーのプロデュースを手がけたデイブ・フリッドマンとのこと。他に彼はモグワイなども手がけているそうで、なるほどなあという気がしました。ジャケットには、今回試用した楽器+銃(gun)の写真によるブックレット付きなのですが、ほとんど楽器はドラムのみ。そんなわけでこのタイトルなのか、とあらためて納得したり。ちなみにこんな写真です。

LOW1.jpg LOW2.jpg

ドラムスと最小限の楽器(そしてノイズ)で構成された音響は、バンドにとっては新機軸らしいのですが、もろにぼくの最近の好みでした。残響感のないボーカルをメインにした感じは、デヴィッド・シルヴィアンの「blemish」のような雰囲気もあります。

アーティストについてはまったく知らなかったのですが、8枚目のアルバムらしい。バンドとしての活動は10年になるようです。バンド構成はベースが脱退して3ピースになったようで、そのうち女性がひとり。ミニマルな行間の多い音の文脈に、男性と女性のハーモニーが漂う枯れた叙情性がなかなかいい感じです。ライナーノーツを読むと、トム・ヨークの「The Eraser」的な雰囲気を感じさせるのは、トム自身がロウのファンだからということが書かれていました。へえ、彼に影響を与えているのか。

全体的に灰色の雲が垂れ込めた、冷たい荒涼とした世界を感じさせるのですが、なぜかぼくはこの世界にフィットする。モノクロ映画のようなイメージに、なんだか落ち着いた気持ちになります。いまなんとなく殺伐とした気持ちだからでしょうかね(苦笑)。春に聴く音楽というよりも、秋から冬にかけての季節にぴったりのような気がするのですが、悪くはないです。

おすすめの曲の選別は難しくて、逆回転のギターを含めて全体的な雰囲気がよいのですが、あえてピックアップを試みると、2曲目のSigur Rosっぽい「BELARUS」、リズムとハーモニーが気持ちいい6曲目「ALWAYS FADE」と7曲目「DUST ON THE WINDOW」、短いけれどコーラスが美しい9曲目「YOUR POISON」(なんとなくコステロ思い出した)、厳かな12曲目「MURDERER」でしょうか。「MURDERER」は、コード進行のようなものも気に入っています。

殺伐としたサウンドスケープに癒されているぼくって何?という気がしましたが、なんとなく染みる音です。3月27日観賞。

公式サイト(英語 いくつかの曲が試聴できます)
http://www.chairkickers.com/

+++++

2008年2月4日追記

最少の編成で演奏している「Murderer」。枯れた雰囲気が渋いです。

■Low - Murderer

*年間音楽50枚プロジェクト(18/50枚)

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2007年3月26日

Clap Your Hands Say Yeah / Some Loud Thunder

▼music07-017:叙情的で複雑で、妙に懐かしいイノセントの響き。

Some Loud Thunder
Clap Your Hands Say Yeah
Some Loud Thunder
曲名リスト
1. Some Loud Thunder
2. Emily Jean Stock
3. Mama, Won't You Keep Them Castles in the Air and Burning?
4. Love Song No. 7
5. Satan Said Dance
6. Upon Encountering the Crippled Elephant
7. Goodbye to Mother and the Cove
8. Arm and Hammer
9. Yankee Go Home
10. Underwater (You and Me)
11. Five Easy Pieces

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なんだこりゃ?な音楽に惹かれます。というのはぼくがインディーズ志向だからかもしれません。もちろん耳あたりのよい珠玉のポップスや、多くのひとが認めるヒットソングも聴きますが、たいていそれだけでは満足できなくなる。

ノイジーな刺激やローファイな音であったり、どこか不器用なんだけど純粋な音楽を聴きたくなる。不完全でいびつな何かを求めてしまう。だから、知っているひとは知っているという隠れた名曲を探して、センスのいいブログの紹介盤をチェックしたり、ショップのCDラックで囲まれた迷路を彷徨ってしまうわけです。クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーのセカンドアルバム「Some Loud Thunder」も高感度な音楽ブログで紹介されていた一枚でした。

そもそも実はファーストを買おうと思っていました。試聴して聴き比べたところ、音が安定していてちょっとポップな1枚目のほうが第一印象はよかった。そこでCDショップで1枚目を持ってうろうろしていたのですが、もう一度聴き直してみようと思って聴き直したところ、あれ?と思った。何かがセンサーに引っかかったんですよね。どうやらこのセカンドのほうには、ファーストよりも以前に作った曲を収録しているとのこと。そういう意味では、よりピュアな音作りになっているような気がします。その音楽に対するひたむきな感じがぼくの琴線に触れたらしい。

Bounce.comのインタビューでは、アレックが次のように語っています。


僕に言わせると、曲を書くことはあくまでイノセント・アクト(純粋な行為)だね。邪心のない行為というか。それは経験などに左右されない部分でもあるから、この先も変わらないと思う。

確かにこのアルバムを聴いているとイノセントな感じがする(笑)。そもそも、ヘッドホンが壊れたんじゃないかと思う1曲目「Some Loud Thunder」。この歪み具合って何?というところがある。そのほか、ノイズを取り入れたり、やりたい放題のような感じです。ボーカルはよれよれだし。

でも、ぼくはへろへろでありながらも心に届く何かを感じる。第一印象は、うわっ何これ?だったとしても、聴き込むうちに親しみを感じてしまう。かつて社会人バンドをやっていたこともあり、ベースが担当だったぼくはベースにも惹かれました。2曲目の「Emily Jean Stock」のドライブ感とか(こういうのはバンドでやるとぜったいに楽しい。みんなで顔を見合わせながら演奏しているシーンがみえてきます)、 10曲目「Underwater (You and Me)」のなんとなくベースの妙にメロディアスなところが好きだったり、まるでスタジオで練習を録音したんじゃないか、というようなローファイ感がよかったりします。

アレックは次のようにも語ります。


人ってさ、何かにすごく興味を持ったり魅入られたりすると、〈あ、これは新しいことだ〉って思うよね。でもそのうちだんだん慣れてきちゃって、それがひとつの型になってゆく傾向がある。最近特に思うのは、僕に影響を与えたのは何か直接的なものというより、子どもの頃からの積み重ねなんじゃないかな、って。つまり、ある時は何かに極端に影響されるんだけど、それからフッとそのスイッチが切れて、また別のものに変わる──その繰り返しで、モノの見方や考え方が培われていくんだよね。音楽だってそう。

自分のなかにある過去の積み重ねを再現しているんでしょうね、このひとは。だから、妙に懐かしい。積み重ねられたものの総体の空気感が個々の曲になっているわけです。だからその雰囲気は分析とか、解釈できない。腑分けできないものになっています。そこがいい。

いちばんぼくが気に入っているのは、やはり「Underwater (You and Me)」でしょうか。最後のリバーブの利いたギターとか泣ける。で、まるで小山田圭吾さんの詩のような短い動詞が羅列される11曲目「Five Easy Pieces」につながるところもいい感じです。ここで演奏されているベースも叙情的で好みでした。3月26日観賞。

*年間音楽50枚プロジェクト(17/50枚)

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2007年3月22日

「恋愛脳」黒川伊保子

▼book07-010:脳の構造を超えた理解のために。

4101279519恋愛脳―男心と女心は、なぜこうもすれ違うのか (新潮文庫)
黒川 伊保子
新潮社 2006-02

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妄想の話なのですが、ぼくは現実に出会わなくてよかったと思う女性作家がふたりいます(そもそも出会うわけがないのだけれど)。

ひとりは川上弘美さん、そしてもうひとりは黒川伊保子さんです。黒川さんに関しては、作家と呼ぶのがふさわしいかどうかわからないのですが、このふたりに共通するのは、男性のぼくからみて女性として魅力的な文章を書くということです。

もちろん文章=作家ではないだろうし、実際にお会いしたことがないので、あくまでも文章から想像する作家像でしかありません。それでもぼくはおふたりが書く文章を読んでいると、なんだかいたたまれなくなる。たぶん、こんな雰囲気を醸し出す女性に現実世界で出会ってしまったら、ぼろぼろな恋愛に堕ちてしまう気がします。ぼくは安易に惚れやすいタイプではないのだけれど、川上弘美さん的もしくは黒川伊保子さん的女性に会ってしまったら、気持ちを自制する自信がありません。きっとバランスを崩してしまう。

妄想の話は置いておいて(苦笑)、「恋愛脳」はとても魅力的な本でした。そして知的な刺激があります。この情緒と知性が共存している感じがたまりません。

そもそも男性脳と女性脳の違いは、脳梁の太さにあります。脳梁の細い男性脳は、左右の違いを立体的に把握できる脳であり、一方で脳梁の太い女性脳は平面的な把握にすぐれている。これは必ずしも男性=男性脳、女性=女性脳というわけではないのですが、脳の構造の違いがさまざまなすれ違いを生むそうです。

黒川さんはAI(人工知能)の技術者だったそうですが、仕事が忙しいとき、地下鉄の銀座線の車内で息子におっぱいをあげたという大胆なことまで書いてありました。読んでいてくらくらしたのですが、この大胆さは母性本能はもちろんのこと、女性脳の特長に負うところが大きいのではないでしょうか。つまり平面的な認識によって、いま目の前にいる子供以外には見えなくなるから、そんな大胆なこともできる。逆にいえば男性脳の機能である立体的な視点によって車内の様子をキャッチできていない。

ちなみに自分のエピソードですが、まだ次男が2歳ぐらいの頃、家族4人で公園にお花見に行ったことがありました。ところが途中で次男がむずむずし始めた。そこで奥さんは服をめくりあげようとしたのですが、(ちょ、ちょっと待った、こんなところで出すなって)(だって、泣くからしょうがないでしょっ)(いや、でも、みんな見てるでしょうが)(見ちゃいないわよ)と口論になり、結局頭にきたぼくは「もう帰るぞっ」と、もぐもぐ静かにお団子を食べている長男を立たせて、お花見中止にして帰ったことがありました。

泣いてるからしょうがないでしょ、体裁ばっかり気にしてなんだろうねこのひとは、という冷たい目で見られてしまったのですが、夫として弁明すると、多数の男たちがいる公園という公共の場では勘弁してほしかった。もちろんそんな説明はできないので黙っていたのですが、考えてみると男性脳と女性脳の違いかもしれません。

どんなときも空間的な把握をしてしまう男性脳としては、右35度にいる学生の集団とか、左48度にいるおじさんとか、そうしたものを把握してしまう。みてないわよ、と言われたらそれまでなのですが、家であればともかく、この公共の空間でぽろりんはないだろう、社会的な常識を考えてほしい(泣)というのが(一般の正常な)男性脳をもつぼくの見解なのです。違いますかね?ぼくだけなのかな。

・・・話が脇道に逸れました。黒川さんは完璧な女性脳の持ち主であると思う。そこで、どうやら80%ぐらいの男性脳であるぼくが読んでいると、その女性脳的な視点に読んでいてはっと気付かされることが多い。情緒の専門家であるとご自身についても語られているのですが、その言葉は感情を揺さぶります。

息子に対する愛情に溢れた文章にも打たれました。まずぼくが"!"と思ったのは次の表現です(P.48)。


息子には言わなかったが、彼の男性脳は、今のところとても出来がいいと思う。いきなり「結」を語って、人をほのぼのとした気に包み込んでしまう。これは、とびきりいい男にしかできないことだ。たぶん、生まれつきの才だと思う。事業家に不可欠の要素でもある。

がーん。そうか。起承転結のように、論理的にくどくど語っていちゃダメなんですね。

いい男は「結」しか言わない。そういえば欧米型のプレゼンテーションも「結」から述べる気がします。つまり、空間をすぽんと飛ばしていきなり結論を述べる発想が男性脳的で、時系列の詳細を重視すると女性的になる。言い換えると、物語は女性的ということになります。黒川さんも書いているのですが、ぽーんと飛躍する男性脳的な言葉を刺繍のように織ってつないで、物語を紡ぐのが女性脳になる。男性のやんちゃな発想を物語として再構成できることが、いい女の条件になるそうです。

出来がいい男性脳を持つ息子さんが書いた「結」から切り込んでくる作文を添削するシーンでは、思わずじーんとしました(P.45)。


そこで、「ママがあなたの作文を添削というより添加してあげよう」と、くだんの作文を再び手に取った。ママは、どんなテーマでも、何十枚も作文が書けたんだからね、といばってみせる。
――ぼくはジャングルジムが好きです。何度、頭を打っても好きです。ぼくは、いつもボーっとしているので、ジャングルジムの一番上にすわっていると二十分休みがすぐにすぎていってしまいます。ぼくは、ジャングルジムにはいつまでものこっていてほしいです。
私は、もう一度大笑いしながら読んで、不覚にも泣いてしまった。


わかる。これはぼくにもわかる。子供の作文にはときとして、起承転結のような物語の軸を超えた力があります。それは理屈を超えた「愛着」のようなもので、これをいきなり「結」の部分から突きつけられると、もう何もいえなくなる。ぼくも息子の作文の宿題をみてあげるのですが、作文の苦手な彼であっても、黒川さんのように降参したくなる言葉に出会うことがあります。

ほかにも息子さんにべったりな愛情を注ぐ文章には惹かれましたが、一方で「私の大好きなひと」についての言及も多く、最初のうちはいったい誰なんだ?と心が揺らぐのですが、中盤あたりからそれが旦那さんだということがわかる。のろけ具合はかなりのレベルですが、どこか許せてしまう感じです。というよりも微笑ましいものがありました。

かと思えば、本音のレベルで具体的な理想の男性像を述べているところもあり、これは男性として参考になりました。そうか!と思った。男性諸君のために抜粋してみましょう。黒川さんによる理想の男性像はこんな感じです。


時空を貫くような一途さで女を愛し、基本的には女を自由にさせ、女の知性を敬愛し、女の母性を畏敬し、こちらが寂しいときには少女のように甘やかしてくれ、こちらに余裕があるときは少年のように慕ってくれて、日常の面倒は一切かけない、永遠に美しい、セックスの上手な恋人。

うーむ(苦笑)。そんなの無理だ!と思った男性が多いのでは。しかし、無理だと思うからこそ挑戦したいと思いませんか?この要求はかなりハードルが高いのですが、確かにこの姿勢を貫けば、いい男になりそうです。ちなみにこの究極の理想像として黒川さんが思い描いたのは、光源氏である、とのこと。

一方で、黒川さんはいい女の在り方についても書いています。歳を重ねてから「終始、穏やかな光が当たっている」ような存在になるためには、以下のような準備をすべきであると書かれています(P.182)

歳を重ねながら、準備することはある。 まずは、見たもの、感じたものすべてを、自分の心の鏡に映すようにすることだ。他人のそれじゃなく。誰かに認められたくて、誰かに羨ましがられたくて、誰かに褒められたくて、誰かに勝ちたくて、誰かに見捨てられないように、誰かに嫌われないように・・・・・・そういう価値観はいっさい捨てる。 自分が気持ちいい、自分が納得できる、自分が清々しい・・・・・・そういうものだけ傍らに置く。そして、その外側に「そうはいっても自分の大切なひとたちが不快でないこと」というフィルターを付ける。
この言葉は男性にとっても重要ではないでしょうか。加えて、経済的に気張っても気品を追求すること、誰かに大切にされるようなクセをつけることが大事であると書かれています。 思わず背筋が伸びる感じです。こういう素晴らしい女性に出会うと、男性としては若干びびるのですが、横内健介さんのあとがきにも、食事にお誘いしたのですがセレブな黒川さんをどこへお連れすればいいか分からなくなった、という苦悩が書かれています。次のようにつづきます(P.200)。
そんなことをあれこれ悩むうち、だんだん怖くなってきた。そして思ったのだ。 伊保子さんを迎えに行くのは、もっと偉大なオレになってからだ。その時には運転手付きの高級車で伊保子さんの会社の前に乗り付けて、花束を抱えてお迎えに行くのだ、と。 ともかく手柄を立てねばならぬ。女王陛下、その時まで待ってて下され!

ははは(笑)。でも、ものすごくわかります。男性は単純で馬鹿だから、素敵な女性がいるだけで、頑張れたり自分を向上させたりできるんですよね。ぼくもそうです。

さて、このほかにもさまざまな興味深い視点があるのですが、長くなるので割愛しましょう。そして、ぼくが最も注目したキーワードは「時空を貫く」想いでした。

というのは最近、シークエンス(連続)、時系列、歴史などを考えていたからでもあるのですが、典型的な男性脳を持つぼくとしては、空間的な把握は得意であっても、時間のなかで持続していく何かは苦手です。だからブログも、えーい消しちゃえ、と思ったら消しちゃったりする。積み重ねが重要だとか書いておきながら、あまり積み重ねに対する執着もなかったりするわけです。そもそも忘れっぽいし(苦笑)。

ところが、この本のなかでも書かれていたのですが、女性は、ひとつの大切な言葉があれば、いつでもどんなときでも(ユビキタスで)時空を超えてずっと言葉をあたためることができるらしい。会えない時間があっても、その言葉を飴玉のように転がしながら、過ごすことができる、などということが書かれていました。男性脳のぼくには、よくわかりません(苦笑)。言葉は永遠に残すべきではなく衰退させるべきだ、なんてことをブログのエントリーに書いていたぐらいなので。まだまだ理解が足りません。

ちなみに、今日は茨木のり子さんの「歳月」という詩集を購入。これは夫である三浦安信さんが亡くなったあとに、夫の記憶を辿りながら綴る詩で構成されています。泣ける。詩集のタイトルにもなっていますが、「歳月」という詩の最後5行を抜粋してみます。

けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの

時空を貫いて、想ってみますか。3月16日読了。

※年間本100冊プロジェクト(10/100冊)

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詩人の発想。

詩人の発想には、はっとさせられることがあります。「デザインの知」という本の建築家の論文のなかで、まさかぼくが好きな谷川俊太郎さんの言葉に出会うとは思いませんでした。以下、引用します(P.118)。

以前にも触れたことがあるが、ある書物を読んでいて、こんな話に出会ったことがある。詩人の谷川俊太郎が、外国のテレビのインタビューのなかで、「日本の教育と創造性」について、「あなたにとって創造性とは何ですか」と質問された時、「ものごとに飽きる力」と即答したという。次に「学びとは何ですか」と質問されて、すかさず「模倣」と答えて、「真似ぶ」という大和言葉の意味を説明したといわれる。それに対して「模倣と創造とは対局ではないか」と反問されると、谷川は「素晴らしいものは何度模倣したって飽きないでしょう。モーツァルトは数え切れないほど演奏されてきたけれど、いまだに飽きないじゃないですか」と言い切ったことが紹介されていた。

少しわかりにくいのだけれど、こういうことだと思います。

どんなに新しいことであっても、飽きてしまうから次の新しいことを考える。それが創造性であり、逆説的に、究極の創造物は何度繰り返されても飽きないものである、ということです。永遠に飽きないものを夢想して、ぼくらは何かを創りつづける。時代を超えて、何度も何度も繰り返し聴くことができる音楽。それが理想形としての音楽なのかもしれません。

学びは模倣である、ということも、なかなか示唆に富んでいます。うちの息子も、次男くんは長男くんの真似ばかりしている。けれども、真似ができるからこそ発達も早い。まずは素晴らしいもの、すぐれたもの、美しいものを真似するところから学びはスタートすべきかもしれません。ところが最近は、真似しない方がよい大人や教師もいることが問題なのですが。

真似をしようと思っても、他者は他者であり、厳密にいえば同一のものになることはありません。どうしても真似できないもどかしさから浮かび上がってくるものは、要するに他者との差異によって浮き彫りに去れた「自分」ではないかと思います。真似をすることによって何を知るかというと自分を知る。誰かといっしょになろうと重ね合わせるたびに、自分が見えてくるものです。

次の世代の誰かが真似をしたくなるような大人になりたいものですね。反面教師ではなくて。そしてどうせ真似をするのであれば、中途半端な真似はかっこ悪い。徹底的に真似をするのが、かっこいい。

いろいろなことを学んでいこうと考えているのですが、既に確立された自我のようなものに邪魔されることもあります。「水は方円の器に従う(Water takes the shape of the vessel containing it.)」という言葉にあるように、しなやかな思考を持ちたいものです。

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2007年3月19日

デザインを通して知る。

いつ頃からか、ぼくの冬のファッションといえば黒一色になってしまいました。ファッションセンスがないので服装のことを語ろうとすると妙な緊張で思考が強張るのですが、ライフスタイル革新とブログのタイトルに据えているだけに、さまざまな生活の側面についても取り上げていこうと思います。

いま読んでいる「デザインの知 (vol.1(2007))」という本は、東北芸術工科大学デザイン哲学研究所の機関誌のようで、デザイン哲学という観点からさまざまな論文が掲載されています。難しい論文もありますが、いくつかの論文は興味深い。「研究対象としてのデザイン」というウタ・ブランデス博士の論文にも、面白い観点がありました。

4046216212デザインの知 (vol.1(2007)) (デザイン哲学叢書)
降旗 英史
角川学芸出版 2007-02

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「研究対象としてのデザイン」では、さまざまな専攻の学生のファッションスタイルを解明する「成功のスタイル(Dress for Success)」というプロジェクトが紹介されています。「デザインの研究(research on design)」ではなく「デザインを通した研究(research through design)」というコンセプトを基盤として、デザインを通して学生のファッション意識を探っていく試みのようです。

日本でも、文学部の学生、経済学部の学生、法学部の学生というのは、微妙に服装が違うものですが、デザイン系の学生に特定のパターンがあるのか、そこにはどのような願望や意識があるのか、他の学部からはどのように意識されているのか、ということを実際の学生たちのファッションを観察しながら探っていく。

そもそもやはりデザイナーには一定の服装の傾向があるようで、非常にわかりやすい。以下のように書かれていました。ちなみにこの本では、英語による論文も記載されているので(英語に慣れるという意味でも)両方を記載してみます(P.62/63)。


普通、デザインに関心のない人に尋ねると、デザイナーというものの外見については特定のイメージまたは固定観念があることがわかります。少なくともヨーロッパでは、デザイナーは黒一色に身を包んでおり、眼鏡も黒縁の四角メガネをかけているものです。

If you ask people who are not concerned with design they usually have an image or a cliche of how a designer looks like. In Europe, at least, designers are supposed to wear black only, including small black-framed rectangular glasses.

日本語には訳されていませんが、四角(rectangular)に加えて、ちいさな(small)というところがポイントのような気がしました。でっかい四角メガネでは、異なるイメージになる。ただしrectangular glassesでイメージ検索をしたら、以下のようなメガネがヒットしました。

いるいる(笑)という感じですね。ぼくは通常はメガネをかけていないのですが、目が悪いので、似たメガネを持っています。ということは、黒一色のファッションでもあることだし、デザイナーに対する潜在的な憧れがファッションに表れているわけだろうか・・・。確かになんとなくクリエイティブな(あるいはクリエイティブを標榜する)ひとたちは、黒を好むような傾向がある気がします。なぜでしょうね。

研究のなかでは、以下のツールを使って定性的な分析をしていきます。簡単にまとめます。


1.ファッション日記
1週間の服を記録する。なぜその服を選んだのか動機や理由を書きとめることによって、深層心理に迫る。


2.マルチチャネル・ビジュアルマトリックス
デザイン、経済、法律学部のファッションを写真に撮る(800枚ほど撮影したとのこと)。比較するために全身像を白いスクリーンの前で撮る。典型的な要素を探る。


3.セマンティック・ディフェレンシャル(SD)法
「柔らかい―固い」など両極端の形容詞を羅列したシートで、線上の好きな位置に印を付けてもらう。反射的かつ感情的な評価を得る。評価するのは、それぞれ異性。


4.アイデンティティ・キット
各学部の典型といえるモデルを小さな2次元の人形で作成。同時に、それぞれの固定観念である「影武者」の人形も作成。学部を当ててもらう。


5.ファッションショー
ストーリーボードを作成し、ショーのパフォーマンスで発表する。


固定観念としてのモデルと、実際の調査でわかったモデルを比較して発表したようです。このときに視点として大切なのは、ファッションを分析するのではなくて、ファッションを通じて自分たちが他の学部を見かけでどのように判断しているか、そして固定観念と実際はどのように違っているのか、というそれぞれの思考を発見することではないでしょうか。

傍観者がこの分析を行えば単なる観察ですが、学生たちがそれぞれの学生を観察するということから、参与観察的なエクササイズともいえます。いまデザイン専攻の学生たちが何を学んでいるのかわからないし、以前からこのようなリサーチは行われていたのかもしれませんが、今後は、こうした実践的な研究が重要になっていく気がしました。何よりも楽しそうです。

もう学生時代は遠い昔になってしまいましたが(残念)、こんな研究をしたかったなあと思いました。デザイン専攻や社会学専攻ではなくても、今後はあらゆる学部でこのようなアプローチが必要になるような気もします。

文学部で考えられるのは、実際に小説を書きつつ、その背景を探っていくような研究でしょうかね。なんとなくつらいことになりそうな気がするのですが(苦笑)。

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2007年3月18日

「デザイン思考の道具箱」奥出直人

▼book009:デザインがビジネスを変える、デザイン思考の重要性。

4152087994デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方
奥出 直人
早川書房 2007-02

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すでにブログで「build to think(プロトタイプ思考)」について書いてみたり、「経験の拡大」として参与観察によるインサイトの見つけ方を考察したのですが、一般的には視覚的に表現することが主体のデザインの背後で、いわばOS(オペレーションシステム)として機能する思考について言及した本です。思考についてあれこれと思い巡らせている自分としては、非常に興味深い一冊でした。

なぜ興味深いのかというと、その方法論が、ビジュアル表現にとどまることなく、ソフトウェアの設計であるとか、組織のデザインにも応用できる点です。いま世界中のビジネスでイノベーションというキーワードが重視されていますが、革新的な何かを生み出すためには、新しい発想を生むためのシステム、あるいは方法論が必要になります。もちろんシステムや方法論だけでは新しい何かは作れません。けれども、そのヒントとなるようなことがこの本のなかにある。

自分の経験を振り返ってみると、ぼくはどちらかというと技巧に走る側面がありました。仕事においても、趣味の音楽制作においてもいえることかもしれません。けれども上っ面の技巧から創られたものは、説得力がない。何よりも凄みのようなものに欠けると思います。もちろん、現場で手を動かして積み上げた実績が凄みになっていくということもあるのですが、さらにフェーズを跳躍させるためには、「考えること」あるいは、哲学や世界観を持つことが大切になると思う。

考えすぎるのはよくないよ、という言葉が言えるのは、ほんとうに考え抜いたひとだけではないか。そんなことを考えています(苦笑)。一方で、考えながら行動することも重要です。まさに、考える―行動する、というふたつの側面を行ったり来たりしながら(プロトタイプ思考で)、トライ&エラーを繰り返しながら進んでいく。考えてから行動するのではなく、並列処理でカタチにしていく。それがこれからの社会に合ったスタイルのような気がしています。

と同時に、論理的な思考だけでなく、感性の部分を豊かにしていく必要がある。フィールドワークで調べた現場の行動などをシナリオに落としていくという解説があったのですが、ここではまるで小説を書くときのような印象さえありました。物語マーケティングだ、物語が大事だ、と声高に言うマーケッターはたくさんいますが、実際に物語を書いているひとはわずかしかいないような気もします。

しかしながら、マーケッターにおける物語とは、文芸的な物語である必要はなく、要するに重要なのは時系列におけるシークエンス(連続性)の把握ではないかと思います。その一般的なものはAIDMAだったりAISASだったりするのですが、ひょっとすると一般化する必要もないかもしれない。決められたフレームワークを使うのではなく、個々の案件に合わせたシークエンスをデザインできることが重要なのかもしれません。

まだきちんと考えがまとまっているわけではありませんが、いくつかのビジネス書をさらに読み進めつつ、デザイン関連の本にも目を通して、自分なりの理論、哲学を創っていきたいと考えています。3月8日読了。

※年間本100冊プロジェクト(9/100冊)

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ナイトミュージアム

▼Cinema011:時空ごちゃまぜな夜の博物館、歴史がちょっと楽しくなる。

B000MGBS5Sナイト ミュージアム (2枚組特別編)
ベン・スティラー.ロビン・ウィリアムズ ショーン・レヴィ
20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパン 2007-08-03

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うちの長男くんは恐竜が大好きなので、国立科学博物館や巨大恐竜博などによく足を運びました。たぶん、だから関心を持っていたかと思うのですが、この映画は、発明などを夢想しながら仕事が長つづきしない冴えないパパ(バツイチで10歳の子供あり)が、博物館の深夜警備の仕事に就きます。ところがこの博物館の展示物は、夜中になると動き出すのだった・・・というジュブナイル、あるいはファンタジーの映画です。


ぼくもどちらかというと冴えないパパなのですが(苦笑)、ちょうど映画のなかの息子ニッキーがうちの子と同じ10歳ということもあり、父親ラリーのだめさ加減に息子がしょぼんとするシーンとか、それでも自分の父親を誇りに思って胸を張ろうとしているところとか、泣けた。涙腺が弱いので実際に泣けてしまったのですが、自分の息子が隣に座っているので我慢はしましたけどね。


10歳の息子を持つ父親としては、そんなしんみりするシーンも僅かにありますが、全体としては笑えるエンターテイメント映画です。3Dを駆使して恐竜ティラノサウルス・レックスが動き出すとか、ミニチュアのオクタヴィウスと西部開拓時代のリーダーが喧嘩するシーンとか、鍵を盗んでしまう意地悪なサルとビンタし合うところとか、結構大笑いできた。息子も、いつになく楽しんでいました。よかったよかった。


蝋人形のセオドア・ルーズベルト役がいい感じだなあと思っていたら、なんとロビン・ウィリアムスでした。うーむ、わからなかった。このファンタジーのなかで、ルーズベルト大統領は、1803年に合衆国の土地を調査する探検で案内役として貢献したサカジャウィアという女性に恋をする。これは実際の歴史にはないフィクションなのですが、時空を超えて夜の博物館で展開される物語が楽しい。


ちなみに、ネイティブ・アメリカンでショニーニ族の女性であるサカジャウィア(Sacajawea)という女性は、2000年に発行された新1ドル硬貨に肖像が描かれているそうです。ぼくは知らなかったのですが(知らないことばかりだ)、パンフレットを読むと、アメリカではポカホンタスと並んで有名な女性らしい。10代の若さで、赤ちゃんを背負いながら探検隊といっしょに調査に同行して、責任感が強く、勇気のあるすばらしい女性だったとのこと。一方で、彼の夫のシャルボーノは無責任で臆病で、探検の足を引っ張ることばかりをしていたようです(苦笑)。


博物館でうまくやっていくなら歴史を学びなさい、という言葉があり、ちょうど歴史について考えていた時期でもあり、非常にタイムリーな感じがしました。学校で習う歴史はあんまり好きではなかったのですが、いまからでも学び直したい気がしています。しかし、映画のなかのラリーのように、歴史を学ばないと深夜の博物館の混乱を収拾できないような状況に置かれないと、必死で学ぼうとは思わないような気もします。


ところで、映画のモデルになったアメリカ自然史博物館は、実際にあるらしい。行ってみたいね、と息子に言ったら、そうかな、とあまり乗り気ではないようでした。ちぇっ。3月18日観賞(劇場)。


公式サイト
http://movies.foxjapan.com/nightmuseum/


*年間映画50本プロジェクト(11/50本)

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スイミング・プール

▼Cinema07-010:なんとなく盛り上がれないミステリー映画。

B0001X9D5Oスイミング・プール 無修正版
シャーロット・ランプリング リュディヴィーヌ・サニエ フランソワ・オゾン
東北新社 2005-01-21

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テーマ音楽が不安感をそそるいい感じで、フランスの避暑地の殺人事件という場面設定にも惹かれて借りてきました。イギリスの女流ミステリー作家サラは何となくスランプ気味で、出版社の社長からフランスにある彼の別荘で書いてみたらどうか、と薦められます。快適な別荘で、その社長の到着を待っているのだけれど、やってきたのは社長ではなく彼の娘と名乗るジュリーです。


このジュリーが奔放な女性で、毎日違う男を家に連れ込む。静かに創作活動に耽るはずだったサラは、すっかり調子を狂わされて彼女と対立するわけですが、やがて彼女の生い立ちなどに関心を持ちはじめる。そしてふたりをめぐる殺人事件が・・・。


ハレーションを起こしたような明るいリゾート地で進展する暗いストーリーという明暗のコントラストがよくて、わずかながらツイン・ピークス的な地方ゆえの人間関係のもつれと隠蔽された過去などが興味をそそるのですが、ぼくの感想をいえば、いまひとつ盛り上がれない感じがしました。ネタバレになってしまうので結末を述べるのは避けますが、ああそうですか、ぐらいの納得しかなかった。


とはいえ、なんとなく背徳というか後ろめたい文学的なトーンがよい。神経質で、凛としていて、それでいてどこかネジの外れたような中年の女流小説家サラを演じるシャーロット・ランプリングが、成熟した雰囲気を出していてよかったです。天候のはっきりしないイギリス的な空気を醸し出しています。3月12日観賞。


公式サイト(ENTERを押すと、音が出るのでご注意ください。でも、この音楽が好みなんですけど)
http://www.gaga.ne.jp/swimmingpool/


*年間映画50本プロジェクト(10/50本)

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選択のエクササイズ。

風はまだ冷たいのですが、よいお天気なので息子(長男くん)とふたりで出かけました。映画を観ようと思って「ドラえもんはどう?」と訊いたところ、「ナイトミュージアムがいい」と言われて、思わずたじろいだ。洋画じゃありませんか。子供だと思っていたら、いつの間に。

実はその映画をぼくは知らなかったのですが、ネットで調べて面白そうだったので、ドラえもんは次の機会にして「ナイトミュージアム」の吹き替え版を観に行きました。どちらかというと、ぼくはドラえもんを観たかったのですけどね。

途中、時間がなかったのでマクドナルドで昼を済ませたところ、トレイのシートにアルバイト募集の広告があり、4人の若い女性の写真が掲載されていました。かつてまだ彼が3歳ぐらいの頃に「どのこがいい?」事件があってトラウマを与えてしまったのですが、性懲りもなくまたぼくは「どのこがいい?」と言ってみた。案の定、彼には異様に緊張が走ってフリーズした。10歳児が真剣に困っている(苦笑)。けれども待つこと5分。ついに「このこ」と指を差しました。

おおーいいじゃん、パパも好みのタイプだなー、いい選択してるよ、と今度は思いっきり褒めてあげると、おかしなものを食べちゃったような微妙な顔をしていました。ファーストフード店で、女性の好みのタイプについて親子でお話している父と子も珍しいかもしれません(学生の友達どうしじゃあるまいし 苦笑)。

考えてみると、ぼくの親父とはそんな話を一度もしたことがありませんでした。しかし、ぼくはぼくでやわらかい路線の親父をめざしてみますかね。店から外に出ると長男くんは、はしゃいでいたので、彼もトラウマを克服したのかもしれません。やれやれ。

映画の時間を待ちながら、いろんな話をしてわかったのですが、なかなか小学生も大変です。人間関係もいろいろあるらしい。とはいえ、誰かと比較して落ち込んだり、焦ったりしないように、きみはきみの納得のいく人生をきちんと選択できるようにしてほしい。

というわけで、チョイスのエクササイズをこれからも繰り返していくぞ、息子。

とか言っている父がいちばん優柔不断なのだが・・・。

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2007年3月17日

チョムスキーとメディア――マニュファクチャリング・コンセント

▼Cinema009:孤高な知識人の生きざま、そしてメディアから世界へ。


カナダ 1992年 167分/長編ドキュメンタリー カラー /原題:Manufacturing Consent :Noam Chomsky and the Media /製作・監督: ピーター・ウィントニック&マーク・アクバー

ぼくらの生活からメディアは切り離せないものです。

ブログの普及にともなって、CGM(Consumer Generated Media :消費者生成メディア)という言葉も使われるようになりました。企業によるマスメディアだけでなく、個々の人々が情報を発信してメディアをつくることができる、という考え方です。一方で、グーグルによる言論統制のようなことも言及されるようになりました。検索のランク上位に表示されること、検索そのものが情報社会を統制する力を持つようになってきています。

チョムスキーのドキュメンタリーである「チョムスキーとメディア――マニュファクチャリング・コンセント」は1992年の作品ですが、ブログを中心としたインターネット社会である現在においても色褪せない問題を提議してくれます。

2割の高等教育を受けたものたちが、その他8割の何も考えを持たないひとたちを統制する。巨大な企業複合体となった新聞社やテレビ局は、情報を操作している――「マニュファクチュアリング・コンセント(合意の捏造)」というキーワードから、歴史がどうやって作られるのか、ジェノサイド(大量殺戮)の真実はほんとうに国民に伝わっているのかという事実を、チョムスキーは、綿密なリサーチをもとにしながら痛烈な批判として展開していきます。

ノーム・チョムスキーについて、ぼくは詳しくは知りません。というよりも無知です。記号論や現代思想を学んでいくなかで、生成文法という画期的な考え方を提示した言語学者がいたこと、それがチョムスキーであるということを、漠然と知っていましたが、それがどういうものなのかは知らない。

最近、Wikipediaの真偽や、特定の記事が荒らされていることなどが問題にもなっているので、安易に引用は避けますが、あらためてノーム・チョムスキーあるいは生成文法についての解説を読んだところ、知的なセンサーがかなり反応しました。詳しくはわからないのだけれど、あらゆる言語に共通のモジュールをぼくらは持っている、言語は静的に構造としてそこにあるものではなく、人間によってダイナミックに生み出される、という発想に刺激を受けます。けれども、これはまたいずれ別の機会に。

チョムスキーの言語学に関する考察、あるいは政治活動に対する見解は、見識の高い人々のあいだで議論されているかと思いますので、ぼくは触れないことにします。

ぼくがこの映画で打たれたのは、学術的な知識や抽象的な概念ではなく、チョムスキーの人間性でした。したがって、そこに焦点をあてて、あくまでもドキュメンタリー映画のなかの、ひとりの人間であるチョムスキーについて感想を述べていくことにします。

逃げない、という覚悟

思想も哲学も、そして行動も、決してそのひとから遠い場所に存在するわけではありません。

ドキュメンタリーの映像のなかで、チョムスキー自身の口から生い立ちが語られていきます。飄々とした風貌で語る彼の言葉は、論争の場では過激だけれど、プライベートでは親しみがある。「こんな個人的なことを話しても興味がないんじゃないの?」とインタビュアーに笑いかけながら語るエピソードの断片は、異端児といわれているひとのはずなのに、なぜか心あたたまるものがありました。

たとえば6歳の頃のこと。クラスに太ったイジメられっ子がいて、彼が上級生に襲われそうになったことがあったそうです。守らなきゃ!と思ったチョムスキー少年は彼のもとに行くのだけれども、結局、怖くて逃げてしまう。そのことを永遠に恥じていて、もう二度と「逃げない」と心に誓ったそうです。

論争のなかで国家でさえも敵にしながら反論していくチョムスキーには、どんなに脅されても逃げない少年のときの誓いがあったのでしょう。

さらに冗談で、自分を形成したものはいろいろあるけれど、いちばんの要因は偏屈だ、ということも言っていました。物議をかもし出す辛辣な言葉を延々とつなぎあわせたシーンがあったのですが、確かにひどいことを言ってる。これじゃあ嫌われるよ、と思わず笑ってしまいました。

メディアでは言葉は意図しなくても制限される

地域の個人放送局のようなオルタナティブ・ラジオのようなものからは彼に出演依頼が多いのですが、マスメディアからはチョムスキーは嫌われています。

なぜマスメディアに彼を出さないか、ということで、とあるプロデューサからの説明があったのですが、「チョムスキーのように22分の枠のなかで5分も前置きをする人間はテレビ向きではない」というのが面白かった。確かにさまざまなシーンで、彼の言葉は遮られようとするのだけれど、それでも強引に喋ろうとしている。けれどもマスメディアで求められるコメンテーターは、CMまでの数十秒でシンプルに見解をまとめられるひとです。ただ、そのシンプルさが逆に問題ではないか。

東ティモールとカンボジアの虐殺についての記事において、東ティモールのほうが殺された人数は多いのに記事としては圧倒的に少ないことをチョムスキーは批判します。すると、ニューヨーク・タイムズの論説委員は、新聞には締め切りがあって時間がない、時間がないなかで決めていかなければならないので、記事の数が少ないのは偶然であって意図的に排除したわけではない、とコメントします。しかし、彼はこのコメント自体が問題であることに気付いていないのでは?と思いました。つまり商品としての新聞を作ることに注力するあまりに、内容の吟味に手を抜いている、という。

本人ですら意識していない真実が、生のコメントからあぶりだされるのが、ドキュメンタリーの凄いところです。

地方新聞のオフィスのなかを紹介する映像もあったのですが、地図にピンが立ててあって、連続して広告を出す店、ときどき広告を出す店、出さない店が色分けされている。「赤いピン(出さない店)を緑のピン(広告を出す店)に変えていくのがミッション」のようなことを胸を張ってコメントしているのですが、報道よりも広告収入が大事なわけか、と読み取れてしまう。

一方で、ニューヨーク・タイムズの社内を紹介する映像では、ここでは音声だけにしてください、ということでわずか数十秒、暗い画面のままでした(苦笑)。新聞がどうやって作られるかなんて、一般のひとは知らないほうがいい、なんて乱暴なことも言っていましたが、ブラックボックスで作られているものに信憑性は感じられない。

多様性を尊重する姿勢、誤解を恐れない強さ

チョムスキーはMITの教授として地位を築き上げているその時期に、安定した職から政治活動へと自分の進路を変えます。辛い決断だったと自ら語っているのですが、米国全体を批判するスタンスに身を置いて、その過剰な批判から評判を落として、どんどん嫌われていく。

ホロコーストがなかった、という衝撃的な論文を書いた歴史修正論者ロベール・フォリソン教授にまつわるエピソードには憤りを感じました。チョムスキーは、その論文自体を支持していたわけではなかったようです。言論の多様性と自由を擁護する論文を書いて出版社に渡すのですが、それがナチスによるガス室がなかったという本の序文に使われてしまう。

その教授は、ぼくからみるとゴミのような人間で、ただ自分の売名行為と裁判に勝つことにしか意識がないようにみえました。けれども、個々人の考えと多様性を尊重する考え方を基盤として、チョムスキーは擁護する。

講演の場で、なじられながら、チョムスキーは弁明します。自分はユダヤ人の大量虐殺がなかったという論を支持するわけではない。しかし、どのような考えも存在すべきである、と。

ぼくはこのシーンに泣けた。

前半部分でチョムスキーは、アメリカでは思想が統制されて、多様な考え方を持てない、ということを語っていました。え?と思った。さまざまな人種のいる社会だからこそ多様性(ダイバーシティ)が尊重されると考えたのですが、どうやらそうではないらしい。

実は、日本であっても、どんな発言でも許されるわけではありません。何を言ってもいい、と言われていても、全体の空気のなかでいえないこともあれば、潰されてしまう意見もある。ほんとうに多様性を尊重するならば、チョムスキーのように身体をはって守らなければなりません。そして頭ではわかっていても、行動として示せないものです。

チョムスキーは多様性を守るために、決して逃げませんでした。

世界に目を向けること、いま自分にできることは何か

お恥ずかしいことですが、この映画を観るまでカンボジアの虐殺も東ティモールの虐殺も、よく知りませんでした。でも、幼い子供たちのつぶらな瞳がスクリーンに大きく映し出されて、銃弾に怯えて泣くシーンや、虐殺されて横たわるシーンをみたときに、涙が止まらなかった。

グレッグ・シャルトンというレポーターが、ある戦士が語ってくれた言葉を告げます。「これだけの虐殺が行われているのに、なぜ世界は無関心なのか」と。カメラの向こうで「私は名もない小さなこの村を生涯忘れません」と淡々と語る彼も、次の日には殺されてしまう。

ぼくらは(というか、ぼくは)もっと世界に目を向けなければいけないのではないか。そして歴史を学ぶ必要があるのではないか。

音楽に関心があるので音楽に関して言うと、ぼくは環境問題や政治的な活動をしているミュージシャンも支持したいと思っています。音楽家は純粋に音楽やってりゃいいんだ、という考え方もあるかとは思うのですが、創造する音に人間的な凄みやかなしみを込めるためには、音楽的な技術や知識では足りない。社会から遠ざかった安全な場所だけに音楽があるわけではない。人生経験はもちろん、そこに哲学や思想があるべきではないか、というのがぼくの持論です。

もちろんそのバランスも大事であり、あまりにも頭でっかちになると音楽とはいえない。思想や政治の道具として音楽を使うことになってしまう。ただし、ダイレクトに音につながっていなくても、世界にあふれている痛みやかなしみをキャッチできる高感度な心のセンサーと、その世界に対する想いをバックボーンとした創作の場が、アウトプットとして音のすばらしさに反映されるのではないか、とぼくは思う。

たとえば、トム・ヨークが環境問題に詳しかったり、坂本龍一さんがさまざまな活動に参加されているように、ぼくらも個人レベルで政治や環境に対して何ができるかということを考えるべきではないか。

チョムスキーに対する質問で、ひとりの主婦が「あなたの言いたいことはよくわかったのだけれど、問題が大きすぎてわたしには何をすればいいのかわからない」と尋ねていました。

この気持ちはよくわかる。環境問題や政治というのは、何かをしなきゃいけないとは思うのだけれど、問題がでかすぎる。それに対して、チョムスキーは、ひとりひとりがまず自分の考えを持つことが重要である、と答えていたように記憶しています。

インターネットの社会も同様ですが、マイノリティーであることを恐れずに自分で考えること、考えたことを表現することが重要です。一方で、どんな考えも認めるということは、自分のなかにあるマイナス要因も許容しなければなりません。これは簡単なようでなかなかできない。けれども情報社会をうまく泳ぎ切るためには、理解できない他者の存在は大切です。その他者を通じて、ポジティブ/ネガティブの両側面を眺めつつ、自分で考えをまとめることが、とても重要になる。

観てよかった(長時間だったけど)

この映画は2部構成で、168分とやたら長いものでした。けれども、ぼくにとっては、えっ?もう終わっちゃうの?という感じでした。チョムスキーの言葉をトリガーとして思考を回転させ、映像や言葉をしっかりと脳内に焼き付けようとしたら、あっという間に終わってしまいました。しかしながら、正直なところ自宅でDVDで観たら絶対に最後まで観れなかったと思います。やはり劇場という逃げられない場で、覚悟を決めて(腰を据えて)観る映画だと思う。

こんなコアな映画を観たいひとはあまりいないと思っていたのですが、渋谷のユーロスペースで客席はかなり埋まっていました(年配の方や学生の方やカップルなど)。そして、ぼくは非常に感銘を受けました。観てよかった。

近視眼的にネットや日々の仕事や趣味にしがみつきがちで、テレスコープ(望遠鏡)から遠くに世界を覗いていたぼくの視界を、もっと広い場所へ、外部に向けさせてくれました。このことをきっかけに、世界あるいはメディアについて、少しずつ考えていくつもりです。


公式サイト
http://www.cine.co.jp/media/index.html
*年間映画50本プロジェクト(9/50本)

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2007年3月15日

空間の男性脳、時間の女性脳。

難しいことばかりを考えていたら頭痛がしてきたので、やわらかい本が読みたいと思いました。そこで文庫のコーナーを物色していたところ、黒川伊保子さんの「恋愛脳」を発見。

4101279519恋愛脳―男心と女心は、なぜこうもすれ違うのか (新潮文庫)
黒川 伊保子
新潮社 2006-02

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以前「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」という新書を読んだところ、音のクオリアという考え方や五感に訴えるネーミングなどの発想が面白かったので、黒川さんの書く本をもっと読んでみたいと思っていました。

そんなわけでこの本に注目したのですが、男性のぼくとしては、「恋愛脳」というタイトルはめちゃめちゃ恥ずかしい。欲しいけど、どうしようか散々迷った末に、島田雅彦さんの「美しい魂」も買うことにして、表紙を隠してレジに持っていきました。まるで大人向けの本をこっそり買う中学生みたいだ(苦笑)。

読んだところ、冒頭から黒川さんのチャーミングな文章にやられました(笑)。この文章、好みです。なんというか、このひとはオンナだなあ、という感じ。「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」は論文調の文章ですが(とはいえやはり文章の触感としてやわらかい)、この本はエッセイなので、フェミニン全開です。男性のぼくとしては、その文体から立ち昇る香水の匂いのようなものにくすぐられる。

たぶんこういう文章を許容できないひともいると思います。媚びた感じがいけすかない、というか。でも、ぼくはいいんじゃないかと思う。子供がいて、それでいて大人の女性として魅力のある文章を書いているのがいい。ブログでも、子煩悩な日記が大好きでよく読むのですが、黒川さんの息子の話も面白かった。そして、じーんとくる。思わずもらい泣きしそうな部分があったのですが、後日レビューでまとめて紹介することにしましょう。

脳梁が分かつ脳の違い

さて、「恋愛脳」では、中盤にきて、これは!と思うような見解が多数ありました。

この本を貫く考え方としては、男性と女性は脳が違うから基本的に理解できない、ということを前提として、男性脳と女性脳の違いを解説されています。

ここでいう男性脳と女性脳というのは概念的なもので、右脳と左脳に対応しているということではないようです。男性だから男性脳、女性だから女性脳というわけでもなくて、比率として女性脳が強い男性もいれば、その逆もいる。では、一体これは何か。

構造的には、脳梁と呼ばれる右脳と左脳をつなぐ部分の太さの違いが決定するようです。このことは漠然と知ってはいたのですが、脳梁の太さは「世界をどのように見るか」ということに影響してくると解説されています。次の部分を引用します(P.75)。


脳梁の細い男性脳は、女性脳に比べて、右脳と左脳の連携が悪い脳ということになる。二つの映像の違いが、くっきりと際立つ脳だ。つまり、生まれつき、ものの奥行きに強い脳なのである。

え、と思いました。ここで例を挙げているのが、「冷蔵庫のバター」を発見できないのは、男性が奥行きに惑わされて近い情報を見過ごしてしまうからであり、女性は平面的に情報をなめるようにみることができるので、発見しやすいとのこと。

さらに、次の言葉からは非常に刺激を受けました。確かにそうかもしれない・・・(P.104)。


女性脳の情緒は積分関数である。時間軸に、ゆったりと蓄積されていく。男性脳のキーワードが「空間」なのに対し、女性脳のキーワードは「時間」なのである。


簡単にまとめてしまうと、


男性脳空間的三次元点型認識・俯瞰して奥行きを感じて世界を立体的にみることができる脳
女性脳時間的二次元面型認識・平面によって世界の詳細をはっきり把握することができる脳

ということらしい。

クレイマーにならないために


ここで「クレイマー、クレイマー」というダスティン・ホフマンが出演している映画を例に挙げています。

B000MTOPWIクレイマー、クレイマー
ロバート・ベントン
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2007-04-04

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家庭を顧みずに仕事に夢中になってやっと昇進した夫に対して、妻は離婚を言いつける。そこで次のように書かれています。(P.109)


二人のクレイマーは、どちらも相手に深く傷付けられたと思っている。この大いなる断絶は、「時間を紡ぐ女性脳」「成果だけが頼りの男性脳」が理解できないと、男と女の永遠の溝になる。

そして次のようにつづきます。

そういうわけで、思いを時間軸に貯めていく女性脳は、マイナスの感情にも同じことが言える。貯めて貯めて、ある日、閾値(状態が劇的に変化する分岐点の値のこと)を越えたら、あふれる。あふれたら、ゼロクリアだ。すなわち、キレるという状態である。どうしたって、取り返しが付かないのである。
男性脳は、その場その場の真偽判定の脳なので、三回許したことは、1000回でも許せる。女性脳は違う。一万回許しても、一万一回目にあふれたら、もう情緒的にはなれないのである。

むむむ。深すぎる(苦笑)。
15年も結婚生活を送ってきましたが、ぼくは女性の気持ちをまったくわかっていないのではないか、と凹みました。この本をもっと早くに読んでおけば...。でも、理解できないものに、人間は(というかぼくは)惹かれるものかもしれません。夫婦だからすべてわかる、のではなくて、もう一度、理解できない脳の構造をしているんだ、という前提から、あらためてお互いを見直してみてもいい。

人生、学ぶことが多いです。

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2007年3月 9日

「彗星の住人 無限カノン1」島田雅彦

▼book008:世代を超えて繰り返される恋の変奏曲。

410118710X彗星の住人―無限カノン〈1〉 (新潮文庫)
島田 雅彦
新潮社 2006-12

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かなわぬ恋に夢中になるのはなぜだろう。
ひとはなぜ、求めても手に入らないものを求めずにはいられないのだろうか。

簡単に手に入る幸福では満足できずに、手の届かない場所にある幸福を追い求めること。想ってはいけないひとなのに、想わずにいられない苦しみ。それは行き場のない痛みです。けれども、誰も自分から苦しみのなかに身を投げようとは思わない。偶然に出会ったひとが、手の届かない場所にいるひとだったのではないでしょうか。運命に翻弄されているだけなのかもしれません。だとすれば運命はかなしすぎる。

「彗星の住人」は、4世代を遡って描く、恋の系譜の物語です。

読み終わるのが残念でゆっくり読んでいたのですが、既に続編2冊も文庫になっていました。物語のつづきが読めると思うとしあわせです。物語の筋も魅力的なのですが、はっとするような表現がいくつかあります。この絢爛豪華な文体は、三島由紀夫的であるともいえる。家柄や才能に恵まれながらも、かなわない恋に落ちていく様子は、さながら「豊饒の海」の「春の雪」といったところか。

物語は「君」と呼ばれる椿文緒という若い女性が、父カヲルの墓を訪ねた後、血のつながらない姉で盲目となったアンジュの家を訪問するところからはじまります。アンジュの話から、父カヲルの父(祖父)である短命な音楽家の野田蔵人、さらにその父であるJB(ベンジャミン・ピンカートン・ジュニア)、そしてまたさらにその親として蝶々婦人の愛人であるベンジャミン・ピンカートンまで歴史を遡っていく。それぞれが不遇の生涯のなかで、かなわない恋に落ちる。歴史を越えた恋の物語が描かれていきます。一方で、友人である蔵人の死後、彼の妻を愛して彼女を失い、息子カヲルを養子に迎えるシゲルの物語もある。

小説には「無限カノン」という副題がついているのですが、カノンから想像するのは、パッヘルベルのカノンです。そもそもカノンとは"規則"を意味するギリシャ語とのこと。音楽用語については詳しくないけれど、対位法のような技巧が使われて、同じ進行のなかで少しずつ変奏していくのがカノンではないか。この物語においても、世代を超えて、かなわぬ恋の物語が繰り返し変奏されていきます。

あとがきには、「自分にしか書けない恋」の物語を書こうとした島田雅彦さんの決意と覚悟が書かれていて、小説と同じぐらいの感動したのですが、この想いは通俗的なコンセプトを超越していると思いました。それこそ小説に「恋」をするひたむきな作家の姿がある。

次の部分を引用します(P.495 )。


忘れられた恋がひとつ、またひとつ、盲目の語り部によって、物語られる。歴史は恋の墓場なんだろうか? それとも、恋はなかったことにするために、歴史はしるされるのだろうか? しかし、戦争も政治も陰謀も全て、恋と結びついている。

この言葉は小説中の次の言葉と呼応します

アンジュはひとつの物語を終えると、必ず君に念を押す。
――戦争も政治も陰謀も全て、恋と結びついているのです。でも、歴史は恋を嫌う。本当は恋と無縁の歴史なんてありはしないのに。

恋は、なかったことにはできない。生まれてしまった恋は、人生にとって戦争と同等の歴史のひとつのページを記載するほどの意義があるものです。この小説のなかで語られる恋は、プライベートな物語であると同時に歴史につながっている。茂木健一郎さんは解説のなかでは、「巨(おお)きな物語」に接続された「私秘的(プライベート)な愛」が指摘されていて、非常に興味深いものがありました(P.501)。


恋に欠かせないものは他者である。国家もまた、他者という鏡を通して自分を認識する。

国家間における戦争という憎しみも、他者(他国)に対する嫉妬や恋から生まれた、国家レベルの感情の闘争なのではないでしょうか。世界は、どのようなレベルであれ、人間によって営まれているものである以上、ちいさな(プライベートの)物語も、巨きな(パブリックな)物語も、同じ人間の情念という根源に接続される。恋の発生から消滅までの過程は、人間の歴史と等しい。だから恋の年代記(クロニクル)を説くことは、歴史を説くのとそう遠くないところにあるのではないか。

小説の中では、マッカーサー元帥の愛人として、彼の日本に対する狂気をおさめるための人柱として人生を投げ打った女優の松原妙子が象徴的です。若い蔵人は、その松原妙子に恋をする。そして彼女をいちどきり奪ってしまう。それは恋ではありながら、テロリズムのような危険も伴う。ただし、その恋は一度だけの成就を得て、終わってしまう。

理屈っぽくなってしまったのですが、恋は理屈ではありません。情動に動かされている。けれども作家である島田雅彦さんは情動をクールに制御して、狂気と冷静の狭間で言葉を綴っている。そのあやういバランスが心を揺さぶります。たとえば、こんな言葉(P.48)。


――許されない恋ってどんな恋ですか?
二人の恋がどんな顛末を迎えたのか知る由もない君は、そんな直球の質問を投げかけるしかなかった。
――普通、人はそれほど真剣に恋はしないものよ。恋に狂うなんて自殺行為だから。恋は遊戯だ、娯楽だって見切ることで、人は大人になってゆくのよ。大抵の人は許される恋しかしない。祝福されない恋というのはあっても、結局は許されて、認められるの。でもカヲルの恋は――
アンジュ伯母さんはそこでいい澱み、手探りで君の手を握ると、声を低めて、呟いた。
――カヲルの恋は無理やり引き裂かれたのよ。だから、カヲルは諦め切れないの。

恋という感情を持続させるものは、必ずしも前向きなものばかりではありません。フィジカルなものだけでもない。もう触れることができない肉体が逆に永遠の感情を想起させることもあります。身体的なものよりも観念的な恋のほうが手に負えないかもしれない。

カヲルの祖父JBは、子供を生んで死んでいった妻・那美を火葬にした後で、骨になった那美に次のように囁きます(P,269)。


私自身が君の墓になってやろう。君は死んだが、恋はまだ生きている。

この「死」に関する言葉は、次のような言葉にもつながっていきます。蔵人の育ての母である、ナオミがいまわの際に蔵人に伝える言葉です(P,305)。


――棺桶には一人しか入れない。でも嘆くことはない。死者は夢の中の人と同じ成分でできている。いつでも会いにおいで。

死は有限のためにあるものではなくて、「いつでも会いに」いける無限をつむぐためにある。

肉体というものは、いつかは終わりが訪れるものです。しかし、魂=恋に終わりはありません。しかしながら、許されない恋の相手を死者と同様に、あるいは夢の中の成分として永遠にその魂を存在させることは、狂気です。現実に存在する相手ではなく、観念的な誰か、あるいは言葉化された対象に恋することかもしれない。その恋には終わりがありません。なぜなら身体性を持たないからです。

大きく視点を展開させてみると、それは次のような部分とも関連するのではないか、とぼくは考えます(P.201)。音楽家であった蔵人の息子、カヲルは美しい声を持っていて、音楽に傾倒していた。けれども、アンジュの友人である不二子さんに恋をして、声変わりをした頃に、音楽から詩作に方向を変える。詩を作ったことが彼の人生を変えてしまったとアンジュは言います。


――そう、不二子さんが悪いのよ。
――悪いって何がですか? 詩を書くことが?
――そうよ。カヲルは両親の言う通り、音楽だけをやっていればよかった。そうすれば誰も傷つかずに済んだ。詩を書き出したとたんに、カヲルは危ない世界に飛び出してしまったんだから。カヲルは詩の犠牲になったようなものよ。

音楽は身体的なものです。何よりもビート(律動)は身体を揺らしたり、鼓膜を通じて振動を脳に伝えます。しかし、記号であるところの言葉は、心をふるわせるものであったとしても身体性を持ちません。音楽は、空間のなかで減衰していく。けれども、言葉という情報は損なわれることなく永遠に残る。

いま、ぼくが書き綴っている言葉も半永久的に残ります。ぼくの記憶や身体は失われたとしても、書かれた言葉は残っていく。明るい気持ちも残るけれど、行き場のない暗い想いも永遠に残る

ただ、残しておきたい想いがあります。カノンのように少しずつ変奏を繰り返しながら、時代を超えて語りつづけていく言葉もあるような気がしています。3月9日読了。

※年間本100冊プロジェクト(8/100冊)

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2007年3月 7日

build to think(プロトタイプ思考)。

デザイナーではないのですが、デザインに関心があります。

けれども、さすがにプロではないので、さくっとデザインできません。昨夜も、このブログのタイトル画像をこつこつと作っていたら、夜更かしをしてしまいました。アドビのInDesignぐらい使えるとかっこいいのですが、ぼくのお仕事は企画業務なので使えるツールといえばPowerPointぐらいです(とほほ)。

そんなわけで、タイトルのブルーの鳥は、PowerPointのフリー描画機能を使ってマウスで描きました。しあわせの青い鳥でしょうか。最初はクロだったのですが、さすがにカラスじゃまずいだろう、と(苦笑)。それにしても音楽もイラストもマウスで作るので、マウス職人の道を究めようかと思ったり思わなかったり。

デザイン関連の本で昨日購入したのは、「デザインの知(Vol.1 2007)」です。

4046216212デザインの知 (vol.1(2007)) (デザイン哲学叢書)
降旗 英史
角川学芸出版 2007-02

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表現はもちろんデザインの背後にある考え方や哲学に関心があり、書店で興味を惹かれました。ついでにこの本は、すべてのページにおいて、左側に日本語、右側に英語という形でバイリンガルで構成されています。デザインだけでなく英語も学びたい、という欲張りなぼくには、一石二鳥の本でした。ちなみに英語に関していうと、最近はまず英語のブログを読もうと思っています。茂木健一郎さんの「the qualia journal」は必ず読んでいます。

「デザインの知」のなかでは噴水アーティストの杉原有紀さんの話が面白かったですね(杉原さんのホームページ)。いずれまた紹介してみようと思いますが、ちょっとだけ触れておくと、杉原さんはウォータードームという噴水アートを展開されています。芸術の道に進むきっかけとなった杉原さんご自身の水の体験も書かれていて、ぼくの幼少の記憶を手繰りよせるものとしても共感できました。VR(バーチャルリアリティ)の見地から、水を「マルチモーダルな物質」と位置づけるのも興味深い。マルチモーダルとは「複数の感覚に訴えることを意味する」そうです。

最近、スローリーディング&読む冊数を制限して、じっくりと本と関わる方向に軌道修正しようと考えてもいるのですが(つまみぐい的に本を読むことは、読書家として誠実さに欠けるのではないかと思うようになりました)、もうすぐ読了する「デザイン思考の道具箱」も非常に示唆に富んだ本です。

SAPとIDEOの共通点

「デザイン思考の道具箱」では、いままで軽視されがちだったデザインにおける哲学の重要性について解説されていて参考になります。その一方で、現場を観察することでインサイト(洞察)を発見する、フィールドワークの手法も重視されています。

「プロトタイプ思考(P. 144)」の章は、とても参考になりました。

この章を読んで、スタンフォード大学のDスクールは、ERP(Enterprise Resource Planning:企業の経営資産を効率的に運用するためのシステム)大手ベンダーSAPの創業者ハッソ・プラットナーから多額の寄付を受けているということを知りました。デザインコンサルティング会社IDEOのアプローチとERPのシステム開発のアプローチが似ていることをプラットナーが知って驚いた、ということを契機に寄付が進展したようです。

SAPとIDEOのアプローチで何が似ているかというと「デザイン作業の途中で顧客の反応を探っている点」とのこと。

ここで言うデザインとは、IDEOの場合はプロダクトデザインなど視覚的なデザイン(表現)だと思うのですが、SAPの場合はソフトウェアデザイン(設計や計画)でしょう。しかしながら、異なるデザイン領域であっても顧客を巻き込んでデザインしていく手法に類似点がある。

プラットナーはSAPの「SAPPHIRE'04」でIDEOに対する共感的な発言をしたようですが、IDEOの提唱した「クイック&ダーティプロトタイピング」と呼ぶ手法を非常に高く評価したそうです。

コンセプトや仕様を練りに練って時間をかけて制作や開発を行い、さあどうぞ、と納品したときに、これは違うんだけど・・・とお客様からひとこと言われたら、その時点でアウトですよね。それまでの時間もコストも無駄になります。しかし、お客様とともに試作品を検討しながら改良していけば、最終形はお客様の求めているものに近くなる。

顧客を巻き込んで開発していく手法は、ベータ版をとりあえず公開してユーザーの声を聞き取りながら改良していくことに近いかもしれません。多くのネット系ベンチャーのアプローチでは一般的ですが。

つくりながら考える技術

プロトタイプ思考とは、簡単に言ってしまうと"つくりながら考える"ことです。この方法が重要であると奥出直人さんはたびたび言及されています。まず、試作品を作る。その試作品について議論や検討しながら改良を重ねていくことで、「機能」と「見た目」を洗練させていく。以下、引用します(P.145)。

プロトタイプをつくる目的は、クライアントや上司を説得することではない。つくることで考える=build to think ためである。これは、考えたらまずつくってみるということである。つくることで考え、つくりながら考える。

ところが、このプラクティスが案外できないそうです。というのは、考えてから作る、という方法が一般化している。まずは準備周到にコンセプトを磨き上げ、それから作る。コンセプトが不完全な場合はまだ作るべき段階ではない、という考え方があるわけです。

一方で、自分では何もデザインしないくせに評論するときだけ元気になる。そんなひとも結構多いのではないでしょうか。ぼくもそのひとりかもしれないのですが(苦笑)、傍観者として口だけは達者なひとたちです。そういうひとは自分の手を汚すことはしない。自分ではつくらずに、他人のつくったものだけを論じる。けれども、自らがつくって失敗することが大事であると述べられています(P.146)。

何かアイディアやコンセプトができると、その本質を議論するひとがほとんどである。それではいけないのだ。まずつくってみる。そこが何よりも大切なのだ。つくったものはたいてい失敗する。しかしその失敗から多くを学んで素早く成功に結びつける。これがプロトタイプ思考である。失敗することでコンセプトを洗練させていく方法といってもいい。失敗からこそ学ぶことができる。つくらなければ失敗しない。

次のような部分も頷けます(P.148 )。

イノベーションの実践を教えているときに頻繁に観察される現象なのだが、新しいモノのコンセプトをつくると、いきなりそのコンセプトの詳細や有効性に関しての議論を始める人が多い。また実際にコンセプトを提案した者でなく、コメント好き、批評好きのメンバーが議論を引っ張っていく傾向もある。

この部分、非常に深いと思いました。手を動かさずに発想すると、机上の空論になりがちです。クリエイター/評論家のように領域に線を引いてしまうと安全ですが、これからの社会で求められているのは、手を動かしながら考えられるひとなのではないでしょうか。一種のプレイングマネージャー的ともいえます。

ぼくは歩くと思考が回転することがよくあるのですが、手を動かすことでも思考を促進できるらしい。こんなことも書かれていました(P.168)。

手を動かしていると同時に頭が活性化してくる。手で考えているのである。哲学的にいうとエンボディメント(embodiment)ということだが、楽器でもゴルフクラブでも同じで、身体の延長になっているときに、いろいろなことを思いつくのである。

そんなわけで、ぼくもヘタクソでいいから手を動かそうと思い、ブログの鳥ロゴをデザインしてみました(苦笑)。難しかったなあ。いやあ、デザイナーさん、すごいよ(しみじみ)。頭のなかにイメージがあっても、なかなか描けないものですね。

ブログ、音楽、子育ても同じかも

ブログにおいても、このプロトタイプ思考は使えそうです。とりあえず立ち上げて、部分的に改良をしていく。ぼくも昨日、タイトル画像を変更しましたが、作ってみて表示させて削除して作り直してまた貼って・・・という作業の繰り返しでした。プレビューという画面はまさにプロトタイプを確認する画面ともいえます。印刷では校正にあたる確認作業が、Webではもっと簡単にできるわけで。

自作曲の公開などの音楽に関しても、インターネットであれば簡単なので、とりあえず作った曲をアップロードできます。CDというメディアで配布するのであれば焼き直しはできないので、完成品が前提条件になる。しかしネットであれば、音楽のバージョンアップができます。ぼくも「rewind」という曲を一度公開後に手直しをしたのですが、現在さらに手直ししてmxd3(3回目のバージョンアップ)を作りたい気分です。ただ、この方法の問題点は、あまりにも不完全な段階で公開できるので、完成度を高めることがおざなりになってしまうこともある、という点でしょうか。

子育てにもプロトタイプ思考は応用できそうだと思いました。親として完璧な教育論を持っているひとには問題ないと思うのですが、多くの親たちは、親になっちゃったけどいったいどうすればいい?(おろおろ)という状態が多いのではないでしょうか。ぼくもそうでした。

けれども完璧な教育論を最初から持っている必要はなくて、子供といっしょに作っていけばいい。生成する発展途上の教育論でかまわない。テンプレートとして一般的な教育論を下敷きに借りて考えてもいいと思うのですが、子育てには一般論では対処できないことも多いですよね。だから、カスタマイズされた独自の子育て論でかまわないわけで、それは完成されている必要はない。現実に役立つ部分だけあればいいと思う。

ぼくらは不完全な生き物です。準備が完全になってから何かをしようとすると、時間に乗り遅れてしまう。見切り発車ぐらいでちょうどいい。

そもそも完璧な人間というものはいないわけで、人生そのものが途方もないプロトタイプ(試作)と改良の連続なのかもしれませんね。あっちを削ったり、こっちを出っ張らせたり、自分という試作品をいじりながら生きていくのも悪くないものです。その結果いびつなひとになってしまったら、それもまたよし、ということで。

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2007年3月 5日

グエムル-漢江の怪物-

▼Cinema07-008:怪物もすごいが、人間のドラマもすごい。韓国ってすごい!!

B000JJ5FZWグエムル-漢江の怪物- コレクターズ・エディション
ソン・ガンホ ピョン・ヒョボン パク・ヘイル
ハピネット・ピクチャーズ 2007-01-26

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圧倒されました。びっくりだ。少しくすんだ感じの映像のなかで、CGで描かれた怪物がまるでほんもののように動き回ります。こわー。そもそも韓国映画では、「オールド・ボーイ (HD-DVD)」「親切なクムジャさん プレミアム・エディション」の暴力的かつ耽美的な凄惨な映像、そしてなぜかミスマッチだけれどコミカルな演出に打たれまくったのですが、この映画もその流れを踏襲している気がしました。


漢江に毒薬を流したことにより、サカナが突然変異を起こしてとんでもない怪物になります。漢江のほとりで菓子やラーメンを売っている家族が主人公なのですが、のどかな休日の風景からはじまります。おやー橋のところに何かいるぞ、あれは何かな、あっ水のなかをこっちへやってきた、餌やってみよう、わーい、などという牧歌的な風景から急変して、どっかどっか怪物が堤防を走ってきたかと思うと、ひとを薙ぎ倒し、食らっていく。


逃げ惑うひとたちで一気に川辺はパニックの地獄絵となるのですが、怪物を追いかけて走っていっちゃう主人公に対して、ああ、現実にあんなものが現れたら追いかけちゃうかも、と思いました。ついでに娘の手をつないで逃げていたかと思ったら、人違いだったというとほほな場面もリアル。怪物にさらわれた娘のために、頭の悪い父と親戚一同が奮闘します。怪物との闘いが熱い。


なんというかリアルなんですよ(その一方で、細部はつじつまがあっていないかもしれないのですが、勢いで観てしまう)。トム・クルーズの「宇宙戦争」をみたときにも宇宙人に侵略されるときのリアルさを感じたのですが、怪物があらわれたのに日常的なところに現実感があります。怪物に襲われたひとたちの葬儀が体育館で行われているところとか、アメリカが細菌部隊で介入してくるところとか、それに対してデモが起きるところとか。


そして親戚のつながりもリアルです。年老いた父(妻に逃げられた)、その長男カンドゥ(頭が悪い)と怪物にさらわれる中学生の娘ヒョンソ、大学へ行ってフリーターの叔父、アーチェリー選手の叔母というような構成なのですが、それぞれのキャラクターが立っていて、人間のドラマも深い。


しかしながら、韓国映画は、純愛ものよりもハードなアクションもののほうが絶対的にすごいのではないでしょうか。怪物はもちろんちょっとグロテスクな場面が多くて閉口もしますが、まいりました。降参です。3月5日観賞。


公式サイト
http://www.guemuru.com/


■The Host trailer



*年間映画50本プロジェクト(8/50本)

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2007年3月 3日

DTM×掌編小説:リワインド。

春めいてきました。外出したくなるような陽気ですが、長男くんは発熱、次男くんは喘息、奥さんは花粉症という感じで、外出がままならない状態です(泣)。体調が回復してぼくは元気なのに。

最近は毎週、趣味のDTMで創った新しい曲をブログで公開しているのですが、音楽関係のインスピレーションを感じていて、ぼーっとしていると勝手に音が聴こえてきて困った状態です。そんなわけで、金曜日の夜から土曜日にかけてまた新しい曲を創りました。今回は曲×掌編小説というハイブリッドなスタイルで紹介してみたいと思います。ほんとうは映像を付けたいのですが。

春めいてきたということで、今回、創作活動をしながらイメージしたのは卒業と再会です。3月になると卒業式のシーズンかと思います。それは別れのシーズンでもあるのですが、また同窓会などで再会できる機会もある。同窓会といえば、最近「ゆびとま」のサイトがいろいろと問題もあったりしたことを思い出しますが(苦笑)、古い知人に会うのはとても大切な時間だと思います。そんなノスタルジーと貴重な時間を音にしたいと思ったのですが、まずは曲を創りながらイメージした世界観を掌編小説にしてみました。こんな感じです。

自作DTM×ブログ掌編小説シリーズ01
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リワインド。
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作:BirdWing

ふたりは海のみえる田舎で育ち、やがて高校を卒業する時期を迎えた。

少年は背だけは高かったけれどもどこか頼りない感じで、いつもうつむきがちに文庫を読んでいた。服装といえば、洗いざらしのジーンズにTシャツあるいはオフホワイトのシャツばかりが多かった。少女は3つ年下の妹を持つ地元では伝統のある企業家の長女として大切に育てられ、真っ黒に日焼けしていた。少しだけわがままだった。

彼等にも名前はある。名前はあるのだが、いま名前には触れないでおこう。ふたりはどこにでもいる少年と少女であり、名前は特に重要ではない。少なくとも、この物語のなかでは。この物語はありふれたささやかなエピソードのひとつにすぎないのだから。それはまだ携帯電話もメールもなかった遠いお伽話のような昔のできごとである。

少年は都会の大学に進学を決めた。薬学の道に進みたかった。少女は高校を卒業すると、地元の短大に進学しなければならなかった。彼女も彼と同じように都会の大学に憧れたのだが、両親の許しを得られなかったからだ。少女はそのことで3週間はふくれて両親と口をきかなかった。彼女も頑固だったが、その彼女を生んだ親はもっと頑固だった。親には勝てない。結局のところ諦めて仕方なく地元の(地味な)短大への進学を決めた。

むこうに行ったら手紙を書くから。夏休みや冬休みには帰省するし。少年は言った。

ふん、どうかしら。並んで歩く春のおだやかな海辺の突堤で、彼女は彼の方を見ないで先を急いだ。楽しいことがいっぱいありそうね、きれいなひともいそうだよね、都会だもんね、こんな田舎とは違うよね。自分で言った言葉に悔しくて傷付いて、少女は泣きそうになった。

関係ないよ。

ぽつりと少年は言う。関係ないよ、じゃなくてもう少し言うことないのかね、ボキャブラリーが貧困なやつ。本ばっかり読んでるくせになんなのよ。彼女は心のなかで毒づいた。

そうしてふたりは黙って海辺を歩いた。陽射しが海に反射して眩しかった。しかし、言葉は少なかったけれども、少年はほんとうに彼女のことを大切に思っていた。どんなときにも。変わらない気持ちで。

やがて上京して大学に通いながら、彼はちいさな書店でアルバイトをして(レジが暇なときにはやっぱり文庫を読んで)、毎月、彼女に手紙を書いた。といっても彼は文章を書くのが何よりも苦手だったので(本を読むことと文章を書くことは必ずしも比例しない)、必要最低限のことしか書かなかった。

昨日食べた学食のメニューのこと、いま読んでいる本のこと、老教授の厳しい講義などなど。

少年から毎月のように送られてくる必要最低限な手紙を読んで、少女は苛立った。どうしてきみが好きだとかそういうことのひとつも書けないのかね、あいつは。行間から必死に彼の生活を読み解こうとするのだけれど、右上がりの万年筆の筆跡以外には何も読み取れない。彼女はサークルに入って新しいボーイフレンドを作った。そしてすぐに別れた。そのあいだにも、少年は手紙を送りつづけた。学食、本、老教授などなどの繰り返し。彼女は一度も返信しなかった。好きだ、のひとことでも書いてくれば返信してやる。そんな意地をはっていた。

やがて1年が経過して、ふたりの高校の同窓会が行われることになった。

夏は海外旅行に、冬はスキーに出かけていて、すれ違いばかりで彼と会う機会のなかった少女だが、彼も同窓会に参加するということを聞いてなんとなく落ち着かない。その年は雪が降らないあたたかい年で、サクラの花もちらほらと咲きはじめていた。青空に透けてぼんやりとしたサクラを見上げながら、彼女はため息をついた。

同窓会の日、少女はボストンバックを用意した。そしてその袋のなかに、たくさんの封筒を詰めた。

詰め込んだのは、少年に出せなかった手紙だ。書いたけれども出せなかった返信の数々をボストンバックに詰め込んで、よいしょと担ぐと、自転車に乗った。あいつにこれを突きつけてやる。手紙のバクダンを自転車のカゴに入れると、ハンドルを握って思い切りペダルを漕いだ。

木漏れ日のトンネルの下を潜り抜け、新緑の道を走り、風に巻き上げられた前髪を押さえながら、全速力で駅までの道を急ぐ。駅で少年と待ち合わせていた。1年ぶりに彼に会う。笑顔で会うことができればいいんだけれど。風景をどんどん後ろに追いやりながら、少女は思った。自分が前進すると風景は後退するのね。そして呟いた。

わたしって、いま、世界を巻き戻していないか?


<了>

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そして、趣味のDTMで創った曲は以下です。

■rewind(3分7秒 4.29MB 192kbps)※3/4ミックスダウン修正





作曲・プログラミング:BirdWing

まったく上記の小説のようなイメージはないかもしれませんが(苦笑)。DTM的にはここ数ヶ月で創ってきたアプローチをそのまま踏襲しています。Sigur Rosテイストを維持しつつ、エレクトロニカな感じ。どちらかというと今回はポップスをイメージしていて、リズムとしてはハウスでしょうか。SONAR付属のGroove Synthを中心にリズムを創っています。コード進行はひとつしか使っていません。同一進行のなかでどれだけアレンジを変えていけるか、ということを考えてみました。それは同一のフレームワークで多彩な発想をする、という思考方法に似ているような気がします。

ループ素材を使ったリズム、女性ボーカル素材については部分的にサラウンドをかけています。PCの出力をステレオにつないで聴いてみたところ、ものすごくサラウンドがかかりすぎて、スピーカーの後ろから音が出てくる感じで若干気持ち悪さも感じました(苦笑)。立体的な音像は大切ですが、やりすぎないほうがいいのかも。

曲と小説とどちらが先かということはなくて、曲を創りながら、いまぼくが創ろうとしている曲はどのようなイメージなのだろう、ということを考えたときに、まず自転車でサクラの風景を走っているイメージがありました。これはどういう風景なのだろう、ということを曲を創りながらぼんやりと考えていたら、物語が浮かんできた。そして、SONARを立ち上げたままテキストエディタで小説を作りつつ、小説で浮かんできたシーンのイメージをまた音にフィードバックする、というようなことをやりました。

映像化するならば、監督はぜったいに岩井俊二監督で(笑)。

「リリィ・シュシュのすべて」や「花とアリス」の感じでしょうか。少し甘ったるい感じもするのですが(前者の作品はかなりせつないけれど厳しい現実を描いているとは思いますが)、岩井俊二監督の世界観でぼくも曲を創っていました。大好きな映画監督のひとりです。

B000066FWUリリイ・シュシュのすべて 特別版
岩井俊二 稲森いずみ
ビクターエンタテインメント 2002-06-28

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B0001AE1X6花とアリス 特別版
岩井俊二
アミューズソフトエンタテインメント 2004-10-08

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リワインド(rewind)という言葉で思い出すのは、テープで音楽を聴いていた頃に、カセットデッキなどにあったボタンですね。テープがメディアだった頃には巻き戻すことが必要だった。その時間がもどかしくもあったのだけれど、のんびりした時代だったのかもしれません。いまiPodなどでは楽曲の検索は必要だけど、巻き戻しは必要ではありません。人間の記憶、というか過去も巻き戻しできるといいのですが。

さて、曲が完成してほっとしてビールを飲んでいたら睡魔に襲われ、夕飯も食べずに眠ってしまいました(苦笑 奥さんに怒られそうだ)。日曜日は子供たちと遊ぼうと思います。そんなわけで日曜日の早朝(というか土曜日の深夜?)3:25に起き出して、書きかけだった日記を更新しています。

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■3/4 追記
曲作り+小説書きにくたびれてしまって、もういっかという感じでアップロードしたのですが、音のバランスがよくないな、と思って聞きなおしていたところ重要なミスを発見。作成した曲のラストのパートでベースをすべて抜いていたことに気付きました(苦笑)。どうも音が薄いと思ったらベース入っていなかったか。そんなわけで、修正版をアップロード。修正にあたって若干音も加えたりしています。でも、まだ部分的に納得がいかないですね。きりがありません。

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2007年3月 2日

The Album Leaf / In A Safe Place

▼music07-016:Sigur Rosメンバーも参加、しずくの瑞々しさ。

In a Safe Place
The Album Leaf
In a Safe Place
曲名リスト
1. Window
2. Thule
3. On Your Way
4. Twentytwofourteen
5. Outer Banks
6. Over the Pond
7. Another Day [Revised]
8. Streamside
9. Eastern Glow
10. Moss Mountain Town

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買う予定はなかったんですけど(泣)。会社の帰りに、ついCDショップに立ち寄ってしまい(カードのポイントが溜まっていたこともあったので。言い訳ですが)、このアルバムと目が合ってしまって購入しました。音楽に対する欲求が、止まりません。試聴したところ、これ以外も購入したいアルバムがまだ数枚あります。かろうじて我慢したのだけれど小遣いが...。

記憶が正しければ、かつてネットで試聴したところとても関心を抱いたアルバムでした。けれども残念なことにアルバムタイトルを失念。あのアルバムなんだっけかなーとずっと気になっていて、記憶を辿ろうとしていたのですが思い出せませんでした。

けれども本日、試聴コーナーを一通りまわったあとで、じゃあ、AからZまで棚にあるアルバムを確認していきますか、ということで順に店内を散策してみたのですが、このジャケットの前で足が止まりました。ん、これは何だろう、と。手にとって確認してみると、「主要な参加ミュージシャン」として、「ヨン・トール・ビルギソン(ボーカル、アコースティックギター)」「キャルタン・スヴェイソン(ギター、グロッケンシュビール、アコーディオン、ベル)」「オリ・バール・ディーラソン(ドラムス)」というSigur Rosのメンバーが。思わずバーコードをかざして試聴できるマシンで確認したところ、おお、これだ!と。会えてよかった(感動)。

そんなわけで感慨もひとしおです。エレクトロニカなんだけれどアコースティックな音が染みます。まさに最近、聴いているCDの延長線上にあるアルバムでした。ただ、どちらかというと、無機質なエレクトロニカというよりも、あたたかみがある。それはヴォーカルが入っていたり、生の楽器が使用されているということにあるのかもしれません。そして控え目に散りばめられているノイズもいい。

アイスランドの近くにある「スイミング・プール」を意味するシガー・ロスのスタジオSundlauginで録音されたようですが、なんとなく瑞々しく、水滴がしたたり落ちるような印象もありました。弦の音にも癒されます。ほんとうにこういう傾向の音ばかり聴いているのですが、いまのぼくにはぴったりの音楽でした。もしかすると、自分でそんな音楽を引き寄せているのかもしれない。3曲目「TWENTYTOWFOURTEEN」は微妙にHer Space Holidayを思い起こされるボーカルでした(ユニゾンで1オクターブ上のボーカルを重ねるところとか)。10曲目「MOSS MOUNTAIN TOWN」などのエレピ(あるいはグロッケン)的な音は、そのままSigur Rosです。ジャケットのブルーも音楽にぴったりでいいですね。3月2日観賞。

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YouTubeを検索するといくつか映像が掲載されていました。そのなかから、このアルバムの曲をピックアップしてみます。

まずは「Streamside」。こういう音にぼくは弱い(泣)。アコースティックギターと、チェロ、そしてアコーディオンの素朴な音が心に染みます。印象としては、Tamas Wellsの「A Plea En Vendredi」というアルバムでしょうか。ボーカルは入っていませんが。

■The Album Leaf - Streamside

妖精というかおかしなクリーチャーが登場する「On Your Way」。これはなんとなくHer Space Holidayな雰囲気です。

■The Album Leaf: " On Your Way "

*年間音楽50枚プロジェクト(16/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年3月 1日

有料と無料のあいだで。

RSSリーダーなどで情報収集するようになって、IT関連の雑誌をすっかり買わなくなりました。ネットで情報収集をすれば無料だというメリットもあるのですが、やはりリアルタイムで情報が手に入るのがうれしい。しかしながら、PCの画面にしがみついて情報を読むのにせいいっぱいで、雑誌まではとても・・・と、お腹がいっぱいな感じもあります。

ある程度の情報をさばくスキルが向上すれば、大量の情報の海にのまれても大丈夫なのかもしれませんが、情報が多ければ多いほどノイズも多くなる。情報疲れがひどくなります。何ごとも、ほどほどがよいようです。そんなわけで最近は、RSSリーダーに登録するサイトも厳選し、さらに自動更新をかけないようにしました。読みたくなったときに更新する。情報に主導権を預けるのではなく、自らが情報を取りにいくという姿勢でありたいものです。

さて。雑誌を読まなくなったとはいっても、かなり前になるのですが(いつだったか忘れた)、月間アスキーの4月号を購入しました。久し振りという感じです。

B000NCJLI2月刊 ascii (アスキー) 2007年 04月号 [雑誌]
アスキー 2007-02-24

by G-Tools

何ヶ月どころか何年ぶりぐらいのPC関連雑誌の購入ですが、結構中身が濃くて楽しめました。が、いま思うと、広告が少ないから中身が濃いと思えたのかもしれない(苦笑)。あるいは記事体裁の広告に姿を変えて、記事のようにみえるけれども実は企業から広告費が出ている、のかもしれませんが。

月間アスキー4月号の特集は、特集1「ケータイ大戦略」、特集2「買わせる仕掛け2.0」です。もうずいぶん購入していなかったので記憶が曖昧なのですが、以前はPC雑誌といえば、パソコンやプリンタ、デジタルカメラなどハードウェア一色ではなかったでしたっけ。なんとなくビジネス雑誌と間違えるような内容で、あれ?○○アソシエ読んでたんだっけ?と間違えそうな気もします。

雑誌の内容が変化していることから、世のなか全体が製造からサービス主体に動いている、ということも読み取れそうです。

と同時に、ぼくはフリーペーパーのファンなのですが、地下鉄の駅でGOLDEN min.10号もゲット。

gm10.jpg

怖いおじさんが睨んでいるなあ、と思ったら三浦友和さんなのでした。三浦友和さんも、もう50代ですか。インタビューのなかで次の言葉に重みがありました。

「もうすぐ死ぬなと、50歳になったときに思いましたね。人生の残り時間が少なくなったという意味ですが、生きたとしても、頑張っても、あと30年そこそこ。仕事はあと10年かなと。あくまでも僕の場合ですが、体力・気力・思考力、すべての点でまわりに迷惑をかけずに仕事に専念できる最後の10年間といった位置づけでしょうか。ま、この1月に55歳になったから、還暦を迎える頃には、『仕事も70歳までいける』とか言ってそうですけど」

けれどもこの覚悟によって、仕事を「真剣に考えるようになりました」と変化が生まれたそうです。人生は有限である、と考えると、一瞬もムダにできない。ぼーっとしていれば10年ぐらいあっという間に経ってしまうわけです。有限である毎日を悔いのないように、覚悟して生きていたい。

今回のGOLDEN min.10号のテーマは「妻とのコミュニケーション」なのですが、この特集人気があるそうです。が、ぼくはちょっと照れて読みにくい。統計の円グラフや、夫婦関係円満度チェックなども、あんまりやりたくない(ショックな事実を突きつけられるとかなしいので 苦笑)。しかし、何も考えずにのんきに安心していると熟年離婚とかになっちゃうのかもしれませんね。ほどほどに奥さんのことを気にかけておきますか。

この雑誌のなかでは、作詞家の吉本由美さんのコラムが気に入っています。なんというか、ほのぼのします。今回は「速水もこみち」が好きだとぽろっと言ってしまって旦那さんが困惑する話なのですが、日常にそういう瞬間ってある。そんな瞬間をさりげなく切り取っていていい。

ところで雑誌といえば「月刊少年ジャンプ」は休刊になってしまったという記事もみかけました。一方で、無料のマンガ雑誌というのも登場していて、ぼくはまだ手に取ったことがないのですが、マンガ内広告のような手法も取っているらしい。いろんなビジネスがあるものです。

しかし、無料の雑誌とはいえ、最近は内容もかなり濃くなっています。有料と無料は何で区別されるのか、分かりにくくなってきている。テキストだけであれば、編集者にそそのかされて適当なタイトルでヒットを狙って書いた新書なんかよりも(ほんとうにこういう新書を買ってしまうとコーヒー飲めばよかったと思う)、丁寧に調べて見解にも唸らされるブログを無料で読むこともできます。
有料と無料のあいだで、これからメディアはどうなってしまうんだろう、などということを考えました。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

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