« 「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」茂木健一郎 | メイン | 「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」茂木健一郎 »

2007年3月31日

「歳月」茨木のり子

▼book07‐011:身体を失っても持続する愛情のかたち。

詩集を買うのは、貧乏な読書家にとっては、このうえない贅沢ではないでしょうか。というのはまず物理的に考えて、詩集には活字が少ない。活字が少ないのに本自体は値段が高い。コスト・パー・ワードのようなものを考えてしまうと、ものすごくコストが高いわけで、びっしりと文字で埋め尽くされた古典の文庫を買ったほうがよい。楽しめる時間が長いし、内容も濃い。

そんなわけで効率を追求するビジネスマンは、ふつうは詩集なんて買いません。そんなものを読むぐらいだったら、ジムで身体を鍛えたり健康管理に費やしたほうがよほどいい。

けれどもぼくは最近、プライベートでは効率的ではないものを追求しようと思っているので、ちょっとだけ贅沢な自分の時間のために茨木のり子さんの「歳月」を購入しました。

「歳月」は、茨木のり子さんが夫の死後に夫を慕いつつ書いた詩篇を、彼女の死後にまとめたものとのこと。トビラに夫婦の写真が掲載されているのですが、医師であったという旦那さんはかっこいいですね。きりっとしていて、大人の雰囲気です。寄り添う茨木さんも微笑ましいものがあり、仲の良いご夫婦であるという雰囲気がモノクロの写真からも感じられました。

詩人のみずみずしい文章は、細かな雨のようにぼくらの乾いた(というか、乾いてるのはぼくだけかー)心に染み込みます。女性らしい愛情が溢れています。官能的でもあり、その解説は難しいのですが、あえて挑戦してみましょうか。たとえば「夢」。以下、全文を引用します(P.14 )。

ふわりとした重み
からだのあちらこちらに
刻されるあなたのしるし
ゆっくりと
新婚の日々よりも焦らずに
おだかやに
執拗に
わたくしの全身を浸してくる
この世ならぬ充足感
のびのびとからだをひらいて
受け入れて
じぶんの声にふと目覚める

隣のべッドはからっぽなのに
あなたの気配はあまねく満ちて
音楽のようなものさえ鳴りいだす
余韻
夢ともうつつともしれず
からだに残ったものは
哀しいまでの清らかさ

やおら身を起こし
数えれば 四十九日が明日という夜
あなたらしい挨拶でした
千万の思いをこめて
無言で
どうして受けとめずにいられましょう
愛されていることを
これが別れなのか
始まりなのかも
わからずに

四十九日の前夜、「わたくし」は夢のなかで夫に抱かれます。そのおだやかなやさしい愛撫に「からだをひらいて」夫を受け入れようとする。けれどもそのときに思わず洩らした自分の悦びの声で、目が覚めてしまう。現実に引き戻されると、そこに夫はいない。しかし肉体の存在はないのだけれど、そこにいない「あなた」の気配で「わたくし」は満たされている。

言葉で織り成される世界はひそやかなのだけれど、そこには一種の閉塞感がある。女性にとっての官能とは、この窒息するような閉塞感ではないでしょうか。男性にとっては違う。男性の官能とは、衝動的に愛するひとを貫きたい、奪いたいというような攻撃的な欲望だと思う。

それは受け止める/満たされる女性の身体と、貫く/放出する男性の身体という、身体的な機能の差異から生まれる官能の違いかもしれません。身体の違いは必然的に思考にも、言葉にも表れます。その違いを認識すること、理解できないとしても理解しようとするときに解釈の力が生まれる。

生きている身体は精神とともにあるのですが、身体が失われると精神だけが残る。これは言葉と実体の対比にも重ねられるかもしれません。実体が失われても記号としての言葉が永遠に残るように、身体が失われたあとの精神も、言葉として刻めば永遠に残る。何気ない夫の記憶の断片から生活のなかの大切な言葉を浮き彫りにしつつ、しかも湿度が高くて重たい具体的な現実から切り離して、さらりと書いてしまう詩人の感性が素晴らしい。

肉体を失っても永遠に持続する愛が、この詩集のなかには書き連ねられています。時空を超えたこの感覚および綴られたしとやかな言葉は、男性には決して書けないものではないか。

「肉体を失って/あなたは一層 あなたになった/純粋の原酒になって/一層私を酔わしめる//恋に肉体は不要なのかもしれない/けれどいま 恋いわたるこのなつかしさは/肉体を通してしか/ついに得られなかったもの」という「恋唄」、「姿がかき消えたら/それで終り ピリオド!/とひとびとは思っているらしい/ああおかしい なんという鈍さ//みんなには見えないらしいのです/わたくしのかたわらに あなたがいて/前よりも 烈しく/占領されてしまっているのが」という「占領」など、その言葉はしなやかではあるけれども、強い。

死んでしまったら何も感じないでしょう(死んだことがないからわからないのですが)。肉体が消滅しても想いは残るかもしれない、という幻想はあるけれど、現実にはきっとそんなことはありません。死んでしまえば、おしまいです。しかし、現実にはありえないことだからこそ、詩人の言葉はぼくらに響くのではないか。男性であるならば、「歳月」に書かれた言葉のように一途に想われてみたいものですね。

言葉にすることは永遠に想いを結晶化して残すことかもしれません。茨木さんが亡くなった後、甥である宮崎治さんが遺稿を整理していると、この詩集のために作品はきれいに原稿整理されて「Y(夫である安信さんのイニシャル)」の箱に入れられていたとのこと。

ひそやかに書きとめられた詩人の言葉。生前には出版をためらった文芸でありながらプライベートかつ誠実な想い。この詩集は、泣けます。3月25日読了。

※年間本100冊プロジェクト(11/50冊)

投稿者 birdwing : 2007年3月31日 00:00

« 「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」茂木健一郎 | メイン | 「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」茂木健一郎 »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/333