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2008年2月29日

新しいオンガクのために。

080229intoxicate_vol72.jpg自称フリーペーパー収集家のぼくは、街で配布されているさまざまなタダの情報誌をついつい手に取って持ち帰ってしまうわけですが、TOWER RECORDSで配られていたフリーマガジン「intoxicate vol.72」で面白いものをみつけました。

ちなみにvol.72の表紙は3月22日から公開される「マイ・ブルーベリー・ナイツ」という映画のサントラ盤です。ウォン・カーウァイ監督でノラ・ジョーンズが主演。ジュード・ロウも出ています。

B00118YOG6マイ・ブルーベリー・ナイツ オリジナル・サウンドトラック
サントラ カサンドラ・ウィルソン ハロー・ストレンシャー
EMI MUSIC JAPAN(TO)(M) 2008-02-14

by G-Tools

■マイ・ブルーベリー・ナイツ 公式サイト
http://www.blueberry-movie.com/

ウォン・カーウァイ監督の作品では、ぼくは「恋する惑星」「花様年華」「2046」と観ているのですが、独特の静けさとせつなさと耽美がある世界観ではないかと思いました。「花様年華」では、トニー・レオンが大人の雰囲気を醸し出していてよかった。あんな渋い男性になれたらいいのですが。

それにしてもこの表紙、気持ちよさそうですね。無駄に拡大。

080229_myblueberrynights.JPG

あああああ(照)。えーと・・・ちゅーしたくなるのでやめとこう。

さて。表紙もいいのですが、ぼくが気になったのは次のツールでした。YAMAHAがメディアアーティストである岩井俊雄さんと6年の歳月を費やして開発したというTENORI-ON。おおお?これは!

080229_intoxicate_tenorion1.JPG

先日「コントローラーという楽器」で書いたmonomeじゃないですかね。16×16のLEDによって構成されていて、光でナビゲーションされるのも似ている。調べてみたところ、2007年12月、岩井俊雄さんのデモンストレーションの記事をみつけました。CNET Japanの「現在の楽器インターフェースは最適解か?――岩井俊雄氏、TENORI-ONを披露」から引用します。

鍵盤や弦、リードやマウスピースなど、旧来の楽器は入力が発音の仕組みと密接に関わってきた。しかしこうした旧来のインターフェースは、現代の電子楽器にふさわしいものなのだろうか? メディアアーティストの岩井俊雄氏がヤマハと共同で制作した「TENORI-ON」は、この問題に大きく迫ったデバイスだ。

つづいて、次のように解説されています

TENORI-ONは、LED付きスイッチが16×16のグリッドに集合したような形状をしていて、このスイッチを押すことで音が出る。複数のスイッチを押すと次第に複雑な音になっていき、やがてミニマルミュージック的な曲として成立していく。演奏デモ動画はYouTubeにもアップロードされている。メディアアート、あるいはガジェット的にも見えるが、今年9月にはイギリスでは実際に楽器として先行販売が実施され、好評を博しているという。

気になるデモですが、以下YouTubeから。

いろいろなアーティストがデモ演奏したり試用をされているようでした。実は2年ぐらい前から話題になっていたらしいですね。「intoxicate vol.72」の記事には、クラフトワーク、元YMOの3人、コーネリアス、嶺川貴子さん、ジム・オルーク、ビヨークなどが試用しているということも書かれていました。

ちょっと長いのですが、趣味のDTMで打ち込みストであるぼくは岩井俊雄さんについて書かれた次の部分には共感しました。

ライブ後、岩井氏からは6年間に渡ったTENORI-ON制作までの道のりが語られた。話は岩井氏が初期の音楽制作に使っていたヤマハのMSXコンピュータの話から始まる。「テレビ画面上の五線譜に音を並べて入力していた。僕は高校時代にギターなどに挫折したクチで、こうしたコンピュータがあれば、自分でも曲が作れるんじゃないかと夢を抱いた」(岩井氏)。しかし、いざやってみると楽譜の壁にぶつかったという。「とても複雑すぎて、自分で入力できるとは思えない」。その頃に出会ったのが手回し式のオルゴールだった。

そう、ぼくも楽器を弾くことに挫折した人間のひとりです。けれども作品は創りたかった。そこで現在もオルゴール職人のように、DTMのピアノロールという画面で音をひとつひとつマウスでおきながら音楽を創っています。

オルゴールでは紙テープの穴の通りに曲が演奏される。「紙テープの穴は、楽譜よりずっとわかりやすく見えた」(岩井氏)。さらに、これを逆に入れると違うメロディが流れるところに大いに興味を引かれたという。また、紙テープに穴が並んでいる様が抽象絵画のように見えてきたところから、視覚表現と音楽は融合できるのではないかという着想を得たと語る。

最先端の新しいインターフェースの背景にオルゴールがあったのが面白いですね。とはいえ、やはりテクノロジーの背景には、楽器に対する挫折とか、それでも音楽を創りたい熱意とか、そんなそんなさまざまな人間模様があるものです。ぼくはベースといえば多弦よりもやっぱり4つの弦のほうがいいと思うのだけれど、その一方でベースなのか何なのかわからないベースらしき何かも登場していいと思っています。蜂の巣みたいな鍵盤だって面白いと思うし、テルミンのような空間的な操作のインターフェースも楽しい。

ちなみに「intoxicate vol.72」には、「テノリオンとテルミン」というICC学芸員の畠中実さんの記事もあります。

080229_intoxicate_tenorion2.JPG

この記事のなかからまず次を引用します。

つまり、新しい楽器の発明とは「楽器の発明」である以上に、それによって演奏される音楽自体がいままでの音楽を刷新するようなものへと変化させられてしまうものであるという意味で、新しい音楽の発明と同義なものとなる。それは、20世紀初頭の前衛芸術運動であるイタリア未来派の画家ルイジ・ルッソロが1913年に考案した、自動車や飛行機のエンジン音、サイレンなどの音を模した音響を発する騒音楽器「イントナルモーリ」が、ルッソロの提唱した騒音芸術(アート・オブ・ノイズ)を演奏するための楽器であったように、新しい音楽の発明が新しい楽器を生み出し、また新しい楽器の発明が新しい音楽を生み出す契機となり得るということを示唆するものだろう。

興味深いです。画家が音楽を生み出したというところも面白いし、騒音楽器「イントナルモーリ」ってなんだろう・・・あっ。ググッたらあった。松岡正剛さん(おおっ)がキャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラの「未来派」という本のレビューに書かれています。中盤あたりに「イントナルモーリ」の写真があります。なんかスピーカーのオバケのようなもので困惑。

■松岡正剛の千夜千冊:『未来派』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1106.html

こういうのって聴く側の立場からすると結構困ったもので、だからアートってやつはわからないんだよね、という率直な感想を持ってしまうのですが、試みとしてはウェルカムな気がします。

ぼく自身も趣味のDTMでお決まりの曲作りに疑問を感じて(もちろん定番のポップスはそれはそれで気持ちいいんだけど)、ノイズをどう組み込んでいくということを考えはじめましたことがありました。その試みの途中でシューゲイザーなどの音楽に出会いました。エレクトロニカとしては、坂本龍一さん関連ですがクリスチャン・フェネスとかカールステン・ニコライ(このひとは建築家でもありますね)などの試みに新しい何かを感じたものです。ただ、カールステン・ニコライに関しては、ほんとうに音が無機質で、そこにはあたたかみが欠ける。

「テノリオンとテルミン」では、次のような見解もあります。

かつて岩井は、池田亮司やカールステン・ニコライのライブ演奏に触れて「肉体性の喪失」という感想を持ち、演奏者の存在が希薄な、音だけを聴くライブに対するものたりなさを表明していたことを思い出す。音楽とは演奏という行為をともなう、人の手の介在およびその技能によってリアライズされるものであるという考え方があるように、つまり《TENORI-ON》は岩井にとってコンピュータのソフトウェアのようなものではなく、それが特別な習熟を必要としないものであったとしても、より身体的な演奏をともなうパフォーマティヴな「楽器」でなければならなかった。

そんな身体性も含めて「手のり」+「音」というようなネーミングになったかと思いますが、ぼくはネットに氾濫するテキストや電子音のようなテクノロジーもどこかで身体性につながるような気がしています。創造性がどこから生まれてくるのかというのはなかなか大きな命題で、そう簡単には言及できないのだけれど、テクノロジーは人間と融合できるという夢(幻想?)を抱いています。

いや自然がいちばん、音楽はやっぱり生音だよ、という見解もあるかもしれないけれど、もしほんとうに自然な音にこだわるのであれば、ギターやベースだって工業的に人間が作り出したものだからアンプを通していてもいなくても自然な生音とはいえない。人間の身体を叩くか声を出して歌うとか、石をぶつけるとか水面をじゃぶじゃぶ揺らすとか、そんなミニマルかつ原初的なパフォーマンスに回帰したほうがいい(なんだかそれも楽しそうではありますが)。けれどもギターやベースも進化しているように、楽器や音楽にもイノベーションがあって進化してテクノロジーと融合していくのも悪くないのではないか。

ハモニカを吹くように、どこかの路地で「TENORI-ON」であるとかmonomeのような楽器をぽろぽろと爪弾く少年がいるような未来。それも悪くないと思うのは、ぼくだけでしょうか。

+++++

TENORI-ON関連のサイトをまとめてみました。

■YAMAHA 公式サイト/DESIGNサイト
http://www.yamaha.co.jp/design/tenori-on/
公式サイトとDESIGNサイトがあります。ちょっとSONYっぽい。音楽業界のSONYを狙っているのかもしれませんが。

080229_tenorion1.JPG

■TENORION開発日誌
http://tenorion.exblog.jp/

080229_tenorion2.JPG

■my.space
おお、ぼくの好きなI am Robot and Proundも使っている。
http://www.myspace.com/tenorion


投稿者 birdwing 日時: 23:07 | | トラックバック

2008年2月27日

個体と所属する意識。

「マイノリティ・リポート」という映画を先日のエントリーで取り上げたのだけれど、映画のなかで人間の個体を識別するような場面があったことを記憶しています。ずいぶん前に観たので曖昧ですが、道路を歩いていくと「○○さん、こんにちは。××の製品はいかがですか?」のように壁の動画広告から呼びかけられる。電子チップのようなもので個体が識別されて、それぞれ個別に売り込むような近未来型の広告です。

たまに洋服を買いに行って店員さんに呼びかけられるのだけでも鬱陶しいのに、ポスターに呼びかけられたら嫌だな、と思ったことを覚えていました。しかしながら、よく考えてみると現在でも携帯電話は個体識別情報を持っています。位置情報サービスと組み合わせて、そんなことを実際にやろうとしていた動きもあったような気がします。そんな広告をやられたら、ぼくは即効でサービスを解約したくなりますけどね(苦笑)。

ペットには個体識別のICタグを埋め込んだりすることがあるようですが、さすがにまだ人間では研究段階のようです。バイオテクノロジーやナノテクノロジーのような技術開発が進展すると可能になるのでしょうか。どこへ行っても追跡されるので、タグなんか埋め込まれるのは困りますよね。

個体を識別する場合には、付随的にその個体が“どこに所属しているか”という情報も付加されるはずです。個体の所属する組織などの個人情報がデータベース化される。

紐付けをあまりにも過剰にやりすぎると監視社会のようなものになりますが、生きていると好むと好まざるに関係なく所属しなければならない組織あるいはコミュニティのようなものがあります。たとえば、次のようなものでしょうか。

  • 国籍(日本)

  • 地域(都道府県など)

  • 家族、親戚

所属といっても絶対ではなくて、変えようと思えば変えられるものではあります。でも、拘束力は強い。準ずるものとして、次のようなものも考えられます。

  • 学校(在籍、卒業)

  • 職場、企業

  • ライフラインの利用(電話、ガス、水道など)

  • 銀行、保険

どこに加入しているか、などという感じ。さらにゆるいものとしては、次のような感じでしょうか。

  • 持ち物(クルマとか、家とか)

  • 資格取得

  • 嗜好品(タバコ、酒)

  • 好きなブランド(服装、飲食、家電など)

  • 趣味

  • プロバイダー

  • 加入しているブログサービス(ブロガーの場合)

  • コミュニティ、ソーシャルネットワーク

いま3段階のグルーピングのレベル、あるいはコミュニティのようなものを挙げましたが、ひとによってはどのグループに所属するかという意識の強さが違うものです。意識に強弱があるというか、優先順位があるというか、重要度のグラデーションがかかっている。

たとえば、大和魂に惚れこんで日本人であることに誇りを持っているひとの場合には、国籍に対する所属意識が高い。逆に、この企業で一生働きますという場合には企業が重要、学歴重視であれば卒業した大学の重要度が高くなります。その仲間意識が強くなる。

終身雇用制が崩壊した(って言い切っちゃっていいのかな?)現在、学歴や企業はそれほど強い力を持っていないのかもしれませんが、それでもまだコミュニティとしてのつながりは強いのではないでしょうか。目にみえないけれども連帯感や拘束力のようなものがあります。

ただ、そんな個体と所属組織についてぼくが考えておきたいのは

コミュニティは静的ではなく、動的に生成変化するものである

ということではないか、ということでした。たとえば日本といっても歴史のなかでさまざまな変化がありました。ゴーイング・コンサーンと呼ばれ、永続することが前提である企業であっても、時代に合わせて変わっていく。表面的にはとっつきにくいコミュニティであったとしても、将来的にはまったく変わってしまうかもしれないわけです。ひょっとすると「あなた(誰か)」が参加することで、化学反応のようなものが起きて、まったく違う組織になってしまうこともある。

だから面白いんですよね。

同質のものだけを求めるコミュニティはかなり脆くて、実は異質なものを迎えるコミュニティのほうが活性化していくものです。異なるものを排除する組織は短期的には居心地が良くなるかもしれないけれど、長期的には弱体化するのではないか。というのは新しい風が吹かなくなる。

26日に久石譲さんの「感動をつくれますか?」という新書を読み終えました。このなかで久石さんは、日本人はカテゴリーを重視する民族であると指摘されています。カテゴリー(あるいは所属意識)を尊重するあまり、ブレイクスルーが生まれにくい。お互いに牽制あるいは空気を読みすぎて、悪いと思っていても悪いことを指摘できないし、これはいい!ということも大きな声で言えないわけです。協調性を大事にすることかもしれないけれど、なあなあになる。

マズローの欲求段階説(解説はWikipedia)では、5段階のうちの3段階目が「親和(所属愛)の欲求」とされていて、それぞれの段階が満たすことによって上位の段階に進むことができるような解説であると認識しています。ただ、ぼくが思うのは自分探しと同等にコミュニティ探しにやっきになることもありますが、過剰に所属意識を求めると依存的な傾向が強まり、自律できないような気がする。

もちろん日本には数々のイノベーションを生み出してきた企業もあり、すべての日本人がそうだとは言えないのだけれど、ぼくはコミュニティを逸脱するような生き方もあっていいと思うし、またそういう人材をフォローしたり受け止めてあげるような社会があってこそ、創造的な何か=イノベーションが生まれるのではないか、と期待もしています。

コミュニティに所属することによって、長期的には大きな影響をもたらすものです。環境が個人に及ぼす影響は大きい。国や企業のような大きな器もそうですが、家族や夫婦ものちいさな社会も同様。

ただ、所属という考え方は絶対的なものではなく、変えられるもの、選べるものであるという意識も必要ではないでしょうか。選択するのは他でもない自分です。たとえ辛くても、自分が選んだ人生であればなんとかしようとも思う。誰かに委ねたときに、思考停止や戦意喪失して自主的に動けなくなるものです。

仕事も組織も、実は自分で選べるんだ、と思うとちょっと楽になる。がんじがらめに身動きできなくしているのは、ひょっとすると自分の意識のせいなのかもしれません。

投稿者 birdwing 日時: 23:10 | | トラックバック

2008年2月26日

マップいろいろ。

思考系の本を読んでいると、俯瞰(ふかん)という言葉がよく使われます。なんとなく難しい言葉ですが、要するに「全体を見ること(見えるようにすること)」です。フェルミ推定を中心に思考力の強化方法について解説された「地頭力を鍛える」という本を先日読んだのですが、ここにも出てきました。

たとえば地上をとぼとぼ歩いている犬には、この道の先に何があるのかわかりません。まだ目的地に着かないのかな、ぼくはどこを歩いているんだろう、と不安になる。けれども鳥になって上空から見渡せば、もう少し先に川があって、その向こうに森が広がっていることがみえる。目的地の近くにいることもわかる。

ぼくらは主観によって近視眼的にものごとを見がちです。だから、目的地までの距離が掴めずに不安になったり、苛立ったりする。けれども仮想的に鳥の視線を獲得すれば、自分の周辺よりも少しだけ先の全体を見渡せることができるかもしれない。見渡すことで自分の現在位置を把握して、目的地までの距離を測ることができます。

ぼくのハンドルBirdWingは、さまざまな知識やアートを吸収しながら現在よりも高い場所に飛び立ち、視野を拡大していきたいという願いを込めて付けました。ちょっと大袈裟だし、名前負けしてますけど(苦笑)、志だけは高く持っていたいと思っています。

気をつけたいのは、誰か他のひとを見下ろすために高い場所へと飛び立ったわけではないということです。こんなことも知らんのかーと他者を蔑んで自己満足するために空をめざしたのでは、飛び立った意味がない。そんな鳥は打ち落とされてしまえーという感じです。上空をめざしながらも地に足のついた犬の視点も忘れずに、全体と部分を行き来するような考え方のできるひとになりたいですね。

ところで、現在では人間は鳥よりも上空から眺めることができます。人間は飛ぶことはできないのだけれど、知恵で高みからの視点を獲得しました。たとえば人工衛星からの画像。GoogleマップやNASAの映像などでは、かなり高度の高い場所からリアルな地上を眺めることができます。

俯瞰のいちばんわかりやすい具体例が地図だと思うのですが、何気なく読んだ中日新聞のニュースで「利用者参加でネット地図 『オリジナル』の楽しみ」がなかなか面白いと感じました。

いわゆるマッシュアップなのですが、地図を媒介としたコミュニティというか参加型のコンテンツが紹介されています。そのうちのひとつが「ポストマップ」。ポストをみつけたらひたすらポストの位置を書き込んでいく、というサイトです。以下は、記事から引用します。

さいたま市の会社員・吉田さん(31)は、マイカーを運転中に見覚えのない郵便ポストを見かけると、車を止めてポストの場所や付近の目印をメモする。帰宅すると、さっそく「ポストマップ(ポストをひたすらマッピング)」のサイトにアクセスし、ポストの位置などを書き込む。偶然出合ったサイトだが、自宅近くや通勤途中に見つけたポストを投稿してから、やみつきに。「新しい趣味ができた。みんなで作っていく感覚が楽しい」という。

実際にサイトを探してみました。こんな感じです。

■ポストマップ
http://postmap.org/

ポストマップ

うわ、ピンで刺さっているようにポストの位置がプロットされています。現在 72,037 ポスト (全国191,423ポストの37.632 %)だそうで、まだ40%に満たないカバー率とのこと。けれどもみんなでやっきになってポストを探したら、いずれは埋まってしまうのではないでしょうか。そのあとは・・・考えないでおこう。最後のひとつのポストがみつからないということになったら面白そうですね。

確か長男くんの宿題にも、かつてポストのかたちを調べてきなさい、というものがありました。それにしても電子メールが全盛の時代。ちょっと影の薄くなった郵便ポストですが、こうやって見直してみるのもよいものです。そのうちに遺跡のような扱いになってしまうと困りますが(苦笑)。

そんなわけで「マップ」をキーワードとして地図的なものをいろいろと探していたのですが、なかなか面白いグラフィカルな画面に出会いました。まずは最近、新書ばかり購入しているぼくにぴったりの「新書マップ」。トップページの中央にある検索画面にキーワードを入れて検索ボタンを押します。

■新書マップ
http://shinshomap.info/

080226_shinshomap1.JPG

「音楽」で検索してみました。すると、次のような画面で関連テーマがマップ化されます。マップというよりも、どこか星座早見表のような感じ。関係ないのですが、星座もマップのようなものでしょうか。

080226_shinshomap2.JPG

左側のボタンを操作すると、書棚のような画面で関連するテーマの新書を背表紙で眺めることもできます。

つづいて、「あたらしい“ケンサク”体験」と銘打たれたクラウドマップ。これは、ブックマークなどを関連性から視覚的に配置してくれます。なんとなく立体的な空間を探索していくようで楽しい。トップページはこんな感じ。

■クラウドマップ
http://cloudmap.jp/

080226_cloudmap1.JPG

東京大学の研究室の成果をもとに作られているようですね。そういえばカリキュラム(シラバス)をこのような画面でみせているページがあったような。「クラウドマップとは」のページから次を引用します。

従来のタグクラウド(※1)のような平面的な表現ではなく、関連のあるコンテンツとキーワードを 同時に3次元空間に配置することを可能にしました。 これによって例えば、コンテンツの人気度を「高さの違い」で表現できます。 また、コンテンツやキーワードをそれぞれ複数の点で表現表現することで、より柔軟な表現を可能にしました。

確かに平面よりも奥行きがあって立体的なほうが、モノをかきわけて探索するイメージがあります。すべてがこのインターフェースではなくてもよいと思うのですが、セカンドライフもただリアルを模倣するのではなく、情報をモノのように扱うと面白いと思うのですが。ちなみに「MOVIE」で「はてなbookmark YouTube」の検索に進んでみるとこんな画面が広がります。

080226_cloudmap2.JPG

先日、マルチタッチスクリーンが面白いなーと思っていろいろと調べてエントリーを書いたのですが、ハードウェアだけでなく、情報をどのように整理するか、マッピングするかという技術も興味深い分野になりそうです。というか、そもそもマーケティングの分野では十字の座標にプロットする手法が常套手段としてあるので、 だから関心があるだけなのかもしれません。

しかしながら、いちばん難しいのが自分の位置づけではないでしょうか。うーむ、わたしはどこにいるのでしょう(と、村上春樹さんの「ノルウェイの森」のラストのようなことを呟いてみたりして)。

投稿者 birdwing 日時: 23:24 | | トラックバック

2008年2月24日

[DTM作品] Sunny Sunday(試作)

うわー失敗した、と即座にわかる失敗もありますが、しばらく時間を経過したあとで、これって失敗では・・・と静かに悟る失敗もあります。まったくDTMと関係ない話から入るのですが、現在、このブログのCSS(デザイン)を見直し中です。というのはどうも以前と比べて誤字や脱字が多くて、なぜだろうと考えていたところ、(老眼?というわたくしの身体的な変化はさておき)白のバックにdimgray(#696969)の文字色がいけないのではないか、と。

どれだけの違いがあるかというと、以下の「WEB色見本 原色大辞典」のページをみるとわかります。左上の黒に対して、その下がdimgrayです。

080224_color.JPG

メインのページだけblack(#000000)に変えてみたのですが、ぜんぜん文字の読みやすさ=視認性が違った。エンボス調のデザインにグレイの文字はおしゃれなんだけど、おしゃれだからいいというわけではない。長時間読んでも疲れないデザインがベストであると思います。まだ白バックが気になるところです。目がちらちらするんですよね。えーと、パソコンやりすぎ、というわたくしの身体的な状況はさておき。

せっかくぼくのサイトを見に来ていただいた大切なひとが、読みにくかったり、読んだせいで目がちらちらしてはいけない。たったひとりでも毎回楽しみに訪問してくれる方のために、やさしいサイトにしたいと考えました。すぐにはできないのですが、時間をかけてサイトのデザインを見直してみたいと思います。濃い色のバックに白ヌキ文字の方が読みやすいのかもしれないなあ。きっと人間工学のような分野で、そんな研究もされているのではないでしょうか。

失敗について考えたところで、本日できあがったDTMの曲を公開したいと思います。

これも失敗だ。ははは。やりたいことは、はっきりしていたのですが、どうも整理されていないというか難しかった。

読書中の久石譲さんの本にも書かれているのですが、うまくいくまでやり続けることで完成する曲もあれば、やり続けることでますますおかしくなっていく曲もある。後者については見切りをつけることも重要であると書かれていました。ただ、ぼくはその失敗も無駄にならないような気がしています。どこかで必ず活きる。

というわけで、ブログでDTMの作品を公開します。曲名は「Sunny Sunday」としました。週末、東京はいい天気なのですが、ごうごう風が吹き荒れています。

ネットで拾ってきたおかしなFlashによるmp3再生プレイヤーで公開します。白い棒の左端を押すと再生、右端でダウンロードが可能です。音量の調節はできないのでご注意ください。


■Sunny Sunday 1分35秒 2.18MB 192Kbps 




曲・プログラミング:BirdWing


やりたかったこと、なのですが・・・まず、イメージとしては、ロジャー・二コルスなどを聴きながら、打ち込みDTMでその陽だまりのようなポップスの世界を再現したいと思いました。けれども甘ったるいのではなくて、どこか7thコードを使ったR&Bの流れも感じさせるようなもの。

心象風景としては日曜日の朝です。ブラインドから陽射しが差し込んできて、さあ、今日は何をしようと考える。とりあえず音楽とコーヒー、という感じでしょうか。と、文章で書いていてもどうかと思うので、イメージ。ぼくの部屋のそんな風景です。きったないですけど。かえってイメージぶち壊しか・・・(泣)。

080224_heya.JPG

錆び付いたギターの弦を取り替えてみるかな、なんてことも思ったりする。ギタリストの方にはたいしたことないと思うのですが、打ち込みストなぼくには、ギターの弦を張り替える作業ごときに大きな決断が必要だったりします。さーやるか!と気合を入れないと、面倒くさくて、まあいっかとブログを書きはじめてしまう。

DTM的には、デジタルなんだけど生な世界観ですね。これが、ひっじょーに難しい。今回ドラムスは、ループ音源の切り貼りです。ただ、複数の音源を重ねているところもあります。フィルインも音の切り貼り。なので生のグルーヴ感はある程度できる。ギターは、前回も使用したRealGuitarというアプリケーション、あとはSONAR付属の音源でピアノはTTS-1、ベースはRoland Groove Synthです。若干ノイズも入っていますが、ローファイな雰囲気を求めていたのでそれもよしとします。

途中にちらっと一瞬だけ入るピアノのオクターブのフレーズは、エルヴィス・コステロの初期の感じでしょうか。「Get Happy!」あたり。定番のベースラインは、ポール・マッカートニーというかそんなところ。ちょっと16ビートの違う文脈も入っていますけれども。

B000024CV3Get Happy!!
Elvis Costello & the Attractions
Edsel 1994-04-28

by G-Tools

と、まあこのような音楽を作ろうと思った個人的な背景には、かつてバンドやっていた知人と久し振りに飲んだ、というただそれだけのことがあるわけですが(苦笑)、ちょっと詰め込みすぎ、という印象ですね。などと考えながら、アコギの弦を張り替えました。うーん、生のギターもいい。しかし、ぜんぜん弾けん・・・(涙)。

ま、失敗しても凹むだけ凹んだら立ち上がって、また前を向いて歩けばいいのだ。人生続いていくのだ。

キング・オブ・ポジティブでいきますか。

投稿者 birdwing 日時: 12:38 | | トラックバック

2008年2月22日

本の棚卸し。

もともとあまのじゃくな性格があるので、これを読め!とすすめられた本は絶対に読まないタイプでした(苦笑)。意地でも読まない。けれども、これ読んだらすごく感動した、面白かった、泣けた・・・という言葉を小耳にはさむと、ついついこっそり探しに行ってしまいます。前者がセス・ゴーディン的にいうと土足マーケティング的なアプローチであるのに対して、後者は非常にブログ的なゆるいおススメではないでしょうか。要するに強制的に押し付けられたくないんですね。

ただ、そこにも慎重な判断が働いていて、借り物の言葉で感動を総括してあるようなレビューは信用しません。実のところはあまり面白くなかったんだろうと邪推するわけです。読んでおいたほうがいい本もあるかもしれませんが、読まなきゃ生命の危機に直面するなら読みますが、そうでなければ別に読まなくてもいいんじゃないか。むしろ(自分が)読みたい本を読みたい。

あたり前のことですが、そろそろ他人の言葉や世間のトレンドにぐらぐら揺れるのではなく、確固とした自分のモノサシを持って、自分のサーチライトで照らしたものを手に入れつつ、こつこつと日々を積み重ねて生きてみたいと思っています。不惑でいたい。

最近は自分でテーマを決めて、そのテーマに関わる本を探して書店を放浪しています。ひとり自由研究的なスタンスで、読書、映画鑑賞、音楽鑑賞を楽しんでいるのですが、提出期限なし、テーマ自由の研究なのでとても楽しいですね。

そんなわけで読書について、読んだ本、これから読む本の棚卸しをしておきます。棚というか部屋の床に積み上げられているわけですけど。

仕事関連の参考としては、次の本を木曜日に読み終わりました。

4492532013見える化-強い企業をつくる「見える」仕組み
遠藤 功
東洋経済新報社 2005-10-07

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古い本ではあるのだけれど、なかなか参考になることも多くありました。可視化経営のブームの起爆剤となった本だけあります(そのときには絶対読むかーと思ったけど。苦笑)。いずれ感想をきちんとエントリーにしたいと思いますが、何がよいかというと、たとえば「見える」という考え方をさまざまな切り口から整理している点でした。

ちなみに、今年に入って現在購入したまま積んでおかれているのは次の3冊。

4492555951その1人が30万人を動かす! 影響力を味方につけるインフルエンサー・マーケティング
本田 哲也
東洋経済新報社 2007-11-09

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4532313686ソーシャルイノベーションデザイン―日立デザインの挑戦
紺野 登
日本経済新聞出版社 2007-12

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4885531837新しい広告
嶋村 和恵
電通 2006-06

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読了しているけれどもレビューを書いていないのは、次の3冊(+冒頭の1冊)。

4492555986地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」
細谷 功
東洋経済新報社 2007-12-07

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4844323679プロフェッショナルアイディア。欲しいときに、欲しい企画を生み出す方法。
小沢 正光
インプレスジャパン 2007-02-28

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4480687602音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書 58)
茂木 健一郎
筑摩書房 2007-05

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にもかかわらず、木曜日に本屋をうろうろして新書を3冊も購入してしまいました(涙)。茂木健一郎さんと江村哲二さんの本を読んだら、音楽についてもっと考えたくなってしまったんですよね。なので音楽関連の新書を3冊。

4047100617感動をつくれますか? (角川oneテーマ21)
久石 譲
角川書店 2006-08

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4789732533儲かる音楽損する音楽―人気ラーメン屋のBGMは何でジャズ? (ソニー・マガジンズ新書 1)
持田 騎一郎
ソニー・マガジンズ 2008-02

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4087204219ジャズ喫茶 四谷「いーぐる」の100枚 (集英社新書 421F) (集英社新書 421F)
後藤 雅洋
集英社 2007-12-14

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久石譲さんの本から読み始めました。かなり読みやすい。茂木健一郎さん+江村哲二さんの本のなかで、西洋ではミュージックというと、まずアタマのなかに創造するのは楽譜であるというお話がありました(「西洋音楽を考える基本要素――楽譜中心主義」P.68)。そのあとで自筆譜では、その美しさ=音楽の美しさなどということが語られています。同様に久石さんもスコアを見ると音楽の美しさがすぐにわかる、というようなことを書かれていて、音楽を「見る」ということもあるのだな、と思いました。

久石さんの本は創造性に関するテーマで、どこかアーティストよりの内容ですが、2冊目の持田騎一郎さんの本はかなりビジネス寄りです。学生時代から趣味でクラブでDJをやっていた方のようで、音で雑音を消す、という考え方になんとなく惹かれました。BGM的な音楽というとぼくはネガティブな印象を持ってしまうのですが(つまり、どーでもいいけど流れていれば雰囲気づくりになるような音楽という)、しかし特定の時間・場所にばっちりはまる音楽があるような気もしています。そんなことを考えたくて購入。

3冊目は、今年はエレクトロニカやポップス、ロックと平行して、JAZZあるいはクラシックを聴いて自分の引き出しを広げてみたいと思っているので、そのための入り口として購入しました。さすがにJAZZの初心者としては何を聴いたらいいのか途方に暮れるので、入門書はありがたいです。さらにこの本は、これを聴け、という語り口ではないのがいい(笑)。1967年に開店した四谷の「いーぐる」というジャズ喫茶でかけてきた音楽を思い出とともに語っているところに、親しみやすさを感じました。

秋どころかこれから春になるというのに、読書のハルとなりそうな勢いです。でも楽しいからいいか、と。

投稿者 birdwing 日時: 23:16 | | トラックバック

2008年2月21日

指で触れる、操る。

はじめてぼくが購入したパソコンはAppleのMacintosh Perfoma 5320だったのだけれど、これがいまだに部屋のなかでVAIOの隣りにどでんと鎮座しています。邪魔でしょうがないのですが、なぜか捨てられない。

この前時代的なパソコンのマウスは、まだ光学式ではなくて、ごろごろとボールが転がるやつでした。先日何気なく家電量販店のPCアクセサリーの売り場をうろうろしたのだけれど、いま店頭に並んでいるものは光学式オンリーですね。

ボールを転がすマウスの場合、あたかも塊魂のように机の上のゴミをくっつけていくので困ったものです。毛玉を取るように、ちまちまとローラー部分のゴミを掃除しなければならなかったりして、かなり面倒。それがまた哀愁を帯びてしあわせだったりもするのだけれど、ゴミがくっつくとマウスが挙動不審になるので、細かいデザインを作ったりしているときには苛立ったものです。そんなごろごろマウスも時代とともに消えていくのでしょうか。

新しい入力方式としてやはり気になるのは、タッチスクリーンですね。昔からタッチパネル式のパソコンはあったような気がしますが、ウィンドウなどはマウスで動かすのではなく、指先でぎゅーっと引っ張っていければそれほど便利なことはない。なるべく情報もモノに近づいていくとわかりやすい。

ぼくのiPodはまだ旧式なのですが、最新のiPod touchでは 「3.5インチマルチタッチディスプレイ」 が搭載されていて、これで直感的な操作が可能です。これいいなーと思いました。実際にこのマルチタッチディスプレイに「44%が魅力を感じる」という調査もあったようです。

などということを考えていたら、飛び込んできたのがCNET Japanの「アップル、マルチタッチ技術を改良中--最大4本の指で操作」というニュースでした。ぼくが注目したのは次の部分です。

MacRumors.comが発見した特許出願書では、「MacBook Air」のトラックパッドに導入されたのと類似のマルチタッチ技術が申請されている。しかし、今回の技術では、ギターの「コード」を押さえるかのように最大4本の指を使って、全アプリケーションウインドウを前部に移動したり、Dashboardを開いたりするなどのMac OS Xの操作が可能となる。

ギターの「コード」を押さえるかのように、という比喩がいいですね。考えてみると、ギターのインターフェースってよくできていると思います。右利きのひとの場合は左手でフレットを押さえ、右手で弦を弾く。左右の役割が分かれていて、複合させることによって音を生み出す。鍵盤もパソコンのキーボードもそうだけれど、インプット方法やインターフェースの改良には興味深いものがあります。

ちなみにMacBook Airのトラックパッドの使い方は、次のようです。

■MacBook Air: トラックパッドとキーボードの使い方
080221_trackpad.jpg


指でダイレクトに画面にタッチして操作するインターフェースが映画にも出てきたことがあったっけ、と思っていたのですが、「マイノリティ・リポート」でした。スティーブン・スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の作品です。原作は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(映画化されて「ブレードランナー」)などのフィリップ・K・ディックですね。

B000HOL882マイノリティ・リポート
スコット・フランク ジョン・コーエン
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2006-11-10

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トレイラーをYouTubeから。

■Minority Report - Internet Trailer

マルチタッチ・スクリーンの技術ですが映画という想像の世界だけでなく、実現化にも取り組まれているようです。次の映像は2006年2月のデモンストレーションらしいのですが、おおっという感じ。期待が募ります。

■Minority Report becomes reality

パソコンレベルだと、こんなのもいいと思う。

■3D Desktop! TouchScreen and XGL on Linux!

一方で、マイクロソフトが描く未来もこんな感じ?

■Microsoft Surface - The Possibilities

携帯電話とテーブル型のパソコンが連携して、置くだけで視る+触れることによってデータのやりとりができたりします。家庭用の情報機器は早くこれぐらいに進化してくれるといいのに。

マルチタッチ・スクリーンの技術には疎いのですが、ちょっと探ってみるだけで、いろいろと面白い映像や情報が出てきました。採用するかどうかはともかく、アップルにしてもライバルを意識して特許を取ってツバを付けておきたい領域なのではないか、と思いました。

ところで、先日、長男くん向けのパソコンをやっと無線LAN接続してあげたのですが、googleでいろんなことを調べはじめました(たいていは、ウルトラマン関連だったりゲーム関連だったりする)。たどたどしい指でキーボードを打つのですが、ひょっとして数年後にはキーボード自体がなくなっていたらどうしよう。ブラインドタッチなど無理に覚えさせる必要がないのではないか。

キーボードを早く打てる練習をするよりも、人間のハードウェア/ソフトウェアつまり思考や心の鍛錬をした方が、どのような時代にも潰しのきくひとになれるのではないか、などと考えてもいます。技術は、どこまで進歩していくのでしょうか。

しかし、ほんと未来はわからないですね。

投稿者 birdwing 日時: 23:16 | | トラックバック

2008年2月17日

こわれゆく世界の中で

▼Cinema08-006:メロドラマなんだけど、泣けた。

B000RZEIECこわれゆく世界の中で [DVD]
ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント 2007-09-19

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いきなりエンディングロールの話なのですが、グロッケンというかビブラフォンのような音にファルセットの繊細なボイスがl聴こえてきて、思わず身を乗り出しました。これシガー・ロスではないですか。「Takk...」に収録されている「Sé lest」という楽曲とのこと。ぼんやりとフォーカスの合わないブルーの映像をバックに流れていて、じーんとしました。こんなところでシガー・ロスを聴けるとは思わなかった。映画のなかの映像ではないのですがYouTubeから。この曲です。

■Sigur Ros - Se Lest

物語のなかでも、ウィルと共に暮らしているリヴはスウェーデンの出身という設定で、アバ(懐かしい)の話などが出てきます。ちなみに映画全体としては、ガブリエル・ヤレドとアンダーワールドによるコラボレーションの音楽というのもいい。

シンプルに言ってしまうと、不倫の物語でしょうか。えーと実は涙腺弱めの自分は久し振りに映画で泣けてしまったのですが、冷静に落ち着いて考えると、これってよくあるメロドラマだよね、という印象もありました。しかし通俗的なストーリーを超えて、家族とは何か、人種とは何か、仕事とは、というような問いが浮かんでくるような気がします。

建築家のウィル(ジュード・ロウ)は都市再開発のようなプロジェクトに関わっていて、共同経営者のサンディとロンドンのキングス・クロスというところにオフィスを構えます。これがまた酷いところで、引っ越してすぐにパソコンなどを盗まれてしまう。悪いやつらがまだ10代の少年たちを使って盗ませているのだけれど、その少年を追いかけているうちに、ウィルは彼の母親であるアミラと愛し合うようになってしまう。彼女はボスニアの戦火から逃れてイギリスで生きていて、ずっと孤独だった・・・。

一方で、ウィルのパートナーであるリヴは鬱病で"人口太陽"で治療していて、バツイチでひとりの娘がいます。この娘は不眠症で自閉的で夜中の3時にバレエをやっていたり、家中の電池を集めたりしている。お互いに傷付いているのだけれど、近くにいるのに寄り添えない。無意識のうちに拒んでしまう。強がって距離が埋まらない切なさが痛い。

窃盗、不倫、裏切り、精神の病など、それこそ荒れ果てた暗いトーンで物語は進行していくのだけれど、さまざまなものを失ったあとでちょっとしあわせになれる。本音で傷付けあったりするけれど、最後には重なり合う気持ちがあり、それがなんとなくあたたかい。全部壊してしまったあとで、最初から作り直すことができそうな希望を感じさせます。映像の技巧はわからないのですが、ピントを外してぼかした映像も温もりの感じられる心象風景にしっくり馴染む印象を受けました。

すべてを曝け出せること、壊してしまうことは、信頼がなければできないことかもしれません。2月17日鑑賞。

公式サイト
http://www.movies.co.jp/breakingandentering/

+++++

2月18日追記

シガー・ロスの「Sé lest」ですが、「こわれゆく世界の中で」と「シガー・ロス」で検索したどこかのサイトに「()」に収録されているということがあったのでそのまま記載していたのですが、実はぼくはまだ「()」を聴いたことがなかったのでした(恥)。しかしながら、本日、唯一持っている「Takk...」を電車のなかでiPodで聴いていたら、この曲が!あれ?という感じで調べてみると、確かにこちらのアルバムに収録されている。なんだかなー。どこかで聴いたことがある、と思ったのですが、どうりで聴いたことがあるわけだ。最近、誤字・脱字も以前よりもずいぶん多いのですが、確認しないで掲載するのもダメですね。反省。修正いたしました。

投稿者 birdwing 日時: 23:43 | | トラックバック

2008年2月16日

危機感と創造、恒常性について。

考えることが趣味ともいえる自分ですが、風邪をひいて寝込んでしまって頭の切れが悪いです。熱は下がったのだけれど喉が痛い。関節もちょっと痛んでいます。あったかくして寝よう。でも寝るのが惜しい。ああ、どうすれば(苦悩)。

考えるテーマはいろいろとあるのだけれど、先週久し振りにDTMに着手したこともあり、クリエイティブとは何かということを考えていました。すると、お気に入りのブログで紹介されていた以下の本のことを思い出して気になって、どうしても読みたくなったので火曜日に購入。これです。

4480687602音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書 58)
茂木 健一郎
筑摩書房 2007-05

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音楽は「考える」ものではないかとも思うのですが、考えなくてもいいものまで考えがちなぼくにはうれしい。あまりの面白さにぐいぐい読んでしまい、木曜日には読了しました。脳科学者である茂木健一郎さんと、工業大学出身でありながら独学で作曲家の道に進んだ江村哲二さんの異色の対談なのですが、考えどころ満載です。面白すぎる。いちばん注目したのは「自分の内なる音を聴く」ということなのだけれど、美味しそうなので後日に取っておくことにします(笑)。

そこで別の側面をクローズアップします。創造性の背景には危機がある、ということです。

対談のなかで、江村さんが12時間ずっと楽譜を書き続けていたことがある、という体験をお話するのですが、それを「一種のフロー状態」という言葉で括って、茂木さんは「そういう状態のときには生命の危険とか感じませんでしたか?」と質問します(P.172)。そして次のようにつづけます。

茂木 脳には、あるところでブレーキをかけるという安定化機能がホメオスタシスとして備わっています。フロー状態というのは、その制限をかけているタガを外してしまった状態ですから、それをどう外すかということは生命体にとっては深刻な問題なのです。

ホメオスタシスは恒常性ですね。一応、Wikipediaから引用しておきます。

恒常性(こうじょうせい)、ホメオスタシス(ホメオステイシスとも)とは、生物のもつ重要な性質のひとつで、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質、あるいはその状態のこと。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重要な要素でもある。生体恒常性とも言われる。

19世紀のクロード・ベルナールは生体の組織液を内部環境とし、 20世紀初頭にアメリカ合衆国の生理学者ウォルター・B・キャノン(Walter B. Cannon)が「ホメオスタシス」 (同一の(homeo)状態(stasis)を意味するギリシア語から造語)と命名したものである。

趣味のDTMになぞらえて考えると、リミッターというエフェクターがあります。過剰なインプットがあったときに、その音を抑えるように働く。音が大きければ大きいほど作用して、一定のレベルに押さえ込む。ただ、レベル以下のときには作動しません。そのままの音をアウトプットする。コンプレッサーの機能の一部なのですが、恒常性とは、そのエフェクトのようなものと考えてよいのではないでしょうか(乱暴すぎますか。苦笑)。

江村さんのような偉大な作曲家となぞらえるのはおこがましいのですが、創造の過程で共感したのは、ぼくも集中してDTMをやっていると時間を忘れてしまうことがある、ということでした。眠らず、食べず(飲むことはあります。ビールだけど)、気が付くと鳥が外で鳴いていたりする。さらに創作にのめり込むと妙な恐怖感に襲われることがあるんですよね。これ以上は踏み込んではいけない領域なのではないか、のような。ちょっと神がかり的な状態です。これは音楽だけでなく、文章を書いているときにもたまに遭遇する感覚です。

これが精神のリミッターというか恒常性のようなものではないかと考えました。創作する主体が、精神的もしくは身体的に危機的な状況に置かれると発動して、あちら側(いわゆる非日常)へ行ってしまわないようにする。

そもそも何かに集中しすぎる状態というのは、一種の自閉的な状態でもあり、原始的な状態でいうと外敵から襲われやすい状態にあります。ぼーっと人生について考え込んでいるシマウマがいたとしたら、ライオンに食べられちゃいますよね。思考している状態というのは一種の無防備な危険な状態にあり、それを制御するために生物の本能的な制御がかかるのかもしれません。というか、どこかで読んだっけかな?この話。

その制限を突き抜けたところ、つまりタガを外したところにアートの世界があるのではないか、と考えたりしたこともあったのですが、同様のことが池谷裕二さんと糸井重里さんの「海馬」という本にも書かれていました。この本を読んで「頭のいい人、ストッパーを外すこと。」というエントリーで取り上げたこともありました。

昔の芸人さんは、たくさん恋愛をしなさいということをよく言われたようです。はちゃめちゃな事件を起こすことも多かった。同様にブンガクをやる人間や芸術家は、許されない恋をしたり酒に溺れたり薬をやったり、さんざんな放蕩生活をして、ぎりぎりのなかで結晶化した作品を生み出していたかと思います。

しかし、ふと考えたのは、芸術こそがストッパー/タガ/リミッターのようなものなのではないか、ということでした。

人間の身体はよくできていて、痛みを感じると脳内麻薬のようなものが出て痛みを和らげますよね。美しい音楽や文学は、それ自体が麻薬のように人生のさまざまな痛みを和らげます。だから、過剰な辛さや苦しさによって人間が押し潰されないように、美しい芸術などが生まれたのかもしれない。

しかし、まったく苦痛がない世界がしあわせかというと、そうではないでしょう。たぶん過剰にしあわせな世界に長期的に暮らしていると、進歩がなくなってしまう。だから、平和や喜びに溢れすぎている状態も生体にとっては危険ではないか。その危険を回避してバランスを取るために、破壊的なロックやアートが生まれるのかも。

というのはいま、ひとりの人間内の恒常性として考えていなくて、社会全体をひとつの生体として考えたときの恒常性です。ガイアとかホロンとか、そんな発想っぽいところがありますけれども。

黒川伊保子さんの「ことばに感じる女たち」という本を読んでインスピレーションを得たのですが、日本語の乱れは表面的にみると悪しき傾向かもしれないけれど、その傾向によって救われているひとたちもいるわけです。あるいは、インターネットや携帯電話やゲームなどの機器は確かに次の世代の子供たちに悪影響を及ぼしているかもしれないけれど、ではその悪を取り除けば社会はよくなるかというと、必ずしもそうではない。その悪しきものによって救われたり、ライフスタイルを進化させたりしているひともいるわけです。

当たり前といえば当たり前なのだけれど、社会にはさまざまな恒常性(的な何か)が複雑に絡み合って、微妙なバランスを取っているものかもしれません。その平衡感覚を維持しながら、破滅しないぎりぎりのところまで精神を危険に晒せるひとが、美しい何か・・・・・・切ない旋律であったり、透明な音であったり、ラジカルな文章であったり、激しく心を揺さぶる色であったり、そんなものを生み出せるのではないか。

といっても微妙ですね。タガを外したときに及ぼされる力が強くて制御の力が弱いと、あっちの世界に行っちゃいますからね(苦笑)。

ただ、やはり自分自身を危険に晒す覚悟がなければ、何事も成せないような気もします。危険は変化と置き換えてもいいと思うのですが(というのは自分が変わるということは、怖い=危機的な状況なので)、とんでもない変化に晒されるときに大きな創造のチャンスが得られるのではないか、と思っています。特に芸術家であればなおさらのこと。

考えてみると、さまざまな危機が地球上の生物を進化させてきたのではないでしょうか。いまぼくらが直面しているのは、地球環境の問題や情報過多による危機かもしれないけれど、その危機をきちんと受け止めることが大事ではないかと、あらためて考えました。ほんと怖いし、憂鬱なことが多い。でも、怯えるのではなく、逃げるのでもなくて、ただありのままに受け止める。

危機から生まれるのはアートだけでなくビジネスかもしれません。ただ、その危機感が大きければ大きいほど、振幅を揺り戻すようにして何かとんでもないものが創造できるのではないか、という期待もあります。

危機を楽しんでいるようで不謹慎かもしれません。あるいは楽観主義すぎる気はするのだけれど、安定した平凡な生活から生まれるものって、どこかやっぱりエッジがぼけてしまうんですよね。別に好き好んで不幸になることはないと思うのだけれど、創造の場において危機感(言い換えると緊張感。よい意味でのストレス)は重要ではないかと考えました。

投稿者 birdwing 日時: 23:39 | | トラックバック

2008年2月15日

「ことばに感じる女たち」黒川伊保子

▼Book08-006:言葉のサブリミナル・インプレッションと身体感覚。

4584392544ことばに感じる女たち (ワニ文庫)
黒川 伊保子
ベストセラーズ 2007-12-18

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タイトルはいかがなものでしょう(苦笑)。ちょっと恥ずかしいものがありますね。インパクトのある表紙に惹かれて書店で手にとってしまい、「あっこれ黒川伊保子さんの本じゃないですか」と後付けで作者に気付きました。ところが欲しいと思ったのだけれどタイトルに圧倒されて躊躇。結局、別の本で隠してレジに持っていくことに(照)。個人的には"レジに持っていきにくい本ランキング"の第2位です(ちなみに第1位はアダム徳永さんの「スローセックス」)。

黒川伊保子さんはAIの研究者であり、言葉のクオリアなど語感のサブリミナル・インプレッション(ことばの音が持つ、潜在的な印象)を追究されています。「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」「恋愛脳」の二冊を読んで、ぼくは黒川さんのファンになりました。さすがに言葉および「情」の研究家だけあって、言葉に対する感度が高い。そして思考がやわらかい。

ところで、魅力的な言葉について考えてみると、内容はもちろん内容以外の効果も十分にあることに気付きます。たとえば視覚的な効果。デザインの発想かもしれませんが、活字に組んだとき字面がきれいな言葉がある。あるいは音。詩の朗読や歌では、音のなめらかさや声を出すときの気持ちよさが印象的なことも多いですね。

そもそも文章を読むという行為は、脳内に生じる内なる音として言葉を「聴く」ことかもしれません。五感とまではいかないかと思いますが、感覚を総動員してぼくらは言葉を感じ取っているのかもしれない。

と、ここまでは自分なりに考えていたことなのですが、この本の第1章の「ことばは音であって音ではない」の冒頭を読んで衝撃を受けました。目を閉じてイライラした状況を思い浮かべたとき浮かんでくる仕草は何でしょう、と黒川さんは問われています。「チッ」という舌打ちをぼくも思い浮かべたのですが、この舌打ちが何であるかについて、次のように解説されています(P.17)。

舌打ちを物理的に考えてみるとわかるはずです。
舌打ちとは、舌で前歯の裏を「打つ」という行為、そして唾液を「弾く」という行為を、一瞬にして行う作業のことなのです。
そう、舌打ちの真の目的とは、チッという「音」ではありません。
むしろ「打つ」だの「弾く」だのといった、プリミティブな身体制動の結果として、あの音が出ていることになります。
手足を痛めることもなく、誰かを怪我させたり、物を壊したりすることもなく、しかも一瞬にしてストレスを発散させられる行為。
こうやって考えてみると、舌打ちが魔法のようなストレス発散法であることが理解できるでしょう。

発話自体が「発声時の身体感覚」をともなっているわけです。当然といえば当然なのだけれど、舌打ちが身体的にもストレスを解消する行為になっているとは思いもつきませんでした。

つまり舌打ちは、言葉であると同時に、モノを蹴っ飛ばしたり殴ったりする行為と同じなんですね。しかも蹴っ飛ばすモノがなくてもできる(自分の口内を舌で蹴っ飛ばす)のでお手軽です。ただ、黒川さんも指摘されているように、聞いているひとに不快感を与えるので注意です。

「語感」は脳内の快感や不快感につながるだけでなく、身体感覚を伴っている。この発想が新鮮です。言葉でイライラを解消したり、気持ちよくなったりできる。この部分は「あとがき」に書かれた次の部分とつながります(P.204)。

街で、あえて美しくない語感のことばを連発する女の子を見かけると、なんだか、彼女を抱きしめたくなります。彼女は、その語感でしか解消できないストレスを抱えています。あ~、この子の脳、苦しいんだ、と思って、せつなくなるのです。けどまぁ、吐き出すような音を好んで並べる女の子たちは、同情や抱擁が何よりキライですからね、実際には手は出しません。
このところ「日本語の乱れ」を嘆く大人によく出会います。でもね、美しくないことばを使う女の子を責めても始まりません。だって、その言葉が彼女を救っているんですもの。

この発想には、黒川さんのやさしさを感じました。ぼくは言葉遣いが悪いひとたちをそんな視点でみたことはなかったなあ。

言葉は時代によって変わっていきます。もし日本語が乱れているのであれば、乱れを誘発するプレッシャーやストレスがあるわけで、その解決がなければ根本的な解決にならない。

大人たちは、日本語の乱れを嘆く前に、若い女の子たちの脳ストレスに同情すべきだと思うのです。「日本語の乱れ」を何かしたいのなら、その語感で解消するしかないストレスのほうにこそ目を向けるべきです。

痛感しますね。問題解決(ソリューション)は表面だけみていてもダメで、根っこから取り組まなければいけない。日本語の乱れを憂うことは大事だけれど、若者たちの言葉を抑圧した場合、その語感によって解消されていたストレスは他に向かうことになるのかもしれません。女性らしい言葉を使いなさいといっても、厳しい社会に生きているのだからストレスも溜まる。

映画「バベル」で菊池凛子さんが演じるチエコをちょっとイメージしました。彼女が演じるチエコの場合には、言葉を聞けない/話せない障害もあるので、さらに辛い。

ちなみに映画「バベル」は言葉の物語でもあります。Wikipediaから次を引用しておきます。

原題のバベルとは『旧約聖書』の「創世記第11章」にある町の名。町の人々は天まで届くバベルの塔を建てようとしたが神はそれを快く思わず、人々に別々の言葉を話させるようにした。その結果人々は統制がとれずばらばらになり、全世界に散っていった。映画ではこれを背景として、「言葉が通じない」「心が通じない」世界における人間をストーリーの行間から浮き上がらせていく。

同じ日本語を喋っているのに通じない。心がみえない。せつないですね。ただ語感の研究も含めて、みえない/わからない/聴こえない何かを解明しようとする試みは、非常に大切なことであると感じました。それが人間を進化させそうな気もする。

ストレスの根源となっている社会の歪みを変えることができれば、自然と言葉は美しくなるものかもしれません。「美しい国、日本」などというマニフェストもありましたが、社会の美しさを何で測るかというと、流通する言葉が美しくなったとき、その社会は成熟した美しいものなのではないでしょうか。もちろんその一方で、隠語のようなものをベースとしてラップが生まれるようなアンダーグラウンドな文化もありますけどね。

ちょっと大きな話になってしまいました。話を戻します。

感情を癒す言葉が何かというと、さすがにAIと語感の研究家である黒川さんだけあって、詳細に語られています。男性・女性別に好まれる語感を年代順に解説されていて、ひとつひとつが興味深い。詳しく検証していくと長くなるので、ざっくりと要点を整理してみます。年代と性別による好む語感です。

▼12~30歳の女性
好む語感
・口内で風を起こすS音、SH音の爽やかさ。 例)シュンスケ
・滞りを解消するブレイクスルー系の清音(K、T、P) 例)キティ
嫌いな語感
・喉壁や下を振動させる濁音(B、G、D、Z)
初潮を迎え、エストロゲン(卵胞ホルモン)過多な女性は「かったるく、おっくうな」身体意識を抱えているため、それを解消する音が好まれる。

▼12~25歳の男性
好む語感
・ブレイクスルー系の溜めて出す音(B、G、D、Z) 例)ガンダム、ゴジラ、ガメラ
男性ホルモンであるテストステロンが分泌される時期。精子をつくったり陰茎を勃起させるなどの性的な能力にも深く関係があり、出世欲、支配力、暴力性などにもこのホルモンが関与するとされる。

▼30~45歳の女性:マジョリティ層
好む語感
・鼻腔内で響かせて出す鼻音系(M、N)
・Y音、J音、D音
女性ホルモンが最も潤滑に分泌される時期で、丸く、やわらかく、満ち足りた感覚に素直に惹かれていく。

▼30~45歳の女性:セレクティブ層
好む語感
・若い女性と同じS、SH、K、T音。
・対象をがっちりつかむG音
子供を持たず男性社会の中で仕事に追われている女性は、なかなかホルモンバランスが安定しない。睡眠・覚醒の生活リズムを作るメラトニンの分泌バランスが崩れる。

▼30~45歳の男性
好む語感
・ブレイクスルー系の清音(K、T、P)
・癒し系のN音。M音は微妙(家庭がストレスの場合、ママの音は微妙)
社会的なストレスが最高潮に達している年代なので、20代よりも強い刺激は求めない。

▼45~65歳の男女
好む語感
・風の音であるS、SH音
・滞った感じを打破してくれるブレイクスルー系のT音
・しっとりしたN音、M音、H音(男性)
・どっしりとしたD音(男性)
・ふっくらと膨張するW音(男性)
・摩擦を感じさせるJ音(男性)
嫌いな語感
・ドライなK音(肌に潤いがなくなってきているので)
・スピード感のあるS音、T音

面白かったのが、なぜぺ・ヨン・ジュンがおばさまに好まれるか、という考察。彼の名前自体が「二度も抱きしめる」名前であるとか。ヨンについては次のように分析されています(P.157)。

まず、「ヨン」ということばは、優しい抱擁の体感をつれてきます。
Yは、口腔全体をやわらかく使って出す、和らぎの子音です。先頭子音で口腔内を和らげたそのYの後に、包み込む大きな空間を想起させる母音O、そして舌を上あご全体にやわらかく押し付けるN音「ン」が続きます。つまり、「ヨンさま」と呼ぶと、自分の口が知らないうちに「大切なものをやわらかく受け入れ、抱きしめる」物理現象をつくっているわけです。

そ、そうなのか。つづいてジュンについて(P.160)。

Jは、舌を膨らまし、その舌にこもるような振動で出す子音です。舌が口腔内いっぱいになる感じがするので、ベースとして肉体的な親密感があるのです。中でもJuの発生に伴う物理効果は、唾液を集めて舌の中心に持ってきます。これに舌を上あごにやわらかく押し付けるンが続くと、まさに「しっとり濡れたやわ肌が密着する」のです。

・・・なるほど。つまりこういうことらしいのです。

それにしても、ヨンジュンという名前はすごい。「ヨン」は服を着た抱擁だけど、「ジュン」は濡れた素肌の抱擁です。一回名前を呼ぶだけで、二度抱きしめられる。あるいは、もっと直接的な「包み込んで、濡れて、密着する」行為につながる人もいるかもしれません。

なんだかエッチですね(照)。ただ、おばさんにはこの濃厚な名前自体がうけるのだけれど、ホルモンのバランスが悪く滞った感じを抱えて暮らしている若い女性には、その語感からして、しつこく、うっとうしいものらしい。それにしても、ブームや時代のトレンドを語感から分析している手法がすごい。名前を付けるときには気をつけなきゃ、と思いました。というか、既にふたりの子供がいるぼくには遅すぎなんですけど。

さて、男性もこの本は読むべきではないかと思っています。

女性の心理を理解する上では黒川伊保子さんの本に学ぶことが多いと思います。たとえば恋愛の場面で明日からでもすぐに使えるTIPS(技)は次です。これはメモしておくといいと思います(P.152)。

あいたかった、あえてよかった、ありがとう、あとで○○しようね、あしたね、いいね、うん、おはよう・・・・・・彼女との心の距離を縮めたかったら、母音はじまりの言葉を上手に使いましょう。

うーむ。これは男性のぼくとしても、言われたらかなり嬉しい言葉の数々ではないか、と。あいしてる、も母音ですね。いっしょにいたいね、うれしいよ、なども母音。あいうえおで語れば彼女とうまくいくのかもしれない、という仮説です。ただ、このこともしっかり裏付けされています(P.151)。

母音は、声帯の振動だけで出す音声です。
子音のように、息を遮って破裂させたり、息を擦ったり、舌を弾いたり、そんな効果を一切加えずに出す、ありのままの音が母音です。このため、母音を聴くと、その人の素に触れたような気がして、あったかくなります。自分が母音を発音すると、リラックスして、ずっとそうしていたくなるのです。

恐るべし母音。

一方、黒川さん的に「日本語の使い方が上手」な男性は、政治学者の姜尚中さんだそうです。「情」を研究する女性の視点から、「理」で俯瞰する彼の言葉の使い方を褒め称えています。ちょっと妬ける(笑)。というのは、かなり熱烈に絶賛されているので。

姜尚中さんの言葉の何が美しいか、ということも分析されていて、「てにをは」の歯切れのよさと指摘されています。「あなたはぁこのことをぉどうとらえているんですかぁ」のように間伸びさせて喋るひとがいますが、頭よさそうにはみえない。「てにをは」の切れ味がいいのは「話す言葉をあらかじめ構造化しているから」と述べられているのですが、確かにそうだと思いました。以下は、男性が仕事で明日から使えるTIPS(技)です。これもメモ。

感情に流されやすい人、なぜか部下から尊敬されない人は、切れのよい、クールな「てにをは」を心がけるようにしましょう。やがて、ごく自然に、自らの発言が考えの垂れ流しではなく、考えを「部品(語句)の構成で完成する全体」と見立てて発言するようになります。

プライベートでは「あいうえお」で愛を語り、仕事のミーティングでは切れ味のいい「てにをは」で発言。

言葉を変えただけでは仕方ないのかもしれませんが、言葉を変えることによって思考と身体感覚に変化を与え、自分を変えることもできそうな気がしています。ちょっとした言葉の使い方の変化で、かっこいい男になれるのではないでしょうか。頑張りますか。

投稿者 birdwing 日時: 23:46 | | トラックバック

2008年2月13日

オトナ考。

あのひとはオトナだなあ、というとき。一体何をもって大人であるか、ということを考えてみました。20歳を過ぎていれば成人なわけで、お酒も飲めるしタバコも吸える。仕事をして家庭に子供があれば、扶養する家族の親としてオトナにならざるを得ません。しかしながら、そんな大人であっても、精神的に子供的なひとはたくさんいる。あ、ぼくのことか(苦笑)。

自分の考えで大人の要素を列記してみると、次のような感じでしょうか。

●やりたくないことを率先して引き受ける
●顔で笑って心で泣く、背中で語るような耐える姿
●堂々として、物怖じしないこと
●博識で、お店やいろいろなことを知っている
●社会性があり、しなやかに対応できる

答え合わせをしようと思って「大人」でググってみたところ、トップに出てきたのは「大人の○○」。うーむ。確かにアダルトという意味では、それもありかもしれない。ちなみに○○のなかは玩具なのですが、安易に記載すると検索エンジンに引っかかってしまうので、うやむやにしてみました。というか、見てしまったんですけど、玩具のページ(照)。いろいろあるんですね。楽し・・・いやいやいや(汗)。

Wikipediaの「大人」には次のように書かれていました。

大人(おとな、adult: アダルト)とは、子供に対して、成人した人を意味する。さらには、精神構造が熟成していて目先の感情よりも理性的な判断を優先する人、もしくは自立的に行動し自身の行動に責任の持てる人の事を指す場合もある。または理性を優先するという点から、妥協や周囲への迎合、事なかれ主義などを、「大人の考え」「大人の都合」「大人の事情」などと揶揄して言う場合がある。

ふむ。なんとなく納得してしまったのは、感情よりも理性を優先する成熟した思考の持ち主である、ということです。ただし、理性ばかりを最優先すると、つまらない大人として揶揄される事なかれ主義になる。

また自立的行動で、行動に対して責任が取れる、ということも納得しました。行動の一部として発言もあるかもしれませんね。政治家やアイドルが暴言を吐いて謝罪する場面がよくありますが、ここでは「大人げない発言」とよく言われます。つい最近も倖田來未さんの発言が問題になっていたりしました。

何か気に入らないことがあってもかっとするのではなく感情を抑制することが大人、ということでしょうか。逆にいえば、感情を最優先するのが子供である、といえるかもしれません。これが好き、あれは嫌い、という感情面だけの価値判断を優先して行動を決めるのは、確かに子供的な印象があります。ぼくは感情という情報も、コミュニケーションにおいては重要であると考えているのだけれど。

というぼくがなかなか感情をコントロールできないひとで、そういう意味ではずっと(いまも?)大人になれない大人だったような気がします。そのために悩みもしたし、本も読みました。大人になるために何を読んだかというと、「論語」「孟子」「菜根譚」あたりの中国の思想書です。これもまたギョーザの毒入り事件でバッシングされている中国ですが、すばらしい思想を育てた国でもあり、そのあたりの精神を取り戻してほしいところ。

しかし、本で学ぶよりも現実の荒波にもまれたほうが、精神はもちろん身体的に大人であることの必要性を身に着けることができます。具体的には、仕事を通じて大人にならなければならない局面はずいぶんあるし、就職活動や転職活動に際しても自分の子供じみた考えに直面してかなり凹んだことがありました。ただ、その凹みをどうとらえるかが大事で、誠実に受け止められると大人になれる気がします。逃げたり批判すると、子供のままなんだけど。

そして親からも学ぶことが多い。ぼくの父親は教師で校長になったひとでしたが、教頭時代にはかなり苦労もしたようで、母によると毎晩、布団に寝型が付くぐらいに寝汗をかいていたらしい。辛かったのだと思います。そういえば酒がものすごく強い父が、げーげー便所で吐いている光景も記憶に残っています。それだけ飲まずにいられなかった何かがあったのかもしれない。それでも父は、そんな日の翌日にも早朝に起床すると、きりっとネクタイを締めて何事もなかったかのように出かけていきました。ぼくは父のスーツやネクタイの入ったクローゼットのクレゾールの匂いが好きで、その匂いに大人を感じたような気もします。

ぼくにとっては完璧な大人であった父ですが、一方で子供じみた発言もいくつかありました。ここで考えるのは、そもそも完全に大人になれる人間なんていないのではないか、ということです。

理性=大人、感情=子供という図式から考えると、二項対立のどちらかを選択できるようなものではない。理性だけ選択すると、スタートレックのミスター・スポックというか、アンドロイドのような人間になってしまう。どこからどこまでが理性(大人)で、どこからどこまでが感情(子供)か、という境界線も引くことができない。だからぼくが考えるのは、

大人と子供の折り合いをつけること

ということが大事じゃないか、と考えます。理性に偏重することもなく、感情に走ることもない。大人としての抑制を効かせながら、ときには子供のように無邪気に遊んでみる。そんなシンプルなことができれば苦労はないのですが(苦笑)、大人/子供という二元論から発想していたら何も進歩できない。大人批判をしていて、じゃあおまえは大人になったとき何をするのだ、そんな稚拙な発言や行動で大人なのか、といわれたら何もいえない。

若いひとの一部が(というのは若者全体という括りをぼくはしたくないので)子供だなあと思うのはそんなときで、未熟な子供という片方の立場でしか物事をみられず、自分がいずれは大人になる(ならなければならない)ことを考えられない。というぼくもかつてはそんな考え方をしていた若者だったので、よくわかる。そう、大人もかつては子供だったのだ。未熟だけれど熱い時期があった。

しかしながら、子供の立場から偏った思考を主張できることは若者の特権でもあり(だから大人は余裕を持ってそれを許容すべきであり)、そこから抜け出す(抜け出せるようにする)こと、多様性を許容することが成長である、とも思う。だから社会が大人であるためには、感情的にバッシングだけしていてもダメで(もしかすると倖田さんの問題も、中国の問題も)責任を十分に追求したあとで受け止める必要がある。

ぼくはすべての二元論的なものに疑問を抱いていて、たとえば強者/弱者、勝ち組/負け組み、男性/女性などカテゴリー化すること自体に何か思考の暴力というか、強制的な圧力を感じてしまう。大人を考えることによって子供ってどういうことかわかってくるように、思考のフレームワーク自体はよいと思うのだけれど、じゃあ自分はこっち、だからそっちを批判する、そっちの考え方はわかりませーん、のような仲間わけの思考は馬鹿げている気がします。

というわけでぼくは、大人でありながら子供でいたいと思うし、たいした経験はしていないんだけど、子供たちには大人として何かを教えてあげたい。大人になれるように育ててあげたい。

この余裕こそが、成熟した大人の思考なのではないか、などと考えています。できないけどね、そう簡単には(苦笑)。

投稿者 birdwing 日時: 23:24 | | トラックバック

2008年2月12日

コントローラーという楽器。

連休、久し振りにDTMで作品を創っていたところ、音楽に対する意識が高まりつつあります。そんなわけで、昨日の夜に眠りに落ちるまでのあいだ、先月のサウンド&レコーディングマガジンをぺらぺらとめくっていたのですが、以前から気になっている記事に再注目しました。

デイデラスというロサンゼルスのアーティストのインタビューなのですが、ボタンがいっぱい付いている得体の知れない機材を触っている。オーディオのコンソールかと思ったらそうではないようです。アルバムのジャケットに大きく掲載されているのですが、これです。

B0010Z2FDOLive At Low End Theory[Special Edition]
デイデラス
Alpha pup / disques corde 2008-01-19

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それは喩えるならば・・・ムゲンプチプチ

B000SKIJ64ムゲンプチプチ オレンジ
バンダイ 2007-09-22

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ちょっと余談ですが、このムゲンプチプチという玩具、実はぼくも買ってしまったのでした(オレンジのやつです。苦笑)。100回に1回だけ変な音が出るのだけれど、あまりプチプチとはいえない気がしました。

やっぱりぷちんと破れるから快感なのであって、ボタンを押すのは何かが違う。潰れていくにしたがって、ぱんぱんに膨れていた素材がへなへなになっていくのも趣が深いものです。だからきっとムゲンにできちゃダメなんですよね。ちなみにプチプチ(通称:エアパッキン)は、割れやすいCDなどを梱包するときに使うポリエチレン製の気泡緩衝材で、川上産業という会社の登録商標とのこと。

さて、ムゲンプチプチは置いておいて、この楽器(?)というか機材は、どうやらMIDIコントローラーらしい。その名称は、Monomeというそうです。操作の仕方のわかりやすい映像があったのでYouTubeから。

■monome 40h usb midi device

こ、これは。ひょっとしてカオスパッドでは?カオスパッドはコルグのエフェクターで、サンプラー機能をタッチ・パッドでコントロールできる機材です。DJなどに使われているようです。

しかしながらMonomeの面白いところは、さまざまなハードウェアが出ているということ。デイデラスの使用している機材は16×16=256のボタンがあるそうです(ちなみにUSB接続らしい)。さらに、そのアプリケーションはオープン・ソースということが画期的だと思いました。つまり、一般の開発者が自由にアプリケーションを作ることができるわけです。これは面白い。

と、Monomeの映像を求めてネットを彷徨っていたところ、次々と面白いMIDIコントローラーを発見してしまいました。

まずは蜂の巣型のAxis 64。これは以前ブログでも取り上げたクロマトーンと同様の設計思想から作られているのではないでしょうか。楽譜の記載方法から3線譜という従来とは異なる発想を基盤としていて、あまり深く理解できなかったのですが、変わったもの好きのぼくはその情報に飛びついた記憶があります。

■Axis 64 Midi Controller

次に拾ってきたのが、銃のカタチをしたmidiGun。玩具みたいだけれど、ライブなどでキメの場面で使うと楽しそうです。

■midiGun - alternative midi controller

決して、ひとに向けて撃たないように(笑)。

つづいて、光の操作パネルが美しいmultitouch general midi。なんとなくモンドリアンの絵画のようですね。こういう楽器は子供向けにあるといいなあと思うのですが。

■multitouch general midi

そして最後はバーチャルスーツっぽいGypsy MIDI Controller。これは21世紀っぽい。

■Killer Baseline Gypsy MIDI Controller

ドラムの場合、ピアノの場合など、さまざまな音を使った解説がされています。テルミンの進化系のような気がしますが、これもまたライブで受けそう。軽量化してPerfumeあたりに使ってほしいところです。

YouTube貼りまくりのエントリーになってしまいましたが、幼い頃には(アタマの悪さは考えずに)発明家になりたかった経歴もあり、変なテクノロジーに関心があるわたくし(困惑)。非常に興味深い機材を次々と発見してしまい、しばしめくるめく時間を楽しんだのでした。

投稿者 birdwing 日時: 23:57 | | トラックバック

2008年2月11日

[DTM作品] Kakera(かけら)。

東京では先日も雪が降りました。今年は雪がよく降りますね。さすがに積もらないけれど、舗道の片隅にはいまでも雪が残っています。少しだけ汚れたカタマリのようなものになってしまったとはいえ、雪の痕跡があるのはいいものです。連休はいい天気なので、いずれは消えてしまうかと思いますが。

先日の人間ドックの結果が出ました。うーむ、はじめて再検査に(泣)。どんなにハードに仕事していても頑丈だから大丈夫だと思っていたのですが、どうやらここへきて不摂生や過酷な生活のツケがまわってきてしまったようです。

まだまだ気力は若いつもりでいるのですが、身体のあちこちは頑張らないと維持できないようになってきました。若いうちは放っておいてもメンテナンスができるものですが、一定の年齢を超えると努力しないと健康が維持できない。

自分を痛めつけるように夜更かししたり酒を飲んだりする生活なのだけれど、自業自得というか結局のところ自分に返ってくる。最近よく思うのは、自分のためというよりも誰かのために健康でいたい、健康でいなければ、ということです。子供たちが成人するまで、あと15年はあるわけだし。

と、そんなことをぼんやりと考えつつ、子供たちが夢中になっている絵本のことを思い浮かべました。宮西達也さんの絵本です。

4591094448ぼくにもそのあいをください (絵本の時間)
宮西 達也
ポプラ社 2006-10

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そもそもウルトラマンが好きなので「おとうさんはウルトラマン」シリーズを手にしたことがこの作家の絵本を集め始めた始まりだったと思うのですが、この本は次男くんのお友達からいただいたものです。

恐竜のお話で、「ちからこそが、だいじなもの。つよいことがたいせつなんだ」というティラノサウルスが主人公です。彼はその哲学のもとに暴挙をふるう。けれどもやがて年老いて弱くなり、食べようとしたマシアカサウルスに逆に噛み付かれて傷を負う。そのときトリケラトプスの子供たちに助けてもらいます。

トリケラトプスの子供たちは彼がティラノサウルスだということがわからずに、一生懸命に看病するわけです。このとき、ティラノサウルスは強さがいちばん大事なものではないことを知る。そして、子供たちを襲ってきたギガノトサウルスからトリケラトプスを守って死んでしまう。

そのトリケラトプスの子供たちが大きくなって、子供ができたときに、やはりギガノトサウルスに襲われるのだけれど、トリケラトプスのおとーさんは戦わない。痛くても我慢してじっと耐える。

敵が去ってしまったあとで、パパは強いのにどうして戦わないの?と子供たちに訊かれて、こう答えます(映画では最後のシーンを書いてしまうのはネタバレでヒンシュクなのですが、絵本なのでいいでしょうか)。引用します。

「いいかい、ちからよりも
もっと もっと つよい もの、
たいせつな ものが あるんだ。
それは、あい。
おとうさんは、この きを
おった ほんとうに つよい
ひとから、その あいを
もらったんだ・・・・・・」
その きを じーっと
みつめていた こが
ぽつりと いいました。
「ぼくにも その あいを ください」

ううう。泣ける。でもきっと読んでいないと伝わらないかもしれないですね。ちょうど人間ドックの再検査の知らせなどをいただいたときでもあり、もう強くなくなりつつある自分には、ティラノサウルスの気持ちがよくわかる。

さらにですね、個人的に考えたことは、そんな風に自分がいつか消えてしまっても誰かの心に残るような文章や音楽を創ることができたらほんとうにしあわせだなあ、ということでした。いろいろと迷ったり失敗もしていますが、ぼくは最終的にはそんな境地に辿りつきたい。

これもまた別の話になるのですが(前にも書いた記憶があるのだけれど)、ぼくは細野不二彦さんのGU‐GUガンモという漫画の最終回を週刊誌で読んで不覚にも涙してしまったことがありました。

漫画の話で恐縮なのですが、どこか別の世界から来たガンモは、ある日、その場所へ戻らなければなくなってしまう。しかし、戻るためにはいっしょに暮らした主人公の少年の記憶を消さなければならない。いやだよう(泣)という感じで少年は抵抗するのだけれど、ふたりの思い出を全部消されてしまう。

けれども、ある日、コーヒーを飲んでいたら理由もなく少年は、ぼろぼろ泣いてしまうんですよね。彼には理由がわからない。でも、実はガンモはコーヒーが好きだった。コーヒーによって、ガンモと過ごした日々の何かが蘇って彼は泣いてしまった。もちろん思い出(記憶)自体は戻らないのですけれど。

と、いうわけで、相変わらず前置き長すぎです(苦笑)。

別エントリーにしようかとも思ったのですが、そんな現在の気持ちも含めて久し振りに作ったDTM作品を公開します。タイトルは「Kakera(かけら)」としました。2008年の2月9日の心象風景の「かけら」を音にした、という感じでしょうか。過去を再生できるコーヒーのような曲であってほしいのですが、どうでしょう。単なる音の断片(かけら)でしかなかったりして。


■Kakera (kakera.mp3 2分34秒 3.54MB 192kbps)

曲・プログラミング:BirdWing


ぼくは日記を書くように音楽を創りたいと思っています。わかりにくいと思うのですが、ぼくが個人的に感じている、ある時間の風景、あるいは感情を音に変換、もしくは翻訳して作品にしたいということです。

だからぼくが趣味で創るDTM作品のほとんどは、ものすごくプライベートなものです。ある意味、ブログ的といえるかもしれない。したがって聴いているひとによっては、完成度が低いなあ、よくわからないよこれ、同じコードの繰り返しでつまらない、という感想があるかもしれないけれど、(まず)ぼくにとって意味があるものであればいいと思っています。そして未完成でもすぐに発表することが大事です。というのは、そのときの気分はすぐに消えてしまうものなので。

たぶん商業的なミュージシャンであったら、それではダメだと思いますね。多くのひとに永遠に伝わるものでなければいけない。でも、ぼくはそもそも商業的にやっているわけじゃないのでいいか、と。

では、別にブログで公開しなくてもいいのでは?という考え方もありますが、もしかすると非常に稀なのだけれど、ぼくの感覚に共鳴して、ぼくが感じていた何かを再生いただけるような誰かがいるかもしれない。そんな偶然のために公開しています。そうそう、銀河系の彼方に向けて、地球からのメッセージを格納したロケットを飛ばすようなものですかね。そんなプロジェクトがありましたっけ。

考えてみるとオリジナルのDTM作品を公開するのは久し振りでした。実は、自分の心象風景に近づけなかったのでボツにしようと思っていたのですが、辿り着けなかったボツ作品も含めてこれから公開していこうと思います。

ところでDTM的には、今回はギターの音としてReal Guitarを使っています。アコギ持っているのに弾いていません(苦笑)。打ち込みで音を創っています。さらに、ドラムはメインにフリーのVSTiであるDrumatic3を使いました。コシのあるいい音しています。プリセット音をそのまま使ったのだけれど、音をいじるともう少しいろんな音ができそうです。

こちらはReal Guitarのインターフェース。バージョンアップしたのでオンラインでアップデートしたのですが、PCのスペック不足なのか使えない(泣)。なので古いバージョンのものを使っています。ギターのフレットを模した画面が気に入っています。入力した音に合わせてフレットの位置にその音が表示されて、じゃらーんというコードも弾けるんですよね。なかなかのスグレモノです。


製品サイトはこちら

Drumatic3のインターフェースはこれ。重厚な感じがします。音とばっちり合っていて、グラフのような操作パネルもかっこいい。

080211_drumatics3.JPG
ダウンロードサイトはこちら

最近はDTM関連の情報収集もしていませんが、またいろいろとDTM関連の情報も集めてブログで紹介していきたいですね。

投稿者 birdwing 日時: 11:43 | | トラックバック

2008年2月 9日

街のあかり

▼Cinema08-006:静かに耐える、負け犬のかなしみ。

街のあかり街のあかり
ヤンネ・フーティアイネン.マリア・ヤンヴェンヘルミ.イルッカ・コイヴラ アキ・カウリスマキ


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たとえば、かなしいとき。大声で泣き喚くようなひとよりも、静かに黙って肩を震わせているようなひとに惹かれます。あるいはいつも静かに笑っているひとが号泣するような場面もいい。強がりが好きなんでしょうか。映画のなかに癒しを求めているのかもしれない。そんなわけで派手なアクション映画も好きだけれど、淡々と静かなシーンが続く単館ものの映画も好みだったりします。

「街のあかり」は、孤独で暗い警備員コイスティネンが主人公です。彼は友人からも飲みに誘ってもらえずに、けれどもひそかに実現することのない起業を考えて休日は学校に通っている。そんな彼が、ある日カフェで美しい女性から声をかけられるのだけれど、実は彼女は強盗の手先で・・・という物語。

台詞はほんとうに少なくて、静かに物語が流れていきます。さびしさがひりひりと伝わってくる。夜勤明けに彼が立ち寄るホットドック屋の女性アイラがひそかに彼に想いを寄せているのだけれど、それに気づかないコイスティネンがまたさびしい。

ふたりの間にも会話はひとことふたことしかなくて、さらに表情すら変わらないのだけれど、お互いの気持ちが伝わってきます。「今日は遅いのね」というアイラに対して、「デートしてきた」のような自慢をするコイスティネンに対して、「もう締めるから帰って」のような短く返すシーンに、さまざまな想いが錯綜していて、うまいなと思いました。

この映画のアキ・カウリスマキ監督は、フィンランドの監督です。ぼくが彼の作品を最初に観たのは「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」なのですが、変な間合いのある映画を撮るひとだな、のような印象があった気がしました。最近では「過去のない男」を観たことがあり、これもしんみりと心に染みるような作品でした。

この「街のあかり」に関していえば、鑑賞後にいまひとつすっきりとしないものも感じました(ストーリーが比較的想像しやすいというか、よくあるパターンだったので)。それでも、強くなれない男、運命からも能力からも見放されていて、強者の策略に翻弄されるコイスティネンの焼け付くような孤独とともに、そんな彼を慕うひとがいること、そして何よりもぼろぼろになりながらそれでも生きることをやめない彼の逞しさのようなものに打たれました。

物語よりも、うつろな登場人物の表情が強く印象に残る映画でもあります。全体を通してさびしい映画ではあるのですが、どこかあたたかさも感じられる作品です。2月9日鑑賞。

■公式サイト
http://www.machino-akari.com/

投稿者 birdwing 日時: 22:18 | | トラックバック

Babamars / Surprising Twists

▼Music08-002:ときにはエレクトロで軽めのポップスを。

Surprising Twists!Surprising Twists!
ババマール


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01.Beautiful Sunday
02.Younger
03.We'got To Make It Tonight
04.Move On
05.Painkiller
06.Surfin Nagoya
07.Freeze
08.X-Change
09.B.A.B.A.M.A.R.S.
10.The Core
11.Polaroid
12.You've Got It All

+Move On (Music Video)

基本的にポップス大好きです。もちろんJAZZやロックもいいけど、なんとなくチープなポップスを聴きたくなるときがあります。たとえば、よく晴れた休日の午前中とか。

そんなときに想定する楽曲というと、個人的なイメージですが、ノーランズとかストロベリー・スイッチブレイドという感じでしょうか。くらくらするようなキャッチーなメロディとハーモニー、さりげなくシンセがノコギリ波や矩形波のまんまで入っているといい(サンプリングではなくて)。ついでにポルタメントとか効いていたりして。

同様に、アコギをじゃかじゃか掻き鳴らしたり、ファンク系のワウでしゃかぽこした音なんかもうれしい。フリッパーズ・ギターなども休日の午前系アーティストだと思うのですが(どーいうジャンルの括りでしょうか)、あんまり聴きつづけるとこっぱずかしくなるけれど、ときにはCDラックの片隅から引っ張り出して聴くと、青春を思い出させてくれる感じがしていい。

ババマールは、フランスのバンドです。店頭でサーフ・エレクトロ・ポップのようなコピーとともに、Tahiti80の好きなひとに、のようなおすすめが書かれていたので購入。試聴してみて、思わずにやりでした。サーフ・ロックというのはどうかと思うけれど、確かにギター・ポップにエレクトロニカ要素を加えたような感じで、Tahiti80の1枚目に似てますね。ネオアコ的な要素もある。ただ、迷ったなあ購入するのは。そんなに何度も聴きそうなアルバムではないんですよね。一発屋的なところがるので、なんとなく(苦笑)。

1stアルバムは一部の音楽業界およびフレンチ・オタクにヒットしたらしいのですが、これはそのアルバムに未発表音源を加えた日本の企画盤であり、日本の正式デビューとのこと。シンセとヴォーカル担当のGesa Hanseは名古屋に4ヶ月の滞在していた経験があるらしく、そんなわけで「Surfin Nagoya」という楽曲もあります。空耳でナゴヤって聴こえるなあ、と思ったら、ほんとうに名古屋だったので困惑(苦笑)。グループのグラフィック担当で、ジャケットやWebサイトのデザインも彼がやっているらしい。Yoshi Masudaというひとも日仏ハーフらしいので、とても日本向けな感じがします。

楽曲で面白いなーと思ったのは、やはり全体的に漂うチープなポップスの印象なのですが、ギターをサンプリングしているところも惹かれました。5曲目の「Painkiller」、10曲目「The Core」のイントロなど。宅録でDTMをやっている自分としては、ライナーノーツの以下の機材解説も興味深く読みました。以下、引用します。

録音にはバーチャルシンセを中心に使用しているが、ライブ・パフォーマンスではサンプラー、カオスパッド(エフェクター)、アナログ・シンセを使用しているという。ドラム・マシンとのドンカマ(リズム・ガイドに合わせて演奏する)というオールドスクールな手法も活用しているのも興味深い。

うーむ。カオスパッド使っているんだ。アナログなところがよいですね。

好みの曲としては、ネオアコテイストの1曲目、アコギのカッティングから入る2曲目などはいい感じ。5曲目の「Painkiller」のイントロでベースラインが降りていくところなどは、ポップス魂をくすぐります。6曲目「Surfin Nagoya」はもろにビーチボーイズ的であり、ストロベリー・スイッチブレイド的な懐かしいような切ないような、きらきら感もありました。どんったたんどん、というドラムの定番フィルもうれしい。そして、12曲目「You've Got It All」はブラスなどの音に癒されます。ゆったりと聴ける。

洗練さとアヤシサが同居する感じで、やはり親日派のアーティストであるせいか、どこか聴いていて馴染みやすい。今後にちょっと期待。

+++++

モノクロの映像による「The Core」 。あやしい。でも、なんだか甘酸っぱい。

■Babamars - The Core (Surprising Twists)

なんちゅうかっこうで歌ってるんだ、と思ったら最後には上半身脱いでしまう映像。ちょっと素敵(照)。このセクシーな感じがフランス的という気がしました。チアリーダーの方が・・・Yoshi Masudaさん? えーと、メンバーですかね。

■Babamars en el festival pura vida 22sept07

■my space
http://www.myspace.com/babamarssurprisingtwists

投稿者 birdwing 日時: 11:20 | | トラックバック

2008年2月 8日

借りもので、しあわせ。

3年ばかり前から給料日の後にはCDショップに立ち寄ってCDを購入しています。贅沢すぎるというか、だから小遣いが減るばかりなのだけれど、ぼくがよく聴く音楽はインディーズ的な作品ばかりなので、レンタル屋さんには並んでいない。それに試聴して購入、という楽しみを知ってしまったので、CD屋さんにふらりと立ち寄って手当たり次第視聴して購入するスタイルが気に入っています。それにしてもCDの増殖によって、部屋が狭くなるばかり。ダウンロードで聴くようにすればいいのかもしれないけれど。

と、そんな昨日、上司にJAZZギターのアルバムを2枚貸していただきました。家に帰るとJAZZギターを練習されているという方なのですが、さすがにギター弾かれているだけあって、貸していただいたセレクションがよかった。まったりとしあわせな気分に浸れました。このアルバムです。

B001CRGTQYジャズ・ギター
ジム・ホール カール・パーキンス レッド・ミッチェル
EMIミュージック・ジャパン 2008-09-26

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B00024Z97Iインターコンチネンタル
ジョー・パス エバーハルト・ウェーバー ケニー・クレア
ユニバーサル ミュージック クラシック 2004-06-30

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単音弾き(ジム・ホール)と和音弾き(ジョー・パス)です。JAZZギターってあまり聴いたことがないのですが、こんなに雰囲気が変わるものなのか、と感動。打ち込みも好きなのだけれど、聴いている音楽としてはJAZZいいですね。お酒が飲みたくなるし(笑)。というか飲んじゃってしあわせだったし。

ちょっと盲点ではあったのですが、ウェス・モンゴメリーとか、そのあたりも気になったりします。あとは、ジャンゴ・ラインハルト。これは、「ギター弾きの恋」というウディ・アレンの映画を観たことがあり、それは彼の自叙伝を背景にした映画のようなのですが、純情でありながら退廃的な彼の生き方に切ないものを感じつつ、いつか音楽を聴いてみたいものだなあと思ったのでした。

ギター弾きの恋ギター弾きの恋
ショーン・ペン サマンサ・モートン ユマ・サーマン


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しかしながら、ふと考えたのですが、すべての音源がダウンロードでまかなえたとしたら、「これおススメだから聴いてみて」のような貸し借りってどうなるのでしょう。メールに添付しておしまい、とか?あるいはどこかのオンラインストレージのリンクをメールに書いて、ここからダウンロードして、でおしまいとか。

あるいはやはりCDだったりメディアに焼くのかもしれませんが(USBメモリかも)、ぼくはなんとなくメディアで、はい、これ聴いて、と渡されたほうがいいなあ。もちろんカラーコピーやプリントでレーベルやジャケットが作ってあると嬉しいけれど、手書きってのもいい。

などと時代の変化を妄想しつつ、本日レンタルCD屋さんで借りてきたのはこれ。

FLASH BACKFLASH BACK
capsule 中田ヤスタカ


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中田ヤスタカさんです。むう、ぜんぜんジャズじゃない(苦笑)。とはいえ、借りものでしあわせだー。

投稿者 birdwing 日時: 23:27 | | トラックバック

2008年2月 7日

可視化について考える。

感想が追いつかないのですが、次々と本を読み終えています。「プロフェッショナルアイディア」を本日読了しました。博報堂のエグゼクティブクリエイティブディレクターの小沢正光さんの書かれた本です。

4844323679プロフェッショナルアイディア。欲しいときに、欲しい企画を生み出す方法。
小沢 正光
インプレスジャパン 2007-02-28

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最近の読書傾向として、どちらかというと読んでいるのは仕事の本ばかりですね。小説などブンガクに触れたほうがよい気もするのですが、流されるがままにビジネス系の書籍を購入しています。が、ちょっと買いすぎ。小遣いピンチ。

「プロフェッショナルアイディア」の感想についてはいずれ書こうと思います。しかし正直なところ、いまひとつ。たぶん時期によっては非常に面白く読めたはずですが、ぼくのセンサーとうまく同期していなかったせいでしょうか。文字面を追うような感じ。これは!と引き込まれる内容がなかった。というのはぼくの問題であって、この本の問題ではないような気がしています。

とはいっても、実務のなかから導き出された発想法の集大成という感じで面白い。アイディアは「3回3ラウンド」で絞り出すというような術的なノウハウも書かれているのですが、個人的には、発想の哲学ともいえる数々の視点が参考になりました。先日、マクドナルドの原田永幸さんの本を読んだときにも書かれていたのですが「進歩は階段状。」ということも述べられていて、やはり仕事を究めたひとが到達する真理は同じなのかな、とも思いました。

ところで、現在、仕事の課題としてぼくは、プロモーションの可視化について考えています。いわゆる広告の効果測定などについて、もう一度見直してみたい。

インターネットでは、非常にわかりやすいですよね。シロウトのぼくらでさえ、無料で提供されているGoogle Analyticsなどの解析ツールを使えば、エントリーがどれだけ読まれたか、あるいは検索されたか反応を把握できる。ただ把握したあとに、ではどういう記事を書けばアクセスが上がるか、ということを考えるのは難しい。

可視化について考えるのであれば、ブームは過ぎた感じはあるのだけれど、読み損なっていたこの本をやっぱり読んでおいたほうがいいかな、と思って本日また購入したのがこれ。

4492532013見える化-強い企業をつくる「見える」仕組み
遠藤 功
東洋経済新報社 2005-10-07

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すいすい読める。見るということについて考察されているページは非常に興味深いものを感じました。ぼくも右目が見えにくくなった経験があり、さらにアフォーダンスなどにも一時期は非常に関心がありました。見るとはどういうことだろう?と考えていたこともあったので、少し冷めてしまった好奇心を掻き立ててくれる。

さらに、広告とは何か、広告の効果測定とは、と考えるためにこれも購入。

4885531837新しい広告
嶋村 和恵
電通 2006-06

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ううむ、詳しい。さすが電通です。なかなか最初からきちんと読んでいくのは辛いものもあるのですが、この機会に初歩的なことから考え直してみよう。

ところで、可視化ということに戻ると、通常、可視化というと、グラフとかピクトグラムとかチャートとか図解するような印象があるのですが、当然かもしれないのだけれど、あらためて「言葉」にすることも可視化のひとつだな、ということを感じました。さらに言語化の一部として数値化もあるのではないか。

たとえば、アイディアや想いはかたちがないですよね。不可視なものです。どんなに想ってても、言葉にしなければわからない。どんなに愛情があっても、「あいしてる」と言わなければ気持ちは伝わらない。超能力者であれば別ですが、想いを読み取ることはできない。もちろん、態度や顔つきで読むこともできます。けれども非言語的な(ノンバーバルな)コミュニケーションは、誤読も多くなるだろうし、距離が離れてしまうと効果を失うこともある。

デザイナーにとっては図解することは何でもないかもしれないのですが、デザインを学んでいないぼくらにとっては図解は難しい。けれども言葉を操って生活する人間である以上、言葉で表現することによって可視化することはできる。その言葉にすることも難しいのですが、とにかく目に見えるもの、沸いてくる想いを片っ端から言葉にしていけば、可視化のエクササイズになるのではないか。要するにブログを書くこと自体が、可視化の練習ともいえる。

本日読み終えた「プロフェッショナルアイディア」では、とにかくアイディアをキャッチコピーにする、ということが書かれていました。「紙に書く」ことを強調されています。以下、引用します(P.27)。

あいまいな思考は、書くことで具体化する。つまり、考えていることが目に見えるかたちになって、はじめてアイディアといえるのである。その意味では、書くことが考えることだといってもいいかもしれない。

さらに手で書くこと、手書きを推奨されています。確かに手で書くことは大事かもしれません。紙の手触り、ペンの動きなども含めて、身体を総動員して考える、という感じがします。実はぼくも企画を立てるときにはPCだけでなく、太いサインペンで紙にぐいぐい書いて考えることがある。こちらのほうがアイディアがまとまりやすいときがあります。

一方で、ぼく個人についていえば、音楽を作ることも可視化のひとつの手段ではないかと考えました。音を視る、ということが正当かどうかわからないけれど、アタマのなかにある何らかの感情やイメージを音に置き換えるとき、それはカタチのないものにカタチを与えている、つまり可視化しているような気がします。さらに音符で譜面に書いたり、DTMでいうとピアノロールにプロットされたデータだったりすると、ほんとうに音が目に見えるようになっているわけなのですが。

というわけで再び浮上してきた可視化というテーマに、いろいろな本を読みつつ、思考を深めていきたいと考えています。

投稿者 birdwing 日時: 23:12 | | トラックバック

2008年2月 6日

過去を統合する。

リアルタイムで読んでいただいている方には、しばらくの間ブログをサボっていたようにみえたかもしれませんが、実はこのブログ、その期間にエントリーの数は急速に増加していました。

どういうことかというと、過去の記事を統合、再掲載していたからです。以前に閉じたブログの記事をインポートしたところ、記事数はいっきに844まで増加(その時点での記事は130ぐらい)。さらにブログ以外の場所で書き散らした短文も(かろうじて残っているものは)追加しているので、最終的にはエントリーは1000を超えそうな勢いです。

もともと過去に書いたものをひとつにまとめたいとは考えていたのですが、なぜ統合?というと、次のようなことがあったからでした。

●過去と同じ記事を何度も書いてしまう(老人のように・・・)
●あの作品なんだっけかな、と思い出せない(老人のように・・・)
●なんだかノスタルジックな気分になってきた(老人のように・・・)

うーむ、老人志向ですね。思考が若くないわたくし(困惑)。

しかしながら、一応、リライト(書き直し)などをして、ひとつずつ掲載しています。過去の遺産を全部は掲載しないつもりです。さすがにいまでは恥ずかしくて掲載できないような記事もありました。一方で、いまよりもじっくりと時間をかけて書いている記事もある。面白いですね。

さて、レンタルサーバーを借りてこの場所でブログを書き始めたのは去年の8月なのですが、正式にぼくがブログを書き始めたのは2004年に遡ります。

ぼくは最初のブログを、はてなダイアリーで書き始めました。いまにして思うと、どこで書き始めるかというのは結構重要ではないかと思います。はてなで日記を書き始めたというのは、よい意味でも(悪い意味でも)意義があったことではないだろうか。ライブドアで書き始めていたら、ぜんぜん違うものになったと思うので。

「はてな」は、かなり筆の力が求められますからね。もちろんふつうに日記を書かれているひともいるかと思いますが、キーワードでつながってしまうので、いろんな脅威に晒される可能性も高い。ずいぶん鍛えられたものです。

はてな村は、ぼくのブログの故郷のようなものかもしれません。逃亡しちゃいましたが(苦笑)。相互評価システム(はてなスター)とか、妙にお高い共同意識というか閉鎖性、ブックマークの酷いコメントに嫌気がさして退会したのですが、いつかまた故郷に戻るかもしれません。というか、ひそかに戻っていたりして(ふっふっふっ)。

2004年から書き始めたというのは、ブログの書き手としては遅いほうではないでしょうか。感度の高いひと(マーケティング用語的にはアーリーアダプターでしょうか)は、たぶんその2年ぐらい前、2002年ぐらいからウェブログを書き始めていたのではないかと思います。ウェブログの存在は知っていたのですが、ネットで日記を書いてどうする、定年退職したひとの自分史づくりじゃないんだから、のような勘違いをしていたので、気になりながらも着手はしていませんでした。いま思うとブログは日記に似ていますが、まったく違うものですね。

そういえば書き始めた頃には、毎日更新をめざしていたのでした。最初は400字ぐらいだったのが、次第に結構な長文に変わってきた(苦笑)。2004年の記事と現在の記事を比較してみると一目瞭然です。

過去を統合しながら、あらためて思ったことは、案外いまと変わらないなあ、ということでした。書きながら大きく成長していた気がしたのですが、フタを空けてみると案外変わらなかった(しょぼーん)。結構、同じことを繰り返して書いていて、あなたは認知症ですか、と自分で自分に突っ込みも入れたくなりました。

10年日記というようなものがありますが、ブログもあんな風にできるといいですね。つまり現在のエントリーの下に、過去の同じ日のサマリーが並ぶ感じです。システムのことがわかっていれば、簡単にできそうだ。というか、既にそんなエントリーができるブログサービスがあったりして?

と、過去のことを考えながら現在そして未来にも考えを広げてみたいと思うのですが、ブログ関連の動きでちょっと気になったことをメモしておくと、GoogleがソーシャルグラフのAPIを公開しました。以下、ITProの記事から引用です。

■ブログ同士で“SNS”が作れる,Googleが「Social Graph API」サービス公開

Googleは2008年2月1日,Web上のリンクから交友関係を抽出するWebサービスのAPI「Social Graph API」を公開した。ブログやプロフィール・ページのURLなどを入力すると,Googleが収集した,そのサイトを友人としてリンクしている友人のサイトを出力する。このサービスを使うことで,SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)サイトを利用しなくともブログ同士でSNSのような機能を実現することが可能になる。

これは、ブログ同士の交友関係、いわゆるつながりを「可視化」するツールではないでしょうか。興味深いのは、オープンでつながりを作る仕組みができることで、いわゆる現状の閉ざされたSNSが特殊な存在になっていく可能性もあるということです。以下もITProから。

Social Graph APIはパブリックなデータだけを利用するとしており,ログインが必要なSNS内のデータは収集しないと見られる。OpenIDやSocial Graphなど,オープンなインターネットでSNSを実現するための環境が整っていくことで,将来的には“クローズド”なSNSが,“オープンなインターネット上のSNS”から取り残された存在になる可能性さえある。

ただ、個人的にはクローズドなSNSが衰退したり、なくなるとは思っていません。“ひそかにつながりたい”ひとっているじゃないですか。などと書くとなんだかアヤシイ響きがあってどうかと思うのだけれど、ネットワークは、シンプルに一元管理できないものだからこそ面白い。リアルでも、ひとはさまざまなレイヤーによる関係性のもとに生きています。家庭であればお父さん、会社であれば課長、というように同じ人間であっても関係性によって役割などが変わる。ソーシャルグラフも多層的になったほうがリアリティがあるような気がしています。

しかしながら直感的に感想を述べると、つながりは大事だけれど、つながりにこだわりすぎる社会は気持ち悪い気がするなあ(苦笑)。

たとえば人種差別や国際間の戦争とか、そうした人間のさまざまな闇の部分はつながりを過剰に意識するところから生じているのではないでしょうか。仲間はずれとかいじめとか、そんな差別も屈折したつながり意識が生み出しているのではないかと思います。同族意識と排他的な感情。さまざまな嫉妬が原動力となって、世界の歪みが生まれている。

映画「バベル」の感想にも書いたのだけれど、血縁という濃い絆でさえ、そのつながりは目に見えないものです。見えないけれども存在している。見えないものを可視化したほうがいい場合もあれば、見えないほうがずっといい場合もある。あらゆるものを可視化すると、見なくてもいいものまで見てしまう。

見なくていいものは、見えないほうがしあわせではないか。そんなことをぼんやりと考えました。

+++++

ところで、最近は日記的な志向がなくなってきたので、遡って過去の日付けでエントリーをすることも多くなりました。RSSで受信していると最新の記事しか見られないかと思いますが、ひそかに更新していることもあります。そういうエントリーは実はあんまり見られたくないものが多いのかもしれませんが(苦笑)、アーカイブにひっそりと沈める記事もあるかもしれませんので、あしからず。

なお、2007年までのエントリーに関しては、MT形式でエクスポートしているためコメントも再現できるのですが、それ以前のものは「はてな」形式でエクスポートしていたため、せっかくいただいたコメントを再現できなくなってしまいました。古くから読んでいただいていた方には大変申し訳ありませんが、そんなわけで、2006年より前のエントリーにはコメントなしという形になります。

投稿者 birdwing 日時: 23:39 | | トラックバック

2008年2月 4日

ゴーストライダー

▼Cinema08-005:仮面ライダーの原型のような。

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うちの子供たちはウルトラマン好きなので、最近では仮面ライダーとか戦隊ものはいまひとつ観なくなってしまったけれど、長男くんがちいさな頃には555(ファイズ)や龍騎はよく観たものでした。

仮面ライダーシリーズで言うと、ドラマとして面白いのはアギトではないかと思うのだけれど、次第に仮面ライダーもエスカレートしてきて、乗り物がバイクじゃなくなってしまっている。ひとつ前の電王の場合、電車のなかにバイクがあって、電車をバイクで操るという強引なオペレーションになっていて思わず苦笑でした。子供たちには電車は人気アイテムのひとつであり、それを取り込むのは画期的ではあるのだけれど、ライダーじゃないよねこれは、という感じ。

とはいえ、やはり初代のライダーの人造人間としてカラダを改造されつつ悪と戦う、というような影のある人物設定がやはり魅力的だと思うんですよね。

そんなことを考えつつ観たのが、ゴーストライダーでした。ジョニー(ニコラス・ケイジ)は悪魔と契約することによって癌におかされた父親を救うのですが、そのために悪魔同士の戦いに巻き込まれる。この悪魔が「イージー・ライダー」のピーター・フォンダだったりするところが、なかなかのキャスティングだったりします。そして悪魔に魂を売ることで恋人(エヴァ・メンデス)と別れるのですが、30歳になったときに命知らずのスタントマンである彼は、彼を取材するアナウンサーとして彼女と出会う。そして彼女も悪魔の戦いに巻き込まれていく・・・というお話。

ニコラス・ケイジって、愛嬌があっていいですね。ゴーストライダーに変身する自分に戸惑いをかくせずに、鏡をみて困惑するシーンなどが面白かった。しかしながら、よくあることですが、若い時期のふたりと年をとってからのふたりは、ちょっと無理があるような気がしました。

ほんとうの自分を隠して変身する、というのはスパイダーマンにしてもバットマンにしてもアメリカンコミックの王道であり、この映画もそんなヒーロー像を踏襲しているものとえいます。正義にあふれた存在でありながら、恋人や現実の自分との狭間で揺れる気持ちを描いていて、気持ちいい。もちろんこれをステレオタイプだとか、ありきたりだと言ってしまうのは簡単なのですが、ときとして、そんな「ああ、やっぱりこのパターンだよね」という映画も観たくなるものです。安心して楽しめるエンターテイメントといえます。

時代に合わせて複雑化した仮面ライダーも、そんなシンプルなストーリーに戻ってもいいんじゃないかと思いました。いちばん新しい仮面ライダーキバはどうなんでしょう。あまり観ていないのですが。ライダーを観てバイクに乗ることに憧れた少年も多かったと思うので、そんな作品であってほしいです。映画の感想ではなくなってしまいましたが、ライダーつながり、ということで。
2月3日鑑賞。

投稿者 birdwing 日時: 23:37 | | トラックバック

2008年2月 2日

「春、バーニーズで」吉田修一

▼Book08-005:日常のなかに潜む、ささやかな非日常。

4167665042春、バーニーズで (文春文庫 よ 19-4)
吉田 修一
文藝春秋 2007-12-06

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まずは自分のささやかなエピソードから。携帯電話でインターネット接続サービスがはじまったばかりの頃、間違いメールがぼくの携帯電話に届いたことがありました。OLと思われる送り主からのメールは、待ち合わせに関する伝言でした。遅れるとか、時間の確認とか、そんな内容だったように記憶しています。

どうしよう、ほっとけばいいか、と思ったのですが、せっかく待ち合わせの場所にやってきたぼくのアドレスに似た誰か(彼氏?)がすれ違ったらかわいそうだと思い、送り主に「アドレス間違っていませんか、このメールは届いていませんよ」と返信してあげました。ありがとうございます、のようなメールが返ってきたような気がします。

その後しばらくして、こちらでは雪が降っていますよ、のようなメールが届いた。こっちはあまり降らないですね、寒いけれど、のような返信をしたような覚えがある。このやりとりから何か始まればまるでドラマですが、2~3回短い言葉をやりとりしたあとで自然に消滅しました。

そもそもぼくは携帯電話のメールが苦手です。まめでもないし。とはいっても、正直なところ、ちょっと妄想はしました。どこか遠い雪の降る街から見ず知らずのぼくにメールをくれたひとは、どんなひとだろう。もし、この会話の延長線上で親しくなって会ってしまったら、どうだったのだろうか、と。

吉田修一さんの「春、バーニーズで」は5つの短編とモノクロの写真から成る小説集です。バツイチかつ子持ちの女性と結婚した主人公の筒井を中心に、その内面とあやうい日常が緻密に描かれていく。決して何かが起こるわけではありません。けれども何かが"起こりそうな"ざわざわとした気持ちを読後に残してくれます。

「パパが電車をおりるころ」という短編のなかでは、筒井は息子とマクドナルドに入ります。ハンバーガーを食べているとき、隣りに座った女性と何気ない話を交わすのですが、息子が携帯電話を使って絵文字を送りたい、とむじゃきに言ったことを発端として彼女とメールを交換してしまう。

そんな物語の一場面を読んでいて思い出したのが、冒頭に書いた間違いメールの記憶でした(前置き長すぎ。苦笑)。感想にもなっていない個人的なエピソードを延々と書くのもどうかと思ったのですが、忘れていた記憶をこの物語が掘り起こしてくれたので書いてみました。

もちろん吉田修一さんの書いた物語とは整合性がないけれど、個人的な記憶が同期したこともあって、この本の読後に懐かしくも切ない気持ちになりました。これが小説のうまいところではないでしょうか。追体験するわけではなくても、生活のなかで直面するいくつかの感情を、この短編群はうまく代弁しているような気がします。

「パパが電車をおりるころ」の物語は、通勤電車のなかでさまざまな回想をする場面で終わっています。筒井の携帯電話のなかには彼女のアドレスが残っている。そのままにしておけば、新しいメールに押し流されて、そのアドレスは消えてしまう。衝撃的な出会いでもなく、日常に埋もれて消えてしまうちっぽけなエピソードです。その後どうなったのかは語られません。すべてを語らずに、起こりそうで何も起こらない日常のなかの非日常を提示したまま短編は終わっている。

押し流されてしまうメールアドレスは、まさに日常そのもの、日常のメタファなのかもしれません。そして、押し流されてしまうかもしれないけれど、ふとした瞬間に人生を分かつ運命的な分岐点にもなる。

出勤時にクルマを運転しながら、衝動的にハンドルを左に切って日光へ向かってしまう「パーキングエリア」という作品では、ほんの気まぐれから筒井は別の日常に入り込んでしまいます。高速道路を疾走しながら失踪する気持ち、なんとなくわかるなあ・・・。非日常的な何かは日常のなかに潜んでいて、ありふれた日常のなかで、ふっと力が抜けたときに表面化するものです。失踪するぞ、と意気込んで失踪することはないような気がします。でも、何気なくハンドルを左に切ってしまうんだよね。

息子を預けて知人の結婚式に出席した後、ホテルで酔っ払った妻と嘘を付き合う遊びをはじめる「夫婦の悪戯」も、淡いぎりぎり感がありました。お互いに嘘を付き合って「強い衝撃を与えたほうが勝ち」というゲームに興じるのですが、妻は、若い頃に一度おじさんにカラダを売ったことがある、という話をします。筒井はといえば、オカマバーのママと同棲して食わせてもらっていた、ということを語ります。

実は嘘を付くという前提のもとに、ふたりとも本当の秘密を話してしまっているのですが(筒井に関しては事実で、妻の話は事実かどうかわからない。でも物語内において事実であるという確信がある)、ゲームは引き分け、ということでそれ以上詮索はしない。あやういバランスのもとに非日常という脇道に逸れずに済むわけですが、とても危なっかしい。

ぼくは吉田修一さんの小説では「最後の息子」「熱帯魚」「パークライフ」と読んでいて、「パークライフ」の冷たい二面性のようなものに打たれつつも辛いものを感じて遠ざかっていたのですが、この「春、バーニーズで」は冷たい日常に潜む非日常を感じさせながら、ぼんやりとしたあったかさも感じさせる小説でした。1月26日読了。

投稿者 birdwing 日時: 23:05 | | トラックバック

2008年2月 1日

「倚りかからず」茨木のり子

▼Book08-004:凛とした強がり、そして女性らしいかわいらしさ。

4480423230倚りかからず (ちくま文庫 い 32-2)
茨木 のり子
筑摩書房 2007-04

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女性らしさとは何だろう、と考えたのですが、ぼくは「強さ」なのではないかな、と思いました。繊細さや優しさという視点もあるだろうけれど、男性にとって逞しさがあまりにもステレオタイプな観点であるのと同様に、女性らしさをあまりにも世間に氾濫している枠組みで捉えるのはどうか、と。また、子育てしている女性をみると、ほんとに強い(笑)。想像を絶する痛みを経験したということもあるかもしれませんが、この強さの前には男性はかなわないのではないでしょうか。

一方で女性の詩人や作家の言葉には、男性のぼくにはとうてい書けない感覚的な特質があり、そんなところに癒されたり惹かれたり、感心したりしています。男性作家の書くものも面白いのだけれど、論理的に説得される面白さです。一方で、女性作家の面白さは理解不能なところにあると思います。その言語感覚は真似しようにも真似できない。ちょっと悔しいんですけどね。

茨木のり子さんの詩集は「自分の感受性ぐらい」「歳月」を読んで、これが確か3冊目だと記憶しています。率直な感想を言ってしまうと、以前読んだ2冊に比べると、いまひとつ。詩の力が弱い気がします。どちらかというと論理的な側面が強調されていて、ほんわりとした感覚になれない。社会的な内容が多いせいかもしれません。

ただ、その背筋の伸びた感じというか、貴婦人というか、それでいてあんまり頑張ってもいない力の抜け方がいい。やはり本のタイトルにもなっている「倚りかからず」に、その感覚は凝縮されているような気がします(P.62)。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

思想/宗教/学問/権威とカタチのないものに依存することを拒絶して、最後には「椅子の背もたれ」に「倚りかかる」という身体感覚に落とし込む。このロジカルな流れを全部無にしてしまう身体への飛躍が、ぼくには非常に女性的な発想であると感じました。

つまり遠い思想や社会的なところから、急に生活レベルの視点にズームアップする。得体の知れない抽象的な世界から、ふいに台所の椅子という具体的な現実に焦点が合うわけです。そもそも考えてみると、思想/宗教/学問/権威に「倚りかかる」という表現自体が比喩的なわけで、どこか無理がある。「倚りかかる」のは椅子の背もたれだけでいい、というのはシンプルでありながら、ぐちゃぐちゃとさまざまなものに依存したり誤魔化したりしている現代の人々を痛烈に批判しています。

この清々しさが、茨木のり子さんの詩のよいところかもしれませんね。それは喩えると、「母親の叱責」のようなものかもしれません。何やってんのよ、しっかりしなさい、という。ぴしりと叱責しながら、どこか微笑んでいたりする。「自分の感受性ぐらい」という詩集の読後にも思ったのですが、そんなあたたかな眼差しを感じます。

と、あたたかさや女性らしいかわいらしさを感じるのは、ひらがなの使い方にもあるかもしれません。「じぶん」が漢字であるかひらがなであるかという違いだけで、この詩の重さは随分変わってくる。「鶴」という詩の最後の部分も同様に感じました。引用します(P.19)。

わたしのなかにわずかに残る
澄んだものが
はげしく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむれば
まなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき

しなやかですね。でも、言葉の輝きが感じられる。論理的な思考を強化することも大切ですが、美しい言葉に触れることができる感受性も大事です。ちょっと恥ずかしいものもあるのですが、ときには詩集も紐解きたい。そんな心の余裕を持っていたいものです。1月16日読了。

投稿者 birdwing 日時: 23:29 | | トラックバック

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