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2008年2月 2日
「春、バーニーズで」吉田修一
▼Book08-005:日常のなかに潜む、ささやかな非日常。
春、バーニーズで (文春文庫 よ 19-4) 吉田 修一 文藝春秋 2007-12-06 by G-Tools |
まずは自分のささやかなエピソードから。携帯電話でインターネット接続サービスがはじまったばかりの頃、間違いメールがぼくの携帯電話に届いたことがありました。OLと思われる送り主からのメールは、待ち合わせに関する伝言でした。遅れるとか、時間の確認とか、そんな内容だったように記憶しています。
どうしよう、ほっとけばいいか、と思ったのですが、せっかく待ち合わせの場所にやってきたぼくのアドレスに似た誰か(彼氏?)がすれ違ったらかわいそうだと思い、送り主に「アドレス間違っていませんか、このメールは届いていませんよ」と返信してあげました。ありがとうございます、のようなメールが返ってきたような気がします。
その後しばらくして、こちらでは雪が降っていますよ、のようなメールが届いた。こっちはあまり降らないですね、寒いけれど、のような返信をしたような覚えがある。このやりとりから何か始まればまるでドラマですが、2~3回短い言葉をやりとりしたあとで自然に消滅しました。
そもそもぼくは携帯電話のメールが苦手です。まめでもないし。とはいっても、正直なところ、ちょっと妄想はしました。どこか遠い雪の降る街から見ず知らずのぼくにメールをくれたひとは、どんなひとだろう。もし、この会話の延長線上で親しくなって会ってしまったら、どうだったのだろうか、と。
吉田修一さんの「春、バーニーズで」は5つの短編とモノクロの写真から成る小説集です。バツイチかつ子持ちの女性と結婚した主人公の筒井を中心に、その内面とあやうい日常が緻密に描かれていく。決して何かが起こるわけではありません。けれども何かが"起こりそうな"ざわざわとした気持ちを読後に残してくれます。
「パパが電車をおりるころ」という短編のなかでは、筒井は息子とマクドナルドに入ります。ハンバーガーを食べているとき、隣りに座った女性と何気ない話を交わすのですが、息子が携帯電話を使って絵文字を送りたい、とむじゃきに言ったことを発端として彼女とメールを交換してしまう。
そんな物語の一場面を読んでいて思い出したのが、冒頭に書いた間違いメールの記憶でした(前置き長すぎ。苦笑)。感想にもなっていない個人的なエピソードを延々と書くのもどうかと思ったのですが、忘れていた記憶をこの物語が掘り起こしてくれたので書いてみました。
もちろん吉田修一さんの書いた物語とは整合性がないけれど、個人的な記憶が同期したこともあって、この本の読後に懐かしくも切ない気持ちになりました。これが小説のうまいところではないでしょうか。追体験するわけではなくても、生活のなかで直面するいくつかの感情を、この短編群はうまく代弁しているような気がします。
「パパが電車をおりるころ」の物語は、通勤電車のなかでさまざまな回想をする場面で終わっています。筒井の携帯電話のなかには彼女のアドレスが残っている。そのままにしておけば、新しいメールに押し流されて、そのアドレスは消えてしまう。衝撃的な出会いでもなく、日常に埋もれて消えてしまうちっぽけなエピソードです。その後どうなったのかは語られません。すべてを語らずに、起こりそうで何も起こらない日常のなかの非日常を提示したまま短編は終わっている。
押し流されてしまうメールアドレスは、まさに日常そのもの、日常のメタファなのかもしれません。そして、押し流されてしまうかもしれないけれど、ふとした瞬間に人生を分かつ運命的な分岐点にもなる。
出勤時にクルマを運転しながら、衝動的にハンドルを左に切って日光へ向かってしまう「パーキングエリア」という作品では、ほんの気まぐれから筒井は別の日常に入り込んでしまいます。高速道路を疾走しながら失踪する気持ち、なんとなくわかるなあ・・・。非日常的な何かは日常のなかに潜んでいて、ありふれた日常のなかで、ふっと力が抜けたときに表面化するものです。失踪するぞ、と意気込んで失踪することはないような気がします。でも、何気なくハンドルを左に切ってしまうんだよね。
息子を預けて知人の結婚式に出席した後、ホテルで酔っ払った妻と嘘を付き合う遊びをはじめる「夫婦の悪戯」も、淡いぎりぎり感がありました。お互いに嘘を付き合って「強い衝撃を与えたほうが勝ち」というゲームに興じるのですが、妻は、若い頃に一度おじさんにカラダを売ったことがある、という話をします。筒井はといえば、オカマバーのママと同棲して食わせてもらっていた、ということを語ります。
実は嘘を付くという前提のもとに、ふたりとも本当の秘密を話してしまっているのですが(筒井に関しては事実で、妻の話は事実かどうかわからない。でも物語内において事実であるという確信がある)、ゲームは引き分け、ということでそれ以上詮索はしない。あやういバランスのもとに非日常という脇道に逸れずに済むわけですが、とても危なっかしい。
ぼくは吉田修一さんの小説では「最後の息子」「熱帯魚」「パークライフ」と読んでいて、「パークライフ」の冷たい二面性のようなものに打たれつつも辛いものを感じて遠ざかっていたのですが、この「春、バーニーズで」は冷たい日常に潜む非日常を感じさせながら、ぼんやりとしたあったかさも感じさせる小説でした。1月26日読了。
投稿者 birdwing : 2008年2月 2日 23:05
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