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2008年2月 1日

「倚りかからず」茨木のり子

▼Book08-004:凛とした強がり、そして女性らしいかわいらしさ。

4480423230倚りかからず (ちくま文庫 い 32-2)
茨木 のり子
筑摩書房 2007-04

by G-Tools

女性らしさとは何だろう、と考えたのですが、ぼくは「強さ」なのではないかな、と思いました。繊細さや優しさという視点もあるだろうけれど、男性にとって逞しさがあまりにもステレオタイプな観点であるのと同様に、女性らしさをあまりにも世間に氾濫している枠組みで捉えるのはどうか、と。また、子育てしている女性をみると、ほんとに強い(笑)。想像を絶する痛みを経験したということもあるかもしれませんが、この強さの前には男性はかなわないのではないでしょうか。

一方で女性の詩人や作家の言葉には、男性のぼくにはとうてい書けない感覚的な特質があり、そんなところに癒されたり惹かれたり、感心したりしています。男性作家の書くものも面白いのだけれど、論理的に説得される面白さです。一方で、女性作家の面白さは理解不能なところにあると思います。その言語感覚は真似しようにも真似できない。ちょっと悔しいんですけどね。

茨木のり子さんの詩集は「自分の感受性ぐらい」「歳月」を読んで、これが確か3冊目だと記憶しています。率直な感想を言ってしまうと、以前読んだ2冊に比べると、いまひとつ。詩の力が弱い気がします。どちらかというと論理的な側面が強調されていて、ほんわりとした感覚になれない。社会的な内容が多いせいかもしれません。

ただ、その背筋の伸びた感じというか、貴婦人というか、それでいてあんまり頑張ってもいない力の抜け方がいい。やはり本のタイトルにもなっている「倚りかからず」に、その感覚は凝縮されているような気がします(P.62)。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

思想/宗教/学問/権威とカタチのないものに依存することを拒絶して、最後には「椅子の背もたれ」に「倚りかかる」という身体感覚に落とし込む。このロジカルな流れを全部無にしてしまう身体への飛躍が、ぼくには非常に女性的な発想であると感じました。

つまり遠い思想や社会的なところから、急に生活レベルの視点にズームアップする。得体の知れない抽象的な世界から、ふいに台所の椅子という具体的な現実に焦点が合うわけです。そもそも考えてみると、思想/宗教/学問/権威に「倚りかかる」という表現自体が比喩的なわけで、どこか無理がある。「倚りかかる」のは椅子の背もたれだけでいい、というのはシンプルでありながら、ぐちゃぐちゃとさまざまなものに依存したり誤魔化したりしている現代の人々を痛烈に批判しています。

この清々しさが、茨木のり子さんの詩のよいところかもしれませんね。それは喩えると、「母親の叱責」のようなものかもしれません。何やってんのよ、しっかりしなさい、という。ぴしりと叱責しながら、どこか微笑んでいたりする。「自分の感受性ぐらい」という詩集の読後にも思ったのですが、そんなあたたかな眼差しを感じます。

と、あたたかさや女性らしいかわいらしさを感じるのは、ひらがなの使い方にもあるかもしれません。「じぶん」が漢字であるかひらがなであるかという違いだけで、この詩の重さは随分変わってくる。「鶴」という詩の最後の部分も同様に感じました。引用します(P.19)。

わたしのなかにわずかに残る
澄んだものが
はげしく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむれば
まなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき

しなやかですね。でも、言葉の輝きが感じられる。論理的な思考を強化することも大切ですが、美しい言葉に触れることができる感受性も大事です。ちょっと恥ずかしいものもあるのですが、ときには詩集も紐解きたい。そんな心の余裕を持っていたいものです。1月16日読了。

投稿者 birdwing : 2008年2月 1日 23:29

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