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2008年2月16日

危機感と創造、恒常性について。

考えることが趣味ともいえる自分ですが、風邪をひいて寝込んでしまって頭の切れが悪いです。熱は下がったのだけれど喉が痛い。関節もちょっと痛んでいます。あったかくして寝よう。でも寝るのが惜しい。ああ、どうすれば(苦悩)。

考えるテーマはいろいろとあるのだけれど、先週久し振りにDTMに着手したこともあり、クリエイティブとは何かということを考えていました。すると、お気に入りのブログで紹介されていた以下の本のことを思い出して気になって、どうしても読みたくなったので火曜日に購入。これです。

4480687602音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書 58)
茂木 健一郎
筑摩書房 2007-05

by G-Tools

音楽は「考える」ものではないかとも思うのですが、考えなくてもいいものまで考えがちなぼくにはうれしい。あまりの面白さにぐいぐい読んでしまい、木曜日には読了しました。脳科学者である茂木健一郎さんと、工業大学出身でありながら独学で作曲家の道に進んだ江村哲二さんの異色の対談なのですが、考えどころ満載です。面白すぎる。いちばん注目したのは「自分の内なる音を聴く」ということなのだけれど、美味しそうなので後日に取っておくことにします(笑)。

そこで別の側面をクローズアップします。創造性の背景には危機がある、ということです。

対談のなかで、江村さんが12時間ずっと楽譜を書き続けていたことがある、という体験をお話するのですが、それを「一種のフロー状態」という言葉で括って、茂木さんは「そういう状態のときには生命の危険とか感じませんでしたか?」と質問します(P.172)。そして次のようにつづけます。

茂木 脳には、あるところでブレーキをかけるという安定化機能がホメオスタシスとして備わっています。フロー状態というのは、その制限をかけているタガを外してしまった状態ですから、それをどう外すかということは生命体にとっては深刻な問題なのです。

ホメオスタシスは恒常性ですね。一応、Wikipediaから引用しておきます。

恒常性(こうじょうせい)、ホメオスタシス(ホメオステイシスとも)とは、生物のもつ重要な性質のひとつで、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質、あるいはその状態のこと。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重要な要素でもある。生体恒常性とも言われる。

19世紀のクロード・ベルナールは生体の組織液を内部環境とし、 20世紀初頭にアメリカ合衆国の生理学者ウォルター・B・キャノン(Walter B. Cannon)が「ホメオスタシス」 (同一の(homeo)状態(stasis)を意味するギリシア語から造語)と命名したものである。

趣味のDTMになぞらえて考えると、リミッターというエフェクターがあります。過剰なインプットがあったときに、その音を抑えるように働く。音が大きければ大きいほど作用して、一定のレベルに押さえ込む。ただ、レベル以下のときには作動しません。そのままの音をアウトプットする。コンプレッサーの機能の一部なのですが、恒常性とは、そのエフェクトのようなものと考えてよいのではないでしょうか(乱暴すぎますか。苦笑)。

江村さんのような偉大な作曲家となぞらえるのはおこがましいのですが、創造の過程で共感したのは、ぼくも集中してDTMをやっていると時間を忘れてしまうことがある、ということでした。眠らず、食べず(飲むことはあります。ビールだけど)、気が付くと鳥が外で鳴いていたりする。さらに創作にのめり込むと妙な恐怖感に襲われることがあるんですよね。これ以上は踏み込んではいけない領域なのではないか、のような。ちょっと神がかり的な状態です。これは音楽だけでなく、文章を書いているときにもたまに遭遇する感覚です。

これが精神のリミッターというか恒常性のようなものではないかと考えました。創作する主体が、精神的もしくは身体的に危機的な状況に置かれると発動して、あちら側(いわゆる非日常)へ行ってしまわないようにする。

そもそも何かに集中しすぎる状態というのは、一種の自閉的な状態でもあり、原始的な状態でいうと外敵から襲われやすい状態にあります。ぼーっと人生について考え込んでいるシマウマがいたとしたら、ライオンに食べられちゃいますよね。思考している状態というのは一種の無防備な危険な状態にあり、それを制御するために生物の本能的な制御がかかるのかもしれません。というか、どこかで読んだっけかな?この話。

その制限を突き抜けたところ、つまりタガを外したところにアートの世界があるのではないか、と考えたりしたこともあったのですが、同様のことが池谷裕二さんと糸井重里さんの「海馬」という本にも書かれていました。この本を読んで「頭のいい人、ストッパーを外すこと。」というエントリーで取り上げたこともありました。

昔の芸人さんは、たくさん恋愛をしなさいということをよく言われたようです。はちゃめちゃな事件を起こすことも多かった。同様にブンガクをやる人間や芸術家は、許されない恋をしたり酒に溺れたり薬をやったり、さんざんな放蕩生活をして、ぎりぎりのなかで結晶化した作品を生み出していたかと思います。

しかし、ふと考えたのは、芸術こそがストッパー/タガ/リミッターのようなものなのではないか、ということでした。

人間の身体はよくできていて、痛みを感じると脳内麻薬のようなものが出て痛みを和らげますよね。美しい音楽や文学は、それ自体が麻薬のように人生のさまざまな痛みを和らげます。だから、過剰な辛さや苦しさによって人間が押し潰されないように、美しい芸術などが生まれたのかもしれない。

しかし、まったく苦痛がない世界がしあわせかというと、そうではないでしょう。たぶん過剰にしあわせな世界に長期的に暮らしていると、進歩がなくなってしまう。だから、平和や喜びに溢れすぎている状態も生体にとっては危険ではないか。その危険を回避してバランスを取るために、破壊的なロックやアートが生まれるのかも。

というのはいま、ひとりの人間内の恒常性として考えていなくて、社会全体をひとつの生体として考えたときの恒常性です。ガイアとかホロンとか、そんな発想っぽいところがありますけれども。

黒川伊保子さんの「ことばに感じる女たち」という本を読んでインスピレーションを得たのですが、日本語の乱れは表面的にみると悪しき傾向かもしれないけれど、その傾向によって救われているひとたちもいるわけです。あるいは、インターネットや携帯電話やゲームなどの機器は確かに次の世代の子供たちに悪影響を及ぼしているかもしれないけれど、ではその悪を取り除けば社会はよくなるかというと、必ずしもそうではない。その悪しきものによって救われたり、ライフスタイルを進化させたりしているひともいるわけです。

当たり前といえば当たり前なのだけれど、社会にはさまざまな恒常性(的な何か)が複雑に絡み合って、微妙なバランスを取っているものかもしれません。その平衡感覚を維持しながら、破滅しないぎりぎりのところまで精神を危険に晒せるひとが、美しい何か・・・・・・切ない旋律であったり、透明な音であったり、ラジカルな文章であったり、激しく心を揺さぶる色であったり、そんなものを生み出せるのではないか。

といっても微妙ですね。タガを外したときに及ぼされる力が強くて制御の力が弱いと、あっちの世界に行っちゃいますからね(苦笑)。

ただ、やはり自分自身を危険に晒す覚悟がなければ、何事も成せないような気もします。危険は変化と置き換えてもいいと思うのですが(というのは自分が変わるということは、怖い=危機的な状況なので)、とんでもない変化に晒されるときに大きな創造のチャンスが得られるのではないか、と思っています。特に芸術家であればなおさらのこと。

考えてみると、さまざまな危機が地球上の生物を進化させてきたのではないでしょうか。いまぼくらが直面しているのは、地球環境の問題や情報過多による危機かもしれないけれど、その危機をきちんと受け止めることが大事ではないかと、あらためて考えました。ほんと怖いし、憂鬱なことが多い。でも、怯えるのではなく、逃げるのでもなくて、ただありのままに受け止める。

危機から生まれるのはアートだけでなくビジネスかもしれません。ただ、その危機感が大きければ大きいほど、振幅を揺り戻すようにして何かとんでもないものが創造できるのではないか、という期待もあります。

危機を楽しんでいるようで不謹慎かもしれません。あるいは楽観主義すぎる気はするのだけれど、安定した平凡な生活から生まれるものって、どこかやっぱりエッジがぼけてしまうんですよね。別に好き好んで不幸になることはないと思うのだけれど、創造の場において危機感(言い換えると緊張感。よい意味でのストレス)は重要ではないかと考えました。

投稿者 birdwing : 2008年2月16日 23:39

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