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2008年2月13日

オトナ考。

あのひとはオトナだなあ、というとき。一体何をもって大人であるか、ということを考えてみました。20歳を過ぎていれば成人なわけで、お酒も飲めるしタバコも吸える。仕事をして家庭に子供があれば、扶養する家族の親としてオトナにならざるを得ません。しかしながら、そんな大人であっても、精神的に子供的なひとはたくさんいる。あ、ぼくのことか(苦笑)。

自分の考えで大人の要素を列記してみると、次のような感じでしょうか。

●やりたくないことを率先して引き受ける
●顔で笑って心で泣く、背中で語るような耐える姿
●堂々として、物怖じしないこと
●博識で、お店やいろいろなことを知っている
●社会性があり、しなやかに対応できる

答え合わせをしようと思って「大人」でググってみたところ、トップに出てきたのは「大人の○○」。うーむ。確かにアダルトという意味では、それもありかもしれない。ちなみに○○のなかは玩具なのですが、安易に記載すると検索エンジンに引っかかってしまうので、うやむやにしてみました。というか、見てしまったんですけど、玩具のページ(照)。いろいろあるんですね。楽し・・・いやいやいや(汗)。

Wikipediaの「大人」には次のように書かれていました。

大人(おとな、adult: アダルト)とは、子供に対して、成人した人を意味する。さらには、精神構造が熟成していて目先の感情よりも理性的な判断を優先する人、もしくは自立的に行動し自身の行動に責任の持てる人の事を指す場合もある。または理性を優先するという点から、妥協や周囲への迎合、事なかれ主義などを、「大人の考え」「大人の都合」「大人の事情」などと揶揄して言う場合がある。

ふむ。なんとなく納得してしまったのは、感情よりも理性を優先する成熟した思考の持ち主である、ということです。ただし、理性ばかりを最優先すると、つまらない大人として揶揄される事なかれ主義になる。

また自立的行動で、行動に対して責任が取れる、ということも納得しました。行動の一部として発言もあるかもしれませんね。政治家やアイドルが暴言を吐いて謝罪する場面がよくありますが、ここでは「大人げない発言」とよく言われます。つい最近も倖田來未さんの発言が問題になっていたりしました。

何か気に入らないことがあってもかっとするのではなく感情を抑制することが大人、ということでしょうか。逆にいえば、感情を最優先するのが子供である、といえるかもしれません。これが好き、あれは嫌い、という感情面だけの価値判断を優先して行動を決めるのは、確かに子供的な印象があります。ぼくは感情という情報も、コミュニケーションにおいては重要であると考えているのだけれど。

というぼくがなかなか感情をコントロールできないひとで、そういう意味ではずっと(いまも?)大人になれない大人だったような気がします。そのために悩みもしたし、本も読みました。大人になるために何を読んだかというと、「論語」「孟子」「菜根譚」あたりの中国の思想書です。これもまたギョーザの毒入り事件でバッシングされている中国ですが、すばらしい思想を育てた国でもあり、そのあたりの精神を取り戻してほしいところ。

しかし、本で学ぶよりも現実の荒波にもまれたほうが、精神はもちろん身体的に大人であることの必要性を身に着けることができます。具体的には、仕事を通じて大人にならなければならない局面はずいぶんあるし、就職活動や転職活動に際しても自分の子供じみた考えに直面してかなり凹んだことがありました。ただ、その凹みをどうとらえるかが大事で、誠実に受け止められると大人になれる気がします。逃げたり批判すると、子供のままなんだけど。

そして親からも学ぶことが多い。ぼくの父親は教師で校長になったひとでしたが、教頭時代にはかなり苦労もしたようで、母によると毎晩、布団に寝型が付くぐらいに寝汗をかいていたらしい。辛かったのだと思います。そういえば酒がものすごく強い父が、げーげー便所で吐いている光景も記憶に残っています。それだけ飲まずにいられなかった何かがあったのかもしれない。それでも父は、そんな日の翌日にも早朝に起床すると、きりっとネクタイを締めて何事もなかったかのように出かけていきました。ぼくは父のスーツやネクタイの入ったクローゼットのクレゾールの匂いが好きで、その匂いに大人を感じたような気もします。

ぼくにとっては完璧な大人であった父ですが、一方で子供じみた発言もいくつかありました。ここで考えるのは、そもそも完全に大人になれる人間なんていないのではないか、ということです。

理性=大人、感情=子供という図式から考えると、二項対立のどちらかを選択できるようなものではない。理性だけ選択すると、スタートレックのミスター・スポックというか、アンドロイドのような人間になってしまう。どこからどこまでが理性(大人)で、どこからどこまでが感情(子供)か、という境界線も引くことができない。だからぼくが考えるのは、

大人と子供の折り合いをつけること

ということが大事じゃないか、と考えます。理性に偏重することもなく、感情に走ることもない。大人としての抑制を効かせながら、ときには子供のように無邪気に遊んでみる。そんなシンプルなことができれば苦労はないのですが(苦笑)、大人/子供という二元論から発想していたら何も進歩できない。大人批判をしていて、じゃあおまえは大人になったとき何をするのだ、そんな稚拙な発言や行動で大人なのか、といわれたら何もいえない。

若いひとの一部が(というのは若者全体という括りをぼくはしたくないので)子供だなあと思うのはそんなときで、未熟な子供という片方の立場でしか物事をみられず、自分がいずれは大人になる(ならなければならない)ことを考えられない。というぼくもかつてはそんな考え方をしていた若者だったので、よくわかる。そう、大人もかつては子供だったのだ。未熟だけれど熱い時期があった。

しかしながら、子供の立場から偏った思考を主張できることは若者の特権でもあり(だから大人は余裕を持ってそれを許容すべきであり)、そこから抜け出す(抜け出せるようにする)こと、多様性を許容することが成長である、とも思う。だから社会が大人であるためには、感情的にバッシングだけしていてもダメで(もしかすると倖田さんの問題も、中国の問題も)責任を十分に追求したあとで受け止める必要がある。

ぼくはすべての二元論的なものに疑問を抱いていて、たとえば強者/弱者、勝ち組/負け組み、男性/女性などカテゴリー化すること自体に何か思考の暴力というか、強制的な圧力を感じてしまう。大人を考えることによって子供ってどういうことかわかってくるように、思考のフレームワーク自体はよいと思うのだけれど、じゃあ自分はこっち、だからそっちを批判する、そっちの考え方はわかりませーん、のような仲間わけの思考は馬鹿げている気がします。

というわけでぼくは、大人でありながら子供でいたいと思うし、たいした経験はしていないんだけど、子供たちには大人として何かを教えてあげたい。大人になれるように育ててあげたい。

この余裕こそが、成熟した大人の思考なのではないか、などと考えています。できないけどね、そう簡単には(苦笑)。

投稿者 birdwing : 2008年2月13日 23:24

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