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2006年8月31日

Obligation to dissent.

世のなかの一般的な傾向なのか、あるいは相乗効果という形で影響を与え合っているのか、それともぼくの読む本の傾向が偏っているからなのか(たぶんこれだ)、本で読んだことなど、さまざまな示唆がつながって、ひとつの方向性のもとに収束されていくような印象を受けています。

たとえば、正解がひとつではない、ということ。多様化にしたがって、複数の正解が共存する世のなかになってきていて、いずれかを選択する「OR」の発想ではなく、いくつものオプションを想定することが重要になってきているようです。

つまり二律背反することのどちらも認める生き方であり、ある意味、ハイブリッドで生きるともいえる。したがって、この考え方を突き詰めていくと、勝ち組×負け組という思考も超えることができるのではないか、とぼくは思っています。いま世の中はどうしても、勝たねばならぬ的な思考であふれているけれども、勝ち負けの両方を包含し、さらにそうしたモノサシを超越するような生き方もあるような気がする。じゃあそれはどういう生き方なんだ?と言われると困るのですが。

村上龍さんと伊藤穰一さんの「「個」を見つめるダイアローグ」をはじめ、空気という観点から日本語の窒息感について述べられた冷泉彰彦さんの著作、あるいは大前研一さんの著作などを読んでいて思うのですが、日本のなかにいて日本について語るのではなく、海外という場に自らを置いて日本について語った視点は非常に鋭い。これも、日本人でありながら外国人の視点でみる、というハイブリッドの視点といえるかもしれません。

会社に忘れてきてしまったので記憶を辿りつつ語るのですが(細部は違っているかも。すみません)、今週のR25の絓秀実さんの巻末コラムで、靖国問題を外国人に聞いてみたところ「それの何が問題なんですか?」という質問が返ってきた、という話に興味深いものがありました。小泉さんはご自身の批判に対して批判的な行動を起こしていて、それがまた批判を生むという批判のループを生んでいることが指摘されていました。確かに、えーと何を論じていたんだっけ?と感じたことは確かです。大事だということはわかるのですが、テレビで長時間議論されていても、結局のところ何か今後の構想がみえてくるわけでもない。たくさん議論しちゃいましたっという充実感で終わってしまっている(多くの会社の会議もそうかもしれないですけどね)。

これも文化の違いだと思うのですが、本質的な問題から遠く離れたところで、揚げ足取り的に盛り上がってしまうのも日本的な現象のような気がします。このことは大前研一さんの本でも触れられていて、郵政民営化が大きく論争になっているけれども、ほんとうはその前提として何を変えようとしているかを徹底的に論じるべきである、ということが書かれていました。なるほどと思いました。

田舎に帰省してみて、あるいは北海道に旅行して、はじめて東京で暮らすことのよい部分や悪い部分に気付くということもある。場所を移動することで、思考が変わるということもあります。移動する場所はリアルであっても仮想的であってもよいのですが、自己を客観的にみつめる他者の視点を獲得できるか、ということが大事なことなのかもしれません。そして、ほんとうの他者であっても自分のなかに仮想的に存在させた他者であっても、持論というステレオタイプもしくはパターン化されたカチコチの思考に「反論」して「破壊」することが重要です。創造は破壊によって生まれるものであって、こんなものでまあいいか、みんな仲良く楽しくしましょう、という馴れ合いから生まれるものではない。創造的であるためには厳しさが必要です。

大前研一さんの著書から引用すると、マッキンゼーでは「Obligation to dissent(反論する義務)」が重視されているようです。反論ができない人間は評価が低くなり、「意見しない」人間に批判が集中する。ところがたいていの日本の社会では、意見する人間が疎まれて、調和を重んじる人間が尊重されるものです。

反論を認めるということは、許容力が必要になります。二律背反することの「どちらか」が正しくて一方は間違い、という発想があると、反論は認められません。権力的に却下するか、無視するか、反論を握り潰すことになるわけです。けれども反論を許容することはロジックを検証する上でも重要になるし、さまざまな視点から石橋を叩くことにもなる。反論を推奨する社会、議論できる社会が成熟した大人の社会であり、より高みに向ってこだわりつづけることも可能になるのではないでしょうか。

自分のことを反省してみると、DTMなどの趣味においても、こんなもんでいいか的な妥協があるような気がします。創造的であるためには常に自己否定が必要で、いまの自分を解体することで新しい何かが生まれてくる。実はいま3拍子の曲とか、マイナーコードの曲などをたくさん作っているのですが、まだまだ破壊が足りなくて、これは!という新しいスタイルがみえない。試行錯誤のなかで比較的まとまりつつある曲を仕上げようとしているのですが、やはりいままでのスタイルになってしまって、突き抜けられずに悶々としています。

趣味というプライベートにおいても仕事においても、自分を常に刷新しつづける行動が重要だと思っていて、昨日の自分は今日の自分ではないぐらいの勢いで臨みたい。そのヒントを与えてくれるのが(いまのところは)大前研一さんの本でした。今日、「ザ・プロフェッショナル」を読み終わったところなのですが、さすがにくたびれてしまい、一方で考えさせられたところがたくさんあってきちんと書きたいので、また後日しっかりとレビューしようと思っています。

と、いうことをつらつらと書きながら、あまりにも個人的な話になってしまったので、自分の小市民的な思考に我慢ができずに自分に再び反論を加えるのですが、なんかおかしいけど、まあいいか、という気の抜き方が、たとえば東京全体を停電に陥れたり、プールの排水溝のなかで幼い命を奪うようなことに通じるのかもしれません。そして、言いたいことがあるのに言えない、やりたいことがあるはずなのにできない、そんな窒息感のある社会だから、家を焼く、親を刺し殺す、自分を殺めるという行き場のない事件を生んでいるともいえるのではないでしょうか。

だからといって誰かが救済してくれるのを待つのは甘くて、自己を救済する強さが求められると思います。格差社会が悪い、と責任転嫁するだけでは、思考停止になります。社会を変える必要があると同時に、個人も変わる必要がある。行き場のない苦しみに自虐的に耐えているのではなく、なんかおかしいだろ!とまずは声を上げる必要がある。そのためのObligation to dissentがあるはず。

どうすれば変わるのだろう。どうすればもっと暮らしやすい社会になるのだろう。そしてぼくらはともかく、子供たちのために、どうすればしあわせな未来を残してあげられるのでしょう。みんな我慢しているし、社会のことだから知らないもーん、というわけにはいかなくて、大人たちのひとりひとりが背筋を正して、考えなければならないことのように思います。

パパやママがなんとかしてくれるからいいや、というわけにはいかない。2007年になると団塊の世代は大量に定年を迎えることになり(2007年問題と呼ばれているようです)、ちょっとばかり上の世代のパパやママたちも、自分たちの将来のことを考えるのにせいいっぱいになります。それぞれの「個」が、自分の生活はもちろん、社会全体のことを、これからの社会のことを構想しなければならない時代にきているのかもしれません。

まだ表層的ですね。自分に突っ込むのですが、視点が甘い感じがする。もう少し考えてみます。

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2006年8月30日

枠組から自由になる。

気がつくと自分で自分を言及していることがあります。O型だからとか、負け組みだからというステレオタイプな要因もあるだろうし、長男だから、のような育ちの環境に拠る原因もあるかもしれません。

言及することで安心もするのですが、逆にみえない枠組を作ることで、狭い領域に自分を閉じ込めているような気もします。もやもやした気分も言葉化するとはっきりするので、言葉にしてはじめて、ああそういうことだったのか、と気づくときもある。ただ、そうした言葉の枠組にとらわれていると、大きく変わることができなかったり、跳躍の機会を逃すこともあります。

北海道旅行で、層雲峡のホテル大雪というところに泊まりました。

taisetu.jpg

次の日に、上の地図にもある大雪山層雲峡ロープウェイとリフトに乗って黒岳の七合目まで行ったのだけど、うちの息子(長男9歳)がリフトに乗るのを最初は嫌がっていて、でも乗ってみよう、と説得して乗せたところ、逆にものすごく気に入って楽しそうでした。

lift.jpg

乗っているうちはとなりのぼくにひっきりなしに話しかけてきて、嫌がっていたけど乗せてよかったなあ、と思った。こういうとき、実の父親であるぼくは、息子に抵抗されると、そうかーじゃあやめとこうか、と妙に優しくなってしまうのですが、おじさん(というかぼくの弟)が「のるぞー。さあ、のるぞー」と強引に引っ張っていって、それが逆によかったりする。東京で暮らしていると子育てにも人との関わりにも過敏になってしまうのだけど、時には「強引に枠の外に引っ張り出す」ことも大切だなと思いました。

旅行中に読んでいた大前研一さんの「即戦力」という本に刺激を受けて、東京に帰って、早速、大前さんの本を2冊購入してしまいました。1冊は、「ザ・プロフェッショナル」です(現在、P.116を読書中)。

4478375011ザ・プロフェッショナル
ダイヤモンド社 2005-09-30

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「即戦力」もそうなのですが、大前研一さんの本を読むと元気になります。際限なく高みをめざそう、という気持ちになる。「ザ・プロフェッショナル」は若干古い本(2005年)なのですが、この本のなかに「「知的怠慢」を拝す」ということが書かれていました(P.29)。引用します。

たいていの人が「自分の限界を、自分で決めて」います。そのほとんどが、かなり手前に設定されています。なぜなら、いままでの経験と相談するからです。これは楽チンです。おそらく失敗しないで済むでしょうから、周囲から怒られることもなければ、バカにされることもありません。ですから、現実的で、賢い判断と言えなくもありません。しかし、私に言わせれば、小賢しい考えでしかなく、そのような人は「できるわけがない」と思ったとたん、すぐ諦めてしまう。これこそ「知的怠慢」なのです。

まあいいか、と思う気持ち。ほどほどで手を抜く気持ちが知的怠慢かもしれません。ひとつの業績を残すようなひとたちは、限界を自分でつくらない。とことん執着し、やり抜くわけです。この、こだわりが成果となる。

執着に対する重要性は大前さんも繰り返し述べられているのですが、ただ、ぼくはパラノイア的に執着することだけがよいのではなく、ときには執着していたことをすべて手放せるフレキシビリティが重要であるような気がします。ブログを書いてぼくが前進できたと思うのは、最初のうちは病的にこだわっていたのですが、最近はON/OFFが自在になってきたことです。書かなくても十分に平気だし、書けばものすごい量だってこなせる(ほんとうは量ではなくて質なんですけど)。自律できるようになった、ということでしょうか。

以下のようにも書かれていて、耳の痛い話でした。

知的好奇心が中途半端な人、すなわち知的に怠惰な人は、ほぼ例外なく自己防衛的で、変化に後ろ向きです。なぜなら、チャレンジ精神とまではいいませんが、新しいことへの興味に乏しいからです。常日頃から、目新しいこと、自分の知らないことを貪欲に吸収しようという姿勢が身についていませんから、いざという時、心理学でいう「ファイト・オア・フライト」(抵抗するか、逃げるか)になってしまう。

いまぼくはいままできちんと関わったことがなかった領域、たとえば英語であるとか、行ったことのない場所だとか、そういうことに対して積極的になろうと思っているのですが、異なった考え方や生き方を吸収できるぐらいにしなやかでありたいと思います。ただ、くだらないことに流されるのはあまりにも人生の無駄なので、それだけは気をつけたい。それから知的怠慢なひとをなんとかしようとしても、無理なことが多いので、そこに注力するのもやめておこうと思っています。

自分から変化しようと思わなければ、変われないものです。変わらないものを変えようとするから、無理が生じる。リフトに乗る前の息子のように気持ちが揺らいでいるのであれば、強引に引っ張っていくこともできるのだけど、硬直反応を示している場合には、触れないでおいたほうがいい。
旅行疲れが蓄積されていてまだ抜けなくて昨日は、人生は旅の途中、というステレオタイプなことを書いて、ブログを終えてしまったのですが、購入した大前研一さんの二冊目の本は、「旅の極意、人生の極意」です。最新刊のようです。何かの符号かもしれないと思って購入したのですが、挿入されている写真も美しい。

406212968X旅の極意、人生の極意
講談社 2006-07-07

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かつて大前研一さんは添乗員をされていたことがあったらしく、働くきっかけはクラリネットが欲しかったことであり、学生時代の北海道の旅行についても書かれていました。

旅にしても、ブンガクにしても、もちろんネットであっても、一歩踏み出すことで世界や風景は変わるものです。ぼくはいままで怠慢だったのかなあ、ということも反省しているのですが、常に一歩前をみていたい。愚痴を言っている場合ではなく、その先の未来へ、という感じです。

さて、今日は早めに帰宅して、子供の夏休みの自由研究を手伝いました。なかなか大変でしたが、明日で子供の夏休みもおしまいです。なんとか間に合いそうです。ほっとしています。

ほんとうに早いもので、もう虫の声が騒がしくなりました。

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2006年8月29日

「即戦力の磨き方」大前研一

▼Books062:危機感が必要、だからこそ自分で考えなければ。

4569648940即戦力の磨き方 (PHPビジネス新書)
PHP研究所 2006-04

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コンサルタントについて批判的なエントリーを書いてしまったこともありますが、大前研一さんは超一流であり、全面的に刺激を受けました。あまりにも自信のある言及は困惑するのですが、それだけ経験を積んだり努力されているひとなのだと思います。正直なところ、かないません。

この本ではまず下克上の時代のはじまりを解き、その時代に重要であるのは、「語学力」「財務力」「問題解決力」であるとします。そして、時代の先を読み「勉強法」「会議術」などによって、マニュアルではない自分自身の考え方に基づく「人生設計」をしなさい、と促します。その会議術の実践を家庭ですべきだという指摘もあって、ちょっと新鮮でした。旅行をしてリブートされたということもあり、ちょっと奥さんと議論してみたのですが、なかなか前向きなものがあった。

大前さんも批判されているのですが、恥ずかしながら、厳しい社会になるっていってもみんなそうでしょ、大丈夫でしょという感覚はあって、けれども年金問題などは、そのときになって怒ってもどうしようもないわけです。いまから政治に対してもセンサーを働かせて、たとえ個人であってもきちんと欧米なみに主張できるようにしたい。格差社会に対する答えもいくつか提示されていて、たとえば持ち家に縛られずに賃貸住宅という選択肢を検討するとか、クルマを持たないなど、常識を覆すような考えを提示されています。つまり、フレキシブルな対応(身軽な生き方)こそがこれから求められていて、会社や国家はあてにはできない。いたずらに情報に翻弄されるのではなく、きちんとした危機感を持ち、そのためにどうするかということを自らの頭脳で考えることが重要なんだな、息子たちにもそういうスキルこそ教えたいものだ、と考えました。8月29日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(62/100冊+52/100本)

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リブート、そして旅の途中。

北海道に行ってきました。でかかった。うまかった。そして楽しかった。ホテルに泊まった夜、そして昨日の夜にも息子は寝ぼけて「うひょひょひょひょ」と笑っていました。きっといい夢をみたのでしょう。最高の快晴に恵まれて、とにかく素敵な旅行でした。

家族全員というわけではなくて、東京から行ったのは、ばーちゃん(つまりぼくの母親)とぼくと長男(9歳)というメンバーでした。実は、ぼくの弟が今年の春から北海道の勤務になり、このツアーのスケジュールを立ててくれたのは全面的に弟なのでした。現地でクルマであちこち案内してくれたのも弟です。すべて弟のおかげといえる。持つべきものはできのいい弟かもしれません。ありがとう、弟。そして、しょうもない長男でごめん。それにしても乗り物に弱い息子を気遣いつつ、ばーちゃんの突拍子もない質問に混乱しながら、とにかく密度の濃い3泊4日を過ごすことができて大満足です。

弟の話によると、北海道では東京の影響がかなりデフォルメされた形で出てしまうらしく、スープカレーなども流行っているらしい。実は最初の日に北海道大学でクラークさんにご挨拶をした後、デジタルカメラを地面に落としてしまって壊してしまったのですが、札幌のヨドバシカメラで、新しいデジタルカメラを購入してしまいました。3万円弱のそれほど高いカメラではないのですが、東京と同じヨドバシカメラがここにもあるというコンビニエンスストア的な便利さを感じつつ、品揃えが充実していることに驚きました。やはり旅行者の需要があるからでしょうか。とにかく、中国人、韓国人のほか、アメリカやオーストラリアからの外国人の旅行者も多く、最終日にラーメン共和国でラーメンと食べていたら、ウィリアム・ギブソンを読んでいた(たぶんひとりで旅行をしている)外国人のおばあさんに、うちの息子は「かわいいね」などと声をかけられてしまったのですが、東京よりもある意味で国際化されているような印象も受けました。

ノートパソコンを持っていくこともできたのですが、さすがにモバイルでブログを書くのはどうかと思いました。なにしろ、ビデオカメラとデジタルカメラで記録するだけでもせいいっぱいです。記録などしないで、自分の目と身体で旅行を楽しんだ方がどんなにいいだろうか、とふと思った。しかしながら、旅行から帰ってデジカメの画像とビデオの鑑賞会をしたところ、みんな大喜びだったので、ああ記録しておいてよかったなあ、というのが正直な感想です。結構しんどかったので。

それから、うちの夫婦はあまり携帯電話を使ってメールのコミュニケーションをしないひとたちなのですが、今回の旅行では、とにかくメールで頻繁に連絡を取り、しかも写真添付でコミュニケーションをしていました。要するにぼくは長男の写真、奥さんは次男の写真を添付しながら交信するのですが、なるほど、便利な時代になったもんだなあと思いました。しかしながら、奥さんからのメールは「いまどうしてる?」「東京は寒いけど、そちらはどう?」などのように全部疑問符付きのメッセージで、はじめて飛行機に乗って遠くを旅行する長男に対する心配をひしひしと感じました。ぼくに対してではないんですけどね。

そんな顛末のあれこれを、はてなマップを駆使しながら柄にもなく旅行記を書こうと思ったのですが、さすがに疲れてしまったので、今日はイメージ画像だけ掲載しておきます。週末にでもまとめるつもりです。イメージ画像といっても、ぼくがデジタルカメラ(FinePix V10)で撮影した画像です。

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ところで、飛行機のなかで読んだ大前研一さんの「即戦力の磨き方」は非常に刺激的だったのですが、勉強法について書かれた章でリブートの必要性を述べられています。以下、引用します。

だから、もし自分が、学校型秀才だとわかっている人は、一度これまでの知識ややり方を「リブート」することをお勧めする。リブートというのはコンピュータが不調になったとき、電源を切って再び入れ直す(ブートアップ)というIT用語だが、もともとはカウボーイが、靴を脱いで靴底の石ころを取り除くという意味である。

聞いたことはあったのですが、アメリカでは、「リブートのための、ブートキャンプという研修プログラムが、たいへんな人気」だそうです。

そして、ぼくの北海道旅行も、まさにタイミングよくこのリブートのための旅行でした。電車やクルマに乗りながら、いろんなことを考えました。そのなかにはいままでの生活をまったく否定するような考え方もあったのですが、旅行という非日常的な時間と空間のなかで感じたことを、できれば維持していきたい。旅行を楽しみつつ、そのなかで仕事について、息子の教育について、生活について、あらためてゼロベースでいろいろなことを考えました。ぼくにとってのブートキャンプかもしれません。

今日、通勤電車に揺られて、会社の近くの定食屋で昼食を取りながら、なんだかまだ旅行がつづいているような気がしていました。マンネリのなかでつづく毎日だと思うと精彩も失われるのですが、永住する場所ではなく、旅行者として束の間の時間を過ごす場所と捉えるとすると、会社に対する考え方も変わる。切り捨てるべきことは切り捨てられるし、一瞬の付き合いだからこそ大切にしたい関係もある。

ぼくらは人生という、旅の途中なのかもしれません。

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2006年8月23日

黙らないこと、前向きになれずに。

ブログを書いているといろいろなことがあります。いまだからこそ少し冷静に書けるのですが、挑戦的に仕事場の批判をして、やんわりと警告されたこともありました。

ただし、それが社会です。そんなことは当たり前かもしれない。いま重松清さんの「小さき者へ」という小説を読んでいるのですが、彼の小説のなかに出てくるお父さんは、リストラだったり子供が引きこもりだったり、かなしい状況下にある父親ばかりで読んでいると痛いです。

結局のところ、いまでも後遺症は消えていません。新しい領域を開拓するときにわだかまりがあり、気持ちが萎えつつあるし、アンダーグラウンドの影に脅かされて、やりにくい。

エントリーを削除させること。言葉を奪うこと。発言の機会を減らしたり、せっかくの前向きな発言を無視すること。耳を傾けないこと。そのような圧力的な行為は、いっときは負け組である弱者を黙らせることができます。けれども黙るという重苦しい空気のなかで、冷泉彰彦さんの著書「「関係の空気」「場の空気」」に書かれている「言葉の窒息」が生まれてしまうことになり、結局のところ、窒息の反動がテロのような行動につながったりもする。

だから聴くことが重要なんですね。大前研一さんの「即戦力の磨き方」の冒頭には下克上の時代が到来したことが書かれていますが、ぼくは、そうだそうだ、という肯定よりも、新しい秩序を回復することが重要であると感じました。それは勝ち組・負け組という格差社会的な秩序ではなく、年老いたものを敬い、若いひとたちの未来のために教育を重視し、弱者をいたわることができる当たり前の秩序です。そのために「対等」なコミュニケーションができるような言葉の在り方が重要になる。

話は変わり、ひとりの親として反省すべき点もあります。自由研究の作文を前にして、9歳の息子はフリーズしたように黙ってしまったのですが、彼が黙ってしまうのはなぜだっただろうと、そんなことをぼくはずーっと考えつづけていて、どうすればその窒息状態を回避して、思っている言葉を自由に話せる状態ができるのだろう、とあれこれ思いを巡らせています。性格なものかもしれないけど、性格だったとしても、彼のなかに眠っている言葉をひとつでも多く引き出してあげたい。コーチングを学んだのですが、まだまだ役にはたつレベルではなく、けれども、言葉を話す、綴る楽しみを教えてあげたい。

何度か、北風と太陽の話を引用したのですが、ぼくは冷たい風でコートを奪う北風ではなく、ぽかぽかとしたぬくもりのなかで自然かつ自発的にコートを脱がせる太陽でありたいと思っています。

その発想の延長線上に、格差社会とか、犯罪やしょうもないトラブルばかりの世のなかを変えていけるような何かがあるような気がする。とにかく、脅しでは何も変わらないのではないか。ネガティブな考えも含めつつ、前向きに考えてみようとしたのですが、なかなか今日は前向きになれません。

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2006年8月21日

それぞれの夏。

どきのトリトンスクウェアにある家電量販店の前を通りがかったのですが、人だかりができていて、なんだろうと思ったら、そういえば今日は甲子園の決勝だったのでした。人だかりの視線の先には、家電量販店のまえにあるテレビの画面がありました。みんな釘付けになっている。男性ばかりかと思うとOLさんもいて、向かいにある店のお客さんも店員さんも夢中。

なんとなくこの風景はいいな、と思いました。どこかでみたことがある、と記憶を辿ってみたところ、「Always三丁目の夕日」でテレビがまだ普及していない頃、テレビを購入した家に近所の全員が集まってみるシーンがあったことを思い出しました。ワンセグなどが登場すると、自分の携帯電話でテレビをみることができる時代になるのかもしれませんが、みんなで店のテレビをみる、というシチュエーションもよいと思います。知らない同士がそこで仲良くなったりして、そんな「にわかコミュニティ」もよいものです。

といっても3時を過ぎて昼食にありついていなかったぼくには、暑さと空腹で甲子園どころではなく、できればごはんが食べたい、味噌汁もほしい、とうろうろ彷徨っていたのですが、さすがにランチタイムを過ぎてお店は準備中の札がかかっていて、そのほかの店はテレビをつけて甲子園に夢中なひとたちばかりで、仕方なく喫茶店に入ってサンドウィッチと飲み物で空腹を埋めたのでした。

夏休み明けの今日、会社では日に焼けたひとが多かったようです。健康的な感じがいいなと思いました。さすがに最近、年をとってしまったぼくはあまり日に焼けないようにしているのですが、海に近い田舎で育ったぼくは、若い頃には、やはり夏に色が白いのはなんとなく落ち着かないものがありました。といっても東京育ちの子供たちにはそんな父の気持ちはわかるはずもなく、まだ幼稚園に入る前の長男を海に連れて行ったときには、砂が足につくのが嫌だったらしく、抱えたまま砂浜におろそうとすると足を引っ込めて抵抗したことがあり、困惑するやらかなしいやら、複雑な気持ちでした。確かに海の砂はべとべとするものですが、ぼくの田舎の海の砂はとてもきれいな白い砂で、その砂がぼくにとってはひそかな自慢でもあったので、なんとなくかなしかった。とはいえ、それは育った環境にもよるものだと思います。うちの奥さんはあまり海が好きなひとではないので、最近は帰省しても海に行かないようになりました。

それにしても東京は残暑が厳しく、トリトンスクウェアから帰ろうと思ったら動く歩道が点検中で、炎天下のなか、地下鉄の駅までとぼとぼ歩いていたら、思わず蒸発しそうになりました。さすがにスーツは汗でべとべとになってしまって、こういうときに公衆トイレではなく公衆シャワーがあったらいいのに、と思う。さすがにそんなものは少数の希望にすぎなくて、一年中、運営できるものではないので採算が合わないのだと思うのですが、シャワーでも浴びてシャツも取り替えたら、しゃきっと気分も変わりそうな気がしました。理想的なのは、どんなに暑い夏であっても涼しげにスーツを着こなす紳士なのですが、厳しい残暑にそうもいきません。高校球児の汗はさわやかですけど。

ビジネスマンのみなさま、暑い夏にお疲れさまです。

+++++

■コミュニティというとインターネットを思い浮かべてしまうのですが、ふるさと、地元、地域社会というのも大事かもしれませんね。東京では、あまり密接に関わることができないのですが。幼稚園によっては、非常に家族ぐるみの付き合いができるようなところもあるようで、うらやましいです。

引用した「Always三丁目の夕日」は、ノスタルジックで、近所づきあいってあったかいと思う映画です。そういえば、夏に賞味期限が切れたケーキ(?)を食べて、お腹を壊すような場面もありました。気をつけましょう。

B000EPE77SALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]
山崎貴
バップ 2006-06-09

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2006年8月19日

Jam Films 2

▽cinema06-052:短編のなかに人生を詰め込む秀逸さ。

B00064X9P8Jam Films 2 [DVD]
アミューズソフトエンタテインメント 2004-12-24

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以前、Jam Filmsを観たことがあったことと、先日ショートフィルムを借りてみたところなかなか面白かったので、オムニバス形式の作品をまた借りてしまいました。長編の場合には腰を落ち着けて観なければならないのですが、軽い気持ちで空き時間をみつけて楽しめることがショートフィルムのよさかもしれません。3本の作品が収録されているのですが、ぼくがいちばん気に入っているのはMr.Childrenの曲から構想を得たという4作目「FASTNER」です。空き地で少年と少女がキスをするシーンから、病院で息をひきとるおじいさんのシーンまで、ひとの一生とは何か、ということをテツガク的に深く考えさせてくれる映画で、「2001年宇宙の旅」のスタンリー・キューブリック監督的なものも感じさせます。ちょっとじーんときました。

1作目「机上の空論」では、まず通販番組的というか、日本人の恋愛ノウハウについてのめちゃめちゃなマニュアル映像があって、その実践編というカタチで映画が展開されます。マニュアル通りにはいかない結末がなかなか笑えました。2作目「CLEAN ROOM」は、映像が美しい。父を亡くしたことで無菌室から出られなくなる少女の話ですが、深みのある映像の色調がよいと思いました。3作目「HOOPS MEN SOUL」では、須賀貴匡さんが出演されていて、おお「仮面ライダー龍騎」のひとだ!と懐かしく思いました。「仮面ライダー龍騎」は長男とよく観ていたのですが、13人ものライダーが出てくる異色作です。それにしても須賀さんは龍騎のまんまの演技だなあ、と思いました。8月12日鑑賞。

公式サイト
http://www.jam-films.com/2/

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「「関係の空気」 「場の空気」」冷泉彰彦

▼book06-059:日本語2.0、それは社会のために。

4061498444「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)
講談社 2006-06-21

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日本語のもつ「空気」に着目し、1対1の場合には「関係の空気」、1対多の場合には「場の空気」が支配し、その空気に抗うことができないところに日本の「窒息感」があるとします。殺人やテロなどの社会的な問題を日本語の問題とする視点に切れ味のよさを感じました。そして、冷泉さんにそれができるのは、アメリカという社会から日本を眺めているという、内部でありながら外部というスタンスが重要であるように思いました。だからといって徹底的に日本の文化を批判するのではなく、欧米人からの指摘に対して擁護もしている。

とはいえ、あらためて冷泉さんが描写する企業などのシーンを読んでいると、正しいか正しくないかではなく、空気が支配する日本の文化はちょっとおかしいのではないか、という思いを強めました。子育てと総合職を両立させようとすると、賞与査定の評価が下がるという女性に対する「空気」も、残業や休日出勤をして自虐的にやたらと忙しいことを「善」とする空気も、どこかやっぱりおかしい。

では、どうするか、ということについて、冷泉さんの言葉を借りると「対等」な日本語を取り戻すことが重要である、という指摘は納得できることでした。対等というのは下のものがタメ口をきくのではなく、きちんとした「です・ます」調による尊敬語を使うということです。そして美しい日本語に帰るという幻想をやめて、新しい日本語の在り方を探すことが重要だと思いました。それは、日本語2.0といえるものかもしれなくて、日本語の未来を構想することで、言いたいことも言えない社会の窒息感や、略語などの暗号で分からないひとを排除する格差社会の進展や、そんな社会をよくすることができるのかもしれない、と考えました。非常に示唆に富んだ一冊なので、山本七平さんの「「空気」の研究」も読みつつ、またブログで考察してみたいと思っています。8月14日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(59/100冊+52/100本)

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「海のふた」よしもとばなな

▼book06-058:絵本のような、けれども現実的な。

4122046971海のふた (中公文庫)
中央公論新社 2006-06

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よしもとばななさんの作品は、人物や情景の設定がマンガ的だと思うのだけど、なんとなくそう思って読んでいると神秘的な何かにがーんととばされて、ぼくの場合、困惑と衝撃を受けることが多いようです。西伊豆の実家でかき氷屋をやっている主人公のところに、顔にやけどの痣が残る「はじめちゃん」という女性がやってくる。彼女は、祖母を亡くしてその遺産相続などの人間関係に疲れ果てているのだけど、ふたりで夏を過ごすうちに、お互いに人生で大切なものは何かということを見つめなおす、というストーリーです。スローライフというか、ロハス的な内容でもあり、けれども立ち直ってインターネットで自分の場所を確立しようとする「はじめちゃん」が今風でもあり、不思議なファンタジーでありながら現実でもある不確かさが感じられます。ただ、人間の醜さに目をつぶるのではなく、地域も自分も変わってしまうことをよしとすることが、きちんと生きていくためには大切なことかもしれないな、と思った一冊です。名嘉睦稔さんの版画26点が挿画として掲載されていて、この版画は文庫ではなくもう少し大きなサイズでみたいと思いました。8月15日読了。

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帰省、そして東京とネットふたたび。

1週間ぶりです。帰省して家族とのんびり過ごしました。その間、ネットも断ちました。東京では大変だった方も多いと思うのですが、都内の停電や靖国参拝の議論を、焦点がぼけた田舎の古いテレビのブラウン管の向こうに眺めていました。なんだか遠い世界のようでした。田舎で特筆することもない毎日を平凡に過ごしたのですが、ぼくにとってはターニングポイントのような夏でもあったような気がします。

帰省していつも思うことは、まず目にとびこんでくる緑の色と量が東京とは圧倒的に違う、ということです。そして、遭遇する生き物の種類と量も圧倒的に違う。

東京に暮らしているとわからないのですが(といってもぼくは都内で暮らしているからかもしれないのですが)、蝶というのはこんなに種類があったのか、と思いました。アゲハ蝶であっても、びみょうに異なる種類の蝶に何匹も遭遇して、そのたびに息子は大喜びになる。カワトンボ(たぶん通称で、ほんとうは別の名前があると思うのですが、黒い羽で胴体が青緑色のトンボ)をみつけて、長男は「めずらしいトンボだよ。あんまりみられないんだよ!」と興奮していたのですが、ぼくにとっては、そうでもないだろう、よくみたもんだよ昔には、という感じでした。東京生れの子供たちにとっては貴重なトンボだったのでしょう。

海にも山にも近いぼくの田舎は、さいわいなことに自然に恵まれています。仕事先で自分の田舎を告げると「いいところがふるさとですね。うらやましい」ということをよく言われるのですが、個人的にはよいところというよりも厄介な場所で、観光地としてはすばらしい場所だとは思うのですが、住む場所としてはおおいに疑問が残るものです。

ロハスだ、自然がいちばんだ、さあ田舎へ引っ越そう、ということが言われます。しかしながら、自然にもよいところと悪いところがあり、蝶やトンボならまだよいのですが、とんでもない虫がいたりするものです。美しい田舎というのは「都会人が描いた田舎」の理想あるいは幻想ではないか、と思うのです。過疎化が進んでいて対策は必要かもしれないのですが田舎はやはり田舎であり、面倒であったり厄介なものの上に成り立っています。面倒や厄介を避けるのであれば、都会で暮らした方がずっと快適です。

さて、ぼくらの田舎では、お盆には迎え火で祖先を迎え、先祖とのひととき一緒にすごし、送り火でまた祖先にさよならをする、という風習があります。このお盆の期間に、田舎の家には、祖先たちだけでなく一度きりの昆虫たちもやってきました。

まずは部屋のなかにジャノメ蝶が迷い込んできたのですが、3歳の次男がとことことこと近づいていくと、ぱっと右手で捕まえてしまった。3歳児に捕まえられてしまう蝶はどうだろうと思ったのですが、その風景は見事でした。つかまえたまま固まっている息子に、「お盆だから離してあげな」と言って網戸を開けてあげると、彼ははそのまま手を離したので、蝶はひらひらと明るい庭へと飛んでいってしまいました。

ただそれだけのことですが、捕まえてほしいという感じで迷い込んできた蝶に、ぼくはどうしても先祖の姿を重ねてしまうわけです。じいさんが蝶に姿を変えてやってきて、孫と遊んでくれた、という感じ。そんな物語をつくって、その光景を眺めてしまう。

その日の夕方、今度は居間の窓をこつこつと叩く音がするので、そちらの方をみると、大きなオニヤンマが空中に静止していました。ぼくが少年の頃にも、夕方5時頃になると、優雅な感じで裏山から道の方へ軍艦のようにすいーっと飛んでいくオニヤンマがいたのですが、といってもそれは数十年前のオニヤンマとはまったく違うわけですが、ああ、また来てくれたんだ、という気がした。さらに、昼間のジャノメ蝶のじいさんが今度はヤンマに変わって来てくれたか、という気もするわけです。大喜びの息子のためにオニヤンマは、何度もすごいスピードで滑空してみせたり空中に静止してみせたりしたのですが、やがて夕食がはじまるとどこかへ消えてしまいました。

もちろん夕暮れ時に蚊などのちいさな昆虫を食するためにヤンマは勝手にやってきたわけで、人間の勝手な物語のなかに自然を絡めとってしまうのはどうかと思います。しかしながら、ぼくらの祖先はそんな自然のなかの一回性の偶然から、神話や物語を見出し、自然と人間をつなげて生きてきたのではないか、とあらためて考えました。テレビもインターネットもなかった時代のひとたちは、きっとそうやって自然が与えてくれた偶然を物語にして楽しみ、ときには自然に感謝したり畏れたりしながら、自然と共存してきたのだと思います。

そんな田舎の生活のあとで東京に戻って感じたのですが、東京というのはこんなに人がいたんだ、とあらためて驚きました。電車のなかではほとんど密接するように人がいて、さまざまなファッションがあり、露出度も高かったりする。とにかく人と人のあいだに距離がない。蝶などの昆虫をみていた息子たちの目が、みるみるうちにぼうっと疲れていくように呆けていって、旅の疲れなのか、あらためて刺激的な東京に適応しようとしているのか、よくわかりませんが、こいつらも大変だなあと感じました。

けれども、こうした東京の生活もぼくは嫌いではなく、むしろどちらかといえば好きで、インターネットの雑然とした世界にも戻ってきたのですが、不健康な部分もいろいろと感じつつ、1週間ばかりネット断ちしたあとでは新鮮ですらあります。ブログスフィアも、もうひとつのふるさとのようなもので、ただいま、という感じでしょうか。

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2006年8月12日

イニシャル ~岩井俊二初期作品集~

▽cinema06-051:短編の文法、展開のうまさ。

B000CST6ZUinitial イニシャル ~岩井俊二初期作品集~ [DVD]
ポニーキャニオン 2006-02-15

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岩井俊二監督がまだ監督としてデビューする前の作品集。4巻の構成なのですが、3巻目を借りてきてしまいました。2つの作品が入っていて、いずれも面白かった。

ひとつめの「夏至」は、暑い4畳半の部屋のなかで胡瓜を食ったり、うつぼ(?)のような水槽の魚に餌を上げたりする女性の一日の話で、畳の上にタライを持ってきて行水したり、胡瓜の食べすぎでお腹を壊したり、殺人事件のような記事ばかり新聞から切り抜いてスクラップしていたり、かなりアブナイ。けれども、胡瓜の食べる音を強調したり、汗をかいた肌を大きく映したりする映像が妙にエロティックで、窒息しそうな感じ、官能的な何かが伝わってきます。最後の場面で、ああそういうことか!という展開になっているのがうまい。

ふたつめの「オムレツ」は、小学生の男の子と女の子が喫茶店でパフェを食べているシーンからはじまるのだけど、実はこのふたりは幼いカップルというわけではなく、離婚した父(男の子)と母(女の子)というそれぞれ離れ離れになった姉と弟で、男の子の口から、離婚後もうじうじと奥さんのことを思い出しては泣く父親(高田純次さん)のエピソードが語られる。オムレツを作ろう、ということで作りはじめるのだけど、どうしても奥さんが作ったオムレツの味にならなくて悩む、そして・・・という物語なのだけど、大人よりも子供の方がずっとしっかりとした考え方をしていて、ひょっとしたらこれが現代の親子像なのかなとも思いました。ちょっと泣けた。

いずれにしても映像はもちろん、短編のなかでテンポよく物語を展開したり、意外性で惹きつけるような手法には、どこか荒削りではありながらもあらためて岩井監督の才能を感じさせるものでした。って、なんだか締めの言葉が、ふつうのレビューすぎるんですけどね。8月12日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(57/100冊+51/100本)

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「ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち」ロバート・スコーブル

▼bool06-057:進行形であることがブログのよさかもしれない。

4822245292ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち
酒井 泰介
日経BP社 2006-07-20

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以前、ものすごい勢いで批判してしまい、加速しすぎてあやうくアメリカ批判にまで展開しそうになってしまったのですが、その後読み進めていると、ぼくが中盤で指摘していた「文化の違いをわかっていない」ということは、自省されていて、なんとなくぼくのほうも最後まで気分を落ち着けて最後まで読みました。ただ、やはり懐疑的なのは、全面的にブログや新しい技術を肯定する姿勢であり、「良いブログ、悪いブログ」という善悪のような単純思考ですべてを考えようとすることです。ブログやSNSなどWeb2.0的な在り方というのはまだ確立されていないものであり、いま変化しつつあるものだと思います。したがって、書籍という形態で読むよりも、書きかえつつあるブログで読むほうがよいのかもしれない。そんなことを感じました。8月9日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(57/100冊+50/100本)

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リアルライフの拡充。

今日の午後には、ものすごい雷鳴と豪雨でした。カミナリは電気で、豪雨は水にすぎないといえばそれまでなのですが、そんなものとして還元できない凄さがあります。人間だって、身体のほとんどは、水分で脳の活動は微弱な電気にすぎないのだけど、そんなものがどうして楽しんだりかなしんだり、つらくなるのだろうと思う。不思議です。

そんなめちゃくちゃな天候のせいか、飲みほうけたり仕事のあれこれストレスが蓄積されてしまったせいか、本日は非常にテンションが低く、ぼんやりと過ごしてしまいました。トレーニングと同様、ブログも書きつづけていると、書くことが習慣になるので苦にならなくなるものです。けれども一日でも止めると、なかなか身体が重くなって、書くことは苦痛になったりします。ただ、その苦痛を押して書きはじめると、いくらでも書けるようになってしまって、かえって書きすぎたりする。ほどほどがいちばんよいのですけどね。

ブログを書いて変わったことといえば、最近は、テキストで考えるようになりました。ブログ症候群といえるのかもしれないのですが、通勤電車に乗っているときに、書きたいアイディアがひらめくと、知らず知らずのうちに頭のなかでテキストを生成している。つまりイメージのキーボードをぱちぱちと打って、この部分は言い換えたほうがいいな、など推敲しているわけですが、そうやってエアーキーボードで打った文章は覚えていることもあれば、すっかり忘れてしまうこともある。かつては忘れてしまうことがものすごく悔やまれたのですが、最近は忘れるがままに任せているようなところがあります。

というのは自分が生成するテキストに執着がなくなってきた、ということもあるかもしれません。以前は、きちんと書いたものをバックアップしていたのですが、最近は書いたものが莫大な量になってきて、消えちゃってもまた書けばいいや、という妙な楽観主義になってきている。書き流してしまっているともいえます。果たしていいのだろうか、と思う。最近読んだマーケティング系のブログで非常に示唆に富むものがあり、刺激を受けました。日々の雑感をまとめるのもいいのですが、もう少しきちんと書きたい意識も高まっています。

さて、本日から夏休み(第一弾)に入りました。夏休みなのでリアルライフを充実させるために、1週間ほどブログはお休みすることにします。ゆっくりと充電&放電して、またブログの質をあげていきたい。

お忙しい方もいるかと思うのですが、みなさま、よい夏をお過ごしください。

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2006年8月11日

混在する文体が生むもの。

最初のうちは明確にそうではなかった気もするのですが、ぼくはブログを書いているうちに、「ですます調」と「である調」が混在する文体を使うように変わっていきました。

なぜ「ですます調」を選択したかというと、これは自分でも意識していて、時として厳しい批判にもなりがちな文章なので、クッションが必要であると考えたわけです。また、それでいて実はのんびりとやわらかい文章を書いていたいので、ひらがなの持っているやわらかさを生かしたかった。「ぼく」という言葉を「僕」という漢字ではなくて、ひらがなにひらいているのも、意図的なものです。ただ、である調の断定の強さや歯切れのよさも捨てがたく、結果としてふたつの文体が混在するようになってしまったのだと思います。学校の作文の授業的には、ゆゆしき文体かもしれないのですが、なぜかこの文体が自然であって、いまではすっかり定着しています。

この文体の混在について、いま読んでいる冷泉彰彦さんの「「関係の空気」「場の空気」」という本にも書かれていて(現在、P.132を読書中)、非常に考えさせられるものがありました。

4061498444「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)
講談社 2006-06-21

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表現を混在させることは、言語学においては「コードスイッチ」と呼ぶらしく、「流行するコードスイッチ話法」という章(P.96)でそのことが触れられています。

まず、コードスイッチは最近になって登場したものであり、80年代ぐらいまでにはそうではなかったと書かれています。

八〇年代ぐらいまでは、話し言葉の場合、相当に親しく対等な関係では「だ、である。」、それ以外のフォーマルな場では「です、ます」体という枠組みが存在していた。その枠組みの中で話している限りでは、お互いに違和感なく会話ができたのである。

作文指導のなかでも守らなければならない基本中の基本であり、このルールを無視するとまず作文では落第点だったのかもしれません。ところがいまでは、教師がそういう口調になっていると冷泉さんは指摘します。小学校高学年の教室における先生の次のような言葉を例に挙げています。

「みんな、いいかな(だ、である)。そろそろ、時間ですよ(です、ます)。できた人は出してね(だ、である)。そうそう、名前を忘れないように注意してくださいね(です、ます)。」

この実例は説得力があります。テレビのドラマでも、そんな口調になっています。冷泉さんは、この教師は「だ、である」調の「ストレートっぽさ、パーソナルな感じ」を使って子供たちとコミュニケーションを促進するとともに、教師として「フォーマルな、そして厳かな宣言」にするために「です、ます」調を使っているとします。そして次のようにまとめます。

そして、文体を変えることで、リズムの変化がつき、一方的にその場を支配している冷たい感じを避けることができるのだ。

なるほど、と思いました。ただ、ぼくとしては違和感があったのは「だ、である」調の方が、フォーマルな感じがしたことです。というのは論文調だからということもあるかもしれないのですが、選挙演説にしても「だ、である」で語った方がストレートで説得力がありそうで、率直にいうと偉そうに聞こえる。俺様的な言語である、といえます。男性的かもしれません。一方で、「です、ます」はものごしがやわらかく、女性的かもしれない。ということは、それらが混在するというのは、男性/女性のハイブリッドな文体、といえるのかもしれない。

さらに考えてみると、論理的な左脳発想をするときには、「だ、である」調の方が論旨がはっきりしそうです。一方で、「です、ます」にすると、せっかく骨格のしっかりした論旨も輪郭がぼやけたものになってしまうのですが、一方で右脳的な感覚のみずみずしさが生まれる。

冷泉さんはこのコードスイッチ話法が、「下から上には使えない」とします。つまり上司から部下に話をするときには、混在話法でもかまわないのだけれど、部下が上司に話すときには「です、ます」調限定となる。最近は、上のものにタメ口をきくような若い人も増えてきたらしいのですが、原則的に部下が上のものに、「だ、である」調を使うのはNGとのこと。

ここで、日本語が「対等」であることを取り戻すべきであると書かれていて、ただ対等であるというのは部下がぞんざいな言葉を使うことではない。本来持っていた上下の関係を健全にすることが対等であり、「対等」ではないから「日本語の窒息」が生れる、とぼくは解釈しました。さらに、上のものだけが「だ、である」調を許されているということは、上のものだけにストレートにものを言う権利があるということで、だからこそ下のものの言うことを聞かなくなる。そこに、やわらかい「です、ます」調を混在させること、つまり「組織としてこれは常識だ」「俺の言うことを聞け」という命令口調ではなく、「きみの言っていることはつまり、体制に不満があるということですね」という表現を組み込むことで、コミュニケーションも円滑になる。コーチングにおいても、文体的なテクニックが重要になる気がします。

冷泉さんが使われている窒息という言葉は「空気」という観点から出てきた言葉だと思うのですが、理屈ではなく空気によって正しいか間違っているかを決定する日本の社会について鋭い視点が示されていて、とても面白かった。これは山本七平さんの「「空気」の研究」という本に書かれている視点を下敷きにしているらしく、ついついこの本まで買ってしまいました。

4167306034「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
文芸春秋 1983-01

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ぼくはこのブログで、俯瞰的な視点、複眼的あるいは立体的な思考をめざして、いろいろなことをとりとめもなく考えたり、本を読んだり映画を観たりしているのですが、そもそも思考が立体であるためには文体もハイブリッドである必要があり、「だ、である」「です、ます」が混在していて、緊張と弛緩が同居していること、論理と感性を切り替えつつ使っていることが重要になります。したがって、このハイブリッドな混在した文体は必然的なもので、この文体があるからこそ立体的に考えようという姿勢を維持できるのかもしれないな、とちょっと思ったりしました。

一方で、いま電車のなかで化粧をしている女性も多いのですが、山田ズーニーさんの本では、そのことを他者がいないというような指摘をされていたような気がします。けれども、このような社会的な現象もコードスイッチ的であるといえるかもしれません。フォーマルとそうでない部分が混在しつつある。音楽を携帯する、電話を携帯する、ということも同様であって、ぼくらは非常に混在した複雑な世のなかに生きているような気もします。だから、問題はややこしい。

ところで、脳も身体の一部であり、身体と思考が密接に関わっているように、文体と思考も密接に関わっているのかもしれません。ということを書いて思い出したのですが、ぼくの卒論のテーマはそれだったんですよね。身体論=文体論のような観点から、漱石の「草枕」を読み解いたのでした。草枕の冒頭で、主人公である画工は坂道を登りながら住みにくい世のなかを考えます。端的なアフォリズムのような結晶化された文章は、登りながら(=身体)考える文体であって、だからこそ一種の超越した感じがある。坂道を下りながら考えたとしたら、草枕の冒頭はもっとだらだらと歯切れが悪く転がるような文体だったかもしれません。

思考に影響を与えるものだからこそカラダをもっと大事にしなくちゃ、と考えました。ただ、最近は文章を書くことで健康になっていくような感じもします。何が変わったのか、自分ではわからないのですが。

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■追記ですが、はてな人力検索の「コップに水をおいて、一方にはいい言葉をかけ、もう一方にはきたない言葉をかけると、あきらかに違う変化があるって本当ですか。」という質問にtawawajapさんが回答されていて、そこでぼくのエントリーを引用されていました。リンク元を辿って気付いたのですが、引用していただいてありがとうございます。

今回のエントリーにも関連していると思ったのですが、植物はともかく、言葉を操る生き物(By 小森陽一先生)であるぼくたちにとっては、どのような言葉を使うかによって、思考はもちろん、思考を通じて身体の状態にも変化をもたらすことがあるような気がしています。植物のことはわかりません。わからないけれども、同じ地球上の生き物であれば、通じる言葉があるかもしれない(ないかもしれない)。

ところで、上記の人力検索のなかでdaikanmamaさんが紹介されている「水は答えを知っている」「水からの伝言」については、ぼくは「出現する未来 (講談社BIZ)」という本で知りました。

水といえば、冷泉さんは山本さんの「「水=通常性」の研究」に書かれていることから、「水」を差されることで「空気」が消えるとして、正しくなくても押し切ってしまう日本の社会の「空気」という無言の圧力を収束させる現象は「水=通常性」である、ということについても述べられています。

無理やりこじつけてしまうと、ぼくの下の息子は喘息で、発作が起きると酸素が足りなくて非常に苦しみます。そして喘息になってから、寝る前などに水をごくごく飲む習慣ができました。ほんとうにでかい音を立てて飲むので、びっくりします。でも、水と空気はぼくらにはなくてはならないものということは確かです(8月12日追記)。

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■あ、あとさらにリンク元で焦ったのは、altavistaで英語に翻訳して読んでいる(ではなくて読んでいただいている)ひとがいる!趣味のDTM関連で、海外のVSTiサイトにリンクを貼ったからかもしれないのですが、きちんと書かなくちゃとあらためて思いました(8月12日追記)。

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2006年8月 9日

言葉化することの意義。

昨日、茂木健一郎さんの音声による講義ファイルの感想を書いて、いろいろなことを考えていたのですが、何気なくブログのサイドバーをみたところ、コメントをいただいていることに気付きました。

凛さんという方からの就職活動に関するコメントだったのですが、7月11日の「メディアに力はあるのだけれど。」というエントリーに対して、日経ビジネスのザ・アール奥谷禮子さんの格差社会に関するコメントは勝ち組からの視点でしか書かれていないのではないか、というぼくの批判に共感するというものでした。ただ、凛さんはこのコメントからザ・アールの面談をキャンセルされようとしていて、そこでぼくはそれはいかがなものかと思い、急いでコメントを返したのでした。

まず、ぼくは何度かこのブログで書いたことですが、繰り返し書こうと思います。ぼくがなぜ凛さんのコメントに即効でコメントをしなければと思ったかというと、

「言いたいことは時期を逃してしまうと、永遠に言えないことがある」

ということを切実に感じた経験があるからです。来週にとっておこう、もう少しうまく書けたときに発表しようと思っていると、永遠にチャンスを逃してしまうことがある。ぼくは脳梗塞で父をなくしたときに、そのことを痛切に感じました。

9月に倒れた父は(ちょうど9・11の時期でした)入院して脳の手術を受け、一度は言葉は喋れない半身不随だけれども、車椅子でリハビリの生活をすることになりました。

父は教師であり、ぼくにも教師であることを望んだのですが、親不孝なぼくは教師になる道を拒み、会社員という道に進みました。ついでに超一流の大企業に就職した弟に比べて、ぼくは零細な企業(といったら失礼ですが)を転々と転職を繰り返していました。厳格な教師の父としては、あいつは何をやっているんだ、どうせろくでもない仕事をしているんだろう、と腹立たしく感じていたと思います。そんな父を見返してやろうという思いがぼくにはあった。

倒れる前に、ぼくはちいさな賞を取って、ある雑誌に自分の原稿を載せる機会に恵まれました。そして、そのときには正月に帰省したときに話して、びっくりさせてやろうと思っていたわけです。

しかし、実際には、父にそのことを告げることは一生できなくなってしまいました。というのも、幾度か繰り返された手術の経過が思わしくなく、11月に父はあっけなく息をひきとってしまったからです。倒れてわずか2ヶ月あまりでした。彼に正月はなかった。

父の最期にあたって、脳死後も延命措置により、親族が集まるまで心臓を薬で動かしていたのだけど、薬によって父の手はぱんぱんに膨れ上がり、ぼくはもはや賞や原稿などについてはどうでもよくなってしまって、ただ父の手を握って、もう聴こえるはずのない父の身体に向って、バトンタッチしたからね、と繰り返し告げたことを思い出します。何を引き継いだかというと、父親であることを、です。そのとき息子はすでにいたのだけれど、子供が生まれたときではなく、父親を亡くしたときにぼくは父親になったような気がする。そして時々、きちんとバトンタッチできているんだろうか、ということを考えます。

余談が長くなりましたが、いつか言える、またきっとチャンスある、と思っていることは、永遠にチャンスに恵まれないものかもしれません。人生と言うのは「一回性」の出来事の連続であり、同じことがあったとしてもどこか微妙に異なっている。逃したチャンスは永遠に巡ってこないものであり、だから選択した現実と、選択しなかった仮想のことを思い、ぼくらは後悔(regret)するわけです。

若いひとたちの周囲は、可能性で溢れています。だからその可能性の大切さに気付かない。ひとつの可能性を失っても、また別の可能性が得られるからいいや、と思ったりする。若いひとたちは可能性に対して贅沢なのです。贅沢な強者の思考によって考えると、可能性が得られないプアな状態は想像できないし、だからチャンスを逃しても、まあいっか、と言ってみたりする。ほんとうはカオス理論のように、その角を左に曲がるか右に曲がるかの選択の違いによって、それこそ人生が大きく変化するかもしれないのに。

もはやおじさんであるぼくは、「まあいっか」が問題だと思うわけで、「まあいっか」じゃないだろう!と意気込んだりする。「(正月に話をすればいいから)まあいっか」と思ったせいで父に告げることのできなかった言葉を永遠に呑み込んでしまったぼくは、だからこそブログで饒舌に語りはじめてしまったのかもしれないし、茂木健一郎さんの著作をはじめとして脳科学についてもこだわりつづけることになったのかもしれません。

さてさて。実は本日同僚と酒を飲み、酔ってしまいまして、なんとか頑張ってブログを書いたのですが、そろそろ限界のようです(現在、3時28分。と思ったら35分)。いつかそっくり書き直すかもしれません(書き直さないかもしれない)。ちなみに明日というか今日も飲む予定であり、もしかするとブログはお休みかもしれません。そんなテイタラクです。やれやれ。

昨日、父の夢をみました。久し振りの父でした。変わっていないな、記憶のなかでは父は。父は忙しそうに家の屋根を直していました。そういうひとです。そんなに頑張らなくてもいいから、キッチンの椅子に座って映画でも観ながらお酒でも飲んでいればいいのに、と思いました。しかしながら、そんな気持ちも父に告げたことは、なかったなあ。告げればよかったなあ。

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2006年8月 7日

グッドタイムス、バッドタイムス。

猛暑到来という感じでしょうか。本格的な夏らしい暑い一日でした。そんな8月の月曜日、ささやかなよいことが幾つかあり、とってもよい気分です。あまり大きすぎるよいことがあるよりも、ささやかなよいことがたくさんあった方がうれしい。頑張った後にはそんな日もあるもので、人生はそうやって平衡が取れているのかもしれません。

その「ささやかなよいこと」のひとつですが、SAPジャパンのメールマガジンに登録したところ、先着150名様にプレゼントということで「仮説思考」という本が届きました(ほんとうに、ささやかです)。欲しかったけれど買うのをためらっていた本だけに、なんとなくありがたいものがあります。感謝しています。

4492555552仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法
東洋経済新報社 2006-03-31

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ブログのテーマのひとつとして思考を挙げているだけに、書店で背表紙を眺めていても、タイトルに思考という言葉があると、ぴぴっと反応してしまいます。ちなみにBCGでいうと、「BCG流非連続思考法」という本も先日買ってしまいました。未読本があまりにも多すぎて、読んでいない本から片付けようと思っているのですが、冒頭部分から面白そうで待ちきれずに読みはじめています。

4478490511BCG流 非連続思考法 アイデアがひらめく脳の運転技術
秋葉 洋子
ダイヤモンド社 2006-07-27

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よいこと、悪いこと、と書いていて思うのですが、ぼくはブログでよいことも悪いこともそのまま書いています。それがいいかどうかは、はなはだ疑問です。というよりも、むしろ他人には「気持ちが不安定なときはブログは書かない方がいいよ。ぜったに悪いように書いてしまうからやめておいたほうがいい」と忠告しそうな気がする。ぼくは時々、ものすごく不快なブログも書いてしまう問題ブロガーなのですが(と、自分で言ってしまうのもどうかと思うのだけれど)、読んでいるひとが不快であろうブログは書いている本人も不快じゃないわけがなく、実はものすごく不快です。そんなものをなぜ書くのか、いや書いてもいいけど公開することはないだろう、後悔するだけだろう、と思うのですが、その通り。ずばり後悔しています。

一度嫌いになったらとことん嫌うという性向もあるようで、先日も「ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち」という本を徹底的に批判してしまったのですが、その本のなかにも2003年にスコーブルが書いたという「企業ブログ・マニフェスト」が引用されていて、そこに次のようなマニフェストがありました(P.277)。

12 悩みを抱えているときには、ブログを書かないこと。それがブログに微妙に影を落とし、読者に気取られる。

なるほど、その通りです。それにしても、「気取られる」とは?気付かれるの間違いでしょうか。また誤字を発見?ついでにいうと、「物語をするにしくはない。」(P.256)もどういう意味だろう、と頭を悩ませているのですが。

ただですね、人間ってそんなに安定したものか、安定していいのか、とぼくは思う。きれいなことだけ書かれたブログというものを読んでぼくが考えることは、ストレートにいってしまうと、よく書かれているけど面白くないな、ということです。そのひとの人間性がみえない気がします。別にめちゃくちゃな毒舌で荒れる必要はないと思うのだけど、かつてはとんでもなくひどい言葉を使っていたのに、協調性が、健康が、などと語っているブログを読むと、無理していませんか?という気持ちになる。無理してきれいにみせる必要もないし、逆に、痛いほど汚れてみせる必要もないんですけどね。ふつうでいいじゃん。

とはいえ人間というのは成長するもので、過去は過去だと思います。デジタルの場合、アーカイブされて残るしコピーして保存もできますが、そんなものは変わらない過去であって、人間というのは明日になれば細胞が入れ替わって新しい自分になっている。過去に突っ込みを入れて面白がっている人間などは、放っておいてかまわない。イチローの名言風にいうと、過去の自分といまの自分を比較するのは、いまの自分に申し訳ないということでしょうか。今日よりも明日、明日よりも未来の自分のほうがもっとよくなっている。

ついでに、きれいな自分しかみせられないひとは、結婚は難しいんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

これはまだ結婚していない方には暴言かもしれないし、むかーおまえに言われたくないよ的な発言かもしれないのですが(すみません)、あえて言及すると、人間というのはきれいな部分もあれば汚い部分もある生きもので、その両面を受け止めることはもちろん、両面を相手にみせることができなければ、信頼というのは生まれないような気がするのです。あくまでも、私見ですが。

汚い自分をみせることがなぜ信頼につながるのか?という疑問もあるかもしれないのですが、汚い自分を隠して頑張って生きるということは、海原純子さん風に言うと「仮面」をかぶって生きている、ということです。つまり、それは、自分に他意はなかったとしても潜在的に相手を拒絶している。相手に対する信頼がなければ、自分をさらけ出すことはできないものです。だから、全面的にかっこいいひと、よいひと、というのは、実はとんでもなくひどいひとかもしれない。しかしながら、なんでもかんでも露出すればいいかというと、それは相手に対する甘えでしかないのですけどね。

「想像の欠如」もあるかもしれません。「こんなひとだとは思わなかった」というのは、ひどい側面に目をつぶってみようとしなかったこともあるし、あるいはパートナーが意識的にみせようとしなかったのかもしれない。盲目的に恋愛をすると心にブラインドが落ちるもので、相手の嫌な部分を無意識のうちに消去してしまう。みえているはずなのに、みえないという現象も起こり得る。このときに相手に対する思いをいったん留保して、冷静になることは大事かもしれません(なれないけどね)。いずれにしても、片面思考でいくと破綻する。人間だから、いい事も言ってるけど悪いこともしてるよね、悪人だけどきっとやさしい一面もあるよね、ぐらいに思うほうが、しなやかに相手と付き合うことができそうです。

ちなみに、内田樹さんの「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」という本には、「「合理的な人」は結婚に向かない」というエッセイがあります。合理的な人は「人間関係を「等価交換」のルールで律しようとするからである」とします。つまりギブアンドテイクだけで考えると、うまくいかない。次のようにつづきます(P.32)。

「私はこれだけ君に財貨およびサービスを提供した。その対価として、しかるべき財貨およびサービスのリターンを求める」という考え方を社会関係に当てはめる人は、残念ながら結婚生活には向いていない(そして、ビジネスにも向いていない)。
というのは、人間の社会は一人一人が「オーバーアチーブ」、つまり「対価以上のことをしてしまう」ことによって成り立っているからである。

愛情も、与えるものです。

反対に、自分が投資したもの(金、労力、気づかい、忍耐などなど)に対して相手から「等価」のリターンを求めると、「夫婦」は潰れる。それは営業マンが彼の努力で制約した取り引きから得られた利益の全額を「オレの業績だ」と言って要求することを許せば、会社が潰れるのとまったく同じ原理なのである。

成果主義が破綻する原因もこういうところにありそうです。

ところで、暴言を吐けば、離れていくひとは離れていくでしょう。それは仕方がないことです。去るものは追わず。でもきっとほんとうに少数の誰かは、まあ付き合ってやるかーぐらいの感じで、付き合ってくれるかもしれません。万人に好かれる必要はないし、バカなので優等生を気取るつもりもないし、友達100人できなくてもいいし、ぼくはまあそんな感じでいこうかなどと思っています。

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2006年8月 6日

10minutes diary

▽cinama06-050:秀逸な物語マーケティング。でも、素敵な世界ではある。

B000EOTFMQ北川悦吏子 原作・脚本 10minutes diary [DVD]
北川悦吏子
ポニーキャニオン 2006-05-17

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インターネットで公開した作品であり、"東京ネットムービーフェスティバル"のブランドコーポレート部門でグランプリを受賞とのこと。5人の女性のちょっとした一日のダイアリーで、素敵なOLさんの一日が描かれます。それは田舎から出てきて派手なメイクを落として帰省する女性の話であったり、彼氏にふられて退屈な日曜日に結婚している友人の家にいく話であったり、行きたくない合コンに出席してなんとなくいい感じの男性が現れて自分のことを気にかけてくれているというような、ほんとうに何気ない風景を切り取っているのですが、主役はトップモデルさんなので、日常といっても素敵すぎる風景です。

で、必ず彼女たちはフィットネスクラブに行って汗を流す。というのも、この一篇10分あまりのショートフィルムのスポンサーがミズノだからということもあるのですが、やはり物語的に完成度が高い。こういうことあるだろうなあ、という共感を生むので、その宣伝的なシーンも自然です。そして、スポーツでもしてみるかな、という気持ちになる。なんとなくこういうライフスタイルに憧れるなあ、という気持ちになる。

ただ、ぼくはこの一連の感情を、心脳的に潜在意識をコントロールされている、とは思わなくて、夢をみさせてくれるということ、自分の平凡な日常も映画のなかの主人公とシンクロできそうな豊かな気持ちにさせてくれるので、いいんじゃないかな、と思います。何かを売り込もうという気持ちよりも、なんでもない生活をよりよくするための提案というカタチになっている。あるいは提案にもなっていなくて、ほんとうに個人的な気持ちのよい一日の追及になっているかもしれない。それがコントロールされていることだ、と目を吊り上げる方もいるかもしれませんが、いいんじゃないのかなあ、というのが正直な感想です。8月6日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(56/100冊+50/100本)

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メリンダとメリンダ

▽cinema06-049:喜劇と悲劇の同時進行と重なり合う物語

B0012P6C9Aメリンダとメリンダ [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2008-03-19

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冒頭で、まず喜劇作家と悲劇作家が登場します。そして、その作家を含めた4人が飲みながら、とある第三者のエピソードをそれぞれ喜劇的、悲劇的な二方向から創り変えていく。そのふたりの劇作家が脚色するのがメリンダという女性を主人公としたストーリーなのですが、映画のなかで同時進行していきます。これはどっちだったけ、とかなり複雑になるのですが、そのあたりの知的な仕掛けがウディ・アレン的ともいえる。同じビストロが登場したり、アラジンのランプのような小物が登場したりする。複線の使い方にしても、物語の流れ方にしても、非常に凝っているものでした。喜劇編、悲劇編のいずれにおいても、メリンダという女性を受け入れる夫婦(映画監督の女性と売れない俳優の男性、音楽の先生をやっている女性とやっぱり売れない俳優の男性)は、結局のところ愛情が破綻していったりするのですが、そのあたりのテーマもウディ・アレン的ともいえる。さらに音楽も彼っぽく、それほどぐっとくるわけではないのですが、雰囲気のある小品という感じでした。8月6日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(56/100冊+49/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

想像力、言葉化、対話の欠如。

夏の定番というか、昨日テレビで「ウォーターボーイズ」という映画が再放映されていました(ついでに「スウィングガールズ」もやっていたらしい)。水泳は得意ではないにもかかわらず、うちの長男はこの映画が大好きで、昨日もじっくりと観ていたようです。という彼は来週からスイミングスクールに通わなければならないのですが、このときに気になるのはやはりプールの管理問題です。埼玉県の小学2年生の女児が亡くなった事件のことは、やはり子供を持つ親としては気がかりです。

本日、埼玉県ふじみ野市の市営プールで小学2年生の戸丸瑛梨香さんが死亡した事故で瑛梨香さんの葬儀が行われたようです。瑛梨香さんのご冥福をお祈りいたします。同じちいさな子供を持つ親として、痛いほどに事故のこと、憤りを感じられていることに共感します。

この事件について、あってはならないことだ、というのは強く感じるし、管理会社の杜撰な対策もひどいと思う。けれども、この事故が投げかけた波紋はもっと大きいもので、単に埼玉のできことにとどまることではありません。この事故が問題なのは、すべてのプールに対する不信感を生じさせたということ、あるいは業務委託という業態の会社すべてに対する体制に信頼がもてなくなったということです。だから大きな社会問題であると感じました。プールを利用するときには、どうしてもこのプール大丈夫?という気持ちになる。プールの監視ではなくても業務委託されている会社には、ほんとうに責任もってやってんの?という疑惑の目でみてしまう。

このとき、日本のマスコミをはじめとして一般の対応で顕著な傾向は、問題を起こした会社の当事者を吊るし上げること、批判することではないかと思います。もちろんそれは重要ではあるのだけど、ぼくは問題はそれだけでは解決しないような気がするのです。どうしてそういうことが起きるのだろう、ということを考えつづける必要があるのではないか、と。

一度、うーむ、わかりません、と考えを保留したのですが、実はぼくはいまもその原因と対策について考えつづけています。建築上の問題であれば専門家にお任せすることにして、社会全体を覆う「場の空気」に問題があるような気がしました。そこで、自分がこれまでブログで考えてきた思考の観点から、考察を加えようと思います。ものすごく個人的な考察であり、さらに、もしかすると既にジャーナリストの方が語っているかもしれません。ブロガーであるぼくは、本来であれば情報を収集してブロガーの見解に目を通すべきだとは思うのですが、残念ながら、それぞれのコメントを全部チェックする時間もありません。そこで、とりあえず自分の考えた範囲のことを試しにまとめてみることにします。

このプール事故に、3つの視点による問題を考えました。

ひとつめは「想像力の欠如」、ふたつめは「言葉化されないこと」、そして最後のみっつめは「対話の欠如」です。

まず、「想像力の欠如」の問題としては、企業はリスクを回避するために、危機を想定して仮想的に現実をシミュレーションできるか、ということが重要になると思います。こりゃあり得ないことだなと思えることまで、可能性を追求する必要がある。今回、排水溝の蓋がはずれたら誰かが吸い込まれる可能性はあるわけで、さらにその事態を想像すれば、蓋を上にあげてそのままにしておくという行為によって、より危険度が高まることは容易に想像できるはずです。そのことが想像できなかった。想像できないから適切な行動も起こせなかった。

少し話が横道にそれるのですが、一時の感情に流されて親を殺してしまう子供もいますが、その子供たちにも想像力が欠けている気がする。というのは、殺してしまったあとのことを想像すれば、自分がどのように厳しい状況に置かれるか、わかるのではないでしょうか。そんな冷静な状態にないから殺人が起きるのだ、ともいえるのですが、一度すべての行動を留保して、「よく考える」ということが重要だと思います。考えなしに行動することは、よりリスクのともなう結果を引き起こすような気がします。

ふたつめの「言葉化されないこと」の問題では、想像力があったとしても、心のなかで「なんかこれって危険なことになりそうだ」と思っていたとしたら、他者と共有することはできません。元アルバイトが危機管理に問題があると思っていた、とか何とか言っていましたが、思っていたのに言わなかったら、きみも同罪だろう、という気がする。ただアルバイトにそこまで求めるのは酷な話で、管理者が言葉化する必要があります。

さらにこういうときに、体制を明確に決めないこと(=言葉化しないこと)も問題です。たとえば、排水溝の蓋が外れたら、外れた箇所に数人を配備し、お客様を誘導するひと、修理のための道具を取りに行くひと、など、きちんとしたフォーメーションを取る必要がある。先日、組織論で批判的な文章を書いたのですが、こういう状況下に「場の空気を読んで、自分で判断して行動しなさい」というリーダーは、リーダーとしての役目を果たしていない。守備範囲をきちんと規定しないから、ぽてんヒットも生まれるわけで、「それはあなたの仕事でしょ?」「え、あなたがやると思ってたけど?」と譲り合うようなことになる。非常に慎み深い光景かもしれないのですが、一般の企業においては、思いやりで配置を決めていたら、とんでもないことになります。「いやーみんなで助け合っていこうよ。協調性が大事でしょ」などと言う経営者に限って、失敗については責任転嫁するものです。私の采配のミスです、と潔く覚悟できているひとは少ないのではないでしょうか。だって部下が勝手にやっちゃったんだもん、知らないもん、という弁明が多い。

みっつめの「対話の欠如」については、危険を感じたひとが危険であることを告げると同時に、管理会社などが「聴く」姿勢にあるかどうか、という問題が重要だと思います。どんなに現場で危機感を感じて訴えていても、上層部にその内容を「聴く」姿勢がなければ、問題は硬直化します。監視社会というと、どうしても告げ口や足を引っ張る方向というイメージが大きいのですが、このような人命を損なうような危険なことについて、はっきりと言える風土があること、そのはっきり言ったことを聴く姿勢があることが重要だと思いました。権力的に握り潰されてしまうような気がしますね、会社にとって不利なことは。でも、きちんと言いたいこと言える会社が、健全な会社であると思います。

と、私見を長々と書きましたが、それでもぼくはまだ「わかりません」という気がします。いま社会に起きている現象をいくつか横断的にピックアップしつつ、また考察してみようと思います。

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2006年8月 5日

効果音と映像表現。

趣味のDTMで音楽を創っていて、ああ、これができればいいのにな、と思うのは、音楽に映像を加えることです。映像を扱うことができれば、もっと楽しめそうな気がする。

歌詞のついている曲であれば、ある程度は歌詞という言葉によって情景をはっきりと限定することができて、歌詞で映像を喚起させることもできます。しかしながら、インストの曲の場合はどうしても抽象的になります。自分の頭のなかに浮かんでいるイメージがあるのに、曲調に反映できないことがあってもどかしい。

そういうときに仕方なく使ってしまうのが効果音ですが、夏らしい感じということで創った「あの夏、後悔と夕焼け。」という曲では、何度かブログで取り上げましたが、Ace Musicさんで無償で提供されているAdventure Of the SeaというVSTiを使いました。TTS-1というシンセサイザーの波の音だけでは、ざーっというノイズっぽい感じにしかなりませんが、このAdventure Of the Seaを加えることで、波が崩れる音のほかに波の泡立つ音などが付加できます。

ということを書いていて、そういえば他にも面白い無料のVSTiがあったことを思い出しました。VSTiというのはソフトウェア上で機能するプラグインのようなものです。ぼくはホストアプリケーションとしてSONARというソフトを使っているのですが、そこにVSTiを読み込むとシンセとして使うことができる。ぼくの場合、そうやってVSTiだけを使ってノートPC(VAIO)完結で曲を作っています。

ほんとうはきちんとした外部音源もほしいのだけど、何しろお金がない。ところがインターネット上には無料配布のVSTiというものがいくつも公開されていて、ある時期、インターネットで無料のVSTiを漁りまくっていたときがありました。そのときに70弱ぐらいの無料VSTiを試してみたのですが、なかには動作不安定なものや、やたらと重くなってしまうものもある。けれども、これを無料で配布しちゃっていいのかというものもあって、いろいろと重宝します。貧乏系の趣味DTMであれば、この無料VSTiを使わない手はありません。

そこで、SE(サウンドエフェクト)系のVSTiで、Adventure Of the Sea以外のものを紹介してみたいのですが、TWEAKBENCHの「Field」。これは実際の街頭の音をサンプリングしているようで、それをループで流しつづけるものです。

プリセットには「rain」「street」のほかに、「tokyo」「shibuya」もあって、どうやら実際の街の音らしい。muzieというサイトで曲を公開しているのですが、Rain_Danceという曲で使わせていただきました。mp3のファイルでよく聴かないと分からないと思うのですが、中間部分とラストの部分で使っています。最後の部分は、にゃあと猫が鳴く声が入っているのだけど、これが「Field」にプリセットされている「home」だったかと思います。ちなみにイコライザーも付いているので、ざわめく音のキャラクターを変えることも可能です。

しかし、やはりSEはSEでしかなく、映像を加えたくなってうずうずすることがあります。映像表現と技術についてはぼくはまったくのシロウトなのですが、最近の映画で使われているCGはほんとうにすごいものが多く、さらに子供向けの特撮番組でも何気なく凝った映像づくりがされている。どこまでが実写で、どこからがCGかわからなくなりつつある。

一方で、リアルに向う方向ではないCGというのもあるようで、先週面白いと思ったのは、キアヌ・リーブスの最新作でロトスコープという手法を使い、アニメーションと実写を融合させたような効果を出すものでした。CNET Japanの「キアヌ・リーブス新作「A Scanner Darkly」--アニメと実写を融合した技法「ロトスコープ」とは」で紹介されています。実際に映画のトレイラーによってその技法による映像をみることができるのですが、どちらかというとアナログっぽい。それでいて奥行きのある不思議な映像です。原作はフィリップ・K・ディックであり、というとブレードランナーを思い出してしまうのですが、新しいようで懐かしいこの映像技術が映画全体にどのような効果を与えるのか楽しみです。

ビデオをまわして撮影するのは大変だけれど、Flashアニメという選択肢もある。DTMマガジンでFlashの紹介をされていて、たぶん技術的な知識があり、絵心のあるクリエイターであれば、音楽+アニメという形で簡単に作ってしまえるものかもしれません。

今日の昼に王様のブランチで「やわらか戦車」というFlashアニメーションが紹介されたのだけど、これは楽しいです。テレビで紹介されるぐらいなのでもう旬とはいえないのかもしれないのですが、キャラクターグッズも販売されるらしい。戦車のキャタピラの音や、ちゅどーんという爆発音などのサウンドエフェクトが気に入ってしまったのだけど、無料の音の素材にもあるだろうし、シンセサイザーにもプリセットされているので、こういう動画を作るのは楽しそうです。

このやわらか戦車という作品は、いいですねえ。戦車なのにやわらかいのもいいし、退却して後ろ向きなのもいい。全作品それぞれ楽しめます。こういう作品を創ることができると、ほんとうに楽しいだろうなあ。目を吊り上げて戦争を批判するよりも、こうやって馬鹿馬鹿しくパロディにすると、闘う力も抜けそうな気がします。脱力系でよいです。

全部ひとりでやる必要もないと思うのですが、やろうとすれば音楽から映像まで全部ひとりでできちゃいそうな時代になってきたということに、あらためて驚きます。YouTubeをはじめとした映像の氾濫には悪影響があるのではないかという不安もありますが、この技術を当たり前のものとして育つ次の世代の子供たちは、ひょっとするとぼくらの想像を超える才能を開花させるようになるんじゃないかと、ちょっと期待もしています。

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2006年8月 3日

名と体の分離、ブランディング私見。

組織のリーダーは間違った方針を述べることが悪いのではなく、「何も方針を示さないこと、何も言わないこと」が最悪である、それは罪悪に等しい、ということを何かの本で読みました。

何の本で読んだのか忘れてしまったのですが、経営に関わらず、何も言わないことが余計にまずい、という場面はあるものです。環境の変化が激しい昨今、追い風が吹くことを待っていても、いつまでも風が吹かないことはある。といっても、動くことにもリスクはあるわけで、あっちに走れと断言すると証拠が残る。証拠が残ると失敗したときに追及されることになり、追求されるとよろしくない。政治家もそうですが、リスクを回避して自分を守ろうとすると、発言は曖昧で抽象的で、右にも左にも解釈できる不可解なものになっていきます。

あるいは、えーい言うのやめちゃおうと、危険な仕事には手を出さずに、どっちの方向性に進むべきかというリーダーシップは放棄して、時代の変化には、見ざる、聴かざる、言わざるの状態でやり過ごしていく。そうした判断の留保は短期的には安全のようにみえるけれども、長期的には機会の損失にもなりかねない。変化の激しい時代には、動かないことがリスキーともいえる。

ところで、何も方向が示されないまま命令がとぶと、各自がばらばらと蜘蛛の子を散らすように勝手な方向に走り出すことになります。ほんとうはベクトルを束ねるのがマネジメントやリーダーの仕事だと思うのだけど、束ねるという責任を回避していると、結局個々の解釈が多様になるわけで、それぞれが頭の上に「?」という疑問符をのせながら個人の解釈のもとに別行動をすることになります。

言葉にする、ということはリスクも大きいのですが、とても大切なことだと思います。言葉にすることは、何かを選択すると同時に排除することでもあり、そのことによって対象が絞られていく。

いま、冷泉彰彦さんの「「関係の空気」「場の空気」」という本を読みはじめているのだけれど、日本の社会は空気を重視して、空気を読めということがよくいわれる。それがよいところであると同時に、甘えを生じさせることにもなっていると思います。言わないことはわからない。言わないのに、どうしてできないんだ?というのはおかしい。指示しないものに責任がある。

4061498444「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)
講談社 2006-06-21

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ぼくらの名前というのも言葉化されたものとして、とても重要なものです。内田樹さんの「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」にも書かれていたことですが、名をつけることは呪ということでもある。名で縛り、名が現実を限定するわけです。つまり名前のないものは、世のなかに存在しないに等しい。

企業におけるブランディングとは、シンボルや考え方という表層の問題ではなく、末端の現場の営業がきちんとその会社について語れるか、あるいは現場が日々行うさまざまな営業活動の態度が会社全体に合ったものであるか、ということが最も重要ではないか、と思います。個々人の行為としてのブランディングが現場レベルで徹底されていないと、どんなにロゴマークをかっこよくしても、企業はブランドとして効果をなさない。ブランドプロミスが統一されないし、個々の解釈にゆだねることになるわけです。

ここで言いつづけることが重要になります。言いつづけることは途方もなく疲れることなのですが、黙らずに言いつづけることがチカラとなって蓄積される。最初に戻るのですが、「ムダだから言うのやめよう」と思うのではなく、言わないことが最悪な状態を招くこともあり得るので、だからこそ言わなくちゃいけないのではないか。

継続はチカラなり、です。

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