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2006年8月 9日

言葉化することの意義。

昨日、茂木健一郎さんの音声による講義ファイルの感想を書いて、いろいろなことを考えていたのですが、何気なくブログのサイドバーをみたところ、コメントをいただいていることに気付きました。

凛さんという方からの就職活動に関するコメントだったのですが、7月11日の「メディアに力はあるのだけれど。」というエントリーに対して、日経ビジネスのザ・アール奥谷禮子さんの格差社会に関するコメントは勝ち組からの視点でしか書かれていないのではないか、というぼくの批判に共感するというものでした。ただ、凛さんはこのコメントからザ・アールの面談をキャンセルされようとしていて、そこでぼくはそれはいかがなものかと思い、急いでコメントを返したのでした。

まず、ぼくは何度かこのブログで書いたことですが、繰り返し書こうと思います。ぼくがなぜ凛さんのコメントに即効でコメントをしなければと思ったかというと、

「言いたいことは時期を逃してしまうと、永遠に言えないことがある」

ということを切実に感じた経験があるからです。来週にとっておこう、もう少しうまく書けたときに発表しようと思っていると、永遠にチャンスを逃してしまうことがある。ぼくは脳梗塞で父をなくしたときに、そのことを痛切に感じました。

9月に倒れた父は(ちょうど9・11の時期でした)入院して脳の手術を受け、一度は言葉は喋れない半身不随だけれども、車椅子でリハビリの生活をすることになりました。

父は教師であり、ぼくにも教師であることを望んだのですが、親不孝なぼくは教師になる道を拒み、会社員という道に進みました。ついでに超一流の大企業に就職した弟に比べて、ぼくは零細な企業(といったら失礼ですが)を転々と転職を繰り返していました。厳格な教師の父としては、あいつは何をやっているんだ、どうせろくでもない仕事をしているんだろう、と腹立たしく感じていたと思います。そんな父を見返してやろうという思いがぼくにはあった。

倒れる前に、ぼくはちいさな賞を取って、ある雑誌に自分の原稿を載せる機会に恵まれました。そして、そのときには正月に帰省したときに話して、びっくりさせてやろうと思っていたわけです。

しかし、実際には、父にそのことを告げることは一生できなくなってしまいました。というのも、幾度か繰り返された手術の経過が思わしくなく、11月に父はあっけなく息をひきとってしまったからです。倒れてわずか2ヶ月あまりでした。彼に正月はなかった。

父の最期にあたって、脳死後も延命措置により、親族が集まるまで心臓を薬で動かしていたのだけど、薬によって父の手はぱんぱんに膨れ上がり、ぼくはもはや賞や原稿などについてはどうでもよくなってしまって、ただ父の手を握って、もう聴こえるはずのない父の身体に向って、バトンタッチしたからね、と繰り返し告げたことを思い出します。何を引き継いだかというと、父親であることを、です。そのとき息子はすでにいたのだけれど、子供が生まれたときではなく、父親を亡くしたときにぼくは父親になったような気がする。そして時々、きちんとバトンタッチできているんだろうか、ということを考えます。

余談が長くなりましたが、いつか言える、またきっとチャンスある、と思っていることは、永遠にチャンスに恵まれないものかもしれません。人生と言うのは「一回性」の出来事の連続であり、同じことがあったとしてもどこか微妙に異なっている。逃したチャンスは永遠に巡ってこないものであり、だから選択した現実と、選択しなかった仮想のことを思い、ぼくらは後悔(regret)するわけです。

若いひとたちの周囲は、可能性で溢れています。だからその可能性の大切さに気付かない。ひとつの可能性を失っても、また別の可能性が得られるからいいや、と思ったりする。若いひとたちは可能性に対して贅沢なのです。贅沢な強者の思考によって考えると、可能性が得られないプアな状態は想像できないし、だからチャンスを逃しても、まあいっか、と言ってみたりする。ほんとうはカオス理論のように、その角を左に曲がるか右に曲がるかの選択の違いによって、それこそ人生が大きく変化するかもしれないのに。

もはやおじさんであるぼくは、「まあいっか」が問題だと思うわけで、「まあいっか」じゃないだろう!と意気込んだりする。「(正月に話をすればいいから)まあいっか」と思ったせいで父に告げることのできなかった言葉を永遠に呑み込んでしまったぼくは、だからこそブログで饒舌に語りはじめてしまったのかもしれないし、茂木健一郎さんの著作をはじめとして脳科学についてもこだわりつづけることになったのかもしれません。

さてさて。実は本日同僚と酒を飲み、酔ってしまいまして、なんとか頑張ってブログを書いたのですが、そろそろ限界のようです(現在、3時28分。と思ったら35分)。いつかそっくり書き直すかもしれません(書き直さないかもしれない)。ちなみに明日というか今日も飲む予定であり、もしかするとブログはお休みかもしれません。そんなテイタラクです。やれやれ。

昨日、父の夢をみました。久し振りの父でした。変わっていないな、記憶のなかでは父は。父は忙しそうに家の屋根を直していました。そういうひとです。そんなに頑張らなくてもいいから、キッチンの椅子に座って映画でも観ながらお酒でも飲んでいればいいのに、と思いました。しかしながら、そんな気持ちも父に告げたことは、なかったなあ。告げればよかったなあ。

投稿者 birdwing : 2006年8月 9日 00:00

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