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2006年8月11日

混在する文体が生むもの。

最初のうちは明確にそうではなかった気もするのですが、ぼくはブログを書いているうちに、「ですます調」と「である調」が混在する文体を使うように変わっていきました。

なぜ「ですます調」を選択したかというと、これは自分でも意識していて、時として厳しい批判にもなりがちな文章なので、クッションが必要であると考えたわけです。また、それでいて実はのんびりとやわらかい文章を書いていたいので、ひらがなの持っているやわらかさを生かしたかった。「ぼく」という言葉を「僕」という漢字ではなくて、ひらがなにひらいているのも、意図的なものです。ただ、である調の断定の強さや歯切れのよさも捨てがたく、結果としてふたつの文体が混在するようになってしまったのだと思います。学校の作文の授業的には、ゆゆしき文体かもしれないのですが、なぜかこの文体が自然であって、いまではすっかり定着しています。

この文体の混在について、いま読んでいる冷泉彰彦さんの「「関係の空気」「場の空気」」という本にも書かれていて(現在、P.132を読書中)、非常に考えさせられるものがありました。

4061498444「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)
講談社 2006-06-21

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表現を混在させることは、言語学においては「コードスイッチ」と呼ぶらしく、「流行するコードスイッチ話法」という章(P.96)でそのことが触れられています。

まず、コードスイッチは最近になって登場したものであり、80年代ぐらいまでにはそうではなかったと書かれています。

八〇年代ぐらいまでは、話し言葉の場合、相当に親しく対等な関係では「だ、である。」、それ以外のフォーマルな場では「です、ます」体という枠組みが存在していた。その枠組みの中で話している限りでは、お互いに違和感なく会話ができたのである。

作文指導のなかでも守らなければならない基本中の基本であり、このルールを無視するとまず作文では落第点だったのかもしれません。ところがいまでは、教師がそういう口調になっていると冷泉さんは指摘します。小学校高学年の教室における先生の次のような言葉を例に挙げています。

「みんな、いいかな(だ、である)。そろそろ、時間ですよ(です、ます)。できた人は出してね(だ、である)。そうそう、名前を忘れないように注意してくださいね(です、ます)。」

この実例は説得力があります。テレビのドラマでも、そんな口調になっています。冷泉さんは、この教師は「だ、である」調の「ストレートっぽさ、パーソナルな感じ」を使って子供たちとコミュニケーションを促進するとともに、教師として「フォーマルな、そして厳かな宣言」にするために「です、ます」調を使っているとします。そして次のようにまとめます。

そして、文体を変えることで、リズムの変化がつき、一方的にその場を支配している冷たい感じを避けることができるのだ。

なるほど、と思いました。ただ、ぼくとしては違和感があったのは「だ、である」調の方が、フォーマルな感じがしたことです。というのは論文調だからということもあるかもしれないのですが、選挙演説にしても「だ、である」で語った方がストレートで説得力がありそうで、率直にいうと偉そうに聞こえる。俺様的な言語である、といえます。男性的かもしれません。一方で、「です、ます」はものごしがやわらかく、女性的かもしれない。ということは、それらが混在するというのは、男性/女性のハイブリッドな文体、といえるのかもしれない。

さらに考えてみると、論理的な左脳発想をするときには、「だ、である」調の方が論旨がはっきりしそうです。一方で、「です、ます」にすると、せっかく骨格のしっかりした論旨も輪郭がぼやけたものになってしまうのですが、一方で右脳的な感覚のみずみずしさが生まれる。

冷泉さんはこのコードスイッチ話法が、「下から上には使えない」とします。つまり上司から部下に話をするときには、混在話法でもかまわないのだけれど、部下が上司に話すときには「です、ます」調限定となる。最近は、上のものにタメ口をきくような若い人も増えてきたらしいのですが、原則的に部下が上のものに、「だ、である」調を使うのはNGとのこと。

ここで、日本語が「対等」であることを取り戻すべきであると書かれていて、ただ対等であるというのは部下がぞんざいな言葉を使うことではない。本来持っていた上下の関係を健全にすることが対等であり、「対等」ではないから「日本語の窒息」が生れる、とぼくは解釈しました。さらに、上のものだけが「だ、である」調を許されているということは、上のものだけにストレートにものを言う権利があるということで、だからこそ下のものの言うことを聞かなくなる。そこに、やわらかい「です、ます」調を混在させること、つまり「組織としてこれは常識だ」「俺の言うことを聞け」という命令口調ではなく、「きみの言っていることはつまり、体制に不満があるということですね」という表現を組み込むことで、コミュニケーションも円滑になる。コーチングにおいても、文体的なテクニックが重要になる気がします。

冷泉さんが使われている窒息という言葉は「空気」という観点から出てきた言葉だと思うのですが、理屈ではなく空気によって正しいか間違っているかを決定する日本の社会について鋭い視点が示されていて、とても面白かった。これは山本七平さんの「「空気」の研究」という本に書かれている視点を下敷きにしているらしく、ついついこの本まで買ってしまいました。

4167306034「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
文芸春秋 1983-01

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ぼくはこのブログで、俯瞰的な視点、複眼的あるいは立体的な思考をめざして、いろいろなことをとりとめもなく考えたり、本を読んだり映画を観たりしているのですが、そもそも思考が立体であるためには文体もハイブリッドである必要があり、「だ、である」「です、ます」が混在していて、緊張と弛緩が同居していること、論理と感性を切り替えつつ使っていることが重要になります。したがって、このハイブリッドな混在した文体は必然的なもので、この文体があるからこそ立体的に考えようという姿勢を維持できるのかもしれないな、とちょっと思ったりしました。

一方で、いま電車のなかで化粧をしている女性も多いのですが、山田ズーニーさんの本では、そのことを他者がいないというような指摘をされていたような気がします。けれども、このような社会的な現象もコードスイッチ的であるといえるかもしれません。フォーマルとそうでない部分が混在しつつある。音楽を携帯する、電話を携帯する、ということも同様であって、ぼくらは非常に混在した複雑な世のなかに生きているような気もします。だから、問題はややこしい。

ところで、脳も身体の一部であり、身体と思考が密接に関わっているように、文体と思考も密接に関わっているのかもしれません。ということを書いて思い出したのですが、ぼくの卒論のテーマはそれだったんですよね。身体論=文体論のような観点から、漱石の「草枕」を読み解いたのでした。草枕の冒頭で、主人公である画工は坂道を登りながら住みにくい世のなかを考えます。端的なアフォリズムのような結晶化された文章は、登りながら(=身体)考える文体であって、だからこそ一種の超越した感じがある。坂道を下りながら考えたとしたら、草枕の冒頭はもっとだらだらと歯切れが悪く転がるような文体だったかもしれません。

思考に影響を与えるものだからこそカラダをもっと大事にしなくちゃ、と考えました。ただ、最近は文章を書くことで健康になっていくような感じもします。何が変わったのか、自分ではわからないのですが。

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■追記ですが、はてな人力検索の「コップに水をおいて、一方にはいい言葉をかけ、もう一方にはきたない言葉をかけると、あきらかに違う変化があるって本当ですか。」という質問にtawawajapさんが回答されていて、そこでぼくのエントリーを引用されていました。リンク元を辿って気付いたのですが、引用していただいてありがとうございます。

今回のエントリーにも関連していると思ったのですが、植物はともかく、言葉を操る生き物(By 小森陽一先生)であるぼくたちにとっては、どのような言葉を使うかによって、思考はもちろん、思考を通じて身体の状態にも変化をもたらすことがあるような気がしています。植物のことはわかりません。わからないけれども、同じ地球上の生き物であれば、通じる言葉があるかもしれない(ないかもしれない)。

ところで、上記の人力検索のなかでdaikanmamaさんが紹介されている「水は答えを知っている」「水からの伝言」については、ぼくは「出現する未来 (講談社BIZ)」という本で知りました。

水といえば、冷泉さんは山本さんの「「水=通常性」の研究」に書かれていることから、「水」を差されることで「空気」が消えるとして、正しくなくても押し切ってしまう日本の社会の「空気」という無言の圧力を収束させる現象は「水=通常性」である、ということについても述べられています。

無理やりこじつけてしまうと、ぼくの下の息子は喘息で、発作が起きると酸素が足りなくて非常に苦しみます。そして喘息になってから、寝る前などに水をごくごく飲む習慣ができました。ほんとうにでかい音を立てて飲むので、びっくりします。でも、水と空気はぼくらにはなくてはならないものということは確かです(8月12日追記)。

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■あ、あとさらにリンク元で焦ったのは、altavistaで英語に翻訳して読んでいる(ではなくて読んでいただいている)ひとがいる!趣味のDTM関連で、海外のVSTiサイトにリンクを貼ったからかもしれないのですが、きちんと書かなくちゃとあらためて思いました(8月12日追記)。

投稿者 birdwing : 2006年8月11日 00:00

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