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2006年8月 7日

グッドタイムス、バッドタイムス。

猛暑到来という感じでしょうか。本格的な夏らしい暑い一日でした。そんな8月の月曜日、ささやかなよいことが幾つかあり、とってもよい気分です。あまり大きすぎるよいことがあるよりも、ささやかなよいことがたくさんあった方がうれしい。頑張った後にはそんな日もあるもので、人生はそうやって平衡が取れているのかもしれません。

その「ささやかなよいこと」のひとつですが、SAPジャパンのメールマガジンに登録したところ、先着150名様にプレゼントということで「仮説思考」という本が届きました(ほんとうに、ささやかです)。欲しかったけれど買うのをためらっていた本だけに、なんとなくありがたいものがあります。感謝しています。

4492555552仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法
東洋経済新報社 2006-03-31

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ブログのテーマのひとつとして思考を挙げているだけに、書店で背表紙を眺めていても、タイトルに思考という言葉があると、ぴぴっと反応してしまいます。ちなみにBCGでいうと、「BCG流非連続思考法」という本も先日買ってしまいました。未読本があまりにも多すぎて、読んでいない本から片付けようと思っているのですが、冒頭部分から面白そうで待ちきれずに読みはじめています。

4478490511BCG流 非連続思考法 アイデアがひらめく脳の運転技術
秋葉 洋子
ダイヤモンド社 2006-07-27

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よいこと、悪いこと、と書いていて思うのですが、ぼくはブログでよいことも悪いこともそのまま書いています。それがいいかどうかは、はなはだ疑問です。というよりも、むしろ他人には「気持ちが不安定なときはブログは書かない方がいいよ。ぜったに悪いように書いてしまうからやめておいたほうがいい」と忠告しそうな気がする。ぼくは時々、ものすごく不快なブログも書いてしまう問題ブロガーなのですが(と、自分で言ってしまうのもどうかと思うのだけれど)、読んでいるひとが不快であろうブログは書いている本人も不快じゃないわけがなく、実はものすごく不快です。そんなものをなぜ書くのか、いや書いてもいいけど公開することはないだろう、後悔するだけだろう、と思うのですが、その通り。ずばり後悔しています。

一度嫌いになったらとことん嫌うという性向もあるようで、先日も「ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち」という本を徹底的に批判してしまったのですが、その本のなかにも2003年にスコーブルが書いたという「企業ブログ・マニフェスト」が引用されていて、そこに次のようなマニフェストがありました(P.277)。

12 悩みを抱えているときには、ブログを書かないこと。それがブログに微妙に影を落とし、読者に気取られる。

なるほど、その通りです。それにしても、「気取られる」とは?気付かれるの間違いでしょうか。また誤字を発見?ついでにいうと、「物語をするにしくはない。」(P.256)もどういう意味だろう、と頭を悩ませているのですが。

ただですね、人間ってそんなに安定したものか、安定していいのか、とぼくは思う。きれいなことだけ書かれたブログというものを読んでぼくが考えることは、ストレートにいってしまうと、よく書かれているけど面白くないな、ということです。そのひとの人間性がみえない気がします。別にめちゃくちゃな毒舌で荒れる必要はないと思うのだけど、かつてはとんでもなくひどい言葉を使っていたのに、協調性が、健康が、などと語っているブログを読むと、無理していませんか?という気持ちになる。無理してきれいにみせる必要もないし、逆に、痛いほど汚れてみせる必要もないんですけどね。ふつうでいいじゃん。

とはいえ人間というのは成長するもので、過去は過去だと思います。デジタルの場合、アーカイブされて残るしコピーして保存もできますが、そんなものは変わらない過去であって、人間というのは明日になれば細胞が入れ替わって新しい自分になっている。過去に突っ込みを入れて面白がっている人間などは、放っておいてかまわない。イチローの名言風にいうと、過去の自分といまの自分を比較するのは、いまの自分に申し訳ないということでしょうか。今日よりも明日、明日よりも未来の自分のほうがもっとよくなっている。

ついでに、きれいな自分しかみせられないひとは、結婚は難しいんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

これはまだ結婚していない方には暴言かもしれないし、むかーおまえに言われたくないよ的な発言かもしれないのですが(すみません)、あえて言及すると、人間というのはきれいな部分もあれば汚い部分もある生きもので、その両面を受け止めることはもちろん、両面を相手にみせることができなければ、信頼というのは生まれないような気がするのです。あくまでも、私見ですが。

汚い自分をみせることがなぜ信頼につながるのか?という疑問もあるかもしれないのですが、汚い自分を隠して頑張って生きるということは、海原純子さん風に言うと「仮面」をかぶって生きている、ということです。つまり、それは、自分に他意はなかったとしても潜在的に相手を拒絶している。相手に対する信頼がなければ、自分をさらけ出すことはできないものです。だから、全面的にかっこいいひと、よいひと、というのは、実はとんでもなくひどいひとかもしれない。しかしながら、なんでもかんでも露出すればいいかというと、それは相手に対する甘えでしかないのですけどね。

「想像の欠如」もあるかもしれません。「こんなひとだとは思わなかった」というのは、ひどい側面に目をつぶってみようとしなかったこともあるし、あるいはパートナーが意識的にみせようとしなかったのかもしれない。盲目的に恋愛をすると心にブラインドが落ちるもので、相手の嫌な部分を無意識のうちに消去してしまう。みえているはずなのに、みえないという現象も起こり得る。このときに相手に対する思いをいったん留保して、冷静になることは大事かもしれません(なれないけどね)。いずれにしても、片面思考でいくと破綻する。人間だから、いい事も言ってるけど悪いこともしてるよね、悪人だけどきっとやさしい一面もあるよね、ぐらいに思うほうが、しなやかに相手と付き合うことができそうです。

ちなみに、内田樹さんの「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」という本には、「「合理的な人」は結婚に向かない」というエッセイがあります。合理的な人は「人間関係を「等価交換」のルールで律しようとするからである」とします。つまりギブアンドテイクだけで考えると、うまくいかない。次のようにつづきます(P.32)。

「私はこれだけ君に財貨およびサービスを提供した。その対価として、しかるべき財貨およびサービスのリターンを求める」という考え方を社会関係に当てはめる人は、残念ながら結婚生活には向いていない(そして、ビジネスにも向いていない)。
というのは、人間の社会は一人一人が「オーバーアチーブ」、つまり「対価以上のことをしてしまう」ことによって成り立っているからである。

愛情も、与えるものです。

反対に、自分が投資したもの(金、労力、気づかい、忍耐などなど)に対して相手から「等価」のリターンを求めると、「夫婦」は潰れる。それは営業マンが彼の努力で制約した取り引きから得られた利益の全額を「オレの業績だ」と言って要求することを許せば、会社が潰れるのとまったく同じ原理なのである。

成果主義が破綻する原因もこういうところにありそうです。

ところで、暴言を吐けば、離れていくひとは離れていくでしょう。それは仕方がないことです。去るものは追わず。でもきっとほんとうに少数の誰かは、まあ付き合ってやるかーぐらいの感じで、付き合ってくれるかもしれません。万人に好かれる必要はないし、バカなので優等生を気取るつもりもないし、友達100人できなくてもいいし、ぼくはまあそんな感じでいこうかなどと思っています。

投稿者 birdwing : 2006年8月 7日 00:00

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