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2006年8月 3日
名と体の分離、ブランディング私見。
組織のリーダーは間違った方針を述べることが悪いのではなく、「何も方針を示さないこと、何も言わないこと」が最悪である、それは罪悪に等しい、ということを何かの本で読みました。
何の本で読んだのか忘れてしまったのですが、経営に関わらず、何も言わないことが余計にまずい、という場面はあるものです。環境の変化が激しい昨今、追い風が吹くことを待っていても、いつまでも風が吹かないことはある。といっても、動くことにもリスクはあるわけで、あっちに走れと断言すると証拠が残る。証拠が残ると失敗したときに追及されることになり、追求されるとよろしくない。政治家もそうですが、リスクを回避して自分を守ろうとすると、発言は曖昧で抽象的で、右にも左にも解釈できる不可解なものになっていきます。
あるいは、えーい言うのやめちゃおうと、危険な仕事には手を出さずに、どっちの方向性に進むべきかというリーダーシップは放棄して、時代の変化には、見ざる、聴かざる、言わざるの状態でやり過ごしていく。そうした判断の留保は短期的には安全のようにみえるけれども、長期的には機会の損失にもなりかねない。変化の激しい時代には、動かないことがリスキーともいえる。
ところで、何も方向が示されないまま命令がとぶと、各自がばらばらと蜘蛛の子を散らすように勝手な方向に走り出すことになります。ほんとうはベクトルを束ねるのがマネジメントやリーダーの仕事だと思うのだけど、束ねるという責任を回避していると、結局個々の解釈が多様になるわけで、それぞれが頭の上に「?」という疑問符をのせながら個人の解釈のもとに別行動をすることになります。
言葉にする、ということはリスクも大きいのですが、とても大切なことだと思います。言葉にすることは、何かを選択すると同時に排除することでもあり、そのことによって対象が絞られていく。
いま、冷泉彰彦さんの「「関係の空気」「場の空気」」という本を読みはじめているのだけれど、日本の社会は空気を重視して、空気を読めということがよくいわれる。それがよいところであると同時に、甘えを生じさせることにもなっていると思います。言わないことはわからない。言わないのに、どうしてできないんだ?というのはおかしい。指示しないものに責任がある。
「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書) 講談社 2006-06-21 by G-Tools |
ぼくらの名前というのも言葉化されたものとして、とても重要なものです。内田樹さんの「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」にも書かれていたことですが、名をつけることは呪ということでもある。名で縛り、名が現実を限定するわけです。つまり名前のないものは、世のなかに存在しないに等しい。
企業におけるブランディングとは、シンボルや考え方という表層の問題ではなく、末端の現場の営業がきちんとその会社について語れるか、あるいは現場が日々行うさまざまな営業活動の態度が会社全体に合ったものであるか、ということが最も重要ではないか、と思います。個々人の行為としてのブランディングが現場レベルで徹底されていないと、どんなにロゴマークをかっこよくしても、企業はブランドとして効果をなさない。ブランドプロミスが統一されないし、個々の解釈にゆだねることになるわけです。
ここで言いつづけることが重要になります。言いつづけることは途方もなく疲れることなのですが、黙らずに言いつづけることがチカラとなって蓄積される。最初に戻るのですが、「ムダだから言うのやめよう」と思うのではなく、言わないことが最悪な状態を招くこともあり得るので、だからこそ言わなくちゃいけないのではないか。
継続はチカラなり、です。
投稿者 birdwing : 2006年8月 3日 00:00
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