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2006年8月31日

Obligation to dissent.

世のなかの一般的な傾向なのか、あるいは相乗効果という形で影響を与え合っているのか、それともぼくの読む本の傾向が偏っているからなのか(たぶんこれだ)、本で読んだことなど、さまざまな示唆がつながって、ひとつの方向性のもとに収束されていくような印象を受けています。

たとえば、正解がひとつではない、ということ。多様化にしたがって、複数の正解が共存する世のなかになってきていて、いずれかを選択する「OR」の発想ではなく、いくつものオプションを想定することが重要になってきているようです。

つまり二律背反することのどちらも認める生き方であり、ある意味、ハイブリッドで生きるともいえる。したがって、この考え方を突き詰めていくと、勝ち組×負け組という思考も超えることができるのではないか、とぼくは思っています。いま世の中はどうしても、勝たねばならぬ的な思考であふれているけれども、勝ち負けの両方を包含し、さらにそうしたモノサシを超越するような生き方もあるような気がする。じゃあそれはどういう生き方なんだ?と言われると困るのですが。

村上龍さんと伊藤穰一さんの「「個」を見つめるダイアローグ」をはじめ、空気という観点から日本語の窒息感について述べられた冷泉彰彦さんの著作、あるいは大前研一さんの著作などを読んでいて思うのですが、日本のなかにいて日本について語るのではなく、海外という場に自らを置いて日本について語った視点は非常に鋭い。これも、日本人でありながら外国人の視点でみる、というハイブリッドの視点といえるかもしれません。

会社に忘れてきてしまったので記憶を辿りつつ語るのですが(細部は違っているかも。すみません)、今週のR25の絓秀実さんの巻末コラムで、靖国問題を外国人に聞いてみたところ「それの何が問題なんですか?」という質問が返ってきた、という話に興味深いものがありました。小泉さんはご自身の批判に対して批判的な行動を起こしていて、それがまた批判を生むという批判のループを生んでいることが指摘されていました。確かに、えーと何を論じていたんだっけ?と感じたことは確かです。大事だということはわかるのですが、テレビで長時間議論されていても、結局のところ何か今後の構想がみえてくるわけでもない。たくさん議論しちゃいましたっという充実感で終わってしまっている(多くの会社の会議もそうかもしれないですけどね)。

これも文化の違いだと思うのですが、本質的な問題から遠く離れたところで、揚げ足取り的に盛り上がってしまうのも日本的な現象のような気がします。このことは大前研一さんの本でも触れられていて、郵政民営化が大きく論争になっているけれども、ほんとうはその前提として何を変えようとしているかを徹底的に論じるべきである、ということが書かれていました。なるほどと思いました。

田舎に帰省してみて、あるいは北海道に旅行して、はじめて東京で暮らすことのよい部分や悪い部分に気付くということもある。場所を移動することで、思考が変わるということもあります。移動する場所はリアルであっても仮想的であってもよいのですが、自己を客観的にみつめる他者の視点を獲得できるか、ということが大事なことなのかもしれません。そして、ほんとうの他者であっても自分のなかに仮想的に存在させた他者であっても、持論というステレオタイプもしくはパターン化されたカチコチの思考に「反論」して「破壊」することが重要です。創造は破壊によって生まれるものであって、こんなものでまあいいか、みんな仲良く楽しくしましょう、という馴れ合いから生まれるものではない。創造的であるためには厳しさが必要です。

大前研一さんの著書から引用すると、マッキンゼーでは「Obligation to dissent(反論する義務)」が重視されているようです。反論ができない人間は評価が低くなり、「意見しない」人間に批判が集中する。ところがたいていの日本の社会では、意見する人間が疎まれて、調和を重んじる人間が尊重されるものです。

反論を認めるということは、許容力が必要になります。二律背反することの「どちらか」が正しくて一方は間違い、という発想があると、反論は認められません。権力的に却下するか、無視するか、反論を握り潰すことになるわけです。けれども反論を許容することはロジックを検証する上でも重要になるし、さまざまな視点から石橋を叩くことにもなる。反論を推奨する社会、議論できる社会が成熟した大人の社会であり、より高みに向ってこだわりつづけることも可能になるのではないでしょうか。

自分のことを反省してみると、DTMなどの趣味においても、こんなもんでいいか的な妥協があるような気がします。創造的であるためには常に自己否定が必要で、いまの自分を解体することで新しい何かが生まれてくる。実はいま3拍子の曲とか、マイナーコードの曲などをたくさん作っているのですが、まだまだ破壊が足りなくて、これは!という新しいスタイルがみえない。試行錯誤のなかで比較的まとまりつつある曲を仕上げようとしているのですが、やはりいままでのスタイルになってしまって、突き抜けられずに悶々としています。

趣味というプライベートにおいても仕事においても、自分を常に刷新しつづける行動が重要だと思っていて、昨日の自分は今日の自分ではないぐらいの勢いで臨みたい。そのヒントを与えてくれるのが(いまのところは)大前研一さんの本でした。今日、「ザ・プロフェッショナル」を読み終わったところなのですが、さすがにくたびれてしまい、一方で考えさせられたところがたくさんあってきちんと書きたいので、また後日しっかりとレビューしようと思っています。

と、いうことをつらつらと書きながら、あまりにも個人的な話になってしまったので、自分の小市民的な思考に我慢ができずに自分に再び反論を加えるのですが、なんかおかしいけど、まあいいか、という気の抜き方が、たとえば東京全体を停電に陥れたり、プールの排水溝のなかで幼い命を奪うようなことに通じるのかもしれません。そして、言いたいことがあるのに言えない、やりたいことがあるはずなのにできない、そんな窒息感のある社会だから、家を焼く、親を刺し殺す、自分を殺めるという行き場のない事件を生んでいるともいえるのではないでしょうか。

だからといって誰かが救済してくれるのを待つのは甘くて、自己を救済する強さが求められると思います。格差社会が悪い、と責任転嫁するだけでは、思考停止になります。社会を変える必要があると同時に、個人も変わる必要がある。行き場のない苦しみに自虐的に耐えているのではなく、なんかおかしいだろ!とまずは声を上げる必要がある。そのためのObligation to dissentがあるはず。

どうすれば変わるのだろう。どうすればもっと暮らしやすい社会になるのだろう。そしてぼくらはともかく、子供たちのために、どうすればしあわせな未来を残してあげられるのでしょう。みんな我慢しているし、社会のことだから知らないもーん、というわけにはいかなくて、大人たちのひとりひとりが背筋を正して、考えなければならないことのように思います。

パパやママがなんとかしてくれるからいいや、というわけにはいかない。2007年になると団塊の世代は大量に定年を迎えることになり(2007年問題と呼ばれているようです)、ちょっとばかり上の世代のパパやママたちも、自分たちの将来のことを考えるのにせいいっぱいになります。それぞれの「個」が、自分の生活はもちろん、社会全体のことを、これからの社会のことを構想しなければならない時代にきているのかもしれません。

まだ表層的ですね。自分に突っ込むのですが、視点が甘い感じがする。もう少し考えてみます。

投稿者 birdwing : 2006年8月31日 00:00

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