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2006年8月 6日

想像力、言葉化、対話の欠如。

夏の定番というか、昨日テレビで「ウォーターボーイズ」という映画が再放映されていました(ついでに「スウィングガールズ」もやっていたらしい)。水泳は得意ではないにもかかわらず、うちの長男はこの映画が大好きで、昨日もじっくりと観ていたようです。という彼は来週からスイミングスクールに通わなければならないのですが、このときに気になるのはやはりプールの管理問題です。埼玉県の小学2年生の女児が亡くなった事件のことは、やはり子供を持つ親としては気がかりです。

本日、埼玉県ふじみ野市の市営プールで小学2年生の戸丸瑛梨香さんが死亡した事故で瑛梨香さんの葬儀が行われたようです。瑛梨香さんのご冥福をお祈りいたします。同じちいさな子供を持つ親として、痛いほどに事故のこと、憤りを感じられていることに共感します。

この事件について、あってはならないことだ、というのは強く感じるし、管理会社の杜撰な対策もひどいと思う。けれども、この事故が投げかけた波紋はもっと大きいもので、単に埼玉のできことにとどまることではありません。この事故が問題なのは、すべてのプールに対する不信感を生じさせたということ、あるいは業務委託という業態の会社すべてに対する体制に信頼がもてなくなったということです。だから大きな社会問題であると感じました。プールを利用するときには、どうしてもこのプール大丈夫?という気持ちになる。プールの監視ではなくても業務委託されている会社には、ほんとうに責任もってやってんの?という疑惑の目でみてしまう。

このとき、日本のマスコミをはじめとして一般の対応で顕著な傾向は、問題を起こした会社の当事者を吊るし上げること、批判することではないかと思います。もちろんそれは重要ではあるのだけど、ぼくは問題はそれだけでは解決しないような気がするのです。どうしてそういうことが起きるのだろう、ということを考えつづける必要があるのではないか、と。

一度、うーむ、わかりません、と考えを保留したのですが、実はぼくはいまもその原因と対策について考えつづけています。建築上の問題であれば専門家にお任せすることにして、社会全体を覆う「場の空気」に問題があるような気がしました。そこで、自分がこれまでブログで考えてきた思考の観点から、考察を加えようと思います。ものすごく個人的な考察であり、さらに、もしかすると既にジャーナリストの方が語っているかもしれません。ブロガーであるぼくは、本来であれば情報を収集してブロガーの見解に目を通すべきだとは思うのですが、残念ながら、それぞれのコメントを全部チェックする時間もありません。そこで、とりあえず自分の考えた範囲のことを試しにまとめてみることにします。

このプール事故に、3つの視点による問題を考えました。

ひとつめは「想像力の欠如」、ふたつめは「言葉化されないこと」、そして最後のみっつめは「対話の欠如」です。

まず、「想像力の欠如」の問題としては、企業はリスクを回避するために、危機を想定して仮想的に現実をシミュレーションできるか、ということが重要になると思います。こりゃあり得ないことだなと思えることまで、可能性を追求する必要がある。今回、排水溝の蓋がはずれたら誰かが吸い込まれる可能性はあるわけで、さらにその事態を想像すれば、蓋を上にあげてそのままにしておくという行為によって、より危険度が高まることは容易に想像できるはずです。そのことが想像できなかった。想像できないから適切な行動も起こせなかった。

少し話が横道にそれるのですが、一時の感情に流されて親を殺してしまう子供もいますが、その子供たちにも想像力が欠けている気がする。というのは、殺してしまったあとのことを想像すれば、自分がどのように厳しい状況に置かれるか、わかるのではないでしょうか。そんな冷静な状態にないから殺人が起きるのだ、ともいえるのですが、一度すべての行動を留保して、「よく考える」ということが重要だと思います。考えなしに行動することは、よりリスクのともなう結果を引き起こすような気がします。

ふたつめの「言葉化されないこと」の問題では、想像力があったとしても、心のなかで「なんかこれって危険なことになりそうだ」と思っていたとしたら、他者と共有することはできません。元アルバイトが危機管理に問題があると思っていた、とか何とか言っていましたが、思っていたのに言わなかったら、きみも同罪だろう、という気がする。ただアルバイトにそこまで求めるのは酷な話で、管理者が言葉化する必要があります。

さらにこういうときに、体制を明確に決めないこと(=言葉化しないこと)も問題です。たとえば、排水溝の蓋が外れたら、外れた箇所に数人を配備し、お客様を誘導するひと、修理のための道具を取りに行くひと、など、きちんとしたフォーメーションを取る必要がある。先日、組織論で批判的な文章を書いたのですが、こういう状況下に「場の空気を読んで、自分で判断して行動しなさい」というリーダーは、リーダーとしての役目を果たしていない。守備範囲をきちんと規定しないから、ぽてんヒットも生まれるわけで、「それはあなたの仕事でしょ?」「え、あなたがやると思ってたけど?」と譲り合うようなことになる。非常に慎み深い光景かもしれないのですが、一般の企業においては、思いやりで配置を決めていたら、とんでもないことになります。「いやーみんなで助け合っていこうよ。協調性が大事でしょ」などと言う経営者に限って、失敗については責任転嫁するものです。私の采配のミスです、と潔く覚悟できているひとは少ないのではないでしょうか。だって部下が勝手にやっちゃったんだもん、知らないもん、という弁明が多い。

みっつめの「対話の欠如」については、危険を感じたひとが危険であることを告げると同時に、管理会社などが「聴く」姿勢にあるかどうか、という問題が重要だと思います。どんなに現場で危機感を感じて訴えていても、上層部にその内容を「聴く」姿勢がなければ、問題は硬直化します。監視社会というと、どうしても告げ口や足を引っ張る方向というイメージが大きいのですが、このような人命を損なうような危険なことについて、はっきりと言える風土があること、そのはっきり言ったことを聴く姿勢があることが重要だと思いました。権力的に握り潰されてしまうような気がしますね、会社にとって不利なことは。でも、きちんと言いたいこと言える会社が、健全な会社であると思います。

と、私見を長々と書きましたが、それでもぼくはまだ「わかりません」という気がします。いま社会に起きている現象をいくつか横断的にピックアップしつつ、また考察してみようと思います。

投稿者 birdwing : 2006年8月 6日 00:00

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