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2007年4月30日

Au Revoir Simone / The Bird of Music

▼music07-024:おもちゃ箱のきらめき、ガーリィなエレクトロ・ポップ。

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The Bird of Music
Au Revoir Simone
The Bird of Music
曲名リスト
1. Lucky One
2. Sad Song
3. Fallen Snow [Age of Rockets Remix]
4. I Couldn't Sleep
5. Violent Yet Flammable World
6. Don't See the Sorrow
7. Dark Halls
8. Night Majestic
9. Stars
10. Lark
11. Way to There
12. Fallen Snow [Age of Rockets Remix]

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ジャケ買い+タイトルに惹かれて成分が70%ぐらいなのですが、ぼくのハンドルにぴったりの「The Bird of Music」。青い空にたくさんの鳥が羽ばたいている絵がいい。

音楽はというと、どちらかというとチープな打ち込みを主体としたガールポップです。うーん、どこかで聴いたような覚えがあるんだけど思い出せないなあ、と記憶を引っ掻き回したくなるような感じ。80年代っぽいテイストもありますね。ストロベリー・スウィッチ・ブレイド? 違うなあ。むしろもっと遡って70年代的なポップスの雰囲気も感じさせます。フレンチポップ系という感じもする。オ・ルヴォワール・シモーヌ(「さようなら、シモーヌ」という仏語)のバンド名からしてそんな感じ。ちなみにこのバンド名はティム・バートンの映画「ピーウィーの大冒険」から取られたそうです。ぼくは観ていませんが、ちょっと気になりますね。

ニューヨークを拠点とする3人組みの女の子(アニー/エリカ/へザー)とのこと。ソフィア・コッポラ監督の映画にぴったりの音じゃないかなと考えながら解説を読んだところ、まさに解説にそう書いてあった。やっぱりね。けれどもこの作品ではソフィア・コッポラ的な傾向は薄まったようで、ノスタルジックで、それでいて明るい。アルバム全体を通して、伝統的な王道ポップスです。おもちゃ箱のなかの大切なガラスの宝石という感じでしょうか。ぼくが語ってしまうと若干気持ち悪いのですが(苦笑)。

1曲目「Lucky One」は、なんとなくHer Space Holiday的な歌いまわしが感じられていいですね。「Sad Song」というタイトルでありながら明るい2曲目もいい。マイナーコードがちょこっと出てくるところなど、ポップス心をくすぐります。シンセが効果的です。5曲目「Violent Yet Flammable World」のイントロ、どんとどん・たん、というドラムのリズムは、きたかーという感じ。ポップスのツボをこれでもかという感じに押さえています。3人それぞれメインボーカルを交代で歌っているようですが、雰囲気は似ているけれども別の世界を表現していて、ひとバンドで三度おいしい。

ライナーノーツを読むと、最近影響を受けたバンドとして、アニーはピーター・ビョーク・アンド・ジョン、へザーはブロンド・レッドヘッドを挙げているのも、なんだかにやりでした。最近は前知識なしにぶらりとCDショップを訪問して試聴し、これはと思ったものを購入しているのですが、気がつくとどこかでつながっている。セレンピディティな偶有性の連鎖がよいです。

UKレーベルのMoshiMoshiのアルバムはジャケットが違うようですが(森のなかの3人の後姿。下のジャケット)、鳥の絵のこっちの方がぼくは好みだな。4月29日観賞。

+++++

湖から吊り上げたシンセ(RolandのS-10)を弾くシーンが印象的な「Fallen Snow」のPV。というより、最初から最後まで彼女たちの脚(というか、ふくらはぎ)に悩殺されてしまってどぎまぎと困惑でした。最後のシーンで、こちらから見ていちばん右側の子が好み。そういう問題じゃないですか。

■Au Revoir Simone - Fallen Snow

リズム、リバーブの効いたエレピ、ハーモニーと、どこかブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズのソングライター)っぽい曲作りも感じられます。こういう曲は作らなくなってしまいましたが、たまに聴くとほんとうに懐かしさを感じます。

公式サイト
http://aurevoirsimone.com/

myspace
http://www.myspace.com/aurevoirsimone

*年間音楽50枚プロジェクト(24/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年4月28日

Nine Inch Nails / Year Zero

▼music07-023:攻撃的なノイズは暴力ではなくてやさしさでは。

Year Zero
Nine Inch Nails
Year Zero
曲名リスト
1. Hyperpower
2. The Beginning Of The End
3. Survivalism
4. The Good Soldier
5. Vessel
6. Me, I'm Not
7. Capital G
8. My Violent Heart
9. The Warning
10. God Given
11. Meet You Master
12. The Greater Good
13. The Great Destroyer
14. Another Version Of The Truth
15. In This Twilight
16. Zero-Sum

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人間はひとつの側面だけで判断できないもので、たとえばやさしいひとのなかにも激しく攻撃的な一面があったりする。その攻撃性もぼくは認めていたい。というのは、攻撃性は必ずしも暴力ではないと考えるからです。ナイン・インチ・ネイルズ(NIN)の音は、皮膚を傷つけるようなソリッドなノイズで溢れていますが、はたしてその音を聴こえている通りに受け止めていいのか。


正直なところ、1・2曲目は個人的には肌に合いませんでした。失敗したかーと思った。ぼくにとっては普通のヘビメタに聴こえてしまったんですよね(苦笑)。基本的にぼくは脱力系のひとなので、あまりにマッチョなディストーションは身体に合いません。本格的なヘビメタではないとは思うんですけどね。


けれども、4曲目「The Good Soldier」におおっと引き込まれて、その曲から6曲目のあたりはかなりいい感じで聴きました。インダストリアルなビートを刻み、外部に感情を発散しながらも、なんとなく内省的な心象風景が感じられる。マッチョではなくてアートっぽい。ジャケットにもありますが、廃れた工場に集まる悪いやつらという感じでしょうか。バイオレンス映画っぽい風景です。けれども悪いやつらなんだけど、独自の美学や哲学がある。ちょっとスマートなワルで、社会に対して批判的に生きることしか選択できなくて、ぎりぎりの生き方をしている。腕にものをいわせる暴力ではなくて、知的な牙で噛みつくハングリーな生き物のような。


音的には、素材のループっぽい演奏だとか、5曲目「Vessel」のノイズの重ね方、左右へのパンなどはかなり好み。6曲目「Me, I'm Not」、9曲目「The Warning」のやや囁き系のボーカルは、少し前に聴いたLOWに通じるものがある気がしました。7曲目「Capital G」はサビがいいな。


いちばんぼくが好きな曲は、15曲目「Another Version Of The Truth」。2つ目のスネアドラムが突っ込んでいるリズムもいいし、アルバム全体のなかでメジャーコードがいちばん引き立つ曲のような気がします。


ノイズの使い方にもセンスがあって(最近わかりはじめてきた)、ノイズを使った演奏のスタイルがある。NINのノイズはかなりアタックが聴いていて、場末のパブっぽい退廃的かつ刺激的な騒音です。ぼくの感覚でいくと、お上品なノイズもあります(クリスチャン・フェネスとかになっちゃうのかな。モグワイも攻撃的でありながら、ある種の繊細さを感じました)。精神に絡んでくるノイズもあるのだけれど、NINはそうではない。ノイズ本来の物理的な攻撃性を最大限に発揮している気がします。たとえば、13曲目「The Great Destroyer」のノイズは完璧だな。ちょっとサラウンド的な処理もしているような気がしました。


リズムもかっこいい。8曲目「My Violent Heart」の静けさから急に変化するリズムなんかもろ好みです。これは秀逸でしょう。たぶんノイジーなバンドは、マックスで最初から最後まで轟音をとどろかせるよりも、静寂と喧騒のコントラストをきちんと表現したほうがかっこいい。16曲目「Zero-Sum」もいいな。


政治的なメッセージを表現することによってカリスマ性のあったミュージシャンだと思うのですが、怒りや批評は必要だと思うけれども、過去と同じようなパターンでいっつも怒っているのは芸がない。このアルバムを聴いて、ぼくは怒りが音のなかにうまく昇華されていると感じました(過去のアルバムを聴いていないから、なんともいえないけど)。何に怒るのかという核をずらさずに、言葉のメッセージではなく攻撃的な音にメッセージを込めて抽象化すれば、さらに音楽としての高みにもいけるのではないでしょうか。


最初は抵抗を感じたのですが、全曲聴いてみてその世界にはまりはじめている自分がいます。実は暴力的なノイズは、やさしさの裏返しではないか。NINの音を聴いてやさしいとか言っている人間ってちょっと壊れてないか?とも思うのですが、人間の表現はストレートに表出するものだけではない。第一印象は不快であっても、解釈を変えることによって一気にのめりこむ音楽もある。そういう音楽は、苦手が反転すると、かなり長く聴き続けることになると思うんですよね。4月28日観賞。


*年間音楽50枚プロジェクト(23/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年4月27日

Mogwai / Young Team

▼music022:轟音と静寂の彼方に永遠を信じられそうな。

Young Team
Mogwai
Young Team
曲名リスト
1. Yes! I Am a Long Way from Home
2. Like Herod
3. Katrien
4. Radar Marker
5. Tracy
6. Summer [Priority Version]
7. With Portfolio
8. R U Still in 2 It
9. Cheery Wave from Stranded Youngsters
10. Mogwai Fear Satan

1. Young Face Gone Wrong [*]
2. I Don't Know What to Say
3. I Can't Remember
4. Honey
5. Katrien [Live]
6. R U Still in 2 It [Live]
7. Like Herod [Live]
8. Summer (Priority) [Live]
9. Mogwai Fear Satan [Live]

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こうだったか・・・。よい意味で想像していた音とは違いました。背筋に何か走るものがあった。実は食わず嫌いというか、気になってはいたのだけれど聴くのを躊躇していたアーティストでした。でも、今年になって集中的にこの傾向の音楽を摂取した後であったせいか、ぴったりとはまった。やばいなこれは。

現在のぼくはエレクトロニカ志向ではあるのですが、基本的に趣味でバンドもやっていた経験があり、またDTMでノイズや効果音などを含めて音をいじくるのが好きなので、それらがすべて網羅されたアーティストが気になります。バンド的なグルーヴがありながら知的に計算された録音という感じでしょうか。Sigur Rosなどはまさにそんなテイストだったのですが、モグワイもいいですね。このアルバムを作ったときのメンバーの平均年齢は18歳だとか。だろうな。たぶん才能だけでは出ない音でしょう。尖っている。

アルバムのなかでは5曲目の「Tracy」が好きなのですが、この曲を聴いていて徹夜明けの朝の風景を思い出しました。群青色の空の端が次第に明るくなっていく。街頭の灯りはまだ灯されていて、なんとなくしばしばと目を瞬くと、その光が滲んで見えたりする。疲れ果てていて、足はなんだか重くて、それでも永遠を信じられそうで、家に帰ってはやく眠りたいと思う。それなのに途中の自動販売機で缶コーヒーを買ってプルリングを引いて電柱に寄りかかって飲んだりして、そんなときにぼんやりとしたアタマに浮かぶのは恋人の寝顔。彼女に触れたいと想う・・・そんな勝手なイメージです。というような曲じゃないかもしれないですね(苦笑)。

7曲目「With Portofolio」のリバーブの利いたピアノと暴力的なパン(左右に音を振ること)も過激だ。すごいなこれは!脳内ひっかきまわされます。たぶん不快と感じるひともいるだろうと思うのですが、ひっかきまわされた後で8曲目「R U Still in 2 It?」にすっと移ったときの静寂の快感が凄い。ベースのハーモニクスも美しい。まいりました。この曲の語りかけるボーカルの気だるさといい、トレモロギターの遠さといい、癒されるなあ。アルバムとしての展開もすばらしいです。

輸入版のジャケットは日本語の某銀行名が入っていたりするのですが、さすがに国内版では消されていますね。4月28日観賞。

*年間音楽50枚プロジェクト(22/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

時間の分断、詩と小説。

仕事で外出することが多くなりました。さまざまな場所に赴き、ひとと会って話をする。いまのところこの活動が時間を忘れるぐらい楽しい。プライベートでは少しばかり思考回路が壊れかけて、得体の知れない不安に覆われていたとしても、お話をしていると紛れるものです。

最近はデスクワークが多かったのでデスクワーク向きの人間だと思っていたのですが、実はそうではなかったりして。ひょっとしたら外へ出ていくほうが向いているのかもしれません。あまり自分を規定せずに、ときには自分らしくないことをやってみるのも大切です。いままでとは違うほんとうの自分をみつけることもできる。

過去から未来へ、継続したリニア(線的)な時間軸のなかにいると、どうしても過去のしがらみを引き摺ってしまうものです。過去が自分を解放しない。けれども、あえて分断された時間のなかに身を置いてみると、そうではない自分というものも浮き上がってきます。浮き上がるのだけれど、やはり自分は自分であって、過去の資産は残っている。べったりと現実に生活していると過去が重みになることも感じますが、距離を置くことができれば過去もいとおしい。

ところで、このところ楽器屋によく立ち寄っています。購入しているのは楽器関連の何かというよりも本です。今日はサウンド&レコーディング・マガジンとDTMマガジンを手に入れました。

サウンド&レコーディング・マガジンの5月号の表紙は、坂本龍一さん。おお、かっこいいな。

Sound & Recording Magazine (サウンド アンド レコーディング マガジン) 2007年 05月号 [雑誌]

とあるファンの方が、あのいやらしそうな顔がいい、と言っていたことを思い出しました。なんとなくそれを聞いて嫉妬しました(ぼくは嫉妬深い?)。ちぇっ、ぼくもいやらしい顔になってやる、とか思ったものでした(苦笑。なれませんが)。坂本龍一さんに嫉妬したりライバル意識を燃やすのは身のほど知らずというか子供じみていて、勝ち目がまったくありません。とはいえ、そんな子供じみた想いがクリエイティブな原動力になることもあるんですよね。たとえ趣味の音楽制作だったとしても。

特集では、まず山口情報芸術センターにおける高谷史郎さんとのコラボレーションが紹介されています。水槽のなかに霧を発生させ、プロジェクターで映像を投影する。そして、各水槽ごとにペアのスピーカーが配置されて、不思議な音響感のある空間を演出する。面白そうです。

解説の言葉にある次のコンセプトにまず惹かれました。

fluid=流動するもの、invisible=見えないもの、inaudible=聴こえないもの、と付けられた副題のように、まさしく体験するものの視覚や聴覚に対して静かに、しかし強烈な揺さぶりをかける作品である。

これは空間的な広がりなのだけれど、ぼくが注目したのは坂本龍一さんの「時間軸」についての発言でした。後に掲載されているフェネスについてのインタビューにおいても同様に、時間軸の考察がされていて興味深いものがあります。

坂本龍一さんは「リニアな時間の呪縛から離れたかった」と語ります。

「オペラだけでなく普通の音楽というものには、始まりがあって終りがあるということになっているけれど、随分前からそれが引っかかっていた。始まったら終われないのはなぜだと。・・・(後略)」

勝手に解釈するのですが、物語的なアプローチと詩的なアプローチの違いのように感じました。つまり物語は、始まりがあって終りがなければいけない。けれども詩は始まりも終りもなく、永遠に浮遊させることもできる。つまり、時間軸の推移を重視した音楽は物語的だけれど、音は空間的に広がるので、その広がりは詩的であるともいえる。

そこで坂本龍一さんのアプローチは、アーカイブされていた音を素材をカテゴリー分けすることだったそうです。打つとか擦るとか、30種類のカテゴリーにわけていく。それらに足りないものを加えて、映像を対応させていく。そして「ランダムであってカオスではない」音の空間を作り上げる。

その作り方は、カールステン・ニコライとのコラボレーションに近いものがあるかもしれません。けれどもクリスチャン・フェネスとの制作はそうではなかったようです。次の部分が非常に興味深いものがありました。

「カールステンとの場合は、僕が弾いたピアノを送ってそれを彼が料理するというやり方なのですが、フェネスとの場合は彼が先に3〜4分のパッド的な部分を送ってきます。僕はそれを2〜3回ループさせて、その上でピアノを即興演奏する。彼が僕のピアノをいじることはありませんでした。カールステンにはちぎることを前提とした素材を送っているので音楽の時間が切れている。そういう意味では非伝統的な時間の流れになっているのに対し、フェネスが作ったパッドの上で僕がピアノを弾いているのは、場所は違っていてもリニアな時間。その点では伝統的な音楽に近いですね。」

うーん、この部分ちょっと鳥肌でした(まあ、BirdWingなので鳥なわけだが)。

つまり坂本龍一さんの音をカールステンが分断するとき、それはデジタルな処理になる。持続的な坂本龍一さんの演奏を細かく刻んで再構成するアナログ(連続)→デジタル(分断)という処理です。ところが、フェネスが作ったパッドのループ上で演奏するクリエイティブは、デジタル(分断)→アナログ(連続)という流れになる。だからその結果生まれた作品はまったく異なる。

優劣をつけるのは不毛な話だけれど、なぜフェネスの音楽がノイズを多用しながらあたたかいかというと、それは坂本龍一さんのピアノの身体感覚(ぬくもり?)が残っているからではないか。つまり分断された音を身体的に統合するデジタルからアナログへの試みとしての演奏であったわけです。それはテクノロジーを身体で統合していく。一方でカールステンの場合は音を切り刻み、無機質な空間を構築していく。身体を詩的な空間に分断する非常に洗練された未来的なアーキテクチャーとなる。

やっぱり凄いな、坂本龍一さん。音楽は当然のことながら、アーティストに合わせて生成変化すること、そして創作の背景となる考え方に打たれます。勝てないな(当たり前か)。

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2007年4月22日

レディ・イン・ザ・ウォーター

▼Cinema07-014:人間の役割、つながっている世界。

B000MTONDEレディ・イン・ザ・ウォーター
ポール・ジアマッティ ブライス・ダラス・ハワード ジェフリー・ライト
ワーナー・ホーム・ビデオ 2007-04-06

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「アンブレイカブル」「ヴィレッジ」「サイン」など、M・ナイト・シャマラン監督の作品に共通していえるのは、謎の答えを出さないことではないでしょうか。不思議を不思議として認める、ということかもしれません。たいてい多くのサスペンスであるとか、SFの映画では、最後に種明かしをして終わります。もちろん、M・ナイト・シャマラン監督の作品にも種明かしはありますが、それでも大きなレベルで不思議な雰囲気が薄い霧のように残る。それがいい。

「レディ・イン・ザ・ウォーター」は、とあるアパートのプールに住む海の妖精が、妖精の世界に帰ろうとしている。ところが彼女が水からあがったとき襲ってくる悪いけだものがいて、彼女は傷を負う。アパートの管理人クリーブランドが中心となって、彼女を助けようとする物語です。はたして彼女は、おおきな鳥に連れられて、妖精の世界に帰ることができるのか・・・。

おとぎ話のなかに彼女のことが出てくるということから、おとぎ話を参考にしてアパートの個性的な住人たちが知恵を絞って考えます。そして、それぞれがおとぎ話のなかの役割を担おうとする。人間は、ひとりで生きている存在ではなくて、大きな全体のなかで個々の役割がある。彼女を救うのは「記号論者(シンボリスト)・守護者(ガーディアン)・職人(ギルド)・治癒者(ヒーラー)」だそうです。が、いままでふつうの生活をしてきて、あなたは守護神だろう、と言われたとしても、え、いやーぼくはふつうのひとですよ、そんな超能力ないですって(苦笑)と戸惑う気持ちはすごくわかる。現実と非現実が奇妙に交差する世界のなかで、誰もが戸惑いながらそれでも海の妖精を救うために力を合わせる。

つらい過去のためにどもりながら寡黙な生活をしている管理人クリーブランドが、封印していた言葉を涙ながらに語りはじめるシーンでは泣けた。妖精ストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)のこの世のものとは思えない、はかなげな顔、容姿が印象に残りました。4月22日鑑賞。

公式サイト

http://wwws.warnerbros.co.jp/ladyinthewater/

*年間映画50本プロジェクト(14/50本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年4月18日

いま、ここを起点として。

人間の欲望には際限がありません。求めていた夢が適うと、さらにその上を求めてしまうものです。大金持ちはさらに資産を倍増させようとします。倍増して何をするかということは考えずに、倍増することが目的になる。そこに喜びを感じてしまう。

「もっと」を追求する気持ちが知識に向かったときには、特に問題はないでしょう。研究者においては、その知的好奇心が原動力となっているものです。けれども、特定の他者に「もっと」を求めた場合には、うまくいく場合とうまくいかない場合があります。

期待によって他者の能力を伸ばすことができる一方で、過剰な期待はプレッシャーとなって圧迫することもある。万人に有効なセオリーがあるわけではなくて、その個人それぞれの特性によって違うものかもしれません。「もっと」を自分の期待として解釈して頑張れるひともいれば、なぜ求められてもいないものにそれ以上のことを要求するのかわからん(怒)、というオーバースペックに耐えられなかったり消耗する場合もある。

最近はSEOよりもSMO(Social Media Optimization)という言葉の方が使われているかと思うのですが、いずれにしてもOはOptimization(適正化)です。ところが、この適正化がぜんぜん適正じゃなかったりもする。状況を無視してとにかく数値の増加を目指すのは、適正ではありません。たとえば月間3000もPVがあれば十分と思っているサイトの企業に、1万PVを求めるのは不適正ですよね。

先週、とあるブロガーさんのセミナーを拝聴したのですが、そのなかで知人23人のブロガーさんに訊いたアンケートというのが結構面白かった。23人というミニマムなN数(回答者数)自体がぼくには魅力的だったのだけれど、そのなかでPVにも触れられていて、最も回答数が多かったのは月間1,000〜10,000PVだそうです。とはいえ、名前は明かさなかったのですがかなり有名なブロガーさんたちのようで、だからもちろん100万PVという凄いブロガーさんもいらっしゃるのですが、1万いけばそこそこという印象は意外でもありました。たぶん、アクセス数じゃないのでしょう。

ついでに講演のなかではVOXのほか、シンプルなサービスとしてTumblrTwitterなどの新しいコミュニケーションツールや、ブログをネットワークする仕組みとしてのAgile Media Networkなども紹介されていて興味深いものがありました。

自分のモノサシを大切にする

情報が過剰に溢れるネットの世界に住んでいると、ときに自分を見失います。

けれども結局のところ、自分のモノサシに合わせて目標であるとか適正値を設定すればいいのではないでしょうか。他人はどうであろうが、自分はこうだという信念があれば、無駄に頑張る必要もない。逆にまったく儲けにつながらなくても、自分にとって意義があれば実行に値することといえます。

いまここにいるというだけで自分の存在は奇跡的なものです。それだけで尊い。

もっと凄い自分になるという向上心は大事ですが、向上心ばかりが先走ると逆に現在の自分がつまらなくみえてしまうものです。理想のレベルを上げすぎると、反比例して現実の成果が低くなっていきます。モチベーションのための高い理想であれば意義があるのですが、理想に押し潰されるぐらいであれば下手な理想なんか持たないほうがいいかもしれません。

よく使われる比喩ですが、コップに「まだこれだけ水がある」と考えるのと、「もうこれだけしか水がない」と考えるのでは、意識的に全然違う。悲観的にとらえていた事象も、裏返してみれば楽観的になることもある。

人間の意識は地と図を反転させることが可能であって、ポジとネガを切り替えることもできる。自分には何もない、と思うときには、きっと自分にないものばかりを見ている。そんなとき、空白のピースになっている部分に焦点を当てれば、「地」として自分が見えてくる。自分にはないものをネガとして反転させれば、隠れていた自分が「図」として浮き上がってくる。

ここにないものを残念に思うよりも、いまここにあることに感謝すること。それが大事かもしれません。

そして、再構成・再編集するイノベーションへ

という長々とした文章で何を考えようとしていたかというと、未来を構想するときに、まったく従来との接点がない新しいもの、現在や過去とつながりのない世界を構想するのではなくて、過去や現在の要素を再構成・再編集しつつ新しいものを生み出せないか、ということです。つまり、

過去・現在の自分を起点とした未来構想としてのイノベーション

ということでしょうか。いたずらに時流(トレンド)を追うものでもありません。変化する時代を起点としたり、世のなか全体を基準とするものではなくて、自分を起点とした変革ができないか、と。

たとえば、ぼくの3歳の頃の写真には、子供用の椅子を机にして何かを書いているシーンがありました。覚えていないのだけれど、何かを書くのが好きだったらしい。いま、鉛筆をキーボードに、紙をネットに置き換えたけれども、基本的には何かを書いていることに変わりはありません。そして、文字を音に変えるイノベーションを10代のときに起こすことによって、音楽をはじめた。趣味のDTMは、ぼくにとっては文章を書くことと同じラインにありながら、位相を変えたものであるわけです。

うまくいえないのですが、iPodのイノベーションも、実は従来の基盤から大きく離れてはいないのではないか、と直感的な洞察が浮かびます。モノは違うけれども、Macを購入したときのわくわく感と、iPodを購入したときのわくわく感は相違ない。もともとMacのなかにあるハードディスクを外部に出しただけともいえるのですが、機能的な何かではないような気がする。もちろん機能も大事なのだけれど。うーん。

MacとiPodに共通するイノベーションの軸は、生活はもちろん機器が身体の一部になる感じですかね。誰か言ってたっけかな。

つまり、肌身離さず携帯するiPodは、Macを持ち歩く意味での一体感もあったりする。PDAであるAppleのニュートンは、それに近いものを目指していたのだけれども失敗したといえます。その失敗を比較してみたときに、何か言えそうな気もしています。おぼろげに考えているだけですが。

ぼくが自分で購入した初コンピュータはMacだったのですが(Performa 5320。まだ家にある)、なんとなく名前をつけたくなった気がします(笑)。カタチもなんだかイヌみたいだったし。どこか機械でありながら、人懐っこい感じがしました。という意味では擬人的もしくはペット的なのですが、まだ自分との距離感があった。Windowsマシンではさらに遠い感じです。あれは道具だ。

「欲望解剖」という本のなかでは、田中洋さんがポスト・カルテジアン消費という言葉で「情報を媒介として心と身体とが一体化した消費現象」について解説されていました。自分と情報を一体化しつつ、過去と未来を俯瞰したような統合化されたイノベーションが重要なのではないか、などと思ったりしました。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年4月17日

InsightとForesight。

夢についてブログに書いて昨晩ぐっすりと眠ったところ、明け方、ものすごく素敵な夢を見ました。ひとつはギターのメロディが聴こえている夢。音の夢ですね。音と同時にコード譜のようなイメージが浮かんでいて、その向こう側で誰かがギターを弾いていた。ふたつめは、桜色のアクセサリーのようなものを手に取っている夢。こちらは色つきです。なんでしょう。よくわかりません。

音だけの夢や、カラフルな夢をよく見ます。だからどうだということはないのですが、逆にあまり物語的な夢は見ないようです。よく長編の夢を見られる方もいるようですが、そういうのはない。一旦夢が途切れてつづきを見ることができるひともいるようですが、ぼくにとってはうらやましい。というのは、断片的なシーンの夢ばかりが多い。現実世界では、論理的なもの、物語的なものを求めているので、その反動として絵画的なものや音楽的な何か、あるいは詩的なものが夢に現れているのかもしれません。

夢から何を読み取るのか。いわゆる夢分析は突き詰めてもどうかと思うのですが、最終的には科学的な視点よりも直感に拠るところが大きいのではないでしょうか。心理学と組み合わせたり、脳科学と組み合わせて、カラフルな夢を見ているときは脳のこの部分が活発である、とう分析をすれば科学的になるかと思うのですが、ではそれが何を意味しているのか、ということはきっと科学ではわからない。多分に文学的な解釈になるのではないでしょうか。

そのときに重要になるのは洞察(Insight)だと思います。映像を意味として解釈していく作業です。

夢の洞察というのはややあやしい感じがしますが、インサイトに関しては、マーケティングの分野でも重視されていて、アカウントプランニングであるとか、五感マーケティングのような分野においては重要なキーワードではないかと思います。インサイトは、事実に隠された真理を深堀りしていく、つまりマイニング的なアプローチです。では、いまここにない未来を考えるときに重要になるのは何か。

読書中の博報堂フォーサイト鷲田祐一さんの「未来を洞察する」という本では、「未来洞察=フォーサイト(foresight)」というコンセプトが重要と述べられています。

4757102070未来を洞察する―Foresight
鷲田 祐一
エヌティティ出版 2007-03

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以下、引用します(P,33)。


「フォーサイト」とは、英和辞典では「先見性」とか「配慮・備え」というような翻訳になっている言葉だ。今流行している「コンシューマー・インサイト」の「Insight」という言葉と、ちょうど対をなすような言葉ともとらえられる。深く中へ中へと洞察するのが「Insight」だとすれば、広く前へ前へと洞察するのが「foresight」ということだ。

この本の冒頭にも書かれていることであり、大前研一さんなども述べられていたかと思うのですが、今後のビジネスでは未来を構想する力が重要になってくる。けれども、この領域は日本人は得意とはいえない分野です。過去から現在をカイゼンする力は得意であったとしても、ゼロベースでこれからの戦略を立案したり、ビジョンや未来を構想する力は日本人には弱いといわれています。しかしながら、イノベーションでは、まさにゼロから何かを創造する力が必要になる(もちろん過去にあるものを組み合わせる手法もありますが)。

ぼくが時間軸などに興味を持ったのは、多くの本でまるで申し合わせたかのようにそんな指摘が解説されていたからでした。タイムライン、シークエンスといったものに関心を抱いていると、自然とそうした情報をキャッチしやすくなる。奥出直人さんの本にも書かれていましたが、茂木健一郎さんの本にも、未来予測は過去の情報を再構成することによって可能になる、思い出すことと創造性は似ている、などという見解もありました。

ということを期待しながら読み進めていきたい本なのですが、さらりと書かれているものの、マーケティング用語は縦横に駆使されているので、復習しながらの読書が求められそうです。

もう一度過去に読んだ本を探して読もうと思っているのですが、テキスト情報ではない物理的な本をひっくり返すのは面倒です(苦笑)。Googleでもマイクロソフトでもかまわないので、はやく文献のテキスト化をしてくれないかなあ、と勝手なことを思ってしまいました。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年4月16日

ゆっくり醸成する、そして夢。

年齢を重ねつつ、それでも若々しくありたいものです。失われていく若さにしがみつくのはかっこ悪い気がするのですが、落ち着いた穏やかな印象でありながら、いつまでも若い発想ができる紳士的なシニアに憧れます。若々しいダンディな感じというか。

自分に対する戒めなのですが、もう年だから...と言った時点で老け込む気がする。だからといって、いやいやまだ若いよーと否定するのも無理がある。年齢を年齢でそのまま受け止めつつ、それでも可能性を追求したり未来を向いているような人物がいい。身体も心も健康でタフであるのがいちばんですね。弱音を吐くな、でも自分を労われ、と。

知を醸成する

茂木健一郎さんの「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」に書かれていて知ったのですが、カントが「純粋理性批判」を書いたのは57歳で、それまではまったくの無名だったとのこと。ドラッカーは90歳を超えてもまだ教鞭をとっていたようです。すごい。

ゆっくり知をあたためるのもいいかもしれませんね。焦らずに。こつこつと。

若い頃には手当たり次第、可能性を試した気がします。だから無駄なことも多かった。可能性を試すというよりも、可能性を浪費していた感じに近いものがありました。とにかくエネルギーが余剰な状態なので、熱さに任せて考えもしないで多方面に突っ走るわけです。いまでも走れないことはないのだけれどすぐに息が切れます。だから走る方向は選別したい。手当たり次第には、走れない。

最近、ぼくの意識で大きく変わったのは、万人に受けなくてもいいと思うようになったことでしょうか。とにかく大勢に受け入れられたいとか、友達100人目指すとか、アクセス数をめちゃめちゃ稼ぐとか、ごりごり儲けるとか、そういう方面の熱意がめっきり減りました。そちら方面はくたびれるからいいや、という感じ。

かといって欲がなくなったわけではありません。万人にモテなくても、大切なひと/ことには全力で想いを注ぎたい。アクセス数やアフィリエイトは無視していても、ブロガーとしてよりよい文章を書くためには全力で向かいたいと思っています。その気持ちは、むしろ以前よりも熱い(と思う)。

とにかく走れ、ということを先日ブログに書いたのですが、走る気持ち、走る力を大事にしながら、力を貯めることも重要かもしれません。走りたいから走るという無謀さが若さではあるのですが、大人の疾走とは、気持ちを貯めて(あるいはときには封印して)、ストイックな制御のもとに適切に力を使うことかもしれません。もっとも、手当たり次第には走れないから、自然と制御されてしまうともいえますが(苦笑)。

走りたいのに耐える時間というのは、気が狂いそうなぐらい辛く、さらに心身ともにこたえるものです。でも、この辛い時間を経て醸成されたものは、きっとものすごく貴重なものになる。・・・ひょっとするとならないかもしれないのですが、なると思っておくことにしましょう。

夢の効用

さて。Blonde Redheadのアルバムを購入してレビューに書いたとき、京都出身のボーカルであるカズ・マキノさんがゲンズブールファンであるということを知って、にわかにセルジュ・ゲンスブールのことを思い出しました。ゲンスブールもとにかく精力的なひとのようです(笑)。 作曲、作詞、歌手、映画監督、俳優となんでもこなして、50歳すぎてから30歳年下の女性と同棲していたりする(Wikipediaの解説)。

それほどゲンズブールを聴き込んでいないのですが、彼のベストCDを購入して楽曲の雰囲気にインスパイアされた(最終的に完成した曲を聴くと、どこが?という気もしますが。涙)自作DTM「生活に紛れたダイアモンド」を土曜日にハードディスクから発掘して公開してみました。10年以上放っておいたのだけれど、ゲンズブールに誘発されて突然にリメイクしたくなった曲です。10年の間で失われたものもあるけれど、逆に新しくなったもの、醸成されて良質になった何かもあるような気がします。

セルジュ・ゲンスブールの娘といえば、これも有名なシャルロット・ゲンズブールなのですが、ゴールデンウィークに彼女の映画が公開とのこと。タイトルは「恋愛睡眠のすすめ」。映像的にもよさそうなので、これは観たい。


公式サイト
http://renaisuimin.com/

恋愛睡眠ってなんだろう? 睡眠中に恋愛するらしい。夢のなかであれば、時間も空間も制限はないですね。ちょっとうらやましい。この映画で、隣人のシャルロット・ゲンズブールに恋をしながら声をかけられないシャイな男性は、ガエル・ガルシア・ベルナルが演じているようですが、彼の出演の映画といえば、「モーターサイクル・ダイアリーズ」「バッド・エデュケーション」、そして今年になって「アモーレス・ぺロス」を観ていました。ラテン系で、ちょっとやんちゃな感じのかっこいい雰囲気がある俳優さんだと思います。

B000803C8Oモーターサイクル・ダイアリーズ 通常版
ホセ・リベラ
アミューズソフトエンタテインメント 2005-05-27

by G-Tools
B000BH4C42バッド・エデュケーション
ペドロ・アルモドバル, フェレ・マルチネス, ガエル・ガルシア・ベルナル
アミューズソフトエンタテインメント 2005-11-25

by G-Tools
B000N4RBUAアモーレス・ペロス スペシャル・コレクターズ・エディション
ガエル・ガルシア・ベルナル, エミリオ・エチュバリア, ゴヤ・トレド, アルバロ・ゲレロ, アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2007-02-23

by G-Tools

それにしても、春のせいなのか、深夜のDTM制作など夜更かしのせいなのか、眠くてたまらない毎日です。一瞬でも時間があれば眠りたい。というか気合が抜けると、アタマのなかは春霞です。

眠るとなれば熟睡がベストかとは思うのですが、夢をみることにも意味があるらしい。「欲望解剖」の本のなかでは、夢には過去の記憶を整理する機能がある、という茂木健一郎さんの解説がありました。「夢の中で記憶の編集が行われる」とのこと。

せわしない現実では、進行しつつある出来事を整理する時間がないのだけれど、夢のなかで記憶が編集され、現実が再構成されていくらしい。まるで、夜中にどこからか現われて靴を作ってくれる小人のようですが、夢のなかでリアルが再構成されつつ醸成されていると考えると眠るのも楽しい。醸成された夢を確かめる目覚めも気持ちがいい。

今宵も、よい夢を(あ、朝に読んだら意味ないですね、この挨拶は。でも起きていても、よい夢をみましょう。未来のために)。

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2007年4月14日

トゥモロー・ワールド

▼Cinema07-013:子供こそが未来。

B000KIX9BOトゥモロー・ワールド プレミアム・エディション
クライヴ・オーウェン ジュリアン・ムーア マイケル・ケイン
ポニーキャニオン 2007-03-21

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2027年の近未来を描いた映画なのですが、ボディスーツもなければハイテク機器もありません。この映画で描かれているのは“人類が子供を生めなくなった未来”だからです。

少子化社会といわれていますが、まったく子供が生まれない社会というのは想像したことがありませんでした。その世界では、長寿ではなく、人類最年少の少年(18歳)がもてはやされ、彼がファンに殺害されたニュースが大々的に報道されていたりする。面食らったのですが、逆になんだかリアルです。

大人たちだけの世界というのは、もう未来がみえません。だからほんとうに荒みまくっています。美術品も破壊されるし、暴動も起きる。映画のなかで、世界中がテロで荒んでいて、ただイギリスの一部だけが存続している。そのイギリスでも移民を拒絶することによって、政府と地下組織のようなものが対立しています。そこに世界の運命を変えるひとりの少女が登場して、かつては活動家で現在はエネルギー省に勤めているセオが彼女を擁護して、ある場所へ連れていこうとするのですが・・・。

詳細はネタバレになるので避けますが、この映画は未来を描いたSFというよりも、戦争映画に近い感覚でした。アクション映画ですね。暴力的なシーンも多いのだけど、そんな荒廃した世界でもやさしく生きているひとたちもいて、その姿には胸を打つものがある。

歴史を過去から現在、そして未来につないでいるものは、大人ではなく子供たちではないか。子供を守ろうとするときに戦争に向かう暴力も止まる。ただ、タイトルはどうかと思いましたね(苦笑)。原題は「CHILDREN OF MEN」で、確かにそのままではいまひとつなのですが、トゥモロー・ワールドというと、どうしてもアンドロイドやハイテクな乗り物の映画を想像してしまいます。残念ながら、そういう映画ではありませんでした。4月14日観賞。

公式サイト

http://www.tomorrow-world.com/

*年間映画50本プロジェクト(13/50本)

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2007年4月12日

走れ、不完全でかまわないから。

数値による目標管理は企業活動においては重要です。数値管理なくして経営は成立しない。けれども、モチベーション管理に関していえば、逆に数値で管理することがやる気を低下させることもあります。限界を設定することが活動を縛り、マイナスを生むことがある。

あまりにも遠くに目標を設定すると、走り出す前に戦意喪失したりするわけです。怠惰なぼくは80%できればいいかーという風に、勝手に手前にゴールを設けてしまうこともあります。あるいは、試験などでも100%完璧に学習しても本番では80%の力が出せればいいほうだったりする。

「学びについて」というエントリーでも書いたのですが、目標設定を燃料にして走るのではなく、走りたいという燃料をエネルギーにして走ったほうが、どこまでも走行を可能にする場合もあります。クルマの運転と同じように、メーターを確認していると、あっ、ちょっと速度落としておこうか、という意識も働く。けれども、衝動的な想いで盲目的に動いているときには、数値なんか関係ありません。ぐわーっと熱い想いに突き動かされて、いつまでもどこまでも走っていける。

たまにぼくは趣味のDTMで暴走して徹夜することがあるのですが、気がつくと4時間すぎていた・・・なんてこともあります。あと、メシ食べるの忘れてたとか。仕事もそんなことがありました(過去形になっているなあ 苦笑)。

今日書店で購入した茂木健一郎さん+田中洋さんの「欲望解剖」という本の冒頭では、茂木健一郎さんが脳の開放性(オープンエンディッドネス)について書かれています。面白かったので一日で読み終えてしまいましたが、もう一度キーワードなどを拾って読もうと思っています。

4344012631欲望解剖
電通ニューロマーケティング研究会
幻冬舎 2006-12

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茂木さんの解説によると、人間の脳の認知プロセスには、ここまでという終わりがなく、どこまでも突っ走っていける。A10神経というものが働くと、脳内麻薬のようなものが分泌されてアディクション(中毒)が生じるそうです。好きなアーティストの曲をへヴィ・ローテーションで聴きまくるのもたぶんこの脳内の働きが原因で、ひょっとしたら恋愛もアディクション(中毒)の一種かもしれません。

どんなに快楽とはいえ中毒は中毒なので、諸刃のやいばといえるかもしれないのですが、数値管理よりも重要なのはこのA10神経を活性化するようなきっかけづくりではないでしょうか。ベンチャー企業のカリスマ社長などは、そんな力を持っているような気がします。それこそ意図的に仕事中毒にさせてしまうようなオーラがあるのかもしれません。

不完全でもかまわない

完璧主義を徹底して100%準備できなきゃスタートしない、と思っていると、結局いつまでも一歩も踏み出せなくなるものです。

何かの記事で読んだのですが、引きこもりの子供たちは社会と交流を絶ちたくて引きこもっているわけではなくて、完璧を求めるあまりに一歩踏み出せなくなってしまったのではないか、という分析がありました。なるほどなあと思った。彼等だって誰かと話をしたり、笑いあったりしたい。でも、自分の言葉が(誤解を生まずに)完璧に相手に届くのだろうか、相手の言葉に(失笑されないように)完璧に答えられるだろうか、と考えたときに外部へ踏み出せなくなってしまう。わずかな一歩がとても重く感じる。これはわかる。

でも、言葉が言葉である以上、完璧はあり得ないとぼくは思います。なぜなら言葉は記号として、意味の総体のほんのてっぺんの部分、氷山の一角だけを表出させているからです。

言葉が曖昧なものだからこそ、他者の存在が必要になる。<あなた>が発する言葉は、完全ではなくてもかまわない。不完全だからこそ<ぼく>に伝わることもある。隠れている図形をつないでひとつのカタチとしてとらえてしまうように、ぼくらの意識には補う力があります。だから完全ではなくても、全然かまわない。

コミュニケーションは、発信者だけでなく受信者がフォローすることによって、はじめて成立するものです。ひとりだけで完結するものではありません。だからひとりで気負って完璧な言葉を使う必要はない。言葉の足りない部分を補ってあげるために誰かがいるわけで、不完全なものを補い合うキャッチボールの行為が、コミュニケーションなのかもしれません。

ぼくらは不完全です。でこぼこがあって、尖ったかと思うと凹んだりして、それでもそのでこぼこをうまく重ねあわせることができる誰かがいる。

自分探し、などということがよく言われますが、探さなければならないのは他者かもしれません。自分なんてものは探さなくても、ここにいるじゃないですか(笑)。ここにいるものを探す必要はない。

他者に大きく揺さぶられることによって(それがポジティブであってもネガティブであっても)、はじめて自分がわかるような気がします。人間は他者という鏡を通してしか、自分をみつめられないものかもしれません。

力のある他者の影響力によって、他者の色に染まってしまうこともあります。このとき他者からの波動に対して無理にバランスを取ろうとすると、反動で他者を拒絶してしまうこともある。もちろん自衛することも大事です。けれども生成変化する自分もまた面白いのではないでしょうか。揺らいでいる自分をそのまま受け止められたときに(自己否定したり、嫌悪したり、逃げるのではなくて受け止める。無理に肯定しなくてもいい。ただ受け止める)、ひとは大きく成長できる気がしています。

走れば安定するかも

息子(長男くん)の自転車の練習をしていたときに、自転車はある程度のスピードを出さないと倒れるよ、ということをよくアドバイスしていました。自転車の練習と同様に、気持ちが揺らいでしまうのは、想いの速度が足りないのかもしれません。アディクション(中毒)になるぐらいに想いを集中させれば、揺らぐこともなくなるのではないでしょうか。というよりも揺らぐ暇がない。

茂木健一郎さんのブログ「クオリア日記」の4月10日に「だーっと突っ走って」というエントリーもありました。疾走感で爽やかな気持ちになりました。以下、引用します。

ひんやりとした空気の中をだーっと
疾走していくと、いろいろな
ことが昇華していく。

人生、澱のようにたまってくるものが
あるが、
だーっと走って解消できないもの
などないんじゃないか。

非常に微々たるものかもしれませんが、タイピングも身体的な運動であると考えると、タイピングの手を止めずにとにかく書きつづけると、ある種のすがすがしさを感じることがあります。もちろん感情に駆られて書いているようなときは逆に不健全になっていく場合もある。けれども、自分の好きなことについて書いているようなときには、ほんとうに時間も文章量も忘れて書きつづけていることがあります。きっと脳内麻薬が分泌されまくっていることでしょう。だから書いたあとも、すっきりする。

走ってみますか、思考だけは(実際の身体は不健全で走れませんけれども 泣。でもちょっと走らなければいかんな。せめて歩くとか)。

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2007年4月11日

Stafrænn Hákon / Gummi

▼music07-021:Sigur Rosっぽくて癒されるのだけれど・・・。

Gummi
Stafraenn Hakon
Gummi
曲名リスト
1. Járn
2. Svefn
3. P-Rofi
4. Rjúpa
5. Hausi
6. Kvef
7. Purr Purr
8. Glussi
9. Veggur

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何かが違うと感じてしまった、Sigur Rosとは。けれどもそれは自分の問題だと思います。ノイズとか、リバーブの向こう側で鳴っている遠い音とか、グロッケンの響きとか、ファルセットボイスとか、そんなSigur Rosっぽい音ばかりを集中して聴いていたので、なんとなく食傷気味になってしまったのかもしれません。ずいぶん聴いたからなあ、この手の音楽は。


このアルバムは「もはやTakk... の領域に達してしまった」のような言葉で紹介されていたと記憶しています。おお、そうかーと思って試聴してみたところ、確かにそれっぽい。フェネスサカモトのようなジャケットもなんとなくいい感じで惹かれました。


スタフライン・ハウコンという聴きなれない名前ですが、アイスランド出身のソロプロジェクトのアーティストのようです(本名はオラフル・ジョセフソンとのこと)。ノイズとリバーブ、そしてアンビエントなギター、グロッケンというお決まりの音響なのですが、リズムの輪郭が溶けてしまって曖昧な水彩画のような「Takk... 」と比較すると、リズムやボーカルがはっきりしているところが違う。荘厳な、という形容はそのままでよいと思うのですが、力強い印象がある。その辺に違和感があったのかもしれません。Sigur Rosのへなへな感が好きだったので。


と書いていて思ったのですが、比較すること自体がいかがなものか、と。Sigur Rosの二番煎じ的なイメージでとらえるからどうしても辛い評価になってしまうのですが、こういうアーティストであると考えると、また別の聴き方もできるような気がしました。「Þurr Þurr」の気だるいボーカルなんかはいい感じだったりします。全体的にタムを強調したリズムも心地よい。最後の「Veggur」で幾重にも重なるリズムとギターの音像の遠さも聴かせます。


なかなか難しいですね。似たような音の世界を作ると、どうしても素晴らしいアルバムと比較されてしまう。4月11日鑑賞。


+++++


ひとりごとですが、レディオヘッドの再発EPとか、プリペアド・ピアノ(ピアノの弦にゴムや金属・木などを挟んで弾く)のアーティストだとか、その他いろいろと欲しいCDがあったのですが、小遣いが足りません。


*年間音楽50枚プロジェクト(21/50枚)

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難しさと原点回帰。

フェネスサカモトのアルバム購入時につい買ってしまったジャック・アタリの「ノイズ-音楽/貨幣/雑音」という本ですが、半分ほど読み進みました。

これは!という画期的な見解はあまりないのだけれど、じわじわと効いてくるような本です。音楽を批評するのではなく、音楽"によって"批評するというスタイルが面白い。つまり、音楽論ではなくて、音楽というフレームワークを使って、世のなかを論じていくわけです。

貨幣と交換されることによって音楽は経済のシステムに取り込まれてしまったとか、制度や政治と音楽だとか、実はDRMが議論されている現在に投影してみると興味深いものがあります。そして、書かれている思考のフレームワーク自体は、別の側面で利用することもできます。

とはいえ、正直な感想としては、この本に書かれていることを全部理解できるわけではありません。ぼくにはよくわからない(苦笑)。若い頃には見栄でこういう思想書を購入したこともあって、やっぱりよくわからなかったものです。当時と比較すると少しはわかっているような気もして、いまは好きで購入しているのですが、遅々としてページが進みません。

では、なぜぼくは難しい本を読むのか。 それは逆説的に、世界を楽に考えやすくするためではないかと思いました。

難しさを求める理由

どういうことか、考えをまとめてみます。 そもそも去年に購入したジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの文庫版「アンチ・オイディプス」上巻もまだ読み終えていません。下巻もあるかと思うと気が遠くなる。

4309462804アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)
宇野 邦一
河出書房新社 2006-10-05

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この本もまたよくわかりません。簡単だよ、わかったよ、というひとがいたとしたら、頭がよすぎる変人ではないでしょうか。失礼だとは思いますが。

そんなよくわからないものをなぜ読んでいるかというと、たとえば仕事の上で、不条理なことや、理解できないようなことを言うひとがいるとします(あくまでもたとえば、ですが)。こういうときに難解な思想書を読んでおくと、
「なんだか理解不可能なこと言っているけど、アンチ・オイディプスよりは、ましかも・・・」
と思って、ほっとするからです。

世のなかの頭がいいひとの問題は、難しい本を読んでさらに難しいことを言おうとするところにあるような気がします。ぼくが難解な本を読む理由は、難しいことを楽に処理できるようにするためです。難しいことをさらに難しくするためではない。

断っておきたいのは、難しいことをシンプル(簡単)にする、ということではありません。難しいことは、きっとシンプルにはできない。もし絡み合った難しい事情をシンプルにできたとすれば、何かを隠したり、嘘をついたり、あるいはいい加減に切り捨ててしまったことがあるか、別の側面に目をつぶってしまったか、そんなことだろうと思います。

非常に微妙な違いであって、うまくいえないのですが、複雑なことは複雑なままにしておいて、自分のなかで折り合いをつける、ということでしょうか。たとえば困難なことは、10個ぐらい並列した答えが出ることもある。その10個の答えを出したことが折り合いをつけたことであって、それを1つに絞るのはどうかと思う。問題の前でお手上げになるとか、問題から逃げるのではなく、10個の答えを出して終わる。それがぼくの考える「折り合い」です。

これも積み重ねでしょう。いきなり1キロ走れ、といっても息が切れますが、毎日5キロをゆっくりと走っていれば、1キロ走るのは苦ではなくなる(と思う)。いまぼくは過剰に文章を書いていますが、大量の文章を書いていると原稿用紙10枚ぐらい書くのはへっちゃらです。同様に難しい本を読んでいると、難しいことに対する耐性がつくのではないか。

まあ、あまり難しい問題は降りかかってきてほしくないのですが。

原点回帰としてのオールマイティ

難しいこと/簡単なことを踏まえながら、再度ジャック・アタリの「ノイズ」を読みながら考えていたことに戻ってみます。通常は、


簡単なこと(シンプル) → 難しいこと(複雑)

という方向へ、最初は簡単だったことが次第に複雑化していく流れがあるかと思います。単細胞から複雑な生物に進化していく進化論のようなものです。けれども、複雑化することで逆に役割分担などが生まれて簡単になる。つまり


ひとりで全部やる統合的な何か(複雑) → 役割の分担(シンプル)

という方向性もあるのではないか。最初はオールマイティとして自分で全部手がけなければならなかったけれども、作業が拡大することによってスタッフが必要になり、役割を分担することで個々の負荷は減少するという流れです。

原初的な音楽は、自分で作って歌って演じるものであったと思います。けれども、反復されたり流通の必要性に応じて、作曲家・プレイヤー・シンガーというように作業分担がわかれていった。もちろん、自作の曲を歌うシンガーソングライターもいる一方で、商業的音楽を作るためには、ミキシングやプロデュースを担当するだけの特化した職業もある。マスタリングという最終工程のプロもいるわけです。分担されることによってプロフェッショナルが生まれるようになった。

ところが、技術の進歩によってDTMが登場して、自分ですべてができるようになっていくと、逆に作業が統合されていきます。加えてネットの登場により、音源を販売することも可能になった。たくさんのひとに聴いていただくためには、ミュージシャンであると同時に、ビジネス的な視点も必要になります。

個人の作業領域を考えると幅広く複雑になっているのだけれど、よく考えてみると、表現の原初的なかたちは、すべて自分でやるということだったと思うんですよね。観客も自分で集めたし、演奏もした。だから複雑化しているようで、実は表現者としては原初的なものに原点回帰しているようにも思いました。

これはブログも同様だと思います。印刷業者や出版社、新聞社という専業的な企業ができたから役割が分かれていたけれども、DTPでは印刷が自分で可能になり、さらにブログでは幅広くパブリッシングできるようになった。自分自身がクリエイターでもあり、プロモーターでもあるわけです。

ネットは社会を複雑にしていると考えていたのですが、実はその方向性は、表現という観点からいうと原初的なものに向かっているのではないか、と考えました(この原初的という言葉は決してシンプルという意味ではありません)。

もしかすると、ブロガーは大道芸人(ジョングルール jongleur)ではないか。あるいは吟遊詩人かもしれません(ジョングルールについてはWikipediaの解説を)。

ブロゴスフィアという街角でひとびとを笑わせ、ときには感動を与えたりもする。技術の最先端にいるようで、ブロガーの存在は結構、古いスタイルだったりするのかも、と思いました。あるいは技術の進化はあったとしても、人間の文化の本質・構造はあまり変わらないのかもしれません。

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2007年4月10日

Blonde Redhead / Twenty Three

▼music07-020:京都の女性+イタリア人双子が創り出す陰翳の音。

23
Blonde Redhead
23
曲名リスト
1. 23
2. Dr. Strangelove
3. The Dress
4. Sw
5. Spring And By Summer
6. Silently
7. Publisher
8. Heroine
9. Top Ranking
10. My Impure Hair

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昨年末ぐらいから音楽に目覚めて、インディーズばかりを聴くようになってしまいました(泣)。別にひねくれて誰も知らないような音楽を選んでいるわけではないのですが、レコードショップで試聴すると、ぼくのセンサーに引っかかってくるのはインディーズ系ばかりです。とはいえ、インディーズにもさまざまなアーティストや楽曲があり、このBlonde RedheadのCDは店頭でパワープッシュされていたものでした。試聴してこれは!と思ってピックアップ。そのまま1時間以上も他のアルバムを試聴していたのですが、結局のところ、他のアルバムに代替されるものではありませんでした。

なんとなくダークな曲が多いのですが、その空気感がなぜかしっくりする。2曲目「Dr. Strangeluv」の明るさと切なさが入り混じった曲に思わず耳を傾けてしまうかと思うと、6曲目の「Silently」の学生時代を思い出させるような透明な楽曲に泣ける。このアーティストのよさは、光と影という陰翳に満ちた音楽のような気がします。ヴォコーダーからはじまる8曲目もいい。なんとなく退廃的な感じもして、それでいて純粋であって、アートな気分にもなれる。ロックがあるかと思うと、打ち込み系もあり、ちょっとジャズっぽかったりもして、ジャンル選別不可能な感じです。

店頭ではあまり詳しくアーティストの詳細をチェックせずに購入したけれど、あらためて解説を読んで、ものすごく個性的なアーティストだということがわかりました。バンド構成はベースレスの3ピースらしい。ボーカルは、日本の京都出身の女性というのも驚きです。しかもイタリア人双子とのユニットらしい(なんだか逆・村上春樹さんの小説的なシュールなユニットだ)。さらに、彼等のPVはジム・ジャームッシュが監督したとのこと。先日、ジャームッシュ監督の「ブロークンフラワーズ」の映画を観たばかりのぼくは偶然の符合を感じました。

それどころかライナーノーツには、ステレオラブの来日公演のオープニング・アクトに立ったこと、セルジュ・ゲンズブールのトリビュートアルバムに楽曲を提供しているなどということも書かれている(!)。ステレオラブ自体、ぼくが好きなアーティストであるのですが、ボーカルのカズ・マキノさん(京都出身)はかなりのゲンズブールファンとのこと。むむむ。ゲンズブールって、あのシャルロット・ゲンズブールのパパですよね。こんなところにゲンさんファンがいたのか。

バックアップしているひとたちも凄くて、3曲だけですがミキシングはアラン・モールダー(ジーザス&メリーチェイン、マイ・ブラッディ・バレンタイン、U2、ナインインチ・ネイルズ、デペッシュ・モードなどを手がけている)と、リッチ・コースティ(ミューズ、フランツ・フェルディナンドなど)とのこと。うーむ、うーむ。あらためていまびっくりしているところです。

アメリカではインディーズにもかかわらず10万枚のセールスがあるバンドらしい。さらっと聴き流してしまいましたが、実力派のアーティストのようです。ヘビロテになりそうな予感。4月10日鑑賞。

+++++

うわーこのPV、凄い好みかも。泣ける。アルバムタイトルにもなっている1曲目なのですが、「23秒で、わたしたちの愛するあらゆるものが消えてしまう」という歌詞もよいです。

■Blonde Redhead - 23

公式サイト
http://www.blonde-redhead.com/index2.html
以下で試聴できます。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000NJLYSK/

*年間音楽50枚プロジェクト(20/50枚)

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親になるには。

サクラの季節も終盤で、東京では葉桜になってきました。そんな春の日、午前中は次男くんの入園式に参加。彼のイベントは(いまのところ)いつも快晴に恵まれていて、気持ちがいい。しかも、長男の経験から1年早めに3年保育で幼稚園に送り込んだため、すっかり慣れていて楽ちんです。

思えば長男の入園式のときには、長男くんは号泣しまくりでした。平然と式を受けている他の子供と比較してしまい、彼の行く末に心を痛めたものです。親としてもまだ未熟だったから、余計に心配になった。実は後から知ったのですが、下から上がってきた3年保育の子供が多ので、そりゃ他の子供は慣れている。1年間そこで過ごした子供たちと比較するのは酷だろうと思いました(その経験を次男に活かしています。三歳になったら放り込め、という形で入れてしまった)。

長男くんに関していえばいまでも今後が心配なのだけれど、次男くんは放置していても勝手に育つだろう、という気がします。乱暴ものの次男くんは転んだり脱臼したり暴れたり危なっかしいのですが、あまり気になりません。長男くんだったら大慌てで医者に連れて行ったけれど、次男くんであればぜんぜんかまわない。その代わり感動も少なめなのかもしれません。

とはいっても、去年までは制服というよりもエプロン(うわっぱり)だったのだけれど、今年からは制服姿で、なんとなく大きくなったな、と感慨深いものはあります。某アイドルの娘さんと同じクラスにもなり、そういうところも東京の私立幼稚園だなと思ったります。だからどうだ、ということはないのですけどね。

物理的あるいは生物的に考えると、子供ができた時点でぼくらは親になります。けれども人間的には、いつになったら親らしくなるのだろう。何をもって親というか、という定義について考えると、よくわかりません。

大人とは何か、という定義に近いものもあるかもしれませんね。社会人とは何か、という定義にも近い。大学を卒業して働き始めれば社会人かというと、そうともいえないものがある。ぼくも社会人になった頃には胸を張って、どうだ自分は社会人だと思っていたものですが、いま振り返ると、あの頃の自分はまだ青くて、社会人45%ぐらいだった気がしています。

話がそれました。親とは何かということはわからないのだけれど、幼稚園の入園式に参加して、ビデオカメラやデジタルカメラでわが子を撮影しているお父さんやお母さんは、みんな親らしい。スーツを着ているけれど茶髪で長髪の若いお父さんもいるのですが、それでもやっぱり親だなあという感じがする。

結局のところ精神性はともかく、わが子をみつめるあたたかい視線があれば親らしくなる、ということにしてみましょうか。

親として自覚を持つこと、声をかけること、一緒に遊んであげることも大事だけれど、何よりもまずあたたかくわが子をみつめてあげる。それが親としての第一歩かもしれない。その見守る視線さえあれば、親らしくなれる。

視線のシャワーを浴びると、子供たちは生き生きと変わります。あたたかい眼差しは太陽光線のようなものであって、光合成をして育つ子供たちには欠かせない栄養です。うちの次男くんに関していえば、カメラを構えたり、みられていると気付くと、過剰なアピールがはじまるのでどうかとも思うのですが(苦笑)、それでも親に見守られていることが子供にとっては成長のための第一条件ではないでしょうか。

ということを書きましたが、最近の次男くんは何か画用紙に書いているときに近づくと、「みないでっ! 10時間まってて!」といいます。創作過程をみられたくないクリエイターとしてのプライドが生まれてきたらしい。

そんなときは視線をそっと外してあげるのも、親としての配慮だったりします。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年4月 9日

感情という情報。

月曜日、体調もほぼ回復して新たな気持ちでぐわーっと仕事していたのですが、おやつの時間あたりに遅い昼食をとって、仕事に入る前の息抜きにお気に入りのとあるブログが更新されていたので読んだところ、思わず笑みが零れてしまった。楽しさが文章から滲み出しているような記事でした(笑)。こんな風に、ストレートな気持ちで書かれた記事が大好きです。その場にいなかったとしても、聴こえている音や雰囲気などの臨場感が伝わってくるので。

やっぱりブログは自分を生かしてくれるんだなあ、と思いました。書くことはもちろん、読むだけでも充分に生き返る。一杯のコーヒーは仕事の疲れを癒してくれますが、お気に入りのブログの文章は低迷した気分からぼくを救ってくれます。あとは音楽があれば最強ですかね。音楽は欠かせませんね、やっぱり。

事実と感情、ニュースの言葉

さて。感情も情報である、という見解をどこかの本で読みました。

何の本で読んだのか思い出せないのですが、ダニエル・ピンクの「ハイ・コンセプト」だったような気もするし、同時期ぐらいに読んだ別の本だったかもしれません。

通常は、情報といえば感情を排除した「事実」が重要である、と考えますよね。特に新聞では、客観性が重視される。記者さんが個人的な感情を交えてニュースを書いたとしたら、読んでいるぼくらは混乱します。ニュースとしての公正に欠ける。事実を正確に伝えることが新聞というメディアの第一の役割であり、そのプロフェッショナルが記者です。だから思いに任せて書く記者はプロではない。

とはいえ社説やコラムは、その限りではないかもしれません。あまりにも感情をフルに露出するのもどうかとは思いますが、読者に共感を与えるには、記者の目を通して感じる社会に対する憤りであるとか、不慮の事故に対する悲しみだとか、そういう訴えが説得力になる。新聞のニュースに殺伐感を抱きつつ読み進めて、コラムを読んでなんとなくほっとするのは、そんな感情の排除(=ニュース)と感情の解放(=コラム)があるからかもしれません。したがって、どちらか一方だけで構成された新聞は読まない気がする。エンターテイメント志向のテレビの場合は、後者の比率が高いのかもしれません。

グラフに表してみると、こんな感じでしょうか。まずは新聞の成分。

HeartRails Graph

つづいて、テレビ的な何か。

HeartRails Graph

あくまでもぼくの主観です(笑)。

ちなみにこのグラフは、HeartRails GraphというWebサービスを使わせていただきました。適当に入力するとグラフを描画してくれるので、なかなか面白いです。Excelみたいに緻密じゃないところがいい。いい加減な値を入力しても(合計が100じゃなくても)、きちんと円を描いてくれます。描画と同時にURLを出力してくれるので、そのURLをブログに貼り付けてみました。

と、ちょっとグラフ方面に話がそれましたが、しかしながら、悲しい、怒りを感じるなどのように感情を直接に表現しなくても、事実が感情に訴えることがあります。

今日、昼飯に中華料理屋でタンメンとチャーハンを食べながら店のテレビを見ていたのですが、飲酒運転によって妻と3人の子供を失った被害者の方が、しあわせだった頃の写真を飲酒運転撲滅のために使いたい、というお話を放映していました。そこで、亡くなった4人が寄り添って笑っている写真が画面に大うつしにされていたのだけれど、その映像を見ていたら不覚にもぼくは涙出そうになった(タンメンすすりながら)。やばいです。中華料理屋でワイドショーのような番組を見て泣いてる男というのは、いただけません。

感情が記憶に楔を打つ

これもまた何かで読んだのですが、記憶は失われていくものだけれど、感情と結びついたときには忘れにくい、という記述もあったような気がします。感情が脳内に楔を打つ。ポジティブであってもネガティブであっても、情報+感情になったときに記憶は色褪せずに残る。といってもぼくの場合は、忘れちゃうことも多いのですが。

ブロガーのリテラシーとしては、感情を制御することが重要かもしれません。

過激な批判が話題になっているブログもあるけれど、ぼくはなるべくそんな文章には近づかないようにしています。というのは、感情のセンサーが共振して、思わぬテンションになってしまうことがあるので。

言葉には波動があり、強大な力に対して受け手の防御が弱まっていると、その影響力に大きく揺さぶられます。よい意味で揺さぶられるときもあれば、あまりよろしくない揺さぶられ方もある。何を読んでも動じない強さがあれば読んでかまわないと思うのですが、ぼくはかなり共振するほうなので、できれば負の感情が渦巻く場所は避けていたい。

では、感情から遠ざかっていたほうがいいのか、ブログを書くときに感情をまったく排除して書くべきかというと、そうともいえない。感情を排除するとブログらしさが失われてしまいます。それこそ新聞風になる。ほどよく出来事とブレンドしながらも、感情という情報を発信できるといいですね。それがぼくの理想とするブロガー像でもあります。

ぼくも暴れ馬的な感情を乗りこなすのに苦労した(している)人間ですが、感情を表現しつつ制御するためには、仮想的にもうひとりの自分を作るといいでしょう。対立するふたつの思考を存在させると、力が緩和されて落ち着くことができる。

天使と悪魔でもかまわないし、自分のクローン(複製)でもかまわないのだけれど、もうひとりの自分を存在させる。突っ込みとぼけでもいいのだけれど、とにかく熱くなっている自分を冷静にみつめて「おいおい、それはやりすぎだろ」という仮想的な自己を作っておく。それが、メーターを振り切るような自分を制御してくれるリミッターにもなるし(ちなみに楽器のエフェクトにリミッターという機能があるのですが、これは一定のレベルを超えた音を制御するものです)、大人的な思考を展開するための大事なパートナーにもなると思います。

複眼思考とか、多面的な思考というのもそういうものかもしれません。カードのCMではないのですが、どうするオレ?みたいな感じで、考えられるオプションをできるだけ想定する。そのなかで最適な選択をする。もちろん冷静でなければ、そんな風に多面的な可能性を吟味することは不可能なのですが、大人だなあとぼくが感心するようなひとたちは、単眼的に世界を見るのではなく、別の側面からも世界を見ることができるような方が多いと思いました。

とか書きつつ、ときには冷静さを投げ打って、バランスを崩して暴走するようなひとが、ぼくは結構好みなんですけどね。まあ、ぼくもそんな傾向にあるひとりなのですが(苦笑)。

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2007年4月 8日

学びについて。

思えば、学生を卒業してからずいぶん長い時間が経っています(遠い目)。しかしながら、現在、学生の方には申し訳ないのですが、学生の頃の学びは、関心のある分野をみつけるためのきっかけづくりと、思考の練習(エクササイズ)だったのではないかと、少なくともぼくは思っています。

ほんとうの勉強が必要になるのは社会に出てからです。その勉強は強制されるものではないし、単位で数えられるものではない。そして教科書という本で学べるものだけではありません。仕事や家族を含めたひととの関係のなかで学べるものもあれば、社会生活という実践の場で学べるものもある。余暇のなかで趣味を通じて学べるものもあれば、あらためて学校に通ってやり直すスタイルもあります。

個人的な経験を書くと、ぼくがいちばん学んだのは、父を亡くしたときでした。

年末に帰省したときに話をしようと思っていたことがあったのだけれど、秋に脳卒中で倒れた父は年の終わりにはもういなかった。このときにぼくは、伝えたいことがあれば自分のなかであたためていてはだめだ、ということを学びました。伝えたい言葉が大きな波紋を描いたとしても、言葉を発するチャンスを失うと、永遠に伝えられないこともある。言葉が足りなくても、ちょっとぐらい格好悪くてもいいじゃないですか。そのときでしか発せない言葉というものがあるし、想いがあるものです。

だからぼくはいま過剰にブログを書きつづけているのかもしれません。伝えたいと思っている言葉を、伝えたいうちに発信する。そのシステムとしてはブログは最適です。発信しやすい安易さが問題になることもありますが。

ところで、一生懸命に学んだひとが社会で優位な地位が得られるかというと、そうでもないところが社会である、と言い切ってしまいましょうか。

こんなことを書くと、これから社会で活躍しようとしているひとの学びの意欲を削ぐかもしれませんが、別にしゃかりきになって学ばなくても、そこそこの生活はできる。勉強なんて面倒だからもう結構、という生き方もある。人生楽しんだほうが勝ち、というのもまた真理。

だから、オレはこんなに苦労して学んでいるのになぜ・・・という他者に対する批判的な意識は持たないほうがいいと思います。そんなことも知らないのか、と他者を嘲笑するために学ぶのであったら、学ばないで純粋かつ無知であったほうがずっといい。

学びと社会における成功は必ずしも合致するものではありません。学びは途方もない労力の消費で、結局のところ何も役に立たないことだってある。

しかし、だからこそ学びは重要である、とぼくは考えています。成功のために学ぶという姿勢は、どこか本来の学びの力をねじ曲げるような気がしています。学びたいから学んでいる、それでいいのではないか。成功するかどうかはその結果であって、到達点ではない。学びを成功の道具にしてはいけない。

これは社会に出て、資格取得というかたちではない"役に立たない"学びのスタイルを選択したぼくの所感です。生活を豊かにするつもりで学びはじめたのですが、はたして豊かになっているかどうかも疑問だったりする(苦笑)。アタマでっかちになって不健全な思考ばかりぐるぐる回って、ネガティブループから逃れられないこともあるし、この先どうなるかもよくわかりません。考えすぎて凹むことも多いし、この時間を他のことに使ったらもっと楽しい人生もあったのではないかと想像して愕然とすることもある。

ただ、先のわからない人生を楽しもうと思っています。未来がわかりすぎて、あまりにも構想通りに進んだら、それはそれでつまらなくないですか。ビジネスはともかくとして。

未来の設計図は描くし、構想も持つのだけれど、その図面から外れた未来も許容し、楽しめる自分でありたい。変化の波にフレキシブルに対応し、揺らぎつつも航海(後悔ではなくて)する船でありたい。

ぼくは書きたいからブログを書くし、書きながら興味を持ったことにはネットという集合知を活用して、知らないことを吸収していきたい。映画が好きだから観る、活字に対する渇望から本を読む、音楽はぼくの生活には欠かせないから聴きつづける、それだけのことです。そして、趣味のDTMは永遠にやっていても飽きることがないから取り組む。かつて別の音楽専用サイトで公開していたときには、ダウンロード数や投票数が気になったのですが、いまこのブログで公開して、数量的な効果はどうでもよくなっています。アクセス解析もまったくみてないし。

ただ、そこに至るまでは、意識的に自分の方向性を決めることが必要でした。ぼくは怠惰な人間なので、決められた枠がないとやらないんですよね(苦笑)。そんなわけで年間に何冊読むなどの目標設定をしたのですが、そのスタイルが習慣化してきたいま、自分を飛躍させるためのカタパルト(発射台)は外してもいいかな、と思いはじめています。

永遠に何かできることって、すばらしいと思いませんか。学生時代は期間限定だから、それがちょっと残念なのだけれど、いくつになっても学生でいようと思えば終わりはありません。学びつづける意思さえ持てば、自宅や職場がバーチャルなキャンパスになる。ひとりの研究室にもなる。

この人生にさよならを告げるとき、ぼくは「あ、いま思いついちゃったんだけどさ・・・」と、ひらめきを最期の言葉にできるといいな、などとそんなことを考えています。

もちろん家族や知人に対する感謝は別に遺書にしたためるとして。

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2007年4月 7日

ブロークンフラワーズ

▼Cinema07-012:過去に会いに行くロードムービー。

B000I8O8Y8ブロークンフラワーズ
ジム・ジャームッシュ
レントラックジャパン 2006-11-24

by G-Tools

女たらしといえばドン・ファンですが、「ブロークンフラワーズ」はドンという名の中年の独身男が、過去に付き合った女性たちを訪ねるロードムービーです。

ドン・ジョンストン(ビル・マーレイ)はコンピュータ成金で、悠々としたリタイア生活を送っています。けれども独身貴族の彼は、結婚には興味がない。そんなわけで一緒に暮らしている女性に愛想をつかされて、出て行かれてしまう。なんとなく凹んでいると、20年前に付き合ったという女性から、ピンクの封筒に入った手紙が届きます。

手紙には、あなたと別れた後であなたの子供を生んだ、19歳になる息子が父親であるあなたを探しに行くのでそのつもりで、のようなことが書かれているわけです。けれども署名は何もなくて、誰なのか思い出せない。

彼の隣人が推理小説好きのおせっかいな男で、ドンに、これは何かの啓示だ、20年前に付き合った女を全部思い出せ、リストアップしろ、ネットで住所を探したから会いに行け、レンタカー借りといたぞ、のような感じですべてお膳立てしてしまい、彼は仕方なく過去の女性に会うために旅に出ます。

女性を見つけ出す鍵は「ピンク色(封筒)」「タイプライター(手紙の文字がタイプだった)」で、ドンは交通事故で亡くなった彼女を含めて5人の女性に会う。未亡人になってしまった昔の彼女と一夜を過ごすようないいこともあれば(その娘も裸でふらふらしていたりする)、野蛮な暴走族風の旦那(?)にぶん殴られることもある。それぞれの女性がそれぞれの人生を歩んでいて、不動産ビジネスで儲けて立派な家に住みながら子供を生まない選択をして殺伐とした生活を送っているひともいれば、動物と会話できるというあやしいドクターになってしまったひともいる。そんな彼女たちに、ドンはコンサバティブなスーツ+ピンクの花束という、おせっかいな隣人が仕立てたままの格好で会いに行きます。

ドンの旅はいわば過去に再会するための旅であり、彼が選択しなかった未来を傍観者として確認するための旅でもあります。もし彼女と付き合っていたら・・・という「もし」の世界を、再会した現在の彼女たちの姿に重ねてしまう。空白の時間を飛び越えて再会すると、とんでもなく変わっていたりもして、それでも時空を埋めるような仲になれる女性もいる。

幸運か残念なことか、ぼくは過去にお付き合いさせていただいた(妙にへりくだってるなー)女性とばったり遭遇することはないし、また探しに行くようなストーカー的な気分にもならないのですが、どうしているのかな?と思うことはあります。できれば遠くで、しあわせになっていてほしいものです。ネットがこれだけ活発になると、リアルライフはともかく、ネットで遭遇することもありそうですけどね(ひょっとしたら、ひそかにブログとか読まれていたりして)。

ドンが訪問する女性たちの家には、ピンク色の何か(バスローブであったり、名刺であったり、バイクのタンクであったり)があって、これが手紙を出した彼女かな?と期待させる。期待させるけれども、はっきりとはわかりません。物語の筋は単純なのですが、なんとなく疑問符を抱えつつ、さあ次の彼女だ、のような感じで好奇心が旅を急がせるような感覚がありました。

クルマでとんでもない田舎まで旅をするビル・マーレイの寡黙な感じがちょっと可笑しくて、特に台詞のない映像の間が秀逸でした。彼の魅力を引き出していると思います。ジム・ジャームッシュ監督の才能を感じます。サンドイッチをおごってやった若者に「過去は終わっちゃったし、未来はいまからでもどうにでもなる、現在が大事だ」などと語る言葉も印象的でした。

現在の自分がいちばんであり、生きてきたことに後悔していない、というような諦めにも近い安堵感がありながら、どこかにいるかもしれない隠し子の存在をほのかに期待してしまう動揺がよかった。成金で成功してリタイアしたし、人生を充分に楽しんで、もはや人生そのものを飽いてしまっていて、結婚もしていないけれど、やっぱり父親にもなってみたい、深層では家族のつながりを求めているドンの気持ちがよく描かれていると思います。

大笑いはしないけれど、口の端が緩むような上質のコメディです。観賞後に淡いようなあったかい気持ちを感じて、ほのぼのとしました。4月7日観賞。

*年間映画50本プロジェクト(12/50本)

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2007年4月 6日

本気で変わる。生活を変える。

このままではだめだ、と思いました。いきなりすみません(苦笑)。自分のことなのですが。

今回のエントリーはいわゆる「ぼやき」系の日記になるかと思いますので、あまり読まれても得るものはないかもしれません。なので、適当にスルーしてください。

いちばん大きいのは体調不調なのですが、健康管理もさることながら、さまざまな局面において、いまのままではだめだ、と思いました。

生活のスタイルを変えようという願いを込めて書きはじめたブログですが、実はそれほど変化していなかった。変えようと思っていても、惰性で動いている以上、なかなか大きな軌道修正はできないものです。割り切れない感覚もある。しかしながら、体調を崩したことを契機に、真剣に今後の在り方を変えようと考えました。これではまずい、と。

もちろんブログや趣味のDTMについては、そこそこ軌道に乗った手ごたえがあります。充実感もあるし、以前のようにとんでもないエントリーをすることもなくなりました。以前は感情に煽られて、ひどい文章を書いたこともありますが、最近は安定した文章を継続して書くことができていると思います。人間、痛い思いをすると進歩するものです。安定しそうにないときは書くのをやめるか、過去に書いたアイディアメモをリライト(書き直し)してアップするというリスクヘッジもできている。進化したものだなあ(苦笑)。

ただ、以前にも書いたのですが、ぼくにとってブログはOSであって、その上を走るアプリケーションとしての現実がうまくいかなければ意味がない。

実は昨年後半に、ぼくにはいくつかチャンスがありました。自分の大きな転機となるチャンスの神様が、それこそ交差点の向こうから押し寄せるような状況にあったのですが、チャンスにはリスクもともなうものです。そのリスクを考慮して、変化よりも現状維持のほうを選択してしまった。腰が引けたわけです。けれども、現状維持を選択したことが、余計に状況を悪化させてしまったようにいま感じています。

それはぼくが選んだ選択であって、誰を責めるわけにもいきません。現状維持であっても可能性があるだろう、行けるところまで行ってみようと期待した。その言い訳はもっともらしく聞こえますが、一歩踏み出す勇気がなかっただけのことで、安全な場所を選んだ自分が愚かだった。だからこそ、いまのような状態に陥ってしまった。であれば、そのことをきちんと冷静に受け止めて、これからどうするかということを考えたいと思いました。

体調不調と相まって凹むところまで凹みまくったのですが、その結果、何か吹っ切れたものがあります。痛い思いをしないとエンジンが本格稼動しないところがぼくのポンコツなところですが、それでも前に向きはじめた。いちばんの問題は、環境や他人任せにしても何もよい方向には動かないということです。たぶんこの状態がこれ以上つづけば、体調を崩すばかりか腐ってしまう。

というわけで(非常に抽象的で何のことやら読んでいてわからないかもしれませんが)、いま未来の設計図を引き直しています。やはり未来を考えるのは楽しい。自分の気持ちが揺るがないように、変わるぞ(変えるぞ)ということを、ここで宣言してしまいましょう。背水の陣で、崖っぷちにいるつもりで明日からは未来に臨むつもりです。

などと書きましたが、あんまり力が入りすぎてもどうかと思うので、抽象的な抱負はこれぐらいにして、あとは脱力して日常の断片です。

息子の格言

風呂上りの長男くんがぴょんぴょん跳びはねていたので、「ずいぶん跳べるねえ」と声をかけると、「でも空を飛びたいんだよね」とのこと。「飛行機に乗ったときに飛んだじゃん」と言ったら、「そうじゃなくて鳥みたいに飛びたい」らしい。

たぶん彼はドラゴンクエストのやりすぎです(まだ8をやっている。クリア後のドラゴンに勝てないらしい)。マップを移動するときに空を飛ぶので、そのことを考えていたのでしょう。すると、先日右腕を振り回しすぎて脱臼して病院に行ったやんちゃな次男くんが、

「いっぱいべんきょうちゅ(す)れば、とべるよ」

と、にいちゃんに諭していました。生意気な口をきくようになったものですが、おお、そうか、いっぱい勉強すれば飛べるかー、その言葉、父がいただいた、という感じです。

いっぱい勉強して飛びますか。というよりも、将棋で初めて長男くんに負けてしまったので悔しいです。身体はもちろん精神的に弱っていると、子供にも負けてしまうのだろうか。

なんだか彼の将棋は突拍子もない戦法だけど、ぐいぐい押してくる力強い将棋をさしてくれました。まずは将棋の勉強でしょうか、いま身体も心も弱ってしまっている父としては。

ちいさな変化

ところで、いまさらながらなのですが、あらたにBirdWingハンドル用にGoogleのGmailの設定をして、Google Docs & Spreadsheetsのドキュメントで日記の原稿を書くように変えてみたのですが、Wordとか要らなくなりますね、これ。なんとなくローカルPCに保存しないと落ち着かなかったので使わなかったのですが、どうせネット経由でブログに掲載するものであれば、別にローカルになくてもいいや、と。

ぜひ、はてなさんでも開発してほしいです。はてなダイアリーの記事を公開せずに保存し、できればプリント機能があればいいだけかもしれませんが。という簡単なことが実は大変だったりするのかもしれませんけど。

さて、来週から真剣に自分を変えようと思うので、さまざまな準備のため、この週末はひょっとするとブログをお休みするかもしれません。でも、書かずにはいられないハイパーグラフィアなひとなので、書いちゃうかもしれません。しばらくはそんな不定期な状況がつづくのではないかと思っています。

ついでに言うと、たぶんブログ自体の内容は来週もいままでと変わりなく、いつものような記事だと思います。若干いつもより控えめな(長文ではないということですが)エントリーになるかもしれません。

++++

さらに余談ですが、ネットをうろうろしていたら、以前レビューに書いたKettelのイベントが4月13日にあるらしいことを発見。しかし、OPEN 23:00じゃ行けません。独身ならよかった(泣)。というかもう入れないかもしれませんが。

http://www.growcreation.com/colorsstudio/index.html#pickup03

上記サイトの紹介文から引用です。

ライヴでは、シンセ、アコースティックギター、ノイズ、ウィスパーコーラス、ストリングスなどを重ねたドリーミーなうわものと、反復するように刻み続けるビートを絡めた、心の琴線に触れる壮大なメロディ+緻密なアブストラクトビートを披露。 スタンダードな手法でありながら斬新で輝きに満ちた様々なタイプのトラックを紡ぎ出している。

うーむ。聴きたくなる。

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2007年4月 5日

ブログの文体を獲得するために。

いまでこそ長文ブロガーになってしまいましたが、日記を書き始めた当初は、改行を多用したブログを書いていました。どうしてこんな長文を書き連ねるようになったのか、その理由は記憶にありません。思考の速度と文章を同期させようと考えた結果、どんどん長文化していったような気がします。書いていく傍から書かれていないことがぼろぼろ零れ落ちていくようで、それを拾っていったところ長文になったのかもしれない。われながら困ったものです。

はてなを使っているひとには長文タイプのブログを書かれている方が多いようですが、そんな長文ブロガーさん向けに、テンプレートが長文対応に改良されたとのこと。CNET Japanの記事から引用です。

はてなダイアリーでは比較的長文のブログを書くユーザーが多いことから、新たなテーマの作成にあたっては、長文ブログを読み書きしやすいデザインを目指したという。

CSSを比較したわけではないのですが、確かに行間が少し空いて、読みやすくなった気がします。こういうちいさな改良はうれしいものです。

活字としての本、つまり自分の書いたものをパブリッシング(出版)するという感覚があると、レイアウトなどのデザインも気にかかってしまうものです。テキストとして情報は同じだったとしても、見栄えでずいぶん印象も変わる。活字がまだ写植だった時代には、職人さんたちは一文字ずつ字送りを変えるようなこともやっていただいていました。デジタル化されていい加減になった印刷物もありましたが、やはり文字の見栄えの美しさというものも大事にしていただきたいものです。

技術系のサイトの場合には、情報重視のため、あまりデザインに凝っていないサイトも多いようで、あらゆるサイトでデザインが重要かというとそうともいえない。問題となるのは、

デザインが求められるサイトなのに情けないデザインになっていること、

あるいは、

デザインが求められないサイトなのに異様に凝ったデザインになっていること、

でしょう。デザインにもTPOのようなものがあり、必要のないところで異様に華美にしても意味がないし、必要なところではきちんとコストもかけたほうがよいと思います。ということが顧客志向のデザインであって、必ずしもひとつの規範に沿って何でもかんでもユーザビリティを統一すればいいものではないし、ある理論を使い回しすればいいというものでもない。

試行錯誤した結果、ぼくは、はてなの「Delta」というテンプレートを使って、一部CSSを変更してカスタマイズして使っていました。テンプレートの改良というニュースを知って、もとのDeltaのテンプレートを確認したのですが、ありゃーこんなだったっけ?とちょっと驚きました。背景の色を変えるだけでかなり変わりますね。

そして、デザインも重要ですが、何を書くか、どう書くかということは、もっと重要です。

受け手が生成するイメージ

文体のみずみずしさ、というものに惹かれます。ひらがなを多用するとやわらかくなりますが、漢字であっても、あるいは「である調」であっても、みずみずしい文章がある。

学生の頃に受容美学的なことを学んだ影響もあるかと思うのですが、ぼくは作品について、作者の背景や情報を探ることも大事だけれど、純粋にひとりの読者として作品に接したとき、読み手であるぼくらの心のなかに何が生まれるか、ということを大切にしたいと思っています。

そんなわけで音楽を聴いたときにも、そこから湧き上がるイメージを大切にしたい。一方でそれは、非常に主観的というか、気分重視の曖昧な感想になってしまう(苦笑)。主観的な印象からレビューを書いたとしても、科学者的な客観性に欠けて、文学的なアプローチになります。茂木健一郎さん的にいうと、クオリア的なレビューかもしれません。

ただ、受け手がどのように感じるのか、ということを考えることは、どういうメッセージを発信するのかという書き手の考え方にとっても重要ではないでしょうか。書こうとする動機を起点とするのではなく、読み手の感じ方を起点として文章論を組み立てることもできそうな気がしています。

ブログの文章は特殊なもので、簡単に論じることはできないと思うのですが、主観的な視点から、ブログにおける文章、そして記号の効果についてちょっと考えてみようと思いました。

ブログが書ける○のポイント、のようなことは書かないでおこうと思います(笑)。そういう本はあまりに多く、またブログのエントリーにブックマークがたくさん付くものですが、あまり役に立ったことがないような気がするので。なのでとても抽象的なことを書きます。

ブログ文体の価値基準(あくまで個人的に)

文字あるいは活字はそもそも記号です。記号のなかにも文字ではない記号(☆とか*など)があって、女性の文章のなかでは、効果的に記号や顔文字が使われていると微笑ましいものがあります。

特にメッセージなどのコミュニケーションにおいては、記号は外せないと思う。記号ありと記号なしでは、まったく文章が与えるイメージが変わることもあります。全面的に記号を付けられると眩暈がするときもありますが、強調すべき部分で☆とか使われると、まいったなあ、という感じになる(笑)。

一方で、同性として観察すると、いい年の男性(30〜40代)がブログの文章中に♪とか(T.T)などの顔文字を使っていると、個人的にひきます(苦笑)。足りない表現力を補う意味で使われているのだろうと思うし、女性に気に入られたい涙ぐましい努力もわかる。わかるのだけれど、しなやかな文章を志向するぼくではありますが、男性ブログのこういうやわらかさは生理的にだめですね。女性には受けるだろうけど、正直いって男性のぼくには気持ち悪い。

生理的にだめなので理由はよくわからないのだけれど、一定の年齢をすぎた男性の軟弱なスタイルは何か許せないものがある。なんとなく甘えた感じがするからでしょうか。とはいえ、ぼくも気をつけようと思います。自分もまた大人になれない人間のひとりなわけで(苦笑)。

といっても、どんなスタイルがあってもいいわけで、別に他人のスタイルなのだから、ぼくがどうこう言えるものではありません。ただ、なんとなく読んでしまって苦笑しているだけです。好きに書けばいいでしょう。ぼくの文章も公開している以上は、好きに読まれて構わない。突っ込みどころは満載だと思っていて、ぼくが別人であれば、ぼくのブログにかなり突っ込む気がします。

しかしながら、若い男性であっても、である調による硬派なブログを書いていたり、目標をきちんと定めて貪欲に知識を吸収している素晴らしいブロガーさんもいます。

英文を自分なりに翻訳して解釈したり、長文だけれど長文を感じさせないような素晴らしい考察を述べているひともいる。つい過去に遡って読んでしまったりするのですが、文章を読むにしたがって、そのひとのなかに息吹いている想いのようなものがわかり、共感する。そんなひとにはエールを送りたいですね。たとえそれがぼくを批判する文章であったとしても、拍手を送りたい。素晴らしい文章は、やはりあらゆる感情抜きに素晴らしいと思う(と、思える許容性を持っていたい)。そういうものに対しては偏見のフィルターを外したほうがよい。

そんなブログを書くひとは、若いということもあって未来しかみていないし、好きなものに真摯と向き合っている誠実な姿が文章から伝わってきます。とはいえ、迷いもあるし、文体の乱れもあります。けれども、こうありたい、こう考えているという理想を一途に語る姿はすかっとして気持ちがいい。過去をぐじぐじ引っ張り出して回想に耽っているよりもずっといい。熱い気持ちが過剰になりがちなこともあるけれども、現実とのバランスを崩さなければ、かまわないでしょう。ぼくはもはや若くはないのですが、そんな気持ちを大切にしたいと思います。

基本的にぼくはよいものを追求していたいのですが、自分の価値基準を定めるためには、何がよくて、何がだめか、ということを考えるのも重要ではないかと思いました。そんなわけで自分の価値基準を整理してみました。

文体という身体の獲得

学生の頃から考えつづけてきたコンセプトに、文体=身体という考え方があります。

記号としての文字には、現実の豊かな五感情報は欠落しているのだけれど、だからこそ五感を想起できるような文体を獲得できれば、そこに生々しいほどの説得力を生むことができるのではないか。ぼくの妄想にすぎないかもしれません。

小説を読んでいるときに、それが架空だとわかっていても涙を流してしまう物語があるのはなぜか。それは仮想の世界でありながら、もうひとつの現実としてぼくらのなかに存在していたからだと思います。思考に直結する言葉は、バーチャルリアリティの装置がなくても、きっともうひとつの世界をそこに生むことができる。念ずる想いが強ければ、それは現実になる。

時間や空間に隔てられて触れられないとしても、言葉によって心に触れること。心の奥深くにある感情を揺さぶれること。あるいはいま手首にナイフをあてようとしているひとの手から、言葉によってナイフを奪うこと。もう少しだけ生きてみようと思う気持ちにさせてあげられること。しょげている子供たちに、きみがいてよかったよ、と俯いた顔を上げさせられること。行き詰った仕事の状況を打破し、未来への一歩を踏み出せるようなファシリテーションあるいはコーチングができること。そんな言葉をぼくは獲得できるようになりたいですね。

茂木健一郎さんのブログを読んでいると、ときどき元気になります。茂木さんの言葉には力がある。だから、ぼくも茂木さんからもらった元気を増幅させて、また別のひとにつないでいけるようにしたい。起点として自ら情報を発信できるひとになるのは難しいかもしれませんが、言葉を増幅させるハブとなることはできそうな気がする。

ブログがメディアとして有効なのは、決してマスメディアのように速報性や広く情報を伝播させるためでなく「ひとを生かす言葉」を生むことができるのではないか、と考えます。ちょっと大きすぎるのですが(苦笑)、たとえば本や映画や音楽の話題で盛り上がる、ということでだけあっても、ひとは生きる。会話が明るくなるものです。そんな生活レベルの感動でひとを生かすのがブログではないか。という意味では、ジャーナリスティックでもあるし、エンターテイメントでもあります。

そのためには、ブロガーとしてのぼくはまだまだ非力です。言葉(文体)という身体を獲得するのは、まだまだ道のりが長いようです。

考えは頭のなかにあるのですが、うまく書けませんでした。この「文体=身体」論については、何度かブログで書いていきたいと思っています。

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2007年4月 4日

チャンスの神様。

先日、髪を切りに行ったときのことです。「いつも後ろ側が長く伸びちゃうんですよねー」と美容師のおにいさんに言ったところ、「人間って後ろ側の髪の毛のほうが強いんっすよ。だいたい薄くなるときも、てんこ(ぽんぽん、とぼくの頭を叩く)からはじまるけど、後ろの部分は残るじゃないですか」と言われました。

その、ぽんぽんってのはやめてくれと思ったのですが、確かにそうかもしれない。男性が歳を取ると、全部禿げてしまうのではなくて、後ろ髪だけは残るものです。うちの親父もそうでした。

そんなことを考えながら思い出したのが、

「チャンスの神様は後ろ髪がない」

でした。あれ?これでよかったのかな。後ろ髪が長いだっけ。でも後ろ髪が長かったらふつうですよね。というかロンゲ(死語)か?だからやっぱりこれでいいのか。

女神だとしたら、前髪が長くて後ろがカリアゲというのは、パンクなヘアスタイルじゃないですか。唇にピアスとかしていたりして、とげとげの鋲の打たれた服を着ていれば完璧です。そんな神様いるのだろうか。神様みたことがないのでわかりません。

しかしながら、やはり人間を超越している神様は、人間とは別の部位が強化されているのでしょう。で、齢を重ねたとしても前髪がふさふさしている。お話をするときには、はらりとかき上げたりするんでしょうね。にんげんのきみたちー、そんなことゆるしましぇーん、とか。どこかの熱血教師ドラマみたいですが。

冗談はともかく、「チャンスの神様は後ろ髪がない」というのは、後ろ髪がないから、チャンスが通り過ぎたときには掴めない、だからチャンスは時期を逸しないで掴み取れ、という意味だったと思います。出典は何でしょうか。不明です。

けれども、だいたいひとを引き止めるときに後ろ髪は掴みません。失礼じゃないですか。まず声をかけて、さもなければ肩もしくは腕を掴むと思うんですよね。髪とか掴まれたら、「いてててて。いきなりなにすんじゃい。ぼけー」と余計に神様は去っていくことでしょう。

そもそも出会いがしらに前髪を掴むのも、かなり勇気がいるものです。前からやってきたひとにいきなり前髪を掴まれたらびっくりする。いや、神様はそもそもひとじゃないから、それぐらいでは動じないのかもしれません。というか、神様の気持ちはわかりません(泣)。

しかしながら、チャンスを掴むことは大切です。

そして機会を逃せば、同じ機会がまためぐってくるとは限りません。もう二度と同じチャンスはないかもしれない。

人生は一回性の連続であり、その一瞬一瞬を真剣に生きなければ、チャンスの神様を逃してしまう。一期一会という言葉もありますが、慣れ親しんだひとであっても、お会いできる一瞬を大切にして、そのことに感謝したい。日々を惰性で生きてしまうと、チャンスをどんどん取りこぼしてしまう。

セレンディピティのような偶有性も大切です。求めているものが得られなかったとしても、まったく別のものが手に入ることもあります。そんなときには偶然にも感謝したいものです。ただ、運を天に任せて待っているばかりでもうまくいかない。運気の流れを読みながら、自分でも行動を起こすことが重要になる。

とはいえ、人生が一回性の連続であるとすれば、神様(前髪が長くてカリアゲ)もまた、怒涛のように押し寄せてくるものではないでしょうかね。神様はひとりとは限りません。一度掴み損ねたら、次の神様を待ち伏せて前髪を掴めばいい。前髪を掴むイメージトレーニングを繰り返しながら。

渋谷の交差点の風景が思わず浮かんだのですが、信号が変わると前からどっと神様(前髪が長くてカリアゲ)が押し寄せてくる感じでしょうか。うわー・・・(前髪が長くて・・・の神様に巻き込まれているイメージ)。

すみません。風邪をひいて頭に悪性のウィルスがまわったようです・・・。

そんな妄想を朦朧とした頭で考えていたら、なんだか気分が悪くなってきました(苦笑)。神様妄想はちょっと中断。体調を整えますので、元気なときにまたお会いしましょう、神様。

+++++

気分転換に、懐かしい渋谷系の音楽を。ぼくが好きだったアーティストをBGM的にふたつほど挙げてみます。最近、洋楽のインディーズのCDばかりを購入しているので、たまには日本の曲もいいでしょう。

ひとつめは、SPIRAL LIFE。ギターがとにかくかっこよかったですね。渋谷系のひとたち全般にいえるのですが、ボーカルはふにゃふにゃしていて好き嫌いが分かれるところだと思います。その脱力系がよい、とも思えるのですが。

子供がいなかった頃(10年以上前)、弟がチケットを取ってくれて、キャラメルボックスの芝居を何度か観にいったことがありました。彼等の芝居にはSPIRAL LIFEの曲が効果的に取り入れられていたことを覚えています。

■SPIRAL LIFE - Why Don't You Come with Me?@POP JAM

ふたつめは、小沢健二さんの「ぼくらが旅に出る理由」。同じフレーズを繰り返すベースラインが好きでした。この映像はピアノとベースを加えた3人編成ですが、CDの方ではホーンセクションなども加わっていて、このホーンも好みでしたね(PVはこちら)。歌詞もなかなかじーんとする。いい曲だと思います。

■Kenji Ozawa - Bokura ga Tabi ni Deru Riyuu (live)

さて、頑張りますか。

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2007年4月 3日

リセット感覚。

熱を出して寝込んだようなとき、ふと目が覚めて、あれ?ここはどこだ?何やってんだぼくは・・・と思うようなことがありませんか。

昼間だと思っていたら夜だったり、夜だと思っていたらまだ午前中の明るい光のなかにいたり。幼少の頃、旅行先や田舎の家に泊まっているときにも、そんな感覚に襲われたことがありました。自分の位置を失うような感覚です。

すべての時間軸と空間軸の情報が欠落して、何もない場所にぽーんと置き去りにされる。一瞬だけ自分が何ものであったかさえ忘れてしまう。焦ったり心細く思うものです。けれども次第にいろんな情報が蘇ってきて、安心します。自分は自分であり、ここはここであって、いまはいまである。紛れもなく世界はここにある、という。

しかしながら、情報が補完されていくにつれて、気持ちを塞ぐようなあれこれも思い出したりして、何もないデフォルト(初期設定)感覚は失われていきます。軽くなっていた背中に荷物が戻ってくるようで、これが生きていることの重みなんだろうなあ、と思ったりします。酔いから醒めた感じでしょうか。酔っ払っているうちは世界がとてもきれいに見えるのだけれど、醒めてしまうとモノトーンの世界だったりするわけで。

意識的に、あるいは無意識のうちに、ぼくらはさまざまなものを背負い込んでいるものです。あれこれオプション機能が追加されることによって不健全にもなって、思考のメタボリックになっている。言葉化することは大事だと思うのですが、言葉で明示することによって重荷になることもあります。言葉が自分を縛る。

たとえば、自分はプロフェッショナルである、という言葉を使ったとします。そのことによって、モチベーションが向上するとともに、プロであらねばならないために、さまざまなプレッシャーもかかる。

自分はプロだと言い切ってしまうと、プロではない何かは切り捨てられていくようになるので、その規範に反するいい加減さとか、適当さはなくなってしまう。ストイックにその世界を追求していくと、確かにマシンとしてのプロにはなれるけれど、人間らしさは失われていくこともあるかもしれません。

マシンであることも大事だけれど、人間であることは忘れたくないですね。潤滑油がないと、マシンもうまく動きません。言葉に限定された通りではなくてもいいと思うし、全体としてほぼOKであれば、細部は規範に反していることがあってもいいと思う。組織というものを考えると、それじゃ甘いのかもしれませんが、細部にこだわるあまりに全体を見失うこともある。

言葉の呪縛にとらわれているようなときには、すぱーんとリセットして、自分をデフォルトに戻してくれるような何かが必要かもしれません。あらゆる世間的な文脈から自分を切り離して、何ものでもなかったまっさらな自分になってみる。すると、実は目の前に道ができていたりする。急に道ができたわけではなくて、いままで道はそこにあって、ごちゃごちゃとした複雑な状況のために見えなかっただけのことです。そんな道をみつけることもできる。

趣味のDTMでは、日曜日にギターをPCに録音することに挑戦してみました。古くて無用の長物となっているハードディスクレコーダーVS-880とPCをMIDIで同期させて・・・ということも考えたのですが、面倒なのでやめた。ものすごく簡単に考えることにして、ダイレクトにPCに録音させています(とりあえずミキサーとしてVS-880を使用)。ただ、配線コードがぐちゃぐちゃで困惑です(ラップトップミュージックは楽でよかったなあ)。ギターを録音する試みは時間がかかりそうです。

複雑であることを容認したいと思うのですが、ときにはリセットをかけて、身体に絡まった配線コードを抜いてみると、すっきりすることもありますね。

うーむ。風邪ひいちゃって、思考がまとまりません。なので、この辺で。

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2007年4月 2日

ヴァージン・スーサイズ

▼Cinema011:行き場のない想いと木漏れ日のような輝きと儚さ。

B00005HTH1ヴァージン・スーサイズ
ジェームズ・ウッズ, キャスリーン・ターナー, キルステン・ダンスト, ジョシュ・ハートネット, ソフィア・コッポラ
東北新社 2001-02-02

by G-Tools

まず、映画とは関係のないプライベートなことを。日曜日、もうすぐ90歳になるおばあさんの体調が思わしくなく、息子たちを連れて奥さんは実家(の母親の実家)に帰っていました。久し振りの独身生活ということで羽を伸ばしてしまったのですが、夜、お酒を飲みながら映画でも観るかーという感じで観はじめたのが「ヴァージン・スーサイズ」でした。

これがもう泣ける泣ける。ぼろぼろです。そこで、がんがんアルコールを煽ってしまい、酩酊して沈没。で、昨日はブログを書けませんでした(苦笑)。おまけに風邪もひいてしまって今日は声はがらがらだし。

というぐらい泣けた映画です(どういう映画だ・・・)。何よりもテーマ音楽がいい。もちろん映像もいいのですが。

いま酔いが醒めて考えてみると、ぼろぼろ泣くような映画ではないんじゃないの、と冷静な自分がいます。ロッキーならまだしも、ソフィア・コッポラの作品を観て泣いてる男ってどうだ?とも思う。けれども映画や音楽や小説には、観どき、聴きどき、読みどき、というものがあると思います。生活のなかのさまざまな文脈が絡んでくるときもある。たぶん複雑な状況下にあって、昨日はこの映画がめちゃめちゃツボにはまったのではないでしょうか。

前置きはこれぐらいにして、本題です。

「ヴァージン・スーサイズ」は10代の美しい4人姉妹をめぐる物語です。彼女たちは微妙な年頃ということもあって、異性や音楽など、さまざまなものに関心を持ちながら、一方では現実に対する漠然とした閉塞感も感じている。母親の厳しさのために、ますます行き場のない想いを募らせていきます。そして彼女たちは...。

物語的には少々うすっぺらな感じもしますが、どこか映像詩のようで、青春時代のきらきら感と儚さを感じました。

特にきらきら感と儚さを感じたのは、パーティーのシーンですね。ソフィア・コッポラ監督といえば、「ロスト・イン・トランスレーション」も観たことがあるのですが、あの映画でも、全体のなかでは異様に長すぎるカラオケのシーンがよかった。酔っ払って、はめを外して、世界がなんだかとてもきれいにみえて、楽しいのだけれど永遠につづくものではなく、目が覚めて現実に引き戻されると自己嫌悪に陥ったりもする。ソフィア・コッポラ監督は、そんな祭りの後に訪れるような儚さ、切なさを描くのがうまい監督ではないでしょうか。そもそも酔っ払ってどんちゃん騒ぎをして反省を繰り返すような儚い時代が青春ともいえるわけで。

彼女たちがボーイフレンドに電話をかけて、音楽で会話するところもよかったですね。あやふやな記憶を辿ると、トッド・ラングレンとかキャロル・キングとか、レコードをお互いにかけあって音楽で(歌詞を引用して)自分たちの気持ちを表現していたと思います。両親に知られないための暗号なのですが、これってかなり音楽を聞き込んでいないとできません。直接、言葉を交わすわけではないのだけれど、それでもお互いに通じている。その間接的に想いを伝える遠さがいいですね。音楽でコミュニケーションできている。いいなあ(しみじみ)。

けれどもそのレコードも、母親に燃やされてしまいます。エアロスミスは勘弁して、などと泣きながら懇願するのだけれど、大切にしていた音楽を暖炉にくべられたら、ぼくも暴れると思う。痛みが伝わってくる場面でした。

残念ながら最近のソフィア・コッポラ監督の「マリー・アントワネット」は観ていないのですが、これも泣けるかもしれない。いつか観ようと思います。時期が熟したときに。というか、DVDになったときってことか?4月1日観賞。

*年間映画50本プロジェクト(11/50本)

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音楽のイノベーション。

イノベーション関連の本を読んでいると、iPodおよびiTunesの事例がよく引用されています。ハードウェアだけでなくiTunesというデジタル音楽配信の仕組みを統合して、流通全体を設計したところが革新的である、という趣旨が述べられていることが多いようです。

アップルの戦略はビジネスモデルとしても参考例に出されることが多いですね。6月11日にiPhoneが登場することも明確になったようですが、さすがアップルという感じです。米国EMIのCIOが「アップルを見習え」と携帯電話業界を痛烈に批判した記事もありました。CNET Japanの記事から引用します。

Nicoli氏は「Appleは、人々が手に入れたいと思うものを作っている」と述べるとともに、「人々はiPodやiTunesのシンプルさや操作性の良さを気に入っている。Appleはそういったことを達成するために白魔術や黒魔術を用いているわけではない。彼らはコンシューマーの要望に耳を傾けているのだ。そして、そういったことはAppleの専売特許であってはならない」とも述べた。

確かにiTunesは便利で、CDから録音する際に曲名を検索するCDDB(Compact Disc DataBase)はなくてはならないものに感じます。曲やアーティストの情報がデータベース化されていて、そのメタデータが無償で提供されていることがうれしい。

常時接続(自宅はFTTH)の環境ではなかった頃には、CDDBはいまひとつ使えなかった気がします。いちいち接続してデータをダウンロードするのが面倒だったし、接続したところ「データがありません」などのエラーが表示されて、接続するんじゃなかった、と脱力したこともありました。そんなときは自力で曲名を入力したものです(泣)。ネット環境を含めて便利な時代になったものだなあと思うとともに、その便利さがデフォルトになっていくと、便利じゃないことが逆にマイナスになるのではないでしょうか。

「あったらいいのに」をカタチにすることが発明だと思うのですが、イノベーションではそこに「わくわく」感が必要です。欲しかったのはモノだけじゃなかった、ということにぼくらは気付き始めています。モノを持つことによって生まれる気持ち(満足感であったり、誰かに自慢したかったり、あるいはいつも近くに置きたいような欲求)が大事です。

モノ(製品)に求められるものは、最終的にそのわくわく感であり、その感じを味わえるのであれば別のモノじゃなくてもいい。有形のものから無形のものへ、ぼくらの求めているものが変わってきたのかもしれません。

パッケージから無形のものへ

デジタル音楽配信がなぜ潮流なのか、ということをもう少しマクロに考えてみると、

「有形のものから無形のものを重視する時代へ」

という変化があると思います。社会を包み込むこの大きな動向から、著作権などの知財が重要になってきている、創造性や哲学などが重視されつつある、製造業からサービス業への移行が顕著になる、ソリューションを提供する企業が注目を集める・・・など、さまざまな無形重視の動きが顕著になっているような気がします。多くの本で書かれていますが、確かにぼくもそう感じています。

SNSやブログで重視されていることも同様ですね。日記のデータが大切なのではなく、読んでくれたりコメントをくれたりするひととの「つながり」や、書いたときの自分の「想い」が大事ではないか。もし、その想いを持続することができれば、テキストなんか消しちゃってもかまわない、とぼくは思います(乱暴ですが)。過去を忘れてしまうから日記として書き留めておくことが大切なのであって、永遠に物事を記憶できる人間アーカイバー(戦隊モノみたいでかっこいいな、アーカイバー)のようなひとは、きっと文字として書き残す必要はないでしょう。でも、ぼくらは忘れてしまうから書いておきたくなる。

音楽に関しても、音楽によって得られる感情が最も大切でしょう。ぼくはブックレット付きのパッケージが好きなのですが、場合によってはジャケットなどのパッケージはおまけであって、かさばって邪魔なだけです。歌詞やライナーノーツも大事ですが、インターネットで閲覧できれば別にCDといっしょに入っている必要はないかもしれない。

そもそも音楽というのは記録される前に、演奏されるものであったはずです。

街角で、あるいは祭祀の場で、音楽は演じられるものだった。それがレコードなどのメディアに記録されるようになって、いろいろと余計なものが付属するようになったのではないでしょうか。シンセサイザーが登場して、演奏しなくても打ち込みで音楽を作れるようになって、プロモーションビデオなどというプロパガンダ(宣伝)の方法まで出現して、どんどん複雑になってきています。それはそれで楽しいからよいのですが、では今後どうなるのか。

ミュージシャンの進化と回帰

どこかに書かれていたことですが、次のような未来を思い描きました(どこに書かれていたのか思い出せないのですが・・・)。

録音された音楽は、最終的には一部を除いてほとんどが無料でネットで配信されるようになるのではないか。その見解はあながち間違いじゃない気がしています。複製も自由。DRMについての議論も活発にされていますが、スティーブ・ジョブズのDRM不要論は、ある意味、正しいのではないでしょうか。

と、考えていたら、タイムリーにも今日、EMIが「EMI、デジタル音楽の「DRM撤廃」発表へ」というセンセーショナルな発表をしていました。なるほど、それでiTunesやiPodなど、アップルを擁護した発言があったわけですね。この戦略のための布石だったか。EMIのアーティストの筆頭といえばビートルズなのだけれど、彼等の楽曲もDRMなしになるのでしょうか。

そもそも過激なことを言ってしまうと、録音してデジタルデータ化する時点で複製されることは前提としてあるわけで、コピーするな、と言うぐらいなら、録音するな(デジタルデータで流通させるな)、という気もする(言いすぎだ、これは。苦笑)。ただし、作られたものを改ざんするのはNGですね。それは創造者の権利を侵している。

ダウンロード販売の売上は増加しつつあるようですが、今後は消費者からお金を取り立てるのではなく、ダウンロード数によってプロバイダから収益を得る、というモデルがあってもいいのではないでしょうか。音楽コンテンツは、より広告的になるかもしれない。個人の音楽ファンが支持するアーティストの曲を紹介したり、あるいはコピーさせることによってアフィリエイト的に収益を得る、ということも考えられそうです。ファンが口コミで儲けるイメージでしょうか。広めた対価としてお金をもらう。その一部がアーティストにも還元される。

加えて、ダウンロードに関しても、各個人がファイルを持っている時代は終わるのではないでしょうか。各自がハードディスクを持っている必要はなくて、どこかのサーバーに共有のものがあればそれで済むことです。メタデータだけ端末に持っていれば、あとは聞きたいときにサイトにアクセスすればいい。

要するにインデックス情報だけ持っている時代です。本に例えると、書籍カードのようなものだけ自宅にあって、あとはすべて図書館にある感じ。カード情報と蔵書はひもづいていて、ほしいときに引っ張り出して読む。読んだら戻す。自分の部屋には所有しない。

というのも、最近、自宅でPCを使っているときには、ステレオもiPodも使っていないことがあるんですよね。myspaceとかYouTubeのサイトにアクセスして好みの楽曲を再生している。オンデマンド配信によるネットラジオ的な感覚かもしれません。もちろん好きなアーティストの曲をじっくり聞き込むときは違いますけど。

楽曲ファイルが無料になったら、アーティストは儲からないじゃん、ということになりますが、ライブで収益を得ればいい。ライブの場における熱気や演奏の音響感は、ぜったいに会場でなければ体験できないものであって、デジタルによる再現は不可能です。もちろん立体映像などで擬似的に臨場感を再現できるようになるかもしれませんが、それでもきっとライブには勝てない。ライブに勝る臨場感はありません。

そんなわけで、情報化時代がさらに進化すると、ミュージシャンは逆に原始的になって、ライブ活動を重視するようになるという、勝手な予測です。

投げ銭的なもの、あるいは

とはいえ、やはり商業的な音楽においては大勢のスタッフが関わっていて、スタジオ代をはじめプロモーションのためにコストもかかっているわけです。ビジネスである以上、それがアマチュアとの違いでもあります。だから、録音された音源を無料にされてはたまらない。もちろんアマチュアだって、時間をやりくりして苦労して作品を仕上げているから、規模は違うとはいっても、貰えるものならお金くれ、という感じはあるかもしれないのですが。

もし、これは!と思うような作品があれば、投げ銭的な支援のシステムがあるといいかもしれませんね。などと考えていたところ、はてなをはじめとして、いくつかのサイトには既に投げ銭システムがあるらしい。

しかしながら、こつこつと趣味のDTMをブログで公開していて思うことですが、ぼくの場合は、やはり感想をいただくことがいちばんの励ましになるものです。

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