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2007年4月12日

走れ、不完全でかまわないから。

数値による目標管理は企業活動においては重要です。数値管理なくして経営は成立しない。けれども、モチベーション管理に関していえば、逆に数値で管理することがやる気を低下させることもあります。限界を設定することが活動を縛り、マイナスを生むことがある。

あまりにも遠くに目標を設定すると、走り出す前に戦意喪失したりするわけです。怠惰なぼくは80%できればいいかーという風に、勝手に手前にゴールを設けてしまうこともあります。あるいは、試験などでも100%完璧に学習しても本番では80%の力が出せればいいほうだったりする。

「学びについて」というエントリーでも書いたのですが、目標設定を燃料にして走るのではなく、走りたいという燃料をエネルギーにして走ったほうが、どこまでも走行を可能にする場合もあります。クルマの運転と同じように、メーターを確認していると、あっ、ちょっと速度落としておこうか、という意識も働く。けれども、衝動的な想いで盲目的に動いているときには、数値なんか関係ありません。ぐわーっと熱い想いに突き動かされて、いつまでもどこまでも走っていける。

たまにぼくは趣味のDTMで暴走して徹夜することがあるのですが、気がつくと4時間すぎていた・・・なんてこともあります。あと、メシ食べるの忘れてたとか。仕事もそんなことがありました(過去形になっているなあ 苦笑)。

今日書店で購入した茂木健一郎さん+田中洋さんの「欲望解剖」という本の冒頭では、茂木健一郎さんが脳の開放性(オープンエンディッドネス)について書かれています。面白かったので一日で読み終えてしまいましたが、もう一度キーワードなどを拾って読もうと思っています。

4344012631欲望解剖
電通ニューロマーケティング研究会
幻冬舎 2006-12

by G-Tools

茂木さんの解説によると、人間の脳の認知プロセスには、ここまでという終わりがなく、どこまでも突っ走っていける。A10神経というものが働くと、脳内麻薬のようなものが分泌されてアディクション(中毒)が生じるそうです。好きなアーティストの曲をへヴィ・ローテーションで聴きまくるのもたぶんこの脳内の働きが原因で、ひょっとしたら恋愛もアディクション(中毒)の一種かもしれません。

どんなに快楽とはいえ中毒は中毒なので、諸刃のやいばといえるかもしれないのですが、数値管理よりも重要なのはこのA10神経を活性化するようなきっかけづくりではないでしょうか。ベンチャー企業のカリスマ社長などは、そんな力を持っているような気がします。それこそ意図的に仕事中毒にさせてしまうようなオーラがあるのかもしれません。

不完全でもかまわない

完璧主義を徹底して100%準備できなきゃスタートしない、と思っていると、結局いつまでも一歩も踏み出せなくなるものです。

何かの記事で読んだのですが、引きこもりの子供たちは社会と交流を絶ちたくて引きこもっているわけではなくて、完璧を求めるあまりに一歩踏み出せなくなってしまったのではないか、という分析がありました。なるほどなあと思った。彼等だって誰かと話をしたり、笑いあったりしたい。でも、自分の言葉が(誤解を生まずに)完璧に相手に届くのだろうか、相手の言葉に(失笑されないように)完璧に答えられるだろうか、と考えたときに外部へ踏み出せなくなってしまう。わずかな一歩がとても重く感じる。これはわかる。

でも、言葉が言葉である以上、完璧はあり得ないとぼくは思います。なぜなら言葉は記号として、意味の総体のほんのてっぺんの部分、氷山の一角だけを表出させているからです。

言葉が曖昧なものだからこそ、他者の存在が必要になる。<あなた>が発する言葉は、完全ではなくてもかまわない。不完全だからこそ<ぼく>に伝わることもある。隠れている図形をつないでひとつのカタチとしてとらえてしまうように、ぼくらの意識には補う力があります。だから完全ではなくても、全然かまわない。

コミュニケーションは、発信者だけでなく受信者がフォローすることによって、はじめて成立するものです。ひとりだけで完結するものではありません。だからひとりで気負って完璧な言葉を使う必要はない。言葉の足りない部分を補ってあげるために誰かがいるわけで、不完全なものを補い合うキャッチボールの行為が、コミュニケーションなのかもしれません。

ぼくらは不完全です。でこぼこがあって、尖ったかと思うと凹んだりして、それでもそのでこぼこをうまく重ねあわせることができる誰かがいる。

自分探し、などということがよく言われますが、探さなければならないのは他者かもしれません。自分なんてものは探さなくても、ここにいるじゃないですか(笑)。ここにいるものを探す必要はない。

他者に大きく揺さぶられることによって(それがポジティブであってもネガティブであっても)、はじめて自分がわかるような気がします。人間は他者という鏡を通してしか、自分をみつめられないものかもしれません。

力のある他者の影響力によって、他者の色に染まってしまうこともあります。このとき他者からの波動に対して無理にバランスを取ろうとすると、反動で他者を拒絶してしまうこともある。もちろん自衛することも大事です。けれども生成変化する自分もまた面白いのではないでしょうか。揺らいでいる自分をそのまま受け止められたときに(自己否定したり、嫌悪したり、逃げるのではなくて受け止める。無理に肯定しなくてもいい。ただ受け止める)、ひとは大きく成長できる気がしています。

走れば安定するかも

息子(長男くん)の自転車の練習をしていたときに、自転車はある程度のスピードを出さないと倒れるよ、ということをよくアドバイスしていました。自転車の練習と同様に、気持ちが揺らいでしまうのは、想いの速度が足りないのかもしれません。アディクション(中毒)になるぐらいに想いを集中させれば、揺らぐこともなくなるのではないでしょうか。というよりも揺らぐ暇がない。

茂木健一郎さんのブログ「クオリア日記」の4月10日に「だーっと突っ走って」というエントリーもありました。疾走感で爽やかな気持ちになりました。以下、引用します。

ひんやりとした空気の中をだーっと
疾走していくと、いろいろな
ことが昇華していく。

人生、澱のようにたまってくるものが
あるが、
だーっと走って解消できないもの
などないんじゃないか。

非常に微々たるものかもしれませんが、タイピングも身体的な運動であると考えると、タイピングの手を止めずにとにかく書きつづけると、ある種のすがすがしさを感じることがあります。もちろん感情に駆られて書いているようなときは逆に不健全になっていく場合もある。けれども、自分の好きなことについて書いているようなときには、ほんとうに時間も文章量も忘れて書きつづけていることがあります。きっと脳内麻薬が分泌されまくっていることでしょう。だから書いたあとも、すっきりする。

走ってみますか、思考だけは(実際の身体は不健全で走れませんけれども 泣。でもちょっと走らなければいかんな。せめて歩くとか)。

投稿者 birdwing : 2007年4月12日 00:00

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