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2007年4月 9日

感情という情報。

月曜日、体調もほぼ回復して新たな気持ちでぐわーっと仕事していたのですが、おやつの時間あたりに遅い昼食をとって、仕事に入る前の息抜きにお気に入りのとあるブログが更新されていたので読んだところ、思わず笑みが零れてしまった。楽しさが文章から滲み出しているような記事でした(笑)。こんな風に、ストレートな気持ちで書かれた記事が大好きです。その場にいなかったとしても、聴こえている音や雰囲気などの臨場感が伝わってくるので。

やっぱりブログは自分を生かしてくれるんだなあ、と思いました。書くことはもちろん、読むだけでも充分に生き返る。一杯のコーヒーは仕事の疲れを癒してくれますが、お気に入りのブログの文章は低迷した気分からぼくを救ってくれます。あとは音楽があれば最強ですかね。音楽は欠かせませんね、やっぱり。

事実と感情、ニュースの言葉

さて。感情も情報である、という見解をどこかの本で読みました。

何の本で読んだのか思い出せないのですが、ダニエル・ピンクの「ハイ・コンセプト」だったような気もするし、同時期ぐらいに読んだ別の本だったかもしれません。

通常は、情報といえば感情を排除した「事実」が重要である、と考えますよね。特に新聞では、客観性が重視される。記者さんが個人的な感情を交えてニュースを書いたとしたら、読んでいるぼくらは混乱します。ニュースとしての公正に欠ける。事実を正確に伝えることが新聞というメディアの第一の役割であり、そのプロフェッショナルが記者です。だから思いに任せて書く記者はプロではない。

とはいえ社説やコラムは、その限りではないかもしれません。あまりにも感情をフルに露出するのもどうかとは思いますが、読者に共感を与えるには、記者の目を通して感じる社会に対する憤りであるとか、不慮の事故に対する悲しみだとか、そういう訴えが説得力になる。新聞のニュースに殺伐感を抱きつつ読み進めて、コラムを読んでなんとなくほっとするのは、そんな感情の排除(=ニュース)と感情の解放(=コラム)があるからかもしれません。したがって、どちらか一方だけで構成された新聞は読まない気がする。エンターテイメント志向のテレビの場合は、後者の比率が高いのかもしれません。

グラフに表してみると、こんな感じでしょうか。まずは新聞の成分。

HeartRails Graph

つづいて、テレビ的な何か。

HeartRails Graph

あくまでもぼくの主観です(笑)。

ちなみにこのグラフは、HeartRails GraphというWebサービスを使わせていただきました。適当に入力するとグラフを描画してくれるので、なかなか面白いです。Excelみたいに緻密じゃないところがいい。いい加減な値を入力しても(合計が100じゃなくても)、きちんと円を描いてくれます。描画と同時にURLを出力してくれるので、そのURLをブログに貼り付けてみました。

と、ちょっとグラフ方面に話がそれましたが、しかしながら、悲しい、怒りを感じるなどのように感情を直接に表現しなくても、事実が感情に訴えることがあります。

今日、昼飯に中華料理屋でタンメンとチャーハンを食べながら店のテレビを見ていたのですが、飲酒運転によって妻と3人の子供を失った被害者の方が、しあわせだった頃の写真を飲酒運転撲滅のために使いたい、というお話を放映していました。そこで、亡くなった4人が寄り添って笑っている写真が画面に大うつしにされていたのだけれど、その映像を見ていたら不覚にもぼくは涙出そうになった(タンメンすすりながら)。やばいです。中華料理屋でワイドショーのような番組を見て泣いてる男というのは、いただけません。

感情が記憶に楔を打つ

これもまた何かで読んだのですが、記憶は失われていくものだけれど、感情と結びついたときには忘れにくい、という記述もあったような気がします。感情が脳内に楔を打つ。ポジティブであってもネガティブであっても、情報+感情になったときに記憶は色褪せずに残る。といってもぼくの場合は、忘れちゃうことも多いのですが。

ブロガーのリテラシーとしては、感情を制御することが重要かもしれません。

過激な批判が話題になっているブログもあるけれど、ぼくはなるべくそんな文章には近づかないようにしています。というのは、感情のセンサーが共振して、思わぬテンションになってしまうことがあるので。

言葉には波動があり、強大な力に対して受け手の防御が弱まっていると、その影響力に大きく揺さぶられます。よい意味で揺さぶられるときもあれば、あまりよろしくない揺さぶられ方もある。何を読んでも動じない強さがあれば読んでかまわないと思うのですが、ぼくはかなり共振するほうなので、できれば負の感情が渦巻く場所は避けていたい。

では、感情から遠ざかっていたほうがいいのか、ブログを書くときに感情をまったく排除して書くべきかというと、そうともいえない。感情を排除するとブログらしさが失われてしまいます。それこそ新聞風になる。ほどよく出来事とブレンドしながらも、感情という情報を発信できるといいですね。それがぼくの理想とするブロガー像でもあります。

ぼくも暴れ馬的な感情を乗りこなすのに苦労した(している)人間ですが、感情を表現しつつ制御するためには、仮想的にもうひとりの自分を作るといいでしょう。対立するふたつの思考を存在させると、力が緩和されて落ち着くことができる。

天使と悪魔でもかまわないし、自分のクローン(複製)でもかまわないのだけれど、もうひとりの自分を存在させる。突っ込みとぼけでもいいのだけれど、とにかく熱くなっている自分を冷静にみつめて「おいおい、それはやりすぎだろ」という仮想的な自己を作っておく。それが、メーターを振り切るような自分を制御してくれるリミッターにもなるし(ちなみに楽器のエフェクトにリミッターという機能があるのですが、これは一定のレベルを超えた音を制御するものです)、大人的な思考を展開するための大事なパートナーにもなると思います。

複眼思考とか、多面的な思考というのもそういうものかもしれません。カードのCMではないのですが、どうするオレ?みたいな感じで、考えられるオプションをできるだけ想定する。そのなかで最適な選択をする。もちろん冷静でなければ、そんな風に多面的な可能性を吟味することは不可能なのですが、大人だなあとぼくが感心するようなひとたちは、単眼的に世界を見るのではなく、別の側面からも世界を見ることができるような方が多いと思いました。

とか書きつつ、ときには冷静さを投げ打って、バランスを崩して暴走するようなひとが、ぼくは結構好みなんですけどね。まあ、ぼくもそんな傾向にあるひとりなのですが(苦笑)。

投稿者 birdwing : 2007年4月 9日 00:00

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