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2007年4月 8日
学びについて。
思えば、学生を卒業してからずいぶん長い時間が経っています(遠い目)。しかしながら、現在、学生の方には申し訳ないのですが、学生の頃の学びは、関心のある分野をみつけるためのきっかけづくりと、思考の練習(エクササイズ)だったのではないかと、少なくともぼくは思っています。
ほんとうの勉強が必要になるのは社会に出てからです。その勉強は強制されるものではないし、単位で数えられるものではない。そして教科書という本で学べるものだけではありません。仕事や家族を含めたひととの関係のなかで学べるものもあれば、社会生活という実践の場で学べるものもある。余暇のなかで趣味を通じて学べるものもあれば、あらためて学校に通ってやり直すスタイルもあります。
個人的な経験を書くと、ぼくがいちばん学んだのは、父を亡くしたときでした。
年末に帰省したときに話をしようと思っていたことがあったのだけれど、秋に脳卒中で倒れた父は年の終わりにはもういなかった。このときにぼくは、伝えたいことがあれば自分のなかであたためていてはだめだ、ということを学びました。伝えたい言葉が大きな波紋を描いたとしても、言葉を発するチャンスを失うと、永遠に伝えられないこともある。言葉が足りなくても、ちょっとぐらい格好悪くてもいいじゃないですか。そのときでしか発せない言葉というものがあるし、想いがあるものです。
だからぼくはいま過剰にブログを書きつづけているのかもしれません。伝えたいと思っている言葉を、伝えたいうちに発信する。そのシステムとしてはブログは最適です。発信しやすい安易さが問題になることもありますが。
ところで、一生懸命に学んだひとが社会で優位な地位が得られるかというと、そうでもないところが社会である、と言い切ってしまいましょうか。
こんなことを書くと、これから社会で活躍しようとしているひとの学びの意欲を削ぐかもしれませんが、別にしゃかりきになって学ばなくても、そこそこの生活はできる。勉強なんて面倒だからもう結構、という生き方もある。人生楽しんだほうが勝ち、というのもまた真理。
だから、オレはこんなに苦労して学んでいるのになぜ・・・という他者に対する批判的な意識は持たないほうがいいと思います。そんなことも知らないのか、と他者を嘲笑するために学ぶのであったら、学ばないで純粋かつ無知であったほうがずっといい。
学びと社会における成功は必ずしも合致するものではありません。学びは途方もない労力の消費で、結局のところ何も役に立たないことだってある。
しかし、だからこそ学びは重要である、とぼくは考えています。成功のために学ぶという姿勢は、どこか本来の学びの力をねじ曲げるような気がしています。学びたいから学んでいる、それでいいのではないか。成功するかどうかはその結果であって、到達点ではない。学びを成功の道具にしてはいけない。
これは社会に出て、資格取得というかたちではない"役に立たない"学びのスタイルを選択したぼくの所感です。生活を豊かにするつもりで学びはじめたのですが、はたして豊かになっているかどうかも疑問だったりする(苦笑)。アタマでっかちになって不健全な思考ばかりぐるぐる回って、ネガティブループから逃れられないこともあるし、この先どうなるかもよくわかりません。考えすぎて凹むことも多いし、この時間を他のことに使ったらもっと楽しい人生もあったのではないかと想像して愕然とすることもある。
ただ、先のわからない人生を楽しもうと思っています。未来がわかりすぎて、あまりにも構想通りに進んだら、それはそれでつまらなくないですか。ビジネスはともかくとして。
未来の設計図は描くし、構想も持つのだけれど、その図面から外れた未来も許容し、楽しめる自分でありたい。変化の波にフレキシブルに対応し、揺らぎつつも航海(後悔ではなくて)する船でありたい。
ぼくは書きたいからブログを書くし、書きながら興味を持ったことにはネットという集合知を活用して、知らないことを吸収していきたい。映画が好きだから観る、活字に対する渇望から本を読む、音楽はぼくの生活には欠かせないから聴きつづける、それだけのことです。そして、趣味のDTMは永遠にやっていても飽きることがないから取り組む。かつて別の音楽専用サイトで公開していたときには、ダウンロード数や投票数が気になったのですが、いまこのブログで公開して、数量的な効果はどうでもよくなっています。アクセス解析もまったくみてないし。
ただ、そこに至るまでは、意識的に自分の方向性を決めることが必要でした。ぼくは怠惰な人間なので、決められた枠がないとやらないんですよね(苦笑)。そんなわけで年間に何冊読むなどの目標設定をしたのですが、そのスタイルが習慣化してきたいま、自分を飛躍させるためのカタパルト(発射台)は外してもいいかな、と思いはじめています。
永遠に何かできることって、すばらしいと思いませんか。学生時代は期間限定だから、それがちょっと残念なのだけれど、いくつになっても学生でいようと思えば終わりはありません。学びつづける意思さえ持てば、自宅や職場がバーチャルなキャンパスになる。ひとりの研究室にもなる。
この人生にさよならを告げるとき、ぼくは「あ、いま思いついちゃったんだけどさ・・・」と、ひらめきを最期の言葉にできるといいな、などとそんなことを考えています。
もちろん家族や知人に対する感謝は別に遺書にしたためるとして。
投稿者 birdwing : 2007年4月 8日 00:00
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