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2007年4月 5日

ブログの文体を獲得するために。

いまでこそ長文ブロガーになってしまいましたが、日記を書き始めた当初は、改行を多用したブログを書いていました。どうしてこんな長文を書き連ねるようになったのか、その理由は記憶にありません。思考の速度と文章を同期させようと考えた結果、どんどん長文化していったような気がします。書いていく傍から書かれていないことがぼろぼろ零れ落ちていくようで、それを拾っていったところ長文になったのかもしれない。われながら困ったものです。

はてなを使っているひとには長文タイプのブログを書かれている方が多いようですが、そんな長文ブロガーさん向けに、テンプレートが長文対応に改良されたとのこと。CNET Japanの記事から引用です。

はてなダイアリーでは比較的長文のブログを書くユーザーが多いことから、新たなテーマの作成にあたっては、長文ブログを読み書きしやすいデザインを目指したという。

CSSを比較したわけではないのですが、確かに行間が少し空いて、読みやすくなった気がします。こういうちいさな改良はうれしいものです。

活字としての本、つまり自分の書いたものをパブリッシング(出版)するという感覚があると、レイアウトなどのデザインも気にかかってしまうものです。テキストとして情報は同じだったとしても、見栄えでずいぶん印象も変わる。活字がまだ写植だった時代には、職人さんたちは一文字ずつ字送りを変えるようなこともやっていただいていました。デジタル化されていい加減になった印刷物もありましたが、やはり文字の見栄えの美しさというものも大事にしていただきたいものです。

技術系のサイトの場合には、情報重視のため、あまりデザインに凝っていないサイトも多いようで、あらゆるサイトでデザインが重要かというとそうともいえない。問題となるのは、

デザインが求められるサイトなのに情けないデザインになっていること、

あるいは、

デザインが求められないサイトなのに異様に凝ったデザインになっていること、

でしょう。デザインにもTPOのようなものがあり、必要のないところで異様に華美にしても意味がないし、必要なところではきちんとコストもかけたほうがよいと思います。ということが顧客志向のデザインであって、必ずしもひとつの規範に沿って何でもかんでもユーザビリティを統一すればいいものではないし、ある理論を使い回しすればいいというものでもない。

試行錯誤した結果、ぼくは、はてなの「Delta」というテンプレートを使って、一部CSSを変更してカスタマイズして使っていました。テンプレートの改良というニュースを知って、もとのDeltaのテンプレートを確認したのですが、ありゃーこんなだったっけ?とちょっと驚きました。背景の色を変えるだけでかなり変わりますね。

そして、デザインも重要ですが、何を書くか、どう書くかということは、もっと重要です。

受け手が生成するイメージ

文体のみずみずしさ、というものに惹かれます。ひらがなを多用するとやわらかくなりますが、漢字であっても、あるいは「である調」であっても、みずみずしい文章がある。

学生の頃に受容美学的なことを学んだ影響もあるかと思うのですが、ぼくは作品について、作者の背景や情報を探ることも大事だけれど、純粋にひとりの読者として作品に接したとき、読み手であるぼくらの心のなかに何が生まれるか、ということを大切にしたいと思っています。

そんなわけで音楽を聴いたときにも、そこから湧き上がるイメージを大切にしたい。一方でそれは、非常に主観的というか、気分重視の曖昧な感想になってしまう(苦笑)。主観的な印象からレビューを書いたとしても、科学者的な客観性に欠けて、文学的なアプローチになります。茂木健一郎さん的にいうと、クオリア的なレビューかもしれません。

ただ、受け手がどのように感じるのか、ということを考えることは、どういうメッセージを発信するのかという書き手の考え方にとっても重要ではないでしょうか。書こうとする動機を起点とするのではなく、読み手の感じ方を起点として文章論を組み立てることもできそうな気がしています。

ブログの文章は特殊なもので、簡単に論じることはできないと思うのですが、主観的な視点から、ブログにおける文章、そして記号の効果についてちょっと考えてみようと思いました。

ブログが書ける○のポイント、のようなことは書かないでおこうと思います(笑)。そういう本はあまりに多く、またブログのエントリーにブックマークがたくさん付くものですが、あまり役に立ったことがないような気がするので。なのでとても抽象的なことを書きます。

ブログ文体の価値基準(あくまで個人的に)

文字あるいは活字はそもそも記号です。記号のなかにも文字ではない記号(☆とか*など)があって、女性の文章のなかでは、効果的に記号や顔文字が使われていると微笑ましいものがあります。

特にメッセージなどのコミュニケーションにおいては、記号は外せないと思う。記号ありと記号なしでは、まったく文章が与えるイメージが変わることもあります。全面的に記号を付けられると眩暈がするときもありますが、強調すべき部分で☆とか使われると、まいったなあ、という感じになる(笑)。

一方で、同性として観察すると、いい年の男性(30〜40代)がブログの文章中に♪とか(T.T)などの顔文字を使っていると、個人的にひきます(苦笑)。足りない表現力を補う意味で使われているのだろうと思うし、女性に気に入られたい涙ぐましい努力もわかる。わかるのだけれど、しなやかな文章を志向するぼくではありますが、男性ブログのこういうやわらかさは生理的にだめですね。女性には受けるだろうけど、正直いって男性のぼくには気持ち悪い。

生理的にだめなので理由はよくわからないのだけれど、一定の年齢をすぎた男性の軟弱なスタイルは何か許せないものがある。なんとなく甘えた感じがするからでしょうか。とはいえ、ぼくも気をつけようと思います。自分もまた大人になれない人間のひとりなわけで(苦笑)。

といっても、どんなスタイルがあってもいいわけで、別に他人のスタイルなのだから、ぼくがどうこう言えるものではありません。ただ、なんとなく読んでしまって苦笑しているだけです。好きに書けばいいでしょう。ぼくの文章も公開している以上は、好きに読まれて構わない。突っ込みどころは満載だと思っていて、ぼくが別人であれば、ぼくのブログにかなり突っ込む気がします。

しかしながら、若い男性であっても、である調による硬派なブログを書いていたり、目標をきちんと定めて貪欲に知識を吸収している素晴らしいブロガーさんもいます。

英文を自分なりに翻訳して解釈したり、長文だけれど長文を感じさせないような素晴らしい考察を述べているひともいる。つい過去に遡って読んでしまったりするのですが、文章を読むにしたがって、そのひとのなかに息吹いている想いのようなものがわかり、共感する。そんなひとにはエールを送りたいですね。たとえそれがぼくを批判する文章であったとしても、拍手を送りたい。素晴らしい文章は、やはりあらゆる感情抜きに素晴らしいと思う(と、思える許容性を持っていたい)。そういうものに対しては偏見のフィルターを外したほうがよい。

そんなブログを書くひとは、若いということもあって未来しかみていないし、好きなものに真摯と向き合っている誠実な姿が文章から伝わってきます。とはいえ、迷いもあるし、文体の乱れもあります。けれども、こうありたい、こう考えているという理想を一途に語る姿はすかっとして気持ちがいい。過去をぐじぐじ引っ張り出して回想に耽っているよりもずっといい。熱い気持ちが過剰になりがちなこともあるけれども、現実とのバランスを崩さなければ、かまわないでしょう。ぼくはもはや若くはないのですが、そんな気持ちを大切にしたいと思います。

基本的にぼくはよいものを追求していたいのですが、自分の価値基準を定めるためには、何がよくて、何がだめか、ということを考えるのも重要ではないかと思いました。そんなわけで自分の価値基準を整理してみました。

文体という身体の獲得

学生の頃から考えつづけてきたコンセプトに、文体=身体という考え方があります。

記号としての文字には、現実の豊かな五感情報は欠落しているのだけれど、だからこそ五感を想起できるような文体を獲得できれば、そこに生々しいほどの説得力を生むことができるのではないか。ぼくの妄想にすぎないかもしれません。

小説を読んでいるときに、それが架空だとわかっていても涙を流してしまう物語があるのはなぜか。それは仮想の世界でありながら、もうひとつの現実としてぼくらのなかに存在していたからだと思います。思考に直結する言葉は、バーチャルリアリティの装置がなくても、きっともうひとつの世界をそこに生むことができる。念ずる想いが強ければ、それは現実になる。

時間や空間に隔てられて触れられないとしても、言葉によって心に触れること。心の奥深くにある感情を揺さぶれること。あるいはいま手首にナイフをあてようとしているひとの手から、言葉によってナイフを奪うこと。もう少しだけ生きてみようと思う気持ちにさせてあげられること。しょげている子供たちに、きみがいてよかったよ、と俯いた顔を上げさせられること。行き詰った仕事の状況を打破し、未来への一歩を踏み出せるようなファシリテーションあるいはコーチングができること。そんな言葉をぼくは獲得できるようになりたいですね。

茂木健一郎さんのブログを読んでいると、ときどき元気になります。茂木さんの言葉には力がある。だから、ぼくも茂木さんからもらった元気を増幅させて、また別のひとにつないでいけるようにしたい。起点として自ら情報を発信できるひとになるのは難しいかもしれませんが、言葉を増幅させるハブとなることはできそうな気がする。

ブログがメディアとして有効なのは、決してマスメディアのように速報性や広く情報を伝播させるためでなく「ひとを生かす言葉」を生むことができるのではないか、と考えます。ちょっと大きすぎるのですが(苦笑)、たとえば本や映画や音楽の話題で盛り上がる、ということでだけあっても、ひとは生きる。会話が明るくなるものです。そんな生活レベルの感動でひとを生かすのがブログではないか。という意味では、ジャーナリスティックでもあるし、エンターテイメントでもあります。

そのためには、ブロガーとしてのぼくはまだまだ非力です。言葉(文体)という身体を獲得するのは、まだまだ道のりが長いようです。

考えは頭のなかにあるのですが、うまく書けませんでした。この「文体=身体」論については、何度かブログで書いていきたいと思っています。

投稿者 birdwing : 2007年4月 5日 00:00

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2 Comments

gadomama 2007-04-05T23:56

ブログではないけど今日、いい歳した役員から♪つきのメールを受け取りました。
親しみを込めたのはわかったけど、ちょっとひきました…

birdwing_tn 2007-04-06T07:32

うーむ。仕事のメールは基本的に要点をおさえて簡潔に、私情をはさまず、ですよね。ブログでは長文を書きまくっていますが、さすがにぼくも仕事メールの文体はまったく違います。文体がスーツを着ている感じでしょうか(笑)

ただ、きっとお忙しいgadomamaさんを労っての配慮だったのではないかと思います。こういうときはメールじゃなくて声をかけていただいたほうがうれしいとも思うのですが、役員さんだけに、なかなか時間もなかったのでしょう。

心ないひともいるかもしれませんが、gadomamaさんはたくさんのひとに支えられてお仕事をされているのではないかと思います。一匹狼的な自分としては、ちょっとうらやましいです。スイスでの休暇も待っていると思うので、ぜひ頑張ってくださいね!!

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