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2007年4月11日

難しさと原点回帰。

フェネスサカモトのアルバム購入時につい買ってしまったジャック・アタリの「ノイズ-音楽/貨幣/雑音」という本ですが、半分ほど読み進みました。

これは!という画期的な見解はあまりないのだけれど、じわじわと効いてくるような本です。音楽を批評するのではなく、音楽"によって"批評するというスタイルが面白い。つまり、音楽論ではなくて、音楽というフレームワークを使って、世のなかを論じていくわけです。

貨幣と交換されることによって音楽は経済のシステムに取り込まれてしまったとか、制度や政治と音楽だとか、実はDRMが議論されている現在に投影してみると興味深いものがあります。そして、書かれている思考のフレームワーク自体は、別の側面で利用することもできます。

とはいえ、正直な感想としては、この本に書かれていることを全部理解できるわけではありません。ぼくにはよくわからない(苦笑)。若い頃には見栄でこういう思想書を購入したこともあって、やっぱりよくわからなかったものです。当時と比較すると少しはわかっているような気もして、いまは好きで購入しているのですが、遅々としてページが進みません。

では、なぜぼくは難しい本を読むのか。 それは逆説的に、世界を楽に考えやすくするためではないかと思いました。

難しさを求める理由

どういうことか、考えをまとめてみます。 そもそも去年に購入したジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの文庫版「アンチ・オイディプス」上巻もまだ読み終えていません。下巻もあるかと思うと気が遠くなる。

4309462804アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)
宇野 邦一
河出書房新社 2006-10-05

by G-Tools

この本もまたよくわかりません。簡単だよ、わかったよ、というひとがいたとしたら、頭がよすぎる変人ではないでしょうか。失礼だとは思いますが。

そんなよくわからないものをなぜ読んでいるかというと、たとえば仕事の上で、不条理なことや、理解できないようなことを言うひとがいるとします(あくまでもたとえば、ですが)。こういうときに難解な思想書を読んでおくと、
「なんだか理解不可能なこと言っているけど、アンチ・オイディプスよりは、ましかも・・・」
と思って、ほっとするからです。

世のなかの頭がいいひとの問題は、難しい本を読んでさらに難しいことを言おうとするところにあるような気がします。ぼくが難解な本を読む理由は、難しいことを楽に処理できるようにするためです。難しいことをさらに難しくするためではない。

断っておきたいのは、難しいことをシンプル(簡単)にする、ということではありません。難しいことは、きっとシンプルにはできない。もし絡み合った難しい事情をシンプルにできたとすれば、何かを隠したり、嘘をついたり、あるいはいい加減に切り捨ててしまったことがあるか、別の側面に目をつぶってしまったか、そんなことだろうと思います。

非常に微妙な違いであって、うまくいえないのですが、複雑なことは複雑なままにしておいて、自分のなかで折り合いをつける、ということでしょうか。たとえば困難なことは、10個ぐらい並列した答えが出ることもある。その10個の答えを出したことが折り合いをつけたことであって、それを1つに絞るのはどうかと思う。問題の前でお手上げになるとか、問題から逃げるのではなく、10個の答えを出して終わる。それがぼくの考える「折り合い」です。

これも積み重ねでしょう。いきなり1キロ走れ、といっても息が切れますが、毎日5キロをゆっくりと走っていれば、1キロ走るのは苦ではなくなる(と思う)。いまぼくは過剰に文章を書いていますが、大量の文章を書いていると原稿用紙10枚ぐらい書くのはへっちゃらです。同様に難しい本を読んでいると、難しいことに対する耐性がつくのではないか。

まあ、あまり難しい問題は降りかかってきてほしくないのですが。

原点回帰としてのオールマイティ

難しいこと/簡単なことを踏まえながら、再度ジャック・アタリの「ノイズ」を読みながら考えていたことに戻ってみます。通常は、


簡単なこと(シンプル) → 難しいこと(複雑)

という方向へ、最初は簡単だったことが次第に複雑化していく流れがあるかと思います。単細胞から複雑な生物に進化していく進化論のようなものです。けれども、複雑化することで逆に役割分担などが生まれて簡単になる。つまり


ひとりで全部やる統合的な何か(複雑) → 役割の分担(シンプル)

という方向性もあるのではないか。最初はオールマイティとして自分で全部手がけなければならなかったけれども、作業が拡大することによってスタッフが必要になり、役割を分担することで個々の負荷は減少するという流れです。

原初的な音楽は、自分で作って歌って演じるものであったと思います。けれども、反復されたり流通の必要性に応じて、作曲家・プレイヤー・シンガーというように作業分担がわかれていった。もちろん、自作の曲を歌うシンガーソングライターもいる一方で、商業的音楽を作るためには、ミキシングやプロデュースを担当するだけの特化した職業もある。マスタリングという最終工程のプロもいるわけです。分担されることによってプロフェッショナルが生まれるようになった。

ところが、技術の進歩によってDTMが登場して、自分ですべてができるようになっていくと、逆に作業が統合されていきます。加えてネットの登場により、音源を販売することも可能になった。たくさんのひとに聴いていただくためには、ミュージシャンであると同時に、ビジネス的な視点も必要になります。

個人の作業領域を考えると幅広く複雑になっているのだけれど、よく考えてみると、表現の原初的なかたちは、すべて自分でやるということだったと思うんですよね。観客も自分で集めたし、演奏もした。だから複雑化しているようで、実は表現者としては原初的なものに原点回帰しているようにも思いました。

これはブログも同様だと思います。印刷業者や出版社、新聞社という専業的な企業ができたから役割が分かれていたけれども、DTPでは印刷が自分で可能になり、さらにブログでは幅広くパブリッシングできるようになった。自分自身がクリエイターでもあり、プロモーターでもあるわけです。

ネットは社会を複雑にしていると考えていたのですが、実はその方向性は、表現という観点からいうと原初的なものに向かっているのではないか、と考えました(この原初的という言葉は決してシンプルという意味ではありません)。

もしかすると、ブロガーは大道芸人(ジョングルール jongleur)ではないか。あるいは吟遊詩人かもしれません(ジョングルールについてはWikipediaの解説を)。

ブロゴスフィアという街角でひとびとを笑わせ、ときには感動を与えたりもする。技術の最先端にいるようで、ブロガーの存在は結構、古いスタイルだったりするのかも、と思いました。あるいは技術の進化はあったとしても、人間の文化の本質・構造はあまり変わらないのかもしれません。

投稿者 birdwing : 2007年4月11日 00:00

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