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2007年4月18日

いま、ここを起点として。

人間の欲望には際限がありません。求めていた夢が適うと、さらにその上を求めてしまうものです。大金持ちはさらに資産を倍増させようとします。倍増して何をするかということは考えずに、倍増することが目的になる。そこに喜びを感じてしまう。

「もっと」を追求する気持ちが知識に向かったときには、特に問題はないでしょう。研究者においては、その知的好奇心が原動力となっているものです。けれども、特定の他者に「もっと」を求めた場合には、うまくいく場合とうまくいかない場合があります。

期待によって他者の能力を伸ばすことができる一方で、過剰な期待はプレッシャーとなって圧迫することもある。万人に有効なセオリーがあるわけではなくて、その個人それぞれの特性によって違うものかもしれません。「もっと」を自分の期待として解釈して頑張れるひともいれば、なぜ求められてもいないものにそれ以上のことを要求するのかわからん(怒)、というオーバースペックに耐えられなかったり消耗する場合もある。

最近はSEOよりもSMO(Social Media Optimization)という言葉の方が使われているかと思うのですが、いずれにしてもOはOptimization(適正化)です。ところが、この適正化がぜんぜん適正じゃなかったりもする。状況を無視してとにかく数値の増加を目指すのは、適正ではありません。たとえば月間3000もPVがあれば十分と思っているサイトの企業に、1万PVを求めるのは不適正ですよね。

先週、とあるブロガーさんのセミナーを拝聴したのですが、そのなかで知人23人のブロガーさんに訊いたアンケートというのが結構面白かった。23人というミニマムなN数(回答者数)自体がぼくには魅力的だったのだけれど、そのなかでPVにも触れられていて、最も回答数が多かったのは月間1,000〜10,000PVだそうです。とはいえ、名前は明かさなかったのですがかなり有名なブロガーさんたちのようで、だからもちろん100万PVという凄いブロガーさんもいらっしゃるのですが、1万いけばそこそこという印象は意外でもありました。たぶん、アクセス数じゃないのでしょう。

ついでに講演のなかではVOXのほか、シンプルなサービスとしてTumblrTwitterなどの新しいコミュニケーションツールや、ブログをネットワークする仕組みとしてのAgile Media Networkなども紹介されていて興味深いものがありました。

自分のモノサシを大切にする

情報が過剰に溢れるネットの世界に住んでいると、ときに自分を見失います。

けれども結局のところ、自分のモノサシに合わせて目標であるとか適正値を設定すればいいのではないでしょうか。他人はどうであろうが、自分はこうだという信念があれば、無駄に頑張る必要もない。逆にまったく儲けにつながらなくても、自分にとって意義があれば実行に値することといえます。

いまここにいるというだけで自分の存在は奇跡的なものです。それだけで尊い。

もっと凄い自分になるという向上心は大事ですが、向上心ばかりが先走ると逆に現在の自分がつまらなくみえてしまうものです。理想のレベルを上げすぎると、反比例して現実の成果が低くなっていきます。モチベーションのための高い理想であれば意義があるのですが、理想に押し潰されるぐらいであれば下手な理想なんか持たないほうがいいかもしれません。

よく使われる比喩ですが、コップに「まだこれだけ水がある」と考えるのと、「もうこれだけしか水がない」と考えるのでは、意識的に全然違う。悲観的にとらえていた事象も、裏返してみれば楽観的になることもある。

人間の意識は地と図を反転させることが可能であって、ポジとネガを切り替えることもできる。自分には何もない、と思うときには、きっと自分にないものばかりを見ている。そんなとき、空白のピースになっている部分に焦点を当てれば、「地」として自分が見えてくる。自分にはないものをネガとして反転させれば、隠れていた自分が「図」として浮き上がってくる。

ここにないものを残念に思うよりも、いまここにあることに感謝すること。それが大事かもしれません。

そして、再構成・再編集するイノベーションへ

という長々とした文章で何を考えようとしていたかというと、未来を構想するときに、まったく従来との接点がない新しいもの、現在や過去とつながりのない世界を構想するのではなくて、過去や現在の要素を再構成・再編集しつつ新しいものを生み出せないか、ということです。つまり、

過去・現在の自分を起点とした未来構想としてのイノベーション

ということでしょうか。いたずらに時流(トレンド)を追うものでもありません。変化する時代を起点としたり、世のなか全体を基準とするものではなくて、自分を起点とした変革ができないか、と。

たとえば、ぼくの3歳の頃の写真には、子供用の椅子を机にして何かを書いているシーンがありました。覚えていないのだけれど、何かを書くのが好きだったらしい。いま、鉛筆をキーボードに、紙をネットに置き換えたけれども、基本的には何かを書いていることに変わりはありません。そして、文字を音に変えるイノベーションを10代のときに起こすことによって、音楽をはじめた。趣味のDTMは、ぼくにとっては文章を書くことと同じラインにありながら、位相を変えたものであるわけです。

うまくいえないのですが、iPodのイノベーションも、実は従来の基盤から大きく離れてはいないのではないか、と直感的な洞察が浮かびます。モノは違うけれども、Macを購入したときのわくわく感と、iPodを購入したときのわくわく感は相違ない。もともとMacのなかにあるハードディスクを外部に出しただけともいえるのですが、機能的な何かではないような気がする。もちろん機能も大事なのだけれど。うーん。

MacとiPodに共通するイノベーションの軸は、生活はもちろん機器が身体の一部になる感じですかね。誰か言ってたっけかな。

つまり、肌身離さず携帯するiPodは、Macを持ち歩く意味での一体感もあったりする。PDAであるAppleのニュートンは、それに近いものを目指していたのだけれども失敗したといえます。その失敗を比較してみたときに、何か言えそうな気もしています。おぼろげに考えているだけですが。

ぼくが自分で購入した初コンピュータはMacだったのですが(Performa 5320。まだ家にある)、なんとなく名前をつけたくなった気がします(笑)。カタチもなんだかイヌみたいだったし。どこか機械でありながら、人懐っこい感じがしました。という意味では擬人的もしくはペット的なのですが、まだ自分との距離感があった。Windowsマシンではさらに遠い感じです。あれは道具だ。

「欲望解剖」という本のなかでは、田中洋さんがポスト・カルテジアン消費という言葉で「情報を媒介として心と身体とが一体化した消費現象」について解説されていました。自分と情報を一体化しつつ、過去と未来を俯瞰したような統合化されたイノベーションが重要なのではないか、などと思ったりしました。

投稿者 birdwing : 2007年4月18日 00:00

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2 Comments

gadomama 2007-04-19T00:09

Happy Birthday !

birdwing_tn 2007-04-19T06:50

!!!感激しました。
家族よりもはやいお祝いの言葉、ありがとうございます!
いつもほんとうにあたたかいコメントをいただいて、gadomamaさんには感謝しています。これからもよろしくお願いいたします。

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