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2007年4月 3日

リセット感覚。

熱を出して寝込んだようなとき、ふと目が覚めて、あれ?ここはどこだ?何やってんだぼくは・・・と思うようなことがありませんか。

昼間だと思っていたら夜だったり、夜だと思っていたらまだ午前中の明るい光のなかにいたり。幼少の頃、旅行先や田舎の家に泊まっているときにも、そんな感覚に襲われたことがありました。自分の位置を失うような感覚です。

すべての時間軸と空間軸の情報が欠落して、何もない場所にぽーんと置き去りにされる。一瞬だけ自分が何ものであったかさえ忘れてしまう。焦ったり心細く思うものです。けれども次第にいろんな情報が蘇ってきて、安心します。自分は自分であり、ここはここであって、いまはいまである。紛れもなく世界はここにある、という。

しかしながら、情報が補完されていくにつれて、気持ちを塞ぐようなあれこれも思い出したりして、何もないデフォルト(初期設定)感覚は失われていきます。軽くなっていた背中に荷物が戻ってくるようで、これが生きていることの重みなんだろうなあ、と思ったりします。酔いから醒めた感じでしょうか。酔っ払っているうちは世界がとてもきれいに見えるのだけれど、醒めてしまうとモノトーンの世界だったりするわけで。

意識的に、あるいは無意識のうちに、ぼくらはさまざまなものを背負い込んでいるものです。あれこれオプション機能が追加されることによって不健全にもなって、思考のメタボリックになっている。言葉化することは大事だと思うのですが、言葉で明示することによって重荷になることもあります。言葉が自分を縛る。

たとえば、自分はプロフェッショナルである、という言葉を使ったとします。そのことによって、モチベーションが向上するとともに、プロであらねばならないために、さまざまなプレッシャーもかかる。

自分はプロだと言い切ってしまうと、プロではない何かは切り捨てられていくようになるので、その規範に反するいい加減さとか、適当さはなくなってしまう。ストイックにその世界を追求していくと、確かにマシンとしてのプロにはなれるけれど、人間らしさは失われていくこともあるかもしれません。

マシンであることも大事だけれど、人間であることは忘れたくないですね。潤滑油がないと、マシンもうまく動きません。言葉に限定された通りではなくてもいいと思うし、全体としてほぼOKであれば、細部は規範に反していることがあってもいいと思う。組織というものを考えると、それじゃ甘いのかもしれませんが、細部にこだわるあまりに全体を見失うこともある。

言葉の呪縛にとらわれているようなときには、すぱーんとリセットして、自分をデフォルトに戻してくれるような何かが必要かもしれません。あらゆる世間的な文脈から自分を切り離して、何ものでもなかったまっさらな自分になってみる。すると、実は目の前に道ができていたりする。急に道ができたわけではなくて、いままで道はそこにあって、ごちゃごちゃとした複雑な状況のために見えなかっただけのことです。そんな道をみつけることもできる。

趣味のDTMでは、日曜日にギターをPCに録音することに挑戦してみました。古くて無用の長物となっているハードディスクレコーダーVS-880とPCをMIDIで同期させて・・・ということも考えたのですが、面倒なのでやめた。ものすごく簡単に考えることにして、ダイレクトにPCに録音させています(とりあえずミキサーとしてVS-880を使用)。ただ、配線コードがぐちゃぐちゃで困惑です(ラップトップミュージックは楽でよかったなあ)。ギターを録音する試みは時間がかかりそうです。

複雑であることを容認したいと思うのですが、ときにはリセットをかけて、身体に絡まった配線コードを抜いてみると、すっきりすることもありますね。

うーむ。風邪ひいちゃって、思考がまとまりません。なので、この辺で。

投稿者 birdwing : 2007年4月 3日 00:00

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