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2005年12月30日

年を忘れて、よいお年を。

大切な風景や時間を残しておきたい、という気持ちがあります。カメラにしても録音にしても、そんな人類の残したい気持ち(といったらおおげさですが)を、技術によって具現化したものではないかと思います。小説や詩などの文芸作品でも、ある特別な雰囲気や気持ちを文章のなかに閉じ込めて、自分はもちろん読者のこころのなかに再現できるようにしたいから書いていることもあります。そもそも日記はそういうものかもしれない。きょうのできごとはぜったに忘れたくない、だから書き留めておく、ということもある。いいことにしても悪いことにしても、です。

しかしながら、忘れないでおくことが幸せなのかどうか、いろんなものを残しておくと部屋も心の引き出しもいっぱいになるのではないか、もっとシンプルに抱え込まずに生きていけないか、ということをちょっと考えました。

年を取ると物忘れが多くなるものです。ぼくの母方のおばあさんは、とても負けず嫌いなひとだったので、年をとってから何かを忘れてしまうのがくやしかったようで、何度も孫のぼくたちの言葉を確認したり、メモに書き留めたりしていました。もちろんその気位の高さが若さを保つ秘訣なのかもしれませんが、あまり老化に逆らって覚えておこうと頑張るよりも、すうっと忘れてしまったほうがいいんじゃないか。そんな風にも思います。

そこで思い出したのが、小川洋子さんの「博士の愛した数式」です。本屋大賞という賞も受賞したようですが、ぼくも非常に感激してて読んだ本でした。とてもあったかい気持ちになる本です。高名な数学の博士がいて、彼は80分しか記憶が持たない。その彼の家で世話をする家政婦さんと、ルートと呼ばれる彼女の息子による物語です。80分しか記憶が持たないから、家政婦さんがいるということさえ忘れてしまう。だから身体のいたるところにメモを貼り付けている。

文庫本にもなったようですが、実は書籍は田舎の母に貸してしまって、いまぼくの手元にありません。しかしなぜこれを思い出したかというと、先日、息子とムシキングの映画に出かけたときに、映画化されたというパンフレットを手に入れたからです。2006年1月に公開らしい。博士は寺尾聰さんで、家政婦さんは深津絵里さんとのこと。うーん、原作はもうちょっと渋めな感じがしました。ちょっと若いキャスティングですね。ネットで調べてみると10月に試写会をやっているようで、実は僕が知らないだけでした。

もうずいぶん前のことになりますが、この小説を読んだときにぼくが連想した映画というと、「メメント」と「ビューティフル・マインド」でした。「メメント」の方は心理サスペンスっぽいのですが、主人公は10分しか記憶が持たないので、身体そのものにボールペンで文字を刻んでいた気がします。逆行するようなストーリーが、なかなか面白かった。「ビューティフル・マインド」の方は、ラッセル・クロウがやはり天才科学者を演じている。しかし天才である反面、彼の頭脳はまったく現実とは別の仮想世界に入り込んでいく。この系統の映画、ものすごく好きなテーマだったりします。ぜんぜん内容は違いますが、ぼくとしては「ショーシャンクの空に」などと同じ系統の認識です。心のありかを描くヒューマンな映画という意味において、こういう映画に弱いです。

と、ちょっと脱線してしまったのですが、ぼくが小川洋子さんの「博士の愛した数式」を読んだときに、あっそうか、こういうのいいなと思ったのは、80分しか記憶が持たないから、もう既に会っている家政婦さんやルートにはじめて会ったように挨拶をするんです。つまりいろんなことがあってもそれをすべてリセットして、はじめまして、のように出会う。要するに、

古い記憶を忘れてしまうと、毎日が生まれ変わるようなものだ...

ということです。つまり、過去のあれこれを引きずらないから、毎日が新しい。これって不便なことも多いかもしれませんが、新鮮な気がします。あーあやっちゃったなあ、と落ち込むようなことも忘れてしまうし、大喧嘩してどろどろに傷つけたことも忘れてしまう。

忘れることって素晴らしいかも。健忘症になろうと思いました。

あんなこと言われたよなあ、とか、信頼していたのに裏切られちゃたなあ、とか、夜に眠っていても、もやもやしたりむかーっとしたりうまく寝付けない夜もあります。忘れたくても忘れられないことがたくさんある。つまんでゴミ箱にぽい、とパソコンのように簡単に不安や苛立ちを消すことができないのが人間というもの。

でも、いろんなことをけろっと忘れてしまうほうがぜったいに幸せだし、健康的な気がする。嫌なひとは、そのひとの存在から忘れてしまえばいい。存在を消去です。ありゃ、あなたどなたでしたっけ?みたいな。そうすると先入観がなくなるので、もしかするとまた仲良くなれる日もくるかもしれない(あるいは、一生、二度と出会わないかもしれないのですが)。

年忘れ、ということで忘年会もありましたが、今年一年の嫌なことはすべて忘れてしまいましょう。そして新しい年を迎えましょう。

充電のため、このブログは数日ばかりお休みをいただきます。いままでありがとうございました。そしてまた来年もよろしくお願いいたします。

みなさま、よいお年を。

+++++

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2005年12月29日

新しいものがもたらすもの。

新しいものに出会うと、なんだかわくわくします。新しいひと、新しい技術、新しい小説や音楽や映画、入学など家族が直面する新しいステージ。現状を塗り替えてしまうような新しいものは一方で不安も感じさせる。リスクもあります。でも、そんな不安よりも、新しいものに対する期待感の方が大きいものです。そして、新しいものというのは、意識的に作り出すこともできるような気がします。年齢のせいか(ちょっとかなしいけど)、いままでの古い世界で安穏としがちであり、新しいものを全面的に受け入れるということはできなくなってきました。拒否しがちです。保守的になってきました。けれども、自分のまわりに張りめぐらされたバリアを解いてみること、あるいは自分の方から一歩あゆみ寄ってみることで、新しいものをゲットできるような気もしています。

SONARという音楽制作ソフトのアップグレードを申し込んでいたのですが、昨日やっと家に届きました。FAXで注文して近所のコンビニで代金を支払えば家に届くので、便利な世界になったものです。オンラインでポップアップメニューを表示して「新しいバージョンが出ましたよ」と教えてくれるソフトウェアもあって、こちらも便利です。あまりにも頻繁に表示されるのは逆にうざったいものもありますが。

ダンボールの箱の梱包を開いて、ぷちぷち(エアークッションですね)に包まれたソフトウェアの箱を取り出す。マニュアルとCD-ROMだけが届くのかと思っていたのですが、きちんとパッケージが入っていて、ダウンロード販売よりもパッケージ派のぼくとしては嬉しかった(その処分に困ったりもする)。

SONAR5のパッケージおよびマニュアルは、従来は深い緑と黒を基調としたデザインだったのですが、ブルーグリーン、白、グレイのカラーになっていて、なんとなくさわやかなイメージです。うーん、なんだか新しいぞ、という気持ちがしました。職業柄、こういうデザインに注目してしまう。

ついでにぼくは社会人としての第一歩をテクニカルライターとしてスタートした経緯があります。テクニカルライターというのは何かというと、マニュアルの文章を書く仕事です。コピーライターが感性のライターとすると、テクニカルライターは理性のライターである、なんてことが言われていました。当時は、業務用ワープロの分厚いマニュアルを作っていました。メーカーから開発途中の基板むき出しのマシンと開発者の技術仕様書が届いて、それをもとにランチェック(仕様書通りに動くかどうか、などのチェック)をしながらマニュアルを作っていく。しかしながら、どちらかというと感性の文章の方がいいなあ、と思っていたぼくはテクニカルライターから方向転換するわけですが、企画を組み立てる上のロジックの通し方などで、当時の地味だけど徹底した訓練が役に立っています。

そんなわけで、実はマニュアル大好きなのですが、SONAR5のパッケージにもやっぱり分厚いマニュアルが付属していて、真新しい印刷の匂いといい、なんだか満足でした。ぱらぱらとめくって、章立てがモジュール化されているかどうか、検索は十分か、などなどついついチェックしてしまう。たぶんそんなひとはあまりいないと思うので、マニアックですけど。

機能強化とともに、次第にPCのスペックも高いものが要求されつつあるので、若干不安もあったのですが、現在のノートパソコンにインストール。最近はネットでユーザー登録、アクティベーションというスタイルのものも多くなっていて、こちらも登録完了。

SONAR5、なかなかいいです。仕事があるため、あまり使っていないのですが、ぼくがまずいいなと思ったのは、シンセ・トラックの波形プレビューができること。プレビューをオンにすると、再生にしたがって波形が描かれていく。そして、音量がピークを超えている部分は赤く表示されて、その部分のフラッグのようなものが出てくる。これ、いいです。一方、メーターのデザインが味気なかったり、インラインのピアノロールは逆に見にくいのでは?とか、シンセラックのアイコンが紛らわしい、などちょっと気に入らない部分もあります。

とにかくちょっと新鮮な気持ちになりました。道具を変えてみると、何か新しいものを作ることができそうな錯覚まで生じるのが楽しい。そんなことをやっているうちに、もうすぐ新しい年です。

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2005年12月28日

仕事納めが納まらない。

本来であれば昨日で仕事納め。忘年会をやってわーい冬休みだ、というシナリオだったのですが、どういうわけか最後の最後に仕事が集中して仕事納めが納まりません。しかしながら、実は子供の入院と自分の体調を崩してしまった1週間のしわ寄せがきているところもあります。まあ、仕方がないことです。

今日はといえば、会社の年賀状作りに終始してしまいました。会社の年賀状ですが、数年前からメールで謹賀新年というスタイルも多くなってきています。とはいえ、ぼくはどちらかというと葉書派です。もちろんもらう立場からはメールで十分にうれしいのですが、送る立場としては、やっぱり葉書で送りたい、という気持ちがある。そういう意味でレガシーなのかもしれません。ダウンロード販売よりもパッケージ、というタイプかも。そして、できれば印刷じゃなくて手書き、という理想があります。もちろんそんなことをやっていたら他の仕事の支障となるので、やりたくてもできないのですが。

名刺交換だけのひとを含めて、今年もたくさんの素晴らしいひとに会いました。そんなわけで年賀状の数は倍増させてしまったのですが、個人情報保護の観点からも持ち帰ってあて先を入力するわけにもいかず、結局、休日出勤という形になってしまいました。ただ、うんうん考えるような仕事ではないので、音楽を聴きながらかちゃかちゃ入力するのも楽しいものです。

会社間のコミュニケーションもメールが主流になりましたが、場合によっては葉書やFAXの方が届きやすいこともあります。これはほんとうに使い分けだと思うのですが、スパムとしてDMが多くなってくると、逆に机の上に届けられたFAXの方がきちんと読むこともある。手書きのあたたかさ、というものも捨てがたい。以前、社内的な調査でいくつかの企業に資料を請求したことがあったのですが、資料をいただいたお礼を手書きの葉書でお送りしたところ、非常に感激されました。コミュニケーションというのはやはり人間と人間が行うものなので、効率だけを追求すると、ばっさりと抜け落ちてしまうものもある。その辺りを感じとる心が大切です。

たぶん就職活動をする学生さんたちにもいえることかもしれませんね。残念ながら、ぼくは最近の学生さんたちがどのような就職活動をしているのか、あまり知らないのですが、たぶんメールなどのやりとりが増えてきているんじゃないか、もしくは必須ではないかと思います。ただ、そういうときに、さらりと手紙などを使ってみると、効果的な場合もあるんじゃないでしょうか。しかし、書いた手紙の敬語や文字がめちゃめちゃであると、かえって逆効果かもしれませんが。

ぼくは全面的にデジタルの信奉者というわけでないし、一方でアナログであることが優れているとも思いません。理想としては、両方のメリットとデメリットを把握した上で、使い分けられるのがよいと思っています。あるいはそれらを混在させるような形が理想的です。

趣味のパソコンによる音楽作り(DTM)においても、Vocaloidに加えてReal Guitarというソフトウェアを購入したことで、なかなか面白いバーチャルな環境が整いつつあります。弾いていないギターなんて嘘じゃん、という方もいるかもしれませんが、ぼくはDTMの世界では上手に弾けることよりも、自分の作品を完成させることを重視しているので、この環境は理想的です。でも、一方で、ベースの弦をはりかえなきゃ、と思っている(ずーっと思っていながら、まだはりかえていないのですが)。近所に、ぶんぶんベースを練習しているひとがいて、おおっいいなあ、といつもその近くを通りがかりながら思うのですが、小型のベースアンプもほしくなりました。休日の午後、スケールレッスン(運指でしょうか)を1時間ぐらいやる、というのも、なんだか幸せな時間が過ごせそうです。もちろんバンドもいい。みんなで音を出すのは、もっと楽しいと思います。

そもそもぼくは俯瞰志向なので、片側よりも両側、単一よりも複数、点よりも面のようなものを求めていたい。だから、デジタルでありながらアナログ、なんてものが理想です。それから考えてみると、会社を何社か変わりつつ、自分の求める仕事を実現しようとしてきました。だから、仕事でありながら趣味、のようなところもある。仕事は仕事、と割り切ってしまわないで、面白い仕事を求めてきたし実現してきた。もちろん現状に不満がないといったら嘘になりますが、いまの仕事はかなり自分の求めていた仕事に近い形になってきた、という充実感もあります。もしかすると、ぼくはかなり幸せなのかも。いや、幸せであると信じましょう。

年始に大きめのプレゼン(プレゼンテーション。企画の発表)も待っています。プレッシャーも大きいのですが、社内でブレスト(ブレインストーミング。あーだこーだアイディアを出し合うこと。こういう会議で大事な前提条件は、批判しないことです。批判すると自由に発想が広がらない)をやったら、盛り上がった。まずは成果よりも楽しもうと思います。

あ。そういえば家の年賀状もまだでした。ううう。今年中に終わるのでしょうか。

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2005年12月27日

振り返ること、展望すること。

周年事業に関する方向性についての企画書をまとめていました。やはり過去を振り返りつつ、未来へ思いを馳せることは重要だなあと考えました。企業も個人も、過去の蓄積の上に成り立っていることは紛れもなく、どんなにリセットをかけたとしても、その経験というのは残る。もちろんよい経験もあれば悪い経験もあるのですが、よい経験はいっそうよく、悪い経験は反省すれば、みんな成長のための栄養となる。情報化という世のなかも、いま節目にあるような気がしています。だからこそ振り返ること、未来を展望することが重要な時期です。

来年2006年はついにWindowsVista(開発コード名ではLonghorn)が登場します。一方で店頭では20周年記念パッケージというのも発売していました。マイクロソフトのホームーページでは、Windowsの20年を振り返る特別コンテンツが掲載されていて、なかなか興味深いものがあります。ビルゲイツとポールアレンがマイクロソフトという会社を作ったのは1975年。その当時にこんなに大きくなるなんて、思っていたのでしょうか。

ちなみに、ぼくが最初に使ったパソコンのOSはMS-DOSでしたが、ちかちか点滅するプロンプトにDIRと入力しなければ、パソコンのなかのファイルを見ることができませんでした。バッチファイルでメニューを作ったり、という楽しみはありましたが、とにかく面倒でした。マウスでクリックすればハードディスクの中身を見ることができるなんて、当時から思えば魔法のようです。「MS-DOSって何ドスか?」みたいな漫画による解説書のようなものがあって、それで理解したり、コマンドを覚えたりしたのですが、そんなものはいまではまったく必要なくなっています。やれやれ。あの苦労は何だったんでしょう。

最初の会社のばりばり理系の先輩にゆずってもらったDynabookで、パソコン通信をやったり表計算をしていたのですが、その後、転職した別の会社の文学系先輩にデスクトップのPC(NECのやつだったと思います)を譲ってもらって、こちらはWindowsでした。先輩たちにはお世話になりっぱなしです。何もご恩をお返しすることができなくて、お恥ずかしい。その当時は仕事でもWindows版のPageMakerを使っていて、いま思うと無謀のようなことですが、WindowsDTPからの版下出力をやったりもしたものです。その後、Macに乗り換えた時期を経過して、現在は再びWindowsです。

一方で、Ad Innovatorでは、PC World誌による過去50年のトップ50ガジェット(電子機器)の特集が紹介されていました。1位がソニーのウォークマン(カセット)で、2位がiPod(ハードディスク)という対比が面白いです。iPodの解説の最初には、ウォークマンが王様ならiPodは王子様なんてことも書いてある。もちろん「音楽を持ち歩く」というスタイルとしては、血縁関係はあるような気がしますが、カセットというメディアがあったかないかということ、録音できるかできないかという意味でも(厳密に言うとiPodは録音ではなくてデータを格納できるということだけど)王様と王子様の間には大きな隔たりがある。

そもそもぼくは録音にこだわりがあったので、ウォークマンは持っていませんでした。音楽は家でじっくり聴けばいいし、録音できないラジカセなんて、みたいな印象があった。開発途中には、そういう意見が圧倒的に多かったようですね。しかし、市場のニーズとしては音楽を持ち運びたい人々の方が多かった。しかしながら、世のなかとは反して、ぼくはやはり録音できなきゃダメ派であり、ウォークマンよりむしろ「デンスケ」がほしかった(うわー古すぎる)。少年の頃、デンスケのカタログを電気屋さんでもらってきては眺めていたものです。生録なんて言葉も、もう死後なのかもしれません。数十万もするポータブルカセットデッキは、少年のぼくにはぜったいに手に入らないものでしたが、その後、持ち運びはできないものの、TASCAMのマルチトラックレコーダーを購入したときにはものすごく嬉しかったものです。

OSにしてもハードウェアにしても、過去のノスタルジーに浸るのは結構楽しい。でも、未来をみなくては。

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■ということを書いていて、検索してみたら以下のような記事をみつけました。24bit/96kHz対応のPCMによるメモリーレコーダーとのこと。うーむ、このコンデンサマイク、アナログの丸いメーター、いいです。しかし20万円はいまでも高い。音楽用には、RolandからWAVE/MP3レコーダーが出ていていいなあと思いました。

デジタル時代に"デンスケ"が蘇る!? ナマロク世代に贈る24bit/96kHz対応メモリーレコーダー ソニー「PCM-D1」
http://arena.nikkeibp.co.jp/rev/20051207/114630/

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2005年12月25日

団体戦の時代。

8歳の息子(長男)を連れて、映画を観に行ってきました。「劇場版ムシキング グレイテストチャンピオンへの道」で、同時上映は「劇場版超星艦隊セイザーX」です。最近はもっぱら劇場といえば子供を連れて行くことばかりなのですが、子供向け映画とはいえよくできているものが多く、CG映像に唸らされることはもちろん、物語としてもよくできていて不覚にも涙を流してしまうことがある。ドラえもんは狙っているかと思うのですが、クレヨンしんちゃんでじわーっときたときにはさすがにやばいなあと思いました。とはいえ、今回の2作品に関しては、どちからというと途中で睡魔に襲われてしまったのですが。

これは既にもう誰かが指摘されているかもしれないのですが、やはり最近の子供たちの戦隊ものやアニメは、非常に複雑化・多様化しているということを痛切に感じます。まずヒーローにしても、過去の履歴を背負っている。クリスマスプレゼントとして、ちょっと古いのですが欲しがったので「ウルトラマン FightingEvolution Rebirth」というPlaystation2のゲームを買ってあげたのですが、過去のウルトラマンだけでなくティガやアグルなど最近のウルトラマンまで網羅している。これは子供とともに30代~40代男性をターゲットとしているからかもしれませんが、実はウルトラマンに登場する怪獣はぼくよりも息子の方が詳しかったりする。つまり単一のヒーローだとしても垂直的にそのバージョン(というかファミリーというか)を網羅しているわけです。

それだけでなく、興味の幅も広い。うちだけかもしれませんが、ポケモンのカードを集めていたかと思うと、ムシキングに移行したり、デュエルモンスターズになったりする。それぞれ何十~何百種類のバリエーションがあるのですが、勉強はできなくても、その種類だけはものすごく詳しい上に暗記までしている。実はムシキングは、8歳の息子にとってはちょっと幼稚な感じもします。幼稚園の子供ぐらいに人気があるのではないでしょうか。

つまりこれは、データベース的な収集、ともいえるかもしれません。カード自体はデジタルではなくても攻撃力、防御力などの情報は系統化されている。したがって、データベース的な比較ができるため、知らず知らずのうちに思考もデータベース的になっている。

もはやモーニング娘。がどういう構成になっているのか、ぼくには詳細はよくわかりません。彼女たちは多様性というか、アイドルはひとりではないという現象として面白かったのですが、仮面ライダー龍騎の頃には、確かライダーも13人登場していて、ヒーローもひとりじゃなくなってきたな、と感じていました。ところが、今日「劇場版超星艦隊セイザーX」を観て、うーんとまいったのですが、これは全部で18人ぐらいの戦士が登場する。誰が誰だかもはやわからないし、どうでもいいやという感じです。しかもそれぞれが合体ロボットのようなものに乗り込み、最後の方では全員がロボット状態で登場して、ばかでかい2本の頭のキングギドラのような怪獣と戦う。めまいがしました。詰め込みすぎだし、お腹いっぱいな印象です。ただ、ファンの子供たちにとっては、あの後ろの方に隠れているヒーローは誰それで、こんな武器がある、ということを記憶のデータベースから引っ張り出して、言及できるんでしょうね。

ゴジラに登場した轟天号も出てきたりして、その辺はおとうさんのノスタルジーもそそったりするのですが、ヒーローはひとりで、怪獣も一体だった時代が逆に懐かしく感じました。特撮とCGもかなり多用している。もちろんぬいぐるみのなかに入って演じているような映像もありますが、お子さま向けとはいえ、かなり迫力のある映像にもなっている。ゲームにしても映画にしても、こういう映像をふつーに見て育った子供たちは、何をリアルと感じて、何を想像するのだろうか、とふと思いました。

ブログの世界でもLongtail(ロングテイル)ということがいわれます。パレートの法則的では2割の商品が売り上げの8割を占めるという公式がありますが、インターネットの世界ではそれが通用しないようになっている。突出してアクセスが多い20%の少数サイトよりも、ひとつひとつのアクセスは少ないが、残りの80%を占める一般の多数サイトが注目されているというわけです。Amazonの書籍の売り上げなどでも、突出したベストセラーよりも、そこそこの売り上げがあるその他多数の書籍が全体の売り上げに貢献しているらしい。つまりヒーローはいません。細分化された多数の方が重視されるようになってきているわけです。

企業としても、カリスマ的経営者というのはいますが、組織力で勝負するような時代になってきているのかもしれない。団体戦の時代なのかもしれません。しかしながら、うじゃうじゃ現われて戦うセイザーXはあんまりかっこよくないなあ、とぼくは思いました。3人もしくは5人までというのが、ヒーローの正しい姿のような気がするのですが、それはレガシーな古くさい考え方なのでしょうか。

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■劇場版ムシキング グレイテストチャンピオンへの道/劇場版超星艦隊セイザーX」。ちなみにポケモンは映画とテレビなどがうまく統合されているのですが、ムシキングはゲームの世界とテレビのアニメの世界が別物です。ぼくは絵本的なテレビのアニメの世界の方が、いいなあと思うんですけどね。息子は、最初の頃こそ熱中してテレビをみていたのですが、最近は「ポポ(主人公)なんてかっこわるい。あんなどんぐり頭」などと言っています。

http://www.mushi-x.com/

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2005年12月24日

信じること、を信じること。

まずはとりあえず、メリー・クリスマス!!

都心とは離れた方向へ子供たちへのプレゼントを買いに出掛けたのですが、都心とは反対方向にもかかわらず、クリスマスを街で過ごそうとするひとでいっぱいでした。カップルも多い。しあわせそうです。女の子がみんなきれいに見えるのはぼくだけでしょうか。

子供たちには、2段階のプレゼントを用意しました。まずは、パパ・サンタからのプレゼント。どこかに出掛けたぼくを待ち受けていた息子たちに、これはパパからのプレゼント!と渡して目くらましをしたあとで、こっそり本物のプレゼントは部屋に隠す。そして、本物のプレゼントは今日の深夜に枕元に置く予定です。

というのは、8歳の息子が「ねえ、サンタってほんとうにいるのかな。ほんとうのことを言って、ママ」ということを言い出しました。彼はずーっとサンタのことを信じていて、いまでも信じているようですが、若干の迷いが出てきたようです。ちなみに、彼はサンタを確認しようとして、眠いのを我慢して起きていたことがあったらしい。睡魔と闘いながら、プレゼントを置くサンタを確認したとのこと。その話を聞いて、若干ぼくは焦ったのですが、で、サンタはどうだった?と訊いてみると「意外に若かった」とのこと。ぼくであることがばれていなくてほっとしました。どうやら彼はまだサンタを信じているようです*1。

大人の社会では、そんな風に純粋に何かを信じることができなくなってきています。一般論ですが、ふつうはマネージャーというのは高い志を抱いていて、自分よりもスタッフのことを気遣い、人格者である、とそう信じている。そんな人格者であれば、自分を捨てて力になりたいと思うものです。しかしながら、そんなマネージャーは企業にはいません。優秀な人間が辞めてしまって、そのあとを継ぐひとがいなくなったとしても、「辞めちゃったんだからしょうがない」なんてことを平気で言うし、自発的に何かを考えてやろうとしたり向上心のある人間に対しては、成功すれば上司である自分の手柄にしてしまうし、失敗すれば「おまえが勝手にやったことだから」ということを平気で言うものです。頑張ってくれ、という言葉を信じて部下が深夜まで働いたとしても、うまくいかなくなれば「いやーおまえが勝手にやったんでしょ?」なんてことを言う。凹むよりもまず人間不信になります。やがてストレスで身体がおかしくなる。で、健康を害した人間に対しては、「健康管理を怠ったきみが悪いんでしょ?」なんてことをまた平気で言うものです。頑張った人間が損をする。給料は据え置きのまま責任ばかりが増えていく。それがほとんどの会社では?

これも一般論ですが、そんなマネージャーはどこかから引用した自分の言葉ではないフレーズをさも自分の言葉のように使って、日のあたる場所にいる。現場とは遠い抽象的かつ安全な場所です。その日溜りから「いままでオレが何度も言ったのにやらない」とスタッフを無能と決め付けて批判するけれども、意欲のある人間を潰して転職などに追いやってしまえば、そりゃあ残された人間は誰もやらないでしょう。やらせなかった自分は棚に上げて、責任は全部他人のせいにする。そんな姿勢を見ていれば、残った人間は二度と何もやらなくなる。おいしいアイディアだけいただきで、スタッフのことは考えもしない。いつまでもスタッフは日の当たらない場所にいることになる。そんなマネージャーに見習って、他人には協力しない(でも協力は仰ぐ)、リードしないが批判はするリーダーなどというしょうもない輩も出てきます。

その一般論に対してぼくが考えることは、信じることも自由だけれど、信じないこともまた自由である、ということです。純粋に信じていたとしても、裏切られることが多いのが大人の社会というもの。みんなに幸せをもたらすサンタクロースばかりを信じていられない。であれば、信じて傷つくよりも信じなければいい。信じないというよりも「見切る」だけでいい。砂漠のような場所に花が咲くことを信じて種を撒き続けるよりも、花が咲くような環境をみつければいいし、花が咲かない場所からは立ち去ればいい。選択は個人の責任において自由です。

しかしながら、サンタなんてほんとうはいないんだよ、と言ってしまうことは簡単ですが、ぼくは夢をみていたいし、その夢を重視するところで生きていきたい。基本的には信じていたいんです、どんなに不条理な世界であっても。しかし信じることによるリスクの大きさも分かっている。だから夢を消耗させてしまうような環境であれば、いままでの安穏とした環境にリセットをかけるようなことも必要ではないか、という気がしています。じっと幸せを待って餓死してしまうよりも、幸せのありかを求めて動いていた方がいい。そういえば「チーズはどこへ消えた?」という本もありました。

クリスマス・イブとしてはシリアスな話題ですが、夢を見るということがどういうことなのか、あらためて考えました。もうすぐ2005年もおしまいです。クリスマスを家族たちと楽しく祝いながら、一方で自分の未来について静かにそしてシリアスに考えました。

ところで、昨日の夕方、耳がおかしくなり、家族の話す声に全部ぴーという音が入るので、会話が放送禁止状態だと冗談でSNSに書き込んだところ、4人の方からそれは突発性難聴なので早急に病院に行くべきだ、じゃないと手遅れになる、というアドバイスをいただきました。実は笑い事で済まされるような病気ではないらしい。ストレスから突発性難聴になりかけたようですが、睡眠を十分にとったところ、若干よくなったようです。くだらないことをストレスに感じて身体を壊すことほど、くだらないことはありません。家族のためにも、まずは自分を守らなければいけない。あらためてそんなことを考えたイブでした。

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■啓蒙本は、若干斜に構えて読んでしまうところがあります。もっと純粋に読むことができるといいんですけど。

459403019Xチーズはどこへ消えた?
Spencer Johnson
扶桑社 2000-11

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*1:現在、25日の深夜1:20。待機中のサンタでしたが、そろそろサンタ発動としましょう。さっき長男の枕元をみたら、「サンタさん、ありがとう」という手紙とともに、せんべいが置いてあった。おおいい子じゃ、せんべいをいただくとしよう。ばりばり。と、いうところでサンタみつけた!というシナリオでしょう。ふっふっふっ。そうはいかないのだよ。でもお腹すいたから食べちゃいそうだ。1:31サンタ任務完了。おせんべい、いただきます。うまい。

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2005年12月22日

聞こえるキャンペーン。

新宿の小田急線の改札を出た場所に、TEPCOひかりのキャンペーンブースが設置されています。ネット対戦を体感できるようにXBOX360が置かれていたり、サンタの姿のキャンペーンガールがびらを配っていたりしています。何をかくそう、半年ぐらい前に、そのキャンペーンでアナログ回線からいきなりFTTHに乗り換えの申し込みをしたのですが、その背景には「TEPCOひかりにかえたのは~」というキャンペーンソングが頭に残っていたこともある。あの曲を歌っているのは、どこかのストリートミュージシャンっぽい女性なんですよね。テレビでみたことがありました。

そのTEPCOひかりが、いま「替え歌グランプリ」というキャンペーンをやっています。応募期間は1月31日(火)までのようです。これは、2つのコースに分かれていて、「まるごとコース」ではあの耳に残る歌の3ヶ所を穴埋めする。「ひとことコース」では、「浮いたお金で○○○」のように、最後のフレーズを考える。応募された曲は、スタジオミュージシャンが録音してホームページで公開。公開された作品は、アバターのような形で広場に集合しているようなページで見ることができて、そこで投票できるようにもなっています。つまり作る・投票するという参加型のキャンペーンというわけです。グランプリは賞金100万円。すごい。

新しいCMも山田孝之さん、本木雅弘さん、本上まなみさんの3人を起用して、それぞれ別の歌詞によるバリエーションで展開しています。Webのページで歌を聞くこともできるし、ストリーミングでCMを見ることもできる。理屈っぽく解説しちゃうと、消費者というのはいろんなライフスタイルや価値観があるようになってきているわけで、そのためにはCMもひとつという時代じゃないのかな、という感じです。マスとはいえ、CGMっぽい視点も入っているかもしれない。そもそも「替え歌グランプリ」のキャンペーンで何パターンもCMソングができるわけで、しかも作りながら、投票しながらその曲がますます印象に残る。考えてみるとすごいキャンペーンかもしれない。

ところで、替え歌というのは、なかなか簡単にできそうで、できないものです。お笑いのネタ的なセンスが必要です。同時に自虐的であれ、軽い攻撃であれ、シニカルな視点も必要。SNSで知り合ったある方はブログで替え歌を連発していましたが、すごい才能だ!と驚きました。笑わせていただきました。ここで紹介しちゃってもいいのですが、個人的に楽しんでいるので、ないしょにしておきます。

さて、このキャンペーンで思ったのですが、確かにミュージシャンを使っているから歌のクオリティは高いと思います。ただ、もし音声合成技術が進歩したら、リアルタイムでテキストで歌詞を入力して、ぽんと送信ボタンを押すとキャラクターが歌い出す、なんてこともできそうだと思いました。

以前にも紹介しましたが、BIGLOBEのウェブリシールの音声合成シールを使ってみました。これがあっという間にできて、テキストを入力すると(500文字までだったかと思います)、その場ですぐに読み上げ再生する。いま知人と協同で運営しているブログの紹介用に使っています。ロボット声、宇宙人声もできるほか、おすもうさんなんてキャラクターもある。なかなか面白い。と、同じような技術だと思うのですが、PENTAXの音声合成ソフトウェア「VOICE TEXT」のサイトでは文字を入力すると読み上げてくれます。なかなかリアルな音声です。200字程度ですが、いろいろと楽しむことができます。サンプル音声はかなりクリアなのですが、抑揚がちょっと変かも。

昨年5月のリリースなのでやや古めですが、富士通研究所でも音声合成技術の研究をされているようで、サンプルを聞き比べてみると、従来のものよりも格段とよくなっています。さらに関西弁などもあって面白い。この音声合成は、抑揚と感情をつけるのがなかなか難しいと思うのですが、アニモという会社のFineSpeech V2.1によるデモでは、「新しいメールが、届いています。」について、嬉しい、悲しい、怒った、冷たい、平常 という5パターンの視聴ができるようになっています。うーむ、しかし微妙な感じがする。

ぼくも趣味のDTMでVocaloid MEIKOというソフトウェアを活用しているのですが、ほんとうは歌わせるためのソフトウェアなのですが、音程をいじることで朗読っぽいものをさせたことがありました。有馬ゆえさんの「惑星」という詩を朗読させています。muzieというサイトで公開しているのですが、「★Vocaloid MEIKO使用」と記述してある曲では、部分的なものも含めてこのソフトウェアをトライしています。

Podcastingによる音声ブログというのは、ぼくはなかなか浸透しないような気もしています。というのは、ぼくも少年の頃に、DJに憧れて自分でテープを作っていたこともあるのですが、家族がいると恥ずかしいし、なかなかコツがつかみにくい。しかしながら、テキストのブログを読み上げる、というサービスはありそうな気がしました。インカム付きで、「そこ、とばして。次」などとオペレーションができるといいですね。

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■TEPCOひかりのキャンペーンサイト。最優秀賞は100万円ですよ?

http://www.kaeuta.jp/index.html

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2005年12月21日

宇宙人かもしれない。

このブログを再スタートしてから1ヶ月ほど経ちましたが、いちばん最初の日に谷川俊太郎さんの「コカコーラ・レッスン」を取り上げました。実は高校時代に彼の「二十億光年の孤独」にショックを受けて、それまで詩なんて暗くてつまらなくし自己満足の世界にすぎないだろう、と考えていたのですが一気に世界観が変わって関心を持ちました。そうして当時は同人誌をこつこつ作っていた新風舎の松崎義行氏とも知り合ったわけですが、ぼくの人生で世界観が変わった第1の岐路だったような気がします。第2の岐路というのは企画とマーケティングに出会った時期、そしていま第3の岐路としてブログがあるのですが。

ほっと!ぐらふの七井さんも以前ブログで「買い戻しキャンペーン。」として、過去に好きだったものをまた買い直しているということを書いていました。新しいものを追いかけるのも楽しいのですが、自分の好きだったものをもう一度振り返る、ということは大事ではないかと思っています。何度も繰り返し聴くことができるもの、年をとってもこれが好きだといえるものをみつけることによって、そのときの気持ちを再生することもできるし、自分とは何か、ということもわかる。ぼくにとっては谷川俊太郎さんの作品は、そんな原点にも位置するものです。

さて、谷川俊太郎さんがずっとぼくの心の師匠だったわけですが、実際にお会いしたのは御茶ノ水の丸善で「にじいろのさかな」のサイン会をやっていたときでした。偶然通りがかって、あっ谷川俊太郎さんだ、これは並ぶしかないでしょう、と本を購入してサインをしてもらったのですが、とにかく彼の周囲5メートルがまるで別の雰囲気に包まれているような、そんな印象がありました。それがつまり「詩人」というものなのでしょう。サインをいただきながら、ぼくはずっとあなたのファンでした、ということを言おうと思っていたんだけど、そんな言葉さえ失ってしまった。谷川さんは圧倒的に詩人でした。そして、もしかしたら神様かもしれない。いやひょっとすると宇宙人ではないか?と思いました。

「二十億光年の孤独」は17歳のときから書き溜めていた詩を21歳のときに発表した、という経緯があったかと思うのですが、その詩はすべて末尾に書かれた年月日が記してある。したがって、日付順に並べることができる。

という意味で、この詩集はブログ的である、ともいえます。だいたい散文詩というジャンルを無視した場合、文章を改行するとなんとなく詩っぽくなる。ぼくのようにベタで文章を書いていると、これはもう散文的なんですが、改行が多いブログはなんとなく詩の雰囲気を醸し出しているものです。

さて、「二十億光年の孤独」は、孤独といいながらも四畳半の孤独ではなくて、広い宇宙のなかにぽつんと置き忘れられたような孤独です。自分はどうしてここにぽつんといるんだろう、誰かがぼくを置き忘れちゃったんじゃないだろうか、いや、ほんとうにぼくがいる場所はここではないどこかではないだろうか、もしかしたら火星かも、のような惑星レベルのさびしさが表現されています。「かなしみ」という短い詩も、まさにそんな透明感のある孤独を書いていますが、どこか哲学的なのは、谷川さんの父親が哲学者だったから、ということもあるかもしれません。

「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」という詩集もあり、ぼくはかなり気に入っているのですが、その巻頭にある「芝生」という詩も宇宙人感覚にあふれています。ものすごく短い詩です。引用はしませんが、いつからかどこからか来て私は芝生に立っていた、というような言葉ではじまる。いったいあなたはなにものですか?という感覚がある。そして、やるべきことは細胞が記憶していた、だから幸せについても語ることができた、のように続く。細胞の記憶、というと遺伝子情報なのかもしれませんが、ふつうのひとは細胞の記憶から幸せについて語ったりしない。やはり、あなたはいったい?という印象です。

いつからかどこからか来て、と書いていて思い出す映画といえば、ケビン・スペイシーが出演している「K-PAX 光の旅人」です。異星人だと主張する彼は、精神病院に入れられてしまうのですが、科学者たちがずっとわからなかった星の位置を正確に計算したり、特別な能力をみせつつ病院のなかに生きる力をもたらして明るく変えていく。一方、ぼくはいったい何者だろう、という問いで思い出す映画といえば、有名なのでありきたりですが「ブレードランナー」でしょうか。最後にヴァンゲリスの音楽が流れるあたりで、そんな言葉がぐるぐると頭のなかを回り出します。

人間社会に生きていると悩みが多い。アンドロイドレベルであると、まだ人間と人造人間のあいだで悩むこともありますが、突き抜けて宇宙人になってしまえば悩みもないかもしれない。宇宙人になりたいものです。あっ、地球人も宇宙人か。

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■「二十億光年の孤独」は愛蔵版が出ているようです。ほしい。

4820540769二十億光年の孤独 (愛蔵版詩集シリーズ)
谷川 俊太郎
日本図書センター 2000-03-25

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2005年12月20日

成功者になること。

まず自分に対する戒めですが、俺様が、と奢っているとそこで成長が止まってしまうものです。他人を批判したところで、自分が変わっていなければ、少しも偉いことではない。批判や評論することで自己満足するひとたちも多いのですが(またそういうブログが人気があったりもしますが)、そんなものはただの傍観者に過ぎません。偉そうなこと言っているけど、じゃあいったいあなたは何をしたんですか?ということになる。

井のなかの蛙でいること、限られた信奉者にちやほやされることは気持ちがいい。でも、そこに安穏とすると、いつの間にか世のなかに取り残されてしまう。常に意識を外に向けておかなければいけない。内輪で評価されることはもちろんですが、外部のひとに評価される方が大事です。その外部のひと、というのは、仕事の世界であればお客様ということになる。ブログであれば検索などをして訪問いただいた方、趣味の音楽であればリンクを辿って5分なりの時間を費やして(ぼくはFTTH環境に変えたのでもう気にしていなかったのですが、4MBのファイルを落とすのは結構時間がかかる。プロの曲ならともかく、アマチュアの曲にそれだけの時間をかけてダウンロードいただくのは非常にありがたいことです)聴いていただいた方です。

という考え方をベースに、いまの自分から未来の自分に向けて、きちんとベクトルの強さを鍛えておくこと。揺らぎながらも、堅実に、誠実に、けれども大胆に、生きていきたいものです。

なぜこんな風に熱くなっているかというと、ここ数週間、セミナーなどを通して、すごいひとたちの話を聞く機会にたくさん恵まれました。できるひとというのは、やっぱりオーラが違う。他者をぐぐっとひきつける魅力がある。だからといって自分を比較して卑下するつもりはなくて、これまでの自分もよしとしましょう。よしとした上で、すばらしいものをどんどん吸収したい。気持ちは前向きです。というか前しか見ていません。

昨日は「デジタルコンテンツ2006」というセミナーに参加しました。年末の忙しい時期にセミナーに参加してばかりですが、その時間にやっておかなければならない仕事はそのまま残っているので(小人が夜中にこつこつ靴を作ってくれるように、企画書や分析報告書を作ってくれる小人がいるといいのに)、結局、自分の首をしめているような気もします。しかしながら、昨日は出てよかったという満足感がありました。

このセミナーでは、昨日の日記で取り上げさせていただいた、情報考学 Passion For The Futureのブログを書いている橋本大也さんがモデレーターをつとめて、百式の田口元さん、ビデオジャーナリストの神田敏晶さんなどがディスカッションをするというおいしい企画でした。

読売新聞の方からも、新聞とネットの融合というお話がありました。あらためてですが、新聞は読むべきだとぼくは感じました。学生の活字ばなれはどうも厳しい状況にあるようですが、やはり子供の頃の勉強って辛いけど、面白いことだけやっていたらバランスのいい力がつかないじゃないですか。そこでプロのジャーナリストが書いた文章を読むこと、という必要性を感じました。そのためには読ませる(一般のブロガーとはレベルがまったく違う)ジャーナリストも必要ですね。日本ではものすごく弱い部分のような気がしています。ある意味、鎖国状態のように、SNSのような仲間うちだけの日記で満足していることが多い。それがダメだとは言いませんが(というよりもSNS大好きなのですが。もう誰かの日記にコメントするのが楽しくてしょうがない)、一方で力のある文章を書ける次世代のブログジャーナリストが出てきてほしいものです。アルファブロガー2.0って感じでしょうか。日本を背負って経つアルファブロガーのようなひとたちがいてほしい。

橋本大也さんのお話では、映像メディアの視聴の変化について、データベース化されたあとで「いじる」ということが重要になってきた、という視点が面白かったです。確かに、そもそもデジタルではなくても最近家を掃除しているのですが、レイアウトを変更したり本棚の本を並べ替えたり、いじるのは楽しい。iPodに関しても、シャッフルモードでザッピングしたり、自分なりの選曲リストを作るのが面白い。

田口元さんのお話では「Blog Creative」という視点に注目しました。つまりマスメディアではなく、アルファブロガーが企業を代弁して、さらにブロガーを通じて消費者に伝えていく。ぼくは音楽制作を趣味としているので、YAMAHAのプレイヤーズ王国は知っていたのですが、その仕掛け人が田口さんであり、あらためて田口さんの背景にある考え方について知ることができました。かなり辛辣な言葉もありましたが、ブログマーケティングをやるべきではない企業として「すぐ囲い込みたがる」「決定に時間がかかる」「プロセスを理解していない」「リスクばかり重視する」というのは耳が痛い言葉でした。

神田敏晶さんのお話では、横軸に趣味と企業、縦軸にプロとアマチュアというマトリックスを作って、4つの象限それぞれが「アマチュアの趣味」「趣味を極めてプロになる」「アマチュアなんだけどお金を稼ぐ」「プロでお金を稼ぐ」ということになり、それぞれが成立したり移行する、という図式に興味を持ちました。アマチュアで稼ぐ方法は、アフィリエイトというのがわかりやすいのですが、たとえば映像や音楽などの作品をインディーズ的に売る、という方法がもっと出てきてもいいかもしれません。

セミナー終了後にみなさんと名刺交換をさせていただきました。ついでに「次のアルファブロガーは誰か」ということを、田口さんに聞いてみたのですが「それは、ぼくです」とのこと。ブログの学校なども考えられていたそうですが、学校として教えるよりも、カリスマとなるような成功者が表れることがいちばんの動機づけになるそうです。同様に神田さんからも、ビデオブログやPodcastingは普及するのか、そのためにはどうすればいいのかという質問をしてみたのですが「それでがっぽがっぽ儲けているひとが登場すること」という答えをいただきました。それにしてもテンガロンハットがこれほど似合うひとは日本にはいないのでは?

タマゴとニワトリ論的に陥ることにもなりそうですが、成功者になること、事例をつくること、が重要。子供に対する教育でもそうでしょう。子供は父親の背中をみて育つ。よい子供を育てるためには、子供に何かを言う前に、まず父親である自分が人生を誠実に生きる必要があります。

さて、それ以外に今日刺激を受けたことは、あとふたつあります。

ひとつめは、マーケティングディレクターとしてマーケティングに関する企画なども仕事にしているのですが、仕事関係で、すごい企画書をいただいた。まだまだぼくは企画に対する取り組みが甘いな、知識も含めて企画のスキルアップをすべきだな、と思いました。

ふたつめは、藤田麻衣子さんというインディーズで活動されている方からCDが届きました。シンプルなのですが、じーんと心に染みる。よいです。これからもいい曲を作ってほしい。ものすごく刺激になります。

あとは、ボーナスが出たっ!ということもあるのですが、なんとなくやるぞっ!という気持ちになっています。さて何をやるか。。。です。

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■藤田麻衣子さんの「恋に落ちて」が使われているFlashサイト。アマチュアの方の音楽をいろいろと聴いていて偶然にみつけたのですが、深夜にアクセスしてぼろぼろ泣きました。どんな分野であっても、いい仕事は、気持ちを前向きにさせてくれます。そしてCGM(消費者生成メディア)の最終形は、究極としてはメディアだけでなく消費者がプロダクト(製品)を創り出すことになるかもしれません。
※ページを開くと音楽が流れるのでご注意ください。
http://goboy.sakura.ne.jp/page003.html

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2005年12月19日

兆しに期待したい。

2005年もあと残すところわずかとなりました。忘年会なども多いようですが、あんなことあった、これからどうするというテーマでいろいろと語るのは楽しいものです。雑誌やブログなどでも、この一年間の総括と来年の予測というのが盛んになってきています。

ダ・ヴィンチの1月号では、「BOOK OF THE YEAR 2005」として5236人の本好きが選んだ今年のベスト本を紹介しています。第1位は「電車男」。うーん、納得できません。あえて言ってしまうと、ぼくはあまり好きじゃないんですよね、これ。読んでいないので批判は避けますが、社会現象ではあったとしてもブンガクじゃないと思うなあ。エンターテイメントであることは確かです。また、作家がひとりで何かを創り出すという時代ではなくなってきて、参加型や投稿型によるパブリッシングが出てきた、という意味では画期的だとは思っています。内容はともかくとして。ちなみに2位は、リリー・フランキーさんの「東京タワー」で、3位はコミックスの「NANA」。うちの奥さんが「NANA」は集めているので読んでいるのですが、ここまで話題になるとは思いませんでした。やはり映画化などもあって、これもまたNANA現象となったのでしょう。村上春樹さんの「東京奇譚集」は10位で、12位にはやはりブログから展開した「実録鬼嫁日記」が入っている。これも時代の流れというものなのでしょう。

橋本大也さんの情報考学Passion For The Futureは、その読書量に圧倒されつつ、いつも読んで考えさせられているのですが、忘年会議を実施、独断と偏見による今年のベスト10を発表されたとのこと。究極のサイトについて「自分のサイト」が10位に入っているのが面白いと思いました。やはりブログを書き始めると、自分の記事がいちばん面白い、と自画自賛モードに入りがちです。もちろん、他人のブログも読むのだけど、自分のブログであったりサイトに自信を持てるということは、それだけ熱心にも書いていることのあらわれだと思います。ところで、報告の第2弾にあるプレゼン資料は面白いですね。アルファブロガーの妻と、彼女といけない関係にある男性の会話が掲載されていますが、「ブロガーはみんな駄目よ。あんなの」と批判しつつ、「ブログを書き始めて1ヶ月で10%のひとが頭がおかしくなるんだって」「3月で38%」がおかしくなり、「60%の人はブログを書くのを止めるのよ。3ヶ月で」と続く。なんだかアメリカのショートコントのような感じです。でも、なんだか頷けるところもある。実際にこの会話のネタ(真実?)はブログのなかで書かれていることなんですね。読んでみたい。ちょっとこれから外出しなければならないので細かくチェックできていないのですが。

その資料にもありましたが、KIZASIというブログ検索エンジンが面白い。これはブログで取り上げられている言葉を、関連性のある語句とともに表示し、さらに24時間、1週間、1ヶ月という範囲でグラフ化してくれます。このグラフ化された画面が、マーケッターごころをくすぐってくれます。このグラフから連想したのは株価のチャートですが、言葉も株と同様、価値が出てくるのかもしれない。そして言葉の価値を上げるのは、ブロガーたちではないかと思います。

来年はどんな年になるのでしょう。きっとブログの動向などに、その芽があるんじゃないかと思っています。その兆しをつかむためには、アンテナとセンサーの感度を上げておく必要があります。

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■ブログ検索エンジンKIZASI。
http://kizasi.jp/

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2005年12月18日

限られたリソースで。

金曜日、学生時代の知人たちと飲んだのですが、学生の頃に戻ったようで、なかなか楽しい時間を過ごせました。細かいことは書きませんが、印象的だったのが「それぞれの生き方を確立しようとしている」ということでした。そして、「俺はこれはやらない。こういうことはしない」という、自分の生き方に合わないものは手を出さないようにすること、無駄な重荷を背負わないシンプルな生き方を標榜しているということです。もちろんシンプルになりきれなくて、いろいろと葛藤もあったりするのですが。

確かに学生の頃と比べたら、ぼくらも年を取りました。何かを背負う、ということは、精神的にも肉体的にもタフでなければならないわけで、やはり年老いていくと、足腰も弱ってくる。ただでさえ、仕事やら家庭やら、大変なものを背負っているから、若い頃であればともかく、これ以上何かを抱え込んだら、つぶれるな、という気持ちがあります。でも、いいんじゃないかな、と思いました。別に強くなる必要はない。弱くたっていい。いまのままで十分です。変わる必要はないし、変わるのであればそういう自然な流れがきっとくる。その流れに乗ればいい。

弱い自分を認めた上で、それでもしあわせであれば、どんなに成功してリッチな生活をしているふしあわせな強者よりも、ずっといい。下流という言葉も流行っていて、世の中という社会では、勝ち組、負け組み、上流、下流などのレッテルをつけるのが得意ですが、そんなことはどうでもいいんじゃないでしょうか。いま自分がしあわせであれば、それで十分。ふしあわせであるならば、それはしあわせになれる可能性を持っているということです。自信を持ちましょう。

背負えないというのは受動的ですが、背負わないというかたちにすると能動的になる。そして、選択するということは、逆に何かを切り捨てるということでもあります。切り捨てるためには勇気も要りますが、一度切り捨ててしまうと、とてもさわやかな気持ちになることがあります。生かされている、のではなく、ぼくらは生きている、わけで、つまりそれは自分の意思さえ持てば、どのような選択も可能であるということです。もちろんその選択によっては責任を負わなければならないこともあるし、厳しい世界が待っていることもありますが、誰かに操られてマリオネットのように生きるよりも、しがらみの糸を切ったほうが生きがいがある。

理想を求めすぎるときりがないですね。たとえば趣味のDTMでも、もっといいソフトウェアシンセがほしい、とカタログを読み始めると、そのスペックにあわせたPCもほしくなってくる。そうすると、別の機材もほしくなってきて・・・ときりがありません。でも、果たして現状で120%機能を活用しているかというと、そんなことはない。まだまだリソースを生かしきれていない。無料で手にいれることができる優れたソフトウェアシンセだってまだまだあるはずだし、スペック不足で時々落ちてしまうPCだけど、CPUの負荷を減らすためにSONARにはアーカイブの機能があり(ソフトウェアシンセの音をオーディオにバウンスしたあとでシンセ自体を外す機能)、これらを駆使すればもう少しよくなるはず。限られたリソースで最大限の効果を生み出そうとしたとき、そこに発想や工夫が生まれるわけで、確かに恵まれた環境にあればいいものができるかもしれないけど、ぼくは貧乏DTM打ち込ミストとして、いまある機能を使い倒してやろうと思っています。

さて、お酒を飲むということに関していうと、いままさに忘年会シーズンまっさかりですが、愚痴や自慢話を聞かされるような飲み会は、勘弁してほしいと思っています。お酒は美味しく飲みたいし、飲むのであれば創造的な会話をしたい。どうしようもなく出席しなければならないものはともかく、別に無理をして参加しなくてもいいんじゃないかと最近思うようになりました。そのことでどうこう言われるなら、どうこう言っちゃってください、という感じです。つきあいの悪い狭い人間だ、というなら、その通り、と言いたい。とってもナロウなやつなんです、ぼくは。

うんざりするような飲み会に参加するのであれば、そのための時間や費用は、自分を高めるための投資に使ったほうがいい。人生というリソースも無限にあるものではなく、限られたものです。限られたリソースは有効に使いたい。ただし、古い知人や友人たちと会うことや、まったりといろんなテーマで人生について考えるなどという飲み会は、全面的にウェルカムです。ぼくは基本的にはお酒が好きだし(弱くなっちゃったけど)、いろんな話を聞くのが大好きなので。

異業種交流会のようなものにしても、一時期は積極的に参加していたのですが、終わったあとでネットワークビジネスや年金対策、マンションの電話などがじゃんじゃんかかってくることがあり、うんざりしていました。ああ、そういうことか、じゃあ出席しなくていいや、という気持ちになりました。もちろんなかには新しいビジネスを考えているようなひともいるのですが、飲み会だけの交流会では、そうしたひとと出会う確立が非常に低い。勉強を主体としてセミナーなどをやった後に懇親会、というようなスタイルの交流会に参加したほうが、まだよいような気がします。

なんだか理屈っぽくなりましたが、きっとそれは学生時代の知人たちと会って、みんなと過ごした時間からパワーをもらったからでしょう。書いたことと反しますが、ぼくらは生きている、と同時に、誰かによって生かされてもいる。仕事ではお客様に、家庭では奥さんや子供たちに、そして知人や友人たちに。そのことには感謝したい気持ちでいっぱいです。

それにしても友人とタクシーで帰ったのですが、気持ち悪くなって友人の家の近くで下車。夜中の3時に1時間ほどかけて、とぼとぼと家まで歩いたのはきつかったです。まあ、それで健康になったのかもしれないけど。

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2005年12月17日

本棚からそのひとを知る。

ブログというのは、書き続けていると、そのひとの考え方がくっきりと浮かび上がってくるものです。よい部分も悪い部分もさらされるので注意が必要ですが、だからといってネガティブに考える必要もなくて、これをうまく活用すれば自己アピールにもなる。

はてなの近藤社長が「ブログで人材採用」ということを書かれていて、なるほどなあと思いました。最近は面接するひとたちがブログを書いていることが多く、「結果としてブログを書いている人の採用率がとても高い」とのこと。以下を引用しますが、これも納得できます。

ブログはインターネット上の人格みたいなもので、履歴書と言う実社会の人格を表す書類と同時に、ブログというインターネット社会の中での人格が無いと、なかなかその人を判断できないのではないかと気付いたのです。

よく適性検査や性格診断のテストで、同じ傾向の質問をしつこいほど何度も繰り返すものがありますね。一度は優等生っぽく回答したとしても、何度も繰り返されているうちにぽろっとそうではない自分が出てしまうことがある。きっと回答の「ぶれ」から性格を探るようになっているのではないでしょうか。そして、ブログも一度はきれいなことを書いたとしても、書き続けているうちに本性が出てしまう。文はひとなり、です。

もちろん人間なので、気持ちがぶれるのは当然ですが、あるテンションを保つことができると、書いている人格がリアルな自分にもフィードバックされるのではないか、とぼくは考えます。近藤社長は「ブログは履歴書」と表現されていますが、過去の履歴書であると同時に、未来の履歴書でもある。書くことによって自分を変えることができる。それが文章の力のような気がします。

だから学生さんを含めて若いひとたちには、もっとたくさんブログを書いてほしいし、書くことで自分をみつめてほしいです。そして、ネット系の企業であれば、システムを構築することはもちろん、器を作るだけではなくて、どうすれば書きたくなるか、どうやったらうまく書けるのか、ということについてリテラシー的な部分も含めて整備していくべきじゃないのかな、と思います。

ところで履歴書のイメージにも近いのですが、たとえばmixiのようなSNSでコミュニティに参加すると、コミュニティのアイコンがそのひとのページに表示されます。このアイコンだけざっとみても、ああ旅行が好きなんだな、とか、結構渋い好みだなあ、とか、そのひとの趣向性がわかる。これがわかってしまうのが嫌だから、あえてコミュニティに参加しないひともいるようです。SNSではなくても、アフィリエイトはもちろん、推薦した本や映画などからもそのひとのアンテナがどこに向っているかわかる。ぼくも記憶の引き出しのなかから本や映画を引っ張りだして、無理やりこじつけてブログに引用しているのですが、月別の一覧で日記を読むと、ああぼくってこういうものが好きだったのか、あるいはこういう作品と関わってきたのかとあらためて気づきます。

いつもコメントをいただいているかおるんさんは大学時代の知人ですが、ライターとしてのお仕事もされています。「かつまに。」という本を中心に活字に関してあらゆる角度から書くブログを展開しているのですが、児童文学についてのサブブログ「子供の本のひろば」も立ち上げたとのこと。「エルマーのぼうけん」や「きまぐれロボット」など、ああーこれ読んだ、という本が並んでいて、とても楽しい。子供に対する推薦だけではなくて、親に向けたコメントがあるところが秀逸です。どの本をチョイスするか、あるいはどう編集するか、というところに、かおるんさん独自の視点があって、これはいわばかおるんさんの「児童文学の本棚」だな、と思いました。8歳の長男にどんな本を読ませたらいいだろうと思っていて、どこかにおすすめ本サイトがないか、と探していたところだけに、参考になります。ちなみに児童書でいうと、ぼくは「かなしいライオン」が好きでした。まだあるのかな?この本。うーん、このタイトルでよかったのでしょうか。

昨日は、CNETブログで「情報化社会の航海図」を展開されている渡辺聡氏がモデレーターをつとめるブログとRSSに関するセミナーに参加したのですが、そのなかでブクログというサイトが紹介されていました。これは以前から知っていたのですが、あらためて「書斎」を公開するようなものだなと思うとともに、どんな本を並べるかで自分をアピールすることになると思いました。

CGM(Consumer Generated Media)ということが言われたことがありましたが、消費者が情報発信することによってブログがメディアになる、という考え方だと思います。簡単に言ってしまうと「これ、おすすめだよ」と信頼できる知人から勧められたものは買ってみたくなる。ただ、買う買わないはともかくとして、そのひとの考え方を知ることができるということで、ブログという本棚も面白い。そういえばiTunesで音楽を共有するときに、どんな音楽を選んでいるかということでそのひとの趣向がわかってしまうので慎重になるひとが増えている、ということを書いた記事も以前どこかで読みました。ファッションもそうかもしれない。

文章だけでなく、チョイスもひとなり、です。

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■ブクログのデモは、なかなか楽しい。思わず本を並べたくなる。
http://booklog.jp/tana.php?ac=zzz

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2005年12月15日

マクロとミクロのあいだで。

昨夜、小学三年生の息子に質問されました。

「億と無量大数の間の単位は何?」

どうやら学校で単位が流行っているらしい。彼の話といえばデュエルモンスターズとかムシキングの話題が多いのですが、最近はそうじゃないテーマというのも増えてきたようです。小学生っぽくていいなあ、と思います。以前にも「いちばん画数が多い漢字って何?」と聞かれてインターネットで調べたところ、「最も画数の多い漢字とは?」というページで84画の「おとど」などという漢字があってびっくりしました。これは、雲雲雲龍龍龍というすさまじい漢字なのですが、トリビア好きな息子もご満悦な様子。一方で、子供の好奇心から親としても、へえと学ぶことが多い。

今回の単位の質問も、インターネットで調べてみたところ、まず「情報の単位」というページをみつけました。ここにはコンピュータの情報の単位がまず書かれていて、次に小さな数を表す単位がある。ここで注目したのはiPodのネーミングにも使われた「ナノnano(n)]ですね。10の-9乗 つまり 0.000000001(10億分の1)とのこと。エレクトロニクスだけでなく、化粧品にもナノ技術が使われているので、技術者ではない普通の女性の消費者にも親しみが深いものになったかもしれません。

兆の上の単位としては、京(10の16乗)から極(10の48条)までは一語で、それ以降は3語になる。ここから先はプレミアム数字ですよ、という感じがします。「恒河沙(10の52乗)」「阿僧祇(10の56乗)」「那由他(10の60乗)」「不可思議(10の64乗)」「無量大数(10の68乗)」。10の68乗ってどんな数字だ?と思います。もう想像すらできない。ちょうどはてなのキーワードに無量大数があったので、引用すると「100,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000」とのこと。うーん、ゼロばかりです。それからあまり知らなかったのでが、1より小さい数にも名前があるんですね。「分(10の-1乗)」「厘(10の-2乗)」あたりはわかりやすいのですが、以下、「毛(10の-3乗)」「糸(10の-4乗)」を経て「塵(10の-9乗)」「埃(10の-10乗)」になる。毛や糸になって塵や埃なるのはわかりやすい。この辺りのこまかいものたちは、喘息の次男にとっては注意が必要です。ちなみに「ナノnano(n)]は「塵」に該当します。さらに細かくなると、「刹那(10の-18)」なんて言葉もある。ちょっと文学的です。

しっかり調べていないのだけど、仏教の思想らしい。なかなか趣き深いものがありました。

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■しかしながら、それよりも大きな数について、華厳経では述べられているようです。以下のページの最後の方にあるのですが、「可説不可説転(ふかせつふかせつてん)」は、10の37218383881977644441306597687849648128乗?とのこと。目がまわります。
http://www.sf.airnet.ne.jp/~ts/language/largenumber.html

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2005年12月14日

発明家スピリッツ。

少年の頃には、さまざまな夢があったのですが、そのひとつに「発明家になりたい」というのがありました。何を発明するんだ、と言われても少年ぼくは困ってしまったと思うのですが、とにかく白衣を着てメガネをかけて、フラスコとかビーカーから煙のもくもく出てくる液体をかざしながら、頭はぼさぼさなんだけど世の中があっと驚くような何かを創り出す、そんなひとに憧れていたものです。いわゆる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドクなわけです。内容はともかく、白衣が着たかったのかもしれません。となると、単なるコスプレイヤーかもしれないし、医者でもいいわけですが、とにかく医者嫌いだったので、痛そうなことをしない発明家ということになったのでしょう。目立ちたかっただけかもしれない。子供の発想なんてそんなものです。

B0026P1KL0バック・トゥ・ザ・フューチャー 【プレミアム・ベスト・コレクション1800円】 [DVD]
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その後、授業が算数から数学に変わったところですっかり挫折した少年ぼくは、消去法によってブンガクへの道を歩んでしまったのですが、技術者や開発者に対する憧れというのはいまでもあります。ASIMOやAIBOなどのロボットの話はやっぱり好きだし、ちょっと古いのですが、島津製作所の田中耕一さんの生き方には感銘するものがありました。しかしながら、研究者として生きるのも大変だと思います。特に企業のなかで研究をしていくには、いろいろと軋轢もある。職務発明に対する対価というのが、問題でもあります。青色ダイオードに関する訴訟なども記憶にあります。

本日も午前中、知的財産に関するセミナーに参加しましたが、今回は特許と商標に関するテーマでした。商標に関してはネーミングやブランディングの観点からかなり現在の仕事に近い部分もあるのですが、特許はあまり関係のない分野です。とはいえ、ビジネスモデル関連の事例で、ソフトウェアによるビジネスモデルを申請するときに、ハードウェア資源をからめないと「発明」とはならない、というお話は面白いものがありました。そもそもマイコン時代にはハードとソフトは一体化していたわけで、その時代の名残というか、いかにもお役所的な感じがします。また、特許権と著作権の比較も、アルゴリズムやサービスモデル自体まで保護する特許権に対して、プログラムだけを保護する著作権という分類がわかりやすかった。特許の申請には手続きには時間もコストもかかりそうなのですが、競合他社への牽制も含めて、大企業が知財に対しての取り組みを強化していくのは当然だろうという印象を受けました。とはいえ、ぼくは法務部ではないので、なんとも実感がないというか中途半端な気がしました。

商標の方のお話では「プラモデル」が商標というのが、へえと思いました。ということは正式にはプラモデル(TM)なんでしょうか。「セロテープ」「味の素」「ジッパー」「チキンラーメン」が商標というのはわかります。あと思い出したのですが確か「デジカメ」は三洋電機さんの商標だったかと思います。三洋電機さん以外が使うときには注意が必要です。

普通名称化すると商標としては登録できないようです。つまり、法務の担当者としては、辞書などに製品名が掲載されるときには注意が必要であるとのこと。これは微妙ですね。みんなに使われるぐらいに浸透した方が、企業としてもうれしいと思うのですが。

日本では認められていないようですが、海外ではキャッチコピーも商標登録できるところもあるとのこと。発明家にはなれないかもしれないけど発明に対する気持ちだけは持ちつつ、ちょっとしたひらめきを大事にしたいものです。

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■特許電子図書館のホームページ。あれこれ商標の検索をしてみると楽しい。
http://www.ipdl.ncipi.go.jp/homepg.ipdl

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2005年12月13日

直すよりも予防すること。

思いがけず子供が喘息で入院したので、ひととおり喘息関連のサイトなどをみているのですが、以前にも紹介したグラクソ・スミスクラインのサイトで"「発作を止める」のではなく「発作を出さない」方向へ"というキャッチコピーが印象に残りました。医療においては、病気になってから治療するのではなく、未然に病気を防ぐ医療が重視されつつあるということも聞いた覚えがあります。

確かに、病気になってしまってあわてたり悲しんでも遅い。けれども往々にして、そういうことが多いものです。なぜそういう後悔が起きるかというと、病気に至るまでにはいくつかの兆候があったはずですが、「まあいいか」と見過ごしていたことが要因としてある。つまり大事にならなければ、まだ大丈夫だろう、騒ぐことはないだろう、と軽視してしまうわけです。

うちの息子の件に関しても、10月に一度、夜中に苦しがったので救急車で運んだことがありました。そのときには、はっきり喘息と診断されたわけではないのですが、自宅に戻って、アレルギーの原因になるほこりに注意しなければいけないなあ、カーペットも取り替えるかな、などと考えていたのですが、そこでまた「まあいいか」と思ってしまった。点滴の針を刺されながら泣き叫ぶ子供の声を聞きながら、なぜあのときにもっと気をつけて、実際に行動に起こさなかったんだろうということを痛いほど反省しました。

話は変わりますが、みずほ証券がジェイコム株を誤発注した件が大きく報道されています。61万円の株を1株というところを61万株を1円で売りに出したというあり得ないようなミスですが、当初は270億円の損失といわれていましたが、それだけでは収拾できないようで400億円という報道もあります。一部では、1000億円ともいわれています。当初はみずほ証券の責任が問われていましたが、その後、東証自体の問題、そしてシステムに関与した富士通にも責任問題が波及しています。

まさかそんな発注があるとは想定していなかった、という発言もみられましたが、まさかも含めてどこまでシミュレーションできるか、ということがリスク管理では重要ですね。新規上場の銘柄にみられる特殊な状況だったことも要因だったようですが、大規模なシステムだけに何度もあらゆる状況を想定することが重要です。それはひとごとではなく、ぼくらの仕事に関してもいえることかもしれない。

コンピュータを全面的に信頼するのではなく、やはり人的なチェックは必要であるし、アラート(警告)やインターフェースの部分においても改良が必要かもしれません。東京新聞の「みずほ証券 株誤発注のウラ」という記事では端末上の警告を社員が無視してしまったのではないかという立教大学の芳賀教授のコメントを引用して、「米ボーイング社のジャンボジェット機では操縦席内の操作画面上での警告が三段階ある。一番危険な場合は、警報音とともに画面が赤く点滅して危険度を伝える仕組みだ。」と記事に書いています。このような根本的な解決が必要です。コンピュータは間違えないけれども、人間は必ずミスをするものです。人間が間違えた情報をコンピュータは正確に処理する。これが人間を抹殺するボタンを押してしまった、ということになるとまるでSFの世界ですが、笑えない社会になってしまったなと感じました。

ところでふとJR尼崎線の脱線事故を思い出してしまったのですが、マスコミとしてはこのミスを起こしたのが誰か?という関心は当然あるわけで、それを追求しそうな気もしています。しかし、辛いだろうなあ、この事故の当事者は。

まだ新入社員の頃、電話番号の誤植をしたことがあるのですが、しんどい経験でした。幸い大きなトラブルはなくて済んだのですが、ミスは起きるものとわかっていても、やっぱりしんどい。できればミスは起こしたくない。

あ、やっちゃった、まあいいか、では済まないことも多くあります。病気にしても、ミスにしても、起こってしまって反省するよりも、起きないように未然に防ぎたいものです。

■IT Proの「動かないコンピュータ・フォーラム(17)証券取引所で何が起きているのか」という記事。証券はもちろん、ライフラインに関わるシステムトラブルの場合、ぼくらの生活も脅かされるような気がします。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/OPINION/20051208/225907/

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2005年12月12日

玄関というより書斎へ。

百式のブログ(メールマガジン)はいつも海外の面白いサイトを紹介してくれるので楽しみにしているのですが、今日の記事「検索使い」には非常に興味深いものがありました。紹介されているのは、「turboscout」。海外の検索エンジンのポータルサイトです。複数の検索エンジンである言葉を横断して調べる場合には、画面上部の検索エンジン名をクリックしていくだけなので、とても簡単です。ありそうなサイトなのですが、このありそうでないところがアイディアの勝利という気がします。

しかしながら、検索というと、ぼくはほとんどGoogle一途で、ほかのサーチエンジンを使ったことがありません。ブログの場合は、テクノラティも使いますが、頻度としては低い。Ask.jpも面白そうだとは思ったのですが、いまひとつ使う気になれないのはなぜでしょう。ほとんどの場合、Googleでことが足りてしまう気がしています。たとえば、辞書だってそんなにたくさん必要ないですよね。もちろんライターや編集者など書くことのプロであれば広辞苑のような詳しいものと岩波の国語辞典のような携帯できるものを常備していることはあり得るとは思いますが。マーケティングのプロであれば、平行していくつか検索エンジンを使うべきかもしれませんが、ぼくはGoogleで十分。

そういえば、サイトのサムネイル(縮小したイメージ)を表示させるMARS FLAGという検索エンジンもありました。「見える!検索エンジン」というのがサービス名のショルダーに入っていますが、検索はテキストからイメージへ、という画期的な打ち出し方でした。それよりも、ぼくはサービス発表の場で真鍋かをりさんが支持していたので記憶に残っています。というプロモーションの打ち上げ方はうまいと思ったのですが、その後はどうなんでしょう。ブランドスイッチというか、検索エンジンの「乗り換え」というのも考えられそうですが、よほど何か特殊な機能に優れているか、あるいはニッチな分野に強いとか、差別化する必要がありそうです。

ポータルサイトという言葉がありました(いまでもあるのかもしれませんが)。エンターテイメントや健康など、さまざまなジャンルに分類されたコンテンツがあって、リンクなどが一画面だけで見渡すことができるものです。さまざまなサイトを見るための「玄関」なので、ポータルという名がついていたのですが、ブロードバンドの普及にしたがって、もう玄関はいいかな、という気がしています。

では何が必要かというと、書斎でしょうか。自分の必要なものを並べ替えたり、あまり使わないものは本棚にしまったり、あるいはゆっくりと趣味を楽しめる空間。と、書いてきてここでもやはりGoogleなのですが、パソコン上のデータを検索できるGoogleデスクトップはぼくにはもはや必需品となっています。ソフトウェアも、まずGoogleデスクトップで文書を検索した後に起動することが多い。会社ではサイドバーも立ち上げているのですが、ちょっと重いものの、ニュースに関してはRSSリーダーよりもこちらでチェックすることが多くなりました。

百式の記事の最後は「次世代のメディアは検索エンジンであることは間違いない。」で結ばれています。同感です。ただし、それは現在の検索エンジンにはない何かがあってこそ、次世代のメディアになり得るのではないでしょうか。

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■百式の記事からturboscout。百式の田口元氏はアルファブロガーのひとりでもありますが、一日一社、海外のドットコムサイトの「発想」を紹介し続けるというのは、ほんとうにすごい。
http://www.100shiki.com/archives/2005/12/_turboscoutcom.html

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2005年12月11日

音声合成がひらく未来。

田舎で母はひとり暮らしをしているのだけれど、冷蔵庫とおしゃべりをしているらしい。と、いっても冷蔵庫にぶつぶつ話しかけているわけではなくて、音声チップによるガイダンス機能のようなものがついていて、たとえばドアが開いていると「ドアガアイテイマス」と音声で知らせてくれる。そこで「はいはい、すみませんね。いま閉めますからね」のように対話をしているとのことです。ちょっと寂しい気もするけれども。

人間の声で対話する機械としては、留守番電話がいちばん古いような気がします。デジタルカメラにも音声ガイダンスの機能を装備したものがあったかもしれません。家電がみんなお話するようになると、部屋のなかは騒々しいし、逆に困惑しそうな気もするのですが、この音声合成の技術について個人的には関心があります。

そもそもこの音声合成はそれほど遠いものではなくて、WindowsXPには標準で搭載されています。コントロールパネルを開いて、「音声認識」というアイコンを開き、音声認識のプロパティで音声合成のタブを選択すると、テキスト読み上げの機能を試すことができます。日本語ではLH KenjiとLH Naokoという2種類が用意されています。ケンジとナオコって誰だ、という気がするのですが。

最近、自分のブログに追加機能のような形でペットを飼ったり、いろんなニュースを表示させたりしているひともいるのですが、BIGLOBEには「音声合成シール」というのがありました。これは登録したメッセージを読み上げてくれるものです。まだ使っていないのですが、ちょっと面白そう。Podcastingなどもありだとは思うのですが、そこまでやらなくても、ホームページのBGMを流すように音声で話しかけるというのも面白い試みです。

ぼく自身は、趣味のDTM(パソコンで音楽を創ること)で、Vocaloid Meikoというソフトウェアを使っているのですが、これは現実に存在する拝郷メイコさんという歌手の声をもとに、合成する歌うソフトウェアで、パラメータをいじっているとかなりリアルな声になる。いまひとつコツをつかみきれいないのですが、なかなか奥の深いソフトウェアです。実は11月中にほとんど完成していたのですが、クリスマス向けの曲を作りました。今週の中ごろにはmuzieで公開する予定のこの曲でも部分的にVocaloid Meikoを使っています。

各社の音声合成の取り組みを比較しようと思ったのですが、別の機会にします。

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■ウェブリシール。たぶん合成する声からデザインしたキャラクターだと思うのですが、もうちょっと普通のキャラがあってもいいような気もします。くちびるだけというのはなまめかしいんだけど、どうなんだろう。
http://webryseal.biglobe.ne.jp/sealcatalog.html

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2005年12月10日

球体のなかから。

健康がいちばん大事である、ということをあたらめて感じています。肉体的にも現在いっぱいいっぱいなので、どうしても思考も狭まりがちです。飛躍した考え方ができません。以前にも書きましたが、やはり身体と文体には何か関連性があるのかもしれない。とにかく自分の周囲3メートル以上には思考が広がっていかない感じです。その周囲3メートルの球体のなかに閉じこもっているわけですが、これは擬似的には卵の状態なわけで、そこから翼の生えた何かが生まれてくれるといいんだけど、と期待もしています。と、こういう抽象的な表現自体が、具合の悪い証拠です。やれやれ。

球体に閉じこもりながら、偏差値教育の弊害というか、どうしても加点にしても減点にしても得点を気にしたり、相対評価が気になるのですが、よのなかにおける位置を確認したところで、それでしあわせなのかな?という根本的な疑問をぼんやりと感じました。他人と比べてたとえば優れていたとしても、自分の心のなかで納得がいかなければ不幸せですよね。ということを書いていたら、村上春樹さんの「東京奇譚集」の最後の作品「品川猿」を思い出したのですが、床にまで広がっている自室の本の山から、その一冊を探し出す気力がありません。猿が名前を奪うことによって自分の名を喪失してしまう主人公のお話ですが、そのきっかけとなったのは主人公が学生の頃に暮らしていた寮のものすごくきれいな友達だったような気がします。その友達は見るからに誰よりも優れているようなのに、嫉妬心がある。そういう状態は見かけにかかわらず不幸だと思います。というのも、たえず誰かと自分を比較して心の均衡を崩しているからです。

知識などに関しても、それ自身を楽しむ純粋な気持ちで蓄積していけばいいのですが、他人に披露*1してやろう、アクセス数を稼いでやろう、ちょっと儲けたりもしたい、というヨコシマな気持ちが入ると途端に不幸になることもある。無心であることがいちばんです。

数日前、ココログでブログを展開している眞鍋かをりさんの「眞鍋かをりのココだけの話」を買ってしまいました。ココログブックスです。ブログをみてりゃいいじゃないか、ということもあるかもしれませんが、やはり本となってまとまって読めるのはうれしい。眞鍋さんの文章はほんとうに面白い。読んでいてしあわせな気持ちになります。それは出しすぎというぐらい素を出していることもありますが、ネガティブな発想がないことと、自分が面白いと思う世界をとことん追求しいているからでしょう。巻末には「読まれるための10ヶ条」があり、これもなかなか頷けるものです。

さて。退院した次男はしきりに画用紙に○を書いていました。○が重なるとアンパンマンの顔にもなる。もちろんぎざぎざな図形も描くのだけれど、どちらかというと今日の彼は○な気分だったようです。

尖っていたい、と思っていたこともあるのですが、三角錐や立方体な気持ちでいると、融通が利かないことも多くあります。四角四面なスクウェアな感情では、角が立つわけです。まあるく生きてみるのもいいかもしれない。

球体というキーワードでは、小沢健二さんの「球体の奏でる音楽」というアルバムがあったことを思い出しました。とりとめがありませんが。

+++++

■「球体の奏でる音楽」のジャケットは、思いっきりベン・ワット(EBTG:Everything But The Girlのギター弾いているひと)の「ノースマリン・ドライブ」っぽいですね。あらためて。

4103534184東京奇譚集
新潮社 2005-09-15

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4901873512眞鍋かをりのココだけの話 (ココログブックス)
インフォバーン 2005-08-27

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B00005GLT9球体の奏でる音楽
小沢健二
EMIミュージック・ジャパン 1996-10-16

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*1:この披露という言葉、書いたときには疲労となっていました。お疲れさまです、自分。

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2005年12月 9日

なんにもないのがいい。

2週間の入院といわれていた息子が、あっけなく1週間で退院となりました。ほっとしたというよりも、安心のあまり疲れが一気に押し寄せてきた感じです。ぼくの体調に関しては若干の不安があるものの、新しい生活の規律を作り出したい気持ちが強まっているとともに、自分にとってマイナス要因になるものたちからは撤退する決意を決めました。悪習慣はもちろん、日常の生活に関するさまざまなことに関しても。

ところで、病室から外に出た2歳の次男は食べるものすべてが美味しいらしく、ものすごく食べまくっている。うどん屋に行ったのですが、子供用の取り皿で4杯をたいらげながら、「なんにもないのがいい」としきりに繰り返していた。素うどんがいい、と言っているのだろうか。意味不明です。

生きていると、病気はもちろん、いろんな厄介を背負い込みがちですが、一度不要なものを捨て去ってしまって「なんにもない」シンプルな状態からリセットをかけて進むのもいいかもしれません。特にぼくはどうでもいいようなものを背負い込みすぎる。自業自得ではあるのですが、もっといい加減でいい。知識やノウハウや資格やプライドや、いろんなものが重くのしかかってくるものですが、一度その重い荷物をおろしてしまってもいい。

次男のつぶやきは、ときどきぼくをはっとさせます。

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2005年12月 8日

想像してごらん。

12月8日というと、へフナーのバイオリンベースを持っているぼくは、9.11と同じぐらい大きなインパクトを感じます。ジョン・レノンの命日だからです。

しかしながら、体調不調のあまり舌先および唇に大きな口内炎までこしらえてしまったぼくは、思考もうつろな状態で、いま生きていくのにせいいっぱいです。というのは、言いすぎですが、ふと今日が何日で何曜日であるかさえ、忘れていました。

正直なところ、少年の頃のぼくは、シニカルで突拍子もないことをはじめるカリスマのジョンよりも、音楽的な才能が豊かなポールの方が好きでした。でも、ミュージシャンであるとともに、よきパパでもあったジョンの生き方は、いろいろなことを考えさせてくれます。そんな風にぼくもなりたい。ジョン・レノンは亡くなった当時40歳。あれからもう25年が経つとのこと。

天国もないし、地獄もない。国境も宗教もない。飢えも貧困も(下流も)ない。夢をみることで、そういう世界がかなうと、「イマジン」で歌っています。そういえば同時多発テロの犠牲になったひとびとの追悼で流れていて、ブームになった曲でもありました。

穏やかで、何も特別なことがないけれども、落ち着いた日々のことを静かに想像してみることにします。すべてのひとびとが健やかにすごせますように。

B000VZE1FEイマジン(紙ジャケット仕様)
ジョン・レノン
EMI MUSIC JAPAN(TO)(M) 2007-11-28

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2005年12月 7日

波にのるまで。

波があるとします。概念的な波なんですが(なんでしょうそれは)、わかりにくいので海の波を想像してください。

波に対して、常に固定した位置にあると、波が高くなったときには低い位置になり、波が低くなったときには自分は高い位置になります。したがって浮き沈みの変動が大きい。ところが波の上に浮いていれば、波が高いときには自分も高く、低いときには自分も低くなります。波に対して浮き沈みの変動は小さい。

数学的に説明したいのだけど、お恥ずかしいのですが、数学の知識がないので無理です。そこで文学的な解説を加えると、夏目漱石の「草枕」の冒頭で、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とありますが、住みにくいよのなかを住みやすくするには、うまく「波にのる」ことではないかと考えました。変化に対してしなやかに身を任せることが大事である、と。ある論文で触れられていますが、草枕に登場する女性が「那美さん」であることも、ある符号かもしれません。

IT業界としても、個人的にも、大きな変化の時代にあります。この変化に適応していくのは結構しんどいものですが、波を受けながらも、どこか心の片隅で波に持っていかれることを拒んだり恐れているから疲れるのかもしれません。あるいはちいさな波を拡大解釈して、おおきなアクションを起こす。けれども大きな波ではないから苛立つ。まだ乗るべき波ではなければ見過ごすのもひとつの手です。かといって、もう二度と来ないような波であれば、失ったチャンスは大きい。

絶対的なものさしがあれば、その波の大きさを測ることができそうですが、実は個々によってものさしの目盛りが違う。したがってぼくにとって大きな波であっても、誰かほかのひとには静かな波かもしれない。逆にぼくが見過ごしそうなところで、大きな波がまさに崩れそうになっているかもしれない。だから波にのるのはとても難しい。かつてインターネットでさまざまなサイトを見て歩くことを、ネットサーフィンと呼んでいたことがありましたが(遠い昔のようです)、さらにうまく波にのる技術が求められている気がします。

ところで、波、サーフィンといえば、ビーチボーイズを思い出します。暦で大雪を過ぎた時期にサーフィンの話題というのも思いっきり季節はずれですが、ビーチボーイズのメロディメイカーでありベーシストであったブライアン・ウィルソンは、実はサーフィンなんて大嫌いで、ベットルームに砂を持ち込んで砂遊びをしていた、ちょっと心が病んでいた、というようなエピソードも聞いた覚えがあります。自叙伝を読んで衝撃を受けたのはかなり前のことであり、うろ覚えなので正確ではありませんが、しかしそんな彼だからこそ、繊細なポップスを書くことができる。痛みを知っているからこそ透明で明るい曲を書ける。ビーチボーイズといえば「ペット・サウンズ」とタイムカプセルのようなアルバム「スマイル」が有名ですが、ぼくとしては1988年に発表されたブライアン・ウィルソンのソロアルバムに入っている「Melt Away」が名曲だと思います。世界に取り残された感じ、波に乗れなかった気持ちを痛いほどに感じさせてくれるガラスのようなポップスです。

さて、ぼくはといえば、もう少し波をみているつもりです。突堤の先端に腰掛けながら。

+++++

■「草枕」とブライアン・ウィルソンのソロアルバム。ものすごーく個人的な印象ですが、こりすぎていて全部を読む(聞く)のはしんどい、一部だけならすごくいい表現があるんだけど、という点で似ている気がします。

4101010099草枕 (新潮文庫)
新潮社 1968-03

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B00004WH69Brian Wilson
Brian Wilson
Warner Bros. 2000-09-11

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2005年12月 6日

痛みは何のためにあるのか。

喘息で入院した息子(次男2歳)は、どうやら2週間ぐらいかかりそうです。やっと点滴の針が抜けたのですが、まだ酸素が足りない。もういい加減に家へ返してくれませんか、といいたくなるのですが、医師としてはこの状態で返すわけにはいかない、とのこと。家に残されている長男もすっかりしおしおになってしまいました。遊び相手がいないので、張り合いがないようです。また、父親の前では萎縮する子なので、母親には「もうお弁当は嫌だ」とこぼしているようです。田舎のおばあちゃんに支援に来てもらったので、食生活に関してはちょっとは改善されることでしょう。

はじめての入院なので動揺もしたり、悲しみも感じたのですが、客観的には病棟のなかでいちばん元気なのはうちの次男だと思います(そしていちばん泣き虫で甘えん坊なのも)。周囲を見渡すと、力もなくテレビをただ一日中見ている子供や、立ち上がってもいい時期なのに寝たままの赤ちゃんなどが入院しています。けれども、その子供たちのママさんは、実は20代の若いママさんが多いけれど、付き添いで看病しているのに、ほんとうに明るい。病院の近辺に部屋を借りて、もう3ヶ月も看病している方もいて頭がさがります。もちろんときには先日の日記に書いたように静かに泣くようなことや、きっと見えないところでは悲しみに暮れているのかもしれないけれど、前向きに看病している姿を見ていると、母は強い、ほんとうに偉い、すばらしい、と思う。うちなんかはまだ軽い入院であり、そんなことでじたばた騒ぐべきではない、と自粛しました。

ちょうど発達未遂の18歳の娘を軟禁した40歳の母親の事件が大きく報道されていますが、つらいかもしれないけれど、子供を信じて、前向きに育てていってほしいと願うばかりです。幼児虐待の事件も多いけれど、よのなかの親たちはそんな親ばかりではない。子育ては誉められることの少ない過酷な仕事だと思うのですが、明るく頑張っている親たちもいる。どうすればそういう悲しい事件を減らすことができるのか、考え込んでしまいました。

喘息に関して言うと、親戚など周囲に喘息の人間がいなかったため、喘息に対する理解がほとんどありませんでした。10月に次男が苦しがって救急車を呼んだときには、一度は腸重積といわれた。これも知らない言葉で、あわててインターネットで検索したのだけれど、腸のなかに腸が入り込むような症状で時間が経つと危険であるとのこと。そこで青くなって、再び病院に行ったのですが、そのときには喘息であると診断されました。しかし、いま喘息に対する知識があるかというとあまりない。お医者さんにお願いするのはもちろんですが、喘息とは何かということを、父親としてもう少し理解していこうと思っています。

ところで、喘息の映画として思い出したのは「モーターサイクル・ダイアリーズ」です。これは若き日のチェ・ゲバラの無鉄砲な行動を描く映画で、友人ふたりとおんぼろなバイクに乗って旅に出る。ところが彼は喘息もちで、ときどき発作が起こって、苦しさにのたうちまわりながら携帯用の吸入器で発作を止めようとする。自由とは何か、解放とは何か、ということを考え続けていて、アマゾン河に飛び込んで向い岸まで泳ぐなんてこともする。けれどもその熱い気持ちには打たれるものがありました。

B000803C8Oモーターサイクル・ダイアリーズ 通常版 [DVD]
ホセ・リベラ
アミューズソフトエンタテインメント 2005-05-27

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幼い頃に喘息もちだったけれど、その苦しさを乗り越えて偉大な人物になったひとも多いようです。ある方から教えていただいたのですが、スケートの清水宏保選手も喘息だったようで、グラクソ・スミスクラインのサイトで喘息の体験談を語っています。

点滴の針を打つときの母親を呼ぶ悲痛な声と、泣き喚いて変わってしまった息子の顔が忘られません。けれども、その苦しさや痛みを乗り越えて、偉大な人物になってほしいとぼくは思います。きっといまの苦しさや痛みはそのときのためにあるのだと信じていたい。

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■喘息に関する啓蒙サイト。情報ありがとうございました。
http://zensoku.jp/index.html

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2005年12月 5日

教訓。

昨日の深夜に吐き気がしてお腹の調子が悪く、とはいえ明日から病院やら仕事やら大変だから負けるか、と思っていたのですが、朝起きるとくらくらしました。関節が痛くて、お腹の具合もひどい。寒気もする。熱を測ってみたところ38.2度。病棟には、かなり強いウィルス性の胃腸炎を患っている子供たちもいたようで、そいつをもらってしまったらしい。そんなわけで、あっさりと風邪に負けました。

朝いちばんで近所の病院に直行し、勢い余って閉まっている時間だったので引き返し、再度病院に行ったのですが(それでも番号札は9番)、待っている時間がほんとうに辛かった。診察していただいて、もらった6種類の薬を飲み干して、とにかく横になっていたら何とか起き上がることができるようになりました。そんなわけで入院している次男のところにも行けませんでした。

思うに、日曜日に食べた寿司が悪かったような気もします。そんなわけで教訓。

- 疲れているときにナマモノは食べない。

明日は復活できますように。

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2005年12月 4日

プロの意識。

入院している次男の病院を行ったり来たりで一日が終わりました。子供ばかりの病院で、4人の相部屋なのですが、ほかの子供をみているとほんとうに大変そうです。まだ、うちの息子のほうが元気がある。泣き喚いたり、暴れたり、という意味でも元気。ぐったりと横たわっていて、テレビだけをみている子供の姿は、みているだけでも辛い。頑張ってほしいな、と思います。そして、みんなが健やかに過ごせるといいのに、と願うばかりです。

今日、ぼくが付き添いで次男とムシキングごっこをしていると、斜め前のベッドで赤ちゃんに付き添っているママさんが、静かに泣いていました。ハンカチでぽろぽろ落ちてくる涙を押さえている。その少し前、年配の看護婦さんから何か言われていたようなのですが、それで傷ついたらしい。その後、またその看護婦さんがやってきて「あら、強く言い過ぎたかしら、ごめんね。何か言いたいことがあったら言って頂戴」ということを言ったのですが、そのママさんは「忙しいのはわかるのですが、そんなにぞんざいに子供を扱わなくてもいいじゃないですか。私だってできれば自分でみてやりたいと思っているのを、こうして預けているわけですし」とのこと。赤ちゃんはまだ首が座らない時期で、ほんとうに弱々しい。その気持ちはすごくわかりました。

ぼくも10月に喘息で次男を救急車にのせてやってきたときには、年配の(かなりキャリアと思われる)看護婦さんの対応に疑問と不満を感じたものです。規則は規則としてわかる。そして、忙しいのもわかるし、効率的に仕事を片付けなければならないのもわかる。たくさんの子供たちの泣き声を一日中聞いて、時には深夜まで付き添わなければならないのは、ハードなお仕事です。それも十分に理解しています。

とはいえ、やはりひとを対象とした仕事である、ということは認識していただけると、非常に信頼もできるし有難いものです。病気の子供たちは、故障した機械じゃない。それぞれが痛みを抱えているし、感情もある。そして病を患っている子供のことを、心配していない親なんていません。もしかすると看護婦としてのキャリアを積むと、患者さんは人間であるという意識も薄れてくるのかもしれませんが、だからこそプロの意識を持って、子供の、そして親たちの気持ちを汲んでほしい。その意識がない看護婦さんはキャリアを積んでいてもプロではない。

たとえば、言い方にしても、患者さんとその家族の気持ちを察して声をかけるのと、仕事と割り切って声をかけるのでは全然違うものになります。特に、もしぼくらが健康であれば、どれだけ強い言葉を言われてもはねかえすことができるかもしれませんが、弱っているときには、ほんのささいなひとことで傷ついてしまうものです。

逆に若い看護婦さんの方が(母親たちが自分の年齢にも近いせいか)ものすごく親身に対応してくれるようです。ほんとうにそんな対応をしていただける看護婦さんは、それこそ天使にみえる。

ひとりでも、むかっとする看護婦さんがいると、その病院全体に対する不満を感じてしまうのも実感としてあります。とはいえ、実はかなり個人の意識の問題であり、個の対応を全体でとらえてしまうのも問題かもしれない。

プロの意識というのは、どんなに些細なものであっても、会社全体にも影響を及ぼすものである、ということはぼく自身も認識しなければ。それはスキルよりも、心の問題でもあります。

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2005年12月 2日

書くことについて、あらためて。

はてなのブログを再開してもうすぐ1ヶ月になるのですが、毎日つづけること、1時間で書き上げることを目標にしています。とはいえ、1時間では足りない内容のときもあります。文章量が多いから時間がかかっているとは言えなくて、実は文章量が多いときのほうが時間は短い。のっているからです。逆に、文章量が少ない日のほうが、うーん書けないぞ、どうしようと悩んでいて、書き上げるまでに長い時間がかかっています。

今週は焦って書きすぎて、誤字が多すぎ、でした。いろいろと原因はあるのですが、言い訳はやめましょう。地味なブログとはいえ、一日150~200PVぐらい見ていただいているわけなので、もうちょっとプロの意識を持って書かねば、と反省。どんなによい内容であっても、ひとつ誤字があるだけで、すべてをだいなしにすることもあります。文章全体の信頼性を損ねるわけです。もちろん、個人の備忘録的な内容ではあるのですが、読んでいただいている方のことを考えるのは、とても重要です。そうではないと自己満足でしかないですよね。プロの書き手ではないにしても、志を高くもてるかどうかということが文章力をつけるためには大事なことかもしれません。

このブログを書き始めた最初のコンセプトは、まず「考える力を強化すること」でした。それはまさにマーケティングや企画という自分の仕事に直接関わることでもあり、一方で、これから息子たちにも教えていきたいことでもあります。8歳の長男に対して、中学の受験を選択させるかどうかは現在の悩みどころではあるのですが、受験をしなくても、自分で考えることができるような大人に育てたい。最近、公立の中高一貫校が注目を集めているようですが、そこでも「考える力」を重視しているようです。もちろん暗記や計算の力も大事なのですが、いろんなものを感じ取り、感じとったものから自分の考えを組み立てられること、組み立てた考えをきちんと主張したり、書くことができること、という力を息子につけてほしい。しかし、難しいですね。父であるぼくにもできていないことなのです。

話すことと書くことの大きな違いは、書いたものは記録として残ること(話したことは空中に消えていく)、書く行為は書きながら全体を俯瞰して編集を加えられること(話したことは消えていくので、ある意味リニア-線的であり、言い直すことでしか修正ができない)です。思考というのは、どちらかというと線的・時間的だと思うのですが(同時にふたつのことは考えられません。考えているように思えるのは、瞬時に切り替えているから)、面的・空間的に展開するのが書く行為である、と考えます。だからこそ雑多な思考が整理されるわけです。

広告業界のひとにはバイブルであるジャック・フォスターやジェームス・W・ヤングなどの本にあるように、「アイディアは組み合わせである」とぼくも考えます。したがって、書籍×映画×音楽のようにジャンルを横断して、さらに仕事×家庭×趣味の世界を横断することによって「思考を立体的に再構築していくこと」が、このブログの目的でもあります。

最終的にはぼくはインターネット以外に何かの形で、自分の書いたものを残していきたいと思うのですが、それで儲けるということはぜんぜん考えていない。たぶん儲かるような内容は書けません。音楽にしてもそうです。ただ、自分が21世紀のはじまりに、ここにいた、ここで考えて稚拙だけれども自分の世界を創ってきた、という楔(クサビ)を残しておきたい。

タイムマシンのようなものかもしれません。いつか、ふたりの息子たちがぼくと同じ年齢になったとき、ぼくの書いたものをひもといて、ふーんオヤジはこんなこと考えていたのか、ということを知ってほしい。同じ年齢で対話できればいいのですが、それは映画や小説の世界でなければ無理ですよね。まあ、大人になった息子たちには、ぼくの書いたものは、ぽいっとか捨てられてしまうかもしれませんが。それはそれでよしとしましょう。

書くことは、タイムマシンに現在の自分を埋めることである、とちょっと言ってみたりして。

+++++

■発想法に関するバイブル。薄い本でさくっと読めるのですが、書かれた内容はかなり本質に迫っています。

4484881047アイデアのつくり方
阪急コミュニケーションズ 1988-04-08

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4484031019アイデアのヒント
青島 淑子
阪急コミュニケーションズ 2003-01-10

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4484021021アイデアマンのつくり方
Jack Foster
阪急コミュニケーションズ 2002-09

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2005年12月 1日

特別ではない一日でも。

12月になりました。今年も残すところ、あと1ヶ月あまりです。なんとなく急に身近に冬を感じてしまったのは、ぼくだけでしょうか。毎日の繰り返し、という意味では、11月29日と11月30日の間、11月30日と12月1日の間は同じといえなくもないのですが(そんなこといえば、大晦日と元日も同じなんですが)、カレンダーをばりっと破るように気持ちが変わるときがあります。一方で変わらないときもある。なぜでしょう。

とにかく、12月1日になって、何かのスイッチが押されたような、そんな感じです。あるブログで銀杏の葉が散っている、という表現を読んだところ、急に黄色く色づいている銀杏の葉が目に飛び込んでくるようになりました。とつぜん出現した銀杏にぼくは驚いたのですが、もちろん急に街路樹が色づいたわけではなく、少しずつ変わっていたはずです。けれども見えていなかった。それが、意識することによりきちんと紅葉を見ることができるようになった。

物事が繰り返されると、ぼくらの認識も次第に鈍っていくようです。だから刺激的なことや、大きなイベントを求めるようになるのですが、実はいたずらに大きな刺激を求めるのではなくて、ぼくらのセンサーの感度をあげてあげると、些細だけれども何気ない日々の大切なこととか、ちょっとした変化というのをとらえられるようになる。何も特別なことがない、何も起こらない毎日、というのを大切にしたい気がしています。

映画では、柴崎友香さんの原作で、行定勲監督による「きょうのできごと」という作品があります。これはほんとうに学生が集まって飲み明かして帰る、というただそれだけの物語です。途中に、酔っ払って髪の毛を切って失敗する、とか、浜辺に打ち上げられたクジラを見にいく、とか、短いエピソードが挿入されるのですが、人が殺されたり、エイリアンが円盤にのってやってくる、というような展開はない。淡々としていて、エンターテイメントを求めるようなひとには退屈な映画かもしれませんが、ぼくはなにかものすごく懐かしい気がしました。学生時代って、まさにそんな感じでした。まったり感が永遠につづくような。

小説としては、保坂和志さんの小説がそういう感じです。ぼくは「季節の記憶」の続編である「もうひとつの季節」の方から彼の作品を読みはじめてしまったのですが、鎌倉に住む息子とふたりぐらし(正確に言うと猫もいる)の主人公が、とにかくまったりと毎日を過ごしていく。何も起こらないのだけど、その空気感というか世界観というか浮遊感というか、ほわほわな感じが大好きで、「季節の記憶」を読んだときには、最後で「もう終わっちゃうんだろうか?」とものすごく名残り惜しい気持ちになったものです。物語のなかで、友人からあるビデオが送られてくるのだけど、その映像もとにかく日常の断片を詰め合わせたような映像だったというエピソードで、その箇所を読んでいたときに、どういうわけか泣けてきました。一時期、保坂さんの作品ばかりを読み漁っていたことがあります。

趣味の分野のDTM(デスクトップミュージック)的な用語でいうと、コンプレッサー/リミッターという機能があります。過剰に入力された音を抑えて圧縮したり、ちいさな音を大きくしたりして音の全体像を整える機能ですが、あんまり使いすぎると、のっぺりした音になる。自然な感じがなくなる。音楽を作っていて、どうにも音圧があがらなくて、その使い方が課題でもあるのですが、あまりコンプレッサーをかけた音は好きではない。もちろん、他のひとの作品を聴いていると、きちんと音圧のある曲は派手だし、かっこいいので、こういう音にしたいなあというのはあるのですが、効果をかけすぎると不自然になる。

やっぱり自然体がいい、ということでしょうか。センサーの感度をあげて、季節の変化をしっかりとらえつつ、とりたてて何も特別なことのない毎日を楽しむことにします。

もうすぐクリスマスです。

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■保坂和志さんのサイト。創作ノートなどのコンテンツもあり、ファンとしてはうれしい。「季節の記憶」は新緑の若葉の装丁、「もうひとつの季節」は紅葉による赤の装丁で、こうして並べてみるとクリスマスっぽい配色です。
http://www.k-hosaka.com/

4122034973季節の記憶 (中公文庫)
中央公論新社 1999-09

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4122040019もうひとつの季節 (中公文庫)
中央公論新社 2002-04

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B0002ESL32きょうのできごと スペシャル・エディション [DVD]
行定勲
レントラックジャパン 2004-08-25

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七井李紗さんのブログ「ほっと!ぐらふ」を読んでいて思い出したのですが「tokyo.sora」という映画も、淡々と日常が描かれる映画でした。オムニバス形式のような感じなのですが、登場する女性のそれぞれの生活が描かれています(12月2日・追記)。

B000069B7Ztokyo.sora [DVD]
菅野よう子
レントラックジャパン 2003-04-04

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投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

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