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2005年12月 4日
プロの意識。
入院している次男の病院を行ったり来たりで一日が終わりました。子供ばかりの病院で、4人の相部屋なのですが、ほかの子供をみているとほんとうに大変そうです。まだ、うちの息子のほうが元気がある。泣き喚いたり、暴れたり、という意味でも元気。ぐったりと横たわっていて、テレビだけをみている子供の姿は、みているだけでも辛い。頑張ってほしいな、と思います。そして、みんなが健やかに過ごせるといいのに、と願うばかりです。
今日、ぼくが付き添いで次男とムシキングごっこをしていると、斜め前のベッドで赤ちゃんに付き添っているママさんが、静かに泣いていました。ハンカチでぽろぽろ落ちてくる涙を押さえている。その少し前、年配の看護婦さんから何か言われていたようなのですが、それで傷ついたらしい。その後、またその看護婦さんがやってきて「あら、強く言い過ぎたかしら、ごめんね。何か言いたいことがあったら言って頂戴」ということを言ったのですが、そのママさんは「忙しいのはわかるのですが、そんなにぞんざいに子供を扱わなくてもいいじゃないですか。私だってできれば自分でみてやりたいと思っているのを、こうして預けているわけですし」とのこと。赤ちゃんはまだ首が座らない時期で、ほんとうに弱々しい。その気持ちはすごくわかりました。
ぼくも10月に喘息で次男を救急車にのせてやってきたときには、年配の(かなりキャリアと思われる)看護婦さんの対応に疑問と不満を感じたものです。規則は規則としてわかる。そして、忙しいのもわかるし、効率的に仕事を片付けなければならないのもわかる。たくさんの子供たちの泣き声を一日中聞いて、時には深夜まで付き添わなければならないのは、ハードなお仕事です。それも十分に理解しています。
とはいえ、やはりひとを対象とした仕事である、ということは認識していただけると、非常に信頼もできるし有難いものです。病気の子供たちは、故障した機械じゃない。それぞれが痛みを抱えているし、感情もある。そして病を患っている子供のことを、心配していない親なんていません。もしかすると看護婦としてのキャリアを積むと、患者さんは人間であるという意識も薄れてくるのかもしれませんが、だからこそプロの意識を持って、子供の、そして親たちの気持ちを汲んでほしい。その意識がない看護婦さんはキャリアを積んでいてもプロではない。
たとえば、言い方にしても、患者さんとその家族の気持ちを察して声をかけるのと、仕事と割り切って声をかけるのでは全然違うものになります。特に、もしぼくらが健康であれば、どれだけ強い言葉を言われてもはねかえすことができるかもしれませんが、弱っているときには、ほんのささいなひとことで傷ついてしまうものです。
逆に若い看護婦さんの方が(母親たちが自分の年齢にも近いせいか)ものすごく親身に対応してくれるようです。ほんとうにそんな対応をしていただける看護婦さんは、それこそ天使にみえる。
ひとりでも、むかっとする看護婦さんがいると、その病院全体に対する不満を感じてしまうのも実感としてあります。とはいえ、実はかなり個人の意識の問題であり、個の対応を全体でとらえてしまうのも問題かもしれない。
プロの意識というのは、どんなに些細なものであっても、会社全体にも影響を及ぼすものである、ということはぼく自身も認識しなければ。それはスキルよりも、心の問題でもあります。
投稿者 birdwing : 2005年12月 4日 00:00
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