2006年6月30日
「イチロー思考―孤高を貫き、成功をつかむ77の工夫」児玉光雄
▼book06-046:究めたひとの言葉。
実際のところぼくは野球にもサッカーにもあまり興味がないのですが、興味がないから、と突き放すのではなく、興味のない世界ってどういうもんだろうという好奇心を持ちたいと思いました。ある意味、同じ人間じゃないですか。ぼくの死角になっている分野を面白がったり、そこで着々と結果を出しているひともいるわけで、そういうひとをわかろうとすることは、自分にとって大きな糧になるのではないか。
この本は見開きで構成されていて、右ページにはイチロー選手のインタビューから抜粋された語録、左ページには児玉光雄さんの解説が書かれています。派手なホームランを打つのではなく、こつこつとヒットというちいさな業績を積み上げていくこと。結果ではなくて、過程を磨くことに注力すること。そして結果に一喜一憂するのではなく、新しい発見や自己の克服によろこびを見出すことなどなど、これは!というタカラモノのような言葉がたくさんありました。何かを究めたひとの言葉はやはり違う。次のような言葉には、奮起させられます。
「あのときの僕といまの僕を比べるのはいまの僕に失礼だと思う(P.50)」
常に進化して変わっていくのだから、いまの自分の方が優れてるのは当然だということです。自分のことを「天才ではない」と書いているのですが、こつこつと努力することによって大きな業績を残し、かといって業績を残すことをアピールするわけでもなく、淡々とふつうに生きていく。プライドをもって、孤高だとしても誠実に進化しつづけるひとでありたいものです。6月30日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(46/100冊+35/100本)
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方法論の追求。
身体がだるくて、頭がくらくらして、どうやら風邪をこじらせてしまったのですが、なんとか午前中にお客様との打ち合わせを完了したところどうしようもなくなって、早退しました。早退して家に戻って倒れるようにして寝込み、ようやく夜になって目が覚めたのですが、途中の記憶がまったくありません。記憶をなくすのは酒を飲んだときと、体調が悪いときのようです。どちらも、ふつうではない状態といえば同じなのですが。そういえば医者にも行っていない。やれやれ。
忘れてはいけないと思いつつ、忘れそうなので書いておくのですが、ぼくはいまコーチングというテーマを集中して考えています。なぜコーチングなのか。さまざまな本を読みつつ、私見を交えて考えると、これからは「正解のない時代」になるのではないかと思いました。正解のある時代には、正解への道筋をティーチング(教えること)すれば、誰でも正解へ辿り付ける。ところが、正解のない時代には、正解をみつけるための方法論が大事になる。
お客様の仕事でも、最初から何をやりたいと決まっているのではなくて、漠然と不安や焦りを感じているのだけど、方向が見出せないような案件が増えているように思いました。こういうときに「とにかく方向を決めてください」「方向が決まらなきゃ何もできませんから早くしてください」と追い込んでいっても、何も成果は出ません。「あーもう面倒くさいから来ないでいいよ」ということになる。また、わかったような顔をして「その案件にはこうでしょう」と正解を提示しても、それが正しいとは限らない。状況も変わるし、正解のオプションもたくさんある。
つまり、話をじっくりと聞きながら、客観的に全体像を把握した上で「それってこういうことですよね」とひとつひとつの意義を見出していく。見出したあとで、「ああ、じゃあこうすればいいんだ」ということを、ぼくからではなく、お客様の口から話していただくようにすることが大事ではないかと思いました。つまりぼくは個としての意図や意識を消して、方法論だけを提示し、ソリューションを見出すための媒介となる。参謀的かもしれません。迷っている誰かのゴールを示すのではなく、ゴールへの辿り付き方をいっしょに考える。
息子たちの教育に関しても同様です。ぼくはいままでのやり方をちょっと反省していて、どうしても親という長く生きてきた経験から、上から見下ろした立場でものを語りがちだった。けれどもどれだけ上から語っても息子は成長しないわけで、彼自身が考えようとする意思を持たなければ変わらない。答えを教えるのではなく、「意志」が芽生えるようにすることが大事ではないか。正解を教えるのは簡単だけど、意志を芽生えさせるのはものすごく難しい。
このときに重要なのが、近視眼的に直面している課題をみるのではなく、一歩ひいて、客観的に自分がいままで何をやってきたのか、どこへ向おうとしているのかを考える思考ではないかと思いました。あ、そういう考え方もあるんだ、ということを提示できることが大事です。
点や線のアートワークでしかみれなかった世界を、テクスチャーがはられたリアルな立体の世界としてみられるようにする。目からウロコが落ちた、とか、ぱっと世界が広がった、という表現もありますが、仮想的に閉ざされた思考をリアルに変えられるようにする方法論について、ぼくは考えつづけていきたい。その方法論のひとつとして、コーチングにヒントがあるような気がしています。
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2006年6月29日
立体化するための視点。
ひとつのことが気になり始めると徹底的に追求してしまうようで、一方、同時並行的にさまざまなことが気になったりします。さらにいえば熱中していたものに対して冷めるのも早い。移り気なのでしょうか。そんなわけで広げたまま収集のとれない事柄がたくさんあるのですが、徹底的な追及=深耕と、同時並行的な広がり=拡散をうまくバランスを取りながら、いろんなことを考えられるといいと思っています。
ブログで立体的な思考の獲得をテーマとして掲げたので、一年を通して長期的に関心をもとうと思っているテーマは「立体」と「思考」です。実はものすごく深いのではないかと最近思いつつあります。そして短期的にいま関心をもっているのは、「コーチング」です。なぜ?という感じもするのですが、ぼくのなかではこのふたつは結びついています。しかしながら、風が吹くと桶屋が儲かるのような遠さがあるかもしれません。
さまざまな本を読んでいると、どうしても「立体」と「思考」というキーワードの項目が目に入ってしまうのですが、「立体」と「思考」になぜこだわるかというと、リアルな世界をどうすればリアルのままとらえることができて、アウトプットとして思考のなかの立体を再現できるか、ということに関するこだわりなのかもしれません。深澤直人さんの「デザインの輪郭」という本から、以下の部分に刺激を受けました(P.248 )。
迫力あるものを写し取るということは迫力も描くということで、迫力のある絵を描くこととは違うと思ってきた。誇張ではなく、リアルであることに興味があったのかもしれない。立体を意識して描くということが正当な教えであることはわかっていて、世界は立体であるということを、疑うことなく意識して今までやってきた。しかしその教えと反対の考えを最近知るきっかけを得て、幼い頃から感じていた世界の捉え方も間違いではなかったことに気づいたのである。
ここで、ジェームズ・ギブソンの「アフォーダンス(affordance)」について説明されます。
論理の詳しい説明は省くが、極端な言い方をすれば、私たちが見ている世界は立体ではなく、異なるテクスチャーでできたパッチワークのような平面の世界であるという論理である。今見ているものの後ろに背景があるというのは誰も疑わないことであるが、別の見方をすれば、今見ているもののテクスチャーのとなりに背景となるテクスチャーが続いてある、ということでもある。そのテクスチャーのコンポジションは、人が動くことによって変化するということで、その変化によって立体を認知している、ということなのである。
長々と引用してしまったのですが、アフォーダンスについては以前から耳にしたことがあったのですが、聞いていたのだけど頭のなかをすーっと通り過ぎていたようで、ここにきてこの言葉の意味が一種のリアルさとともに納得できました。リアルと思っていた現実は、実は脳内のなかの現象であって、立体に「似てみえる」ことが大切だということです。学校の演劇の大道具のように板に描かれていたものであっても、平面かどうかは関係なく、それがリアルであるという定義をすればリアルになる。そして登場人物が動かなくても、自分が動けば世界は動く。動くことによって世界はよりリアルに、立体化していく。そうして自分の視点を移動させれば、世界を変えることができる。
若干、危険なものを感じつつも、世界は自分と対象の関係性によって成立していること、視点を変えると世界も変わるという発想は、なんとなく面白そうな気がしました。
コーチングについても書こうと思っていたのですが、長くなりそうなので別の日にします。4冊も本を買い込んでしまいました。コーチングには関係ない本もあるけれど(イチローの本です)、間接的にこれが関わってくる。無理やりこじつけているような気もするのですが、読む本がすべてつながっていくので困ります。書店の神様が意図的にぼくに本を選ばせているような気がする。そんな神様がいてくれたら、本屋さんも大繁盛です。ある意味、口コミよりも強力なマーケティング手法ですね、神様マーケティング。
風邪でしょうか、喉が痛い。ゆっくり休んで治します。
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2006年6月28日
「デザインする技術 ~よりよいデザインのための基礎知識」矢野りん
▼book06-045:視覚を技術的に究めると思考も極まるのでは。
こういう本は最初から最後までしっかり読むのではなく、気になったページをリファレンス的にめくって読むのではないかと思うのですが、最初から最後まで読んでしまいました。そして、これが面白かった。面白いんだけど付箋を付けて読んでいたわけではないので、いまどこが面白いか抜き出そうとして困っています。
一瞬だけエディトリアルデザインの仕事をかじっていたこともあり(出版物の表紙とか本文フォーマットとか作りました。写植だけど)、そのときにいろいろと調べたり勉強したせいか、知っている言葉も多かったのですが、あらためて刺激を受ける言葉も多くありました。この本は「考」「図」「文字」「面」「色」という5つの分野の技法について、キーワードから解説し、実際に図などで説明していくのですが、視覚的なアプローチを理論化するときの考え方が非常に参考になりました。
以前ブログに書いた擬似的に立体をみせるアクソノメトリックをはじめ、色にも距離感があること(目立つ色は手前に見える)とか、情報デザインのチャンキングとか、ルート2、あるいは観音開きではルート5で作った長方形が美しいとか、へぇーっと驚くとともに明日から使える知識ばかりでした。別にこの本の技術を実践したわけではないのですが、こういう本を読んでいるとなんとなくインスピレーションもわくもので、実際にいま書いている企画書もなんだかいままでとは別の色彩や雰囲気の違うチャートになりつつあります。デザインを専門に勉強されている方からみると、なんだそりゃな稚拙な感じかもしれないのですが、専門家になるつもりもなく(なれないので)、だからこそ楽しい。ものごとというのは真剣に関わるのではなく、ちょっとカルチャー的な軽さで関わった方がよいのかもしれません。6月28日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(45/100冊+35/100本)
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「デザインの輪郭」深澤直人
▼book06-044:最終形としてのシンプルライフ。
ちょうど同時に武満徹さんの「Visoins in Time」を読んでいるのですが、映画音楽について、映画そのものが饒舌であり音楽にあふれているものだから、「映画から音を削るということの方を大事に考えている」ということが書かれていて、深澤さんの感覚に近いものを感じました。考えない、手垢にまみれないものをデザインしたい、ということにぼくは深く共感を得ていて、いまぼくは過剰にいろいろな情報を収集したりアウトプットしていたりするのだけれど、最後に到達したいのは、何もないけど自分がいる、というような境地であるような気がしました。音楽でいうと、ぽーんと音が鳴ってそれでおしまい、あとはその音の余韻が水面に波紋のように広がっていく、というような。実はごちゃごちゃ言葉を書き連ねたり、テクノロジーを駆使して分厚い音を創るよりもそっちの方が困難極まりないもので、きっとそれは雑念や邪念にあふれている若い時期には到底できないもののような気がします。あらゆるぐちゃぐちゃを経験したあとで、ふっとその陽だまりのようなシンプルな場所に突き抜けたい。それがぼくの希望であり、その希望の可能性を感じさせてくれる本でした。6月28日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(44 /100冊+35/100本)
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さりげない技巧。
眠かった。眠い一日でした。たぶん疲労が溜まってきているのでしょう。そして疲労が解消されないまま、片付けなければならない仕事があるせいかもしれません。ところで、昨日40度近い熱を出していた息子(次男3歳)は、37度に下がったらやたらと元気になりました。回復力を見習いたい気がします。若いっていいですね。何しろ3歳だもんなあ。とはいえさすがに3歳児にも負荷はかかったらしく、なんだかぷくっとした瞼になっていました。お疲れさまです。
さて、影響を受けやすいぼくは、茂木健一郎さんの本を読めば大切なものはクオリアだと思うし、ダニエル・ピンクさんの本を読めばコンセプトの時代だと思ってデザインについて考えなければ、と鼻息が荒くなる。「ハイコンセプト」という本の影響からか、このところデザイン系の本を読み漁っていたのですが、やはり思考にいちばん影響を与えるのは視覚ではないか、メタファーに関しても視覚関連のメタファーが非常に多く、視覚による表現という分野を担っているデザイナーの方が書いている本は参考になるものだ、という思いを強めました。
特にプロダクトデザイナーの深澤直人さんの本には考えさせられることがたくさんあり、なかでもやはり「ふつう」であることについて書かれた部分が気に入りました。「意図を消す」という言葉も印象的なのですが、たとえば次のような言葉にも姿勢を正されます(P.147)。
デザイナーは語る必要はない。ものが語ればいい。
デザインをするのではなく、デザインしたことについて語ることの方が多くなったときはまずい、というようなことも書かれていました。よい仕事は自己弁護や解説は不要で、仕事がすべてを語る、というわけです。あるいは何ができたかよりも、これから自分は何ができるか、ということの方が大事かもしれません。過去の実績に安穏としているのではなく、これから行動を起こすことが大事であって、傍観者として語っている人物よりも、行動できる人物の方が絶対にえらいと思う。そんなに批判するならおまえやってみろよ、といいたくなるときがありますが、批判する人間ほど自分ではできないものです。もちろんできないことだからひとに頼んだり、自分ではやらないのかもしれませんが、そうであれば感謝が必要になる。できないのに偉そうなのはどうかと思う(自分も含めて、ですけどね)。
誰かのために、という大義もすばらしいものですが、ときとしてそれが言い訳にもなります。次のような言葉もありました(P.150)。
人間は、他人のためにやっているという感情をもってやると、
汚れてしまいますよ。
ほんとうに自分が好きなことに没頭する時間というのは、自分にとっても素敵なものだし、それがいつか企業や社会にも還元していく。無我の境地にあるときには、自分がいままで成しえたことを超えた仕事ができるのかもしれない。報われないことも多々ありますが、途中で諦めるのではなく、やがて夢がかなうという気持ちを強化していけば、大きな実を結ぶときがあるのではないでしょうか。
私はすごい、と自画自賛するひとに、すごいひとはあまりいないものです。忙しさを過剰にアピールするひともいますが、いや忙しいかもしれないけど、あなたのやっているのは雑用じゃないんですか?ということも多い。過剰に、組織のためだを振りかざすひともどうかと思うところがあり、組織を盾にして自分のポジションを獲得することに一生懸命な感じがする。ぼくは管理よりもビジョンを提示できるリーダーの方が何百倍もすごいと思います。もちろん管理も大切だし、必要なことではありますが。誰だって自分を主張したいものであり、自然体の範囲の自己主張であればかまわないのだけど、過剰な主張になっていないかどうか、ぼくも気をつけたい。たいてい疲れているときとか、あまり気分のよくないことがあったときには乱れるもので、いまもちょっと乱れ気味かもしれない。ただ、最近は乱れ気味だと感知できるだけ進歩したのかもしれません。ものすごくちっちゃい進歩ですけど。
武術などを究めたひとは、気配を消すことができるといいます。通常、術を究めたのであれば、全面的に術を出せばいいと思うのだけど、逆に術を出さないことが高度な術だったりする。
趣味のDTMもそうだと思うのですが、フランジャーなどのエフェクターを使い始めると、いかにもエフェクターかけましたっ!という意図的な音楽を創りがちです。でも、その道を究めたひとはきっと、機材を使っているかどうかわからないけれども実は使っていて、何度も聴き込むうちにわかってくるような印象的かつ存在感のある音創りができる。
文章もそうかもしれません。村上春樹さんの初期の作品はメタファーの宝庫だと思うのだけど、あまりにも技巧ばかりが目立ちすぎます。けれども最近書かれたものは、直接的な技巧は目立たないのだけれど、もっと深い高度なメタファーが駆使されている気がする。成熟というのはそういうことで、いかにもやりましたっ!的な技巧というのはわかりやすいけど青臭い。あまり主張していないんだけど、わかるひとがみればわかるような技巧がいい。
やわらかい言葉だけれど実は深い真理を突いていたり、すーっと読み進められるんだけど、なんだか心に重く残るとか、そんな言葉を使えるようになりたいものです。たとえばぼくにとっては谷川俊太郎さんの言葉がその理想形のひとつであり、究極の目標です。
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2006年6月27日
時間の流れ、場所。
はじめて訪れる場所には少しだけ早く到着するようにしています。ところが、ときどき早過ぎて時間を持て余してしまうこともある。今日は横浜の市街から外れた場所で打ち合わせだったのですが、あまりに早く到着してしまった。喫茶店でもあればいいのだけれど、あったとしてもゆっくりお茶を飲んでいるほど長い時間があるわけでもなく、結局のところ川のようなところのほとりでぼーっと時間を潰していたところ、通りすがりの日傘を差したちいさなおばあさんが「おはようございます」と声をかけてくれました。すかさずぼくも「おはようございます」と答えることができたのだけど、ものすごく些細なことですが、なんだかしあわせでした。
横浜や神戸のような街が好きです。歴史があるし、なんだか時間がゆっくり流れているような感じがします。もちろん住んでみるとまた違うのかもしれませんが、東京では道を歩いていたとしても、あまり見知らぬひとから声をかけられるようなことはない気がします。とはいえ、やはり横浜の駅自体は大きすぎて、ひとが多すぎです。一駅先に行けば、ぜんぜん違う風景が広がっているような気がするのですが。
暑い薄曇りの天気のなか、歩きすぎてへとへとになりました。へとへとになって会社に帰り、さらに仕事に追われて残業して、夜中の11時半に家に辿りつき、今日がまだ火曜日であることに気付きました(というよりも既に水曜日になっているのですが)。朝、横浜の郊外を歩いたときのことが遠い過去のようです。けれどもなんだか歩いた風景が記憶のなかにしっかりと残っている。おかしなものです。どうでもいいような風景の方が、しっかり覚えている。
忙しいことはともかく、下の息子(次男3歳)が40度近い熱を出してしまって、心配です。
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2006年6月25日
猫型と犬型の対立。
調べものをしたり、資料を読み直したり、書きものをしたり、ちょっと気分転換に息子と卓球したり(玩具の卓球台が先日届きました。それにしても部屋が狭すぎ)、そんな感じで一日が終わってしまいました。さすがに家のなかにこもっていたので、夕方になって外に出たところくらくらした。しかも難しいことを考えすぎたので、知恵熱気味です。
そんな疲労感に、得体の知れない体調不調まで加わって急速に元気がなくなっていたのですが、さきほどFMラジオのJ-WAVEで小林克也さんの「DJ KOBBY'S RADIO SHOW」を聴いていたら、とても癒されてしまいました。元気が出ました。来日40周年ということで今月はビートルズ特集が組まれていたのですが、今日は最終回でした。よい音楽はひとを元気にしてくれます。ありがたいことです。
知っていたとはいえ見たことがなかったのですが、J-WAVEのサイトではリアルタイムで現在かかっている曲を知ることができます。最初にかかっていたGEORGE HARRISONの曲がすごくよくて、なんだっけかなと思って調べたところ、「22:02 WHEN WE WAS FAB 」と情報が掲載されていて、ありがたかった。なんとなくビートルズ時代のパロディのような、弦の使い方やコーラスのアレンジがされている、いわゆるフィル・スペクターサウンドなのですが、疲れた頭にとても新鮮でした。ジョージ・ハリスン、いいですね。彼のような曲を創りたい。
いずれサイトにDJのアーカイブとして記事が載るそうですが、小林克也さんがものすごく面白い見解をお話していました。ビートルズが解散したのは、メンバーの音楽的な対立などではない。あれは、犬好きと猫好きのウマが合わなかったからだ、とのことです。
犬好き、猫好き、というのは誰かというと、犬=ポール・マッカートニーで、猫=ジョン・レノンだそうです。どうしてかというと、ポールは犬を飼っている、ジョンは猫を飼っているという、ただそれだけのことらしいのですが、なんとなくわかるような気がして頷いてしまいました*1。ポールの音楽は純粋なポップスが多く、正直者ですぐにしっぽを振るような感じだけれど、単純すぎて深みには欠けるような気がする。一方、ジョンの音楽は、皮肉が効いていたりひねくれていて、外をわんわん駆け巡るよりもコタツ(というかベッド)の上で丸くなっていたいタイプなのだけれど何か深遠なものを感じる。言い得て妙、です。
以前にも書いたことがあったような気がしますが、ぼくもどちらかというと犬タイプの人間で、すぐにひとを吠えたり、かと思うと餌をもらうとしっぽをぶんぶん振ってしまう。ご主人さまがいなくなってしまっても、ストーカーのように待ちつづけるタイプかもしれません。ただし、猫的なものにはものすごく憧れたり、尊敬したりしています。猫っぽい生き方ができればいいのになあ、と思ったりもする。AB型ってちょっとゲイジュツカっぽくないでしょうか。ぼくからみるとその芸術的な感じが、ものすごく憧れです。
血液型でいうと、ぼくはO型なのですが、O型のぼくからみるとAB型とA型は猫っぽい(あくまでも私見です)。一方、B型は同類の犬という感じがします。あまり根拠がないと思うし、犬的なものも猫的なものも混在している気がするのですが、ビートルズの対立は犬好きと猫好きの対立だ、というシンプルな理論としてまとめてしまう小林克也さんには、すがすがしいものを感じました。
気になっていま調べてみたのですが、ジョン・レノンはO型らしい。そして、ポールはB型とのこと。さらに、リンゴとジョージはA型(うーむ、すごくわかる気がした。気を使うひとたちですもんね、A型は)。ジョンはAB型のような気がしたのですが、外れました。でも、繊細でありつつラジカルに何か言いたがる感じは、O型のぼくとしてはよくわかる。
だいぶ暑くなってきました。缶ビールを空けて飲んでいたら、ぶわっと汗が出てきた。DTMの趣味はヘッドホンをかぶりつつ制作しているのですが、ヘッドホンをかぶりたくない季節になってきました。
+++++
■J-WAVE、小林克也さんのDJ KOBBY'S RADIO SHOW。
http://www.j-wave.co.jp/original/djkobys/
*1:ちなみに、オノ・ヨーコに追い出された時期に飼っていた2匹の猫は、メジャーとマイナーというらしい。長調と短調ですか。陽と陰ともいえます。小林克也さんの話してくれるそんな知識も楽しめました。
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2006年6月24日
「1歳から100歳の夢」日本ドリームプロジェクト
▼book06-043:100人分の夢を想う。
いつになくゆっくりと読んだ本でした。以前にエントリを書いたのですが、この本は1歳から100歳までのふつうのひとの夢を、顔写真と文章でまとめたものです。世代を超えた卒業文集のような感じでしょうか。言葉を味わい、笑顔を眺めつつ、ゆっくりと1ページ1ページをめくり、それぞれの方が抱えている夢と、夢の背後にずーっとつづいている生活のことを考えました。たぶん夢などの甘い言葉ではすまされない辛い時期もあったことだと思います。大病をしたり、心の闇に落ち込んだり、2ページでは埋められないぐらいの100人ぶんの人生が本の向こう側に広がっている。夢は大事だと思いました。そして大きすぎる夢を追うのではなく、等身大の夢を楽しめるような人間でいたい。詳しいことは知らないのですが、いろは出版はユニークな視点で、よい本を作っていると思いました。個人が夢を持つことが、最終的には社会をよりよく変えていくことだとぼくも思う。読み終えたので、この本は田舎の母に送るつもりです。6月24日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(43/100冊+34/100本)
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鉄人28号
▽cinema06-035:育っていく、そして継承されるヒーロー。
昔のヒーローはとにかく強かった。もちろんストーリーの流れのなかで挫折やピンチがあったとしても、すぐに前向きに復帰して、最後はハッピーエンドでした。ところが最近のヒーローはどこか完全無敵ではなくて、妙に生活を感じさせるような失敗やネガティブな面もさらけ出しているような気がします。息子とウルトラマンメビウスをみていてうーむと思ったのが、最初にメビウスが怪獣と闘うとき、どう闘っていいのかわからずにぼーっとしている。そのうち回転してビルを壊しちゃうのですが、地上にいる隊員から「なんて下手くそな闘い方だっ!」とか叱られてしまうシーンがありました。思わず笑ってしまったのですが、人間に叱られるウルトラマンというのは絶対的なヒーローではなく、なんとなくヒューマンな感じもしました。つまりカリスマ的な存在であっても、そんな弱みがあることが逆にヒーローの条件かもしれません。
昭和の頃の夢を実写で表現したのが鉄人28号だと思うのですが、家族で観ました。やはり最初から強いわけではなく(しかも色も鉄人カラーの青ではなく銀色で)、正太郎くんもラジコンの飛行機はうまく操縦できるけど鉄人操縦のプレッシャーに押しつぶされたりして、鉄人をごろごろと転がしてしまい、ビルを壊しまくります。ありゃりゃーという感じです。それでも諦めずにカイゼンしていく。一度ブラックオックスに負けたあと、バーチャルリアリティーらしきゴーグルの新しいコントローラで闘うのですが、コントローラは最先端ですが、鉄人をハードウェア的に組み立てている工場では旋盤が回っていて、いかにも職人らしきおじさんが頑張っている。そのおじさんたちが正太郎くんを応援していたりする。諦めずに粘り強くカイゼンすること、力を合わせて敵と戦う姿勢に、昭和のノスタルジーを感じました。いまそんな力を失いつつあるのではないでしょうか。
たぶん映画ファンからすると、デビルマンにしても鉄人28号にしてもULTRAMANにしても、酷評されるのではないかと思います。でも、ぼくはいいと思いますね。息子も楽しんでいたし。リメイクして古い時代の文化を新しい未来につないでいくのは大切なことです。
「破壊するために何かをつくったわけじゃない」というような正太郎くんの言葉が心に残りました。悪役のブラックオックスですが、操縦しているマッドサイエンティストっぽい宅見零児にも、息子をなくしてしまってロボットに息子の姿をみている哀しさもあり、せつないものがあった。正太郎くんの父は事故で亡くなってしまっているのだけれど、息子に託した「信じて進め」という言葉もよかったし、回想シーンはじわっときました。一方、社会的な観点からは、ブラックオックスの出現が「テロ」であることにも、なるほどと思いました。近い将来ロボットによるテロなんてこともあるのでしょうか。6月24日鑑賞。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(43/100冊+35/100本)
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考えない(without thought)。
気になる本というのはそのときどきで変わるもので、突然小説ばかり読み漁るときもあれば、ビジネス書を片っ端から読んでいくときもあります。いまぼくはどちらかというと、写真があって、深い思索的な言葉で構成されている本に傾倒しがちのようです。ところがそういう本はちょっと高価なもので、そう簡単には買えないので困る。
仕事の途中で立ち寄った書店で先日買った本は、プロダクトデザイナーである深澤直人さんの「デザインの輪郭」です。
偶然にも輪郭というタイトルでブログを書いていたので、ついタイトルに惹かれてしまったこともあるのですが、ぱらぱらとめくっていて次の言葉がよいと思いました(P.42)。
僕がこれを考えたように見えるといわれますが、
それは僕が考えたわけではなくて、
そうなるべき姿であったということの結果だと思います。
「04 考えない(without thought)」というアフォリズムのような短い言葉です。前書きのところで解説されていたのですが、この本はもともとはインタビューや対談を原稿として起こして本にする、ということで作るはずだったのが、いざトークを起こしたものを読んでみると抽象的すぎて愕然とされたそうで、インタビューや対話の発言をそのまま記録したような部分と、その発話としては抽象的すぎるアフォリズムについて後から文章によって解説を付加した部分(さらにデザインの写真)で構成されています。
「without thought」という思想からワークショップなどの活動も展開されているらしいのですが、よい作品というのは見た瞬間に直感的にこれはいいなと誰もが納得し、やられたとため息が漏れるものだ、という言葉になるほどなと思いました。しかしながら、よいデザインは突飛なアイディアであったり力がこもっているものではなく、自然なものである。「行為に溶けるデザイン」という言葉を使われているのですが、無意識のうちに生活に溶け込むものだそうです。
「選択圧」というキーワードもあるのですが、自然に使いこなしていくうちにデザインは淘汰されていく。進化論的な言葉からヒントを得た思想のようですが、無理に主張するのではなく、よいものは必ず残る、美しくないものや不正なものは自然に淘汰されていくという考え方には、何か頷けるものがありました。俳句とデザインについても対比されていて、やはり意図的に創った俳句はよくない、選句眼のすぐれたひとがいて選び出すことによって、それほどよいとは思わなかった句も名句に変貌する、という話も面白かった。
ただ、ぼくが思ったのは、最初から何も考えないで何か素晴らしいものを生み出せるような境地に至るのは難しく、考えて考えて、泥沼のようなところを這いつくばって、傷付いたり悩んだり、二度と振り返りたくないような恥ずかしい体験を潜り抜けたあとで、自然にすっと生きることができるようになる気がします。深澤さんご自身も考えないと言いつつ、ものすごくたくさんのことを考えている。湖面に浮かぶ鳥のように水面下でたくさん水をかいているのだけど、静かにすーっと水に線を描いて動くことができるようになりたいものです。
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2006年6月20日
分解しない物語。
ブログの面白さのひとつは、他の記事を引用しつつ新しい見解を加えていくことだと思っていた時期がありました。というのは引用という記述方法がブログの編集画面にあったからかもしれないのですが、自分で何かコラム的なことを書くよりも、引用して書いた方がなんとなくブログらしくみえる。評論っぽい。賢そうにもみえる(実際のところ賢くなくても)。
いまでも上手に引用することは大事だと思うし、トラックバックやリンクは楽しいものです。けれども同時になんとなく内側で閉じてしまうような感覚があり、インターネットの外にリンクできたらいいのに、と思う。外というのはどういうことかというと、現実の街なかにある壁とか、道を歩いている犬とか、電車の吊り広告のようなものです。ちょっとSFっぽいのですが、携帯電話とRFIDのタグなんかが使われるようになると、そんなこともできるようになるかもしれません。
ぼくの書くブログは自分の思考という閉じた世界を扱っているので、ものすごく閉ざされた世界です。抽象的なことをあれこれ考えるのが至福でもあるのですが、あまりに形而上的なことばかり考えていると、この閉鎖的な世界というものに、さすがに疲れる。もちろん、そういうときはネットを切断してリアルに生きるのがいちばんだけれど、淡々と生活を綴った日記を読んでも癒されるものです。
ときどき思考の迷路に嵌まり込んで見失ってしまうのだけど、ブログは日記でもあり、何気ない生活のシーンを記録した言葉がどんな形而上的な言葉よりも美しいこともあります。どこかへ旅行に行ってきたときのこと、子供たちと遊んだ一日の風景、風邪をひいて寝込んだときのことなど、ウィンドウというパソコンのなかにそのひとの世界が広がる。
ビデオのように明瞭な映像でみるわけではないけれど、言葉は仮想の世界を結晶化させたものでもあり、だからこそ生活の一部を抽象化して切り抜き、イメージを削ぎ落とした洗練さがある。YouTubeが盛り上がっているとはいえ、これからは映像だ、テキストなんて古臭い、という過剰な動きには賛同できなくて、ぼくはビデオ映像がすべての面で優れているとは思いません。優れている面もあるけれど、想像力で補いながら「ここではないどこか」の物語に思いを馳せるのもよいものです。
インターネットで探すものは、情報だけではないのかもしれません。テキストやイメージ、動画のすべてが情報やコンテンツといえばいえるのだけど、たとえば訪問する会社のホームページをみたり、地図で位置を確認したり、電車の経路と運賃を計算するのとはどこかが違う。どう違うかというと「体験」を探すようなものでしょうか。という意味では「物語」をみつける行為ともいえる。ビジネスの分野で似ているものを挙げるとすると「成功事例」でしょうか。つまり「単語」と「文章」の違いにも類似しているような気がするのですが、これはわかりにくい。
もう少し説明をします。いま「数式を使わないデータマイニング入門」という本も読んでいます(P.51あたり)。
「1歳から100歳の夢」も「デザインする技術」も読み終えていないのに読み散らかしてどうだろうと思うのですが、いろいろと並行して読んでいるうちに重なってくるものもあります。
データマイニングというのは、たくさんの情報のなかから法則をみつけるような試みですが、かつてはものすごく興味のあった分野でした。ところがこのところ、どうもしっくりこないものがあります。うまくいえないのですが、要素に分解する分析というものに疑問を感じています。テキストマイニングなどでは言葉を分かち書きにして要素に分解したあとで、連関する語による意味を見出そうとするわけなのですが、分解してしまった時点でものすごく大きなものが失われる気がする。別に学術的な裏づけも知識もないのですが、最近「全体思考」などについて考えつづけていると、物語を単語に分解して論じても意味がない、というごく当たり前のことが大事かもしれないと思うようになりました。
体験もしくは経験は、そのカタマリとして読むものであって、たとえばそのなかに同一の「かなしい」という単語があったとしても、Aという物語のなかの「かなしい」とBという物語のなかの「かなしい」はまったく別のものではないか。違うのだけど、その「かなしい」気持ちに「共感」できるのはどういうことだろう。統計学的な分析はどうなんだろうということになるのですが、正直なところ、頭のなかに広がるもやもやはすっきり晴れてくれません。
同じ夢という言葉が使われていても、「1歳から100歳の夢」で語られている100の夢はそれぞれが違う。ただ、それぞれが違うけれども、そこから立ち昇ってくるものはやっぱり夢です。
今日は一日暑くて、さらに歩き回ったので頭が働きません。そんな疲れた頭の片隅に、ふと「夢の総量は空気であった」という坂口安吾の「ふるさとに寄する讃歌」という小説のタイトルの横に書かれていたフレーズが頭に浮かびました。この小説は次のようにはじまります。
私は蒼空を見た。蒼空は私に沁みた。私は瑠璃の色の波に噎ぶ。私は蒼空の中を泳いだ。そして私は、もはや透明な波でしかなかった。私は磯の音を私の脊髄にきいた。単調なリズムは、其処から、鈍い蠕動を空へ撒いた。
透明な描写が美しい。そんな蒼空をみたいものです。ビデオはないけれども、この文章を読むときに、ぼくの頭のなかには美しい蒼空が広がります。言葉の力を感じます*1。
+++++
■ぼくが持っているのは、ちくま文庫の坂口安吾全集です。ここに「ふるさとに寄する讃歌」は収録されています。
*1:しかしながら、今週は体力的にバテ気味で、何度も見直して修正をかけています。言葉がうまく決まりません。
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2006年6月19日
本、リンク、声。
少し古い話題になのですが、BRUTUSの6/15号は全730冊本特集ということで、読書案内の特集でした(既にバックナンバーとなってしまって、最新号はアイスクリーム特集のようです。今日は夏のような暑さだったので、アイスクリームの需要もぐんと伸びたことでしょう。それにしてもさっそく体力が消耗気味です)。
手もとに2003年の12/15号もあって、こちらは映画対決という特集です。ブックレビューにしても映画ガイドにしても、まとまっているものにはつい手が伸びてしまうのですが、ふと考えてみると、雑誌を購入したのにあまりきちんと読んでいない。もったいないのできちんと読もうと思います(いつか)。
どちらも表紙に作品のタイトルがずらりと掲載されていて、これを眺めているだけでも面白い。装丁というのは、限られたスペースでフォントをどうするか、画像をどうするかなどを考えつつ、手にとってもらえる本の"顔"を作る仕事だと思うので、なかなか奥が深い気がします。
本というテーマでいくつかの記事があるのだけど、ぼくが面白いと思ったのは、茂木健一郎さんと内田樹さんの対談と、谷川俊太郎さんのインタビューでした。
茂木健一郎さんと内田樹さんの対談では、二元論を超えるということから話がはじまり、「割り切れない剰余としての生命・身体・精神」という議論を経て、霊的経験の本質というところに展開されていきます。最近、そんな話ばかりでちょっと食傷気味な感じもあるのですが、こんなことが書かれていました(P.27)。
内田 霊性の本質は何かということだと思うんですけど、それってたぶん「つながること」なんです。
茂木 固有名を失うということですか。
内田 ええ。これは三砂ちづる先生の仕込みなんだけど、どんな人でも経験できる超常経験というのは出産の瞬間なんですって。ものすごいピーク・エクスペリエンスがあって、その瞬間に感じるのが「自分は宇宙とつながっている」という実感。僕も自分の子供が生れた時の一番率直な感想というのが、変な話「肩の荷が下りた」なんです。人類発生以来の、そのもっと前のミトコンドリアの時代から始まった何億年かの生命の歴史を、俺は切らずに次へ伝えたということのね。受け取ったパスを、次にパスしたという瞬間の安堵感というのが、すごく深かったんです。
この部分はすごくわかる。といってもぼくは男性なので、お腹を痛めて子供を生んだわけではないのですが、親から子供へのリンクというのはすごく感じる。子供のことを考えるとき、ぼくはどうしても自分の父の姿を自分に重ね合わせていて、同時に子供のなかに自分をみている。リンクと言ってしまうとインターネット的なのですが、要するに「絆」なのでしょう。それを「縁」と言い換えると、血縁をはじめとしてそれ以外の縁もあるだろうし、「因」とすると時系列で起こることのつながりを言っているようにも思える。
いまインターネットを通じて、まったく面識のないひとともリンクができるようになりましたが、どうしてブログやSNSがこれほど爆発的に増えたかというと、やはり自分を表現するよりも、つながること、絆・縁・因ということを動的に生じさせることができるからという気がします。
と、理屈っぽくなってきたのでこの辺にしておきますが、BRUTUSの谷川俊太郎さんのインタビューには「さようなら」という詩が引用されていて、朗読する谷川俊太郎さんの写真が掲載されている。これがいいです。ジャズピアニストである賢作さんと朗読とピアノのセッションをされているようですが、生で聴いてみたいなあと思いました。美術館で相田みつをさんの声を聴いたときにも感じたのですが、やはり肉声というのはよいものです。Vocaloidという音声合成ソフトウェアがあるのですが、どんなにリアルに近づけようとしても何かが足りない。言葉のなかにタマシイがこもっているかどうか、ということかもしれません。タマシイというと、ひゅーどろどろ、な感じがあるので、ソウルと言い換えてみましょうか。
「さようなら」はとてもよい詩です。
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2006年6月18日
子供とパソコンの適応力。
ワールドカップの日本×クロアチア戦、残念でした。いまひとつ決定的な動きがなかったことや、無謀かなという場面もあったのですが、よい試合だったんじゃないでしょうか。健闘を称えたい感じです。個人的には、一瞬ですが中田選手の鋭利な攻撃にはっとしました。後半ロスタイムには手に汗を握ってしまいました。こういうときの3分間は、あっという間ですね。
さて、天気が悪いこともあって、今日は部屋の片付けとパソコンのメンテナンスに一日を費やしました。ノートパソコン2台のうち使っていない古いマシンをまっさらにして、息子(長男)専用マシンにしてあげました。それから、使わなくなったWindows98のデスクトップマシンのデータをバックアップして、Linux(Fedora Core)を入れてみました。まだ慣れないのですが、サーバーとデータベース構築について、ぼちぼちトライアルしながら学習していきたいと思っています。いろんなことに手を出しすぎるのもどうかと思うのですが、技術的なこともわかっておきたいので。
息子(長男)といえば、今日も作文の宿題をみてあげたのですが、昨日の試写会のことを書いたものを見せてもらったところ、「きみは映画を何も観てなかったんじゃないか?」というぐらい抽象的な作文だったので、今日も2時間付き添って、いっしょに考えながら書き直しをしました。さすがにぼくも堪忍袋が切れて、「だから、これは言ったじゃないか!」みたいに声を荒げてしまった場面もあったのですが、子供に何かを教えるのは手間も根気も必要なものです。あまり萎縮させてもどうかと思うし、かといって全面的に甘くするのも問題です。子供の教育は、ほんとうに難しい。ついでに親の方にも体力や気力が必要です。
まず、原稿用紙に書く前に、何を観てきたのか、どう思ったのか、ということを詳細にメモに書き出させて、そこで「じゃあ書いてごらん」と突き放してみました。ところが、修正第一弾はメモをそのまま写しただけなので、脈絡もなく破綻している。それが子供の文章といえばそうなのだけど、きっと彼は書き方をわからないんだと思って、それから後ろにずーっと付き添って、何を選んで何を捨てるのか、全体の流れをどう作っていくかについていっしょに考えていきました。
話していくうちに感じたことですが、彼は映画を観ていないわけではない。きちんと映画のなかのどんなシーンがきれいだったのか、ということを覚えている。覚えているのだけど文章にはできないので、「楽しかった」「面白かった」で逃げてしまうようです。けれども、そこで逃げないで、面倒だけど思い出してみよう、もっと具体的に書こう、ということを掘り下げてみました。
彼にとっては苦痛の時間だったと思います。ぼくも国語の教師だった父に書き初めなどの宿題を付きっ切りで指導されて、とても苦痛だった。ただ、そうやって恨まれるのも、父親の役割のひとつじゃないかと思っています。いい父になる必要はない。彼が大人になって、ぼくがもういなくなってしまったとき、「おやじの作文の宿題の見直しってさー、嫌だったなあ。何度書いても全部消しちゃうんだもん、まいったよ」と兄弟で酒を飲みながら話をされたら本望です。だからこそ母親の優しさも生きてくる。もっと"いやなおやじ"になってやろうと思いました。
そんな息子にお古のパソコンをあげたところ、作文は苦手だけれど、さすがにゲームが大好きだけあって、こちらの方はものすごい適応力がある。フリーのタイピングソフトをダウンロードしてあげたのですが、まだ人差し指入力だけれど、あっという間に慣れてしまって夕食後も熱中している。ポケモンなどのゲームに似たインターフェースなので、はまったのかもしれません。これもどんなものだろうとちょっと困惑はするのですが、そんな世代なんでしょう。ゲーム感覚であれば違和感なくパソコンを使いこなしはじめる。
開発途上国の子供たちに情報化教育を推進するために、100ドルPCを開発する動きもありました。大手メーカーでは既に手がけているのかもしれませんが、新たに開発しなくても中古のマシンを教育に使う方法もあるのではないでしょうか。子供たちにとっては、パソコンもコントローラが複雑になった(つまりキーボードということですが)ゲーム機のようなものであり、違和感がないようです。こんなちいさな子供にパソコンを与えるのはどうだろう、という親の心理があるのですが、運動や勉強などのバランスがとれていれば、ゲーム機を卒業させて早い時期からパソコンを渡してしまってもかまわないかもしれません。
ちなみに彼のパソコンは壁紙をウルトラマンメビウスにしてあげました。なんとなくWindows2000のマシンにウルトラマンメビウスは似合わないなあ、と思いながら。
+++++
■息子がはまったタイピングソフト(フリー)のFighting Typers。ベクターのレビューです。
http://www.vector.co.jp/vpack/browse/pickup/pw5/pw005232.html
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2006年6月17日
感動という浄化。
ディズニー映画の「カーズ」の試写会が当たったので、丸の内の試写会場まで行ってきました。ところが、1組3名までということなので、4人家族のぼくらとしては困ってしまい、結局のところ子供たちふたりと奥さんが映画を観ている間に、ぼくはふらふらして時間を潰すことになってしまいました。もう少し融通をきかせてくれたらいいのに、と思うのですが、通常は大人ふたりに子供ひとりという核家族的な構成なのでしょう。しかしながら、たまにはひとりでふらふらするのもいいものです。
さてどうしようと思ったのですが、近くに東京国際フォーラムがあったので、とりあえずそこに入ってみたところ、土曜日の今日も何やらイベントが行われていました。IT系のイベントでは視察によく来るのですが、他のイベントにはまったく縁がありません。そんなよくわからない分野の展示会場を見下ろしながら缶コーヒーを飲んでいたところ、ふとホールのそばにある「相田みつを美術館」が気になり、どうしようかと迷ったのですが入ってみることにしました。
相田みつをさんといえば、詩人であり書家でもあり「にんげんだもの」という書が有名で、ぼくもまたそのイメージから強烈な印象を得ているのですが、いままであまり本などを読んだことはありませんでした。東京国際フォーラムにも何度か仕事で訪れているのですが、美術館に入ったことは一度もありません。というのはぼくの心には偏見が働きがちで、詩というよりもポエムというようなカテゴリーに入りそうなものを拒絶してしまうからです。どこが違うかというのは微妙なところですが、甘ったるくて自己陶酔型で閉鎖的なものはぼくはポエムだと思う。詩はそれよりも言葉を文学的に結晶化したものであり、ストイックな姿勢や厳しさがともなう。そんな風にぼくは違いを考えていました。そして相田みつをさんもポエムなひとだろう、と勝手に解釈していました。
ところが、実際に美術館のなかに入ってみると、相田みつをさんはぼくの偏見とは異なっていることに気づいた。まず、仏教を熱心に勉強されている。そして、あえてやさしい「生活の言葉」で仏教の教えを語ろうとされていたようです。
さまざまなシンクロニシティーを感じたのですが、まず今回の展示テーマは「道への道」であること。経験は道である、というようなことを書いていただけに、その言葉に惹かれるものがありました。さらに、展示をみていてぼくの目に飛び込んできたのは、「子供たちを育てるには、感動を体験させることがいちばんである。美しいものに接していると、自然と邪悪なもの、不正なものを排除する心が養われる」という文章でした(企画展ブックを購入したのですが、その文章は掲載されていないので、あくまでもぼくの記憶している文面です)。
まさに昨日、そんな文章をブログに書いていただけに、ちょっとびっくりした。さらに展示をみていくと、相田みつをさんの声を流している展示があったのですが、スペースに足を踏み入れたちょうどそのとき、まさに上の文章が相田みつをさんご自身の言葉で語られているときでした。オートリピートで20分ぐらいのローテーションによって、CDブックの内容を延々と流しているのですが、偶然にも、感動することの重要性を説いている言葉を聞き、ぼくは何かはっとするものを感じました(といいつつ、スピリチュアルなものに全面的にコミットしないように、距離を置いてしまうのですが)。
相田みつをさんのすごいところは、自分の弱さをきちんと認めているところだと思います。50歳まで、書家としても詩人としても認められずに、悶々とした人生を送られていたらしい。さらに自分には欲があると認めていて、いまだに色の欲もあると公言する。一生悟ることはないだろうと思う、がんばりたくもない、がんばろうという言葉が大嫌いだ、ただ具体的に目の前にあることをひとつひとつ丁寧にこなしていくこと、感動とは感じて動くことであり動くことが大切、というような言葉のひとつひとつが刺さりました。
美術館に入ったときから何か後頭部に鳥肌が立つような感覚があり、そのことは認めるのですが、一方で、ぼくは盲目的にその感覚を支持しないでおこうと思っています。もちろんスピリチュアルなものの存在も認めますが、やはり一方で西洋的な思想と科学者的な心で接していたい気もしています。とはいえ、一番最後の展示で、ぼくはあやうく涙が出そうになったのですが、その文章は次のようなものです。
わたしは無駄にこの世に生まれてきたのではない また人間として生まれてきたからには 無駄にこの世を過ごしたくはない
私がこの世に生まれてきたのは私でなければできない仕事が 何か一つこの世にあるからなのだ
それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない
その仕事が何であるかを見つけ そのために精一杯の魂を 打ち込んでゆくところに人間として生れてきた意義と生きていくよろこびがあるのだ
社会人である以上、ぼくも仕事はしているのだけれど、それは生活を支えていく糧を得るための仕事といえます。相田みつをさんが言っているような仕事をしているのだろうか。ぼくがそういう仕事を成就できるとすれば、利益を追求するビジネスマンとしての仕事ではなく、このブログの延長線上にあるものではないか、と思いました。
映画が終わって、丸ビルの洋食屋さんでご飯を食べて帰ったのだけど、家族を大事にしつつ、ぼくがきちんと仕事を成就できるのは60歳過ぎてからかな、と思ったりもしました。ずいぶん長い時間があるともいえるし、あっという間の刹那かもしれない。相田さんの言葉通り、悟りを開かなくてもいいでしょう。人間とは何かまったくわからないままでかまわないのですが、一日を誠実に生きることで、誠実を積み重ねることで、それが何かを生むかもしれない。
よい仕事をしようと思います。美術館に展示されていて、相田みつをさんがぼろぼろになるまで読んでいた「正法眼蔵」の文庫が気になっています。
+++++
■相田みつを美術館。電子ブックなどの展示もありました。ぼくは展示の途中にある、隠れ家的な隙間というか狭い空間に入ってみたいと思いましたが、結局のところ、入ることができませんでした。なんとなく恥ずかしくて。そういう感覚を取り除いて、無垢でいることが大事かもしれないのですが。
http://www.mitsuo.co.jp/museum/index.html
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2006年6月15日
立体にみせる、音を配列する。
仕事がら、PowerPointをよく使っています。ところが、ちょっとかっこいいプレゼンテーション資料を作ろうと思って図形を立体化しようとすると、あまりうまくいかない。
オートシェープ(図形描画の機能)を立体化する3Dというボタンがあるのだけど、何だか違う。というのは、立方体を作る場合に、通常は正方形を描いて立体化するのですが、基本的に斜め右上に奥行きが広がるような図形になるわけです。しかし、これがどうもかっこよくない。息子の算数に出てくる立方体のような図形で、美しくない。ぼくが描きたい図形は、以前、このブログで「思考のエクササイズ」というエントリーで資料をつくってみたことがあったのですが、次のような図形です。
仕方がないのでこの図形は、ひし形を組み合わせて作りました。
ところで、「デザインする技術 ~よりよいデザインのための基礎知識」という本を読んでいたところ、この図形の描き方に技法としての名称があることを知り、なるほどと思いました。「アクソノメトリック投影法」というそうです(P.52)。特に「垂直な線分(軸)に、同じ長さの線分を左右に等分の60度角度を持たせて加える」一般的な描き方は、「アイソノメトリック」と呼ぶらしい。何気なく描いていた図形は、どうやらこのアイソノメトリックのようです。一方、正面の正方形に奥行きを付ける「押し出し図形」の描き方にも名前があり、Elevation Obliquesとのこと。これは「立方体の構造物を角度を付けずに見下ろした構図」だそうです。
こんな風に、何気なくどちらかというとこの描き方のほうが美しいな、と思って作ったものに法則があることを発見することは、結構楽しい。黄金分割などもそうだと思うのですが、昔から絵を描いたりデザインするひとたちの間で、どのように描いたら美しいか、リアルになるか、ということが考えつづけられてきたわけです。そこには人類の長い思考の歴史があり、自分の発見だと思っていたことであっても、誰かが考えている。
このとき、この発見はオレのものだ、オレだけに権利がある、という風に独占的に思いたくはありません。えっ?誰かがもう考えていたのか残念、と悔しがりたくもない。昔にもそういうことを考えていた誰かがいたことを思い、過去の誰かの思考とつながっていることをうれしく感じていたい。なんだきみも(誰だか知りませんが)そんなこと考えていたんだね、という共感がそこに生まれるわけです。そしてその思考を未来につないでいきたい。過去の誰かから、未来の誰かへのリレーとして。
ということを考えていて、また意識が回想モードに入ったのですが、まだ14歳か15歳の頃、少年のぼくはギターコードをピアノの鍵盤に置き換えているときに、ある法則を発見したことがあった。これは音楽をやっている方にとっては当たり前のことかもしれないのですが、たとえばCというコード(和音)は、ドの音をベース音にして、その鍵盤から(もとの鍵盤を数えずに)半音で4つ上(ミ)、さらに4つ上の音から半音で3つ上の音(ソ)の音で構成されている。これは3度と5度ということだと思うのですが、ベース音をどの音に変えても、この構造は変わらない。つまりDであれば、レの音から4つ上(ファの#)、その音から3つ上(ラ)になる。つまり、ギターコード譜さえあればどんなコードもピアノに展開できる。さらに真ん中の音を半音下げるとマイナーコードになる。Cであれば、ミを♭にするとCm(シーマイナー)になるわけです。
この法則に気がついたとき、ぼくは身体に電流が走ったような気がしました。もちろん、和音にはそのほかにも7度を加えるなどの装飾があるのですが、シンプルに音の世界をとらえるとすれば、世界は「陽(メジャー)」と「陰(マイナー)」、つまり日の当たる場所と影になる場所で成り立っている。したがってメジャーコードとマイナーコードの成り立ちさえ知っていれば、とりあえず表現ができる。しかもその構造は、どんなに転調しても同じである。この発見に少年のぼくは衝撃を受けたのでした。
その後、メジャー7のコードや複雑なディミニッシュを覚えたときには、ああ大人になったなあ、と感じたものです。けれどもはじめてコードの成り立ちを発見したときの驚きには及ばない。そのとき、ぼくの前に広がった世界の明るさというものを、ぼくはいまでも覚えているような気がします。
しかしながら、もっと考えを深めていくと、ドミソという構成と、ミソド、ソドミという構成は同じ音であっても何かが違う。これはまさに正面(図)にどの音が出てきて、背後(地)にどの音があるか、ということかもしれないのですが、同じ構成要素であっても、配列が違うとまったく別の雰囲気、世界観を醸し出す。まったく違う秩序が生まれる。余談だけれど、New Order(新しい秩序)というバンドがあるのですが、そのベースはルート(Cだったらドの音)を弾かないアレンジがされていて、そこがかっこいい。秩序を壊したところに新しい世界が生まれる。
会社などの組織も同じかもしれません。社員は同じであっても、誰がトップに立つかということで、同じ構成員だったとしてもまったく別のハーモニーが生まれる。同じ立方体であってもアイソノメトリックで描かれたときには洗練さが感じられるように、どうみせるか、ということだけれも大きく異なるものです。
こんな風にして、デザインや音などジャンルが異なるものを横断して、何か法則をみつけていきたいのですが、それは小説を書いたり音楽を創るのと同じぐらいに創造的な試みだと思うし、科学者や発明家のようなひらめきにあふれる分野であるような気もしています。もちろんあまりにもスピリチュアルになると危険も感じているのですが、その方法模索、あるいはパターン発見の長い旅のなかで、何か新しいものに出会いそうな予感があります。
+++++
■いろんな本を同時進行的につまみながら読んでいるので、なかなか読了できないのですが、「デザインする技術」は面白い本です。
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2006年6月14日
地と図、両側面からみること。
何かを選択するということは、一方で何かを排除することであり、実はひとつの行為のなかにふたつの側面が共存しています。「見る」という行為においては、たぶんセンサーとして視神経的にはすべての情報がインプットされている。しかしながら、脳内の意識というフィルターが「図(選択したもの)」として浮かびあがるものと、「地(選択しなかったもの)」として背後に追いやるものを選択・排除しているわけです。
先日のワールドカップにおいて、ぼくは選手たちというよりも芝生に目がいってしまった。本来は一生懸命にボールを追いかけている選手たちをみなければならないのに、その背後にある「地」である芝生をみてしまったことになります。「地」と「図」が反転している。なぜそうだったのか、ということを考えてみると、ぼくはふがいのない日本選手たちのさえないプレーや負けをみたくなかったからかもしれない。だから芝生ばかりみてしまったのではないか。
ということを考えていて思い出したのは、何度も繰り返していて、さらに今後も繰り返すだろうと思うのですが、脳梗塞で父が入院していたときのエピソードでした。シャントという管を脳のなかにいれて、脳に溜まった水や血を排出する処置をしたのだけど、その説明を一生懸命に聞いていたにも関わらず、ぼくはそのときのことをほとんど覚えていません。丁寧に時間をかけて、脳の写真などをみせてもらいながら説明を受けたのに、まったく記憶にない。つまりぼくは、半身不随もしくは植物人間になろうとしている父を認めたくなかったんだろうと思います。
「第1感」という本に書かれていたのですが、自閉症の患者の視線を分析すると、本来であればみるべき人間の表情の上に視線は動かないで、まったく関係のない壁の絵画などの上をさまよっているそうです。つまり、ワールドカップで芝生をみているぼくの意識も、医師から父の現状を聞かされながら何も心に残っていないぼくの状態も、どこか自閉症的といえる。けれどもそんな自分を理解しつつ、あらためて現実を直視しなければならない。潜在意識のなかでフィルターがかかってみえなかった世界を、ぼくは取り戻す必要があります。それは弱さを認めることでもあります。しかしながら、弱さをきちんと認めないことには、次の発展もない。きちんと弱い心に立ち向かわなければならない。
盲目的になることがあります。夢中になって何かに熱中しているときであればまだよいのですが、盲目的にひとを好きになったとき、盲目的に誰かを憎んだときは厄介なものです。そういうときには、心がある意味で自閉症的になっている。あるべき世界をきちんとみていません。激情に偏向した一元的な思考になっているともいえます。気をつけなければならないのはそういうときで、冷静な判断を見失っている。世界は決して「白か黒か」のようなデジタルなものではありません。「白も黒も」存在することがある。さらに「灰色」なときもある。けれども、激情に支配されているときには、そうした「地」的なものが意識の外に追いやられている。
「地」と「図」を選びながら、けれども選ばれなかった「地」があることを認めることが大事でしょう。両方をみることができたとき、はじめて世界をありのままに感じ取れる。人間には、きれいな部分もあれば汚い部分もある。はじまりがあるものには、必ず終わりがある。日の当たる場所には影ができる。ここではないどこか、いま自分の意識が切り取っている部分だけでなく、切り絵のように、ポジに対してネガの部分があることを感じ取れるようにしておきたいものです。90%は満足、という統計的なデータがあったときにも、10%は不満だったわけで、どちらに注目するかによって結果も変わってくる。もちろん満足と不満が共存していることもあります。人間の心はロボットと違って、二進法で組み立てられているわけではない。
「パレートの法則」というものがあります。80:20の法則と言われていますが、たとえば売上の80%は20%の優良顧客で占められる、というものです。アリのなかで働くのは20%であり、その20%を排除すると怠けていた80%のアリのうちの20%がまた働くようになる、という事例もあったような気がします。Web2.0などでよく使われるのは「ロングテールの法則」ですが、これもパレートの法則に似ています。20%ではないものの、少数のヒット商品が大きな売り上げを上げていて、残りの80%はわずかな売上ではあるけれど数だけは大量にあり、恐竜のしっぽのように長く広がっている。
唐突に話を変えますが、人間の70%は水である、ということを以前書きました。水ではない30%が、80%の人生を悩んでいたり苦しんでいたりするのかもしれない。地球の80%ぐらいは海だったような気がします(きちんと調べていませんが)。海ではない20%の大地で、ぼくらはささやかな文明を営んでいる。いまいる世界のことにせいいっぱいで、ここではないどこかのことに気づかずに、ぼくらは暮らしています。「気づき」と言ってしまうと何か胡散臭いものを感じますが、「潜在意識の闇に葬られている真実にあらためて光を当てること」が大事かもしれません。
昨日読み終えた「出現する未来」にも書かれていたのですが、この80:20のような法則は、決して偶然ではないのかもしれません。つまり、地球、人間の身体、経営組織の効率、アリなどの生物の営み、という規模の違う分野において、なにかものすごい世界の秩序が働いていて、成立する法則があるのかもしれない。それは認知科学、哲学、文学、経営学を横断して成立する法則(というよりもパターン)を見出すのと、どこか似ています。もちろん、その考えに固執すると危険なので、その考えから一歩引いてみて、そうではない論点も考察する必要はあるのですが。とはいえ、いまロングテールのさきっぽにある書物が注目されたり、CGMとして個々のブログや情報発信に注目が集まるのも、実は同じ大きな秩序のもとにあり、技術はもちろん技術以外の何かが働いているのかもしれません。ちょっと怖いですね。
9.11のテロがあったとき、世界中の乱数発生器が異常な結果を出したそうです。つまり人間の邪悪な行いだけでなく、人間を含む全体を覆う力が働いたのかもしれない、と「出現する未来」には書かれていました(これも微妙ですね。あまり踏み込まないようにします)。どんなにちいさな物事にも意義と目的がある。日常のささいな出来事は、決して刹那という分断された断片ではない。生活という刹那(部分)のなかに人生の重要な全体が内包されているのかもしれない。ホロンという思想もありましたが、部分と全体は切り離して考えるべきものではないかもしれません。
グーグルという企業にその考え方を適用して考えてみると、中国で検索エンジンを展開したときに、有害サイトが検索されない情報操作がされていたことが問題になっていました。つい最近誤りを認めるような発言がされていたようですが、もちろん誤りを認めることは大事だけれど、それは瑣末な部分に過ぎないような気がします。"Don't be Evil"という社是の言葉から、"evil(邪悪)"であるかどうかばかり注目されているのですが、善人と悪人の一元論で片付けてもしようがない。企業は利益を追求する以上、"evil"であろうと思わなくてもなってしまうことがある。人間に明るい部分もあれば闇の部分もあるわけで、その全体を偏見ではない目でみるべきだと、ぼくは考えます。もちろんぼくの私見ですが、闇の部分だけを見て批判するのはどうかと思う。ただ、もちろん闇の部分が全体に及ぼす影響は、考えなければいけないけれど。
むしろ考えなければならないのは、技術発展に重きをおくばかりに世界や自然や人間を見失っていないか、というところであると感じました。競争社会だけれど、そんなにあせらなくてもいいだろうし、グーグルは長期的な視野で世界を変えることができる企業であると思っています。そして技術は何のためにあるかというと、人類を含めて地球をしあわせにするためにあるのだと思う。いろんな対立が表面化しているようですが、図書館をはじめとして、さまざまな企業などと対立までしてサービスを推し進める必要はないのでは。発展を「保留」してみてもよいのではないでしょうか。
「地球に優しいのはどっち?マイクロソフト対グーグル」という記事で部分的に気に入っている箇所があるのですが、たとえば以下のような文章です。
オフィスというよりは、大学のキャンパスのようにみえるGoogleの社屋の周辺では、自転車や電気スクーターをよく見かける。従業員はこれを使って青々とした芝生や公共の通路を動き回る。「自転車のお医者さん」が四半期に一度、1日間無料で自転車のメンテナンスをしてくれる。Googleはまた、従業員がプリウスやホンダシビックのハイブリッドカーの新車を購入する際には5000ドルを支払っている。
技術と人間、そして地球環境との在り方をバランスよく考えること。それがロハス的なものにもつながると思うし、これからの社会に必要なことのようにも思えます。Web2.0なんかより、ずっとそっちの方が大切じゃないかと思う。ただ、ぼくがCNETの記事で気に入らないのは冒頭の一文です。これは全体を通した作為的な書き方にも通じるのですが。
インターネット利用者の心をつかもうと、GoogleとMicrosoftとの間の競争が過熱している。そんななか、どちらの企業が地球を救うことに長けているかが注目を集めつつある。
こうやってメディアが煽るから、大切なものを見失うのではないか。CNETのジャーナリズムとしての姿勢に疑問を感じました。バトルじゃないだろう、これは。バトルで環境に対する優しさを競っていても、何もよくならない気がします。対立や戦争からはきっと何も生まれません。協調が必要ではないのでしょうか。目を覚ましてほしいものです。メディアも、そしてこれからのIT企業も。
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■Googleの理念のページ。
http://www.google.co.jp/intl/ja/corporate/tenthings.html
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2006年6月13日
「出現する未来」P. センゲ , O. シャーマー , J. ジャウォースキー , 野中 郁次郎 , 高遠 裕子
▼book06-042:個のなかに息吹く全体を出現させること。
最近ぼくが考えていることに最も近く、だから手にとって購入してしまったのですが、非常に考えるところの多い書物であり、機会があればブログで取り上げて深く考察してみたいと思っています。全体の意思を宇宙的な観点から展開するスピリチュアルな表現にはぼくは入り込めず、宗教的な部分にどっぷりと浸かると思考を停止させてしまう恐れを感じているのですが、「分割できない全体性」をどちらかというと西洋的というよりも仏教的な観点から追求し、経営学や認知科学や哲学を統合するアプローチには共感を得ました。
「U理論」を軸に展開しているのですが、U理論とは、まずありのままに見たり感じ取ること(センシング)、思考の流れを一度止めて自分を捨てて内省すること(プレゼンシング)、そこからまた流れを生み素早く行動すること(リアライジング)の3つの状態をあらわしています。
「私」を捨てて内省する状態が「無」の境地であり、そこで世界という全体とつながる。つながった関係性のなかから未来を出現させる。といってしまうと、かなりスピリチュアルで、どうかなとも思うのですが、ぼくがなるほどと思ったのは、自分というものは世界との関係性によって生成する「出現しつつある未来」のなかにしか存在しないということです。つまり絶対的な自己というものはない。そして世界とつながっている以上、個のなかに「世界」がある。
たとえば、「介護社会を変える」といっても問題が大きすぎて、手に負えません。ところが「ボケ始めた姉に困っている田舎の母親の相談にのる」ことならできる。そして、このぼくの生活という個のなかに、実は「出現しつつある未来(=母がボケたときにどうするか、そしてもっと大きな介護社会の問題)」があり、そのことをシミュレーションして考えることで、未来の自分の行動をリアライジングできるわけです。つまり、未来はいま仮想的に考えているぼくの思考のなかにある。
ブログで社会を変えられるのか、という課題も、この視点から論じることができそうです。さらに深いテーマもいくつかあるのですが、いずれまた。6月13日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(42/100冊+34/100本)
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身体の水のために、よい言葉を。
ブログがまだ現在ほど知られていなかった頃、海外で使われていた言葉を流用して、アルファブロガーというキーワードが使われたことがありました。1日2万ページビューぐらいのアクセスがあり、世のなかに影響を与えるブロガーという意味だったようです。日本のアルファブロガーを選出する試みなどもあったようですが、そのうちのひとりのブロガーにぼくは疑問を感じたことがありました。
今日、別件で調べものをしているうちにそのブログに辿り着き、そういえばどうなっているのかなと読んでみたところ、なんだか荒れ放題という感じになっていました。以前には、それでもまだ読むことができるブログだったような気がするのですが、いまは正直なところ読めるエントリーではない。文章も破綻していて、コメントも厳しい。コメントに対する返信もない。コンビニで配布されている無料情報誌のような名前のそのブロガーさんの記事を読んで、残念でした。残念だけれど、なんとなくこうなるだろうと分かっていたかもしれない、という気がしました。
かつてぼくは、そのブロガーさんには「個」がないと思っていました。流行っているキーワードや大きな時代の流れをキャッチしてはいるのですが、絶賛したかと思うと、その流れが下降気味になった途端に「終わった」と言ってみる。「終わった」と言うことが、かっこいいと思っているのかもしれませんが、その内容にきらりと光る視点は感じられず、トレンドに流されている印象があります。「個」を通して「全体」を考えることが「志」であると考えると、「個」もなければ「全体」としての志もない。もちろん、それでもいいじゃないか、という見解もあります。書きたいことを書けばいいじゃないか、と。けれども、ぼくはアルファブロガーを名乗るのであれば、その発言に責任を負うべきではないかと思う。責任が負えないならば降りればよいだけだし、個人ブロガーとしてやっていけばいい。しかしながら選出されたのであれば、そのポジションに合った文章を書きつづけてほしい。
何でも書けばいい、喋ればいいってわけじゃないだろう、と最近ぼくは思い始めています。書くべき言葉、喋るべき言葉は慎重に選ぶ必要がある。個人的に言葉の重み、潜在的な効果というものも大事にしたいと思っているのですが、ちょうど今日読み終わった「出現する未来」の最後には、日本の江本勝さんの研究が引用されていて、この話に感動しました。
江本さんは水の研究をされていて、本には写真も掲載されているのですが、これがとても面白い。水が凍ったときの結晶を写真に撮っているのだけど、山梨の三分一湧水では美しい結晶なのに、汚水では結晶になっていない。
ここまではわかるのですが、次の写真に驚いたのが、バッハのG線上のアリアを聴かせた水は、ものすごくきれいな「幾何学模様」になっている。モーツアルトの交響曲40番を聴かせた水は「秩序と流麗さのバランス」がとれている。さらに「美しい」という文字を書いた紙を貼っておいたシャーレの水は「完璧なレース状の結晶」ができたのに対して、「汚い」と書かれた文字の方はぐちゃぐちゃな「醜い」結晶しかできなかったそうです。
人間の身体の70%は水です。水自体の反応が、われわれの身体に影響を及ぼすことも考えられます。「きれい」と思い、思うだけでなく言葉にしていると、身体の70%の水の力が、そのひとをきれいに変えていくかもしれない。
つまり、細胞レベルというよりも原子レベルで、ひょっとすると言葉の力が作用しているのかもしれない。言葉というのは人間の道具だけれど、世界全体の成り立ちに深く関与している何かが言葉というカタチを取ってあらわれているものかもしれないわけで、だからこそ水という心がないようなものにさえ影響を与える。世界の真理という大きな氷山の突出したちいさな部分が言葉であって、その背後にはぼくらが予想もつかない秩序があるかもしれない。
と、あまり考えすぎると危険な気もしていて、まあそんなこともあるだろうな、ぐらいにしておきましょう。しかしながら、書き言葉であっても喋り言葉であっても、言葉が身体(あるいは身体の水)に与える影響はきっと大きい。
ブロガーのなかには、梅田望夫さんのように「全体思考」に大きく志を発展させた素晴らしい方もいらっしゃいます。しかし、一方で、自分の仕事を取るための売名であったり、ただブログランキングの上位をねらったり、アクセスを増加させることだけに満足したり、批評家にとどまっているだけのブロガーさんもいたかもしれません。ブログの読者は書き手の背後にある意図には敏感なものです。だから、付け焼刃的な志では、すぐにわかる。
ブログ社会もずいぶん大きくなりました。ブログといえば誰にでも通用するようになった。素晴らしいブロガーさんたちが増えて、ブログを読むリテラシーも向上してきました。どんなブログがあってもいいのだけど、もし現状の不満や批判を吐き出すだけであれば、読み手のネガティブな感情を煽るだけです。社会批判のようにみえて、実際のところ不満を言ってすっきりするだけの自己満足に過ぎないかもしれない(しかし実際のところは身体の70%の水にも悪影響を及ぼすわけで、悪玉コレステロールよりも悪いかもしれない)。もちろん、そんなネガティブな言論に群がりたがるような揚げ足取りや批評家もいるもので、趣向が合うマイナス思考のひとたちにとっては格好のターゲットになります。そうして、やがてネガティブな世界のなかに埋もれていく。あらためてぼくも背筋を伸ばし、気をつけようと思います。
ちなみに、ソフトウェアで「アルファ」というと「アルファ版」という言葉があります。IT用語辞典からの引用です。
アルファ版は一般的に動作確認を行なう環境が不十分であるなどの理由から未知のバグが存在していることが多く、しかもシステムに影響を与える致命的なエラーが発生する場合もあるため取り扱いには注意が必要である。
アルファブロガーのアルファというのは、こっちのアルファなのかな、とちょっと思ったりして。
ぼくはまったくアクセスを増やそうとも著名になろうとも考えていなくて(昔はちょっと思っていた)、いま日に150ぐらいのアクセスをいただいているのですが、もっと少なくて充分、と考えています。もちろん読んでいただいている方にはありがたいのですが、もともとぼくの個人的な思索をとめどなく綴っているだけなので、長いだけでそんなに面白いもんじゃないだろう、と思っています。正直なところ、なんだか読んでいただいて申し訳ないです。
それでもときどき、メッセージなどをいただいてうれしかったりします。とある素敵なインディーズのアーティストさんから、先日ぼくが書いたブログを読んで「1歳から100歳までの夢を買いました」などという話を聞いたりすると、おすすめしてよかったと思う。
そんな風に誰かにささやかなよい影響を与えることができればいいのですが、まずは自分の身体に流れる水のために、よい言葉を使っていようと思います。
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2006年6月12日
芝生。
ワールドカップの日本対オーストラリア、負けちゃいましたね。なんとなく日本のチームは気迫に欠ける気がしたなあ。中村俊輔さんのゴールはうまいなとは思ったんですけど、なんとなくふわーという感じだったし。奥さんは寝ちゃいましたが、息子たちと最後までみていました。というか、次男の方はみているというかはしゃいでいるだけでした。それにしても、長男は明日、学校は大丈夫なのだろうか。というぼくの方が心配なのですが。
日の当たる芝生をみていたら、というか芝生じゃなくて試合場なのですが、ビールが飲みたくなってしまい、缶ビールをどんどんあけてしまったらよい気分になりました。なんだか日曜日の午後に、芝生の広がる庭でひなたぼっこをしているような感じだった。試合も後半になると、ゴールポストのあたりが日影になってしまって、あれだけ明暗がくっきりしていると守るほうも攻めるほうもやりにくいだろうな、と思ったりしたのですが、だからどうだという気もします。そんなわけで試合が終わって負けてしまっても、なんだかなーという気分にしかならなかったのですが、力が抜けてしまってブログもまとまりません。
芝生といえば、谷川俊太郎さんに「芝生」という詩があって、短い詩なのですが「ぼくとはなんだろう」という神秘的な問いがわきあがってくる作品です。ついでに、村上春樹さんにも「午後の最後の芝生」という短編小説がありました。この作品も広がりつつ閉じているような、一種のぼーっとした感じ、ハレーションを起こした緑の色彩のなかに意識が朦朧と沈み込んでいくような印象だったような気がします。
ぼくはいったいサッカーを観ていたのでしょうか。縞模様になっていた芝生をみていただけかもしれない。酔いが醒めたあと、次には眠りがぼくを朦朧とさせるのですが、そんな日もあるものでしょう。
きっと今夜は芝生の夢をみるような、そんな気がしています。
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2006年6月11日
夢を、あきらめない。
少年の頃、学校の文集には必ず「将来の夢」というテーマがあったような気がします。ぼくの夢は、発明家だったような気もするし、小説家や詩人だったような気もする。父がぼくに託した夢は、教師になることだったのですが、残念ながらぼくは父の夢をかなえることはできませんでした。息子というのはそういうもので、父の願いとは別の方向に育ってしまうものかもしれない。うちのふたりの息子たちもどうなることやら、という感じです。
帰省の途中で立ち寄った書店に、これはという本があり、ついつい買ってしまいました。1歳から100歳までのひとりひとりの笑顔と夢についての文章をまとめた「1歳から100歳の夢」という本です。
卒業文集のように同時代的な夢をまとめるのではなく、世代を縦に100年分横断しているのがいい。まず1歳の木村春太くんの夢からはじまります。まだ文章が書けないので、クレヨンの絵なのですが、なんだか伝わってくるものがある。
ごくふつうのひとがふつうの夢を語っていく。これがじーんとします。感動する文章が多いのですが、16歳の中平希望さんの「大好きを歌う」という次の文章がよかった。オペラ歌手になるために努力しているようですが、厳しいことがたくさんあるらしい。
好きで歌っているものに点数がつけられて順位がつけられるのはとても辛い事です。毎日毎日どんなに練習を重ねても向き不向き、さらには才能なんかある人にはやっぱりかなわなかったりして。一時期にはそれが原因で光のない暗闇に落ちてしまった事もありました。
つづいて27歳の河野由紀子さんの夢なのですが、「おばあちゃんになりたい」という言葉があり、思わずシンクロニシティを感じてしまった。というのもかつてぼくはこのブログで「おじいさんになりたい。」という掌編小説を書いていたからでした。悪性リンパ種で入院したときに、同じ病気の50代の戦友(年上なのですが共に病気を克服するという意味で戦友と呼んでいたそうです)が「次の誕生日を迎えられるかな」と言っていたことが忘れられないそうです。歳を取るのが恥ずかしい、というのはよく言われることですが、ひとつ年齢を重ねることができるのは大病のひとにとっては、ものすごく「うれしい」ことである。泣けました。一日一日を精一杯生きなくては、と思いました。
男性の素敵な文章もたくさんあります。そして素敵な笑顔がある。44歳の北川善浩さんは、新婚旅行のハワイでトラブルがあって奥さんを傷つけてしまった。そのときのことを謝るために、へそくりを貯めて、もういちど奥さんとハワイに行くことを考えているとのこと。
50歳を超えたらこんな感じになりたいと思ったのが、大学で教鞭もとられている広瀬敏明さんの笑顔です。それから、うちの親父に似ているな、と思ったのが94歳の葛城眞さん。「百薬の酒と羊羹」というタイトルで、一日の終わりのささやかな楽しみについて書かれています。うちの親父も生前は酒が大好きだったのですが、あと25年ぐらい生きて、葛城さんのようなおじいさんになってほしかった。
そして最後は100歳の矢谷千歳さんの夢で終わります。「悲しいとき つらいときも 楽しいことも 夢のようで/大事にしてもらい 大事に云ってもらい 長生きを喜んでもらい うれしい」という言葉に重みがあります。そして人生にも自然と同じように春夏秋冬がある、自然と同じかと思う、という言葉で結ばれています。
100人のなかには、91歳で東京造形芸術大学通信教育部の写真コースに入ったというおじいさんもいました。90歳でも夢をあきらめずに追いかけている姿に感動しました。いくつになっても夢は持っていたいし、その夢に向って前向きに取り組んでいたいものです。
この本は読み終わったら、息子たちの写真といっしょに田舎の母に送ってやろうと思います。
さて、ソトコトという雑誌の7月号に、「特集:【完全保存版】ザ・ベスト・オブロハスデザイン」という記事があって、ぼくはこの重い雑誌も買ってしまってしばらく鞄に入れていました。
ロハスとはLifestyles Of Health And Sustainabilityの略で、健康と環境に留意したライフスタイルだとか。世界的な動きらしい。ぼくはなにか広告や商業的な思惑が入っているような気がして、いまひとつ全面的に素直に受け止められない偏見があったのですが、「あなたにとってロハスとは?」というページに書かれた読者審査員の感想には頷けるものがありました(P.78)。つまりこういうことです。
丁寧に/暮らすこと。
未来を/想像しながら/今を生きること。
いらいらしないこと。/いらいらしないためには/どうすればいいか、/考えること。
祖先や子供たちへの/リレーが自然に繋がること。
これはよいなあ、と思いました。
ところで、Vocaloid MEIKOのコンテスト結果が発表されました。ぼくは入賞できませんでしたが、なんと!以前このブログで取り上げたMonkey & 36 Maniacsさんが拝郷メイコ賞でレコーディングとのこと。おおーっなんだかひとごとでありながら、うれしい。2月の時点で、このひとは才能がある、すごそうだと思っていたのですが、ひとつ抜け出たのではないでしょうか。
ぼくは残念な結果でしたが、そもそもお祭りに便乗したようなものであるし、ぼくはぼくの夢をあきらめずにいたいものです。それがどんなにささやかな夢であったとしても。
+++++
■「1歳から100歳の夢」。現在45歳あたりを読んでいます。
■「1歳から100歳の夢」を推進している日本ドリームプロジェクトの公式ホームページ。「みなさんの夢」のコンテンツでいくつかの夢をみることができます。
http://www.hello-iroha.com/dream/
■Vocaloid MEIKOコンテストの結果発表ページ。さすがみなさんクオリティが高いです。夢をかなえたという感じでしょうか。
http://players.music-eclub.com/contest_archive.php?id=017
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2006年6月10日
「グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する」佐々木俊尚
▼book06-041:すべてを破壊し、私企業は神になるのか。
スタートは非常に優秀な学生ふたりが立ち上げたベンチャーだったかと思うのですが、グーグルのやってきたこと、やろうとしていることは、かなりスケールが大きいと思います。この本では、テクノロジーだけでなく、たとえば羽田で駐車場サービスをやっている夫婦の企業にとってグーグルは何をもたらしたか、というようなプロジェクトX的なエピソードを盛り込みつつ、さまざまな視点からグーグルの意義を検証していきます。新聞社でお仕事をされていた佐々木さんの文章は非常にわかりやすく、ああそういうことだったのか、と過去の出来事を再考することができます。
しかし、個人的な感想としては、広告ビジネス的なとらえ方はいまひとつ興味をひきませんでした。確かに、アドセンスなどのキーワード広告は画期的なものだったかもしれないし、その広告収益が企業を大きく変えたともいえるのですが、ではグーグルは広告業かというと、そうではないような気がする。
ぼくはグーグルは、情報の供給をライフラインに変えるようなビジネスという気がしました。ありきたりといえますが、かつてインターネットによるネットワークのインフラがライフラインに変わる、という表現があったかと思います。それは電気や水道と同じように、ネットワークの回線が生活に必要なものとなるということですが、インターネットで重要なのは回線はもちろんそこで供給される内容で、その内容によってはインターネットは電話にもなれば銀行にもなるし、テレビになったかと思うと雑誌だったりもする。職業安定所にもなれば政府にもなる。
プライベートなものであれ、パブリックなものであれ、ここでやりとりされているのは情報です。つまり生活に必要なあらゆる情報をタダで提供しますよ、というところがすごい。それはもはや検索でもなくて、情報を水や電気のように供給するビジネスです(水や電気だって有料ですが)。停電のように、グーグルが止まったら都会では生活できないようになるかもしれない。
それが権力だと思います。だから政治に左右されると非常に怖いものになるし、この本のなかでは新しい監視社会像というものが書かれていて、映画の「マイノリティレポート」のようにすべての人間の情報がデータベース管理される恐ろしさにも言及されている。そういえばグーグルは遺伝子情報をデータベース化する話もなかったっけ?などと思い出し、ちょっと身震いしました。学生の頃にガス代や電話代が払えないと、社会から取り残されたような気持ちになったものですが、危険な情報を配信している、ということでグーグル八分となったとき、自分の情報が検索に引っかからなくなるぐらいならいいのですが、アドレスやIDで遮断して情報そのものを提供してもらえなくなったりしたらかなしすぎる、などと思いました。6月8日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(41/100冊+34/100本)
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耳をすます、全体を想う。
集中して誰かの話に耳を傾ける、という2日間でした。まずお仕事では、非常にレベルの高い合宿ミーティングに参加しました。ぼくは書記の役割(レポーター)なので、発言をノート(ノートパソコンではなくてこれがアナログなのですが大判のA4ノート)に書き取りつつ、その後、ミーティングの時間の1.5倍分ぐらいの時間をかけて、ICレコーダに録音した話を聞き取り直してノートの空欄に足りない言葉をびっしりと書き込んでいく。最初のうちは専門的な用語が気になるものです。ところが、全体の流れを把握しつつ何を言おうとしているのか、ということを考えているうちに、いろいろとみえてくるものがありました。
というお仕事の後、久し振りに単独で田舎に帰ったのですが、ひとり暮らしをしている母は待ってましたとばかりにぼくを迎えて、高齢でぼけつつある姉と姉妹兄弟のあいだにあった鬱屈した話を弾丸のようにぶつけてくる。姉をどうするか残りの4人の兄弟姉妹で話しているうちに、末っ子であるうちの母に押し付けようとするので、ついに怒りをぶつけてしまったようです。相続の話、どろぼう騒ぎを起こしてしまったこと(何も盗まれていなかったのだが、ぼけてしまったおばさんは荷物の位置が変わっただけで誰かが盗んだと思ったらしい)、施設に入れるべきかどうするべきかなど、たまりにたまった不満や不安を一気に話す。
ふだんのぼくであれば若干受け止めきれないところもあったかもしれないのですが、仕事で集中して耳を傾けるモードに入っていたぼくは、とにかく母に話したいだけ話をさせるようにしました。吐き出せるだけ吐き出したあとには母もすっきりしたようです。ぼくはというと、そのあとぐったり疲れて寝込みましたが。
話を聞くというのは難しい行為だと思います。ただ受動的に聞いているだけだろ?ともいえるのですが、受動的であっても自分のバイアスがかかってしまう。ほんとうに話したいことを聞き取っているのか、真意はどこか別のところにあるんじゃないだろうか、という不安もある。瑣末な言葉に気を取られるばかりに、大局(全体)を見失うこともあります。聞いているだけでなく自分のことも話したくなるものです。でも、そこをぐっとこらえて聞いているうちに、みえるというよりも感じ取ることができるようになる。ある意味、無我の境地におかなければ、ほんとうに誰かの話を聞くことはできないのかもしれません。
いま「出現する未来」という本を読んでいます(P.234を読書中)。
この本のなかにも「己を捨てる」ことで思考の流れをとりあえず「保留」にして、その保留にされた静寂のなかから立ち上がってくるものを感じ取る、ということが書かれていました。
たとえば火事で自分の家をなくしたひとのエピソードがあるのですが、自分が大切にしていた思い出の詰まった家が燃えていく様子を現前にしながら、最初は失ったものに執着し、かなしみでいっぱいだったのに、いつか静かな気持ちが訪れるようになったそうです。そして過去は失われたとしても「いまここに」自分は存在していること、自分のなかに未来があるという確かさを感じた、というような話でした。執着から手を離して、ありのままに「いま」を受け入れることが大事なことかもしれません。
次のような一節にも、ヒントがあるような気がしました(P.126)。
逆説的だが、よりリアルであるということは、仮想になり、実体をなくし、確定しないということだ。
さらに次のようにつづきます。
知恵ある者は、たえず己を手放し、仮想の自己、脆い自己を顕在化させている。そうした能力を最大限に高めた人のそばにいると、影響を受ける。そうした人たちに会うと、一種の共鳴が起きる。リラックスする。あるがままでいることは、とても楽しい、そうした人生にこそ喜びがある。
真に目覚めた人間は、つねに今この時に生きている(プレゼンシング)*1。
この本は経営学、認知科学、宗教などを横断して、未来を生み出す創造力について考察をしていきます。個人的にスピリチュアルな体験を紹介する箇所はどうも苦手で、内容に入り込めないものを感じているのだけど、いくつかのひらめきを感じました。
前後しますが、最近ブログに書いている「全体思考」についても記載されていて、文脈に欠ける接合や分析についてなど考えていたぼくには、以下の部分も興味深いものがありました。哲学者のマルティン・ブーバーの「我と汝」の関係を考察した言葉のようです(P.60)。
メロディーは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。このことは、私が「汝」と呼ぶ人の場合にもあてはまる。私はその人の髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、その人はもはや「汝」ではなくなってしまう。
全体思考とは、現前に存在するあらゆるものを「汝」という全体として「見る」行為かもしれません。たとえば仕事においてもテクノロジーという部分だけにこだわってしまうと見失うものがある。介護問題を費用や困難の面からだけみると、損ねてしまうものがある。
しかしながら、その個々の言葉のなかに「全体が宿る」ものではないかと思います。短縮された3文字ぐらいの技術専門用語の背後には、とてつもなくでかい人類のテクノロージーの叡智が集約されている。なにげなくこぼした母の介護の不満についての背後に、社会全体が抱えている問題がくすぶっている。
そんな言葉に耳をすまし、全体を想い、受け止められるぐらいのキャパシティを持ちたいものです。
*1:カッコ内の「プレゼンシング」は本のなかでは「生きている」のルビです。
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2006年6月 7日
上昇志向とこれから。
幕張メッセに行ってきました。
IT関連のイベントがあったのですが、景気がよくなってきているのかな、と感じました。もちろん久し振りのイベント視察なので、いつもと変わらないのかもしれないのですが、なんとなく華やかです。なぜだろうと考えたところ、コンパニオンさんがたくさんいるからじゃないか?と思い当たりました。コンパニオンさんをたくさん配置するとそれだけ費用もかかる。しかしながら、出展される企業にとっては、それだけ予算があるということではないでしょうか。
お腹がぺこぺこになりながら広いフロアをみていたのですが、とあるブースでプレゼンテーションの終わり間際にアンケートを記入していたところ、「ほんとうはプレゼンテーションをみた方に差し上げているのですが、これどうぞ。ないしょで(ウィンク)」と、あるコンパニオンさんからウィダー・イン・ゼリーのようなものをいただきました。うれしかった。天使かと思いました。砂漠にオアシスです。その企業の好感度がぐーんとアップしたことは言うまでもありません。
ところで、最近、うちの息子たちはぼくが帰宅すると「なんかなーい?」とやってくる。そんなに毎日玩具をお土産にしていたらぼくのささやかな小遣いは干からびてしまうので、「ないないないっ。これはコンビニで買ったパパの酒だっ。お酒は二十歳になってからーっ。」と追い散らしているのですが、今日だけは、ほれほれーっという感じで、イベントでいただいたプレミアムグッズ(乾電池で動く扇風機だとか、電卓、弾ませると光るボールなどなど)をあげました。でも怪獣ほどインパクトはなかったらしい。すぐに飽きてしまったようでした。しょぼん。
イベントの活況のように景気が上向いてきたせいか、いくつかの提案も承認いただき、仕事も順調になりつつあります。しかしながら、気を抜いてはいけないのはこういうときです。長期的な視野のもとに、地に足をつけていきたいものです。どんな仕事であっても、早朝に出社して電話の前で待っていれば仕事がやってくる、というような安易なものはないと思うのですが、順調なときこそ攻めの姿勢を心がけつつ、誠実にアプローチするべきかもしれません。より難題というか高度な課題をいただくことも多く、プレッシャーも大きいのですが、この緊張感を楽しみたい。レベルの高い仕事をしたいものです。
ところで、仕事はともかく、ブログではついつい長文のテキストを書き散らかしてしまいます。力が入りすぎです。丁寧に読んでいただいている方には、ほんとうにすみません。たぶん書いていることの80%は雑感だと思うので、そのなかに紛れている20%のダイアモンドを拾ってください。はしょって読んでいただければと思います。
非常に外資系的な観点ではあるのですが、1年を4つ(四半期)にわけてぼくのブログの方向性を考えてみると、1月から3月まではネガティブな感情も解放しつつさまざまなトライアルを試みた期間でした。掌編小説を発表したり、批判ではないことを書こうと決意したのもこの時期です。一方で、4月から6月までは、ある程度記事を安定させる時期と考えています。安定させる意味で、ゴールデンウィークの時期には、書けるけどあえて書かない、リアルを充実させましょう、という自律的なこともやってみました。そして、7月から9月までの目標として考えているのは、余計なことは書かない、という方針です。だから文章も短く簡潔にしていきたい。
と、1年間という全体を見渡しながら、ブログをつづけていきたいと思っています。ちなみにお仕事のため明日から2日間、ブログはお休みします。後で書くかもしれませんが、とりあえず。
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2006年6月 6日
「「個」を見つめるダイアローグ」伊藤穰一
▼Books040:外側の思考の大切さ。
内輪で過ごす時間はしあわせです。わかりあったものたちの間では説明する言葉も必要ないし、波風を立てずに、まあまあそういわずに一杯、という馴れ合いの感じになるものです。内輪だから許されることもあります。インターネットという内輪のなかだけで通用する表現もある。膨大な揚げ足取りと誹謗や中傷が繰り返されるのも、閉ざされた世界だから許容されているのかもしれません。
けれどもぼくはこの本を読んで、もっと視線を外に向けなきゃいけない、社会のこと、日本のこと、そして世界のことにも目を向けたほうがよい、とあらためて思いました。伊藤穣一さんも村上龍さんも、日本はもちろんさまざまな世界で活躍している日本人です。最近、多くのスポーツ選手も海外に出て行くようになりました。世界を視野に入れるのはなかなか勇気がいることですが、志は高く持っていたいものです。
ところで、グローバルな考え方というのは英語ができるということではなくて、意識の問題かもしれません。そのひとつの重要なキーワードが、この本のなかにも何度か出てくる「リスペクト」だと思います。ぼくは単純にリスペクトは「尊敬」だと思っていたのですが、なんとなく読後に意味が変わってきた。尊敬という、偉い・偉くないというレベルの話ではない。つまり、リスペクトというのは、まったく違う環境に育って、違う文化を持ち、考え方が異なる他者に対して、自分とはまったく違う「個」であることを、ありのままに認める姿勢ではないでしょうか。
ぬるま湯のなかにどっぷりと浸かっているぼくですが、もう少し危機感をもってみようか、などと考えました。まずは海外のサイトを英語で読んでみようと思っています。英語、苦手なのですが。6月6日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(40/100冊+34/100本)
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比喩が成立するとき、しないとき。
ある話のなかで「猫は犬だ」という表現が出てきました。比喩やメタファーについて考えつづけているぼくは、そこで立ち止まっていろいろと考えてしまったのですが、この表現は比喩でもなんでもないのではないでしょうか。表現として広がりに欠ける文章です。というよりも文章になっていない気もします。センスがない。
「AはBだ」と異なる言葉をつなげる力がメタファー的な思考であると考えていたのだけど、この一文は何か違うと思いました。首を傾げてしまった。しかしながら、一方で「人生は青空だ」という表現には、文学的な広がりを感じる。それはなぜだろう。
つながりを結び付けている属性に着目すると、「猫」も「犬」も「動物」です。四本足で歩行する生き物ともいえる。AとBを動物というカテゴリーでシャッフルして、ちょうどスロットマシーンのようにランダムに機械的に組み合わせた文章が「猫は犬だ」という文章の成り立ちのように思える。けれども「人生は青空だ」の「人生」と「青空」はそもそも異なるカテゴリーにあって共通する属性はない。ないのだけれど、何かイメージが重ね合わされてそこに意味が生成する(ような気がする)。
これが文脈(コンテクスト)だと思うのですが、つまり「人生」という言葉の背景にある「未来を前向きにとらえて広がる感じ。時にはかなしいこともあるけれど、うれしいこともある」というイメージと、「青空」の「見上げるときの頭上に広がる青。時にはまっくろに曇り夕立ちが降ることもあるけれど、透明なブルーに白い雲が流れるすがすがしさ」を重ねているわけです。そして、人生の広がりとさまざまな出来事を許容し、青空を見上げるように前向きに生きていきたいという「人生観」あるいは「世界観」、願いや希望のようなものがこの一文にはある。もしかすると、そんな考えに至るまで、この文章を語る彼はものすごく辛い人生を送ってきたかもしれない。そんな辛い「経験」のあとに「人生は青空だ」と語ったとき、言葉には重みや深みが付加されることになります。ひとことだけど、ずしんと響く言葉になる。
しかしながら、「猫は犬だ」には人生観も世界観もありません。安易な言葉あそびにすぎない。この程度の表現であれば、コンピュータにも十分にできる。人間がやる必要もありません。適当な名詞をシャッフルして組み合わせればいいだけです。
実はこれが人間とコンピュータを分かつ大きな違いだと思うのですが、文脈という意思、もしくは経験や人生観があるかないかで、そこに立ち上がる意味がまったく異なる。ただシャッフルして組み合わせた言葉や、つながったように「みせかける」うわべの技巧とは大きく異なります。
ところで、困ったおじさんという人種はどこにもいるものですが、彼らの問題の多くは「猫は犬だ」的な発言もしくは思考にあるような気がしました。つまり、それまでの話の流れを無視して、ただ動物つながりというだけで会話に「犬」的なものを登場させてしまうわけです。そうして話の腰をぽきんと折ってしまう。たとえば「猫ってかわいいですよね。賢いし」と話をふると、「そうだな、猫は犬だ(=犬だって賢いし、かわいい)。」のように答える。そんなことを言われると面食らって黙ってしまうのですが、発言した本人は、してやったり(にやり)と思っていたりするから困る。いいこと言っちゃったな、なんて勘違いしていたりするものです。もちろん他者に対する配慮がないから(他人の話なんて聞こうと思っちゃいないので)、ぶっきらぼうな発言もできるわけですが。
一方で、「猫ってかわいいですよね。賢いし」「そうですね。賢いといえば先日、うちの猫が・・・」という風に文脈をつなげていくと、コミュニケーションは成立する。それは相手の話をきちんと聞いて、その文脈を理解した上で自分を表現していく、という当たり前といえば当たり前ですが、話されていること全体を見渡す力が必要になるわけです。会話の流れを変えて自分の土俵のなかに持ち込む技術も時として必要ですが、強引に無理な引用で流れを変えようとすると、文脈そのものを破壊します。これは先日も書いたように、ブログが必要ないのに企業にブログを売り込むようなものかもしれません。
おじさんなぼくは、そんな風にならないよう気をつけなければ。
さて、ぼくは比喩の重要性とともに、意識をシャッフルすることについても書いてみたのですが、これはコンピュータ的にランダムに組み合わせるのとは違います。あくまでも「経験」というパターン認識をしたうえで、そのパターンに近い言葉の「選択(もしくは捨てること)」が必要になります。
先日コメントをいただいたふくちゃんさんのサイトに「音楽が変わる」という非常に面白いエントリーがあったのですが、「音階が有限であるために、メロディは有限である」という音階有限説を書かれています。これは茂木健一郎さんと坂本龍一さんのPodcastingの対談にもあったお話ですが、ぼくの考えを述べると、創作とは、技術的なランダムな組み合わせによってまったく新しいものを創り出す活動ではなく、偉大な過去のアーティストと「つながっている」ことに尊敬と感謝をしながら、その先をめざす試みではないかと思います。
たとえば音楽においても音階をランダムに生成する以外にも、「猫は犬だ」的なランダムな接合による創作は可能です。「恋はあせらず」のようなモータウンならではのリズムがあるのですが、そこにモーツァルトのメロディをのせることだってできる(モーつながりで接合してみました)。確かに面白いし、斬新な試みかもしれない。でも、そういうことをやっているアーティストに疑問を感じるのは「おまえのその世界観はいったい何?」ということだと思います。かつて社会人バンドをやっていたときに何時間もかけて議論してきたのですが、借り物のスタイルをとってつけて繕っても全然かっこよくない。借り物がニセモノになる。借りてきたものに対する愛情や敬意、意識や考え、さらにある意味でテツガクがなければ、頭が猫で胴体が犬のような作品になってしまうわけです。それでは心を打てません。
面白い技術を追求しがちなぼくは気をつけなければ。
ランダムにつぎはぎしただけのマッシュアップ、めちゃくちゃな音階やノイズだけを使ってアーティスト気取りで構成したラップトップミュージック、背景に感情も趣向も感じられない音の配列。それは音楽といえるのでしょうか。魂がないのではないか。インターネットをはじめとした技術と音楽は密接につながりがありますが、技術=音楽ではない。ふたりの息子たちが隣の部屋で歌っている「ウルトラマンメビウス」を聴くたびに、なんて素敵な音楽だろう、きれいな声だろう、とぼくは感じています。人間に口と耳がある限り、音楽はなくならないのではないでしょうか。
企業や企画も同様かもしれません。アイディアをつぎはぎにするのではなく、リーダーシップを発揮する「私」の意志によって個を串刺しにできれば、そこに力強さが生まれる。説得力もある。なぜAとBをつなげなければならないのか。面倒だけれども、そのことをしっかりと考えるとき、創造力を別の次元に跳躍させることができるような気がします。組み合わせの理屈で、ランダムに語を入れ替えただけではクリエイティブにはならない。そんな作業は、コンピュータにさせておけばいい。
とはいえ創造的であること、それが難しいんですけどね。
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2006年6月 4日
似たもの探しの発想。
ぼくの仕事は、「もやっとをカタチにする」仕事である、と先日定義をしてみました。これはどういうことかというと、お客様のなかにある漠然とした「こうあればいいなあ」という希望や、「こんなことをやってみたい」という願いを、企画書という設計図のなかに落とし込んでいく仕事です。プランナーやマーケッターという職種にどうもぴったりとしないものを感じていたのですが、願いや理想をデザインする仕事、といえるかもしれません。
その後に、設計図をもとに具体化していくのですが、その過程においてはたくさんのプロフェッショナルなひとの力が必要になる。具現化しなければならない「もやっと」がパンフレットを作りたいということであればデザイナーさんの力が必要になるし、サイト構築であればシステム関連の会社の力を借りることになります。イベントであれば、イベントプロデューサーの力が必要です。仕事はひとりではできない、ということを常に謙虚に受け止めることが大切です。
一方で、仕事だけではなくて趣味のDTMについても「もやっとをカタチにする」時間といえます。頭のなかに浮かんだメロディを、ぼくの場合はマウスでちくちく入力していって、つまり和音もひとつずつ積み上げていくわけですが、これが非常に気の遠くなる作業です。でも楽しい。ちくちく置いていくうちにイメージが消えてしまうことも多いし、複雑な処理をさせるとソフトウェアが落ちてしまうこともある。そういうときにはマウスを投げつけて(かわいそうなマウス君)、中断して忘れることにしています。
多くのひとがそうらしいのですが、シャワーを浴びているときに音が浮かぶことが多い。おおっこのメロディいいぞと思って、忘れないように何度も頭のなかでリピートさせておくのですが、仕事のことを考えた途端に全部忘れてしまうこともあります。ICレコーダーでも常に携帯しているといいのですが、そうもいきません。デヴィッド・リンチ監督の「ツイン・ピークス」に出てくるクーパー捜査官のようになってしまう。作家さんなどでは、夢のなかで発想が浮かぶことも多く、枕元にメモが常備してある、という話をよく聞きます。ぼくはアイディアが流れてしまっても、まあいいか、と思うタイプですが、書き留める姿勢がプロなのかもしれません。
ところで、もやっとをカタチにするときに有効なのが、似たものを連想する、という思考のフレームだと思いました。そして、これは何かというと、レトリックもしくはメタファー(暗喩)的な思考ではないかとぼくは考えています。
もやっとしたイメージは言葉にならないもので、なかなかずばりと言い表すことができません。けれども、たとえば白くて円形の何かを言うときに「誕生日ケーキのような」とか、静かだけど爽やかなメロディを「秋空に雲が流れていくような」という試みを繰り返すことで、表現したいものに近づけていくことができる。なんだか違うな、なぜだろう、もっと他にないだろうか、と考えつづけることで豊かな言葉を獲得できるような気がします。
さらにこの細部を意識的にシャッフルしていくと、別のイメージに組み替えることが可能です。「誕生日+ケーキ」を「記念日+花束」に変えると、ちょっと赴きが変わってくる。ただその背後にある「祝うよろこび」は変わらない。さらに場のカードもいくつか加えて、「家」なのか「レストラン」なのか、手札を広げてみてどれを選ぶかというチョイスで文脈(コンテクスト)は大きく変わる。
レトリックやメタファーというと技巧的でネガティブなイメージもありますが、最近さまざまな本を読みつつ、人間の思考の根幹にありコンピュータには代替不可能な能力がメタファーの力である、とぼくは強く認識しつつあります。逆に言えば、まったくランダムに言葉を組み合わせるのではなく、意図的にメタファーを生成できるコンピュータが登場したら、もしかすると人間の頭脳を超えられるかもしれない。さらに加えると、コンピュータにできない仕事をするためにはメタファー思考を鍛える必要があると思います。だからといって「いるかはいるか?」とダジャレを連発するおじさん的なエンターテイメントの方向で洗練をめざすのではなく(もちろんこの楽しさも必要ですけどね)、あくまでも「似たものを探す」こと、言い換えると「パターン認識を強化すること」ではないかと思います。
目の前で何かが展開されたとき、潜在意識という引き出しにしまい込まれた映像・文章・音・匂い・味などを総動員して、そのパターンに合致する「経験(文脈)」をピックアップする。ピックアップした上で、経験を解体して、意図的にイメージをずらしていく。シャッフルして、まったく別の経験とつなげるわけです。その思考は、そのままではカタチにならないので、アウトプットとして文章、映像、絵画、音楽などで表現する。いつもの通り理屈っぽくて自分でも苦笑気味ですが、このような思考を訓練することで、創造的な力が鍛えられるのではないか、と思いました。
年間本100冊を読破する+映画100本を観るという課題を自分で自分に課してやろうとしているのですが(ちょっと最近、未達ぎみ)、ここでやろうとしていたことは「経験」を積む、ストックを増やすことであって、それだけでは意味がない。積みあげたことをアウトプットしてはじめて鍛錬になるわけです。インプットだけでも実はかなりつらいのですが、アウトプットもつらい。モーツァルトのように楽しんで曲を作ることができるようになればいいのですが、凡人には難しいものがあります。とはいえブログの方は、1ヶ月分でさえプリントアウトできないほど大量の文章を書き散らかしていて、ハイパーグラフィア的ではありますが。
ところで、似たもの探しは類似性に注目した考え方ですが、属性(赤い、大きい、長いなど)に注目するだけでなく、時間の推移による構造についても、似たものとしてとらえることもできます。最も一般的なのが「起承転結」ですが、「今週は仕事の山だ」というときに、時間的な推移をモノに例えている。そして、言葉の背景には「山を越えれば平地(=ひまな時間)がある」というイメージが付帯しています。
さて、そんな仕事の山をひとつ超えて、次の山がみえてきているところですが、趣味のDTMでつくった新しい曲を昨日muzieにアップしました。こちらも大きな山を越えた感じで、ほっとしています。来週の火曜日ぐらいには公開されるのでしょうか。CPUとの戦いというか、RealGuitarがうまく鳴ってくれないので調整に苦労したのですが、最後の方は雑になってしまっていて、いま聴きなおして凹んでもいます
歌詞もある曲なのですが、今回はインストです。10年前につくった曲で、カセットテープのMTRで録音して、ミックスダウンした下手くそな演奏のデモテープもあったのですが、カセットデッキが壊れていて聴くことができませんでした。こんな感じじゃなかったかな?というイメージの記憶を辿りながらまったく最初からつくりなおしました。もとの曲を聴きなおすと、似ているどころか、まったく別ものかもしれません。
メタファーについて考えてみましたが、そういえば初期の村上春樹さんの作品は、秀逸なメタファーの宝庫です。また読み直してみたくなりました。
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2006年6月 3日
未来の種子たち。
今週は参観日ウィークという感じで、今日の土曜日は小学校四年生の長男の参観日に行ってきました。これがとても面白かった。勉強になりました。子供よりも父の方がいろんなことを考えてしまった。昨夜は深夜の3時まで趣味のDTMのMIDIコントローラとレイテンシの設定に四苦八苦していて、さすがに朝はつらくて1時間目の国語の授業は聞き逃してしまったのですが、聞いておけばよかったと思いました。残念です。
小学校の参観日の2時間目は社会で、先日とある教育センターに行ってきてプラネタリウムと郷土資料館を見学してきたようなのですが、特に気になった内容を3つ、新聞にまとめるという授業でした。ある意味、ジャーナリスティックです。それをひとり1分ずつ発表するので、プレゼンテーションの練習ともいえます。みんなの発表を聞いていると、この子は文章のはじめ方がうまいな、とか、よくそんな詳しいことを覚えているな、とか、原稿の方だけじゃなくてみんなをみながら話しているから将来はアナウンサーに向いているかも、とか、さまざまな子供たちの未来を想像して楽しかった。
それから、ほんとうに瑣末なことですが、先生が黒板に「教育センターの発表」とタイトルを書いたのですが、その文字の左右に青いチョークで二本、すーっと線をひいた。つまり二本の線で囲むようにしたわけです。これだけでなんとなく見出しのようになるし、注目させる効果がある。たいしたことではないのですが、きっと先生には生徒を注目させるTips(隠しワザ)がいくつかあるのでしょう。最近デザインにも気を配ろうと思っているぼくは、そんな細かいところに感心してしまいました。
3時間目は道徳です。これが非常に深かった。長くなりますが思ったことを書いてみます。
題材は、次のようなストーリーです。
ある女の子が友人から絵葉書をもらった。その絵葉書は定形外だったので120円の送料が必要だったのだが、友人は50円しか貼っていなかった。70円分不足である。女の子は返事を書こうとして、料金が不足だったことを書くべきか悩む。彼女のお兄さんは、ぜったいに書くべきだという。一方で、お母さんはお礼だけで書かなくてもいいじゃない、という。では、どうするか?
選択肢として、お兄さん派(書くべき)、女の子派(悩む)、お母さん派(お礼だけで書かない)という3つを黒板に先生が提示しました。なかなか熱い議論があったのですが、男の子はどちらかというと極端な意見を支持していて、一方で女の子は「お礼を書いて、ついでに足りなかったよと書いてあげる」という意見が多かったようです。
ここで養老孟司さんの本に書かれていた"人間の基本は女性であり、女性は出産などの変化が多い人生を送るので安定している。一方で構造上、異端な男性は極端なことを言うことが多い"というようなことを思い出してしまいました*1。と同時に、小森陽一先生の「村上春樹論」に書かれていたことも頭によぎったのですが、女性は子供を育てなければならないわけで、子育てにおいて特に口唇期のしつけは、愛情と厳しさという相反する感情を許容するものであるという指摘がありました。
したがって、まだ9歳とはいえ、母性的なものを基盤に持っている女の子は基本的に両側面から考えることができるのかもしれない。一方で男の子は、片方の側面から考えたことから激論を戦わせていて、それが男の子っぽいとはいえるのだけど、やっぱりこれぐらいの時期の男の子は子供だなあ、女の子のほうがしっかりしているなあ、という印象がありました。つまり片方しかみえないのが子供で、両側面の思考力があるのが大人である、ということになりますが。
ぼく個人の見解としても、「お礼をいいつつきちんと足りなかったことは書く」だと思います。これは、「どちらか」を選ぶ思考ではなく、相反する「どちらも」選ぶ思考といえるかもしれません。しかしながら、折衷案という歯切れの悪さも感じます。それに実際はどうでしょう。結局、まあいいかと書かないでおいて、それでいてなんとなくすっきりしない気分が残るかもしれない。
「お礼だけ言って、料金不足は書かない」という主張をする子の意見は、「書くと傷つくから」ということでした。誰かの痛みを感じ取る「共感」が、そういう選択をさせるわけです。けれども、書かないでおくと間違えを何度も繰り返してしまう。だから反対派の子供たちは、書くべきだと説得していました。
さらに面白い意見があって、「手紙の返事は書かない」だそうです。なぜなら、書くと相手も返事を書かなければならずいつまでも手紙がつづいて大変なことになる、とか。思わず吹き出しそうになったのですが、考えてみるとメールやブログの世界にも同じようなことはあるわけで、一概におかしいともいえない。それから、「友達との親しさにもよって書いたり書かなかったりする」という意見にも唸りました。理屈っぽいことを言ってしまうと、「関係性」というコンテクストによって伝える言葉も変わる、ということです。
最終的には、料金不足を書く(26人)、悩む(1人)、書かないでお礼だけ言う(3人)であり、うちの息子は大多数のなかにいましたが、えー?きみは恥ずかしがりやで小心者だから書かないんじゃないのー?と心のなかで突っ込みを入れていました。マイノリティーな意見を堂々と述べた3人にも、ぼくはひそかにエールを送りたい。彼等にとってそれが正解であれば、正解なんだと思います。少数派であっても胸をはって意見を言えるのは、すばらしい。
日本の教育はまずい、ということがよく言われます。もちろん全体的にはまずいところがたくさんあるかもしれない。けれども教室の場でいっしょうけんめい考えている子供たちをみると、頑張ってるじゃん、と思う。
いま村上龍さんと伊藤穣一さんの「「個」を見つめるダイアローグ」を読んでいて、そこにも教育をはじめ日本のおかしいところがたくさん書かれています。グローバルな視点から日本のおかしな部分を浮き彫りにしていく。「これは面白い本です。楽しんでほしい」ということを村上龍さんが冒頭で書いているので楽しんで読んでいるのですが、しかしながら面白いなあと思って読み進めながら冷静になったときにふと感じたことは、要するにおふたりはグローバルな外部の視点からみているから面白いんじゃないか、面白いけどこの問題はぼくらの日本のことだろう、面白がっていていいのか、ということでした。
野球にしてもサッカーにしても、フェンスの外で眺めていれば楽しい。しかし実戦で闘っている本人たちには、もちろん楽しさもあるけれど、楽しいだけじゃないこともたくさんある。アウトサイダーとして論じるのは楽しいけれど、それでいいのかな、と感じました。日本のおかしさを自虐的に楽しんだとしても何も変わらないのではないか。
教育も同じではないでしょうか。外野からいろんなことを言うことはできる。でもぼくは教師ではないし、教師の苦労をわかっていないんじゃないか。頭のなかで考えるのではなく、参観日に実際に出席してみると、生き生きした顔も疲れ果てて沈んだ顔もみることができて、じゃあ自分に何ができるか、ということを考えさせられました。
日本の教育を批判するのであれば、まず自分にできることから行動すべきではないでしょうか。村上龍さんは「13歳のハローワーク」という次世代の子供たちのための仕事をされていて、それはものすごく素晴らしいことだと思います。ではぼくに何ができるんだろう。いろいろと思うところがあり、家族で議論したりもしたのですが、結局のところ、次男と散歩したり、長男が自転車に乗れるように助けてあげたりして、一日が終わりました。理屈っぽいことをたくさんブログに書いていますが、リアルな生活はシンプルなものです。
9歳にもなってまだ自転車に乗れなかった長男ですが、自分の将来にも関連する議論にどうやら考えるところがあったらしく、なんとなく今日は気迫が違って、はじめて数メートル自分で走ることができました。よかったよかった。
子供たちは未来に蒔かれた種子のようなものだと思います。すくすくと育つために、ぼくらができることを考えてみたいと思います。そして子供たちのために考えたことは、思考の戯れや社会批判では終わらせないようにしたいものです。
*1:引用ではなく要約です。そんなことが書いてあったような気がしました。
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2006年6月 2日
楽器のある生活。
めちゃめちゃうれしかったのですが、お仕事関連で撮影に利用して不要になったキーボード(MIDIコントローラー)を譲ってもらいました!!これです。
EDIROLの薄型MIDIコントローラーです。ほしかったんですよね、これ。何度も店頭でどうしようか眺めていました。2万円ぐらいの価格で、買おうと思えば買えないこともない。微妙な価格です。けれども他にほしいものはたくさんあって、断念していました。とはいえ、タダでいただけちゃうとは!!いろいろと気を遣っていただいたのかもしれませんが、ほんとうにうれしい。こういうときは、ひねくれないで素直に喜ぼうと思います。余談ですが、いくつか仕事がよい方向に向いつつあり、自分を必要としていただいている方から声をかけてもらったりしています。もちろん過大な評価をいただいていることもあるのですが、つらい日々のあとにはこんなうれしいことも待っているわけで、頑張ろうと思っています。
MIDIコントローラの話に戻りますが、25鍵しかないとはいえ、打ち込み主体のぼくには十分です。これが買えないあまりに、ピアノロールにマウスでちくちく音を置いていく「点描画ミュージシャン」を無理やり標榜したりしていたのですが、今日で点描画は廃業するかもしれません(まだ、PCに接続していないので何ともいえず、実はやっぱり点描画だ、ということになるかもしれないのですが)。
点描画ミュージシャンを宣言したのだから最後まで初志を貫徹しなさい、というご指摘もあるかもしれませんが、いいんです。ぼくは最近、朝令暮改をよしとするというか、フレキシブルな対応こそすべて、と感じています。ぜったいこうあらねばいけない、という強い意思は大事であるし、頼もしいと思うのですが、環境の変化が激しい時代には、ぽきっと折れてしまいかねないものです。むしろ、あんなことを言ってたけどやっぱりこっち、というフレキシブルなしなやかさのほうがよい。プライドなどがあると、なかなか宣言したことは曲げられないものですが、プライドなんてちゃちなものは捨ててもいいんじゃないか、と考えています。
「ハイ・コンセプト」という本にも「チーズはどこへ消えた?」という本が引用されていたのですが、あの寓話にあるように、変わってしまったものに対して怒ったり批判するよりも、変わってしまったものは置いて新しいものを探しに行けばいい。また、いま読み進めている(178ページを読書中)村上龍さんと伊藤穣一さんの「「個」を見つめるダイアローグ」という本にも、日本人は決められたルールを守ることに集中し過ぎることによって、逆に全体を見失うことがある危険性が書かれていました。JR福知山線の事故を例に、伊藤穣一さんは「無謀なルールにがんじがらめになって、人命という、もっともっと大事なものを失ってしまった。」と述べられています(P.82)。ルールという細部にこだわって「全体思考」ができなかった、といえるかもしれません。
つまりぼくらは全体をみることができれば、瑣末な何かから解放されて、自由に生きることができるようになるのではないでしょうか。けれども瑣末な何かを捨てることは、全体としての自分を損なうことではない。たとえばブログを書きつづけると、書きつづけること自体が目的になって、現実との本末転倒が起きることもあります。強迫観念的に書いてしまうことがあったり、アクセスを求めたりすることになる。しかしながら、書くことを止めてもぼくという全体は存在しているわけで、その存在は汚されるわけではない。あるいは、ぼくは自主的に年間本100冊と映画100本を観るという課題を自分に課しているわけですが、達成できなくても途中で辞めたとしても、それでぼくが損なわれるわけではない。もっと大事なものに注力したいと考えたとしたら、そのほかのことは投げ打ってもかまわないと考えています。
日本人は、どちらかというと「運用主体の民族」という気がしました。新しいことを生み出すよりも、一度生み出されたルールを律儀に守っていくほうが得意です。農耕型だから、繰り返して運用する社会の在り方に安心もするし、そのスタイルを守っているのかもしれません。けれども、これからの社会においては、運用だけでは厳しい世のなかが訪れるかもしれない。ダニエル・ピンクさんの本にかぶれている偏向も感じますが、新しいことを生み出すクリエイティブな能力が求められていることは確かじゃないか、とも思います。
さて、6月になってしまったのですが、趣味のDTMで10年前の曲をセルフカバーする試みはまだつづいています。そしてこれも焦って発表するのではなく、納得のいくところまで作り込もうと思っています。RealGuitarというソフトウェアがなかなかのくせもので、もうちょっとのところでリアルにならない。
そんな風に仕事と同時に打ち込み三昧の毎日ですが、あらためて感じたのは、キーボードがある部屋っていいものだなあ、ということでした。ぼくの部屋にはいまギター(フェンダージャパンのテレキャスター)、ベース(ビートルズのポール・マッカートニーも使っていたへフナーのバイオリンベース)が立てかけてあるのですが、そこにキーボードが加わってかなりいい感じになりました。ほんとうは弾かなきゃいけないのですが、そこにあるだけで何か存在感がある。薄型MIDIコントローラーにはソフトケースも付いているので、パソコンとキーボードを抱えてスタジオに入る、なんてこともできそうです。
ぼくは打ち込みをある程度究めたところで、また楽器を自分で弾くというところにも戻りたいと思っているのですが、どんなに朝令暮改でフレキシブルにスタイルを変えたとしても、音楽のある生活だけは守りたいものだ、楽器のある部屋はいいなあ、とあらためて思いました。
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2006年6月 1日
もやっとをカタチにする。
暑い一日でした。スーツを着込むとしんどい季節がやってきました。でも、熱くても涼しい顔でスーツを着込むのが男の美学だと思っていたりします。虎ノ門のあたりをうろうろしていたのですが、打ち合わせの時間までに余裕がありすぎたので、コンビニで涼んで出たところ、方向感覚を失ってしまった。きっと暑さのせいでしょう。あるいは、恐竜のしっぽのように長く伸びた後ろ髪のせいかもしれない。時間がなくて美容院に行くことができずに伸ばし放題なので、週末にはすっきりさせたいものです。
会社に戻ってデザイナーさんのお仕事を手伝っていると、求人広告の取材らしく社内の撮影をしていました。ピースしたらどうですか、と言われて、ピースしてしまった。きっと使われないと思うのですが、ぼさぼさの長髪でピースしている疲れたおじさんの求人広告があったら、それはひょっとするとぼくかもしれません。ぼくじゃないかもしれない。まあ、どうでもいいことですが。
仕事のことについて最近あまり書いていないのですが、たまには書いてみることにしましょうか。ぼくは企画やマーケティング関連の仕事をしています。企画というと、おちまさとさんのような華やかなプランナーを想像する学生さんも多いようですが、そんな仕事は、ほんのわずかな才能のある人間だけに限られています。そのほかのプランナーといえば、地味にこつこつと仕事をしているひとが多いのではないでしょうか。最近は、なんとなく華のある企画の仕事もあったのですが、ぼくの仕事の大半は非常に地味な仕事です。
では、どういう仕事かというと、ひとことで言ってしまうと「もやっとをカタチにする」仕事ではないかと考えました。奇抜なアイディアが企画だろうと考えているひともいるかもしれませんが、それはプロの仕事とはいえない。アイディアと企画は同じようで大きく異なります。アイディアを企画だと勘違いしている学生さんは、出直してきてほしい。ぼくにとっての企画とは、お客様のなかにある、なんとなく感じているのだけど言葉や図解にできない何かを、具体的なアウトプットとして企画書に表現するという仕事です。その範囲は、具体的なプロモーションのこともあるし、もっと全体的な経営にも近い戦略立案のこともある。けれども突拍子もない発想が必要となるかというとそんなことはなくて、通常はオリエンテーションなり打ち合わせでお話をうかがうときに、なんとなく答えがあるものです。したがって、お客様の頭脳のなかにあることを、掘り出してあげる仕事かもしれない。仏像を彫るのではなく、木のなかに埋まっている仏を掘り出してあげるような印象です。まったくそこにないものを持ってくるわけではない。多くの企画は、なんとなくお客様として感じていたけれどカタチになっていなかったことを、言葉やビジュアルでカタチにする仕事です。
IT関連でいうソリューションも同様ではないでしょうか。技術主導の場合、とにかく技術に基づいたソリューションを売りに行くスタイルが主体です。ブログがいける!ということであれば、なんでもかんでもブログの時代だ、ということでブログを提案する。けれども、ぼくはそういう姿勢に疑問を感じていて、もし目的がコミュニケーションであれば、手法のひとつとしてブログもあるかもしれないけれども、ブログではなくてもいい。もしかしたらセミナーのようなフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションの方が効果的なこともあるだろうし、ひょっとしたらレガシーな紙のDMの方が効果的かもしれない。テクノロジーにコンシャスになって、ブログが旬だからブログを売りまくれ、次はRSSだ、Web2,0だ、という根拠のないブームに踊らされているような状況には首を傾げるところがあります。
そんなぼくは営業には向いていないかもしれないのですが、だからこそお客さんに最も効果がある「正解」を、誠実に、地道に、ともに考えつづけていきたい。それがプランナーあるいはマーケッターとしてのぼくのモラルです。もちろん会社的にどうかという問題もあるだろうし、一般的にそんな甘い考え方では通用しないかもしれない。それでもぼくは何でも売りまくれ、数字を挙げればOKだ、という方針には同意しにくい気がします。そんなことをつづけていても、長期的には意味をなさないのではないかと思う。場合によっては、その課題にはうちではなくて他社のサービスが最適ですよ、というようなことを言ってしまうかもしれません。けれども、そのことで信頼を得た百貨店などの話も有名です。
なんだか熱く語ってしまいました。閑話休題。
まったく話は変わるのですが、会社の帰りに喫茶店でハイネケンを飲みながらひとりしばし読書タイムを楽しんだのですが、その喫茶店にはコインでインターネットができるスペースがあり、こちら向きにディスプレイが並んでいました。そんなわけで(別に盗みみようと思っていたわけではないのですが)みなさんがどんなサイトをみているのかすっかりわかってしまう。そのなかで、ちょっと個人的にタイプな女性がmixiをやっていました。どうやらHotmailと切り替えながら、メッセージのやりとりもしているらしい。と、その隣に座っているサラリーマンの画面をみると、彼もmixiをやっている。さすがにmixi人口も増えているようで、こんな風景も当たり前になりました。
そこでぼくは妄想を広げてしまったのですが、サラリーマン君は「あれっ?あなたもmixiやっているんですね」と、話しかければいいのに、と思いました。チャンスじゃないか、と思ったわけです。プライベートに踏み込むようなので抵抗はあるかと思うのですが、もし女性が嫌悪感をあらわにしたら、「あっ失礼しました。楽しいですよね(にこっ)。じゃあ」という具合にあっさりと引き下がればいい。でも、ひょっとしたら好意的に、「そうなんですよ。あなたもやってるんですね」という風に、そこから交際がはじまるかもしれない。「これも何かのご縁なので、マイミクしましょう」という物語がスタートすることもあるでしょう。
谷川俊太郎さんの「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」という詩の一節にあるように、どうして声をかけちまわないんだ、と外野のぼくは読書よりもそちらに関心があって、やきもきしてしまったのですが、なかなか声もかけづらいですよね。でもオンラインとオフラインをシャッフルしたような、そんな出会いもあってよいような気がします。というか、既にあるのかもしれません。
ビールを飲み終えて店を出たのですが、いろいろと考えをめぐらせていたせいか本を店に置いてきてしまいました。しばらく歩いて店に戻るはめになりました。もやっとぐらいならいいのですが、もやもやは注意散漫になるので気をつけたいものです。
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