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2006年6月13日
身体の水のために、よい言葉を。
ブログがまだ現在ほど知られていなかった頃、海外で使われていた言葉を流用して、アルファブロガーというキーワードが使われたことがありました。1日2万ページビューぐらいのアクセスがあり、世のなかに影響を与えるブロガーという意味だったようです。日本のアルファブロガーを選出する試みなどもあったようですが、そのうちのひとりのブロガーにぼくは疑問を感じたことがありました。
今日、別件で調べものをしているうちにそのブログに辿り着き、そういえばどうなっているのかなと読んでみたところ、なんだか荒れ放題という感じになっていました。以前には、それでもまだ読むことができるブログだったような気がするのですが、いまは正直なところ読めるエントリーではない。文章も破綻していて、コメントも厳しい。コメントに対する返信もない。コンビニで配布されている無料情報誌のような名前のそのブロガーさんの記事を読んで、残念でした。残念だけれど、なんとなくこうなるだろうと分かっていたかもしれない、という気がしました。
かつてぼくは、そのブロガーさんには「個」がないと思っていました。流行っているキーワードや大きな時代の流れをキャッチしてはいるのですが、絶賛したかと思うと、その流れが下降気味になった途端に「終わった」と言ってみる。「終わった」と言うことが、かっこいいと思っているのかもしれませんが、その内容にきらりと光る視点は感じられず、トレンドに流されている印象があります。「個」を通して「全体」を考えることが「志」であると考えると、「個」もなければ「全体」としての志もない。もちろん、それでもいいじゃないか、という見解もあります。書きたいことを書けばいいじゃないか、と。けれども、ぼくはアルファブロガーを名乗るのであれば、その発言に責任を負うべきではないかと思う。責任が負えないならば降りればよいだけだし、個人ブロガーとしてやっていけばいい。しかしながら選出されたのであれば、そのポジションに合った文章を書きつづけてほしい。
何でも書けばいい、喋ればいいってわけじゃないだろう、と最近ぼくは思い始めています。書くべき言葉、喋るべき言葉は慎重に選ぶ必要がある。個人的に言葉の重み、潜在的な効果というものも大事にしたいと思っているのですが、ちょうど今日読み終わった「出現する未来」の最後には、日本の江本勝さんの研究が引用されていて、この話に感動しました。
江本さんは水の研究をされていて、本には写真も掲載されているのですが、これがとても面白い。水が凍ったときの結晶を写真に撮っているのだけど、山梨の三分一湧水では美しい結晶なのに、汚水では結晶になっていない。
ここまではわかるのですが、次の写真に驚いたのが、バッハのG線上のアリアを聴かせた水は、ものすごくきれいな「幾何学模様」になっている。モーツアルトの交響曲40番を聴かせた水は「秩序と流麗さのバランス」がとれている。さらに「美しい」という文字を書いた紙を貼っておいたシャーレの水は「完璧なレース状の結晶」ができたのに対して、「汚い」と書かれた文字の方はぐちゃぐちゃな「醜い」結晶しかできなかったそうです。
人間の身体の70%は水です。水自体の反応が、われわれの身体に影響を及ぼすことも考えられます。「きれい」と思い、思うだけでなく言葉にしていると、身体の70%の水の力が、そのひとをきれいに変えていくかもしれない。
つまり、細胞レベルというよりも原子レベルで、ひょっとすると言葉の力が作用しているのかもしれない。言葉というのは人間の道具だけれど、世界全体の成り立ちに深く関与している何かが言葉というカタチを取ってあらわれているものかもしれないわけで、だからこそ水という心がないようなものにさえ影響を与える。世界の真理という大きな氷山の突出したちいさな部分が言葉であって、その背後にはぼくらが予想もつかない秩序があるかもしれない。
と、あまり考えすぎると危険な気もしていて、まあそんなこともあるだろうな、ぐらいにしておきましょう。しかしながら、書き言葉であっても喋り言葉であっても、言葉が身体(あるいは身体の水)に与える影響はきっと大きい。
ブロガーのなかには、梅田望夫さんのように「全体思考」に大きく志を発展させた素晴らしい方もいらっしゃいます。しかし、一方で、自分の仕事を取るための売名であったり、ただブログランキングの上位をねらったり、アクセスを増加させることだけに満足したり、批評家にとどまっているだけのブロガーさんもいたかもしれません。ブログの読者は書き手の背後にある意図には敏感なものです。だから、付け焼刃的な志では、すぐにわかる。
ブログ社会もずいぶん大きくなりました。ブログといえば誰にでも通用するようになった。素晴らしいブロガーさんたちが増えて、ブログを読むリテラシーも向上してきました。どんなブログがあってもいいのだけど、もし現状の不満や批判を吐き出すだけであれば、読み手のネガティブな感情を煽るだけです。社会批判のようにみえて、実際のところ不満を言ってすっきりするだけの自己満足に過ぎないかもしれない(しかし実際のところは身体の70%の水にも悪影響を及ぼすわけで、悪玉コレステロールよりも悪いかもしれない)。もちろん、そんなネガティブな言論に群がりたがるような揚げ足取りや批評家もいるもので、趣向が合うマイナス思考のひとたちにとっては格好のターゲットになります。そうして、やがてネガティブな世界のなかに埋もれていく。あらためてぼくも背筋を伸ばし、気をつけようと思います。
ちなみに、ソフトウェアで「アルファ」というと「アルファ版」という言葉があります。IT用語辞典からの引用です。
アルファ版は一般的に動作確認を行なう環境が不十分であるなどの理由から未知のバグが存在していることが多く、しかもシステムに影響を与える致命的なエラーが発生する場合もあるため取り扱いには注意が必要である。
アルファブロガーのアルファというのは、こっちのアルファなのかな、とちょっと思ったりして。
ぼくはまったくアクセスを増やそうとも著名になろうとも考えていなくて(昔はちょっと思っていた)、いま日に150ぐらいのアクセスをいただいているのですが、もっと少なくて充分、と考えています。もちろん読んでいただいている方にはありがたいのですが、もともとぼくの個人的な思索をとめどなく綴っているだけなので、長いだけでそんなに面白いもんじゃないだろう、と思っています。正直なところ、なんだか読んでいただいて申し訳ないです。
それでもときどき、メッセージなどをいただいてうれしかったりします。とある素敵なインディーズのアーティストさんから、先日ぼくが書いたブログを読んで「1歳から100歳までの夢を買いました」などという話を聞いたりすると、おすすめしてよかったと思う。
そんな風に誰かにささやかなよい影響を与えることができればいいのですが、まずは自分の身体に流れる水のために、よい言葉を使っていようと思います。
投稿者 birdwing : 2006年6月13日 00:00
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