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2006年6月 4日

似たもの探しの発想。

ぼくの仕事は、「もやっとをカタチにする」仕事である、と先日定義をしてみました。これはどういうことかというと、お客様のなかにある漠然とした「こうあればいいなあ」という希望や、「こんなことをやってみたい」という願いを、企画書という設計図のなかに落とし込んでいく仕事です。プランナーやマーケッターという職種にどうもぴったりとしないものを感じていたのですが、願いや理想をデザインする仕事、といえるかもしれません。

その後に、設計図をもとに具体化していくのですが、その過程においてはたくさんのプロフェッショナルなひとの力が必要になる。具現化しなければならない「もやっと」がパンフレットを作りたいということであればデザイナーさんの力が必要になるし、サイト構築であればシステム関連の会社の力を借りることになります。イベントであれば、イベントプロデューサーの力が必要です。仕事はひとりではできない、ということを常に謙虚に受け止めることが大切です。

一方で、仕事だけではなくて趣味のDTMについても「もやっとをカタチにする」時間といえます。頭のなかに浮かんだメロディを、ぼくの場合はマウスでちくちく入力していって、つまり和音もひとつずつ積み上げていくわけですが、これが非常に気の遠くなる作業です。でも楽しい。ちくちく置いていくうちにイメージが消えてしまうことも多いし、複雑な処理をさせるとソフトウェアが落ちてしまうこともある。そういうときにはマウスを投げつけて(かわいそうなマウス君)、中断して忘れることにしています。

多くのひとがそうらしいのですが、シャワーを浴びているときに音が浮かぶことが多い。おおっこのメロディいいぞと思って、忘れないように何度も頭のなかでリピートさせておくのですが、仕事のことを考えた途端に全部忘れてしまうこともあります。ICレコーダーでも常に携帯しているといいのですが、そうもいきません。デヴィッド・リンチ監督の「ツイン・ピークス」に出てくるクーパー捜査官のようになってしまう。作家さんなどでは、夢のなかで発想が浮かぶことも多く、枕元にメモが常備してある、という話をよく聞きます。ぼくはアイディアが流れてしまっても、まあいいか、と思うタイプですが、書き留める姿勢がプロなのかもしれません。

ところで、もやっとをカタチにするときに有効なのが、似たものを連想する、という思考のフレームだと思いました。そして、これは何かというと、レトリックもしくはメタファー(暗喩)的な思考ではないかとぼくは考えています。

もやっとしたイメージは言葉にならないもので、なかなかずばりと言い表すことができません。けれども、たとえば白くて円形の何かを言うときに「誕生日ケーキのような」とか、静かだけど爽やかなメロディを「秋空に雲が流れていくような」という試みを繰り返すことで、表現したいものに近づけていくことができる。なんだか違うな、なぜだろう、もっと他にないだろうか、と考えつづけることで豊かな言葉を獲得できるような気がします。

さらにこの細部を意識的にシャッフルしていくと、別のイメージに組み替えることが可能です。「誕生日+ケーキ」を「記念日+花束」に変えると、ちょっと赴きが変わってくる。ただその背後にある「祝うよろこび」は変わらない。さらに場のカードもいくつか加えて、「家」なのか「レストラン」なのか、手札を広げてみてどれを選ぶかというチョイスで文脈(コンテクスト)は大きく変わる。

レトリックやメタファーというと技巧的でネガティブなイメージもありますが、最近さまざまな本を読みつつ、人間の思考の根幹にありコンピュータには代替不可能な能力がメタファーの力である、とぼくは強く認識しつつあります。逆に言えば、まったくランダムに言葉を組み合わせるのではなく、意図的にメタファーを生成できるコンピュータが登場したら、もしかすると人間の頭脳を超えられるかもしれない。さらに加えると、コンピュータにできない仕事をするためにはメタファー思考を鍛える必要があると思います。だからといって「いるかはいるか?」とダジャレを連発するおじさん的なエンターテイメントの方向で洗練をめざすのではなく(もちろんこの楽しさも必要ですけどね)、あくまでも「似たものを探す」こと、言い換えると「パターン認識を強化すること」ではないかと思います。

目の前で何かが展開されたとき、潜在意識という引き出しにしまい込まれた映像・文章・音・匂い・味などを総動員して、そのパターンに合致する「経験(文脈)」をピックアップする。ピックアップした上で、経験を解体して、意図的にイメージをずらしていく。シャッフルして、まったく別の経験とつなげるわけです。その思考は、そのままではカタチにならないので、アウトプットとして文章、映像、絵画、音楽などで表現する。いつもの通り理屈っぽくて自分でも苦笑気味ですが、このような思考を訓練することで、創造的な力が鍛えられるのではないか、と思いました。

年間本100冊を読破する+映画100本を観るという課題を自分で自分に課してやろうとしているのですが(ちょっと最近、未達ぎみ)、ここでやろうとしていたことは「経験」を積む、ストックを増やすことであって、それだけでは意味がない。積みあげたことをアウトプットしてはじめて鍛錬になるわけです。インプットだけでも実はかなりつらいのですが、アウトプットもつらい。モーツァルトのように楽しんで曲を作ることができるようになればいいのですが、凡人には難しいものがあります。とはいえブログの方は、1ヶ月分でさえプリントアウトできないほど大量の文章を書き散らかしていて、ハイパーグラフィア的ではありますが。


ところで、似たもの探しは類似性に注目した考え方ですが、属性(赤い、大きい、長いなど)に注目するだけでなく、時間の推移による構造についても、似たものとしてとらえることもできます。最も一般的なのが「起承転結」ですが、「今週は仕事の山だ」というときに、時間的な推移をモノに例えている。そして、言葉の背景には「山を越えれば平地(=ひまな時間)がある」というイメージが付帯しています。

さて、そんな仕事の山をひとつ超えて、次の山がみえてきているところですが、趣味のDTMでつくった新しい曲を昨日muzieにアップしました。こちらも大きな山を越えた感じで、ほっとしています。来週の火曜日ぐらいには公開されるのでしょうか。CPUとの戦いというか、RealGuitarがうまく鳴ってくれないので調整に苦労したのですが、最後の方は雑になってしまっていて、いま聴きなおして凹んでもいます

歌詞もある曲なのですが、今回はインストです。10年前につくった曲で、カセットテープのMTRで録音して、ミックスダウンした下手くそな演奏のデモテープもあったのですが、カセットデッキが壊れていて聴くことができませんでした。こんな感じじゃなかったかな?というイメージの記憶を辿りながらまったく最初からつくりなおしました。もとの曲を聴きなおすと、似ているどころか、まったく別ものかもしれません。

メタファーについて考えてみましたが、そういえば初期の村上春樹さんの作品は、秀逸なメタファーの宝庫です。また読み直してみたくなりました。

投稿者 birdwing : 2006年6月 4日 00:00

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