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2006年6月 3日
未来の種子たち。
今週は参観日ウィークという感じで、今日の土曜日は小学校四年生の長男の参観日に行ってきました。これがとても面白かった。勉強になりました。子供よりも父の方がいろんなことを考えてしまった。昨夜は深夜の3時まで趣味のDTMのMIDIコントローラとレイテンシの設定に四苦八苦していて、さすがに朝はつらくて1時間目の国語の授業は聞き逃してしまったのですが、聞いておけばよかったと思いました。残念です。
小学校の参観日の2時間目は社会で、先日とある教育センターに行ってきてプラネタリウムと郷土資料館を見学してきたようなのですが、特に気になった内容を3つ、新聞にまとめるという授業でした。ある意味、ジャーナリスティックです。それをひとり1分ずつ発表するので、プレゼンテーションの練習ともいえます。みんなの発表を聞いていると、この子は文章のはじめ方がうまいな、とか、よくそんな詳しいことを覚えているな、とか、原稿の方だけじゃなくてみんなをみながら話しているから将来はアナウンサーに向いているかも、とか、さまざまな子供たちの未来を想像して楽しかった。
それから、ほんとうに瑣末なことですが、先生が黒板に「教育センターの発表」とタイトルを書いたのですが、その文字の左右に青いチョークで二本、すーっと線をひいた。つまり二本の線で囲むようにしたわけです。これだけでなんとなく見出しのようになるし、注目させる効果がある。たいしたことではないのですが、きっと先生には生徒を注目させるTips(隠しワザ)がいくつかあるのでしょう。最近デザインにも気を配ろうと思っているぼくは、そんな細かいところに感心してしまいました。
3時間目は道徳です。これが非常に深かった。長くなりますが思ったことを書いてみます。
題材は、次のようなストーリーです。
ある女の子が友人から絵葉書をもらった。その絵葉書は定形外だったので120円の送料が必要だったのだが、友人は50円しか貼っていなかった。70円分不足である。女の子は返事を書こうとして、料金が不足だったことを書くべきか悩む。彼女のお兄さんは、ぜったいに書くべきだという。一方で、お母さんはお礼だけで書かなくてもいいじゃない、という。では、どうするか?
選択肢として、お兄さん派(書くべき)、女の子派(悩む)、お母さん派(お礼だけで書かない)という3つを黒板に先生が提示しました。なかなか熱い議論があったのですが、男の子はどちらかというと極端な意見を支持していて、一方で女の子は「お礼を書いて、ついでに足りなかったよと書いてあげる」という意見が多かったようです。
ここで養老孟司さんの本に書かれていた"人間の基本は女性であり、女性は出産などの変化が多い人生を送るので安定している。一方で構造上、異端な男性は極端なことを言うことが多い"というようなことを思い出してしまいました*1。と同時に、小森陽一先生の「村上春樹論」に書かれていたことも頭によぎったのですが、女性は子供を育てなければならないわけで、子育てにおいて特に口唇期のしつけは、愛情と厳しさという相反する感情を許容するものであるという指摘がありました。
したがって、まだ9歳とはいえ、母性的なものを基盤に持っている女の子は基本的に両側面から考えることができるのかもしれない。一方で男の子は、片方の側面から考えたことから激論を戦わせていて、それが男の子っぽいとはいえるのだけど、やっぱりこれぐらいの時期の男の子は子供だなあ、女の子のほうがしっかりしているなあ、という印象がありました。つまり片方しかみえないのが子供で、両側面の思考力があるのが大人である、ということになりますが。
ぼく個人の見解としても、「お礼をいいつつきちんと足りなかったことは書く」だと思います。これは、「どちらか」を選ぶ思考ではなく、相反する「どちらも」選ぶ思考といえるかもしれません。しかしながら、折衷案という歯切れの悪さも感じます。それに実際はどうでしょう。結局、まあいいかと書かないでおいて、それでいてなんとなくすっきりしない気分が残るかもしれない。
「お礼だけ言って、料金不足は書かない」という主張をする子の意見は、「書くと傷つくから」ということでした。誰かの痛みを感じ取る「共感」が、そういう選択をさせるわけです。けれども、書かないでおくと間違えを何度も繰り返してしまう。だから反対派の子供たちは、書くべきだと説得していました。
さらに面白い意見があって、「手紙の返事は書かない」だそうです。なぜなら、書くと相手も返事を書かなければならずいつまでも手紙がつづいて大変なことになる、とか。思わず吹き出しそうになったのですが、考えてみるとメールやブログの世界にも同じようなことはあるわけで、一概におかしいともいえない。それから、「友達との親しさにもよって書いたり書かなかったりする」という意見にも唸りました。理屈っぽいことを言ってしまうと、「関係性」というコンテクストによって伝える言葉も変わる、ということです。
最終的には、料金不足を書く(26人)、悩む(1人)、書かないでお礼だけ言う(3人)であり、うちの息子は大多数のなかにいましたが、えー?きみは恥ずかしがりやで小心者だから書かないんじゃないのー?と心のなかで突っ込みを入れていました。マイノリティーな意見を堂々と述べた3人にも、ぼくはひそかにエールを送りたい。彼等にとってそれが正解であれば、正解なんだと思います。少数派であっても胸をはって意見を言えるのは、すばらしい。
日本の教育はまずい、ということがよく言われます。もちろん全体的にはまずいところがたくさんあるかもしれない。けれども教室の場でいっしょうけんめい考えている子供たちをみると、頑張ってるじゃん、と思う。
いま村上龍さんと伊藤穣一さんの「「個」を見つめるダイアローグ」を読んでいて、そこにも教育をはじめ日本のおかしいところがたくさん書かれています。グローバルな視点から日本のおかしな部分を浮き彫りにしていく。「これは面白い本です。楽しんでほしい」ということを村上龍さんが冒頭で書いているので楽しんで読んでいるのですが、しかしながら面白いなあと思って読み進めながら冷静になったときにふと感じたことは、要するにおふたりはグローバルな外部の視点からみているから面白いんじゃないか、面白いけどこの問題はぼくらの日本のことだろう、面白がっていていいのか、ということでした。
野球にしてもサッカーにしても、フェンスの外で眺めていれば楽しい。しかし実戦で闘っている本人たちには、もちろん楽しさもあるけれど、楽しいだけじゃないこともたくさんある。アウトサイダーとして論じるのは楽しいけれど、それでいいのかな、と感じました。日本のおかしさを自虐的に楽しんだとしても何も変わらないのではないか。
教育も同じではないでしょうか。外野からいろんなことを言うことはできる。でもぼくは教師ではないし、教師の苦労をわかっていないんじゃないか。頭のなかで考えるのではなく、参観日に実際に出席してみると、生き生きした顔も疲れ果てて沈んだ顔もみることができて、じゃあ自分に何ができるか、ということを考えさせられました。
日本の教育を批判するのであれば、まず自分にできることから行動すべきではないでしょうか。村上龍さんは「13歳のハローワーク」という次世代の子供たちのための仕事をされていて、それはものすごく素晴らしいことだと思います。ではぼくに何ができるんだろう。いろいろと思うところがあり、家族で議論したりもしたのですが、結局のところ、次男と散歩したり、長男が自転車に乗れるように助けてあげたりして、一日が終わりました。理屈っぽいことをたくさんブログに書いていますが、リアルな生活はシンプルなものです。
9歳にもなってまだ自転車に乗れなかった長男ですが、自分の将来にも関連する議論にどうやら考えるところがあったらしく、なんとなく今日は気迫が違って、はじめて数メートル自分で走ることができました。よかったよかった。
子供たちは未来に蒔かれた種子のようなものだと思います。すくすくと育つために、ぼくらができることを考えてみたいと思います。そして子供たちのために考えたことは、思考の戯れや社会批判では終わらせないようにしたいものです。
*1:引用ではなく要約です。そんなことが書いてあったような気がしました。
投稿者 birdwing : 2006年6月 3日 00:00
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