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2006年6月 6日

比喩が成立するとき、しないとき。

ある話のなかで「猫は犬だ」という表現が出てきました。比喩やメタファーについて考えつづけているぼくは、そこで立ち止まっていろいろと考えてしまったのですが、この表現は比喩でもなんでもないのではないでしょうか。表現として広がりに欠ける文章です。というよりも文章になっていない気もします。センスがない。

「AはBだ」と異なる言葉をつなげる力がメタファー的な思考であると考えていたのだけど、この一文は何か違うと思いました。首を傾げてしまった。しかしながら、一方で「人生は青空だ」という表現には、文学的な広がりを感じる。それはなぜだろう。

つながりを結び付けている属性に着目すると、「猫」も「犬」も「動物」です。四本足で歩行する生き物ともいえる。AとBを動物というカテゴリーでシャッフルして、ちょうどスロットマシーンのようにランダムに機械的に組み合わせた文章が「猫は犬だ」という文章の成り立ちのように思える。けれども「人生は青空だ」の「人生」と「青空」はそもそも異なるカテゴリーにあって共通する属性はない。ないのだけれど、何かイメージが重ね合わされてそこに意味が生成する(ような気がする)。

これが文脈(コンテクスト)だと思うのですが、つまり「人生」という言葉の背景にある「未来を前向きにとらえて広がる感じ。時にはかなしいこともあるけれど、うれしいこともある」というイメージと、「青空」の「見上げるときの頭上に広がる青。時にはまっくろに曇り夕立ちが降ることもあるけれど、透明なブルーに白い雲が流れるすがすがしさ」を重ねているわけです。そして、人生の広がりとさまざまな出来事を許容し、青空を見上げるように前向きに生きていきたいという「人生観」あるいは「世界観」、願いや希望のようなものがこの一文にはある。もしかすると、そんな考えに至るまで、この文章を語る彼はものすごく辛い人生を送ってきたかもしれない。そんな辛い「経験」のあとに「人生は青空だ」と語ったとき、言葉には重みや深みが付加されることになります。ひとことだけど、ずしんと響く言葉になる。

しかしながら、「猫は犬だ」には人生観も世界観もありません。安易な言葉あそびにすぎない。この程度の表現であれば、コンピュータにも十分にできる。人間がやる必要もありません。適当な名詞をシャッフルして組み合わせればいいだけです。

実はこれが人間とコンピュータを分かつ大きな違いだと思うのですが、文脈という意思、もしくは経験や人生観があるかないかで、そこに立ち上がる意味がまったく異なる。ただシャッフルして組み合わせた言葉や、つながったように「みせかける」うわべの技巧とは大きく異なります。

ところで、困ったおじさんという人種はどこにもいるものですが、彼らの問題の多くは「猫は犬だ」的な発言もしくは思考にあるような気がしました。つまり、それまでの話の流れを無視して、ただ動物つながりというだけで会話に「犬」的なものを登場させてしまうわけです。そうして話の腰をぽきんと折ってしまう。たとえば「猫ってかわいいですよね。賢いし」と話をふると、「そうだな、猫は犬だ(=犬だって賢いし、かわいい)。」のように答える。そんなことを言われると面食らって黙ってしまうのですが、発言した本人は、してやったり(にやり)と思っていたりするから困る。いいこと言っちゃったな、なんて勘違いしていたりするものです。もちろん他者に対する配慮がないから(他人の話なんて聞こうと思っちゃいないので)、ぶっきらぼうな発言もできるわけですが。

一方で、「猫ってかわいいですよね。賢いし」「そうですね。賢いといえば先日、うちの猫が・・・」という風に文脈をつなげていくと、コミュニケーションは成立する。それは相手の話をきちんと聞いて、その文脈を理解した上で自分を表現していく、という当たり前といえば当たり前ですが、話されていること全体を見渡す力が必要になるわけです。会話の流れを変えて自分の土俵のなかに持ち込む技術も時として必要ですが、強引に無理な引用で流れを変えようとすると、文脈そのものを破壊します。これは先日も書いたように、ブログが必要ないのに企業にブログを売り込むようなものかもしれません。

おじさんなぼくは、そんな風にならないよう気をつけなければ。

さて、ぼくは比喩の重要性とともに、意識をシャッフルすることについても書いてみたのですが、これはコンピュータ的にランダムに組み合わせるのとは違います。あくまでも「経験」というパターン認識をしたうえで、そのパターンに近い言葉の「選択(もしくは捨てること)」が必要になります。

先日コメントをいただいたふくちゃんさんのサイトに「音楽が変わる」という非常に面白いエントリーがあったのですが、「音階が有限であるために、メロディは有限である」という音階有限説を書かれています。これは茂木健一郎さんと坂本龍一さんのPodcastingの対談にもあったお話ですが、ぼくの考えを述べると、創作とは、技術的なランダムな組み合わせによってまったく新しいものを創り出す活動ではなく、偉大な過去のアーティストと「つながっている」ことに尊敬と感謝をしながら、その先をめざす試みではないかと思います。

たとえば音楽においても音階をランダムに生成する以外にも、「猫は犬だ」的なランダムな接合による創作は可能です。「恋はあせらず」のようなモータウンならではのリズムがあるのですが、そこにモーツァルトのメロディをのせることだってできる(モーつながりで接合してみました)。確かに面白いし、斬新な試みかもしれない。でも、そういうことをやっているアーティストに疑問を感じるのは「おまえのその世界観はいったい何?」ということだと思います。かつて社会人バンドをやっていたときに何時間もかけて議論してきたのですが、借り物のスタイルをとってつけて繕っても全然かっこよくない。借り物がニセモノになる。借りてきたものに対する愛情や敬意、意識や考え、さらにある意味でテツガクがなければ、頭が猫で胴体が犬のような作品になってしまうわけです。それでは心を打てません。

面白い技術を追求しがちなぼくは気をつけなければ。

ランダムにつぎはぎしただけのマッシュアップ、めちゃくちゃな音階やノイズだけを使ってアーティスト気取りで構成したラップトップミュージック、背景に感情も趣向も感じられない音の配列。それは音楽といえるのでしょうか。魂がないのではないか。インターネットをはじめとした技術と音楽は密接につながりがありますが、技術=音楽ではない。ふたりの息子たちが隣の部屋で歌っている「ウルトラマンメビウス」を聴くたびに、なんて素敵な音楽だろう、きれいな声だろう、とぼくは感じています。人間に口と耳がある限り、音楽はなくならないのではないでしょうか。

企業や企画も同様かもしれません。アイディアをつぎはぎにするのではなく、リーダーシップを発揮する「私」の意志によって個を串刺しにできれば、そこに力強さが生まれる。説得力もある。なぜAとBをつなげなければならないのか。面倒だけれども、そのことをしっかりと考えるとき、創造力を別の次元に跳躍させることができるような気がします。組み合わせの理屈で、ランダムに語を入れ替えただけではクリエイティブにはならない。そんな作業は、コンピュータにさせておけばいい。

とはいえ創造的であること、それが難しいんですけどね。

投稿者 birdwing : 2006年6月 6日 00:00

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