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2006年6月20日
分解しない物語。
ブログの面白さのひとつは、他の記事を引用しつつ新しい見解を加えていくことだと思っていた時期がありました。というのは引用という記述方法がブログの編集画面にあったからかもしれないのですが、自分で何かコラム的なことを書くよりも、引用して書いた方がなんとなくブログらしくみえる。評論っぽい。賢そうにもみえる(実際のところ賢くなくても)。
いまでも上手に引用することは大事だと思うし、トラックバックやリンクは楽しいものです。けれども同時になんとなく内側で閉じてしまうような感覚があり、インターネットの外にリンクできたらいいのに、と思う。外というのはどういうことかというと、現実の街なかにある壁とか、道を歩いている犬とか、電車の吊り広告のようなものです。ちょっとSFっぽいのですが、携帯電話とRFIDのタグなんかが使われるようになると、そんなこともできるようになるかもしれません。
ぼくの書くブログは自分の思考という閉じた世界を扱っているので、ものすごく閉ざされた世界です。抽象的なことをあれこれ考えるのが至福でもあるのですが、あまりに形而上的なことばかり考えていると、この閉鎖的な世界というものに、さすがに疲れる。もちろん、そういうときはネットを切断してリアルに生きるのがいちばんだけれど、淡々と生活を綴った日記を読んでも癒されるものです。
ときどき思考の迷路に嵌まり込んで見失ってしまうのだけど、ブログは日記でもあり、何気ない生活のシーンを記録した言葉がどんな形而上的な言葉よりも美しいこともあります。どこかへ旅行に行ってきたときのこと、子供たちと遊んだ一日の風景、風邪をひいて寝込んだときのことなど、ウィンドウというパソコンのなかにそのひとの世界が広がる。
ビデオのように明瞭な映像でみるわけではないけれど、言葉は仮想の世界を結晶化させたものでもあり、だからこそ生活の一部を抽象化して切り抜き、イメージを削ぎ落とした洗練さがある。YouTubeが盛り上がっているとはいえ、これからは映像だ、テキストなんて古臭い、という過剰な動きには賛同できなくて、ぼくはビデオ映像がすべての面で優れているとは思いません。優れている面もあるけれど、想像力で補いながら「ここではないどこか」の物語に思いを馳せるのもよいものです。
インターネットで探すものは、情報だけではないのかもしれません。テキストやイメージ、動画のすべてが情報やコンテンツといえばいえるのだけど、たとえば訪問する会社のホームページをみたり、地図で位置を確認したり、電車の経路と運賃を計算するのとはどこかが違う。どう違うかというと「体験」を探すようなものでしょうか。という意味では「物語」をみつける行為ともいえる。ビジネスの分野で似ているものを挙げるとすると「成功事例」でしょうか。つまり「単語」と「文章」の違いにも類似しているような気がするのですが、これはわかりにくい。
もう少し説明をします。いま「数式を使わないデータマイニング入門」という本も読んでいます(P.51あたり)。
数式を使わないデータマイニング入門 隠れた法則を発見する (光文社新書) 光文社 2006-05-17 by G-Tools |
「1歳から100歳の夢」も「デザインする技術」も読み終えていないのに読み散らかしてどうだろうと思うのですが、いろいろと並行して読んでいるうちに重なってくるものもあります。
データマイニングというのは、たくさんの情報のなかから法則をみつけるような試みですが、かつてはものすごく興味のあった分野でした。ところがこのところ、どうもしっくりこないものがあります。うまくいえないのですが、要素に分解する分析というものに疑問を感じています。テキストマイニングなどでは言葉を分かち書きにして要素に分解したあとで、連関する語による意味を見出そうとするわけなのですが、分解してしまった時点でものすごく大きなものが失われる気がする。別に学術的な裏づけも知識もないのですが、最近「全体思考」などについて考えつづけていると、物語を単語に分解して論じても意味がない、というごく当たり前のことが大事かもしれないと思うようになりました。
体験もしくは経験は、そのカタマリとして読むものであって、たとえばそのなかに同一の「かなしい」という単語があったとしても、Aという物語のなかの「かなしい」とBという物語のなかの「かなしい」はまったく別のものではないか。違うのだけど、その「かなしい」気持ちに「共感」できるのはどういうことだろう。統計学的な分析はどうなんだろうということになるのですが、正直なところ、頭のなかに広がるもやもやはすっきり晴れてくれません。
同じ夢という言葉が使われていても、「1歳から100歳の夢」で語られている100の夢はそれぞれが違う。ただ、それぞれが違うけれども、そこから立ち昇ってくるものはやっぱり夢です。
今日は一日暑くて、さらに歩き回ったので頭が働きません。そんな疲れた頭の片隅に、ふと「夢の総量は空気であった」という坂口安吾の「ふるさとに寄する讃歌」という小説のタイトルの横に書かれていたフレーズが頭に浮かびました。この小説は次のようにはじまります。
私は蒼空を見た。蒼空は私に沁みた。私は瑠璃の色の波に噎ぶ。私は蒼空の中を泳いだ。そして私は、もはや透明な波でしかなかった。私は磯の音を私の脊髄にきいた。単調なリズムは、其処から、鈍い蠕動を空へ撒いた。
透明な描写が美しい。そんな蒼空をみたいものです。ビデオはないけれども、この文章を読むときに、ぼくの頭のなかには美しい蒼空が広がります。言葉の力を感じます*1。
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■ぼくが持っているのは、ちくま文庫の坂口安吾全集です。ここに「ふるさとに寄する讃歌」は収録されています。
坂口安吾全集 (1) (ちくま文庫) 筑摩書房 1989-12 by G-Tools |
*1:しかしながら、今週は体力的にバテ気味で、何度も見直して修正をかけています。言葉がうまく決まりません。
投稿者 birdwing : 2006年6月20日 00:00
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