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2006年6月17日

感動という浄化。

ディズニー映画の「カーズ」の試写会が当たったので、丸の内の試写会場まで行ってきました。ところが、1組3名までということなので、4人家族のぼくらとしては困ってしまい、結局のところ子供たちふたりと奥さんが映画を観ている間に、ぼくはふらふらして時間を潰すことになってしまいました。もう少し融通をきかせてくれたらいいのに、と思うのですが、通常は大人ふたりに子供ひとりという核家族的な構成なのでしょう。しかしながら、たまにはひとりでふらふらするのもいいものです。

さてどうしようと思ったのですが、近くに東京国際フォーラムがあったので、とりあえずそこに入ってみたところ、土曜日の今日も何やらイベントが行われていました。IT系のイベントでは視察によく来るのですが、他のイベントにはまったく縁がありません。そんなよくわからない分野の展示会場を見下ろしながら缶コーヒーを飲んでいたところ、ふとホールのそばにある「相田みつを美術館」が気になり、どうしようかと迷ったのですが入ってみることにしました。

相田みつをさんといえば、詩人であり書家でもあり「にんげんだもの」という書が有名で、ぼくもまたそのイメージから強烈な印象を得ているのですが、いままであまり本などを読んだことはありませんでした。東京国際フォーラムにも何度か仕事で訪れているのですが、美術館に入ったことは一度もありません。というのはぼくの心には偏見が働きがちで、詩というよりもポエムというようなカテゴリーに入りそうなものを拒絶してしまうからです。どこが違うかというのは微妙なところですが、甘ったるくて自己陶酔型で閉鎖的なものはぼくはポエムだと思う。詩はそれよりも言葉を文学的に結晶化したものであり、ストイックな姿勢や厳しさがともなう。そんな風にぼくは違いを考えていました。そして相田みつをさんもポエムなひとだろう、と勝手に解釈していました。

ところが、実際に美術館のなかに入ってみると、相田みつをさんはぼくの偏見とは異なっていることに気づいた。まず、仏教を熱心に勉強されている。そして、あえてやさしい「生活の言葉」で仏教の教えを語ろうとされていたようです。

さまざまなシンクロニシティーを感じたのですが、まず今回の展示テーマは「道への道」であること。経験は道である、というようなことを書いていただけに、その言葉に惹かれるものがありました。さらに、展示をみていてぼくの目に飛び込んできたのは、「子供たちを育てるには、感動を体験させることがいちばんである。美しいものに接していると、自然と邪悪なもの、不正なものを排除する心が養われる」という文章でした(企画展ブックを購入したのですが、その文章は掲載されていないので、あくまでもぼくの記憶している文面です)。

まさに昨日、そんな文章をブログに書いていただけに、ちょっとびっくりした。さらに展示をみていくと、相田みつをさんの声を流している展示があったのですが、スペースに足を踏み入れたちょうどそのとき、まさに上の文章が相田みつをさんご自身の言葉で語られているときでした。オートリピートで20分ぐらいのローテーションによって、CDブックの内容を延々と流しているのですが、偶然にも、感動することの重要性を説いている言葉を聞き、ぼくは何かはっとするものを感じました(といいつつ、スピリチュアルなものに全面的にコミットしないように、距離を置いてしまうのですが)。

相田みつをさんのすごいところは、自分の弱さをきちんと認めているところだと思います。50歳まで、書家としても詩人としても認められずに、悶々とした人生を送られていたらしい。さらに自分には欲があると認めていて、いまだに色の欲もあると公言する。一生悟ることはないだろうと思う、がんばりたくもない、がんばろうという言葉が大嫌いだ、ただ具体的に目の前にあることをひとつひとつ丁寧にこなしていくこと、感動とは感じて動くことであり動くことが大切、というような言葉のひとつひとつが刺さりました。

美術館に入ったときから何か後頭部に鳥肌が立つような感覚があり、そのことは認めるのですが、一方で、ぼくは盲目的にその感覚を支持しないでおこうと思っています。もちろんスピリチュアルなものの存在も認めますが、やはり一方で西洋的な思想と科学者的な心で接していたい気もしています。とはいえ、一番最後の展示で、ぼくはあやうく涙が出そうになったのですが、その文章は次のようなものです。

わたしは無駄にこの世に生まれてきたのではない また人間として生まれてきたからには 無駄にこの世を過ごしたくはない
私がこの世に生まれてきたのは私でなければできない仕事が 何か一つこの世にあるからなのだ
それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない
その仕事が何であるかを見つけ そのために精一杯の魂を 打ち込んでゆくところに人間として生れてきた意義と生きていくよろこびがあるのだ

社会人である以上、ぼくも仕事はしているのだけれど、それは生活を支えていく糧を得るための仕事といえます。相田みつをさんが言っているような仕事をしているのだろうか。ぼくがそういう仕事を成就できるとすれば、利益を追求するビジネスマンとしての仕事ではなく、このブログの延長線上にあるものではないか、と思いました。

映画が終わって、丸ビルの洋食屋さんでご飯を食べて帰ったのだけど、家族を大事にしつつ、ぼくがきちんと仕事を成就できるのは60歳過ぎてからかな、と思ったりもしました。ずいぶん長い時間があるともいえるし、あっという間の刹那かもしれない。相田さんの言葉通り、悟りを開かなくてもいいでしょう。人間とは何かまったくわからないままでかまわないのですが、一日を誠実に生きることで、誠実を積み重ねることで、それが何かを生むかもしれない。

よい仕事をしようと思います。美術館に展示されていて、相田みつをさんがぼろぼろになるまで読んでいた「正法眼蔵」の文庫が気になっています。

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■相田みつを美術館。電子ブックなどの展示もありました。ぼくは展示の途中にある、隠れ家的な隙間というか狭い空間に入ってみたいと思いましたが、結局のところ、入ることができませんでした。なんとなく恥ずかしくて。そういう感覚を取り除いて、無垢でいることが大事かもしれないのですが。
http://www.mitsuo.co.jp/museum/index.html

投稿者 birdwing : 2006年6月17日 00:00

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