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2006年6月10日

耳をすます、全体を想う。

集中して誰かの話に耳を傾ける、という2日間でした。まずお仕事では、非常にレベルの高い合宿ミーティングに参加しました。ぼくは書記の役割(レポーター)なので、発言をノート(ノートパソコンではなくてこれがアナログなのですが大判のA4ノート)に書き取りつつ、その後、ミーティングの時間の1.5倍分ぐらいの時間をかけて、ICレコーダに録音した話を聞き取り直してノートの空欄に足りない言葉をびっしりと書き込んでいく。最初のうちは専門的な用語が気になるものです。ところが、全体の流れを把握しつつ何を言おうとしているのか、ということを考えているうちに、いろいろとみえてくるものがありました。

というお仕事の後、久し振りに単独で田舎に帰ったのですが、ひとり暮らしをしている母は待ってましたとばかりにぼくを迎えて、高齢でぼけつつある姉と姉妹兄弟のあいだにあった鬱屈した話を弾丸のようにぶつけてくる。姉をどうするか残りの4人の兄弟姉妹で話しているうちに、末っ子であるうちの母に押し付けようとするので、ついに怒りをぶつけてしまったようです。相続の話、どろぼう騒ぎを起こしてしまったこと(何も盗まれていなかったのだが、ぼけてしまったおばさんは荷物の位置が変わっただけで誰かが盗んだと思ったらしい)、施設に入れるべきかどうするべきかなど、たまりにたまった不満や不安を一気に話す。

ふだんのぼくであれば若干受け止めきれないところもあったかもしれないのですが、仕事で集中して耳を傾けるモードに入っていたぼくは、とにかく母に話したいだけ話をさせるようにしました。吐き出せるだけ吐き出したあとには母もすっきりしたようです。ぼくはというと、そのあとぐったり疲れて寝込みましたが。

話を聞くというのは難しい行為だと思います。ただ受動的に聞いているだけだろ?ともいえるのですが、受動的であっても自分のバイアスがかかってしまう。ほんとうに話したいことを聞き取っているのか、真意はどこか別のところにあるんじゃないだろうか、という不安もある。瑣末な言葉に気を取られるばかりに、大局(全体)を見失うこともあります。聞いているだけでなく自分のことも話したくなるものです。でも、そこをぐっとこらえて聞いているうちに、みえるというよりも感じ取ることができるようになる。ある意味、無我の境地におかなければ、ほんとうに誰かの話を聞くことはできないのかもしれません。

いま「出現する未来」という本を読んでいます(P.234を読書中)。

4062820196出現する未来 (講談社BIZ)
講談社 2006-05-30

by G-Tools

この本のなかにも「己を捨てる」ことで思考の流れをとりあえず「保留」にして、その保留にされた静寂のなかから立ち上がってくるものを感じ取る、ということが書かれていました。

たとえば火事で自分の家をなくしたひとのエピソードがあるのですが、自分が大切にしていた思い出の詰まった家が燃えていく様子を現前にしながら、最初は失ったものに執着し、かなしみでいっぱいだったのに、いつか静かな気持ちが訪れるようになったそうです。そして過去は失われたとしても「いまここに」自分は存在していること、自分のなかに未来があるという確かさを感じた、というような話でした。執着から手を離して、ありのままに「いま」を受け入れることが大事なことかもしれません。

次のような一節にも、ヒントがあるような気がしました(P.126)。

逆説的だが、よりリアルであるということは、仮想になり、実体をなくし、確定しないということだ。

さらに次のようにつづきます。

知恵ある者は、たえず己を手放し、仮想の自己、脆い自己を顕在化させている。そうした能力を最大限に高めた人のそばにいると、影響を受ける。そうした人たちに会うと、一種の共鳴が起きる。リラックスする。あるがままでいることは、とても楽しい、そうした人生にこそ喜びがある。
真に目覚めた人間は、つねに今この時に生きている(プレゼンシング)*1。

この本は経営学、認知科学、宗教などを横断して、未来を生み出す創造力について考察をしていきます。個人的にスピリチュアルな体験を紹介する箇所はどうも苦手で、内容に入り込めないものを感じているのだけど、いくつかのひらめきを感じました。

前後しますが、最近ブログに書いている「全体思考」についても記載されていて、文脈に欠ける接合や分析についてなど考えていたぼくには、以下の部分も興味深いものがありました。哲学者のマルティン・ブーバーの「我と汝」の関係を考察した言葉のようです(P.60)。

メロディーは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。このことは、私が「汝」と呼ぶ人の場合にもあてはまる。私はその人の髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、その人はもはや「汝」ではなくなってしまう。

全体思考とは、現前に存在するあらゆるものを「汝」という全体として「見る」行為かもしれません。たとえば仕事においてもテクノロジーという部分だけにこだわってしまうと見失うものがある。介護問題を費用や困難の面からだけみると、損ねてしまうものがある。

しかしながら、その個々の言葉のなかに「全体が宿る」ものではないかと思います。短縮された3文字ぐらいの技術専門用語の背後には、とてつもなくでかい人類のテクノロージーの叡智が集約されている。なにげなくこぼした母の介護の不満についての背後に、社会全体が抱えている問題がくすぶっている。

そんな言葉に耳をすまし、全体を想い、受け止められるぐらいのキャパシティを持ちたいものです。

*1:カッコ内の「プレゼンシング」は本のなかでは「生きている」のルビです。

投稿者 birdwing : 2006年6月10日 00:00

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