« 「出現する未来」P. センゲ , O. シャーマー , J. ジャウォースキー , 野中 郁次郎 , 高遠 裕子 | メイン | 立体にみせる、音を配列する。 »
2006年6月14日
地と図、両側面からみること。
何かを選択するということは、一方で何かを排除することであり、実はひとつの行為のなかにふたつの側面が共存しています。「見る」という行為においては、たぶんセンサーとして視神経的にはすべての情報がインプットされている。しかしながら、脳内の意識というフィルターが「図(選択したもの)」として浮かびあがるものと、「地(選択しなかったもの)」として背後に追いやるものを選択・排除しているわけです。
先日のワールドカップにおいて、ぼくは選手たちというよりも芝生に目がいってしまった。本来は一生懸命にボールを追いかけている選手たちをみなければならないのに、その背後にある「地」である芝生をみてしまったことになります。「地」と「図」が反転している。なぜそうだったのか、ということを考えてみると、ぼくはふがいのない日本選手たちのさえないプレーや負けをみたくなかったからかもしれない。だから芝生ばかりみてしまったのではないか。
ということを考えていて思い出したのは、何度も繰り返していて、さらに今後も繰り返すだろうと思うのですが、脳梗塞で父が入院していたときのエピソードでした。シャントという管を脳のなかにいれて、脳に溜まった水や血を排出する処置をしたのだけど、その説明を一生懸命に聞いていたにも関わらず、ぼくはそのときのことをほとんど覚えていません。丁寧に時間をかけて、脳の写真などをみせてもらいながら説明を受けたのに、まったく記憶にない。つまりぼくは、半身不随もしくは植物人間になろうとしている父を認めたくなかったんだろうと思います。
「第1感」という本に書かれていたのですが、自閉症の患者の視線を分析すると、本来であればみるべき人間の表情の上に視線は動かないで、まったく関係のない壁の絵画などの上をさまよっているそうです。つまり、ワールドカップで芝生をみているぼくの意識も、医師から父の現状を聞かされながら何も心に残っていないぼくの状態も、どこか自閉症的といえる。けれどもそんな自分を理解しつつ、あらためて現実を直視しなければならない。潜在意識のなかでフィルターがかかってみえなかった世界を、ぼくは取り戻す必要があります。それは弱さを認めることでもあります。しかしながら、弱さをきちんと認めないことには、次の発展もない。きちんと弱い心に立ち向かわなければならない。
盲目的になることがあります。夢中になって何かに熱中しているときであればまだよいのですが、盲目的にひとを好きになったとき、盲目的に誰かを憎んだときは厄介なものです。そういうときには、心がある意味で自閉症的になっている。あるべき世界をきちんとみていません。激情に偏向した一元的な思考になっているともいえます。気をつけなければならないのはそういうときで、冷静な判断を見失っている。世界は決して「白か黒か」のようなデジタルなものではありません。「白も黒も」存在することがある。さらに「灰色」なときもある。けれども、激情に支配されているときには、そうした「地」的なものが意識の外に追いやられている。
「地」と「図」を選びながら、けれども選ばれなかった「地」があることを認めることが大事でしょう。両方をみることができたとき、はじめて世界をありのままに感じ取れる。人間には、きれいな部分もあれば汚い部分もある。はじまりがあるものには、必ず終わりがある。日の当たる場所には影ができる。ここではないどこか、いま自分の意識が切り取っている部分だけでなく、切り絵のように、ポジに対してネガの部分があることを感じ取れるようにしておきたいものです。90%は満足、という統計的なデータがあったときにも、10%は不満だったわけで、どちらに注目するかによって結果も変わってくる。もちろん満足と不満が共存していることもあります。人間の心はロボットと違って、二進法で組み立てられているわけではない。
「パレートの法則」というものがあります。80:20の法則と言われていますが、たとえば売上の80%は20%の優良顧客で占められる、というものです。アリのなかで働くのは20%であり、その20%を排除すると怠けていた80%のアリのうちの20%がまた働くようになる、という事例もあったような気がします。Web2.0などでよく使われるのは「ロングテールの法則」ですが、これもパレートの法則に似ています。20%ではないものの、少数のヒット商品が大きな売り上げを上げていて、残りの80%はわずかな売上ではあるけれど数だけは大量にあり、恐竜のしっぽのように長く広がっている。
唐突に話を変えますが、人間の70%は水である、ということを以前書きました。水ではない30%が、80%の人生を悩んでいたり苦しんでいたりするのかもしれない。地球の80%ぐらいは海だったような気がします(きちんと調べていませんが)。海ではない20%の大地で、ぼくらはささやかな文明を営んでいる。いまいる世界のことにせいいっぱいで、ここではないどこかのことに気づかずに、ぼくらは暮らしています。「気づき」と言ってしまうと何か胡散臭いものを感じますが、「潜在意識の闇に葬られている真実にあらためて光を当てること」が大事かもしれません。
昨日読み終えた「出現する未来」にも書かれていたのですが、この80:20のような法則は、決して偶然ではないのかもしれません。つまり、地球、人間の身体、経営組織の効率、アリなどの生物の営み、という規模の違う分野において、なにかものすごい世界の秩序が働いていて、成立する法則があるのかもしれない。それは認知科学、哲学、文学、経営学を横断して成立する法則(というよりもパターン)を見出すのと、どこか似ています。もちろん、その考えに固執すると危険なので、その考えから一歩引いてみて、そうではない論点も考察する必要はあるのですが。とはいえ、いまロングテールのさきっぽにある書物が注目されたり、CGMとして個々のブログや情報発信に注目が集まるのも、実は同じ大きな秩序のもとにあり、技術はもちろん技術以外の何かが働いているのかもしれません。ちょっと怖いですね。
9.11のテロがあったとき、世界中の乱数発生器が異常な結果を出したそうです。つまり人間の邪悪な行いだけでなく、人間を含む全体を覆う力が働いたのかもしれない、と「出現する未来」には書かれていました(これも微妙ですね。あまり踏み込まないようにします)。どんなにちいさな物事にも意義と目的がある。日常のささいな出来事は、決して刹那という分断された断片ではない。生活という刹那(部分)のなかに人生の重要な全体が内包されているのかもしれない。ホロンという思想もありましたが、部分と全体は切り離して考えるべきものではないかもしれません。
グーグルという企業にその考え方を適用して考えてみると、中国で検索エンジンを展開したときに、有害サイトが検索されない情報操作がされていたことが問題になっていました。つい最近誤りを認めるような発言がされていたようですが、もちろん誤りを認めることは大事だけれど、それは瑣末な部分に過ぎないような気がします。"Don't be Evil"という社是の言葉から、"evil(邪悪)"であるかどうかばかり注目されているのですが、善人と悪人の一元論で片付けてもしようがない。企業は利益を追求する以上、"evil"であろうと思わなくてもなってしまうことがある。人間に明るい部分もあれば闇の部分もあるわけで、その全体を偏見ではない目でみるべきだと、ぼくは考えます。もちろんぼくの私見ですが、闇の部分だけを見て批判するのはどうかと思う。ただ、もちろん闇の部分が全体に及ぼす影響は、考えなければいけないけれど。
むしろ考えなければならないのは、技術発展に重きをおくばかりに世界や自然や人間を見失っていないか、というところであると感じました。競争社会だけれど、そんなにあせらなくてもいいだろうし、グーグルは長期的な視野で世界を変えることができる企業であると思っています。そして技術は何のためにあるかというと、人類を含めて地球をしあわせにするためにあるのだと思う。いろんな対立が表面化しているようですが、図書館をはじめとして、さまざまな企業などと対立までしてサービスを推し進める必要はないのでは。発展を「保留」してみてもよいのではないでしょうか。
「地球に優しいのはどっち?マイクロソフト対グーグル」という記事で部分的に気に入っている箇所があるのですが、たとえば以下のような文章です。
オフィスというよりは、大学のキャンパスのようにみえるGoogleの社屋の周辺では、自転車や電気スクーターをよく見かける。従業員はこれを使って青々とした芝生や公共の通路を動き回る。「自転車のお医者さん」が四半期に一度、1日間無料で自転車のメンテナンスをしてくれる。Googleはまた、従業員がプリウスやホンダシビックのハイブリッドカーの新車を購入する際には5000ドルを支払っている。
技術と人間、そして地球環境との在り方をバランスよく考えること。それがロハス的なものにもつながると思うし、これからの社会に必要なことのようにも思えます。Web2.0なんかより、ずっとそっちの方が大切じゃないかと思う。ただ、ぼくがCNETの記事で気に入らないのは冒頭の一文です。これは全体を通した作為的な書き方にも通じるのですが。
インターネット利用者の心をつかもうと、GoogleとMicrosoftとの間の競争が過熱している。そんななか、どちらの企業が地球を救うことに長けているかが注目を集めつつある。
こうやってメディアが煽るから、大切なものを見失うのではないか。CNETのジャーナリズムとしての姿勢に疑問を感じました。バトルじゃないだろう、これは。バトルで環境に対する優しさを競っていても、何もよくならない気がします。対立や戦争からはきっと何も生まれません。協調が必要ではないのでしょうか。目を覚ましてほしいものです。メディアも、そしてこれからのIT企業も。
+++++
■Googleの理念のページ。
http://www.google.co.jp/intl/ja/corporate/tenthings.html
投稿者 birdwing : 2006年6月14日 00:00
« 「出現する未来」P. センゲ , O. シャーマー , J. ジャウォースキー , 野中 郁次郎 , 高遠 裕子 | メイン | 立体にみせる、音を配列する。 »
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/666