2006年5月31日
子育てとビジネスの全体思考。
午前半休をいただき、息子(次男3歳)の幼稚園の参観日に行ってきました。
はじめのうちは特に問題なく微笑ましいシーンが展開されていたのですが、外で遊ぶというときになって、上履きが脱げないのと靴がうまく履けなかったために息子は号泣(ブランドものの紐靴を履かせていました)。後になって別の子供も泣き出したため、まだ救われるものがあったのですが、たくさんのママさんやパパさんがみているなか、号泣する息子にはいたたまれないものがありました。穴があったら入りたい気分です。
一度泣いてしまったら我慢ができなくなってしまったのか、先生の制止を振り切って、こちらに向ってやってくる。それからは参観日というのに息子の視線から逃げまくって、敵の視線をかわすために窓の隙間からこっそり様子をうかがうような一日でした。戦場ともいえます。視線の弾を避けつつ、奥さんとお互いに隠れながら(だから履きやすい靴にしろっていったじゃん!)(そんなこといま言ってもしょうがないでしょ!)のように、親たちも戦場というかプチ夫婦喧嘩が展開されていたのですが、なんとか参観日も終了し、泣くのをみられたせいかちょっと気まずそうな息子に、「頑張ったな」と言って頭を撫でてやると、ちいさく「頑張ったよー」という返事。奥さんからは、パパは甘いんだから、と言われたのですが甘くて結構。ちょっと恥ずかしかったけど、泣いて甘えん坊の息子もぼくの息子であり、そんな息子も許容したいものだと思いました。でも、もうちょっと強くなってほしいぞ。よく話を聞くと、毎日泣いているとのこと。そりゃ泣き過ぎです。
とはいえ、きちんとお祈りのときにちいさな手のひらを合わせていたり、一生懸命、いーっという口をしたりうーっという口を尖らせたりして歌を歌っていたり(そんなにいーっとしたりうーっとしたり力んで歌わなくてもいいのに)、なんだか前かがみのミッキー体操を狂気乱舞で踊っている息子をみていたら、不覚にもちょっとじーんとしてしまいました。
いつもは家にいる息子しか知らないのですが、こうして参観日に出席すると、クラス全体のなかにおける個というものを知ることができて、なかなか興味深いものがあります。比較するわけじゃないのですが、ああ、あの子はダンスがうまいな、ということもわかる。最終的には親ばかなので、うちの子がやっぱりかわいい、という結論に到達してしまうのですが、いろいろと考えることも多く、仕事ばかりしていないで時間を作ってこういうところに出るのもいいもんだ、と思いました。ある意味これも全体思考的な把握かもしれません。
ところで、ビジネスにおいて全体思考というと、ぼくは「管理」と「戦略」というふたつの方向を思い浮かべます。
前者の「管理」について言えば、個人的にぼくは管理したくもなければ管理されたくもない人間であり、そういう意味では組織人としては不適格かもしれない。だから管理に執拗にこだわるようなひとをみるたびに、権力主義的な何かを感じて、管理によってみんなを快適にするというより自分のポジションを維持したいだけじゃないのだろうか、と懐疑的な憶測を感じることもしばしばなのですが、会社というのはそういうものなのでしょう。組織が肥大すればするだけ、無駄なことが必要になるものです。
ぼくには管理は部屋の片付けのようなもの、という認識があります。若干暴論かもしれないのですが、片付けにめちゃめちゃ注力してしまうときがあります。よしっ!という感じで捨てまくったり、整理しまくる。とにかく片付けているときは肉体労働をしている充足感があり、何かよい方向に向っている気がする。ところが部屋がすっきり片付いたときにふと思うわけです。さて、どうしましょう、と。
もちろん本が雪崩を起こすようなぼくの部屋は片づけが必要ですが、その片付け自体を人生の目的としてしまうと方向を間違えている気がします。片付けたあとにどうする、ということが重要であり、片付けを目的としても、何も生産されない。ところが多くの管理では片づけを目的とする傾向があり、片付けの汗を流す心地よさにばかりこだわり、「どうする」の部分を置き去りにしてしまう。数値化ばかりに注力する管理や、フローの制定にばかりこだわる管理、というものは、片付けに満足することばかりを追求し、目的を見失った状態に思えてきます。というのは、管理者には向いていないぼくの負け犬の遠吠えのようなものでしょう。
もし管理に必要とされる部分があるとしたら、「動機付け」と「リーダーシップ」ではないかと思います。それは片付けたあとにどこへ向うか、という方向を示すことであり、片付けることとは次元の違う難しさがある。片付け、というのはある意味肉体労働であり、基準さえ決めたらあとは誰でも考えなくてもできるものです。ところが、「動機付け」と「リーダーシップ」は考えなければできない。しかも意思決定が必要になるので、いくつもある正しさのなかから向うべき正しさを選択する必要がある。選択する、ということは、他を排除する、ということであり、逃げも隠れもできません。覚悟が必要です。ところがオプションだけを提示して、覚悟ができないことも多い。
さらに高度な考えが必要になるのが「戦略立案」ではないかと思うのですが、安易に何か書こうとしたものの、ちょっと思うところがあり、きちんといつか考えてみたいと思います。
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2006年5月30日
「ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代」ダニエル・ピンク
▼book06-039:ほんとうの大変化はここから始まる、かも。
ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代 大前 研一 三笠書房 2006-05-08 by G-Tools |
インターネットやテクノロジーが何をもたらすのか、ということはいまでもぼくの大きな関心ごとであるのですが、どちらかというとWeb2.0のようなトピックにはあまり興味を失いつつあり、むしろそうした技術を含む社会全体を飲み込むような波、もっと大きな変化をキャッチしたいと思っています。しかしながら、あまりにも大きすぎると妄想のようなものになってしまう。あくまでも等身大で考えていきたいものです。
自分のセンサーの感度を高めるために、本を読んだり映画を観たり、プレゼンの前の日にへとへとになりながらブログを書いていたりするのですが、量が質に転じるときがあるというか、たくさんの情報をとにかくインプットすることで、ようやくパターンがみえてきたような気がします。センサーがキャッチしたキーワードを蓄積できるようになりました。それはどうやら脳科学であったり、比喩やメタファーであったり、認識論のようなもののようです。
もう既に何回かブログで触れてきたのですが、この本はぼくがキャッチしたかったことの集大成という感じがします。直感についての記述もあり、さらに比喩についての記述のなかでは、EQだけでなく比喩指数(MQ)を高めよう、などという表現もありました。確かに左脳的な処理はコンピュータがどんどんこなしていく世界になるので、じゃあ人間は何をするのか、ということを考えると、右脳的な思考が必要になります。「答えのない社会」あるいは「答えが複数ある社会」であり、さらに答えを創り出さなければならない社会には、逐次的な処理ではない「全体思考」が大事になる。
ここで「ねばならない」的な発想をすると、つらくなります。じゃあすぐ息子に右脳教育を、という方向に焦るとつらい。楽観的にとらえると、ダニエル・ピンクさん的な予見から将来は暗記や論理は通用しなくなる社会になるので、無駄なことを覚える必要もなく(無駄なことは情報としてネットの世界にアーカイブしておけばいい)、逆に余裕があって豊かな創造的な世のなかになるともいえます。そんな予見をした上で、それこそ「全体」を俯瞰して、慌てずに自分は何をしたいか、というようなことを考えたほうがいいでしょう。
過渡期にある現在がいちばんつらいかもしれません。情報に追いまくられている気がします。けれども情報から解放されるときがきっとくる。それは大きな希望でもあります。
この本は楽しんで読んでほしい、と書かれていましたが、ほんとうに楽しめました。最後の「笑うこと」の大切さを説いている章では読んでいるぼくも楽しくなった。3歳と9歳の息子たちは、ほんとうに毎日よく笑います。何がそんなにおかしいんだろうと思うほど、笑っている。楽しいことだけを考えて生きているのが、しあわせなのかもしれません。ぼくにとっては、考えている時間がしあわせなので、いろんなことを考えつつしあわせに浸っていたいと思います。5月30日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(39/100冊+34/100本)
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ハルキは、ハルキ。
AERAのNo.27(6.5号)に「昔の「春樹」に会いたい」という特集がありました。
小森陽一先生の村上春樹論を読破してさまざまな考察を加えていたところであり、村上春樹さんのファンでもあったので、購入して読んでみました。
けれども、「海辺のカフカは処刑小説である」という過激な理論に接していたためか、どうもこの記事にはぼんやりとした印象しかない。純粋無垢なファンであれば、「最も好きな作品は?」というランキングに、うんうんと頷いていたかもしれないのですが、なんか当たり前だな、としか感じなかった(ちなみに1位は「ノルウェイの森」。当たり前でしょ)。もしかすると小森陽一的な思考のバイアスがかかっていたのかもしれません。力のある評論に接すると、こういうところが怖いものですが、ニュートラルに気持ちを落ち着けて読んでみると、春樹ファンにとってはしあわせな記事かもしれないな、と思ったりもしました。
このAERAの記事のなかで、ちょっと首を傾げたのは次のような部分でした。
近年の村上春樹は、『海辺のカフカ』などの話題作を発表する一方で、オウム真理教のサリン事件に取り組んだ『アンダーグラウンド』や阪神・淡路大震災の影響が色濃い『神の子供たちはみな踊る』などの異色作でファンを驚かせてきた。世界的な作家に成長し、ノーベル賞受賞も遠くないといわれる。しかし、新境地を開くほどに、かつて読んだ初期作品から離れていってしまうような寂しさを持つ人々も多い。 「オウム事件でハルキは変容してしまった」 「初期作品の『僕』をもう一度出してほしい」 「ビーチボーイズ、ビール、Tシャツと、若い頃の思い出が詰まっている」 アンケートなどからは、そんな声が聞こえてきた。
ほんとうのファンであれば、変わっていくことも容認できるのではないでしょうか。むしろ変わっていくことを応援したい。変わらない人間なんてありません。誰もが年を取っていく。
古い作品に若さであるとか、その時代でなければ書けない空気、懐かしさがあるのはわかります。でも、それを現在の春樹さんに求めるのはどうかと思う。古い作品が好きであれば、古い作品を何度も読めばいい。何度も繰り返し大好きな場面を読むことができるのも、読書の楽しさのひとつです。けれども新しい作品には新しい春樹さんの考えがある。創作というのは、どんどん読者を裏切る行為であると思うし、その裏切りにもついていけるのがファンだと思う。ベストセラーを出さなくなって、メディアに取り上げられなくなってしまって、ロングテールの先っぽに落ちてしまったとしても読みつづけたいのが、ほんとうのファンという気がします。
だから、もしファンであれば、どんな駄作を発表してもぼくは読むだろうし、その駄作を愛そうと思います。社会的に間違ったものを書いたとしても、その間違いごと受け止めるのがファンではないでしょうか。もちろん、あまりにもついていけないような世界に入り込んでしまうと困惑しますが、やれやれ、こうなっちゃたか、こまったなあと困惑しつつも見守っていたい。
関係ないのですが、かつてぼくはひそかに菊池桃子さんをいいなあと思っていた時期があり、しかしながら歌が下手だとか地味だとか周囲の評判は最悪だったので、心のファンにとどめておいたのですが、彼女が結婚したり子供が生まれたりしたことにちいさく傷付きつつも、皺が増えたりおばさんになってしまったかつての心のアイドルをみて、いまでもやはり素敵だなあと思います。オードリー・ヘプバーンも年老いてからメディアに登場したときに、夢が壊れると批判されたことがあったようですが、おばあちゃんである私をみてほしい、というようなことを言ったエピソードがあったような気がします。
あらゆるものは変わっていくものです。若い作家も年を取る。田舎の風景だって、少しずつ賑やかになっていく。
ヴォネガット的な「風の歌を聴け」の詩と小説が混在したような若々しい乾いた文体も好きだけれど、ぼくは「海辺のカフカ」のような成熟した文体の春樹さんも好きです。小説としての完成度は確実に上がっていると感じたし、だからこそ処刑小説のような光を当てることもできる。「アフターダーク」は正直なところ、いまいちだと思ったのですが、もしかしたら次の作品のための「創造的退行」なのかもしれない。
村上春樹さんは読者とのコミュニケーションも試みているようですが、そんなCGM的というかブログ的というか、双方向的なものがあるから、読者も言いたいことを言うようになってきたのかもしれません。対話はとても大切なものだと思うし、作家が一読者の感想に答えてくれるのはものすごくうれしいことです。けれども、「昔のスタイルで小説書いてくれ」というのは、どうでしょう。もちろんそこには願いも込められているとは思うのですが、読者のわがままという気もするし、ほんとうのファンなのか?という気がしました。
よいことも悪いことも含めて、いまある誰かの姿を、ありのままに視ること。その心のなかにある何かを感じとること。それが大切かもしれません。
みんな変わっていきます。昔のハルキは、いまのハルキとはまったく別人ともいえる。けれどもやはりハルキはハルキだと信じましょう。そうして変わらないものがあるとすれば、書かれた言葉だけかもしれません*1。
*1:養老孟司さんが本に書いていることですけどね。
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2006年5月29日
デザインと物語。
ビジネスで最も権威のある資格といえばMBAという気がするのですが、「ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代」という本を読んでいたところ、もうMBAの時代ではない、ということが書かれていて驚きました。では何が求められるかというとMFA(Master of Fine Arts)、つまり美術学修士とのこと。GMは「我々の仕事はアート・ビジネスだ」と主張しているようです。つまりロジックで武装した人間よりも、クリエイティブな発想をする人間を求めているとのこと。そして機能だけでなく、デザインのできるひとが重視されていく、とダニエル・ピンクさんは論じていくわけです。
デザインとは何か、というのはなかなか難しい定義ですが、「デザインとは、多くの分野にまたがったものです。ここでは、全体論的に物事を考えられる人材を養成しているのです」とチャーター建築学校のクレア・キャラガーさんの言葉が引用されていて、なるほどと思いました。確かに平面であっても立体であっても、デザインを考えるときには全体をとらえる必要がある。また、全体をとらえるだけでなく、そこには「美」意識が必要になります。つまり、感動を生むこと、共感を生むための力が求められるわけです。
デザインは空間的なものだけでなく、「設計」という意味に置き換えれば時間的にも有効になります。人生設計、というように、歴史の流れをつかんでいまあるべき姿を追求するのも、大きな意味ではデザインといえるかもしれません。
しあわせなことにぼくはデザインに近い仕事をしていて、まさに会社で隣の席には優秀なデザイナーさんが座っているのですが、ほんとうにデザイナーさんはすごいと思う。仕事ぶりをみていて尊敬します。アーティストとデザイナーの違いもあるかと思うのですが、それは何かというと、まさにこの本で欄外に引用されているアンナ・カステッリ・フェリエーリさんという家具デザイナーさんの次のような言葉だと思います(P.153)。
実用的なものが美しいというのは間違っている。美しいものこそ実用的なのだ。美しさは、よりよい生活や考え方を私たちにもたらしてくれる。
フロリダ州の選挙で問題になったのは、投票用紙のデザインである、ということが書かれていました。「バタフライ方式」と呼ばれているようですが、ページが複数ページに渡っていて「どのページにも投票すること」と書かれていたため、誤って二人の候補を投票するひとが続出した。このように「ひどいデザイン」が、世の中を変えてしまうこともある。ちょっと怖い。
世のなかが豊かになってくると、機能的なものだけでは差別化できなくなってくるので、デザインによる差別化が進展するということは頷けます。確かに最近、おかしな形をしたペットボトルが多くなりました。その前には食玩(つまりおまけ)が添付されているものが多かったのですが、それだけでは差別化できなくなったのでしょう。もちろん外側の容器だけでなく、製品自体の開発も進んでいると思います。ちなみに余談ですが、いま、ぼくが気になっているのは、スパークリング・カフェ(炭酸入りコーヒー)なのですが、まだ飲んでいません。組み合わせの発想のような気もするのですが、どうでしょう。
「ハイ・コンセプト」という本には次世代に重要な6つのセンスが提示されていて、その第一がデザインでした。そして、第二は何かというと「物語」です。
物語というのは何となく随分前にマーケティングで言われていたことのように思ったのですが、なるほど、と思ったのは、物語を認識するのも「全体思考」であるということです。文を逐次読み取るのは線的な思考なので、左脳的かなと思っていたのですが、考えてみると起承転結などの構造を理解するのは、全体的な把握になります。映画でも神話でもビジネスの成功事例でもよいのですが「英雄の旅の物語」のような挫折と成功の構造を読み解くこと、パターン認識として構造を理解することは、まさにいくつもの物語を俯瞰するようなものです。
この物語的なセンスというのは、医療の分野でも「物語医学」として取り入れはじめているとのこと。病気を診断するというのは、患者さんが時間の推移によって容態が悪くなっていく「物語」を読むことであり、その読解に誤ると生死に関わることさえある。さらに患者さんの物語に「共感」する力も必要になるわけです。理系の最先端でもあるような医学においても、文系的なアプローチが採用されはじめていることに、ちょっと感動しました。
デザインと物語について考えていたのですが、もともと文学系のぼくは物語的な思考は得意なほうです。しかしながら、デザインに関しては、ちょっと弱い。そんなわけで弱点を強化すべくデザイン系の本のフロアをうろうろしていたところ、次のような面白そうな本に出会いました。
デザインする技術 ~よりよいデザインのための基礎知識 MdN 2006-05-19 by G-Tools |
ああ、また買ってしまった。迷ったんですけどね。ちょっと買い過ぎです。
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2006年5月28日
ストレイト・ストーリー
▽cinema06-034:ゆっくり生きましょう。
ストレイト・ストーリー [DVD] ポニーキャニオン 2005-03-02 by G-Tools |
映画は旅のようなものかもしれないし、また人生かもしれません。すぐれた映画を観終わると、すばらしい人生を経験したような気持ちになります。この映画は、73歳のアルヴィン(リチャード・ファーンズワース)が兄が脳卒中で倒れたという知らせを聞き、500キロ離れた兄のところへ行くというそれだけの物語です。しかもどうやって行くかというと、おんぼろのトラクターに乗っていく。
ちょうど老いや死について考えていた時期でもあり、脳梗塞で倒れて亡くなった父のことを思い出してブログに書いたりしていたので、この設定だけで泣けました。さらに何に泣けたかというと、トラクターに乗ってごとごと走るアルヴィンにオーヴァーラップするような麦畑など、ぜんぜんストーリーには関係ない映像です。旅の途中でさまざまなひとと出会い、自らの過去を振り返ったりもするのですが、このささやかなエピソードが心に染みます。あたたかい気持ちになれる。家族は束ねた木の枝のようなものだ、とか、年老いて最悪なのは若い頃を覚えていることだ、とか、兄ライルとはうぬぼれや怒りから10年も仲違いしていたのですが、兄弟は兄弟、とか、台詞だけでもぐっとくるものがありました。
老人のロードムービーともいえます。監督はデヴィッド・リンチ監督であり、しかしながら難解なあちら側の世界的なものはひとつもありません。タイトルの通り、ストレートに心に響く映画です。とはいえ、最初に旅に出たときに、おんぼろのトラクターがエンストして小型トラックに積まれてすぐに帰ってきてしまうのですが、黙って猟銃を持ってきたかと思うと、どかんと撃っておんぼろトラクターを爆破してしまうユーモアには、デヴィッド・リンチ監督らしいものを感じました。
子供の頃のように兄とふたりで星空を眺めたい、というそれだけで、ごとごとトラクターを運転する。途中で、クルマで送ってやろうか、半日あれば行ける、という親切なひともいるのですが、初志貫徹で断ってそれから何日もかけて兄のところへ行くわけです。でも、急ぐ必要なないし、時間もたっぷりある。忙しすぎる生活のなかで、こんな風にゆっくり生きてみることもよいものです。5月28日鑑賞。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(38/100冊+34/100本)
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左右のリレー、そしてシャッフル。
昨夜、机の横に積み上げておいた本が雪崩れを起こしました。生き埋めになった本を救出すべく、救助作業を行ったのですが、その過程で、こんな本も読んでいたのか、という自分でも忘れていた記憶を取り戻すことができました。逆に、この本も読んでいなかったのか、というかなしい状況を発見することにもなったのですが、本や書類の効果的な整理方法がないものか、と頭を悩ませています。
反対する動きも大きいようですが、ぼくはグーグルが世界中の書物(というより情報)を電子化しようとしていることに大きな期待もしていて、さらに小型で薄い電子ブックリーダーのようなハードウェアができれば、この二十世紀的な本の雪崩れに悩まされる状態も緩和されるのではないでしょうか。紙を節約するという意味で、資源にもやさしいかもしれません。とはいえ、ぼくは紙の本たちの存在感や質感(匂い、手触りなど)というのも大切に思っていて、電子化されるからといって本の購買意欲を下げるものではないような気もしています。音楽のダウンロード販売が進展しても、やっぱり大好きなアーティストはパッケージ(CD)で持っていたいように。
ダニエル・ピンクさん(大前研一さん訳)の「ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考える人の時代」という本を読んでいるのですが、考えさせられるところが多くあります。世界が大きな変化を迎えている、という実感をひしひしと感じます。
BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)によって、ナレッジ・ワーカーの世界ですら、力仕事の単価はどんどん下がっている。ごりごりプログラムを書くような仕事は、インドの技術者がアルバイト価格でやってしまうわけです。では、どうするか、ということで創造的な仕事に向うべきだと書かれています。それは、いままでの左脳重視的な論理で組み立てる仕事ではなく、右脳的な創造性が求められる仕事である、と。この本の最初は脳についての考察からはじまり、脳科学が一部のサブカルチャー的な話題や、テレビなどのトレンドで終わるブームではないことを感じました。
ここで右脳と左脳の機能が整理されていて、茂木健一郎さんの本などでも一度読んでいた気がするのですが、あらためて興味深い考察がありました。右脳=左半身を制御/全体的、瞬時な処理/文脈の処理/大きな全体像の把握、であり、左脳=右半身を制御/逐次的な処理/文の処理/詳細の分析、と整理されていることです。
左脳重視の社会があったのは、人類の90%が右利きである(左脳によって制御されている)ということにあったからかもしれません。ぼくはこのブログで「俯瞰(ふかん)思考」を理想として追求してきたのですが、俯瞰する力とはつまり全体を把握する右脳の思考かもしれません。養老孟司さんのいうところの一元論からの脱却など、「どちらか一方ではなくどちらも選ぶ」時代である、ということもさまざまな本で書かれていたのですが、これもまた右脳的な全体を把握する力が求められる。逐次的な処理とは、まさにコンピュータがプログラムを上から処理していくようなもので、左脳はコンピュータ的といえますが、「第1感」という本にもあった瞬時で贋作を見抜いたりする直感のような力は、右脳にあるようです。これは人間だけのものだといえる(いまのところは)。左脳的な力仕事の処理はコンピュータがこなしていくので、右脳的な能力が必要になる。
と、同時にぼくが面白いと思ったのは、右脳は比喩(レトリック)を読み取る力がある、ということです。逐次的な処理(コンピュータ的)では、比喩は理解されない。右脳的な比喩、あるいはメタファーを理解する力が全体を把握する思考力として重要になるわけです。
ぼくは脳科学者でもなく文学者でもない一般人ですが、脳科学、言語学、心理学、文学、映画、音楽(ついでにビジネスやテクノロジー)のような分野を横断して個人的な考察をしていきたいと考えていて、この右脳=比喩という指摘からイメージが広がったのは、右脳=範列的(パラディグム)/空間的な統合/メタファー(類似性)、左脳=統辞的(シンタグム)/時間的な統合/メトニミー(隣接性)、ということでした。もちろんイコールではないし、ものすごく乱暴なくくりだとは思います。
そして、これも「どちらか一方ではない」という考え方から、右脳+左脳という双方の力を発揮させることが必要だと感じました。この「ハイ・コンセプト」にもそのことは言及されていて、右脳教育のように、右脳を宗教のようにまつりあげることはおかしいと書かれている。けれども、バランスが大事であると書かれていながらも、やっぱり最後は次世代は右脳の時代だ、というように右脳重視に偏っているところがあって、そのことがやや残念です。
右脳と左脳をつなぐ働きは、実際には脳梁という部分で行われているようですが、それが重要であるとぼくは思いました。たとえば、ぼくは趣味のDTMで曲をつくりながらブログでその曲の解説をしています。ブログだけ読んでいると、こんな理屈っぽいことを考えながら曲を作るのはおかしいんじゃないか、と思われるかもしれないのですが、実際には曲を作っているときには理屈は考えていません。音の響きや全体を感じ取っている。音楽というのはそういうものです。音楽を感じるのも右脳が中心だそうですが、音楽を創る(右脳)→創った音楽について書く(左脳)、そして書いたものを潜在意識にしまいつつ音楽を創る(右脳)→また書く(左脳)という、右脳と左脳の「リレー」をやっているのだと思います。ぼくにとっては創作も大事だけれど、このリレーが重要かもしれない。このことが実は立体的な思考のエクササイズになっているのかもしれません。
感情的(右脳的)だけでは表現として破綻するので、そこには論理(左脳的)の制御が必要になる。でも、理屈っぽくては(左脳的)心に訴えることができないから、共感を生んだり訴えかける適度の感情(右脳的)が必要になる。木(左脳的)をみて森(右脳的)をみず、とはいうけれど、詳細にこだわる(左脳)必要もある。
これからの時代に必要となるのは、異なる何かをシャフッルする力である、とぼくは考えました。シャッフルしつつ統合する、つなげる力です。「感動を生む構造(感動=右脳的、構造=左脳的)」とか、「美しい分析(美しい=右脳的、分析=左脳的)」とか。並び替えると新しい何かが感じられる、ということを先日のブログにも書いたのですが、右脳カテゴリーのなかでもさまざまなシャッフルができそうです。
先日、丸善に立ち寄ったときに思想書のコーナーにも立ち寄り、ポール・リクールとかクリステヴァなども読んでみたいと思ったのですが、本の値段が高いんですよね。とはいえ卒論を書かなければならないわけでもなく、これで生計を立てる必要もないので、じっくりと取り組むことにしましょう。老後まではずいぶん時間があります。
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2006年5月27日
ハイ・コンセプト、ハイ・タッチ。
ワールドカップでドイツ入りした選手たちは、かっこいいですね。やはり、やるぞ!という気迫が顔にあらわれているのでしょう。選ばれた使命感もあるかもしれない。プレッシャーも大きいと思いますが、緊張が選手たちをさらに大きくするような気もします。ところで、ぼくはといえば、土曜日も仕事でした。やるぞ!というほどの元気はなく、さてやりますか・・・ぐらいの脱力感ですが、もうちょっと気迫を持ったほうがいいかもしれません。
GOLDEN.minと同様に会社に置いてきてしまったのですが、R25の石田衣良さんのコラムで、日本人は残業が多すぎる、ということが書いてありました。イタリアなどでは、仕事が終わってからの自分の時間を大切にするようで、平日であっても、一度家に帰ってから夜の街に繰り出す。そんな元気はぼくにはとてもありません。けれども、人生を楽しむということは、もしかするとそういうことなのかもしれないな、と思ったりします。
とはいえ仕事がつまらないかというとそんなことはなく、はっきり言って楽しいです。今日はiPodでNew Orderをがんがん聴きながら企画書を書いていたのですが、あっという間に時間が過ぎました。クルマのCMにも使われていたかと思うのだけど、Kraftyという曲を聴くと元気が出ます。日本語バージョンもあって、これはなかなか苦笑ものではあるのですが、歌詞自体はいい。YAMAHAのプレイヤーズ王国では、オリジナルだけでなくコピーも公開できるので、時間があればKraftyをコピーしてみたいものだと思ったりしています。
そんな風に音楽にのって仕事を仕上げて、雨降りのなかを家に帰ったのですが、コンビニでビールを買って外に出たところビニール袋をつかみ損ねて、ごろごろと缶ビールを雨降りの夜のアスファルトに転がしてしまった。そのまま、どこかの穴に缶ビールが落ちて、缶ビールころころすっとんとん、という感じでネズミの国にでも行けたらファンタジーな気持ちにもなれたのですが、そんなことはなく、家に帰ってびくびくしながらプルリングを引いたところそれほど泡が暴れまくるわけでもないわけで、現実というものは期待してもたいしたことは起きないものだ、と再確認しただけでした。なんとなく保坂和志さん的な言説になったのはどうしてでしょう。わかりません。
仕事に追われながら、これからぼくらはどうなるのだろう、と思考をめぐらせるのですが、非常に示唆に富む本に出会ってしまいました。大前研一さんが翻訳しているダニエル・ピンクさんの「ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代」です。
ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代 大前 研一 三笠書房 2006-05-08 by G-Tools |
実は木曜日に丸善で「グーグル 既存のビジネスを破壊する」を購入したとき、どうしても気になっていた本で、次の日にこの本と村上龍さんと伊藤穣一さんの対談である「「個」を見つめるダイアローグ」をそこで購入してしまいました(ついでに書いておくと、長男に恐竜の百科事典と次男に「はじめてのひらがな」も購入してしまい、あまりの重さと小遣いの浪費に凹みました。)。この3冊は、当たりという気がしています。すべて面白い。
この「ハイ・コンセプト」という本ですが、おこがましいのですが、ぼくがこのブログで書いてきたようなことが書かれていて、ものすごくテンションが上がりました。いままで感じ取っていたことは個人的な雑感ではなく、時代の空気のようなものだったのかもしれません。この本は、右脳と左脳の考察から入ります。そして、いままで重要とされていた能力が効果がなくなる時代が訪れるという洞察とともに、次世代に必要な能力とは何か、ということが書かれています。大前研一さんは冒頭で「第四の波」が訪れていること、「カンニングOK」の教育があること、「モーツァルト型の脳へ」ということを指摘されていました。これもとても興味深い見解です。
「はじめに」の部分でこの本の要点をかいつまんで説明されているので、そこから抜粋してみます。まずこれから必要な「六つのセンス(感性)」として、「デザイン、物語、調和、共感、遊び、生きがい」を挙げ、物質やテクノロジーで豊かになった時代に動かしていく能力として次のようなことが指摘されています(P.28 )。
私たちはいま、新たな時代を迎えようとしているのだ。 その新しい時代を動かしていく力は、これまでとは違った新しい思考やアプローチであり、そこで重要になるのが「ハイ・コンセプト」「ハイ・タッチ」である。
このうち「ハイ・コンセプト」については次のように定義されます(P.29)。
「ハイ・コンセプト」とは、パターンやチャンスを見出す能力、芸術的で感情面に訴える美を生み出す能力、人を納得させる話のできる能力、一見ばらばらな概念を組み合わせて何か新しい構想や概念を生み出す能力、などだ。
感情に訴えること、パターン認識などのキーワードに、ちょっとぼくはどきどきしました。「ハイ・タッチ」については次のように定義されています。
「ハイ・タッチ」とは、他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事についてその目的や意義を追求する能力などである。
これも他人との共感や日常に意義を見出す、などのキーワードがまるで答え合わせのように、ぼくがブログで何度も書いてきたことと重なり、間違っていなかったんだな、という安心を得ました。そして次のような言葉があります(P.29)。
個人、家族、組織を問わず、仕事の成功においてもプライベートの充足においても、まったく「新しい全体思考」が必要とされているのだ。
この全体思考を生み出すのが右脳であり、左脳と右脳の機能についてはまた面白いことが書かれているのですが、そこからぼくもインスピレーションを得たものがあり、長くなりそうなのでまた書くことにします。いま93ページを読みすすめているところですが、あっという間に読めてしまうかもしれません。
読書がたまらなく楽しくなってきました。あまり小説を読まなくなってしまったのが心配ですが。
+++++
■本日のBGM。精神的に(肉体的にも?)まあるくなってしまったぼくには、これぐらいのPOPさが心地よいです。ちょっと甘すぎるかもしれないですけど。個人的にはアルバムのなかの、Phones Reality Remixが好きです。もとの曲とは別物ですね、これは。リミックスは評論と似ているところがあり、解釈の光を別の方向から当てる創作的な試みだと思います。光の当て方で曲もまったく変わる。その光の当て方に、クリエイターの個性が感じられるとき、わくわくします。
Krafty New Order Warner Bros / Wea 2005-05-03 by G-Tools |
ウェイティング・フォー・ザ・サイレンズ・コール ニュー・オーダー ワーナーミュージック・ジャパン 2005-03-24 by G-Tools |
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2006年5月26日
「メタファー思考―意味と認識のしくみ」瀬戸賢一
▼book06-038:思考すべてがメタファー。
メタファー思考―意味と認識のしくみ (講談社現代新書) 講談社 1995-04 by G-Tools |
文章術のレトリックとして認識していたメタファーが、実は世界をとらえる意識の働きであり、英語であっても日本語であっても、例えば「明るい」という表現は光にあふれているという現象だけでなく、「見通しが明るい」のようにクリアになったことに使われるという指摘が面白いと思いました。しかしながら、表現方法の解説に終始していて、もう一歩高いレベルの見解まで到達していないところが残念という気がします。全体の大半を費やされている例文については図表としてまとめて、そのなかの特長的な表現についてさらに深い考察ができるのではないでしょうか。モノの運動を分類して、すべてを丁寧に解説されているのですが(この運動を分類したアイコン自体は興味深いものがありました)、なんとなく読んでいて焦点がぼけていく印象があります。
たとえばぼくが面白いと感じたのは、「乗り越える」と「回避する」という表現ですが、例えばこれを岩ではなく「課題を乗り越える」「課題を回避する」といったときに、課題は物質ではないけれども岩のような物質に思えてくる。そして、「乗り越える」は課題をよじ登って「上」をよいしょと通過するのに対して、「回避する」は岩の「左」もしくは「右」を遠回りする印象があります。そして「上」には「上流」のようなポジティブな印象がある。だから、「乗り越える」は自発的かつよいイメージなのですが、「回避する」のほうはいまひとつ前向きではない。到達点および、向こう側へ行く、という目的は同じであったとしても、です。
さらにこれが何か、ということを考えたのですが、人間が地面に足をつけて立つ生き物だからではないか、と思いました。つまり地面という「道」を行くことは簡単にできるのだけど、重力に逆らうことには抵抗がある。けれどもこの抵抗を突き抜けて向こう側へ行きたいという思いを実現することが理想でもある。「乗り越える」の究極は「飛ぶ」だと思うのですが、地面から遠く離れて空へと向うことが、長い間の人間の夢であったかもしれません。もちろんいま飛行機で飛ぶ夢は実現していますが、人間そのものはやっぱり飛べない。背中から翼でもにゅーっと伸びるぐらいに進化すれば別ですが。
というのは、この本から考えたぼくの稚拙な考察ですが、この本のなかに点在している視覚的メタファー、空間的メタファーについての考察を横断して、さらに文学や映画をその視点から考察を加えて論じると、面白いと思いました。そういう意味では、さまざまな示唆を与えてくれる本ではあります。5月26日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(38/100冊+33/100本)
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金色の時間。
会社に忘れてきてしまったのですが、地下鉄の駅で配布しているフリーペーパーに本日から「GOLDEN.min」が創刊されました。これは「metro.min(メトロミニッツ)」のバリエーションという感じですが、50代からのメトロマガジンとのこと。シニアマーケティングを実践した雑誌ともいえますが、とりあえずは矢沢永吉さんの表紙がかっこいい。
特集は、「妻とのコミュニケーション」とのこと。うーむ、深い。あえてそんな内容に踏み込むところが、フリーペーパーという枠を超えている気がしますが、データでシニアが何を重視しているか、という情報も掲載されていたりして、なかなか興味深いものがありました。手もとにないので印象で語りますが、男性は仕事などを重視しているようですが、女性のほうは子供や旦那さんとの関係性を重視しているようにも読み取れます。とはいいつつ、女性は旦那のことより自分の健康面に配慮しているというデータがなんとなく納得もできました。健康面というのは、若くありたいという希望もあるかと思うのですが、このデータの差を理解することこそが、コミュニケーションのポイントかもしれません。
そして、いま自分のことを考えてみると、子供を仲介としてコミュニケーションが成り立っているからいいけれど、子供がいなかったらどうだろう、などということを考えてしまいます。子はかすがい、とはよく言ったものです。ちょっと前に、とあるアパレル・ブランドの社員向けバーゲンのようなものが原宿で開かれていて(お得意さんは社員ではなくても参加できる)、ぼくは仕事で午前半休を取り、奥さんと行ってきたことがあったのですが、なんだか子供がいないと照れくさい。結局、話をすることも、いま次男は何をしてるかなあ、というように、子供のことになってしまう。いくつになっても夫婦でデートできるのはよいものだと思うのですが、なかなかそうもいかないものです。結局、お昼ご飯を食べて、そそくさと帰りました。でも、なんとなく昔がよみがえったような気がしました。
「GOLDEN.min」のなかでは作詞家の吉元由美さんが「妻のきもち」というエッセイを書かれていて、相手をリスペクトする気持ちが大事、というような一文に納得するものがありました。日々、生活に紛れてしまうと、たとえばご飯を作ってくれることが当たり前だと思ってしまいます。子供の面倒をみるのが当たり前だと思ってしまう。けれども、これは結構大変なことで、家事いっさいをあまりやらないぼくとしては、もっと奥さんをリスペクトすべきかもしれない。けれどもなんだか、よいところよりは悪いところのほうに目がいってしまうんですよね。気をつけなければ。
父が脳梗塞で亡くなったとき、そんなものは残していないと思っていたのだけど、遺言が出てきて、そのなかで母親(まあ妻ですが)に、ありがとう、と一言が書いてありました。そして、子供たち(ぼくらです)は、おかあさんを助けるように、と書いてあった。ぼくの母は、「そんなことは一生のうちで一度も言われたことがなかった」とその部分を読んで泣いたのですが、厳格でかたぶつだった父を思うと確かにその通りで、そんなことをぜったいに言うタイプではなかった。けれども、その言葉を人生の最後に「文字あるいは言葉」としてきちんと残した父を、ぼくはリスペクトしたい、尊敬したいと思っています。すばらしい父でした。
死、というものから、ぼくらは目をそらしがちです。特に若い時期には、直面できないものがある。できれば、死のことは考えずに生きていきたい。けれどもぼくは、もっと死について考えてもいいんじゃないかと思う。もちろん死にたいとは思わないけれども、死を考えることで生の尊さがわかることもある。
小森陽一先生の「村上春樹論」の最後には、次のような文章があります。
逆に、言葉を操る生きものとして、他者への共感を創り出していきたいと思うなら、私たちは怯えることなく、精神的外傷と繰り返し向い合いながら、死者たちとの対話を持続していくべきでしょう。死者と十分に対話してきた者であれば、生きている他者に向かい合って交わすことのできる、豊かな言葉を持ちうるはずです。豊かな言葉は、死者と対話しつづけてきた記憶の総体から生まれてくるのです。
ここにいるものたちはもちろん、ここにいないひとたちのさまざまな思いが、いまある世界を創っているのかもしれません。脳梗塞で倒れて何度も手術を繰り返し、最終的にどうしようもなくなったときの父の手は薬でぱんぱんに腫れていたのですが、その手を握って、ぼくはぼろぼろになって彼に話しかけたことを思い出します。父の意識は随分前からなくて脳死の状態にあったと思うのですが、その言葉は、きっと届いていたんじゃないでしょうか。そうぼくは信じていたい。母は既に父の年齢を超え、ぼくも一歩ずつ父の年齢に近づいていきます。そして子供たちはどんどん大きくなってくる。やがてちいさな息子たちも、おじさんになる。
センセイを退職した後、夕方になるとキッチンに座って、焼酎を静かに飲みながらテレビで映画を観ていた父を思い出します。そんな平凡だけれどしあわせな、金色の時間をぼくも過ごすことができるようになれたら、と思っています。
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■「GOLDEN.min」の公式サイト。
http://golden.metromin.net/about/index.html
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2006年5月25日
並び替えで変わる世界。
個人的な傾向ですが、本屋には一日に一度立ち寄りたいタイプです。学生時代に日曜日をのぞく週6日間、本屋さんでアルバイトをしていた経験があったせいかもしれませんが、本屋に行かない日は何か調子が悪い。ビデオレンタルショップには、週に一度行きたい。いまのところ毎週旧作を一週間借りることにしているので、機械的に借りたら返却するために行かなければなりません。だから満足です。CDショップは月に一度でしょうか。ほんとうはもっと行きたい気がするのですが、なかなかひょいっと立ち寄れる場所がなく、また行っても小遣いに余裕があるわけではないので、月に一度行けばいいほうです。行かない月もある。
もちろん本にしてもCDにしても、Amazonなどを使えばインターネットで簡単に購入できます。でも、なぜかぼくはやっぱりお店に足を運びたいですね。インターネットで選ぶのと、店で選ぶのでは何かが違う。アナログなのかもしれませんが、その理由について考えてみました。どうやらふたつあるようです。
ひとつめは、お店に行って、本やCDを選んでいるひとをみるのが好きだということ。本屋で立ち読みしているひとたちがどういうわけか好きです。本屋では、うつむきがちに書籍を読んでいる横顔がよいと思う。女性がちょっと髪を掻きあげながら、というのもよいと思うし、男性が眼鏡を人差し指で押し上げながら読んでいるのもよい。CDショップは、フロアにもよるのですが、センスのいい女性がおしゃれな洋楽を買っているのも素敵だし、バンドの練習の帰りなのか、ギターケースを抱えたぼろぼろの髭づら男がまとめて何枚もカゴに入れているのもよろしい。時間があると、ぼくは片っ端から試聴をしてしまうのですが、試聴して無名のアーティストのものを思わず買ってしまうこともあります。
ふたつめは、まったく新しい店に入ってみると、同じ本も違ってみえてくるのが楽しいということです。だから行きつけの店もあるけれど、仕事でどこかへ出掛けたときに本屋などをみつけると、なるべく入るようにしています。店のキャラクターがあるというか、おすすめの本またはCDが違っていているのは当然ですが、同じ本でも配置によってまったく別の品物のようにみえてくるものです。ベストセラーがプッシュされているのはあたりまえなのですが、店長によっては、そうじゃないものが平積みされていたりする。これがいい。
市場に出回っている商品は、どの店も同じだと思うのですが、店によって何を平積みにして何をどこにおくのか、ということが微妙に違っているものです。マーケティング的に言うと、棚割りみたいなものかもしれませんが、構成されている品物の要素は同じでも、配置がまったく違うとまったく別ものにみえてくる。不思議なものです。通い慣れていた店では見過ごしていた本やCDが、知らない町でひょいと入った店では急に目に入ってくる。購入してから通い慣れた店に行ってみると、その商品はあるわけです。どうやらずっと前からそこにあったらしいのだけど、みえていなかった、ということがありました。
今日も仕事の途中で、丸の内オアゾにある丸善のビジネス書コーナーに立ち寄ったのだけど、オフィス街で暮らしていないせいか、新鮮なものを感じました。これはプッシュですっ!という本が、あからさまに大量に平積みにされていて、同じ本が複数の場所に置いてあったりもする。ランキングの棚もあって、新聞などから切り抜いた書評もアピールされている。
部屋も、模様替えするとまったく別の部屋のようになるものです。会社でも人員の配置を変えただけで、急に滞っていた空気が流れ出すことがある。構成要素が同じだとすると、配列を変えても結果は同じではないか、と思うのですが、そんなことはない。つまり、やはり「関係性」によって「全体」が変わってしまうものなのかもしれない。思考だって、わざわざ新しい何かを探す必要はなくて、配列を変えてやるだけでまったく新しいものが生み出されることがある。映画もそうですね。映像の順序を変えるなど編集によって映画全体のイメージが変わる。
自分のなかの意識の配列をときどき変えてやることができると、毎日が新鮮になるのかもしれません。
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2006年5月24日
雨降りのひらめき。
まるくなりたい、まるくなりたい、と思っていた時期があるのですが、年を取ると自然にまるくなってくるものです。もちろん精神的にですが、精神的ではないところも(つまり身体的に)まるくなることもあるので、それは困る。しかしながら身体的にまるくなると、精神的にもまるくなるような気もします。心も身体の一部ということでしょうか。
年を取ってもまるくならないひともいます。布団をばんばん叩きながら暴言を吐くようなひとにはならずにいたいと思うのですが、ちょっと間違うと世のなか全般に不満を吐き出す360度クレイマーになりかねない危うさもあり、うまくバランスを取って、身体的にはまるくならずに精神的にまあるくなりたい。穏やかなひとでありたいものです。
しかしながら、体力が衰えてくると穏やかにならざるを得ないものがあり、つまり放っておけば自然にまるくなっていくものなので、あえてまるくなろうとする必要はないともいえます。むしろ逆に、年を取っても思考が尖っていること、偏見ではない深い考察、あるいは未来に対する洞察があると、それはそれでかっこいい。
かっこいいとはどういうことか、ということは、いくつになっても考えつづけていたいものです。ありきたりですが、かっこよくあるためには、自分のスタイル(あるいはモノサシ)を持っていること、熱中できる何かがあること、異性はもちろん他人のことについて考える余裕があると、そんな男はかっこいいかもしれない。まあ、かっこいいひとはこういうことを自分で言及しないもので、かっこよくないから理想についてくどくどと言えるんだけど、考えていないと精神や身体のボルトが緩んでいくばかりなので、考えてみました。実は結構、ブログに書くと背筋が伸びることも多い。前向きなことはもちろん、前向きじゃないことを書いてしまったあとにも、なんとなく背筋が伸びる。書くことは精神の安定につながるものかもしれません。セラピストさんが、そんなことを言いそうですが。
話は変わるのですが、小森陽一先生の「村上春樹論」において、いくつかの言葉が呑み込めないサカナの骨のように思考にひっかかっています。そのひとつは「海辺のカフカ」において佐伯さんが語る「私は必要以上に長く生き続けることによって、多くの人々やものごとを損なってきました」という一節であり、もうひとつは、「すべての躾は、「誰かを深く愛する」がゆえに、「その誰かを深く傷つける」こと」ということです。そこにさらにメタファー思考という言葉が3つ巴状態になって、すっきりしない感じで考えつづけています。
うまく書けないかもしれないのですが、考えたことをそのまま書いてみます。
人間の意識というのは、まず「補正」する機能があるのではないでしょうか。たとえば茂木健一郎さんの本に書いてあったのですが、パックマンが3つ向かい合っているような図形をみると、その真ん中に三角形がみえてくる。誰かが「空が青い」と言ったときに、「うん、きれいだね。そして雲がはやく流れている」と言いたくなる。コップをみるときに、そのなかにある液体を想像する。
異なったAとBをつなぐ行為というものが、乱暴に言ってしまうとメタファーだと思うのですが、「人生は青空だ」というときに、その意味を無理やりつないでいる。つながるはずのないふたつの言葉を、無理やり補正して「接合」してしまう力を人間は持っています。きっと、いまのコンピュータにはその力はない。
そして、ぼくは世のなかのものは「すべて相反する2つ以上の意味もしくは内容」をまとめて持っているものじゃないかと考えました。
光があるところには闇があります。健康のあるところには病がある。若さのあるところには老いがあり、男のいるところに女がいる。愛情のあるところに憎しみもあり、生のあるところに死もある。生と死はその両端ではなく、死は生のなかにある、というようなことを村上春樹さんの小説のなかにも書いてあったような気がします。語るひとのいるところに聞くひとがいて、痛みを感じている誰かに寄り添う痛みを癒すひとがいる。なぜ?という問いをする子供の前には、その理由は・・・と答える大人がいて、地球のどこかが昼間のときに大地の裏側では夜が訪れている。
一方で相反するふたつを結びつけてしまうのが、メタファーとしての人間の意識ではないか、と。だから人間の意識は、一元論を超えて立体的に広がることができる。しかし、どちらか片方になってしまったとき、世界は完全な「円(=縁)」ではない「いびつな」ものになります。つながりの円環がとぎれてしまう。
愛情のない憎しみ、憎しみ(厳しさ)のない愛情、他者としての誰かを必要としないひと、死という前提のない生、生であることを全うしない死、語るだけで聞こうとしないひと、傷付けるだけでいたわることのない気持ち、老いを無視した若さ、若さを認めようとしない老い、などなど。
もし人生において何かを損なうとしたら、ふつうは寄り添ってまあるく存在する世界の片方しか生きていない場合かもしれません。「海辺のカフカ」で佐伯さんは15歳の少女という生霊となって、カフカ君と交わります。佐伯さんにはカフカ君はみえていないし、カフカ君の声は佐伯さんに届かない。これでは損なわれて当然でしょう。
うーむ。まとまりません。まとまらないまま、この辺にしておきます。雨振りのなか、傘をさしながら歩いていたら何かがひらめいた気がした。しかしながら、ひらめいたのはカミナリでした。閃光がひらめくと、耳を澄まします。そして、目を凝らす。アイディアがひらめいたときにも同様に、耳を澄まして目を凝らすのですが、目の前にはいつもと同じPCの画面が広がっているばかりです。
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2006年5月23日
私の頭の中の消しゴム
▽cinema06-033:それでも残ると信じていたい。
私の頭の中の消しゴム [DVD] ジェネオン エンタテインメント 2009-07-08 by G-Tools |
家がすべて消えてしまうのと、頭のなかの記憶がすべて消えてしまうのと、どちらが辛いのでしょうか。引越しのときに荷物がなくなってがらんとした部屋はさびしいものがあるのですが、どんなにモノがあふれていても、いままで過ごした日々が消えてしまうほうが辛いかもしれない。写真もちょっとした置物も、そこに記憶という価値が付加されるから、貴重なものになる。この「私の頭の中の消しゴム」はずいぶん前に話題になっていた作品で、いま観ているのは遅すぎる感じもしますが、27歳にしてアルツハイマーにかかった妻と建築家の夫の物語です。記憶に関して言うと小川洋子さんの「博士の愛した数式」もわずかの間しか記憶を維持できない数学者のお話で、映画化もされていた気がしました。一方、家というテーマに関しては、チョン・ジヒョンの出演している「イル・マーレ」という韓国映画も、家と建築家が出てきて、この映画とオーヴァーラップしました。とにかくストーリーは予測できるんだけど、やっぱり泣けた。なぜ言葉があるのか、記憶があるのかというと、なくなってしまうからあるのでしょう。なぜ、ハードな仕事でくたくたにくたびれつつもこんなに文章を書いているのかというと、いま書いておかなければ忘れてしまう、あるいは感動は消えてしまうからです。それでも、過ごした時間は残るものです。そう信じていたい*1。5月23日鑑賞。
*1:それにしてもチョン・ウソンとソン・イェジンは素敵でした。どうでもいいことですが、韓国系の女性にぼくはものすごく弱いかもしれません。とはいえ、この映画に関しては、ぼくはチョン・ウソンがかっこいいと思いました。ああ、こんなこと書いていないで寝なくては。というかレンタル延滞なんですけど。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(37/100冊+33/100本)
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世界観のある音楽。
会社の同僚さんの知人さんのバンドに「ヤスミン」というユニットがあり、このあいだの17日に2枚目のアルバムをリリースしました。リリースと同時にライブがあり、ほんとうは聴きに行きたかったのですが、いろいろとあり断念。ものすごく残念です。けれどもやっと今日、TOWER RECORDSでCDを購入しました。「青の時代」といいます。
青の時代 ヤスミン インディーズ・メーカー 2006-05-17 by G-Tools |
これがとてもよいです。1枚目のCDを出したときにはライブに行ったのですが、昭和歌謡っぽい感じで、ジャージーでレトロな気分になれる。女性ボーカルとギター、ベース、ドラムスという編成なのですが、ホーンセクションも入ってかっこよかった。曲もよいのですが曲順というか構成も完璧で、うわーっと厚い音を聴かせたあとにギターの弾き語りがあったり、気が付くと長い時間が過ぎていた、という感じでした。
あらためて2枚目を聴いて、まずものすごく音の抜けがよくなった気がしました。そして、これがヤスミンの売りのような気がするのですが、古い感じなんだけど新しい。さらにバリエーションがあって楽しめます。長く聴きつづけることができそうです。このあたりの世界観の構築方法に実力を感じます。曲調や編成が変わったとしても、ヤスミン的な世界がある。実は曲調をいろいろと変えつつ世界観を維持するというのは、結構、簡単なようで難しいものです。1曲だけなら醸し出すことはできても、アルバム全体を貫いた何かというのは難しい。ヤスミンはアルバムで聴きたいアーティストです。
ぼくがいちばん好きな曲は、6曲目の「dolche」+7曲目の「記憶のパフューム」です。「dolche」は明るい曲で、ギターのカッティングもかっこいいし、ウォーキングで弾くウッドベースも、ボーカルとユニゾンするホーンも軽快です。「待ちわびた」と「ドルチェ・ヴィータ」で韻を踏む歌詞もいい。日曜日に海岸あたりをドライブしながら聴きたい感じでしょうか(・・・あまりにべたなレビューで、表現力なくて、かなしくなりました)。そして、この曲の次にピアノで「記憶のパフューム」がはじまり、再びセピア色っぽい「鏡よ鏡」とつづくあたり、ライブの緻密に構成された曲順を思い出します。たぶん3曲目の「アネモネ」は1枚目のCD発売ライブのときにも演奏した曲だと思うのですが、これもよいです。
青の時代という言葉から連想するのはピカソですが、ジャケットの雰囲気も素敵です。部屋の壁などに飾っておきたい。おすすめです。
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■ヤスミンの公式サイト。音が出るかもしれないのでご注意ください。
http://jas-mine.com/
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2006年5月21日
「村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する」小森陽一
▼book06-037:言葉を操る生き物、の倫理。
村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書) 平凡社 2006-05-11 by G-Tools |
問題の多い評論です。「海辺のカフカ」を精読することによって物語の背後にある意味を解き明かし、文学作品だけでなく歴史という文脈(コンテクスト)のなかに、この作品の問題を位置づけていきます。癒しという視点からベストセラーになった作品を「処刑小説」であると断言し、村上春樹的現象の社会的な責任を問う評論ともいえる。評論のなかで、この作品は読者の「思考停止」を促すという言述があったのですが、確かにその通りであると感じました。文芸評論家ではないぼくは印象で語るしかないのですが、村上春樹さんの小説には、たとえば「どうよりよく生きるべきか」という問いと答えをうやむやにしてしまう何かがあるような気がしていました。また、「海辺のカフカ」は9月11日に出版されたということをあらためて考え、出版社のマーケティング戦略というものにも目を向けてみるべきだ、とあらためて感じました。養老さんの本では、テロリズムを人間的な行為であると解説し、倫理というアウトプット(行動の規制)が重要であると書かれています。出力という意味では言葉も出力であり、言葉の暴力、言葉によるテロというものもあり得る。ぼくも爆弾発言をするタイプなので逆によくわかるのですが、言葉を操る生き物としての倫理観については、もう少し考えてみたいと思いました。非常に示唆に富む見解が多く、特に第五章の結びについては深く考えさせられました。このことについてはいずれまたブログで書いてみるつもりです。5月21日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(37/100冊+31/100本)
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TAKESHIS'
▽cinema06-032:映像詩としての範列的な構成。
TAKESHIS' [DVD] 北野武 バンダイビジュアル 2006-04-07 by G-Tools |
よくわからない映画です。しかし、わからないけれどもぐいぐい映像に引き込まれてしまう。それが北野監督のすごさかもしれません。役者として成功を収めている「ビートたけし」と、役者をめざしてオーディションを受けながらコンビニで働いている北野のふたりの物語が錯綜するかたちで進行し、どこまでが現実で、どこまでが妄想なのかわからなくなる。というよりも、そもそも映画というフィクションなので、すべてが想像の世界ともいえる。だとすると何が起きてもいいわけで、その脈絡のなさを徹底的に追求した映画なのかもしれません。ご自身の映画のパロディとも思えるような試みがあったり、銃を発砲する気持ちよさだけを追求した映像もあり、突然エッチなシーンが挿入されたり、笑えるのか笑えないのか困惑するような場面があったり、奇想天外です。
映像の展開としては、「叩く」という言葉で「コンビニで眠っていると客がレジ台を叩く」と「ポルシェのドアを叩く」というイメージを結び付けていく。つまり物語的な筋の連結ではなく、言葉のイメージで映像をつないでいくような範列的な手法がとられています。ばらばらの映像をそんな風にコラージュして、けれども何度か繰り返されることで、ああそういえばこのシーンあったけ、という記憶を再生しながら観ていく。「花束」もそんなイメージを連結する道具として使われています。
ぼくは北野監督の映画をあまり観ていないのですが、確か「あの夏、いちばん静かな海。」にも、そんなイメージの連鎖があったような気がしました(違ったかもしれません)。いちばん好きな映画は「Dolls」だったりします。コメディアンでありながら(というかだからこそなのかもしれませんが)とても静かに染みわたるようなさびしさや、悲しみを描くのがうまい監督だと思います。実験的なものもよいのですが、そんな切ない映画を撮ってほしいと思いました。それにしても北野武さんの顔つきは、年をとってさらに凄みが増したというか、かっこよすぎる。特に寡黙なときの顔はすごい。5月21日鑑賞。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(37/100冊+32/100本)
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息子たち、そして生活のかけら。
天気がいいので外で遊びなさいということで、息子たちを外で遊ばせていたのですが、家の外でボールで遊んでいた息子(長男)が、隣の家の庭にボールを入れてしまいました。どうしよう?と困っているので「玄関のチャイムを押して、ボールを取らせてくださいって言って、取らせてもらいな」と教えたのだけど、もじもじしている。やはり知らないひとのチャイムは押せないようです。そこで、ぼくがぐぐーっと指を掴んで押させようとするのだけど、ボタンの手前で指が抵抗する。どうしても指が止まってしまう。仕方ないので、ぼくが見本を見せるというか、チャイムを押して隣のひとに挨拶して、ボールを取りに行ってきました。ほんとうは、自分で責任を取ることを教えたかったんですが。
その後、どうやらチャイムを押すプレッシャーに凹んでしまったらしく、「鼻水が出てきた」といって長男は家に戻ったのですが、ちょっと泣いてしまったらしい。泣くことないのに、と思うのだけど、子供というのはこういうことに対しては、ガラスのように繊細なものです。ぼくも遠い昔には、そうだったかもしれない。泣き終わった彼に、「ボールで遊んでいれば、どこかへ入ってしまうことがあるもんだ。それはたいしたことじゃないんだよ。でも、誰かの家に勝手に入るのはよくない。きちんと言葉で言わなきゃだめだ。それも別にたいしたことじゃない。でも、自分から声をかけることが大切」ということを説明してみました。どれだけ彼に届いたかわかりません。ただ、こんな風に面倒がらずに、養老さんの言葉を借りれば子供を「手入れ」していくことが大切かもしれません。
こうした何気ない子供とのやりとりの背景にあったのは、小森陽一先生の「村上春樹論」の影響があったかもしれません。ここ数日の間、読後に感じたことを考察しているのですが、その本のなかで小森先生は、人間は言葉が必要であり、口唇期の子供たちに排泄を教えるのは、キタナイという厳しさの背後に愛情がある、ということを書かれていました。そのとき子供たちは、なぜ?という感情を持つのですが、そのなぜ?に親が答えるときに、社会としてのコミュニケーションの基本がある。そうして言葉を使う生き物として、人間は社会化していく。「すみません、ボールを取らせてください」と他者(隣のひと)に声をかける大切さを、彼に教えてあげたかったと思いました。それはまだ幼い息子にとっては、ものすごく厳しいことだったようです。でも、それを経験させるのが親としての教育かもしれない。と、仰々しく書いていますが、ものすごく当たり前のことです。たいしたことじゃないんですけどね。
長男を少しだけ精神的に追い込んでしまった気がしたので、それからみんなで昼ごはんを食べに出掛けて、午後からは多摩川の土手を散歩しました。さすがにいい天気だったので、みなさん考えることは同じだったらしく、ものすごいひとでした。草野球をしたり、バーベキューをしたり、草に寝転んでひなたぼっこをしている。それでも、川に石を投げたり、レンゲで腕輪を作ったりしたのですが、ちょうどうまい具合に乗馬クラブとちいさな動物たちに触れるアトラクションがあって、そこで息子たちはヤギや羊、ウサギやヒヨコなどを触ったり餌をあげたりしました。
長男は動物が大好きです。まだ3歳だった頃に、リス園に行ったことがあったのですが、何度もひまわりの種をリスたちにあげて、なかなか帰ることができずに困ったことがありました。今日も羊たちに一生懸命にんじんスティックをあげていた。それにしても、動物たちはみんなかなりお腹が膨れていたのですが、大丈夫だったんでしょうか。今夜、食べすぎでお腹が痛くなっていないといいのですが。一方で、3歳の次男は動物よりも、その隣にあったパンチングボールやぼよんぼよんする遊具などで遊ぶのが楽しかったらしい。さすがに格闘技系(身体だけ)だけあって、何度もパンチしたり転がったりして大喜びでした。しかしながら、さすがに喘息のためか、公園に放つと30分ぐらい全速力で走っていたときのような体力はなく、すぐに疲れてしまうようです。元気になってほしいものです。
ちょっと頼りないところはあるけれども、動物が大好きなやさしい長男がぼくは大好きです。だから厳しくもなってしまうのですが、あまり目立たなかったとしても、そのやさしさだけは失わずに大人になってほしいと思います。しかしながら、やさしいだけではなかなか生きにくいのが社会でもあるので、特に精神的な強さの在り方について、いっしょに考えていきたいものです。父親であるぼくも決して強いわけではなく、いまでもよりよい生き方について模索している途中ではあるのですが。
どうしても自分のやりたいことにかまけてしまい、なかなか子供と接する時間も少ないのですが、茂木健一郎さんの著作にあったように、何気ない生活を大事にしながら、形而上的な高みにあるような何かについても、考えたり創作したりしたいものです。どこか遠くに出掛けたわけでもなく、変わったことがあった一日ではないのですが、こんな何気ない「生活のかけら」を大切にすること、そして忘れないように書き留めておきたいと考えています。まずは天気がいいことに感謝し、息子たちの笑顔に感謝したい一日でした。
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2006年5月20日
権威主義的パーソナリティー。
夏かと思うような暑い天気でしたが、湿度が高くて不快指数の高い一日でした。と、思っていたら午後には雨が降り出しました。その後、ちょっと夕暮れどきに近所をうろうろしたのですが、黒い雲と青空のコントラストがきれいだった。そんな空を眺めるのはいいものです。
趣味のDTMで、先週の土曜日から10年前につくった曲を、まっさらな状態から作り直しているのですが、書斎(ってほどでもないですけど)に入ってきた次男3歳に、「へんなきょく〜」といわれてしまった。しょぼん。
ちなみにその曲のタイトルは「生活に紛れたダイアモンド」といいます。このタイトル自体がお恥ずかしいのですが、記念碑的な作品でもあるので、今月中には完成させたいと思っています。今回は完全打ち込みにして、音の素材やサンプリングを使わないで作っています。それなのにPCがフリーズしまくりで落ちます。SONARの場合、右下にCPUメーターがあるのですが、すぐに赤いWarning状態になってしまう。さっきも30分間操作ができない状態になり、気長に本など読みながら待ってみましたが、うぃーんとファンが回るばかりで一向に進展がないので電源を引っこ抜きました。もちろんデータはすべて消えました。やれやれ。
さて、小森陽一先生の「村上春樹論」をあと数ページで読み終わります(現在、第五章P.248)。疑問を感じるところもあるのですが、エンターテイメントとして小説を読むのではなく、小説のなかに引用された作品まできちんと精読する、という読み方に、これはなかなかできるものではないな、と思いました。ブンガク批評とはそういうものであり、ブンガクときちんと関わるということは、一文字も取りこぼさない姿勢が大切なのかもしれません。コンテクストとして他の文学との関係性はもちろん、戦争と日本の歴史のなかで村上文学を位置づける試みもされています。ぼくは知識不足なので言及を避けますが、村上文学を戦後の歴史のなかに位置づける試みは、とても興味深いものでした。こういう話題についてきちんと語れるようになるといいのですが。
村上春樹さんの小説を読み解くために、引用されたテキストの分析はもちろん、思想や心理学などのいくつかのキーワードを使われているのですが、そのうち何度も強調されているのが「権利主義的パーソナリティー」という言葉です。エーリッヒ・フロムやアドルノといった学者が使っている言葉のようですが、力の強いものには服従し、弱いものには攻撃性をあらわにする、他者の存在を認めずに自分を固持する、いわゆる軍隊的な思考のあり方のようです。これは、欲求不満が攻撃の引き金となる。一方で、その言葉に対立する性格類型には、「民主主義的パーソナリティ」だそうです。「村上春樹論」のなかでは、次のように解説されています(P.169)。
「民主主義的パーソナリティ」は、自発性と個性を備え、安定し、かつ連続的で統一的な自己を保持し、自我の独立と同時に、他者に対する寛容さを持ち、偏見から自由であり、合理的な思考、つまり「なぜ?」という問いの下に、原因と結果の関係を言語的に考える人格です。したがって、欲求不満の原因を発見し、それを取り除く能力を持っているわけです。
なるほど。本論から逸れますが、自分としては「民主主義的パーソナリティー」でありたいものですね。と同時に、権威主義的パーソナリティの権化のような実在するモデルが、いま頭のなかに浮かんでいます。いつも欲求不満で、権威に弱く、弱いものには攻撃的で、合理的な思考ができない。そんなひとも、いるものです。
村上春樹さんの「海辺のカフカ」は、カフカ少年のオイディプス的な殺人やレイプなどの暴力を発動する機能がある、これは処刑小説である、と小森先生は語っています。そしてその原点となるのは、女性嫌悪(ミソジニー)であるとします。女性であること、女性が性欲を持つこと、複数の男性と関わることを罰として、徹底的に小説のなかで「処刑」する。<精神のある人間として呼吸している女たち>(P.215)を権威主義の立場から否定するわけです。
と、この部分でぼくは納得してしまったのですが、以前から村上春樹さんの小説には、女性に現実感が欠ける感じがしていました。なんとなく物体のようにも、アンドロイドのようにも思える。また、物語のなかでご都合主義的に扱われている気がする。というのは、そもそも初期の小説に、自分が女性とセックスをした回数を手帳に書きとめる主人公がいましたが、要するに記録するデータとしかとらえていないわけです。とても安易に女性と寝てしまうので(うらやましいともいえるけど)、このことを茂木健一郎さんは「村上春樹の鼻毛」と呼んで、おかしいと指摘されていたような気がします。
一方で、そのドライな感じが村上ワールドの魅力でもあるのですが、「海辺のカフカ」で佐伯さんを物語のなかとはいえ「殺してしまう」背景には、作者の女性嫌悪(ミソジニー)があると読み解く視点には、文学批評家の鋭い視点を感じました。これを漱石の虞美人草の構造に結び付けているところも、歴史から抹殺するという意味で従軍慰安婦の問題にも展開しているところにも、思考の広がりを感じました。
ということを書いていたら、なんだか学生に戻りたくなりました。永遠の学生のつもりで、このブログで考察をつづけていきたいと考えています。まだ稚拙な感想や所見しか書けないのですが、いずれは論文に匹敵するものを書いてみたいものです。
+++++
■Wikipediaのテオドール・アドルノ。はてなのキーワードを読むと、このひとは哲学者でありながら、音楽学者でもあったんですね。ちょっと興味あります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%8E
■Wikipediaのエーリヒ・フロム。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%A0
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2006年5月19日
痛み、言葉、新しい価値。
すごい、と思いました。小森陽一先生(実は恩師)の「村上春樹論 「海辺のカフカ」を精読する」を読書中です。現在、第三章P.173あたりを読み進めているのですが、小森先生らしい視点が心地よい。ぼくは新しい小森陽一を期待してもいたのですが、学生時代に教えていただいた方法論とまったく変わっていないところが泣けました。感激です。なんだ、小森陽一そのままじゃんと思った。あのころのゼミが、そして講義の風景がよみがえる感じです。そしてぼくも、その変わらないものを大切にしたいと考えています。手法としては、物語に内包されている物語(引用されているテキストとそのコンテキスト)に徹底的にこだわり、物語と引用との構造を読み解いていく。それがまさに「精読する」ということなのですが、物語の関係性にこだわる小森先生のアプローチには、いまでも何か熱い気持ちをかきたてられるものがあります。
もちろん、あまりにも構造的で、完璧にテキストと意味を結びつける緻密な分析には、どうだろうという反論をする余地がないこともない。処刑小説という仮説を検証するために、あるいは戦争批判をするために、帰納的に村上春樹さんのテキストを利用しているようにも読める気がします。しかしながら、それでは、そうではない読み方ができるかというと、いまのところ思いつかない。
ぼくは小森先生の本を読んで、評論の可能性を感じました。
テキストという結晶があったとします。それは、小説であったり物語であったりするのですが、通常はひとつの方向から光が当てられている。光が反射した部分を、ぼくらはそのテキストの解釈として認識するわけです。ところが、まったく別の方向から光を当てることができた場合、まったく違う物語や意味が立ち上がってくるかもしれない。それが評論です。したがって、意味を消費していく批評とは違って、テキストをまったく新しい作品に再生することもできる。それは文学を創造するのと同じぐらいに創造的な行為です。まったく別の光を当てられた創作は、まったく違うものになる。小森先生の村上春樹論は、癒しや救いという印象が多かった「海辺のカフカ」を全然違う作品に組み替えていきます。この組み替えのプロセスが刺激的です。
したがって、村上春樹さんの信奉者としては、納得できなかったり、嫌悪感を感じることもあるかもしれません。しかし、ぼくはそれが村上春樹さんの本質を掘り起こす行為であるという気がしました。そもそもぼくの村上春樹さん体験を言うと、「ノルウェイの森」を読了したときには、気分が悪くなって寝込んだほどです。なんというか物語の世界に揺さぶりをかけられて、船酔いしたような感じになった。その他の小説を読んでも、軽い文体なのに、なんとなく深い闇をのぞくような居心地の悪さを感じた。大好きな作家ではあるのですが、決して癒される小説ではなかったわけです。問題の多い小説だった。その感想がどこからやってくるのか、なぜなのかうまく説明できなかったのですが、その疑問を解き明かすヒントがこの「村上春樹論」にあるんじゃないかと期待もしています。
冒頭の部分では、オイディプスとフロイトを引用されています。これはなんとなく当たり前すぎるというか斬新ではないな、という印象を感じたのですが、それでもインパクトがあったのは、赤ちゃんが言葉を獲得する「口唇期」に対する解説でした。
おしっこやうんちを垂れ流しの状態の赤ちゃんが、三歳ぐらいになると排泄のしつけをされるようになる。ちょうどうちの次男がそういう時期ですが、このとき、いままで至福であり、信じていた母親が急に自分を厳しく叱る別人になるわけです。おしっこやうんちを垂れ流していると、キタナイ、バッチイと叱られる。だから赤ん坊はパニックになる。ママはぼくのことを嫌いになったんだろうか、と情緒不安定になる。ところが、社会の第一歩である躾をしなければならない行為は、愛情と嫌悪(厳しさ)という相反する感情がいっしょになっているわけです。赤ちゃんには厳しさしか伝わらないのですが、その背後には、社会に出て行く人間としてきちんと排泄ができるようになってほしいという親の愛情がある。
そして、そのときに、三歳児には、なぜ?という感情が生まれる。このなぜ?が言葉への入り口である、と小森先生は書いています。そして親は、それはね、どうしてかというとね、と排泄の重要性をはじめとして子供のなぜに応えるとき、この対話が社会の最も基本的な仕組みであり、言葉を使って生きる人間の基本的な行為を紡いでいく。なぜ?が生まれたときに言葉が必要になり、だからこそ人間は言葉を進化させていく。
独自の解釈を加えてしまったかもしれないのですが、この部分で、ぼくは何かものすごいひらめきを感じました(が、消えてしまった)。なぜ?を追求する人間の本質には、新生児の親とのコミュニケーションにおける穴ぼこを埋める必然性があった。人間の知的探求は、結局のところ三歳児の経験をベースにしているということ。そのあたりに、何かひらめきを感じたのですが。
かなり深い示唆に富む部分ですが、次の文章を引用しておきます(P.58)。
子供が自立した人間になるための、すべての躾は、「誰かを深く愛する」がゆえに、「その誰かを深く傷つける」ことなのです。同時にそのことは、子供が周囲の大人との自他未分化な状態から抜け出して、自分と他者を区別して、自立して生きていくことのできる言葉を操る生きものとしての人間になっていく上での、不可欠な分岐点になるわけです。
しかしながら、そうして自立した言葉を操る人間の築いてきた世界を、暴力的に破壊すると同時に思考停止に追い込むのが「海辺のカフカ」であると述べられています。カフカ少年は構築されたタブーをことごとく破ってしまう。その表現に9・11のテロを重ねて、暴力的な何かを正当化する小説として「海辺のカフカ」を読み解いていきます。
一方で、誕生のときの描写もうまいと思いました。人間が生れ落ちるとき、途方もない苦痛が襲う。つまり、生きるということは、基本的に「痛い」ものなのです。息をすること。それも胎内で羊水に守られていた胎児には痛い。産道から産み落とされると「まっさらな肺細胞の一つひとつに、大気が針のように(P.32)」突き刺さる。けれども、この痛みを受け止めなければ生きていけません。ぼくは喘息の息子が酸素を吸入しているときに、人間には酸素って必要なものなんだな、と思ったのだけれど、その酸素すら最初は自分を苦しめるものであったわけです。
うまくまとめることができませんが、この後、小森先生は、ギリシア神話から千夜一夜物語、カフカ、漱石など、さまざまなテクストと「海辺のカフカ」を重ねながら、「村上春樹論」を展開していきます。ちょっとそわそわするというか、ブログなんて書いていないで何か評論したいぞ、と得体の知れない焦りを感じてしまいました。こんな風に新しい視点からさまざまな作品に光を当てて、映画にしても小説にしても、新しい価値を生み出すようなレビューができるといいんだけどなあ、と思います。
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2006年5月18日
ユニットという衝撃。
思い込み、というものがあります。長い間、そういうものだと思い込んでいて、ある意味、常識だと思っている。ところが、ある瞬間にほんとうのことを知って、いままで自分で思い込んでいたことが単なる誤解だと知ることになります。確固とした常識だと思っていたことが、がらがらと崩れていってしまう。たとえば、よく言われることですが、「赤い靴」という童謡の歌詞で、「異人さんに連れられて」というフレーズを、「ひいじいさんに連れられて」と間違えていたというひともいるようです。異人さんと、ひいじいさんでは、歌詞の文脈もまったく違うものになります。思い込みは怖いものです。
ところで、今日、双子や兄弟のタレントについて会社で雑談をしていて知ったのですが、叶姉妹って、創られた「ユニット」だったんですね。知らなかった。愕然としました。ぼくはずーっとほんとうの姉妹だと思っていた。このゴージャスな姉妹を生んだ親っていったいどんななんだろう、家族はどういう金持ちなんだ、などと妄想を膨らませたりしていたものです。しかし、今日、がらがらと妄想は崩れ去りました。家に帰って奥さんにも話したところ、「そんなの当たり前だわよ(冷たい目)」と言われた。ぼくが無知なのか、おじさんなのか、無知なおじさんなのか(きっとこれだ)わかりませんが、orzな気分でした(これも古いですが)。がっくしな感じです。
同僚から詳しい情報を得たのですが、叶姉妹には昔はもうひとりメンバーがいて、晴栄(はるえ)さんといっていたようです。ひええ、叶ユニットを卒業された方がいらっしゃったんですね。とはいえ、こちらは恭子さんの実妹で、美香さんとは異父姉妹にあたるらしい。セレブの世界は複雑です。結婚されたようですが、その後2000年には離婚されているとのこと。さらに叶ユニット2人のマネージャーでもあるようです。晴栄さんの存在が気になるのは、ぼくだけでしょうか。
とにかく、叶姉妹は異父姉妹とはいえグループもしくはまさにブランド的な何かであり、ある意味、モーニング娘。みたいなものなのかもしれません。叶姉妹(TM)などの商標が付いたりして(付かないか)。姉妹が実はユニットであるという商業的な戦略に、無知で何も知らないぼくは衝撃を受けました。ということは、姉妹ユニット解散ということもあり得るわけですし、姉妹ユニット増強ということもあるかもしれない。女子十二楽坊ではありませんが、叶十六姉妹なんてことも考えられるわけです。
叶十六姉妹、どんなものでしょう。また妄想が全開になってしまうのですが、ボンドガールみたいな印象もあり、ボリュームがすごすぎてみているだけでお腹がいっぱいなイメージもあります。ふたりであればナイスバディもなんとか許容範囲ですが、16人も集まったら許容できません。困ってしまいます。見た目のインパクトからイエローキャブ系アイドルなどの競合にもなりそうです。さらに、浪費も凄いかも。とはいえ、日本経済の消費促進に影響力があり、経済の活性化を牽引する最終兵器的なユニットにもなるかもしれません。恐るべし、叶十六姉妹(ところでなぜ十六なのでしょう?)。
兄弟や姉妹ってユニットじゃないですよね。兄弟や姉妹でミュージシャンなどのアーティストもいますが、特別なケースという気がします。まったく知らない他人が、姉妹になる、兄弟になる、というユニットは斬新なイメージでした。
どなたかバーチャルな兄妹ユニットを結成しませんか?ぼくの作った曲を歌ってください。というのは冗談ですが、リアルなユニット(?)として、ぼくには妹もいるのでした(ちなみに、ものすごく優秀な独身の弟もいる)。妹は音大を出ているのですが、妹と何か曲を作ろうという気持ちには、なぜかなれません。昔からぼんやりと夢(というか妄想)ばかりのいい加減な長男のぼくとは違って、しっかりとした堅実派のリアル妹は、現在かわいい娘さんのママさんになって、クルマ好きのパパさんと素敵な家庭を築いています。
叶美香さんは妹っぽくて、たいてい姉妹って妹のほうが可愛い気がする(姉妹がいらっしゃる方、すみません。ぼくの偏見です。ちなみに兄弟の場合にも、弟の方がかっこいい気がする。うちもそうだけど)とずっと思っていたのですが、その架空の夢も消えました。現実を知らないほうがよかったのかもしれない、などと思いつつ、冷静に考えてみると、そりゃそうだろ、ぼくのバカ、というお恥ずかしい感じがして、なんだかやるせない一日でした。
++++++
■今週のR25にWikipediaの記事もありましたが、Wikipediaの叶姉妹の解説です。かなり詳しい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B6%E5%A7%89%E5%A6%B9
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2006年5月17日
「超バカの壁」養老孟司
▼book06-036:変わった視点が、考えを広げる。
超バカの壁 (新潮新書 (149)) 新潮社 2006-01-14 by G-Tools |
たぶんAmazonのレビューなどではぜったいに掲載されないような感覚的なひどい批評を書きましたが、ぼくはこの本に書かれている養老さんの視点には、斬新なものや、とても切れ味のいい何かを感じました。考え方には共感するし、支持したい部分もたくさんありました。
以前書いたことがありましたが、ぼくらの意識にできた太い道を「常識」と考えると、その本道から外れたものは「非常識(異端)」であり、マイノリティーであるからこそ何か居心地の悪さを感じる。排除したり、クレームをしようとするのは、それが「変わっている」からです。けれども、変わっていることを言語統制の下に排除するのではなく、変わっていてもいいんだ、と認めることができるのが、成熟した社会であるように思います。
テロはとても人間的な行為だということ、人間の身体は基本的に女性をベースに成り立っていて男性は特別なものだから極端な行動が多いこと(一方で女性は安定していること)、自分はただの人であることを認識して(特別な自分探しをするのではなく)目の前にある社会の穴を埋めることに専念しろということ、都会人がイライラするのは人間が多いからで人間が多いと匂いだけでイライラするということ(という意味では、オフィスはあまり人口密度を高めない方がいいかも)などなど、養老さんの考えにはひとつひとつ納得することが多くありました。
この養老さんの考えに腹を立てるひとがいるのもわかる気がします。なぜなら「変わっている」からです。しかし、養老さんも書いているように、頭にきたら読まなければいいだけのことで、わざわざ意見を戦わせることもないような気がします。こういう考え方もある、ということです。そして、一元論的な発想のもとに反対論の旗を揚げるのではなく、では自分はどう考えるか、のような合理的な方向へ思考を向わせたほうがいいのではないでしょうか。5月17日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(36/100冊+30/100本)
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アイランド
▽cinema06-031:クローンは必要なのか、という疑問。
アイランド 特別版 [DVD] ワーナー・ホーム・ビデオ 2009-07-08 by G-Tools |
2019年を想定した近未来の物語だったかと思うのですが、アイテムやSFXの映像にまず目が奪われました。朝起きると健康状態がスキャンされて電光掲示板に示されたり、机の上全体がパソコンの画面になっていたり、自動車のデザインもかっこいい。そういえば、全身でコントロールするゲーム機はXboxのロゴが入っていたり、情報ボックス(電話ボックスのようなかたちで情報を入手する)にはMSNのロゴがありました。きっとマイクロソフトがスポンサーだったのでしょう。ただ、そんな設定も楽しめました。
臓器売買を目的に増殖されるクローンのうちのひとりが、自分の目的とは何だろう、ということを考えはじめる。実は世界は汚染されてしまったと洗脳されていて、隔離された施設のなかで暮らしているわけですが、リンカーン(ユアン・マクレガー)とジョーダン(スカーレット・ヨハンソン)は脱出を試みる。このふたりはアダムとイブ的な印象がありました。
クローンは人間なのか人間ではないのか、ということを考えさせられます。それは、人間とは何かという問題でもあります。ブレードランナーのエンディングでバンゲリスの曲が流れるようなイメージのシーンからはじまるのですが、それも深遠な考察へのイントロという感じもします。派手なアクション映画でありながら(ほんとうにカーチェイスのシーンなどはすごい)、そんなテツガク的なことも考えさせてしまうところが、よい映画だと思います。
しかしクローンはほんとうに必要なのでしょうか。同様にアンドロイドは、生まれてきて幸せなのでしょうか。と同時に、ぼくらの息子たちはクローンのようなものだけれど、生まれてきちゃってよかったんでしょうか、とちょっと思いました。やがて大きくなった子供たちは、そんなことに悩む日も来るかもしれないのですが、生まれてきた意味をきちんと説明できるようにしておきたいものです。5月13日鑑賞。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(36/100冊+31/100本)
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謙虚であることについて。
いつでしたか、ぼくよりも若いコンサルタントの方とお話したことがあります。さすがにたくさんのひととお話しているだけに、話題の展開などはスムーズに感じたのですが、ある瞬間に傲慢な何かが言葉の端々にのぞき(ストレートに言ってしまうと、タメグチに近い言葉になったのですが)、会話がつながらないというか、実はぼくの話を聞いていないでしょ、という印象を受けるようになりました。そこで、ああやはり若いコンサルタントというのは、あまり信用できないな、と感じたことを覚えています。
もちろん彼にしても、必死だったと思う。必死であることは当然なのですが、無理に背伸びする必要はないし、相手を見下したような発言をすれば、そこでまとまる話もまとまらなくなってしまう。結局、若さゆえの余裕のなさかもしれません。もちろん、形式的には聞いているようにみえて、実は本心は見下しているだろう、ということもあります。そういう態度はわからないだろうとたかをくくっていても、結構伝わっているものです。謙虚であることが必要だと思っています。
ところで、養老孟司さんの「超バカの壁」を読み終えました。ベストセラーでもあるようですが、正直な印象を書いておくと、ぼくはこの本はなんだか苛立つものを感じました。あまり気持ちのいい本ではなかった。もちろん、これはぼくの私見です。そして、一冊目の「バカの壁」はとても示唆に富んだ本だったという印象があります。どうしてだろうと考えたのですが、次の3つのポイントが原因としてあったからだと思います。
ひとつめは、ある種の思考による人間を見下した表現が目立つこと。そもそも「バカ」という言葉をタイトルに掲げているぐらいなので当然ではあるのですが、一元論的な人間などを愚かであるとしている(ように読むことができます)。ふたつめは、自己弁護に終始していること。過激な持論を展開されているだけに、さまざまな抗議があることも想定内のようで、やわらかく言い訳をされているのですが、それがまた何か気持ちよくない。みっつめは、せっかくの斬新な思考をご自身がちっとも楽しまれていないんじゃないか、ということです。本のなかで養老さんの「面白い」という記述があっても、心の底から面白いと感じていないんじゃないか、と読めてしまいます。面白い、と言っていながら、目が笑っていない気がする。自分とは距離が離れた遠い場所で文章を書いているようなニュアンスが感じられます。
最後の「面白さ」について、茂木健一郎さんの著作を比べてみると、ぼくは茂木健一郎さんは、クオリアとは何かという知的な戯れを、ほんとうに楽しんでいるひとじゃないかと思っています。だから、脳とは何か、私とは何かという、茂木さんの子供のような探究心に心地よさを感じて著作を読み進むことができる。そのわくわくする感じに共感できるからこそ何冊も茂木さんの本を読破し、これからも全部読んでみたいと思うわけです。
ところが、正直なところ、ぼくは養老さんの本はもういいや、という気がしました。養老さんご自身も、あとがきの最後で「私がいま考えていることは、虫の話を除けば、これでほぼおしまいである。ここまで吐き出せば、残りわずかの人生、あとは虫だけで十分じゃないかと勝手に思っている。(P.190)」で締めくくっています。いくらなんでも、これはないんじゃないか、と苦笑しました。
ひどいかな、過激すぎるかな、と思うのですが、あえて正直に書いてしまうと、この「超バカの壁」は、年老いた大学教授が世間からクレームをたくさんもらったなかで溜まりに溜まった不満を吐き出した汚物のような一冊、だったのではないでしょうか。
この養老さんの著作に共感をするひとは、やはり同じような傾向があるような気がします。非常に怜悧な視点を持っているかもしれないのですが、どこか他人を見下している。発想としては、とても面白いのですが、個人的にはこういうタイプは嫌いです。ブロガーのなかにも養老さんの著作を引用して同じような汚物を書き散らかしたひとがいたような気がするし、リアルな世界にも、このようなタイプの人間がいたような気がします。非難するわけではありません。合わないな、と思うだけのことです。
しかしながら、ここまで考えてきて、ぼくが養老さんの書かれたものを嫌悪するのは、自分にもそういう側面があるからだと思いました。最近、どうにか平衡感覚を保っているのですが、ときどき汚物のような文章を書き散らかしてしまうこともあります。気をつけなければ。
さて。今日は書店でずーっと気になっていた平凡社新書の小森陽一先生「村上春樹論 「海辺のカフカ」を精読する」を買ってきました。東大ではないところでセンセイに学んだことがあったのですが、恩師の文章は、正しいかどうかよりも先に、まず懐かしい。ついに村上春樹さんについて書いたか!というのもうれしい。この本では「海辺のカフカ」の危険性について論じようとされているようですが、ぼくは「海辺のカフカ」については、癒しや救いを感じるよりも「邪悪な何か」を感じてしまい、そのことをゼミの先輩にも話したことがありました。ぼくがうまくいえなかった感覚を、どのように論じているのか、非常に興味があります。読むのが楽しみです。
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2006年5月16日
「クオリア入門―心が脳を感じるとき」茂木健一郎
▼book06-035:思考の本質をめざして。
クオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2006-03-09 by G-Tools |
脳科学は1999年のチャーマーズの言葉を使うと「やさしい問題」「難しい問題」という幅広い問題を対象としているようですが、ぼくの関心があるのは、脳のどの部位でどんな機能があるかというホムンクルス的な機能論ではなく、「難しい問題」の方の、なぜ自分がここにいるのか、ここにいて考えることができる(意識が生じる)のはなぜか、他人や世界との関わりで自分が変化していくのはどういうことか、ということのようです。
したがって、脳科学の分野のなかでも、どちらかというと科学よりテツガク的、ブンガク的、あるいは言語学的な考察に興味があります。風景のなかで地と図をわけるような主体的な意識が生まれるのはなぜか、ミラー・ニューロンのようなものを通して他人の痛みを感じられるようになれるのか、ということが知りたい。だから、茂木健一郎さんの著作は、まさにぼくが疑問を感じていることにぴったりと合った「志向性」が感じられるものばかりです。さらに発展させると、アンドロイドは涙を流せるようになるのか、ということを考えたい。SFっぽいかもしれませんが、21世紀なので、そんなことを真剣に考えるひとが出てきてもいいのでは?
空想物語のようなことを考えて何になるのか、という思いが時々心をよぎりますが、ビジネスではないので、結果を追求するものではないでしょう。ぼくはプロの脳科学者でもありません。ごく普通のひとです。けれども学術的には稚拙であったとしても、「考えること」について考えることで、ぼくにとっては至福ともいえる楽しい時間を過ごすことができます。それに、この思考のエクササイズによって、いろんな考え方のパターンをストックできたような気がしました。無意識のうちに難題に対する処理のアプローチが多彩になった気もしています(その反動で頭痛もしているのですが)。時間があれば、以前に読んだ著作も再読して、それぞれのキーワードから自分の考えをまとめてみたいと思っています。とはいえ、老後の楽しみ、なのかもしれません。あまり欲張らずにいきましょう。
まだ読んだことのない茂木健一郎さんの著作もあり、とりあえず全部を読了してみたいと思っています。5月16日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(35/100冊+30/100本)
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次世代を考えること。
いまを考えることにせいいっぱいで、たとえば10年後、自分がどうあるのかということはみえないものです。目の前に片付けることが多すぎて、長期的な展望なんてものは置き去りになってしまう。けれども、だからこそ意識的に遠くをみることができるようにしておきたい。田舎で母がぼやいていたのですが、ひとりぐらしの80歳をこえた姉がぼけはじめてしまって、とても困っているとのこと。何度も呼び出されて、鍵を探したり、鍵を盗んだんじゃないかと疑われたり、外出のときには行方不明になって振り回されているそうです。10年前に、何か対策を講じておけばよかったのに、と呟いていました。けれども10年前は元気だったから、そんな風に自分がなるとは思わなかった。そういうものです。
体調を崩してあらためて体調のことを考えると、いま自分の身体がおかしいのはいまにはじまったことではなく、長い間の不摂生や勝手な振る舞いが要因となっている。因果応報、というのは大袈裟ですが、誰を責めるわけにもいかず、自分の人生はよいことであっても悪いことであっても、自分で選択している。ただ、同様にいまからでも自分の10年後の生き方を選択できるはず。他人に責任転嫁しているうちは、自分の人生を生きていないのかもしれません。でも、自分で選んだことであれば、どんな結果であれ、仕方がないものです。納得できる。
以前にも引用したのだけれど、学生時代に何度もぼくが観た映画に、大林宣彦監督の「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」という作品があり、これは映画としてはお蔵入り寸前の破綻した作品なのですが、破綻しているゆえに美しい。この映画では、やくざな男性ふたりとひとりの女性をめぐる物語が展開するのですが、最後の場面で、やくざ成田(永島敏行さん)が、「まだ間に合う、まだ間に合う」と言いながら破滅に向って歩いていくシーンが印象的でした。ぼくらは乗り遅れそうな電車に、まだ間に合うと思いながら足を速めるような人生を送っているのかもしれません。もう間に合わないかもしれない。だからこそ、まだ間に合う、という言葉が必要になる。
まったく話は変わりますが、週刊東洋経済や週刊ダイヤモンドといえば、おじさんが読む経済誌というイメージだったのですが、4月になってフレッシュマンの入社するシーンに合わせたからか、やわらかい特集が目立つようになりました。週刊ダイヤモンドの5.20号の特集は「やさしいウェブ2.0講座」。用語解説はもちろん、さまざまな取材もあって、なかなか充実した内容という印象を持ちました。特集ではないのですが、転職の事例として、ロボット科学教育事業を立ち上げた鴨志田英樹さんのインタビューがよかったと思います。ロボットづくりを通して科学教育をする、という酔った場の思いつきを行動に起こして、全国に80ほどの教室を開いているとのこと。こういうビジョンに共感します。
一方で、いま養老孟司さんの「超バカの壁」を読んでいるのですが、このなかでも「子供の問題」について書かれていて、教育はとにかく手のかかるものであること、また、子供は株などと違って「ああすればこうなる」ものではないという指摘に頷きました。「毎日手入れを続け、子供の様子を見ていれば親のほうにも努力、辛抱、根性がついてくるものです。(P.87)」という表現に納得です。確かに教育というより「手入れ」のようなものであり、なぜこれがわからないんだ?ということを丁寧に根気強く教えていくことが必要になる。そのことが誰のためになるか、というと、実はいちばん親のためになっている。
自分の人生をきちんと生きることも大事だけれど、乗り遅れてしまった電車は無理に乗ろうとしないで、次世代に渡してあげればいい。無理ができない年齢になりましたが、無理しなくてもいいと思ったりもしています。
投稿者 birdwing 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック
2006年5月14日
インターフェースの進化。
体調を崩して倒れました。来週はいろいろと忙しいので倒れているわけにもいかないのですが、そんなわけで以前に書いてボツにしかけた補欠のエントリーをアップしておきます。
+++++
インターネットの黎明期には情報はテキスト中心だったかと思うのですが、次第に写真や鮮やかなデザインのページが多くなり、Flashの登場によってアニメーションなども追加され、現在はストリーミングでビデオなどもみることができるようになりました。一方で、パソコンが登場したばかりにはコマンドによる文字中心のインターフェースだったのですが、まずはマッキントッシュの登場、そしてWindowsの登場により、GUIが進化して現在に至っています。Windows Vistaでは3Dのような形でウィンドウを表示できるようにもなるようで、究極は奥行きのある擬似立体的なインターフェースになるのかもしれません。
音声や動画による情報はかなり前からマルチメディアと言われてきましたが、CD-ROMからDVDへと記録媒体も進化しつつありますが、残るのはなんだろう、とふと考えることがあります。もし、五感に訴えるとしたら、香りや味覚のようなものかもしれません。
ということを考えていたら、映画館で香りを配信するという記事を見つけました。「NTT Com、映画館に香りを「配信」、ハリウッド映画「ニュー・ワールド」で」というニュースです。
4月22日から5月5日まで、同作品が上映される東京と大阪、2つの映画館の中央部3列に香り発生装置「アロマジュール」を設置。「アロマ・プレミアシート」として楽しんでもらう試み。作品の上映中、いくつかの主要なシーンに合わせて、エッセンシャルオイルをブレンドした「旅立ちの香り」や「運命の香り」などをアロマジュールから発生させる。
シーンに合った、銃の硝煙の匂いとか、レストランの匂いというわけではないんですね。「旅立ちの香り」や「運命の香り」というのは、どんな香りでしょう。非常に抽象的ですが、映像と合っていれば、なるほどねと思うものかもしれません。
仕組みは次のようになっているようです。
香り配信の仕組みは、まず制御サーバーからインターネットを経由して、香りのレシピと映画のシーンに合わせた配信スケジュールを送信。映画館に設置した香り配信用ネットワーク接続装置(LAN-BOX)で取り込む。このLAN-BOXから客席に配置した香り発生装置をコントロールするもの。LAN-BOXは、いったん香りのレシピをダウンロードした後は、LAN配線から切り離して自由に持ち運べるため、映画館やイベント会場などで一定期間のみ香り配信を実施する場合などにも利用できる。
LAN-BOXは、特別な装置なので高価だとは思うのですが、一般化すると自宅でブロードバンド回線で映画を観ながら使うこともできるかもしれません。
3Dのメガネで立体映像というのは、いくつかの映画で上演されていて、ディズニーランドのアトラクションではかなり驚いた気もします。また、サラウンドによる音響の立体効果は、自宅でもかなり簡単に再現できるようになりました。となると、次は匂いや味覚などに訴える装置の登場でしょうか。エンターテイメントもかなり違ったものになるかもしれません。
ただ、どうしても考えてしまうのは、そこまでほんとうに必要なのかどうか、ということです。仕掛けだけが立派になっても、物語がお粗末では、あまり効果的ではないような気もします。
立体映像、立体音響、そして匂いなどまで再現する装置というのは21世紀的ではありますが、20世紀的な映画であっても、楽しめることは楽しめるんですよね。ぼくらは、エスカレートして刺激を求め、さらに贅沢を求めるようになるのかもしれません。
+++++
この香り付き映画は上映が終わってしまったのではないでしょうか。どんなだったのでしょう。気になります。
投稿者 birdwing 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック
2006年5月13日
セルフカバー。
雨降りかつ体調がかなり不調だったので一日を静かに過ごしたのですが、趣味のDTMで、10年以上前に作った曲をもう一度打ち込み直してみることにトライしています。ちょうど社会人のバンドなどをやっていた頃で、そのバンドのメンバーのみんなに、はじめてプレゼンテーションした自分のオリジナル曲だった気がします。
その当時、ぼくが持っていた機材といえば、中古で購入したYAMAHAのカセットテープによる多重録音のMTRとギターやベースだけでした。4トラックにピンポンせずに(ピンポンというのは、ドラムとベースを別々に録音して、その2つのトラックを空いている1つのトラックにミックスダウンすることです)、4つの音だけで作りました。つまり、ドラム(ソニー製のリズムのおもちゃ。リズムマシーンとは言えないようなシロモノでした。)+ベース+ギター+ボーカルという最小の構成です。作ったときに風邪をひいていて、ものすごい鼻声だったんですが、それがかえっていい感じだったかもしれません。とはいえ、ギターは高校時代に友人からもらった通信販売のギターで、ペグがゆるんでチューニングは狂いまくっていて、知っているコードしか弾けないへたくそな演奏だし、ノイズは入るし、いまとなってはローファイでは片付けられないとんでもない音源でした。
いまその演奏を聴くことはできません。というのは、カセットデッキが壊れていて、再生できないからです。カセットデッキというのは、どんどん使わなくなっていきます。壊れてしまってもまったく支障がありません。そもそも、平成生まれの子供たちは、ひょっとするとカセットテープって何?という世代かもしれない。これからはCDって何?ということにもなりそうです。ぼくはやはりプロダクトとしてCDというパッケージを持っていたいタイプであり、ライナーノーツや歌詞や写真などを印刷物できちんと読んだりみたい気がするのですが、ダウンロードによって音源が普及していくと、パッケージの意味はなくなってしまうかもしれません。曲の構成はアーティストやプロデューサーが考えるものではなく、リスナー自体がアレンジするようにもなりそうです。
ところで、いま音源が聞けないのであくまでもイメージに頼りつつ、そんな風に10年以上の前の曲をインスト(歌詞なし)でセルフカバーしているわけですが、その曲の歌詞の趣旨としては「いろんなものに憧れて夢をみてきたけど、結局のところ大事なものは毎日の何気ない生活のなかにあるんじゃないか」ということでした。かつて、ものすごくローファイな機材で作った曲を、いまReal Guitarというバーチャルなギターを再現するソフトウェアを使いながら、PCのDAWで打ち込んでいるのですが、まったく違うものになっていく楽しさもありつつ、そのときの気持ちがなんとなく蜃気楼のように立ち昇ってくるのが、なかなか面白いものです。
その頃、ちょうど学生時代から付き合っていた女性と(まあ、いまの奥さんなんですけど)、結婚などを考えていた時期であり、ひとりではない生活ってどんなもんだろう、と諦めも半分混じりつつ考えていました。しかしながら、そんな想像を超えたところに現実というものはあるもので、いま息子たち2人が加わって4人になった家族のある立場からみると、この歌詞は青いなあ、と恥ずかしくなりつつ、けれども失われてしまった何かも感じられて、せつなくも懐かしいものがあります。
ところで、アンプラグドというギター一本などでアコースティックな雰囲気でセルフカバーすることが流行った時期にリリースされたのですが、高橋幸宏さんの「Heart of Hurt」アルバムが、ものすごく好きでした。何度も聴いて泣けました。そういえば、このアルバムもレンタルショップで借りてきてテープにダビングしたため、いま聴くことができません。ぼくは逆にアナログで創った曲を10年以上たったいま、デジタルで作り直しているのですが、おじいさんになったときにも演奏できるような曲ができると、しあわせだなあと感じたりもしています。
明日は、学生時代の知人の結婚パーティに参加してきます。しあわせな知人を祝福しつつ、もう遠過ぎて曖昧になりつつある自分が結婚した頃のことを思い出したりしながら、体調不調なのにひとりで飲んでしまって、いい気分です(いや、ちょっとまずいかも。若干気持ち悪くなってきた。自粛します)。
++++
■高橋 幸宏さんの「Heart of Hurt」。あらためてCD購入したい気分です。
Heart of Hurt【SHM-CD】 高橋幸宏 EMI MUSIC JAPAN(TO)(M) 2009-03-11 by G-Tools |
■USENのサイトなどで視聴できるようです(ぼくはなぜか聴くことができません)。しかも1曲ごとに購入できる。便利な世の中になったものです。
http://www.ongen.net/search_detail_album/album_id/al0000003886/
http://listen.jp/store/album_4988006127746.htm
■ひょっとして、廃盤なのかも?
http://music.yahoo.co.jp/shop/c/10/toct9228
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2006年5月12日
ポインタとプリセット。
心もやっかいなものですが、身体もかなりやっかいなものです。今朝、起きるなり喉が痛く、左耳もなんだか痛く、さらに右足の親指もなぜか痛く、身体中が痛いひとになっていました。喉と左耳は風邪のせいかもしれないのですが、足はなんだかわかりません。なんでしょう。最近、すっきりと何も痛みがない状態というものがなくて、どこかしらに支障がある。健康な身体とは、どういうものだったのでしょう(遠い目)というノスタルジックな感じです。すかっと健康な身体に戻りたいものです。
さて、今週は話題をいろいろと変えようとしたものの、「クオリア入門」という本がいろんなことを考えさせてくれるので、今日もこの本から考えたことを書くことにします。ものすごく抽象的な話になります。
ざっと今週の思考の道筋を振り返ってみると、まず情報と経験とは何か、ということについて考え、つづいてマッハの理論、反応選択性のドグマなどからクラスターについて考え、情報も人間も言葉もつながりたがるという結論に達して挫折しました。しかしながら、その後、茂木健一郎さんの「クオリア入門」を読み進み(もう少しで読了というところですが)、いろいろと面白い見解がありました。
ひとつには「両眼視野闘争」。これはどういうことかというと、乱暴にまとめてしまうのですが、情報としてはインプットされているのに「見えていない」状態があるということです。縦縞と横縞の刺激を左右の目に別々に見せるような実験も書かれていたのですが、たとえば視界に認識されていない領域にボールを投げてもキャッチできるような状態があるそうです。つまり心には投影されていないけれど、視覚的情報としてはインプットされている。一方で、視覚にインプットされていないのに認識してしまうこともあります。パックマンが3つ向かい合っているような図形を見ていると、その中心に三角形が見えてくる、というようなことが書かれていました。
ここで茂木健一郎さんは、コンピュータ・サイエンスから「ポインタ」という概念を持ってきます。ポインタとは「実際のデータの内容ではなく、「このアドレスにそのデータがある」という、データの所在を指定している概念(P,181)」とのこと。
ということを読んで、ぼくは妄想というか考えを広げてしまいました。
音に関しては、音素(Phoneme)があるということを以前ブログで書いたことがあります。いきなり趣味のDTMの話に展開しますが、Vocaloidという歌うソフトウェアでは、音程を入力した後で歌詞を入力すると、音素という記号に置き換えられます。「ん」と入力すると「N¥」という記号になる。発音を細かく要素に分解しているわけです。記号と音が対応している。
もし、さまざまな人間の感覚を音素のように分解することができたら、それがクオリアなのではないか、とまず考えました。「冷たい」という感覚があるとします。これをさらに細かく分解していき、もうこれ以上分解できないところまで細かくする。それが「冷たい」の感覚素のようなものです。そして、その細かい要素(クオリア)に向って、さまざまなインプット(目や耳や舌や皮膚など)からポインタがあるのではないか。
いままで、ぼくが不思議だと思っていたのは、冷たいというのは温度的な感覚なのに、なぜ「青い色」を冷たいと感じるのか、ということでした。また、ピアノのぽーんという音にリバーブをかけても冷たいと(ぼくは)感じる。あるいは、体温のある人間であっても、あのひとは「冷たい」と感じる。
図解しないと難しいと思うのですが、仮に温度表のようなマップがあって、その下部分が冷たいという感覚のクオリアになっている、とします。別に色相マップのようなものがあって、その下部分が青だと感じる、ことにしましょう。このとき、温度の位置情報を示すポインタがある、と想定します。ポインタは下向きなのですが、位置情報はそのまま、今度は色のクオリアをマッピングしたものを示すとき、まったく温度と色のマップは別のものだったとしても、下向きポインタの位置情報が同じなので、ふたつの異なるマップを「つないで」しまうのではないか。つまり、温度マップ>ポインタ下>冷たい、というものがあったとき、このポインタ情報だけそのままでマップを入れ替えて、色マップ>ポインタ下>青(→冷たい)、となる。レイヤーとして、色マップの背後に温度マップがあって、その情報が半透明のように浮き上がってくる感じです。
マップはプリセット、といえるかもしれません。このプリセットは静的な秩序にあるものではない。流動的で、経験によってその位置が絶えず変わりつづけるものではないか。これもまたDTMの話ですが、通常はシンセサイザーでピアノの音を出していたのに、間違えてドラムのプリセットに変えてしまうと、いままでドの音だったのが、バスドラムの音になったりする。それに近い感覚です。
たとえば「そのCDの4曲目をかけてよ」と頼んだとします。モーツァルトだと思ってかけてもらったら、いきなりステレオからビートルズが流れ出した。このときに、4曲目という位置情報だけで、期待していたモーツァルトの曲とビートルズの曲を経験的につなげてしまう。
あるいは、3歳の息子がギャグ(あたーっくちゃーんす!)を言うとします。それをぼくらがみて大笑いする。大笑いすると、ギャグ=笑い、というプリセット(コード)ができます。ところが笑わずに無視すると、そのプリセットは生成されない。
教育は、子供たちのどのポインタを刺激したときに何を生成するか、という反応を学ばせる過程が重要かもしれません。そして反応を予測しにくいものの方が勉強になる。みんなと遊ぶことが勉強になるのは、イレギュラーなことが起きやすいからです(突然友達が転んで泣き出した、とか)。こういうときにどう反応するかが、大きな勉強になる。親の子育てにおいても、まず子供に「反応」することが大切かもしれません。おもしろいね、と子供が自分に話しかけてきたときに、そうだね、おもしろいねと反応してあげること。そうして脳内のプリセットを「つなげて」あげること。それが大事ではないか。
コミュニケーションというと難しくなりそうですが、まずは認めること、頷くこと、聞いてあげることが基本かもしれません。ものすごく大きな発見をしたのに、いま忙しいから!と言ってしまうと、子供たちの発見はよろこびにコード化されない。
すべてゲームのせいにするわけではないのですが、他人の表情を読めない子供たちが増えるのは、複雑な情報が欠如したコンピュータ・グラフィックの主人公ばかりをみていることもあるかもしれません。ゲームが有害なのはシューティングの残虐性よりも、キャラクターの表情が希薄である、ことかもしれない。だから痛みやよろこびをもっと多彩に表現できるキャラクターが生まれたら、ゲームがひとの心を豊かにしてくれるかもしれない。それはグラフィック機能や技術の課題であって、ゲームそのものの課題ではないかもしれません。実は人間の表情というのは、ものすごく大量の情報だと思います。その大量の情報を、いまのハードウェアではまだ処理できない気がします。
横道に逸れましたが、ぼくがイメージしたのは、人間の感覚は、感覚のプリセットが何重にも重なっているイメージです。初期状態(デフォルト)のプリセットは、それぞれが遺伝子の情報のなかに持っているのだけど、経験によってプリセットの位置が少しづつ変わっていく。紫を暖かいと感じるか冷たいと感じるかは微妙です。紫が暖かかった経験のあるひとは、次第に紫=暖かいというプリセットができる。別々のカテゴリー(色や音や温度や味覚や)のクオリアのマップにおいて、ポインタで貫かれるたびに位置が変わっていき、もっとも経験が多い「つながり」がそのひとの個別の「クラスター」として、つながりを強くしていく。
いまこれは「私」だけに限ったセットリストの生成を追ったのですが、これが複数になると、つながりの太い部分が「常識」になる。けれども太い道ができたつながりの強いクラスターは、逆に刺激が少なくなる。強い刺激を求めようとすると、いままでにない道をつなげることが必要になる。
理解されない芸術があるのは、ものすごく遠いマップの「つながり」を形成しようとするからかもしれません。そして、マップが遠いことを「抽象的」というのかもしれない。けれども、そこに道がないわけではなくて、みんなが踏んでいないだけです。創造的な試みが苦しいのは、道のない(もしくは細い道のある)部分に道を作ろうとするからでしょうか。
と、ここまで考えてきて、個性と言うのはまったく新しいものではない、組み合わせである、ということにも納得できるような気がしました。つまり、どのようなプリセットを用意し、何枚のマップをそこに重ねるか、ということだからです。プリセットに用意された要素の位置が変わっているほど、マップが重層的であるほど、そのひとは個性的で深みのあるひとなのかもしれません。インターネットにおいても、トラフィックが多い部分がネット上の常識を形成するのでしょうか(若干、この表現には問題も感じますが)。どの友人とつながるか、何をおすすめするか、どんな日記を書いたか、というセットリストの組み合わせが個性を生成していくともいえます。
・・・ああ、またよくわからないことを書いてしまった。しかもこんなにたくさん。止まらなくなりそうなので、今日はこの辺にしておきます。
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2006年5月11日
見かけも大事。
かっこよく年を取りたいと思っているのだけれど、かっこよく年を取るのはなかなか難しいものです。どちらかというと年々くたびれていくばかりで、もうちょっとしゃきっとできないものかと思う。精神的にも肉体的にも気を抜くと、たるんだり勢いがなくなってしまう。それから、年を取ってちいさなことには動じない落ち着きを身につけるのはいいのですが、妙に狡猾になったり、諦めが入ったりすると、なんだかなと思うものです。努力しなきゃならないのは若者ではなく、おじさんではないでしょうか。おじさんたちは、気を抜いていてはいけない。そんなわけで、おじさんであるぼくがおじさんについて考えてみます。
どこから、おじさんか。つまり年齢的におじさんの入り口はどこかというのは結構難しい問題で、子供の頃には20代といえば、もう完璧におじさんだったような気がします。では、おじさんの出口はどこかというのも微妙なところで、60歳であっても若々しいひとはまだおじさんをキープしている気がする。と、いま見かけを尺度にしているのですが、内面的なモノサシを求めようとすると、さらに難しいことになります。おじさん的な内面というのは、どういうものなのでしょう。これはひょっとすると、おじさんであるぼくには見えないものであって、女性からみた方がはっきりするのかもしれない。
と、なぜこんなにも感傷的におじさん論を展開しはじめたかというと、R25というフリーペーパーにジャン・レノのインタビューが掲載されていて、そのタイトルが「女性の存在はとても大切」という、もうこれだけで、ちっ、と舌打ちしたくなるような計算された特集なのですが、顎に手を当てながらにっと笑っているジャン・レノの写真はやっぱりかっこよくて、逆立ちしてもこんなおじさんにはなれまい、わたしがわるうございました(泣)という、かなしい気持ちになってしまったからでした。
ちなみにちょっとインタビューから彼の言葉を引用してみます。
「ぼくは、最近スモートリ(相撲とり)に関する本を読んだんだけど、そこには結婚しているスモートリの方が独身のスモートリより勝ち星を挙げると書いてあった。同じことだよ。人生においてもっとも大切なものは女性!(笑)」
・・・。ジャン・レノのようになるにはどうしたらいいか、という問いには以下のような言葉で締めくくられています。
あまりモテたいと思っていないとき方が、間違いなくモテるね(笑)。
その前の文章で、ビジョンは不要で、いま何が好きで何をやりたいかを考えた方がいいという言葉があるので、その流れかと思うのですが、彼が言うと、ほんとうに「ちっ」という感じにしか聞こえません。
某雑誌では、ジャン・レノ的なおやじになるにはどうしたらいいか、などのTIPSを毎号展開しているようですが、なろうとしてなれるものと、なろうと思ってもなれないものがあるものです。しかしながら、こんな風にくどくどと、ジャン・レノなんかなれないや、と書いている状態が酒場のおやじと化しているようで情けない。
ジャン・レノの映画で衝撃的だったのは、やはり「グラン・ブルー(グレート・ブルー)」のエンゾでした。そして、やっぱり「レオン」でしょうか。広末涼子さんと共演したリュック・ベッソン監督の「WASABI」はちょっとひどいなと思った記憶があるのですが、それでもそれなりに絵になってしまうひとです。そう。絵になってしまう、おやじだと思う。つまり存在感がある。
先日読んだ「第1感」という本にも、「見た目の罠」としてアメリカ史上最悪の大統領として、ウォーレン・ハーディングのエピソードが書かれていました。ものすごい男前のために、誰もが「素晴らしい大統領」になるはずだと考えた。けれども、それは「すばらしい風貌の大統領」であって、容姿に対する無意識の思い込みが、価値観に影響を与えていたわけです。もちろん、容姿と内面が合致している素晴らしいひともいると思います。けれども、見た目というのはかなり重要かもしれない。
ほんとうに気を引き締めていないと、どんどんくたびれていくばかりなので、連休明けでしんどいとはいうものの、背筋を伸ばさなければ。自分に喝、です。
それにしても今週は長過ぎます。やっと明日は金曜日です*1。
+++++
■ジャン・レノ的なかっこよさを学びたいものです。
グラン・ブルー (グレート・ブルー完全版) [DVD] 20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント 2001-07-18 by G-Tools |
レオン 完全版 アドバンスト・コレクターズ・エディション [DVD] パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2006-05-10 by G-Tools |
■ダヴィンチ・コードも20日に公開ですね。公式サイトです。
http://www.sonypictures.jp/movies/thedavincicode/
*1:最初、「おじさん考」(笑)というタイトルにしたのですが、あまりにもあまりなので変更。やはり疲れていると、とんでもないことを書いてしまうものです。どんな状態であっても、文章のレベルを保ちたいものですが。おじさんは疲れた。
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2006年5月10日
エンターテイメントの進化。
任天堂の次世代ゲーム機「レボリューション(開発コード)」の正式名称は「Wii(ウィー)」だそうです。既に多くのブログなどで取り上げられていますが、以前、「怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか」という黒川伊保子さんの本を取り上げ、音のクオリアからネーミングについて考えたこともあったので、このネーミングについてまず考えてみることにします。
まず単純にみなさんが感じていることだと思うのですが、ファミリーコンピュータから始まりゲームボーイアドバンス、ゲームキューブという流れのなかで「ウィー」というのはどうなのかという疑問があります。「うぃ〜」と音だけを聴くと、ネガティブなイメージとしては「うぃ〜。ひっく」という酔っ払い的な印象とか、「うぃ〜っす」という、いかりや長介さんの挨拶的な語感がある(古いか)。「任天堂ゲーム機の新名称「Wii」、ファンの反応は複雑」というCNET Japanの記事が面白かったのですが、たしかに微妙な感じがします。海外のブログには、以下のような書き込みもあったようです。
「本当にひどい名前だ。任天堂は新しいゲーム機の名前を独りよがりで決めたというのが一般的な意見だ。この愛称は、フランス語の『ウィ』とか、(英語の)幼児語でおしっこを意味する言葉とも聞こえる。任天堂が期待しているような連想はできないが、皆が興奮している理由はそこなのだろうか?」
おしっこ(Pee)という印象があるのは、若干困ったものかもしれません。ゲーム機らしくない、という感触もあるのですが、「革命」というコードネームを売りにしていただけに、斬新なネーミングを意図したのでしょう。前向きに考えると、そもそも「家庭の誰もが楽しめる」というコンセプトを表す「We」であったこと、Wish(願い)やWillなども連想することから、なかなかよい印象もあります。
任天堂ではWiiのロゴをモーションさせたイメージビデオも公開しているのですが、そのムービーをみていると、ふたつの「i」がひとのようにみえるとともに、Wという空に手を広げたような文字のイメージは悪くないな、という気がしました。最初は、えー??と思ったのですが、なんとなく落ち着いてみると、いい感じかもしれません。やっぱりねと納得できるネーミングより、ちょっと違和感があるぐらいがよいのかもしれない。あまり斬新過ぎるとついていけないのですが、Wiiぐらいであれば斬新でありながら許容範囲です。
ちょうどE3 2006というゲームのイベントを契機として、次世代ゲーム機に対する注目が高まっているのですが、ライバルとなるPLAYSTAITION3は、発売日、スペック、価格(5万9800円)を明確に打ち出しています。国内における情報はCNET Japanの速報で知りました。
ネーミング的な観点からみると、このプレイステーションは、「プレイ」の「レイ」の部分が綴りは違いますが「Ray(光線)」的な鋭利な印象があり、洗練された印象を受けます。さらに、PS2まではPlayStationだったのが、すべて大文字になっている。この意図については、1年ぐらい前の記事ですが、「後藤弘茂のWeekly海外ニュース」のSCEI 久夛良木社長インタビューにその理由が書かれていて、あらためて読み直して興味深いものがありました。
なぜかというと、要するに、PCも全部煮詰まったから、これはPCですかゲーム機ですかといっても始まらない。次のPlaystationは何なんですかという時代に入ったと思っている。だからPLAYSTATIONは"The playstation"。ちょっと気負いもこめてそうしている。
つまりゲーム機ではなくてPLAYSTATIONである、ゲーム機というカテゴリーで比較されては困る、そういう気負いが大文字に込められています。さらにそこで目指そうとしていたのは、家庭用の夢のワークステーションのようです。
今回の3で、プレイステーションって単語は、初めて全部大文字の"PLAYSTATION"にした。Workstationが僕らの夢のコンピュータだったから、最初にPlayStationってつけた。PlayStationは商品名で、PとSで始まっているから「PS」ってロゴをつけたわけ。でも、今回は大文字のPLAYSTATION。
東芝・IBMと共同してCellというプロセッサも開発したのもワークステーション的な発想があったからであり、ハードディスクにはLinuxをOSとして採用するという話もありました。もともと開発のコンセプトから、ゲーム機を目指したわけではなくて、エンターテイメントを目的としたコンピュータだったわけです。
その戦略の違いが、現在に至ってWiiというネーミングとイメージ作りにこだわった任天堂と、スペックと価格という機能的な側面にこだわったSCEという違いに表れたような気もします。しかしながら、そもそも任天堂はファミコン(ファミリーコンピュータ)というコンセプトでゲーム機を普及させたわけであり、コンピュータ的な方向にも進むことができたように思います。けれども、SCEのようにゲームを核とした家庭用ワークステーションのような広がりは求めていない。
久夛良木社長インタビューの2回目では、その辺りの苛立ちがはっきりと語られていて、いまさらながら興味深いと思いました。
僕がおかしいと思うのは、僕らはコンピュータだとずっと言ってるのに、同じ業界の中で任天堂さんが外に向かって玩具だ玩具だと言い切っている。だから、こちらはスーパーコンピュータ並みで輸出入管理が必要なモノを作っているのに、役所とかには玩具だと思われてしまう。
こうした動きについては、アップルコンピュータなども警戒しているように思われます。PowerPCからIntelのプロセッサの採用に移行しはじめたアップルでは、競合として考えているのはWindowsのPCではなく、Linuxを採用するような次世代のゲーム機なのかもしれません。
しかしながら、うちの息子をみていて思うのは、ハードウェアの進化に熱くなるのは、どちらかというとPC好きな父親だけです。子供にとっては面白いアプリケーションが動けば、WiiだろうがPLAYSTATIONだろうが関係はない。
コントローラの進化も注目されていますが、WiiにしてもPLAYSTATION3にしても、無線のコントローラを振り回すことによっていろんなアクションができるようになるようです。うちの息子は、ゲームキューブにしてもPS2にしても、ゲームをやっているときには熱くなってぴょんぴょん飛び跳ねる。ゲームなのに、汗びっしょりになっていることもあります。まだコントローラが本体と線でつながっているので過激な動きは抑制されているのですが、無線のコントローラになったときにどうなることやら心配です。
ところで、いま家にはゲームキューブ、ゲームボーイアドバンス、ゲームボーイアドバンスSP、PS2、PS ONEとゲーム機があるのですが(DSとPSPは持っていません)、ぼくはというとゲームを一切やりません。やったとしても息子には必ず負けるので(しかもハンディをつけてもらってやる)、やらないようにしています。やらないのに新しい機械モノが発表されると気になってしまう。ついでに欲しくなる。困ったものです。
+++++
■Wiiの公式ページ。スティック型のリモコンは、どうしてもテレビのリモコンを思い出してしまい、きっとテレビのリモコンを振り回す子供が出てくるような気がします。逆にテレビのリモコンに、数年後には振ると画面が変わるような機能が追加されたりして。コンセプトビデオがなかなか楽しいです。
http://www.nintendo.co.jp/n10/e3_2006/index.html
■PLAYSTATION3のリリース。以前は、コンセプト紹介的なページがあったような気がするのですが、みつからなくなってしまいました。
http://www.jp.playstation.com/info/release/nr_20060509_ps3.html
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2006年5月 9日
つながりから生成する世界。
昨日、「情報」と「経験」と題して、意識とは何かという難しいことについて考えつづけたせいか、今日は一日中、偏頭痛に悩まされてしまいました。おそまつな脳をフルに活動させたせいかもしれません。あるいは、ネット断ちをして久し振りにハードにPCを使ったからかもしれません。というか実際には、変な寝方をしたので首を寝違えてしまってそのための頭痛かもしれないのですが、整体師にみてもらおうか、ちょっと迷っています。
複数の本を相変わらず読み散らかしているのですが、そのなかの一冊に茂木健一郎さんの「クオリア入門 心が脳を感じるとき」があります。いままでぼくが読んだ茂木さんの本はどちらかというと文学的だったのですが、これはかなり脳科学よりの本です。ぼくのようなシロウトが脳科学について考えるのはどうか、とも思ったのですが、第一章に「職業科学者であれ、哲学者であれ、一般の人々であれ、脳と心の問題に対する探求は、そのような個人的な思索からはじまる。(P.39)」という言葉があり、その言葉に勇気づけられながら、もうすこし考えを進めてみます。
「夏草=情報、踏みしめた道=経験」という稚拙でむちゃくちゃな比喩を昨日展開したのですが、茂木さんがこの本のなかで書かれていることにあてはめてみると、道というのは「クラスター」ではないかと思いました。このクラスターとは「シナプス相互作用によってお互いに結ばれたニューロンの発火の塊(P.94)」だそうです。脳のなかには、ニューロン(神経細胞)があって、それがシナプスという接合部分で発火すると意識が生まれる。一本道というわけではなくて枝分かれもしているのですが、この発火の塊が「道」ともいえます。
けれども、ここで茂木さんが提示している重要な考え方(概念)には、「反応選択性のドグマ」と「マッハの原理」、そして「重生起」があります。これが非常に難しくて、何度も行きつ戻りつ解釈してみたのですが、「反応選択性のドグマ」とは現実の林檎と脳のなかに生じるニューロンの発火による林檎のパターンを「対」とする考え方のようです。つまり、林檎=ニューロンによる林檎の発火のパターン、となる。
ところが「マッハの原理」では、現実の林檎とニューロンの発火パターンが連動しているわけではない。あるニューロンの発火は、べつの発火との「関係性」のなかで位置づけられ、「生成」するものである、とぼくはとらえました。これは茂木さんが言っている意図を正確に表していないかもしれません。ぼくなりに解釈したまとめです。そして茂木さんの主張としては、「反応選択性のドグマ」ではなく、「マッハの原理」に基づいて考えるべきである、と書かれています。
この「マッハの原理」はどういうことかというと、発火と発火の関係性が成立すれば、現実に林檎がなくても、ぼくらの脳のなかに林檎が存在する、ということではないでしょうか。ちょっと怖い。怖いけれども、納得するところがあります。というのは、林檎をみているのに林檎が存在しない心の状態というのがある。たとえば、失恋して彼女(もしくは彼)のことを思い悩んでいるとき、じっとテーブルの上の林檎をみつめているのですが、心はそこにはない。もし「反応選択性」的に脳と心を考えるとすると、脳あるいは心に林檎は必ず存在しなきゃいけません。しかし、ニューロンは彼(もしくは彼女)を思う部分で発火しているため、林檎を生成する発火との関係性は途切れている。したがって林檎的なニューロンの発火もあるのだけど、そこに林檎は生成しない。
この考え方の枠組みは非常に面白くて、脳科学以外にも応用できそうです。たとえば、脳内/ソーシャルネットワーク的な世界におけるつながり/文章、という応用もできるかもしれません。脳内においてはニューロンですが、ニューロンを人間関係、単語のつながり、と置き換えることもできる。世界は「関係性」で成立するものであり、要するに「つながり」から生まれるということです。脳内の世界も、SNS的なネット上の社会も、文章によって生まれるイメージも、決して単体で意味を成すものではない。
たとえば、ブログでAとBがつながる。そこで、音楽論が生まれたとします。けれども、AとBのつながり=音楽論というのは「反応選択性」的な考え方でしかない。一方でBとCの間で人生論が展開されていて、この音楽論と人生論が同時に発火するときに、ブログによる集合知が生まれる。文章もそうです。小説のなかで、ある文章Aと、まったく別の文章Bがあったとき、それぞれの文脈を縦横に組み合わせた関係性によって、立体的に架空の物語が立ち上がる。単体で意味を成すのではなく、あるつながりと別のつながりがあったところに世界は生成される。
ここで大事なのは、「正解」としての結果はない、ということです。つまり、「反応選択性」的な考え方では、現実=脳内の現象という「対」がありますが、「マッハの原理」的に展開すると、発火と発火から何が生成するのか予測もつかない。「現実」らしきものが生成することもあれば、「仮想」的な世界が生成されることもある。この発火の「組み合わせ」が、創造性ともいえます。
ブログがなぜ活性化するかというと、「つながりたがる」性質があるからかもしれません。この傾向をコミュニケーションといってしまうと一般的でつまらない気がしますが、ぼくはあえて「つながりたがる」と言いたい。ぼくらはそもそも原理的に「つながりたがる」ようにできているのかもしれません。脳内のニューロンもそうだし、男性と女性もそうだし、比喩(レトリック)も異なる意味をつなげる行為です。
と、書き進めて、うまく言述きなくて、ちょっとかなしくなりました。
現在、「クオリア入門」は半分あたりを読書中ですが、全部読み終えたときに、また違う観点が生まれるかもしれません。ぼくが展開している自己流の考察は、脳科学に詳しい方が読んだら、なんじゃこりゃな理論かもしれません。とはいえ、そんなことも書けてしまえるのがブログのよいところでもあり、とりあえず、ここまで考えたところで思考を寝かせておくことにします。明日は違ったことを書きたいと思います。
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■ウィキペディアによるシナプス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%97%E3%82%B9
■ウィキペディアによる神経細胞(ニューロン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B4%B0%E8%83%9E
■認識におけるマッハの原理
http://www.qualia-manifesto.com/mach-p.html
■なんだかすごいことが書かれていて驚きました。クオリア・マニフェスト・ポータルのトップ・ページです。98年に設置されているので、ちょっと遅いでしょうか、ぼくは。もう少しさまざまな文献を読み、理解する必要があると感じました。趣味として(趣味なのか?)腰を据えて取り組もうと思います。
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html
■にやり、という感じがした「クオリア原理主義宣言」。しかしながら、この宣言に沿った作品を創るのは難しい気がします。「なにげない日常に由来し、天上の気配の中に結晶化する。」作品を創ることができたら、それはもうクリエイターとしてはしあわせですね。
http://www.qualia-manifesto.com/qualiafundamentalismjp.txt
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2006年5月 8日
「情報」と「経験」。
会社からの帰りがけに雨が降りはじめました。昨日借りたDVDを返すために、ビデオレンタルショップへの道をとぼとぼと歩きながら、いろいろなことを考えました。夜だからか、あるいは雨のせいか、いろんな考えが頭をよぎります。適当な湿度があった方が、思索に耽りやすいのかもしれません。考えたことのなかから、とても抽象的なことを書こうと思います。抽象的なのでまとまりがないかもしれないし、論理的ではないかもしれませんが。
先日、読み終えた「第1感」という本に、情報は多ければ多いほど正しい判断ができるのではなく、「情報過多が判断の邪魔をする」ということが書かれていました。つまり、「実は余計な情報はただ無用なだけでなく、有害である。問題をややこしくするからだ。(P.142)」とありました。確かにその通りだと思います。インターネットで何かを調べるときに、最初のうちはいろいろと目からウロコな経験もするものですが、あまりにもたくさんのサイトやブログなどを読みすぎると、情報に翻弄されて、逆に何がよいのかわからなくなることがあります。
一方で、この「第1感」という本には、贋作を瞬時に見極める美術の専門家も出てきます。情報が少なくても直感的に見抜く力があるわけです。科学的な分析結果などの情報がなかったとしても、専門家には、いままで培ってきた経験があるわけです。その経験があるからこそ(実戦の場で経験を積んでいるからこそ)瞬時に判断できる。
ここで考えたのは、経験は情報だろうか、ということです。経験は、ぼくらの頭脳にアーカイブされているものかもしれませんが、たとえばパソコンに保存されている文書や、インターネットの情報のように、テキスト情報があるわけでもない。過去の場面をどのようにぼくらの脳が記憶にしまい込んでいるのか、ぼくにはその仕組みがわかりませんが、過去を再現しようとしても現実のようには再現できないことから、とても不完全なかたちで保存されているような気がする。不完全な情報なのに、大量の情報よりも適切かつ迅速な威力を発揮する。
漠然と感じたのは、経験と情報は違うのではないか、ということです。どういう風に違うんだろう、と小雨の道をうつむき加減に歩きながらぼくの頭に浮かんできたイメージは、次のようなシーンでした。
たとえば広い空き地があったとします。その空き地に夏草をびっしりと敷き詰める。このときの夏草が「情報」だとします。では「経験」は何か。ぼくらは空き地を横切って向こう側の家まで行かなければならない。最初は夏草を踏んで倒しながら歩いていくのですが、途中に穴ぼこがあったり、草に隠れて見えない池があったりする。足を踏み出したばかりのときには迂回などして時間もかかるのですが、何度も行き来すると夏草が踏み潰されて道ができる。この「情報」を踏み潰してできた道が「経験」ではないか、と。
夏草を敷き詰めた状態では、どこを通って向こうまで行けばいいのかわからない。最短距離だと思っていても、落とし穴に落ちて、足をくじいて出られなくなるかもしれない。ところがそんな試行錯誤を繰り返しているうちに、道ができる。この道ができてしまえば、すぐに向こうへ行ける。あっという間に空き地を横断できます。
ぼくらの脳内には、シナプスやらニューロンやらがあって、しきりに発火したり化学物質を分泌することによって意識が生まれるのだと思うのですが、よく使われる部分は組織が太くなるというか、発火や物質の分泌状態がよくなるということをきいたことがあります。それが夏草を踏んで道をつける状態かもしれません。経験があると、どんなに夏草が生茂っても道があることがわかる。けれども経験がないと、ただ不毛な夏草(=情報)ばかりみえるだけです。
つまりぼくらの頭には、パソコンのように情報が蓄積されているわけではなくて、「夏草を踏んだ道」があるだけです。夏草を詰め込もうとすると、ぼくらの頭はパンクしてしまう。けれども、夏草の道のかたちだけなら、いくつでも詰め込める。だからこそ、こんなにちいさな脳という器にどんなコンピュータよりも膨大な知識を詰め込んでおける。そしてどんなに新しいものに出会ったときにも、ああこれはS型の道だな、とか、これはU字型に迂回した方がよさそうだ、とパターンを認識する。だからコンピュータよりも直感の判断は、正確であり迅速なのではないか。
そう考えると、次世代の子供たちが考える頭脳を作るためには、暗記というアーカイブ型の訓練ではなく、道を見出すパターン型の訓練の方がよいかもしれません。いまうちの息子(長男)はポケモンやデュエルモンスターズなどのカードにはまっていますが、個々のデータを覚えるよりも、闘い方(カードの組み合わせと出し方、そして勝つことができる道を認識すること)の方が重要かもしれない。そのパターン認識ができれば、カードだけでなく、別の局面でもその経験が生きるかもしれません。
取得した情報を蓄積するためでなく、経験による太い道を作るために、数もしくは量をこなすことが大事ではないかと思いました。海外や旅行に出掛けるのも、一度ではなく何度も出掛けること。何度も好きなことや練習を繰り返すこと。大量に本や映画や音楽を聴くとしても、個々のデータにこだわるよりも、データを横断した物語や構造などのパターンを見出すこと。そうした繰り返しのなかから、ひとつの道を作ることができたとき、その道はほかの夏草の上でも瞬時に解決策を見出せるような力になるかもしれません。何かの達人は、他の分野でもすばらしい能力を発揮することがあります。物事にはツボというものがあって、そのツボさえ押さえておくとうまくいくものです。
いま、ものすごいひらめきがあったような気がしたのですが、消えてしまいました。それにここまで書いてきたことは、既に誰かが書いているような気もしています(きっと書いていることでしょう)。とはいえ、このひらめきの状態を何度も繰り返すことによって、考えることの「道」になるのでしょうか。そう祈りつつ、GW明けはやっぱり疲労もあるので早めに就寝しておきます。
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2006年5月 7日
「古道具 中野商店」川上弘美
▼book06-34:明と暗のコントラスト。
古道具 中野商店 新潮社 2005-04-01 by G-Tools |
中野商店という古道具屋をめぐる物語で、店主であるハルオさんを中心に、そこでバイトをしているヒトミさん、タケオくん、ハルオさんの愛人サキ子さん、姉であるマサヨさんなど、さまざまな人間模様が交差しながら描かれていきます。全体的なイメージですが、ハレーションを起こしたような夏の日の明るい風景に対して、古道具屋の店内は暗く湿っている。同様に人間も外部の明るさや美しさだけではなくて、内面には日陰になる部分を抱えているものです。登場人物を通じて、そのコントラストの描き方がうまいと思いました。
一般的に川上弘美さんの小説には、50代以上の年を取ってからの恋愛をテーマとしたものが多いのですが、その「抜きさしならない感じ」が伝わってきます。一方で、中野商店で働いていたときと、その店を卒業(辞めるというよりも、どこか卒業という言葉が似合っている気がしました)したあとの、ヒトミさん、タケオくんのまばゆいばかりの変貌の描かれ方もうまい。川上弘美さんの小説のなかでは「センセイの鞄」の系譜に位置づけられるような作品ではないでしょうか。
結局のところ、身体的なものはともかく、気持ちが若ければいつまでも青春なんだろう、ということをぼんやりと考えたりもしました。ちょっと黴臭いけれども、あたたかな交流が描かれたこの小説は、読み終わったあとに青春小説的な爽やかさを感じました。5月6日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(34/100冊+29/100本)
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「第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」M・グラッドウェル
▼book06-033:人間という高度なセンサー。
第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい (翻訳) 沢田 博 光文社 2006-02-23 by G-Tools |
極度の興奮状態に陥ると、どんなひとも一時的に自閉症のような状態になるそうです。どういうことかというと、他人の心が読めなくなる。この本のなかに書かれているのですが、ニューヨークのホイラー通りの悲劇として、夜中に家の外で煙草を吸っていた男が、巡回していた警官の呼びとめに挙動不審な行動をしたばかりに、4人の警官に41発の弾丸を打ち込まれて殺されてしまったそうです。これは、不審者を追いかけるときの興奮状態と暗闇のために表情を読めなかったことから、かなしい事件に結びついたのだと解説されています。
つまり、普通の状態であれば、ぼくらの視線はそれぞれのひとの表情や状況を読もうとする。ところが極度の興奮にあったり、時間がなかったりすると、ある種の盲目的な状態になる。ちょうどこれは、自閉症のひとの視線と同じ状態になるらしい。自閉症のひとにドラマをみせると、喧嘩している登場人物の顔に視線が推移するのではなく、まったく関係のない壁の絵などをふらふらと視線がさまよう。他人の感情を読もうとする心理のセンサーが触れないようなのです。
科学的な分析でも見抜けなかった美術品の贋作を「何かおかしい」という直感から2秒で見抜いた専門家、15年後に夫婦が別れるかどうかを瞬時に見抜く心理学者など、状況を「輪切り(スキャンということだと思います)」にして判断する人間の能力について書かれた本です。といっても特別な能力ではなく誰もが持っている能力であり、このスキャンする能力は無意識的な部分が大きな働きをしているとのこと。人種差別について書かれた文章を読んだあとに心理テストをすると、理屈ではわかっていても黒人に対する印象が悪い結果になってしまう。怖いことだと思いました。マインド・コントロールにつながるような気がします。ヤクザ映画をみると、肩をいからせて歩いてしまうというように、何を観るか、何を聴くか、ということがそのひとに影響を及ぼすわけです。
体系的な理論になっているわけではないのですが、ひとつひとつのエピソードがとても面白く、無意識の罠にはまることもあるものだな、と考えた本でした。5月3日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(33/100冊+29/100本)
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Mr.&Mrs.スミス
▽cinema06-030:夫婦生活はエンターテイメント。
Mr.&Mrs.スミス プレミアム・エディション [DVD] サイモン・キンバーグ ジェネオン エンタテインメント 2006-04-05 by G-Tools |
夫婦であったとしても、ちいさな嘘というのはあります。それは相手を思いやった上での嘘だったりもするものです(言い訳かもしれないのですが)。しかしながら、さすがに職業を偽ることはありません。詐欺にもなりかねないからです。けれども、殺し屋のような極秘の仕事をしていたら、言いたくても言えないかもしれない。Mr.& Mrs.スミスは、お互いに敵対する殺し屋の組織に所属する夫婦の物語です。
そもそも、ブラッド・ピット(ジョン)とアンジェリーナ・ジョリー(ジェーン)という夫婦の配役がすごいと思うのですが、ある人物を殺害する案件でお互いに鉢合わせしてしまい、それまで秘密にしていた殺し屋という職業がばれてしまう。48時間以内に夫は妻を、妻は夫を殺さないと組織から抹殺されるという、抜きさしならない状態に置かれるわけです。けれども、はじめて告白されるちょっとした真実に腹を立てたり、お互いの性格の不一致が露見したり、あるいは仲直りしたり、どちらかというと生命を脅かす危険よりも、夫婦生活の危機の行方にはらはらする映画でした。
カーチェイスや爆破シーンなど満載のエンターテイメント系スパイ映画ではあるのですが、とんでもない状況下で、実は離婚暦があったというジョンの告白にジェーンはむかついたりしている。スケールの大きなアクションのなかで、ちまちまと繰り返される夫婦の会話が楽しめました。スパイ映画というより、夫婦アクションという感じでしょうか。これだけ緊迫感のある夫婦生活であれば楽しいかもしれない。ときには喧嘩したり仲直りしたり、ちょっと深い話などをすると絆も深まるものです。5月7日鑑賞。
公式サイト
http://www.mr-and-mrs-smith.com/top.html
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(34/100冊+30/100本)
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充実、解放、そしてリセット。
GWも終了。とても充実して楽しい時間を家族と過ごすことができました。息子たちと水族館へ行き、青空に向かってジャンプするイルカに驚いた日もありました。イルカはすごいなとあらためて感動するとともに、とあるアーティストのアルバムのジャケットを思い出したりしたものです。
リアルライフを充実させるという目的から1週間ブログをお休みして、GWの最後の数日はネットにも接続しなかったのですが、そこで感じたことは、「ブログを書かなくても、ぼくという存在が損なわれることはない」ということでした。当たり前じゃん、と感じた方は、かなり健全な生活をされている方だと思います。節度のあるブログをつづけられている方にとっては、当たり前のことかもしれません。しかしながら、長くブログをつづけていると、いろんな脅迫観念のようなものにとらわれて、変な方向に流されそうになることがあります。
たとえば、「とにかく一日も休まずに書きつづけなきゃいけない」ということ。ちょうど林檎の皮を途中で途切れさせずに最後まで剥けるかどうか、ということに似た感覚ですが、何があっても書きつづけなきゃ、というこだわりのようなものが生まれてきます。「アクセスを増加させなきゃいけない」、「何か気の効いたことを書かなきゃいけない」というプレッシャーもある。SNSであれば、とにかく友達やリンクの数を増やさなきゃ、という思いにとらわれることもあるようです。
この強迫観念的な何かにとらわれてしまうと、本末転倒なことが起こりがちです。以前、子供の行事においてビデオ撮影に熱中することについても書きましたが、本来であれば、子供の成長した姿に感動したり、頑張っている姿を応援したり、青空や歓声や土ぼこりの匂いなどそのときの雰囲気を楽しむことが大事ではないでしょうか。ところが、撮影に夢中になると、記録すること、ネタづくりに注力してしまうこともあります。息子が転んだ、というときに、声援を送ったり駆け寄ろうと思う前に、ビデオのチャンスだ!と思ってしまうわけです。
時折、テレビの報道などで「やらせ」が問題になることもありますが、その気持ちもわかるような気がします。何か書かなければ、情報発信しなければ、表現しなければ、という強迫観念に襲われると、もっと面白いネタを、ということだけに目が向いてしまう。You Tubeなどのビデオ投稿サイトが盛り上がっているようですが、アマチュアの世界においても、そんな現象も生まれる(既に生まれている)かもしれません。でも、別に何もネタ的なものはなかったとしても、そのひとの人生は充分なものだと思うんですよね。
GWも同様かもしれません。旅行代理店の策略にはまっているのかもしれないのですが、どこかへ出掛けなきゃ、という一般的な「空気」があります。ゆるい常識のようなものが漂っていて、家でごろごろしているのが悪いことのようにも思える。天気のいい日にごろごろしているのは、たまらなく贅沢なことだとぼくは思いますが、なんとなく罪悪感のようなものを感じてしまう。
ネットに限らずあらゆる社会においては、一種の「あらねば」的な共通の空気を生成する傾向があるかもしれません。たとえば受験戦争もそうです。よい学校に入らなければ、という空気が生成される。企業には、さまざまなランキングあるいは格付けというものもありますが、多くの企業がそれらに敏感になるのも、売上や待遇などにおいて他と差をつけなければいけないという競争意識に追いたてられるからです。最近、話題になった言葉には、上流や下流という視点もありました。世のなかというものは、モノサシを作りたがるものかもしれません。
もちろん社会のモノサシが自分を判断する基準のひとつになるのですが、できれば自分のモノサシは自分で作りたい。強迫観念的な何かから解放されるには、自分で考える必要があります。ブログを書く場合にも、忙しくて書けないから書かない、というのと、書けるけれどもあえて書かない、というのは、結果は同じであったとしても「自分の意思」が介在するかどうか、という点で大きく違います。
この社会的な基準やモノサシ、あるいは強迫観念的な何かをぼくは否定、批判するものではなく、それが経済を活性化したり、世のなかをよりよくするための原動力になったり、生活や人生を向上させるための契機を作ってくれるものだとも考えています。見栄だって必要です。「ふり」につながるものかもしれませんが、まったく違う「私」を宣言することによって、言葉化された「私」に現実が近づいていくこともあるかもしれない。
けれども、一方でぼくらはもっと自由であってよいと思います。自分という「個」は生まれながらにして世界にひとりしかいない特別なものなのだから、誰か他人のモノサシを借りたり、他人の常識に必要以上に揺さぶられることはないのかもしれません(といっても、やっぱり気になりますけどね)。
と、GWが明けて、相変わらず理屈っぽい内容で、大量の無駄なテキストを生成しつつあるぼくのブログですが、中断してリセットをかけたところで何も変わらず、またこんな内容で書きつづけていきたいと思います。
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