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2006年5月 9日

つながりから生成する世界。

昨日、「情報」と「経験」と題して、意識とは何かという難しいことについて考えつづけたせいか、今日は一日中、偏頭痛に悩まされてしまいました。おそまつな脳をフルに活動させたせいかもしれません。あるいは、ネット断ちをして久し振りにハードにPCを使ったからかもしれません。というか実際には、変な寝方をしたので首を寝違えてしまってそのための頭痛かもしれないのですが、整体師にみてもらおうか、ちょっと迷っています。

複数の本を相変わらず読み散らかしているのですが、そのなかの一冊に茂木健一郎さんの「クオリア入門 心が脳を感じるとき」があります。いままでぼくが読んだ茂木さんの本はどちらかというと文学的だったのですが、これはかなり脳科学よりの本です。ぼくのようなシロウトが脳科学について考えるのはどうか、とも思ったのですが、第一章に「職業科学者であれ、哲学者であれ、一般の人々であれ、脳と心の問題に対する探求は、そのような個人的な思索からはじまる。(P.39)」という言葉があり、その言葉に勇気づけられながら、もうすこし考えを進めてみます。

「夏草=情報、踏みしめた道=経験」という稚拙でむちゃくちゃな比喩を昨日展開したのですが、茂木さんがこの本のなかで書かれていることにあてはめてみると、道というのは「クラスター」ではないかと思いました。このクラスターとは「シナプス相互作用によってお互いに結ばれたニューロンの発火の塊(P.94)」だそうです。脳のなかには、ニューロン(神経細胞)があって、それがシナプスという接合部分で発火すると意識が生まれる。一本道というわけではなくて枝分かれもしているのですが、この発火の塊が「道」ともいえます。

けれども、ここで茂木さんが提示している重要な考え方(概念)には、「反応選択性のドグマ」と「マッハの原理」、そして「重生起」があります。これが非常に難しくて、何度も行きつ戻りつ解釈してみたのですが、「反応選択性のドグマ」とは現実の林檎と脳のなかに生じるニューロンの発火による林檎のパターンを「対」とする考え方のようです。つまり、林檎=ニューロンによる林檎の発火のパターン、となる。

ところが「マッハの原理」では、現実の林檎とニューロンの発火パターンが連動しているわけではない。あるニューロンの発火は、べつの発火との「関係性」のなかで位置づけられ、「生成」するものである、とぼくはとらえました。これは茂木さんが言っている意図を正確に表していないかもしれません。ぼくなりに解釈したまとめです。そして茂木さんの主張としては、「反応選択性のドグマ」ではなく、「マッハの原理」に基づいて考えるべきである、と書かれています。

この「マッハの原理」はどういうことかというと、発火と発火の関係性が成立すれば、現実に林檎がなくても、ぼくらの脳のなかに林檎が存在する、ということではないでしょうか。ちょっと怖い。怖いけれども、納得するところがあります。というのは、林檎をみているのに林檎が存在しない心の状態というのがある。たとえば、失恋して彼女(もしくは彼)のことを思い悩んでいるとき、じっとテーブルの上の林檎をみつめているのですが、心はそこにはない。もし「反応選択性」的に脳と心を考えるとすると、脳あるいは心に林檎は必ず存在しなきゃいけません。しかし、ニューロンは彼(もしくは彼女)を思う部分で発火しているため、林檎を生成する発火との関係性は途切れている。したがって林檎的なニューロンの発火もあるのだけど、そこに林檎は生成しない。

この考え方の枠組みは非常に面白くて、脳科学以外にも応用できそうです。たとえば、脳内/ソーシャルネットワーク的な世界におけるつながり/文章、という応用もできるかもしれません。脳内においてはニューロンですが、ニューロンを人間関係、単語のつながり、と置き換えることもできる。世界は「関係性」で成立するものであり、要するに「つながり」から生まれるということです。脳内の世界も、SNS的なネット上の社会も、文章によって生まれるイメージも、決して単体で意味を成すものではない。

たとえば、ブログでAとBがつながる。そこで、音楽論が生まれたとします。けれども、AとBのつながり=音楽論というのは「反応選択性」的な考え方でしかない。一方でBとCの間で人生論が展開されていて、この音楽論と人生論が同時に発火するときに、ブログによる集合知が生まれる。文章もそうです。小説のなかで、ある文章Aと、まったく別の文章Bがあったとき、それぞれの文脈を縦横に組み合わせた関係性によって、立体的に架空の物語が立ち上がる。単体で意味を成すのではなく、あるつながりと別のつながりがあったところに世界は生成される。

ここで大事なのは、「正解」としての結果はない、ということです。つまり、「反応選択性」的な考え方では、現実=脳内の現象という「対」がありますが、「マッハの原理」的に展開すると、発火と発火から何が生成するのか予測もつかない。「現実」らしきものが生成することもあれば、「仮想」的な世界が生成されることもある。この発火の「組み合わせ」が、創造性ともいえます。

ブログがなぜ活性化するかというと、「つながりたがる」性質があるからかもしれません。この傾向をコミュニケーションといってしまうと一般的でつまらない気がしますが、ぼくはあえて「つながりたがる」と言いたい。ぼくらはそもそも原理的に「つながりたがる」ようにできているのかもしれません。脳内のニューロンもそうだし、男性と女性もそうだし、比喩(レトリック)も異なる意味をつなげる行為です。

と、書き進めて、うまく言述きなくて、ちょっとかなしくなりました。

現在、「クオリア入門」は半分あたりを読書中ですが、全部読み終えたときに、また違う観点が生まれるかもしれません。ぼくが展開している自己流の考察は、脳科学に詳しい方が読んだら、なんじゃこりゃな理論かもしれません。とはいえ、そんなことも書けてしまえるのがブログのよいところでもあり、とりあえず、ここまで考えたところで思考を寝かせておくことにします。明日は違ったことを書きたいと思います。

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■ウィキペディアによるシナプス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%97%E3%82%B9

■ウィキペディアによる神経細胞(ニューロン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B4%B0%E8%83%9E

■認識におけるマッハの原理
http://www.qualia-manifesto.com/mach-p.html

■なんだかすごいことが書かれていて驚きました。クオリア・マニフェスト・ポータルのトップ・ページです。98年に設置されているので、ちょっと遅いでしょうか、ぼくは。もう少しさまざまな文献を読み、理解する必要があると感じました。趣味として(趣味なのか?)腰を据えて取り組もうと思います。
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html

■にやり、という感じがした「クオリア原理主義宣言」。しかしながら、この宣言に沿った作品を創るのは難しい気がします。「なにげない日常に由来し、天上の気配の中に結晶化する。」作品を創ることができたら、それはもうクリエイターとしてはしあわせですね。
http://www.qualia-manifesto.com/qualiafundamentalismjp.txt

投稿者 birdwing : 2006年5月 9日 00:00

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