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2006年5月 8日

「情報」と「経験」。

会社からの帰りがけに雨が降りはじめました。昨日借りたDVDを返すために、ビデオレンタルショップへの道をとぼとぼと歩きながら、いろいろなことを考えました。夜だからか、あるいは雨のせいか、いろんな考えが頭をよぎります。適当な湿度があった方が、思索に耽りやすいのかもしれません。考えたことのなかから、とても抽象的なことを書こうと思います。抽象的なのでまとまりがないかもしれないし、論理的ではないかもしれませんが。

先日、読み終えた「第1感」という本に、情報は多ければ多いほど正しい判断ができるのではなく、「情報過多が判断の邪魔をする」ということが書かれていました。つまり、「実は余計な情報はただ無用なだけでなく、有害である。問題をややこしくするからだ。(P.142)」とありました。確かにその通りだと思います。インターネットで何かを調べるときに、最初のうちはいろいろと目からウロコな経験もするものですが、あまりにもたくさんのサイトやブログなどを読みすぎると、情報に翻弄されて、逆に何がよいのかわからなくなることがあります。

一方で、この「第1感」という本には、贋作を瞬時に見極める美術の専門家も出てきます。情報が少なくても直感的に見抜く力があるわけです。科学的な分析結果などの情報がなかったとしても、専門家には、いままで培ってきた経験があるわけです。その経験があるからこそ(実戦の場で経験を積んでいるからこそ)瞬時に判断できる。

ここで考えたのは、経験は情報だろうか、ということです。経験は、ぼくらの頭脳にアーカイブされているものかもしれませんが、たとえばパソコンに保存されている文書や、インターネットの情報のように、テキスト情報があるわけでもない。過去の場面をどのようにぼくらの脳が記憶にしまい込んでいるのか、ぼくにはその仕組みがわかりませんが、過去を再現しようとしても現実のようには再現できないことから、とても不完全なかたちで保存されているような気がする。不完全な情報なのに、大量の情報よりも適切かつ迅速な威力を発揮する。

漠然と感じたのは、経験と情報は違うのではないか、ということです。どういう風に違うんだろう、と小雨の道をうつむき加減に歩きながらぼくの頭に浮かんできたイメージは、次のようなシーンでした。

たとえば広い空き地があったとします。その空き地に夏草をびっしりと敷き詰める。このときの夏草が「情報」だとします。では「経験」は何か。ぼくらは空き地を横切って向こう側の家まで行かなければならない。最初は夏草を踏んで倒しながら歩いていくのですが、途中に穴ぼこがあったり、草に隠れて見えない池があったりする。足を踏み出したばかりのときには迂回などして時間もかかるのですが、何度も行き来すると夏草が踏み潰されて道ができる。この「情報」を踏み潰してできた道が「経験」ではないか、と。

夏草を敷き詰めた状態では、どこを通って向こうまで行けばいいのかわからない。最短距離だと思っていても、落とし穴に落ちて、足をくじいて出られなくなるかもしれない。ところがそんな試行錯誤を繰り返しているうちに、道ができる。この道ができてしまえば、すぐに向こうへ行ける。あっという間に空き地を横断できます。

ぼくらの脳内には、シナプスやらニューロンやらがあって、しきりに発火したり化学物質を分泌することによって意識が生まれるのだと思うのですが、よく使われる部分は組織が太くなるというか、発火や物質の分泌状態がよくなるということをきいたことがあります。それが夏草を踏んで道をつける状態かもしれません。経験があると、どんなに夏草が生茂っても道があることがわかる。けれども経験がないと、ただ不毛な夏草(=情報)ばかりみえるだけです。

つまりぼくらの頭には、パソコンのように情報が蓄積されているわけではなくて、「夏草を踏んだ道」があるだけです。夏草を詰め込もうとすると、ぼくらの頭はパンクしてしまう。けれども、夏草の道のかたちだけなら、いくつでも詰め込める。だからこそ、こんなにちいさな脳という器にどんなコンピュータよりも膨大な知識を詰め込んでおける。そしてどんなに新しいものに出会ったときにも、ああこれはS型の道だな、とか、これはU字型に迂回した方がよさそうだ、とパターンを認識する。だからコンピュータよりも直感の判断は、正確であり迅速なのではないか。

そう考えると、次世代の子供たちが考える頭脳を作るためには、暗記というアーカイブ型の訓練ではなく、道を見出すパターン型の訓練の方がよいかもしれません。いまうちの息子(長男)はポケモンやデュエルモンスターズなどのカードにはまっていますが、個々のデータを覚えるよりも、闘い方(カードの組み合わせと出し方、そして勝つことができる道を認識すること)の方が重要かもしれない。そのパターン認識ができれば、カードだけでなく、別の局面でもその経験が生きるかもしれません。

取得した情報を蓄積するためでなく、経験による太い道を作るために、数もしくは量をこなすことが大事ではないかと思いました。海外や旅行に出掛けるのも、一度ではなく何度も出掛けること。何度も好きなことや練習を繰り返すこと。大量に本や映画や音楽を聴くとしても、個々のデータにこだわるよりも、データを横断した物語や構造などのパターンを見出すこと。そうした繰り返しのなかから、ひとつの道を作ることができたとき、その道はほかの夏草の上でも瞬時に解決策を見出せるような力になるかもしれません。何かの達人は、他の分野でもすばらしい能力を発揮することがあります。物事にはツボというものがあって、そのツボさえ押さえておくとうまくいくものです。

いま、ものすごいひらめきがあったような気がしたのですが、消えてしまいました。それにここまで書いてきたことは、既に誰かが書いているような気もしています(きっと書いていることでしょう)。とはいえ、このひらめきの状態を何度も繰り返すことによって、考えることの「道」になるのでしょうか。そう祈りつつ、GW明けはやっぱり疲労もあるので早めに就寝しておきます。

投稿者 birdwing : 2006年5月 8日 00:00

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