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2006年5月20日

権威主義的パーソナリティー。

夏かと思うような暑い天気でしたが、湿度が高くて不快指数の高い一日でした。と、思っていたら午後には雨が降り出しました。その後、ちょっと夕暮れどきに近所をうろうろしたのですが、黒い雲と青空のコントラストがきれいだった。そんな空を眺めるのはいいものです。

趣味のDTMで、先週の土曜日から10年前につくった曲を、まっさらな状態から作り直しているのですが、書斎(ってほどでもないですけど)に入ってきた次男3歳に、「へんなきょく〜」といわれてしまった。しょぼん。

ちなみにその曲のタイトルは「生活に紛れたダイアモンド」といいます。このタイトル自体がお恥ずかしいのですが、記念碑的な作品でもあるので、今月中には完成させたいと思っています。今回は完全打ち込みにして、音の素材やサンプリングを使わないで作っています。それなのにPCがフリーズしまくりで落ちます。SONARの場合、右下にCPUメーターがあるのですが、すぐに赤いWarning状態になってしまう。さっきも30分間操作ができない状態になり、気長に本など読みながら待ってみましたが、うぃーんとファンが回るばかりで一向に進展がないので電源を引っこ抜きました。もちろんデータはすべて消えました。やれやれ。

さて、小森陽一先生の「村上春樹論」をあと数ページで読み終わります(現在、第五章P.248)。疑問を感じるところもあるのですが、エンターテイメントとして小説を読むのではなく、小説のなかに引用された作品まできちんと精読する、という読み方に、これはなかなかできるものではないな、と思いました。ブンガク批評とはそういうものであり、ブンガクときちんと関わるということは、一文字も取りこぼさない姿勢が大切なのかもしれません。コンテクストとして他の文学との関係性はもちろん、戦争と日本の歴史のなかで村上文学を位置づける試みもされています。ぼくは知識不足なので言及を避けますが、村上文学を戦後の歴史のなかに位置づける試みは、とても興味深いものでした。こういう話題についてきちんと語れるようになるといいのですが。

村上春樹さんの小説を読み解くために、引用されたテキストの分析はもちろん、思想や心理学などのいくつかのキーワードを使われているのですが、そのうち何度も強調されているのが「権利主義的パーソナリティー」という言葉です。エーリッヒ・フロムやアドルノといった学者が使っている言葉のようですが、力の強いものには服従し、弱いものには攻撃性をあらわにする、他者の存在を認めずに自分を固持する、いわゆる軍隊的な思考のあり方のようです。これは、欲求不満が攻撃の引き金となる。一方で、その言葉に対立する性格類型には、「民主主義的パーソナリティ」だそうです。「村上春樹論」のなかでは、次のように解説されています(P.169)。

「民主主義的パーソナリティ」は、自発性と個性を備え、安定し、かつ連続的で統一的な自己を保持し、自我の独立と同時に、他者に対する寛容さを持ち、偏見から自由であり、合理的な思考、つまり「なぜ?」という問いの下に、原因と結果の関係を言語的に考える人格です。したがって、欲求不満の原因を発見し、それを取り除く能力を持っているわけです。

なるほど。本論から逸れますが、自分としては「民主主義的パーソナリティー」でありたいものですね。と同時に、権威主義的パーソナリティの権化のような実在するモデルが、いま頭のなかに浮かんでいます。いつも欲求不満で、権威に弱く、弱いものには攻撃的で、合理的な思考ができない。そんなひとも、いるものです。

村上春樹さんの「海辺のカフカ」は、カフカ少年のオイディプス的な殺人やレイプなどの暴力を発動する機能がある、これは処刑小説である、と小森先生は語っています。そしてその原点となるのは、女性嫌悪(ミソジニー)であるとします。女性であること、女性が性欲を持つこと、複数の男性と関わることを罰として、徹底的に小説のなかで「処刑」する。<精神のある人間として呼吸している女たち>(P.215)を権威主義の立場から否定するわけです。

と、この部分でぼくは納得してしまったのですが、以前から村上春樹さんの小説には、女性に現実感が欠ける感じがしていました。なんとなく物体のようにも、アンドロイドのようにも思える。また、物語のなかでご都合主義的に扱われている気がする。というのは、そもそも初期の小説に、自分が女性とセックスをした回数を手帳に書きとめる主人公がいましたが、要するに記録するデータとしかとらえていないわけです。とても安易に女性と寝てしまうので(うらやましいともいえるけど)、このことを茂木健一郎さんは「村上春樹の鼻毛」と呼んで、おかしいと指摘されていたような気がします。

一方で、そのドライな感じが村上ワールドの魅力でもあるのですが、「海辺のカフカ」で佐伯さんを物語のなかとはいえ「殺してしまう」背景には、作者の女性嫌悪(ミソジニー)があると読み解く視点には、文学批評家の鋭い視点を感じました。これを漱石の虞美人草の構造に結び付けているところも、歴史から抹殺するという意味で従軍慰安婦の問題にも展開しているところにも、思考の広がりを感じました。

ということを書いていたら、なんだか学生に戻りたくなりました。永遠の学生のつもりで、このブログで考察をつづけていきたいと考えています。まだ稚拙な感想や所見しか書けないのですが、いずれは論文に匹敵するものを書いてみたいものです。

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■Wikipediaのテオドール・アドルノ。はてなのキーワードを読むと、このひとは哲学者でありながら、音楽学者でもあったんですね。ちょっと興味あります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%8E

■Wikipediaのエーリヒ・フロム。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%A0

投稿者 birdwing : 2006年5月20日 00:00

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