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2006年5月19日

痛み、言葉、新しい価値。

すごい、と思いました。小森陽一先生(実は恩師)の「村上春樹論 「海辺のカフカ」を精読する」を読書中です。現在、第三章P.173あたりを読み進めているのですが、小森先生らしい視点が心地よい。ぼくは新しい小森陽一を期待してもいたのですが、学生時代に教えていただいた方法論とまったく変わっていないところが泣けました。感激です。なんだ、小森陽一そのままじゃんと思った。あのころのゼミが、そして講義の風景がよみがえる感じです。そしてぼくも、その変わらないものを大切にしたいと考えています。手法としては、物語に内包されている物語(引用されているテキストとそのコンテキスト)に徹底的にこだわり、物語と引用との構造を読み解いていく。それがまさに「精読する」ということなのですが、物語の関係性にこだわる小森先生のアプローチには、いまでも何か熱い気持ちをかきたてられるものがあります。

もちろん、あまりにも構造的で、完璧にテキストと意味を結びつける緻密な分析には、どうだろうという反論をする余地がないこともない。処刑小説という仮説を検証するために、あるいは戦争批判をするために、帰納的に村上春樹さんのテキストを利用しているようにも読める気がします。しかしながら、それでは、そうではない読み方ができるかというと、いまのところ思いつかない。

ぼくは小森先生の本を読んで、評論の可能性を感じました。

テキストという結晶があったとします。それは、小説であったり物語であったりするのですが、通常はひとつの方向から光が当てられている。光が反射した部分を、ぼくらはそのテキストの解釈として認識するわけです。ところが、まったく別の方向から光を当てることができた場合、まったく違う物語や意味が立ち上がってくるかもしれない。それが評論です。したがって、意味を消費していく批評とは違って、テキストをまったく新しい作品に再生することもできる。それは文学を創造するのと同じぐらいに創造的な行為です。まったく別の光を当てられた創作は、まったく違うものになる。小森先生の村上春樹論は、癒しや救いという印象が多かった「海辺のカフカ」を全然違う作品に組み替えていきます。この組み替えのプロセスが刺激的です。

したがって、村上春樹さんの信奉者としては、納得できなかったり、嫌悪感を感じることもあるかもしれません。しかし、ぼくはそれが村上春樹さんの本質を掘り起こす行為であるという気がしました。そもそもぼくの村上春樹さん体験を言うと、「ノルウェイの森」を読了したときには、気分が悪くなって寝込んだほどです。なんというか物語の世界に揺さぶりをかけられて、船酔いしたような感じになった。その他の小説を読んでも、軽い文体なのに、なんとなく深い闇をのぞくような居心地の悪さを感じた。大好きな作家ではあるのですが、決して癒される小説ではなかったわけです。問題の多い小説だった。その感想がどこからやってくるのか、なぜなのかうまく説明できなかったのですが、その疑問を解き明かすヒントがこの「村上春樹論」にあるんじゃないかと期待もしています。

冒頭の部分では、オイディプスとフロイトを引用されています。これはなんとなく当たり前すぎるというか斬新ではないな、という印象を感じたのですが、それでもインパクトがあったのは、赤ちゃんが言葉を獲得する「口唇期」に対する解説でした。

おしっこやうんちを垂れ流しの状態の赤ちゃんが、三歳ぐらいになると排泄のしつけをされるようになる。ちょうどうちの次男がそういう時期ですが、このとき、いままで至福であり、信じていた母親が急に自分を厳しく叱る別人になるわけです。おしっこやうんちを垂れ流していると、キタナイ、バッチイと叱られる。だから赤ん坊はパニックになる。ママはぼくのことを嫌いになったんだろうか、と情緒不安定になる。ところが、社会の第一歩である躾をしなければならない行為は、愛情と嫌悪(厳しさ)という相反する感情がいっしょになっているわけです。赤ちゃんには厳しさしか伝わらないのですが、その背後には、社会に出て行く人間としてきちんと排泄ができるようになってほしいという親の愛情がある。

そして、そのときに、三歳児には、なぜ?という感情が生まれる。このなぜ?が言葉への入り口である、と小森先生は書いています。そして親は、それはね、どうしてかというとね、と排泄の重要性をはじめとして子供のなぜに応えるとき、この対話が社会の最も基本的な仕組みであり、言葉を使って生きる人間の基本的な行為を紡いでいく。なぜ?が生まれたときに言葉が必要になり、だからこそ人間は言葉を進化させていく。

独自の解釈を加えてしまったかもしれないのですが、この部分で、ぼくは何かものすごいひらめきを感じました(が、消えてしまった)。なぜ?を追求する人間の本質には、新生児の親とのコミュニケーションにおける穴ぼこを埋める必然性があった。人間の知的探求は、結局のところ三歳児の経験をベースにしているということ。そのあたりに、何かひらめきを感じたのですが。

かなり深い示唆に富む部分ですが、次の文章を引用しておきます(P.58)。

子供が自立した人間になるための、すべての躾は、「誰かを深く愛する」がゆえに、「その誰かを深く傷つける」ことなのです。同時にそのことは、子供が周囲の大人との自他未分化な状態から抜け出して、自分と他者を区別して、自立して生きていくことのできる言葉を操る生きものとしての人間になっていく上での、不可欠な分岐点になるわけです。

しかしながら、そうして自立した言葉を操る人間の築いてきた世界を、暴力的に破壊すると同時に思考停止に追い込むのが「海辺のカフカ」であると述べられています。カフカ少年は構築されたタブーをことごとく破ってしまう。その表現に9・11のテロを重ねて、暴力的な何かを正当化する小説として「海辺のカフカ」を読み解いていきます。

一方で、誕生のときの描写もうまいと思いました。人間が生れ落ちるとき、途方もない苦痛が襲う。つまり、生きるということは、基本的に「痛い」ものなのです。息をすること。それも胎内で羊水に守られていた胎児には痛い。産道から産み落とされると「まっさらな肺細胞の一つひとつに、大気が針のように(P.32)」突き刺さる。けれども、この痛みを受け止めなければ生きていけません。ぼくは喘息の息子が酸素を吸入しているときに、人間には酸素って必要なものなんだな、と思ったのだけれど、その酸素すら最初は自分を苦しめるものであったわけです。

うまくまとめることができませんが、この後、小森先生は、ギリシア神話から千夜一夜物語、カフカ、漱石など、さまざまなテクストと「海辺のカフカ」を重ねながら、「村上春樹論」を展開していきます。ちょっとそわそわするというか、ブログなんて書いていないで何か評論したいぞ、と得体の知れない焦りを感じてしまいました。こんな風に新しい視点からさまざまな作品に光を当てて、映画にしても小説にしても、新しい価値を生み出すようなレビューができるといいんだけどなあ、と思います。

投稿者 birdwing : 2006年5月19日 00:00

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