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2006年5月26日

金色の時間。

会社に忘れてきてしまったのですが、地下鉄の駅で配布しているフリーペーパーに本日から「GOLDEN.min」が創刊されました。これは「metro.min(メトロミニッツ)」のバリエーションという感じですが、50代からのメトロマガジンとのこと。シニアマーケティングを実践した雑誌ともいえますが、とりあえずは矢沢永吉さんの表紙がかっこいい。

特集は、「妻とのコミュニケーション」とのこと。うーむ、深い。あえてそんな内容に踏み込むところが、フリーペーパーという枠を超えている気がしますが、データでシニアが何を重視しているか、という情報も掲載されていたりして、なかなか興味深いものがありました。手もとにないので印象で語りますが、男性は仕事などを重視しているようですが、女性のほうは子供や旦那さんとの関係性を重視しているようにも読み取れます。とはいいつつ、女性は旦那のことより自分の健康面に配慮しているというデータがなんとなく納得もできました。健康面というのは、若くありたいという希望もあるかと思うのですが、このデータの差を理解することこそが、コミュニケーションのポイントかもしれません。

そして、いま自分のことを考えてみると、子供を仲介としてコミュニケーションが成り立っているからいいけれど、子供がいなかったらどうだろう、などということを考えてしまいます。子はかすがい、とはよく言ったものです。ちょっと前に、とあるアパレル・ブランドの社員向けバーゲンのようなものが原宿で開かれていて(お得意さんは社員ではなくても参加できる)、ぼくは仕事で午前半休を取り、奥さんと行ってきたことがあったのですが、なんだか子供がいないと照れくさい。結局、話をすることも、いま次男は何をしてるかなあ、というように、子供のことになってしまう。いくつになっても夫婦でデートできるのはよいものだと思うのですが、なかなかそうもいかないものです。結局、お昼ご飯を食べて、そそくさと帰りました。でも、なんとなく昔がよみがえったような気がしました。

「GOLDEN.min」のなかでは作詞家の吉元由美さんが「妻のきもち」というエッセイを書かれていて、相手をリスペクトする気持ちが大事、というような一文に納得するものがありました。日々、生活に紛れてしまうと、たとえばご飯を作ってくれることが当たり前だと思ってしまいます。子供の面倒をみるのが当たり前だと思ってしまう。けれども、これは結構大変なことで、家事いっさいをあまりやらないぼくとしては、もっと奥さんをリスペクトすべきかもしれない。けれどもなんだか、よいところよりは悪いところのほうに目がいってしまうんですよね。気をつけなければ。

父が脳梗塞で亡くなったとき、そんなものは残していないと思っていたのだけど、遺言が出てきて、そのなかで母親(まあ妻ですが)に、ありがとう、と一言が書いてありました。そして、子供たち(ぼくらです)は、おかあさんを助けるように、と書いてあった。ぼくの母は、「そんなことは一生のうちで一度も言われたことがなかった」とその部分を読んで泣いたのですが、厳格でかたぶつだった父を思うと確かにその通りで、そんなことをぜったいに言うタイプではなかった。けれども、その言葉を人生の最後に「文字あるいは言葉」としてきちんと残した父を、ぼくはリスペクトしたい、尊敬したいと思っています。すばらしい父でした。

死、というものから、ぼくらは目をそらしがちです。特に若い時期には、直面できないものがある。できれば、死のことは考えずに生きていきたい。けれどもぼくは、もっと死について考えてもいいんじゃないかと思う。もちろん死にたいとは思わないけれども、死を考えることで生の尊さがわかることもある。

小森陽一先生の「村上春樹論」の最後には、次のような文章があります。

逆に、言葉を操る生きものとして、他者への共感を創り出していきたいと思うなら、私たちは怯えることなく、精神的外傷と繰り返し向い合いながら、死者たちとの対話を持続していくべきでしょう。死者と十分に対話してきた者であれば、生きている他者に向かい合って交わすことのできる、豊かな言葉を持ちうるはずです。豊かな言葉は、死者と対話しつづけてきた記憶の総体から生まれてくるのです。

ここにいるものたちはもちろん、ここにいないひとたちのさまざまな思いが、いまある世界を創っているのかもしれません。脳梗塞で倒れて何度も手術を繰り返し、最終的にどうしようもなくなったときの父の手は薬でぱんぱんに腫れていたのですが、その手を握って、ぼくはぼろぼろになって彼に話しかけたことを思い出します。父の意識は随分前からなくて脳死の状態にあったと思うのですが、その言葉は、きっと届いていたんじゃないでしょうか。そうぼくは信じていたい。母は既に父の年齢を超え、ぼくも一歩ずつ父の年齢に近づいていきます。そして子供たちはどんどん大きくなってくる。やがてちいさな息子たちも、おじさんになる。

センセイを退職した後、夕方になるとキッチンに座って、焼酎を静かに飲みながらテレビで映画を観ていた父を思い出します。そんな平凡だけれどしあわせな、金色の時間をぼくも過ごすことができるようになれたら、と思っています。

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■「GOLDEN.min」の公式サイト。
http://golden.metromin.net/about/index.html

投稿者 birdwing : 2006年5月26日 00:00

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