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2006年5月24日

雨降りのひらめき。

まるくなりたい、まるくなりたい、と思っていた時期があるのですが、年を取ると自然にまるくなってくるものです。もちろん精神的にですが、精神的ではないところも(つまり身体的に)まるくなることもあるので、それは困る。しかしながら身体的にまるくなると、精神的にもまるくなるような気もします。心も身体の一部ということでしょうか。

年を取ってもまるくならないひともいます。布団をばんばん叩きながら暴言を吐くようなひとにはならずにいたいと思うのですが、ちょっと間違うと世のなか全般に不満を吐き出す360度クレイマーになりかねない危うさもあり、うまくバランスを取って、身体的にはまるくならずに精神的にまあるくなりたい。穏やかなひとでありたいものです。

しかしながら、体力が衰えてくると穏やかにならざるを得ないものがあり、つまり放っておけば自然にまるくなっていくものなので、あえてまるくなろうとする必要はないともいえます。むしろ逆に、年を取っても思考が尖っていること、偏見ではない深い考察、あるいは未来に対する洞察があると、それはそれでかっこいい。

かっこいいとはどういうことか、ということは、いくつになっても考えつづけていたいものです。ありきたりですが、かっこよくあるためには、自分のスタイル(あるいはモノサシ)を持っていること、熱中できる何かがあること、異性はもちろん他人のことについて考える余裕があると、そんな男はかっこいいかもしれない。まあ、かっこいいひとはこういうことを自分で言及しないもので、かっこよくないから理想についてくどくどと言えるんだけど、考えていないと精神や身体のボルトが緩んでいくばかりなので、考えてみました。実は結構、ブログに書くと背筋が伸びることも多い。前向きなことはもちろん、前向きじゃないことを書いてしまったあとにも、なんとなく背筋が伸びる。書くことは精神の安定につながるものかもしれません。セラピストさんが、そんなことを言いそうですが。

話は変わるのですが、小森陽一先生の「村上春樹論」において、いくつかの言葉が呑み込めないサカナの骨のように思考にひっかかっています。そのひとつは「海辺のカフカ」において佐伯さんが語る「私は必要以上に長く生き続けることによって、多くの人々やものごとを損なってきました」という一節であり、もうひとつは、「すべての躾は、「誰かを深く愛する」がゆえに、「その誰かを深く傷つける」こと」ということです。そこにさらにメタファー思考という言葉が3つ巴状態になって、すっきりしない感じで考えつづけています。

うまく書けないかもしれないのですが、考えたことをそのまま書いてみます。

人間の意識というのは、まず「補正」する機能があるのではないでしょうか。たとえば茂木健一郎さんの本に書いてあったのですが、パックマンが3つ向かい合っているような図形をみると、その真ん中に三角形がみえてくる。誰かが「空が青い」と言ったときに、「うん、きれいだね。そして雲がはやく流れている」と言いたくなる。コップをみるときに、そのなかにある液体を想像する。

異なったAとBをつなぐ行為というものが、乱暴に言ってしまうとメタファーだと思うのですが、「人生は青空だ」というときに、その意味を無理やりつないでいる。つながるはずのないふたつの言葉を、無理やり補正して「接合」してしまう力を人間は持っています。きっと、いまのコンピュータにはその力はない。

そして、ぼくは世のなかのものは「すべて相反する2つ以上の意味もしくは内容」をまとめて持っているものじゃないかと考えました。

光があるところには闇があります。健康のあるところには病がある。若さのあるところには老いがあり、男のいるところに女がいる。愛情のあるところに憎しみもあり、生のあるところに死もある。生と死はその両端ではなく、死は生のなかにある、というようなことを村上春樹さんの小説のなかにも書いてあったような気がします。語るひとのいるところに聞くひとがいて、痛みを感じている誰かに寄り添う痛みを癒すひとがいる。なぜ?という問いをする子供の前には、その理由は・・・と答える大人がいて、地球のどこかが昼間のときに大地の裏側では夜が訪れている。

一方で相反するふたつを結びつけてしまうのが、メタファーとしての人間の意識ではないか、と。だから人間の意識は、一元論を超えて立体的に広がることができる。しかし、どちらか片方になってしまったとき、世界は完全な「円(=縁)」ではない「いびつな」ものになります。つながりの円環がとぎれてしまう。

愛情のない憎しみ、憎しみ(厳しさ)のない愛情、他者としての誰かを必要としないひと、死という前提のない生、生であることを全うしない死、語るだけで聞こうとしないひと、傷付けるだけでいたわることのない気持ち、老いを無視した若さ、若さを認めようとしない老い、などなど。

もし人生において何かを損なうとしたら、ふつうは寄り添ってまあるく存在する世界の片方しか生きていない場合かもしれません。「海辺のカフカ」で佐伯さんは15歳の少女という生霊となって、カフカ君と交わります。佐伯さんにはカフカ君はみえていないし、カフカ君の声は佐伯さんに届かない。これでは損なわれて当然でしょう。

うーむ。まとまりません。まとまらないまま、この辺にしておきます。雨振りのなか、傘をさしながら歩いていたら何かがひらめいた気がした。しかしながら、ひらめいたのはカミナリでした。閃光がひらめくと、耳を澄まします。そして、目を凝らす。アイディアがひらめいたときにも同様に、耳を澄まして目を凝らすのですが、目の前にはいつもと同じPCの画面が広がっているばかりです。

投稿者 birdwing : 2006年5月24日 00:00

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