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2006年5月28日

左右のリレー、そしてシャッフル。

昨夜、机の横に積み上げておいた本が雪崩れを起こしました。生き埋めになった本を救出すべく、救助作業を行ったのですが、その過程で、こんな本も読んでいたのか、という自分でも忘れていた記憶を取り戻すことができました。逆に、この本も読んでいなかったのか、というかなしい状況を発見することにもなったのですが、本や書類の効果的な整理方法がないものか、と頭を悩ませています。

反対する動きも大きいようですが、ぼくはグーグルが世界中の書物(というより情報)を電子化しようとしていることに大きな期待もしていて、さらに小型で薄い電子ブックリーダーのようなハードウェアができれば、この二十世紀的な本の雪崩れに悩まされる状態も緩和されるのではないでしょうか。紙を節約するという意味で、資源にもやさしいかもしれません。とはいえ、ぼくは紙の本たちの存在感や質感(匂い、手触りなど)というのも大切に思っていて、電子化されるからといって本の購買意欲を下げるものではないような気もしています。音楽のダウンロード販売が進展しても、やっぱり大好きなアーティストはパッケージ(CD)で持っていたいように。

ダニエル・ピンクさん(大前研一さん訳)の「ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考える人の時代」という本を読んでいるのですが、考えさせられるところが多くあります。世界が大きな変化を迎えている、という実感をひしひしと感じます。

BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)によって、ナレッジ・ワーカーの世界ですら、力仕事の単価はどんどん下がっている。ごりごりプログラムを書くような仕事は、インドの技術者がアルバイト価格でやってしまうわけです。では、どうするか、ということで創造的な仕事に向うべきだと書かれています。それは、いままでの左脳重視的な論理で組み立てる仕事ではなく、右脳的な創造性が求められる仕事である、と。この本の最初は脳についての考察からはじまり、脳科学が一部のサブカルチャー的な話題や、テレビなどのトレンドで終わるブームではないことを感じました。

ここで右脳と左脳の機能が整理されていて、茂木健一郎さんの本などでも一度読んでいた気がするのですが、あらためて興味深い考察がありました。右脳=左半身を制御/全体的、瞬時な処理/文脈の処理/大きな全体像の把握、であり、左脳=右半身を制御/逐次的な処理/文の処理/詳細の分析、と整理されていることです。

左脳重視の社会があったのは、人類の90%が右利きである(左脳によって制御されている)ということにあったからかもしれません。ぼくはこのブログで「俯瞰(ふかん)思考」を理想として追求してきたのですが、俯瞰する力とはつまり全体を把握する右脳の思考かもしれません。養老孟司さんのいうところの一元論からの脱却など、「どちらか一方ではなくどちらも選ぶ」時代である、ということもさまざまな本で書かれていたのですが、これもまた右脳的な全体を把握する力が求められる。逐次的な処理とは、まさにコンピュータがプログラムを上から処理していくようなもので、左脳はコンピュータ的といえますが、「第1感」という本にもあった瞬時で贋作を見抜いたりする直感のような力は、右脳にあるようです。これは人間だけのものだといえる(いまのところは)。左脳的な力仕事の処理はコンピュータがこなしていくので、右脳的な能力が必要になる。

と、同時にぼくが面白いと思ったのは、右脳は比喩(レトリック)を読み取る力がある、ということです。逐次的な処理(コンピュータ的)では、比喩は理解されない。右脳的な比喩、あるいはメタファーを理解する力が全体を把握する思考力として重要になるわけです。

ぼくは脳科学者でもなく文学者でもない一般人ですが、脳科学、言語学、心理学、文学、映画、音楽(ついでにビジネスやテクノロジー)のような分野を横断して個人的な考察をしていきたいと考えていて、この右脳=比喩という指摘からイメージが広がったのは、右脳=範列的(パラディグム)/空間的な統合/メタファー(類似性)、左脳=統辞的(シンタグム)/時間的な統合/メトニミー(隣接性)、ということでした。もちろんイコールではないし、ものすごく乱暴なくくりだとは思います。

そして、これも「どちらか一方ではない」という考え方から、右脳+左脳という双方の力を発揮させることが必要だと感じました。この「ハイ・コンセプト」にもそのことは言及されていて、右脳教育のように、右脳を宗教のようにまつりあげることはおかしいと書かれている。けれども、バランスが大事であると書かれていながらも、やっぱり最後は次世代は右脳の時代だ、というように右脳重視に偏っているところがあって、そのことがやや残念です。

右脳と左脳をつなぐ働きは、実際には脳梁という部分で行われているようですが、それが重要であるとぼくは思いました。たとえば、ぼくは趣味のDTMで曲をつくりながらブログでその曲の解説をしています。ブログだけ読んでいると、こんな理屈っぽいことを考えながら曲を作るのはおかしいんじゃないか、と思われるかもしれないのですが、実際には曲を作っているときには理屈は考えていません。音の響きや全体を感じ取っている。音楽というのはそういうものです。音楽を感じるのも右脳が中心だそうですが、音楽を創る(右脳)→創った音楽について書く(左脳)、そして書いたものを潜在意識にしまいつつ音楽を創る(右脳)→また書く(左脳)という、右脳と左脳の「リレー」をやっているのだと思います。ぼくにとっては創作も大事だけれど、このリレーが重要かもしれない。このことが実は立体的な思考のエクササイズになっているのかもしれません。

感情的(右脳的)だけでは表現として破綻するので、そこには論理(左脳的)の制御が必要になる。でも、理屈っぽくては(左脳的)心に訴えることができないから、共感を生んだり訴えかける適度の感情(右脳的)が必要になる。木(左脳的)をみて森(右脳的)をみず、とはいうけれど、詳細にこだわる(左脳)必要もある。

これからの時代に必要となるのは、異なる何かをシャフッルする力である、とぼくは考えました。シャッフルしつつ統合する、つなげる力です。「感動を生む構造(感動=右脳的、構造=左脳的)」とか、「美しい分析(美しい=右脳的、分析=左脳的)」とか。並び替えると新しい何かが感じられる、ということを先日のブログにも書いたのですが、右脳カテゴリーのなかでもさまざまなシャッフルができそうです。

先日、丸善に立ち寄ったときに思想書のコーナーにも立ち寄り、ポール・リクールとかクリステヴァなども読んでみたいと思ったのですが、本の値段が高いんですよね。とはいえ卒論を書かなければならないわけでもなく、これで生計を立てる必要もないので、じっくりと取り組むことにしましょう。老後まではずいぶん時間があります。

投稿者 birdwing : 2006年5月28日 00:00

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