2006年5月12日
ポインタとプリセット。
心もやっかいなものですが、身体もかなりやっかいなものです。今朝、起きるなり喉が痛く、左耳もなんだか痛く、さらに右足の親指もなぜか痛く、身体中が痛いひとになっていました。喉と左耳は風邪のせいかもしれないのですが、足はなんだかわかりません。なんでしょう。最近、すっきりと何も痛みがない状態というものがなくて、どこかしらに支障がある。健康な身体とは、どういうものだったのでしょう(遠い目)というノスタルジックな感じです。すかっと健康な身体に戻りたいものです。
さて、今週は話題をいろいろと変えようとしたものの、「クオリア入門」という本がいろんなことを考えさせてくれるので、今日もこの本から考えたことを書くことにします。ものすごく抽象的な話になります。
ざっと今週の思考の道筋を振り返ってみると、まず情報と経験とは何か、ということについて考え、つづいてマッハの理論、反応選択性のドグマなどからクラスターについて考え、情報も人間も言葉もつながりたがるという結論に達して挫折しました。しかしながら、その後、茂木健一郎さんの「クオリア入門」を読み進み(もう少しで読了というところですが)、いろいろと面白い見解がありました。
ひとつには「両眼視野闘争」。これはどういうことかというと、乱暴にまとめてしまうのですが、情報としてはインプットされているのに「見えていない」状態があるということです。縦縞と横縞の刺激を左右の目に別々に見せるような実験も書かれていたのですが、たとえば視界に認識されていない領域にボールを投げてもキャッチできるような状態があるそうです。つまり心には投影されていないけれど、視覚的情報としてはインプットされている。一方で、視覚にインプットされていないのに認識してしまうこともあります。パックマンが3つ向かい合っているような図形を見ていると、その中心に三角形が見えてくる、というようなことが書かれていました。
ここで茂木健一郎さんは、コンピュータ・サイエンスから「ポインタ」という概念を持ってきます。ポインタとは「実際のデータの内容ではなく、「このアドレスにそのデータがある」という、データの所在を指定している概念(P,181)」とのこと。
ということを読んで、ぼくは妄想というか考えを広げてしまいました。
音に関しては、音素(Phoneme)があるということを以前ブログで書いたことがあります。いきなり趣味のDTMの話に展開しますが、Vocaloidという歌うソフトウェアでは、音程を入力した後で歌詞を入力すると、音素という記号に置き換えられます。「ん」と入力すると「N¥」という記号になる。発音を細かく要素に分解しているわけです。記号と音が対応している。
もし、さまざまな人間の感覚を音素のように分解することができたら、それがクオリアなのではないか、とまず考えました。「冷たい」という感覚があるとします。これをさらに細かく分解していき、もうこれ以上分解できないところまで細かくする。それが「冷たい」の感覚素のようなものです。そして、その細かい要素(クオリア)に向って、さまざまなインプット(目や耳や舌や皮膚など)からポインタがあるのではないか。
いままで、ぼくが不思議だと思っていたのは、冷たいというのは温度的な感覚なのに、なぜ「青い色」を冷たいと感じるのか、ということでした。また、ピアノのぽーんという音にリバーブをかけても冷たいと(ぼくは)感じる。あるいは、体温のある人間であっても、あのひとは「冷たい」と感じる。
図解しないと難しいと思うのですが、仮に温度表のようなマップがあって、その下部分が冷たいという感覚のクオリアになっている、とします。別に色相マップのようなものがあって、その下部分が青だと感じる、ことにしましょう。このとき、温度の位置情報を示すポインタがある、と想定します。ポインタは下向きなのですが、位置情報はそのまま、今度は色のクオリアをマッピングしたものを示すとき、まったく温度と色のマップは別のものだったとしても、下向きポインタの位置情報が同じなので、ふたつの異なるマップを「つないで」しまうのではないか。つまり、温度マップ>ポインタ下>冷たい、というものがあったとき、このポインタ情報だけそのままでマップを入れ替えて、色マップ>ポインタ下>青(→冷たい)、となる。レイヤーとして、色マップの背後に温度マップがあって、その情報が半透明のように浮き上がってくる感じです。
マップはプリセット、といえるかもしれません。このプリセットは静的な秩序にあるものではない。流動的で、経験によってその位置が絶えず変わりつづけるものではないか。これもまたDTMの話ですが、通常はシンセサイザーでピアノの音を出していたのに、間違えてドラムのプリセットに変えてしまうと、いままでドの音だったのが、バスドラムの音になったりする。それに近い感覚です。
たとえば「そのCDの4曲目をかけてよ」と頼んだとします。モーツァルトだと思ってかけてもらったら、いきなりステレオからビートルズが流れ出した。このときに、4曲目という位置情報だけで、期待していたモーツァルトの曲とビートルズの曲を経験的につなげてしまう。
あるいは、3歳の息子がギャグ(あたーっくちゃーんす!)を言うとします。それをぼくらがみて大笑いする。大笑いすると、ギャグ=笑い、というプリセット(コード)ができます。ところが笑わずに無視すると、そのプリセットは生成されない。
教育は、子供たちのどのポインタを刺激したときに何を生成するか、という反応を学ばせる過程が重要かもしれません。そして反応を予測しにくいものの方が勉強になる。みんなと遊ぶことが勉強になるのは、イレギュラーなことが起きやすいからです(突然友達が転んで泣き出した、とか)。こういうときにどう反応するかが、大きな勉強になる。親の子育てにおいても、まず子供に「反応」することが大切かもしれません。おもしろいね、と子供が自分に話しかけてきたときに、そうだね、おもしろいねと反応してあげること。そうして脳内のプリセットを「つなげて」あげること。それが大事ではないか。
コミュニケーションというと難しくなりそうですが、まずは認めること、頷くこと、聞いてあげることが基本かもしれません。ものすごく大きな発見をしたのに、いま忙しいから!と言ってしまうと、子供たちの発見はよろこびにコード化されない。
すべてゲームのせいにするわけではないのですが、他人の表情を読めない子供たちが増えるのは、複雑な情報が欠如したコンピュータ・グラフィックの主人公ばかりをみていることもあるかもしれません。ゲームが有害なのはシューティングの残虐性よりも、キャラクターの表情が希薄である、ことかもしれない。だから痛みやよろこびをもっと多彩に表現できるキャラクターが生まれたら、ゲームがひとの心を豊かにしてくれるかもしれない。それはグラフィック機能や技術の課題であって、ゲームそのものの課題ではないかもしれません。実は人間の表情というのは、ものすごく大量の情報だと思います。その大量の情報を、いまのハードウェアではまだ処理できない気がします。
横道に逸れましたが、ぼくがイメージしたのは、人間の感覚は、感覚のプリセットが何重にも重なっているイメージです。初期状態(デフォルト)のプリセットは、それぞれが遺伝子の情報のなかに持っているのだけど、経験によってプリセットの位置が少しづつ変わっていく。紫を暖かいと感じるか冷たいと感じるかは微妙です。紫が暖かかった経験のあるひとは、次第に紫=暖かいというプリセットができる。別々のカテゴリー(色や音や温度や味覚や)のクオリアのマップにおいて、ポインタで貫かれるたびに位置が変わっていき、もっとも経験が多い「つながり」がそのひとの個別の「クラスター」として、つながりを強くしていく。
いまこれは「私」だけに限ったセットリストの生成を追ったのですが、これが複数になると、つながりの太い部分が「常識」になる。けれども太い道ができたつながりの強いクラスターは、逆に刺激が少なくなる。強い刺激を求めようとすると、いままでにない道をつなげることが必要になる。
理解されない芸術があるのは、ものすごく遠いマップの「つながり」を形成しようとするからかもしれません。そして、マップが遠いことを「抽象的」というのかもしれない。けれども、そこに道がないわけではなくて、みんなが踏んでいないだけです。創造的な試みが苦しいのは、道のない(もしくは細い道のある)部分に道を作ろうとするからでしょうか。
と、ここまで考えてきて、個性と言うのはまったく新しいものではない、組み合わせである、ということにも納得できるような気がしました。つまり、どのようなプリセットを用意し、何枚のマップをそこに重ねるか、ということだからです。プリセットに用意された要素の位置が変わっているほど、マップが重層的であるほど、そのひとは個性的で深みのあるひとなのかもしれません。インターネットにおいても、トラフィックが多い部分がネット上の常識を形成するのでしょうか(若干、この表現には問題も感じますが)。どの友人とつながるか、何をおすすめするか、どんな日記を書いたか、というセットリストの組み合わせが個性を生成していくともいえます。
・・・ああ、またよくわからないことを書いてしまった。しかもこんなにたくさん。止まらなくなりそうなので、今日はこの辺にしておきます。
投稿者 birdwing : 2006年5月12日 00:00
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