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2006年4月27日

「方法叙説」松浦寿輝

▼book06-031:うつくしすぎる、方法論。

4062129736方法叙説
講談社 2006-02

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松浦寿輝さんの本をはじめて読んだのは、学生の頃、古本屋で「口唇論」を購入したときでした。その後、思潮社の現代詩文庫を購入したような気がします。詩人でもあり、小説も書いているマルチな松浦さんが「私のやりかた」という、思索や詩作(どちらも、しさく、だ)の方法論を展開してるのがこの本です。ある意味、思考の遍歴と、映画でいうところのメイキングという印象もある。

それにしても思想家であり詩人でもある松浦寿輝さんの言葉はうつくしすぎると思いました。冒頭の奇術師の指先をめぐる考察からはじまり、仲の悪かった両親に対する記憶、水のイメージと、自分の人生というテクストまで読み解こうとする。そして、小説の練習と入試問題のパロディのようなものまであり、さまざまな変奏を繰り返しながら最後の上空からパリの灯を俯瞰した描写まで、思考のエクササイズが流れていきます。うつくしさに傾倒する自分に対して自嘲の念もあったり、「きれいな美意識のひとですからねえ」という自分の批判に対する根深い憤りが執拗なこだわりで引用されたり、きれいではない感情も吐露されているのですが、それもまた美のなかのスパイスとして機能している。

迷うことのめまいや閉塞感についても書かれています。子供は迷うことが特権である。そして迷いとは、全体が見えないことによって生まれるという指摘に、なんとなく惹かれるものがありました。ぼくは全体を見ることができるようになりたいと望んでやまないのですが、神の視点を獲得するのではなく、全体が見えない迷いのなかに生きることこそが、日常や生活かもしれません。そうして迷いに迷った思索は、ぐるりと迂回してまたもとの場所に戻ってきてしまうものです。松浦さんもこの本のなかで、自分の人生が何だったのか、どういうやりかただったのか、何度も行きつ戻りつして反芻されている。

薄い本なのであっという間に読んでしまったのですが、書くことに対する重要な一文を発見した気がしたのに、あらためて読み直してみるとその部分がみつからない。言葉の手品にやられた、という感じです。4月27日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(31/100冊+29/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

「ふり」と暗喩。

茂木健一郎さんの「意識とは何か」という本から、気になったキーワードをピックアップして考察してみようと思うのですが、まずは「ふり」です。ふりというのは実際にはそうではないのに、あたかもそうであるかのようにふるまう行為です。ぼくらにとっては自然な行為だと思うのですが、実は人間ならではの高度な思考回路が働いているらしい。

この本のなかでは、チューリング・テストという人工知能に関する試みが引用されていて、ぼくはこれが面白く感じました。たとえばカーテンの向こうにアンドロイドと人間がいる。そのふたりに質問を出して、同じような答えが返ってくるかどうか、ということを問題にするようです。アンドロイドは人間のふりをします。あたかも人間を理解しているような言葉を返す。けれども、繰り返すうちにどこかで機械の答えになってしまう。どこまで人間に逼迫するか、機械は人間になれるか、という試みです。「ブレードランナー」という映画を思い出しました。あの映画のなかで、心理テストのような問いを繰り返すことで人間ではないことを見抜こうとする。みかけは人間そっくりですが、対話しているうちに化けの皮が剥がれていってしまう。

このテストを考案したチューリングというひとは、どうやら同性愛者であることを悩んでいたらしい。男が女の「ふり」をすることが重い病気だと思われていた時代だったからこそ、彼はその課題に自分の人生をかけて取り組まなければならなかった。切実な問題だったようです。

インターネットに氾濫するテキスト情報のなかで生きるぼくらも、いろんな「ふり」をしています。悪意に使う場合には、なりすましのような犯罪にもなる。一方、テキストの世界では別人のように饒舌にもなれる。現実の世界では寡黙で地味だったとしても、テキストのコミュニケーションでは水を得たさかなのように、いきいきとコミュニケーションしたり表現できるようなひともいます。

「ふり」は騙すことでもあるけれども、ポジティブに考えると演出ともいえるでしょう。俳優ではなくても、自分の人生において自分を演じることは大切なことではないかと思います。職業の役割を演じきること。家庭における夫や妻や子供の役割を演じきること。演じることは、そもそも観客をはじめとした他者の視線を意識することでもあります。他者がいなければ演じる必要もありません。

コミュニケーションにとって「ふり」はとても大事なもので、それぞれの役割になれるかどうかが重要です。息子が「かいじゅうだ」といっているときに「そりゃ、おもちゃだ」と言ってしまったら、そこで空想の物語は破綻します。空想だけではなくて現実社会のあらゆる側面で、ぼくらは「ふり」を切り替えながら生きているものです。ピタゴラスイッチに、お父さんが会社員であり電車に乗るとお客さんであり、家に帰るとお父さん、という歌がありました(前にも引用しましたが)。誰かとの関係によって、自分というものは次々と変化するものです。変化しつつも変わらない自己がある。

文章における「ふり」という行為は、暗喩(メタファ)に似ているかもしれません。以前に書いた例文を再利用すると「酒は人生の薬だ」と表現したとき、デジタルに考えると「酒=薬」ではない。アンドロイドなら、ふたつのカテゴリーの関連性はない、と判断するかもしれない。けれども、ぼくら人間の思考は、この異なる記号をゆるやかにつなげてしまう。言葉や情報はつながりたがるものです。ぼくらの脳のシナプスも電気信号によって、つながりたがる。まったく異なったものがつながったときに、新しい何かが生まれる。つながることは、何かあたらしいものを生み出すための行為かもしれません。

人生を豊かにするためには、この「ふり」あるいは「暗喩」的な思考が大事かもしれないと思いました。よき父親である「ふり」をする。頼もしい旦那である「ふり」をする。なんとなく悪いイメージがあるのですが、それは騙しているというイメージがあるからでしょう。けれども誰かを喜ばせるために、あるいはしあわせにするために演じているのだ、と考えると、その「ふり」も決して全面的に嫌悪するものではなくなってくるものです。ほんとうの自分は違うけれども、ときには悪者を演じなければならないときもある。ほんとうの自分は悪い。しかしながら、正しさを演じなければならないときもあるかもしれません。このとき多様性が生まれるものであり、深みのある人生にもなります。ただ、どんなに「ふり」をしていても、その「ふり」で覆われたイメージを壊すような感情が生まれることもある。「ふり」が、めりめりと破れる瞬間が興味深い。

さて。先週末に趣味のDTMで作った曲では(まだプレイヤーズ王国で曲が公開されません。ほんとうにどうしちゃったんでしょうか。待ちきれないのでmuzieで公開しようかと真剣に考え中)、歌詞に「わたしはあなたになれる/あなたのよろこびがわかる」というフレーズを入れました。これはVocaloid MEIKOというソフトウェアと現実に存在するシンガー拝郷メイコさんとの関係を歌わせようとしたものです。厳密にいうとMEIKOはメイコになれないのだけど、なれないけれどもなろうとしているとして、あえて「なれる」と歌わせたかった。

アンドロイドが人間になりたがる物語には、どこかせつない甘酸っぱさを感じてしまいます。なぜかというと、背伸びして大人たちになりたがろうとする未熟な息子たちの姿がオーヴァーラップするからかもしれません。ピノキオが人間になりたがるようなものです。

未熟なものたちを大切にしたいと思います。技術であっても、もちろんひとであっても。

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2006年4月26日

「自分の感受性くらい」茨木のり子

▼book06-030:詩集を読む贅沢な時間。

4760218157自分の感受性くらい
花神社 2005-05

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詩集を買うのは小説を買うのとはちょっと違います。だいぶ違うかもしれない。脳科学に関する新書を買うのとも違うし、分厚いビジネス書を買うのとも違う。そもそも詩集など一生買わないひとだっているかもしれません。というのも、詩集はそもそも高い。高いうえに文字が少ない。文字が少ないのに難解です。それでも(というか、だからこそ)詩集を買うこと自体が贅沢です。その言葉ひとつひとつを味わうのは、とてつもなく贅沢な時間ではないでしょうか。

七井李紗さんのブログ「ほっと!ぐらふ」はお気に入りのブログのひとつですが、七井さんの幼馴染みにmaiさんという方がいて、maiさんのブログもとてもいい。広報のお仕事をされている七井さんのやわらかな印象とは対象的に、maiさんはちょっと文語調の結晶化されたような硝子のような文章を書かれています(というのはぼくの印象です。最近、かなりやわらかくなったような気もしますが、どうしてでしょう?)。実はそのブログで、 畠山美由紀さんのことを知り即行でCDを購入しました。そして畠山さんの曲の雰囲気に影響を受けて「サクラサク。」という曲のイメージができた(ぜんぜん似ていませんが)という、そんな経緯もあります。わらしべ長者的かもしれません。さらに、やはりmaiさんのブログで茨木のり子さんの詩集が引用されていて、これもいいなと思っていて、なんとなく買おうかどうしようか迷っていたのですが、本日やっと購入しました。延々と種明かしをしてどうする、という気もするのですが、ぼくはお会いしたことがないネットのひとたちに影響を受けやすい。けれども、その影響が、ぼくの創作(を含めて、ぼくの瑣末な日常)を支えてくれているような気がします。ということを言っておきたかったわけです。あらためてmaiさん、そしてみなさま、ありがとうございます。

さて、この詩集のなかでいちばんインパクトがあるのは、タイトルにもなっている「自分の感受性くらい」です。「ぱさぱさに乾いていく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて」ではじまり、すべてが心に刺さる。「初心消えかかるのを/暮らしのせいにはするな/そもそもが ひよわな志にすぎなかった」もがつんとくる。

それにしても、詩人が使うと、どうして言葉は豊かになるのでしょうか。まず、白い余白のなかで視覚的に活字が浮き立ってみえる。次に黙読すると、そのなめらかさに驚きます。音読するとさらに響きが広がる。「即興のハープのひとふし」「くだまく呂律 くしけずる手」「言の葉さやさや」(「存在の哀れ」)、「ひんぴんとみる夢(「殴る」)」などなど。抜粋しようとしていたら、どの言葉もすばらしく思えてきたので断念しました。

詩として紡いだ言葉に、音のクオリアがあるような気がします。書店に行って、ししゅうはどこですか?と店員に聞いたら刺繍の本の場所に連れて行かれたという「詩集と刺繍」のように、言葉に対する感度が研ぎ澄まされているように思います。という視点からぼくが好きな詩は、「波の音」ですね。酒をつぐ音が「カリタ カリタ」と聴こえる国、波の音が「チャルサー チャルサー」と聴こえる国があるらしい。

あっという間に読めてしまうのですが、何度も読み直したい詩集です。ブログにコメントいただいたglasshouseさんおすすめのセルジュ・ゲンズブールを聴きつつ読んでいるのですが、ちょっとはまりますね。これは。4月26日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(30/100冊+29/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

デザインも企画書も。

以前にも書いたのですがぼくはフリーペーパー愛好家で、無料配布されている情報誌の収集癖があるのですが、地下鉄の駅で配布している今回のmetoro min.にはなんとなく注目しました。表紙がまっくろです。おまけに薄い。どうしちゃったんだろうと思ったのですが、アサヒの無糖ブラック・コーヒーとのタイアップらしい。よくみると「増刊号」という文字もあります。なかをめくると、「100年BLACK」というキャッチコピーがあって、「100年、愛しつづけた。」「100年、夢をみた。」というサブキャッチもある。なかなか、かっこいい。しかしながら、この黒いのが果たしでどうなんだろう、と思い、会社でロゴのデザインやブランディングに強い優秀なデザイナーさんに訊いてみると、「いいじゃないですか。それにこれ黒だけど、これ3色つかってますよ」とのこと。なるほど、そうですか。

100年というキーワードで、いまから100年前のこと、100年後のことなどが雑誌全体を貫かれた記事になっています。そもそも日本とブラジルには100年の友好関係があったらしい。知らなかった。R25でもタイアップの編集が多いのですが、雑誌全体をひとつのテーマで構成してしまうような大胆なことができるのもフリーペーパーだからこそかもしれません。フリーペーパージャック、という感じでしょうか。いっそのこと交通広告も使って、赤い丸ノ内線を真っ黒にしちゃったら面白いのに。既にやろうとしているのかもしれませんが。

しかしながら、ぼくは最近、フリーペーパーだけでなく雑誌も頑張っているなあ、という気がしています。雑誌や書籍は市場的には厳しい状況に置かれていると思うのですが、フリーペーパーだけでなくよい雑誌もあると思うし、特集記事もなかなか興味深いものがあります。今朝、電車を待つ間に「週間東洋経済」を購入しました。というのも、「企画書超入門」という特集に惹かれたからですが、どこか東洋経済っぽくない感じもしつつ、読んでみるとなかなか楽しかった。

まだ若い頃には、ノウハウ的な本ばかりを読んでいたのですが、最近はノウハウには物足りなさを感じます。方法論ではなく考え方の方が気になってしまう。マニュアル的なものよりも、テツガク的なものを読みたい。けれども、たまに基本的なノウハウを読むのもいいものです。もちろん確認しながら読みとばす感じですが、こんなのわかっているよ、ふん、という感じで読むのではなく、もういちど初心に戻って読む。すると、これが結構、新人に戻ったようなフレッシュな気持ちになれる。謙虚さと情熱を取り戻せるような気がします。

いろんなプロの方が企画書作成のコツを書かれているのですが、全体を通して言えるのは「読み手のことを考えなさい」ということのように思えました。マーケティングも顧客志向になっていて、インターネットもCGMなどということが言われています。クリエイターやプランナーも自分の感性はもちろん、心理学やいろんな分野の学問を総動員して他者を理解する必要があるようです。

山田ズーニーさんもご自身の経験から、「相手の心に届く文章を書こう」という記事を書かれているのですが(はじめて写真を拝見してしまった。なかなか素敵だ)、ずばりと斬られたすがしさがあったのが、ピーチ・ジョン代表の野口美佳さんの指摘でした。ページ数が多いと紙がもったいないなと感じること、見た目だとか無駄な分量ではないこと、使い回されたニオイがいやだということです。男性的なロジック中心の企画書術がつづくなかで、これは新鮮だった。もちろん論理も大事なのだけど、これを言われちゃうと、全部がひっくり返される気がしますね。短い記事ですが、ほかにも、なるほどと思う視点がありました。

結局のところ、デザインも企画書も届けるひとのことを考えて作るのが大事ではないか、と思います。当たり前のことであり、基本の「キ」なんですが、これもまたどういうわけかすぐに忘れてしまうことなんです。

ところで、日曜日にプレイヤーズ王国に投稿&コンテスト応募した作品が、まだ公開されません。コンテストにエントリーされた作品を調べてみると、とっくに公開されている作品もあります。不安です。なんかまずかったんだろうか?明日公開されなかったら、問い合わせてみようかと思いつつ、それにしても待つのは苦手です。慣れたmuzieであれば問題ないんですけどね。

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2006年4月25日

「夜の公園」川上弘美

▼book06-029:どうしようもない閉塞感とざわざわ感。

4120037207夜の公園
中央公論新社 2006-04-22

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まいった。川上弘美さんのある種の本を読むと、ぼくは動揺します。心の深い場所に届く言葉があって、それが静かな水面にざわざわと波紋を起こすような感じがする。ぎゅうっと心が締め付けられるというか、誰かに置いてきぼりにされた感じというか、いてもたってもいられない気持ちになる。実は「古道具 中野商店」という小説は途中で挫折しているのですが、この小説は昨日、池袋のリブロで購入して今日一気に読んでしまいました。

登場するのは主として4人で、リリと幸夫は夫婦です。けれどもある夜、公園を散歩していたリリはよく出会う暁(あきら)という年下の青年と話をしているうちに彼の部屋についていってしまい、そのまま抱かれてしまう。そのときに、わたしはほんとうにしあわせなのだろうか、ということを考える。一方で、リリの幼馴染の友人であり英語の教師である春名という多情な女性がいるのですが、彼女は複数の男性と関係をもちつつ、友人の旦那である幸夫を紹介されたときにすぐに惹かれてしまい、リリには黙っているけれども何度も彼と身体を重ねている。この4人の関係が絡まりつつ進展していくわけです。

どこにでもあるような話かもしれません。そうはいっても倫理をこえたとんでもない話でもあるのかもしれないのですが、川上弘美さんらしい抑制のきいたトーンで貫かれていて、とぼけた会話もありつつ、静かに淡々と語られていきます。この静けさがものすごく問題です。たとえばスカートのファスナーの音などが、その場面のなかでは妙に生々しく官能的に聞こえてきたりする。さらに、それぞれの気持ちの揺らぎが心の根っこのようなところをぐいと掴んでくる。ここまで揺さぶられるのは、ぼくだけかもしれないのですが、だからまいった。

そんな恋愛はもう長いことしていないし、いまさらいいよという気がします。夫婦には不満も満足もあるけれども、平和に淡々と暮らしていきたいものです。けれども、そんなきっちりと封印している心の蓋をこじ開けて、物語の言葉がなまなましく入ってくる。静かだけれども暴力的な言葉だから、動揺する。友人と釣りをした帰りに飲んだ幸夫が、気付いたら泣いていた、というシーンは思わずぼくも涙が出そうになりました。あといくつかの部分で、かなり精神的な揺さぶりをかけられました。

緻密に組み立てられた小説だと思います。たぶん川上弘美さんは、数式を解くようにして、この小説を組み立てているのではないでしょうか。けれども数式には分解できない何かをそこに加えていることは間違いありません。それは意識的なものではなく、感覚というか本能によるものかもしれません。

現実の川上弘美さんはともかく、作家としての川上弘美さんは限りなくオンナだと思います。さらに付け加えるとしたら「魔性の」という言葉がつくかもしれない。川上弘美さんのようなオンナに出会うのは、小説のなかだけにしておきたいものです。たぶん現実にそんな女性を好きになったとしたら、ぼろぼろになるんじゃないかと思う。静かな破滅を感じさせるような、得体の知れない閉塞感や暗さ、めまいのするような感情で揺さぶられるような、めちゃめちゃに堕ちていきたくなる官能的な何かを感じさせる、珠玉の恋愛小説です。4月25日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(29/100冊+29/100本)

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空間的な把握について。

アエラで記事にもなっていたようですが、東京大学で講義をPodcastingで配信するようになったとのこと。どんなものだろうとちょっと視聴してみました。とはいえ、iPodに入れるのでなくて、iTunesを使ってパソコンで観るような感じです。学術俯瞰講義というのがあって、この俯瞰という言葉にどこか惹かれるものがありました。

小柴昌俊教授の「宇宙と素粒子−物質はどのように創られたのか−」というのをぼんやりと視聴したのですが、なかなかよいです。スクリーンに映し出された資料はよく見えないのですが、壇上でお話する小柴教授のやわらかい言葉に癒される感じがします。内容はというと、頭の悪いぼくにはすーっと通り過ぎてしまったのですが。

「知の開放」という試みとして公開されているようですが、社会人になったぼくらにはこういう体験はありがたいものです。ただ、学生がこれをiPodで視聴して単位にかえられるのは、どうかな、と思いました。どんなに情報化が進んだとしても、やはり大学にいって受講すべきという気がします。サテライトな授業もあるのかもしれませんが、やはりその場の空気を感じで、冷たい机の感じとか、居眠りしている友達の姿とか、ノートに鉛筆を走らせる音だとか、そうしたものが大切なのではないでしょうか。不真面目な学生だったので、しっかり講義に出席しなかったのですが、きちんと出席するというのは大事な気もします。ぼくが言うと説得力ないけれども、面倒だけど行かなきゃという体験はしておくべきです。

ちなみに、東京大学のUTOpenCourseWareというサイトをみていて面白かったのが、MIMA Searchでした。これはどうやらカリキュラムの全体像を視覚的に見渡せるようです。検索結果を「点」と「線」でネットワーク表現するそうですが、マイニングツールっぽくて、なんとなく注目していしまいました。

このように関係を視覚化するツールが今後出てくるといいと思っています。その分野の専門家ではないので、感覚的なことしかいえないのですが、TouchGraphというサイトでは、URLを入れるとGoogleが収集したWebページを視覚化してみせてくれて楽しい。

いま検索エンジンによる結果はテキストで表示されるのですが、いずれは2次元や3次元的なグラフで表示されて、空間のなかをかきわけながら検索するスタイルになるのかもしれません。それはちょうどMS-DOSからMacやWindowsなどのグラフィカルなインターフェースに進化したようなものでしょうか。ぼくらの子供たちが大人になるころには、このWindows的なパソコンの画面やテキストによる検索も古くさいものになっているのかもしれません。

しかし空間的なインターフェースになると、あれはどこ置いたっけかな?みたいなことにもなりそうです。それは、部屋のなかの本やCDでさえ探しきれないような、ぼくみたいな人間だけなのかもしれませんが。

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2006年4月24日

「意識とはなにか―「私」を生成する脳」茂木健一郎

▼book06-028:実は、ほっとしたりして。

4480061347意識とはなにか―「私」を生成する脳 (ちくま新書)
筑摩書房 2003-10

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このブログを再スタートさせたときに、幼少のとき、ぼくは自分の心がどこにあるのか、というようなことを考えたけれども、うまく言えずにもどかしい思いをした、という経験を書きました。これもまたうまく書けないのですが、そのとき背筋を走った感覚は、ひょっとしたらものすごく危険かもしれないという直感もあったわけです。もしかするとこんな考えはやばいかもしれない、このことを考えておくのはやめておこう、と少年時代のぼくの心に自動制御がかかった。そんな経験は自分だけだと思っていたのですが、茂木健一郎さんのこの本を読んで、同じように考えたひとがいるんだということを知り、実は、ほっとしました。

「ただいま」とは何か、と考える子供は変です。しかし、茂木さんはそういう少年だったようです。さらに30歳になってからも電車のなかで「ガタンゴトン」は音を分析しても、いままさに聴こえている電車の音とは違う、なんてことを考えられている。大きな声では言えなかったのですが、ぼくもそういうタイプの人間です。ずっと隠れクオリア信奉者だったのですが、そんなに変でもなかったんだ、やれやれ、と安心しました。

ぼくには、そう!これだ!という感じがしたのですが、クオリアとは<あるもの>が<あるもの>であるための質感です。<私>が<私>であるということ。その代替不可能な感覚こそがクオリアではないか。そしてそれが生み出されるのは、チューリングによる人工頭脳のような科学を超えた、途方もないシナプスの「つながり」あるいは文脈があってこそ、可能になる。

この本のなかにもいくつか非常に興味深いキーワードがあり、いずれまた考察しようと思います。いま思いつくものとしては「ふり」をすることが他人とのコミュニケーションでは大切な機能であること、クオリアは「生成」する、という言葉です。

趣味のDTMで「Qualia(クオリア)」という曲を作ったばかりですが(まだ公開されていません。プレイヤーズ王国で公開予定)、もっと考えてから歌詞を書けばよかったなと若干後悔もしています。現在できることの最善をつくしたと思っているのですが、ぼくもまたさまざまな文脈のなかで「生成」する<私>なので。昨日の<私>は今日の<私>ではない。そして、永遠に変わらないのは、書かれた文章(または情報)や作品として生み出された音楽かもしれません。4月24日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(28/100冊+29/100本)

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心のフィルタリング。

ひとがきれいにみえるときがあります。言い換えると、きれいなひとが多いと感じるときがある。ぼくは男性なので、ここでいう「ひと」の80%は女性かもしれません。しかしながら異性に限定しなくても人類はみな美しいと思うときがある。と断言すると仰々しいので、どうかとも思うのですが。

たいてい大きなイベントが近づくと世のなか全体が華やいでみえるものです。たとえばクリスマス近辺だとかバレンタイン近辺には、みなさん気合いの入れ具合が違う。季節の変り目も顕著です。春になると装いも変わるので、ふわふわひらひら華やかになります。フレッシュな新人や新入学の学生たちが街に増えるので、それだけでも気分が変わる。

世界がきれいにみえるのは、実際にファッションに変化があったことも確かではあるのですが、みているぼくらの意識が変わったせいかもしれません。どんなに世のなかがキラキラしていても、みているひとの意識がどよーんと落ち込んでいたら、その美しさは受け止められないのではないでしょうか。つまり心にフィルターをかけたり外したり、それだけでも世界のとらえ方は変わる。ついでに、レンズそのものが曇ってしまうこともある。これは注意すべきです。きちんとみえているかどうか、ということを常に意識的にチェックする必要があります。ぼくはレンズの感度が鈍くて失敗することが多いのですが、きちんとみるのは大事ですね。子供たちは、親にみられていることで自分を主張します。何もしなくてもただみていること、それが親のいちばんの仕事かもしれません。子供に限らず、みられることで女性もきれいになるものだと思うし。

今日はあいにくの雨模様で、外出したものの山手線は止まっていたり、仕事は忙しい、寝不足で眠いなど、大変な一日でした。ところが、めちゃくちゃに混雑した人ごみのなかでも苦にならないどころか、なんだか電車の隣に座っている女性がすべてきれいにみえる。週末のお休みがあけた途端に、美人率が急増したんじゃないか。東京で美人サミットでも開催されているんじゃないだろうか、という感じです。

これはもちろん春だから女性のみなさんがきれいになった、ということが第一の要因でしょう。けれども、その理由を考えつづけていたうちにふと思いついたのは、週末、ぼくはずっと音楽に没頭していたからではないか、ということでした。つまり家に引きこもって、パソコンの画面しかみていなかった。形而上的な音の世界に浸っていた。だからこそ色鮮やかなリアルな世界の質感が、いままで以上にぼくの視界を刺激したのだと思います(と書くと、ちぇそうなのかい、あたしたちがきれいになったからじゃないのかい、と女性の方に叱られそうですが)。

少し論点を変えるのですが、離れてみたときにあらためて見出す価値もあります。意識的に距離を置くことは大事かもしれません。もちろんべったりと没頭するのも大事ですが、アイディアに関しても、考えるところまで考えたら寝かしてみる。すると不思議なことに、さらに発想が広がることがあるものです。パートナーに関しても、ときどき会わない時間をつくってみることで、かえってお互いの良さを再認識することがある。オンとオフを切り替えることで、埋もれてしまった何かを再認識できる場合があります。

だからどうだ、ということはないし、絶対にそうかというと自信はないのですが、世のなかすべてが美しくみえるのは、結構いいものです。それだけでしあわせになれる。人生に行き詰まったら、引きこもることをおすすめします。おすすめされても困惑だと思うのですが、適当な引きこもりは人生を活性化するような気がします。私見ですけどね、あくまでも。

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2006年4月23日

シンデレラマン

▽cinema06-029:誇りに思われる父になりたい。

B000HCPVO6シンデレラマン [DVD]
クリフ・ホリングワース
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント 2006-10-20

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泣けました。音楽制作にへとへとになって消耗していたせいかもしれないのですが、とにかく泣けた。そもそも以前にも書いたかもしれないのですが、ぼくは静かに耐えるひとに弱いのです。寡黙だけれど強いひと、やさしいけれども厳しいひとに弱い。DVDを借りていたもののすっかりDTMに没頭していたので観ることができず、観ないで返そうかとも思ったのですが、月曜日の早朝3時まで観てよかったと思いました(その分、月曜日はまいりましたが)。

実在したボクサーの物語です。彼が生きているのは1930年代、大恐慌の時代であり、明日の生活にも困るような状況にありました。そして彼には子供が三人いる。空腹のためか息子はサラミソーセージを盗むのですが、息子を叱りとばさずにいっしょに肉屋に謝りに行き、「(どんなに貧乏だったとしても)おまえをぜったによそにはやらない」と約束する。そして約束と家族を守るために、みずからの拳で闘うわけです。闘うひとだけれども横暴ではない。チャンピオンに冒涜されても感情を荒げない。妻を愛していることを公然と言うし、ときには喧嘩もするけれども、それは家族を思ってのことだったりもします。子供たちにはほんとうに優しい。こんな父親になりたい。理想です。

名声から転落してどん底の生活を送っていたときに右の拳を骨折したのですが、そのおかげで肉体労働のときに左手を酷使しなければならず、ウィークポイントの左が強くなった、というエピソードがぼくは好きです。強さの理由が生活で培われたものだというのがいい。さらにその強さの背景には家族がいる。

全体的にフラッシュバックするシーンがよかった。ボクシングのシーンでも、映画的な演出というのがあると思います。映像のテンポもいいし、迫力がある。ロン・ハワード監督といえば、ダヴィンチ・コードもいよいよ公開になりますが、これは観てみたいと思っています。そして、「シンデレラマン」に関していえば、やはりラッセル・クロウが静かだけれども強い男として適役という気がしました。

仕事と趣味に消耗しつつあるのですが、誇りに思われる父になりたいものです。4月23日鑑賞。

公式サイト
http://www.movies.co.jp/cinderellaman/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(27/100冊+29/100本)

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夕鶴の気持ちがわかる。

次男(3歳)と文字のカードで遊んでいたところ、「これなんてよむの?」と訊かれたので、「これは、ね、だね」と言ったところ、「すごいね、ぱぱちゃんよくわかるね」とほめられちゃいました。たぶん、うまく読めたときにほめてあげていたので、それが嬉しくて、ぼくのこともほめてくれたのだと思います。たいしたことではないのですが、ひょっとするとこれが社会のいちばんの基本ではないか、と感じたりもしています。嬉しい気持ちにさせれば、嬉しい気持ちを返してくれる。もっと彼をほめてあげようと思いました。

ところで、土曜日から没頭していたDTMの作品をついに完成させました。ブログにも書いたのですがVocaloidのコンテストがあり、そちらに応募しました。賞を狙うというよりも、Vocaloidを使っていて、このソフトウェアにささやかな期待をしているものとしては、こういうお祭りにはエントリーしておいた方がいいと考えたからです。しかしながら、既にものすごい数の作品が公開されていて、マイナーなソフトかと思っていたら、かなり人気があるようでびっくりしました。

応募するためにはYAMAHAのプレイヤーズ王国というコミュニティに登録しなければならず、まずはそちらの登録(無料)からはじめました。ブログやSNSなどをやっていると、このような会員登録には慣れてしまうものです。あっという間にできました。しかしながら、プレイヤーズ王国にもマイページに日記が用意されていて、ここでも日記か、となんとなく力が抜けました。総表現社会というよりも総日記社会というような気がします。とはいえ、とりあえず何か書いてしまうのが、かなしい習性です。アクセス解析(訪問者)の機能も用意されていいて、監視されている感覚があって賛否両論だと思うのですが、アマチュアミュージシャンどうしで交流するのも面白そうな感じがしました。

楽曲の登録およびコンテストにエントリーしたところ、公開には2週間ぐらいかかる、とのメッセージをいただきました。自動返信ではあるのですが、2週間たったらコンテストは終了です。大丈夫なんでしょうか。

実力的に参加賞で終わると思うのですが、いまぼくができることをすべて注ぎ込んだ感じです。Vocaloidの三重唱もトライして、語りも入れてみました。ついでに、前回Oxygenという曲の弦楽四重奏のアレンジに挑戦したのですが、これもアレンジのなかに取り入れています。

とにかく消耗しました。明日から会社というのが不安なぐらいの消耗です。そこで思ったのですが、夕鶴(つるのおんがえし)という作品がありますが、あれはクリエイターの気分を実によく描いているものだと感じました。子供と遊ばなきゃと思いつつ、どうしても曲を仕上げたくて、部屋に閉じこもってパソコンで曲を作りつづけてしまったのですが、自分の羽を一枚一枚抜いて曲を仕上げていくような感じです。しかしながら、奥さんや子供がやってきて部屋を開けてしまう。モーツアルトだとか小室哲哉さんだとかの気分で作っていてもドアを開けられてしまうと、一気にクリエイターから鶴(というかくたびれた父もしくは趣味のために引きこもっているさえない旦那)になってしまうわけです。ごしょうだから、このドアを開けないでくださいまし、という感じです。

最速の制作時間だったような気がします。アイディアはストックしてあったのですが、ほぼ土日で完成させました。もう少し時間をかけていると、インスピレーションが逃げてしまうような気もしました。家族は犠牲にしてしまいましたが、ゴールデンウィークで挽回することにします。ちなみにそこまでして作った曲のタイトルは「Qualia(クオリア)」といいます。自分で自分に突っ込んで、あーあ、ついにそういう曲を作っちゃったか(苦笑)という感じがしました。

ほんとうはすぐに聴いていただきたいのですが、プレイヤーズ王国で公開できたときに、またご紹介することにしましょう。しばらくは曲づくりから離れようと思います。ほんとうに消耗してしまったので。

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2006年4月22日

ひらめきという光。

昨夜おいしいスペイン料理やお酒を堪能させていただいたせいか、にわかにインスピレーションがやってきて、早朝から久し振りに趣味のDTM(パソコンによる音楽制作)に没頭してしまい、自室に引きこもりパパになってしまいました。反省。子供がどたばたはしゃいでいる音をきくと、ちょっと見にいったりしてみるのですが、どうしても作りかけの曲が気になってパソコンの前に戻ってしまう。あまりに集中しすぎると、奥さんの機嫌も損ねかねないので、ほどほどにしなければ。ちょっとイエローカード気味なので、明日は家族サービスしましょう。

創作に集中すると、ものすごく神経が衰弱します。これは別にDTMに限ったことではなく、小説を推敲するようなときも同じだと思うし、絵画などもそうじゃないかという気がします。緻密な作業の繰り返しであり、デジタルな制作といっても、ひとつひとつの履歴をきちんと記録しているわけではないので、一度設定をクリアしてしまうと、二度と再現できなくなるようなこともある。今日もVocaloidの設定をリセットしてしまい、微妙なニュアンスが失われてしまって落ち込みました。

他のクリエイターさんはどうか知らないのですが、ぼくは創作の作業はすべて高揚と落ち込みの繰り返し、という感じです。インスピレーションに支配されて、いわゆる神様が降りてきた状態のときには、ひょっとしてとんでもないものができそうだ!という高揚感があるのですが、ちょっと現実生活に戻って再び作業を再開してみると、こりゃだめだ(涙)、と落ち込む。あの光に包まれていたような感じは何だったんだ、と思うことになります。もちろんぼくのようなアマチュアがみている光は、あやしいものが多く、プロの方がとらえる光はもっと輝いているものなんじゃないかと思います。茂木健一郎さんの「意識とは何か」という本を読んでいるのですが、モーツァルトは交響曲の全体を一瞬のうちに構想したという文章があり、衝撃を受けました。きっとそれは楽譜ではなく、ある種の光として全体をキャッチするようなものなのかもしれません。たしかにぼくも、一瞬のうちに全体がみえる、ということがあります。しかしながら、みえている全体をこつこつと部分から構築しようとしたときに、みえていた何かは跡形もなく消えてしまうことがある。思考のスピードで、ひらめきを形にできればいいのですが。

ぼくはきわめて普通の凡人なので、あまりあちらの世界に行ってしまわないように気をつけたいものです。創作活動には若干危険な部分もあり、宗教に通じるような危うさも孕んでいます。茂木健一郎さんの「意識とは何か」にも書かれていて、ぼくは苦笑とともに共感を得てしまったのですが、茂木さんは幼い頃に「ただいま」ということの意味について深く考えてしまったそうです。「ただいま」というのは、親とのコミュニケーションとしての言葉であり、そういうものだとやさしく解釈すると、現実はとくに問題のないものとなる。ところが、「ただいま」の意味とは何か、本質は何かということを考えはじめると、やばい領域に踏み込んでしまう。まさにぼくのブログはそんな危うさがあります。さらに創作の分野にもその危険性があって、この音が意味するものは何か、と考えはじめるとかなり危険です。しかしながら、だからこそ創作にぞくぞくするようなよろこびがあるともいえます。マヤクのようなものなのでしょう。快楽と危険性が同居している。

大切なのはバランス感覚です。あちら側の世界を垣間みつつ、こちらにとどまっていられるかどうか、ということをきちんと認識しておくことにします。

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2006年4月21日

些細な日常を楽しむ。

仕事関連のお客さまにスペイン料理のお店でご馳走していただき、美味しい料理とスペインの焼酎に酔いました。ワインもとても美味しかったです。ますます仕事を頑張らねば、と思ったのですが、ビジネスのつながりのために、どこか営業トーク的な冷めた対応をしている自分がいて、何となく窮屈な感じもしました。もちろん数字をあげるために努力は必要なのですが、ビジネスの関係を外して、もっとプライベートで自由にお話ができればいいのに、ということを感じました。幸せなことに、お客さまであってもぼくを鍛えてくれる方が多く、非常に人生勉強になっています。何のために仕事をやっているか、というと、最終的には自分を磨くためかもしれません。だから無理な課題にも挑戦できる。長期的にそんなお付き合いをさせていだけるようなお客さまは大事にしたいものです。

スペイン人はお祭り好きだそうですが、この日も店内では誕生日の方を盛り上げたり、パエリアが焼けたというだけで盛り上がったりして、楽しかったです。このように、些細なできごとのひとつひとつを楽しむことが大切かもしれません。日のあたっている部分をみるのか、影になっている部分をみるのか、ということで世界とのとらえ方も変わってくるものですが、できれば影の部分まで楽しめるようになれるといい。といっても、世の中はそれほど達観できることばかりではないのですけどね。

3歳の次男が、「す」というひらがなを書いていてびっくりしました。ついでに「白」という漢字まで書ける。IQサプリというテレビ番組の合体漢字のコーナーが大好きなので、何度も繰り返してみているうちに覚えてしまったらしい。スマイルマークに手足が生えたような絵も書けるようになりました。幼稚園という新しい環境におかれて、脳のシナプスが猛スピードでつながりはじめたようです。にいちゃんがいるせいもあるのですが、長男よりも1年半から2年ぐらい成長が早いような気がします(彼がのんびりだったせいもあり、またぼくら親ものんびりと育ててしまったからなのですが)。といっても、誰かと比べてどうかというのはどうでもよいことです。それぞれのペースがきっとある。幼児時代に天才だったとしても、その後の人生がどうなるかなんてわかりません。とはいえ、せっかく絵が描けるようになったので、とりあえずパパの絵を描いてもらいました。目が大きくぐりぐりと描かれていて、微笑んでいる。大切にしようと思います。この絵のようなパパでいたいものです。

背伸びしても仕方ないと思うし、ぼくはミニマムな自分の周囲のできごとを大事にしていくつもりです。日常のほんとうに些細なことをよろこんだり、楽しんだりして生きていきたい。

やっと春らしい陽気になってきました。

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2006年4月20日

「11分間」パウロ・コエーリョ

▼cinema06-027:冒険としての恋愛。

404275007911分間 (角川文庫)
旦 敬介
角川書店 2006-01-25

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マリーアという娼婦の愛の遍歴について書かれた物語です。特別なことが書いてあるわけでもなく、どちらかというと想定できる範囲の物語が展開するのですが、最後を読み終わったあと、なんともいえない質感のある気持ちがぼくに残りました。これは何だろう。ぼくはこの「11分間」を論理的に解説する言葉をみつけられないのですが、読み終わったあとに主人公マリーアの人生が、何かリアルに生き始めるという感覚がありました。

高尚なものから性の営みに関する直接的な表現まで、この物語に書かれていることは幅広く、それだけ許容力のある小説といえます。突っ込んだことを書くとかなりあからさまになりそうなので避けますが(ほんとうは書きたい気もするけど書かない)、パウロ・コエーリョのあとがきに、実際に娼婦からの実体験の原稿を受け取ったときに、そこに書かれているものが「彼女の冒険」であるという表現をみつけて、なるほど、これは冒険小説なのかもしれないな、と思いました。

いま本棚に埋もれていてみつけられないのですが「ハリウッド脚本術」のような本に、物語の構成について書かれていて、出会い・対立・和解のような物語の構造分析があったような気がします。つまり、ドラゴンクエストのようなロールプレインゲームでもかまわないのですが、主人公が誰かと出会い、対立し、その対立を乗り越えて何かをつかみとること。それがエンターテイメントの骨子となります。同様に、この「11分間」とはマリーアがオルガスムスを得るための冒険でもある。さらにそこには痛み(サド・マゾ的なあちら側の快楽)や、高尚な形而上的に結晶化された愛という伏線もある。それがうまい。

という論理的な分析ではないことを語りたいと思ったのですが、なかなか難しい。11分間とは、愛し合う行為は服を脱いだりお互いを愛撫するような時間を除くと、わずか11分間の営みに過ぎない、ということをいっています。けれどもその11分間が永遠よりも長い時間になることもある。久し振りにレビューしにくい小説に出会ってしまいました。いまぼくはこの小説の核心について書けないのですが、書けない何かを腑分けしつつ、本を閉じたあとで広がる世界の可能性を感じています。このことについて考えてみたいと思っています。4月20日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(27/100冊+28/100本)

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揺れる、ということ。

ここ数日、夢のなかで強風に煽られてばかりいました。風が強い夢をよくみます。どういう意味でしょうね。意味はなくて、風が強い日の記憶を夢にみているだけかもしれません。と、風のことを考えていたら、ちょっと風邪をひいてしまったらしく喉が痛く、若干熱っぽくもあり、くらくらするようになりました。

たいてい、喘息の次男を救急病院に連れて行くと、ぼくの方が風邪をもらって帰ってきてしまう。深夜なので疲れもあるかと思うのですが、どうやらぼくは、お子さま向けの風邪に対する抵抗力が弱いようです。お子さま向けとはいってもさすがに救急病院にやってくるだけの風邪です。あなどれません。以前には、小児科でもらってきた風邪で3日も寝込んだことがありました。今日も薬を飲んではやく休むことにしましょう。とかいいつつ、薬を飲んだ後でお酒を飲んでしまっていますが。

風邪ばかりではなく、やはり寝不足と疲れもあるのですが、どうもくらくらして揺れているような気がする。昼間に仕事をしていても、なんだか揺れる。ぐらぐらです。まずいことになっちゃったな、早退するにもまだ仕事が終わっていない。とはいえ、こんなに揺れるのは重症だぞと思ったら、地震でした。やれやれ。

ときどき、自分が揺れているのか、世界が揺れているのか、わからなくなることがあります。ついでに言うと、身体が揺れているのか、心が揺れているのか、わからないこともある。心も身体の一部であり、やはり揺れることがあるようです。それを動揺というのではないかと思うのですが、美しいものに揺さぶられることもあれば、美しくないことに揺さぶられることもある。揺さぶられることのない強固な石のような意思を持ちたいと思うのですが、なかなか達観できないものです。

音は波動なので、音に揺さぶられることもあります。心地よい揺さぶられ方もあれば、心を乱すような揺さぶられ方もある。けれども、心を乱すような揺さぶられ方をした後では、静寂が心地よい。ああ、この静けさを味わうためにあの不快な音があったのか、と思うこともあります。

若い頃にはぐらぐら揺れる感情のメーターがうっとうしいものでしたが、次第に感情のメーターが錆び付いて動かなくなってしまう年齢になりました。落ち着いた、といえるのかもしれません。とはいえ、たまには揺れてみようか、とも思います。ゆらぎ、などという言葉も思いついたのですが、不規則に揺れることが、アンドロイドではない人間らしい感情の在り方のような気もしています。

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2006年4月19日

健康にかわるプレゼントはない。

深夜の2時に息子(次男3歳)が咳き込みはじめ、4時頃に緊急病院へ。喘息の発作というわけではないけれど吸入をしてもらい帰宅したのですが、やはり朝になっても肩で息をしてあまりにも苦しそうなので、行きつけの小児科に行ってさらに診察をしてもらい、自宅用に喘息用の吸入の機械を購入することにしました。医者のはしごです。

両方の医者で大泣きした彼は、家に帰ってくると少し落ち着いたようで「ぱぱちゃん、すき」とかうれしいことを言ってくれるのですが、具合のよくなった彼に「かいじゅうごっこ、やって」といろいろとせがまれるので閉口しました。とりあえずぼくは1時間ぐらい仮眠をとってみたのですが、寝不足のためか偏頭痛がひどくなってきたのでバファリンを飲んでしのぎ、あまり無理をしても明日からの仕事に支障があるだろうと思って今日は会社はお休みをいただき(金曜日までに片付ける仕事が2件あるので明日の木曜日は2倍速で働かなくては。終わるかどうかとても不安)、午後からは長男を小学校に迎えにいったりしているうちに一日が終了。

長男は長男で、ぼくらが病院に行っているあいだに明け方ひとりで家に放置され、さびしくてひとりで泣いちゃったらしい。やっぱり泣いちゃったか。眠れずに目を開けていたら、そのうち鳥の声がして朝になっていたのでびっくりしたとのこと。寝不足のために検尿を家に忘れてしまい、これもまた焦ったようです。わかる。そういうの、焦るんだよね。どうやら検尿を忘れたのはクラスで彼ひとりだけだったらしい。やれやれ。男の子なんだから、がんばってほしいものですが、まあ仕方ないでしょう。きみはよくがんばった。

という慌しさのためにほとんど忘れかけていたのですが、今日ぼくはひとつ年を取ってしまいました。誕生日でした。奥さんの母親から、花束をいただきました。それから80歳をこえている奥さんのおばあさんには、電話でハッピー・バースデイを歌っていただきました。毎年恒例なのですが、特に今回はいろいろなことがあった日だけに感激しました。

ケーキを食べることができなかったことは残念であり(さすがに奥さんも疲れ果てて「自分で買いに行ったら?」とぼくに言うのですが、自分で自分の誕生日ケーキを買いに行くのもなあ、と困惑してやめた)、入園早々休んでしまった次男もかわいそうですが、家族全員が健康であることがいちばんです。というより、次男と競うようにして身体が弱いのは何よりもこのぼくなので(今日も夕方になって疲れがたまってダウンした)、神様、まずはうちの次男の喘息を治していただき、残ったぶんでぼくにあと少しだけ健康をください。

健康にかわるプレゼントはありません。

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2006年4月18日

強さとは何だろう。

はじめて幼稚園に行った次男(3歳)に、どうだった?と訊いてみると、「りんごじゅーすのんで、おせんべたべて、ないちゃった」とのこと。やっぱり泣いちゃったか。長男のときには泣きすぎて顔が変わってしまい、奥さんはお迎えに行って自分の子供を判別できなかったようです。さすがに次男は強いもので、そこまで号泣ではなかったらしい。しかしながら、食べたり飲んだりすることと泣いたことしか言っていないのだが、きみは幼稚園で遊んだりしなかったのだろうか?そんな余裕ないか。そうですか。

強さとは何だろうということを考えます。身体を鍛えて喧嘩に勝てることが強いのか、どんな痛みにも耐えられることが強いのか。と、書いていて思い出したのだけど、長男が生まれるときに隣のベッドに寝ていた妊婦さんは、七転八倒&悲鳴だったのですが、それに対してうちの奥さんは、むぎゅーというような声で耐えていました。顔文字にすると、m(≧。≦)mという感じでしょうか。もしかすると激痛すぎて声が出なかったのかもしれません。それにしても、あまのじゃくなぼくは、たいして痛そうじゃないのに叫びまくる状態には冷めてしまうのですが、かなり痛そうなのにじっと耐えている状態というのに弱い。むぎゅーな彼女を見ていたら、不覚にもぼろぼろ涙が出てきてしまったものでした。

時々、電車のなかで喧嘩しているひとをみかけます。たいてい、ちょっと押したとか、濡れた傘から雫がかかったとか、そんなことがきっかけのようです。もちろんコンディションによっては爆発したくなる気持ちもわかる。けれども、そうやって爆発した人間が強いかというとそんなことはなくて、そういうひとたちをみるたびに、ぼくはスピッツという犬を連想します。親戚のおじさんが飼っていたイヌですが、これがまたよく吠える(いま吠えないスピッツもいるようですが)。吠えるから子供の頃には怖かったりしたのですが、要するに臆病だから吠えるわけです。

このスピッツ的な強がりではなくて、立派な強がりというのもあります。いろいろなハンディキャップを抱えながらも、強く生きようとしているひとがいる。そういうひとは明るい。明るいだけでなく、誰かを許容する能力もある。周囲を和ませたり、自分のことは置いて誰かのために一生懸命になったりする。それでいて何も見返りなどは求めないものです。与えつづけるひと、といってもいいかもしれません。一方で奪いつづけるひともいるのですが。

ぼくはといえば、まったく強くなくて、腎臓結石のときには唸り声をあげてのたうちまわったものです。これはぼくではなくても、のたうちまわる痛みなのかもしれませんが、忍耐強いひとには憧れます。

しなやかであること。しなやかなひとがいちばん強いのかもしれません。ゴム人間、というと息子がみていたテレビの「ワンピース」というアニメを思い出してしまったのですが、殴られた力もぐいんと受け止める。ぐぐっと押されても、ふにゃっとやりこなす。そんな軟体動物的に生きていると、そのうち誰も相手にしなくなるかもしれないのですが、ごつごつぶつかりながら生きるよりもはるかに生きやすくなるんじゃないかと思ったりもします。

強いオヤジというのも、絶滅寸前という感じがします。ぶわっかやろーと怒ってちゃぶ台をひっくり返し、あなたやめてくださいっと、かあちゃんに止められつつも、がつんと拳骨を落とす。そんな父親は少なくなったような気もします。もしいま、がつんとやったりしたら、児童虐待と訴えられて離婚されかねない。昭和で終わってしまった父親像かもしれません。そういう強い親父には強い親父の美学があると思うので、ぜひ伝統を継承してほしいと思います。

ぼくの親父もかなり怖かったのですが、ぼくは彼のようにはなれません。しなやかなオヤジでいこう、と考えています。といっても、実は怒りっぽい性格はぼくにも遺伝されていて、その遺伝を引き継いでいるのがうちの次男(3歳)です。遺伝のリレーは知らず知らずつづいているものです。次男は1歳の頃には、とにかくあらゆるものが気に入らなくて、怒っては後頭部をがしゃがしゃ掻きまくっていました。何かの過ちがあり、うちの奥さんはマレーグマを生んじゃったんじゃないか、と思いました(マレーグマは怒ると後頭部を掻きまくります)。ちなみに黄色い服を着せて座らせると、彼はまるでクマのプーさんです。

そのプーさんも幼稚園です。幼稚園には、プーさんのアップリケのついた手提げ袋を持っていっているようです。いやはや自分で泣くのはいいけど、暴れてよそさまの子供にパンチして泣かせたりしなければいいんだけど。

+++++

ところで昨日、酔っ払って日付変更線を越えて日記をアップしてしまったため、日曜日の日記をすっ飛ばしてしまいました。18日に、日曜日の分として何かコラムを書くことにします。ちょっと困惑中。

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2006年4月17日

ビッグ・リボウスキ

▽cinema06-028:不条理という現実。

B00005V2NEビッグ・リボウスキ [DVD]
イーサン・コーエン
パイオニアLDC 2002-03-22

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失業中のいい加減な男が、自分と同じ名前のリボウスキという金持ちのために、さまざまなトラブルに巻き込まれているというストーリーです。そこに湾岸戦争帰りの友人なども関わって、ぐちゃぐちゃなコメディが展開されます。コーエン兄弟の映画は、こうした不条理な世界をテーマとした作品が多いですね。ぼくがいちばん好きなのは「バーバー」なのですが、とてつもない運命に流されていく主人公の、かなしさと面白さが同居したような作風が結構気に入っています。一方で、「オー・ブラザー!」的なあっちの世界を感じさせる映像も困惑しながらも楽しめました。ボーリングのシーンが全体を通して何度も多用され、イメージのなかで自分がボーリングの球になるような映像もあるのですが、そのナンセンスなユーモアも面白かった。とはいえ、実は湾岸戦争という社会状況が落としたシリアスな影響もあります。いちばん不条理なのは、この現実なのかもしれません。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(26/100冊+28/100本)

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ほろ酔い気分。

ほろ酔い気分というのは、いいものです。父親が大酒飲みだったからか、ぼくもお酒は好きで、毎日欠かさず何かを飲んでいます。特に何かにこだわるわけではなく、ビールだったり、ウィスキーだったり、焼酎だったりします。美味い酒であればその方がいいのですが、アルコールであれば何でも美味しくいただく感じです。ワンカップでも十分。そういえば、先日、髪を切りにいったときに、ワンカップ・バーというのが流行っている、と美容師さんから聞いたことを思い出しました。

しかしながら、愚痴で盛り上がる酒は好まないので、仕事がらみのお酒は極力控えめにしています。そんなわけで、お酒は好きなんだけどある意味、非常にお付き合いの悪いひとです。愚痴で発散することも必要だとは思うのですが、かえってネガティブループに陥ることも多い。外で飲むより、家でまったり飲むタイプかもしれません。もちろん仕事がらみであっても、将来のこと、文学や映画のこと、子供のことなどをお話できるひととは飲みたいと思うのですが。

正体をなくすほどに飲むこともなくなりました。昔はそういうこともよくあり、徹夜で飲んで家に帰ったこともあったのですが、最近はとてもお行儀のよい感じの飲みが多い。年を取ったんだと思います。正体をなくすことはないけれど、一定量を超えて飲むと意識がなくなります。それでも自動操縦で帰ってくることができるので、人間というのはたいしたものです。

このほろ酔い気分のとき、世界がとても素敵なものにみえることがあります。ほどよく肩の力が抜けて、けれどもまだ現実的な感覚は残っていて、あらゆるものを許せそうな気がする。お酒を飲まなくても、この状態に意識を持っていくことができれば、きっとしあわせに生きることができそうな気がします。科学的な裏づけはわからないのですが、このときの脳の感じというのも、きっと測定可能なのでしょう。

パウロ・コエーリョの「11分間」という小説を読んでいて、前半に関してはなんとなくまどろっこしいというか淡々とした物語だなと思っていたのですが、中盤あたりでちょっと琴線に触れた部分がありました。主人公はマリーアという女性で、彼女は成り行きで売春婦になっている。その彼女が、あらゆることを経験しているけれども幸せになれない画家ラルフ・ハートと出会うのですが、暖炉の前でふたりでワインを飲みながら、お互いに大切にしていたものを交換する。プレゼント交換をするわけです。このシーンがいい。

身体に触れると終わってしまう、というような表現もあったかと思うのですが、抑制しつつ相手に対する感情を維持するという状態が、ほろ酔い気分のようなものをイメージさせました。ほんとうに酔ってしまうと、その後には、二日酔いだとか飲みすぎの不快感だとか、そうしたものがやってくる。けれども、飲まなければ、現実という殺伐とした世界から抜け出すことはできない。ほろ酔い気分もやがては冷めてしまいます。でも現実にいながら、少し現実から解放された夢のような感じというのが、生きていく上で必要なものかもしれない。

映画や音楽などもそういうものだと思います。映画を観ているときには、映画の世界に没頭して、まさにその映画に「酔う」けれども、物語が終わってしまえばまたぼくの淡々とした人生に戻らなければならない。ライブで音楽を聴いているときには、そこで表現される世界に「酔う」けれども、ライブは一回性のものであり、その感覚は少しずつ現実の生活のなかで失われていく。

それでも、そのときに感じていた「酔い」の感覚は、その後の生活に何かを与えてくれるものだと信じていたい。ぼくは映画に酔い、小説に酔い、音楽に酔うような日々が、なかなか「よい」と思っています。泥酔してしまうとわからなくなるのですが、ほどほどに酔うことができるしあわせを大切にしたいものです。

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2006年4月16日

歌声のシンセサイズ。

シンセサイザーに興味があり、特に歌声を扱うシンセサイザーを面白いと思っていました。プリセットされた音のなかでも、人間のAhaとかUhuとかいう音が気に入っています。いまDAW(パソコンで音楽をするときのソフトウェア)はSONARを使っているのですが、付属しているTTS-1というソフトウェアシンセの歌声系のプリセットはなかなかよい音がしていて、ついつい使ってしまいがちになり、おおっと今回は我慢しておこうか、と思うこともしばしばです。それから80年代的なヴォコーダーも好きで、先日ライブを聴きにいったLotusloungeがヴォコーダーを使っていて思わず感激しました。

究極は歌うソフトウェアだと思いますが、Vocaloidという日本語を歌わせるソフトウェアが2万円弱で発売されたときには、びっくりしたものです。購入して、muzieで公開した曲のいくつかに使っています。Vocaloid MEIKOは拝郷メイコさんという実在のシンガーの歌声をモデルにしているのですが、男性版VocaloidのKAITOも発売されました。ネーミング的には「KA」という硬さをイメージする音からはじまり、なかなか透明感があってよい印象を受けます。

このVocaloidによるコンテストが開催されているようです。

http://www.crypton.co.jp/jp/vocaloid/v_contest.html

DTMマガジンを読んでコンテストがあることは知っていたのですが、Vocaloidのコミュニティで(そういうものがあるんです)いろいろなひとの作品を聴くと、みなさんそれぞれ使いこなしてすごいものがあり、これはまだまだ応募には至らないな、と二の足を踏んでいます。Vocaloidそのものも大切ですが、その魅力を十分に引き出せる楽曲と、バックグラウンドの音の作り込みが重要になる気がします。

話題が脇道に逸れるのですが、昔からコンテスト的なものには熱くなるタイプでした。なんとなく西部劇の賞品稼ぎのようなイメージがあり、他流試合として挑戦したくなる。たいがい期待して結果発表をみると落っこちているものですが、そのうちのいくつかは運よく入賞したものもありました。小説をはじめ最近では企画などさまざまなものに挑戦はしているのですが、音楽のジャンルでは、10代の頃に地方の作詞コンテストで入賞して、プロの音楽家に曲をつけていただき、シングルレコードになったことがありました。授賞式のようなものに呼ばれて(野外ステージのようなところにものすごいひとがいた。というのもアイドル歌手がそこでコンサートだったので。当然ですがぼくの受賞を祝っていただくためじゃなかったので、みんな退屈そうでした)、後日ローカルな新聞にも取材されて、大きく写真まで出していただいた。といっても、そこから道が開けたなんてことはありませんでしたが。ちなみにそのときの作詞は童謡だったりもします。谷川俊太郎さんに憧れていた少年だったので、彼のような詩を書きたかったわけです。そこで運は使い果たしちゃった気がしますが。

その頃の情熱はいま消えてしまいそうなほどになっていますが、それでもいろんなことに挑戦したい気持ちは残っています。ボーカロイドコンテストも拝郷メイコさんとレコーディングというのは魅力的ですね。うーむ。

コンテストの作品は、プレイヤーズ王国で視聴できるというのも楽しみです。

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2006年4月15日

ラップトップと現実の生活。

次男(3歳)の入園式がありました。来週からは幼稚園に通うことになります。まだ甘えん坊の赤ちゃんだと思っていたのに、はやいものです。長男と同じほんわか系の私立幼稚園に入れてしまったのですが、ぼくはこの幼稚園の校風が気に入っています。だから3年間(長男は2年間でした)、やさしい気持ちで育ってほしいと思います。男の子なので、やさしい子供に育つことがはたしてよいことなのかどうか、という疑問はありますが。

午前中は入園式に参加し、午後からは会社に行って仕事を片付け(片付かなかったけど)、夜は以前ブログでも紹介したLotusloungeの初ライブに行ってきました。下北沢のmona recordsというカフェです。なかなか密度の濃い土曜日でした。演奏中にはジントニックを2杯飲んだものの、音楽のせいで気持ちよくなってしまい、自宅でくつろいでさらにお酒を飲んでいたところ、ほろ酔い状態になりました*1。一日のほどよい疲れとともに、とてもしあわせな気持ちになれたのは、新しい音楽に触れたせいでしょう。

ところで、DTMを趣味として音楽を創りながらまったく無知でお恥ずかしいことだったんですが、ラップトップ・ミュージシャン(またはアーティスト)というものがあることを知りました。このことを気付かせてくれたのは、ディビッド・シルヴィアンの「ブレミッシュ」というアルバムです。このCDの解説に「即興音楽の巨人ギタリスト、デレク・ベイリーと、いま最も注目されるラップトップ・アーティスト、クリスチャン・フェネスの二人をゲストに迎え」とあって、そこではじめて、ラップトップ・アーティストという言葉を知りました。

今日Lotusloungeのライブを聴きにいって、なるほどこれがラップトップアーティストというものか、ということを実感しました。mona recordsは下北沢の喧騒のど真ん中にあるのですが、2階に上ると、靴を脱いで座ってライブを聴けるようなくつろいだスペースもある、なかなかよい感じのカフェです。かしこまってライブを聴くというよりも、自宅で「こんなの作ってみたんだけど聴いてみて」的な親近感のあるスペースで、非常に居心地がよかった。さすがに来場される方も最先端の音楽を聴いている感じのある美男・美女が多く、個人的にはそわそわしました。全体的に若い方が多かった、ということもあったのですが。

mona recordsで出演した3つのアーティストすべてが、ラップトップを机に置いて演奏するスタイルでした。このスタイル自体は、銀座のアップルストアで細野晴臣さん、高橋幸宏さん(このふたりはSketch Showというユニットを結成しています)、小山田圭吾さん、Towa Teiさんのライブを観にいった(といっても大盛況すぎて入れずに店のモニターで観た)ときに経験していたのですが、あれはイベントだからそういうものなんだろう、と勝手に解釈していました。いまさらこんなことを書くのも無知を晒すようなものですが、ノートパソコン一台で演奏するパフォーマンスもある、というスタイルに衝撃を受けました。いま、街頭で歌っているひとはギターをかき鳴らすパターンが多いけれど、電源さえ確保できれば、モバイルを抱えて街頭で演奏するひとも登場するかもしれない。というか、もう既にいるのでしょうか。これならぼくもライブできるか?と思ったり、いやネットで配信だけにしておきましょう、と思ったり。

最後のKyosuke Koizumiさんだけはギター+ラップトップという演奏スタイルで、たぶんKORGのKAOSS PADを使っていたのだと思うのですが、この機材が印象的でした。KAOSS PADは雑誌などで紹介されていて気になっていたエフェクターで、指先のコントロールによって音を「視覚化」して演出するツールです。テルミンみたいな効果も得られる。ギターもデジタルでエフェクト処理されて、なかなか興味深い演奏でした。

さて、Lotusloungeの演奏(といってもステージにいるのはおふたりで、アップルのコンピュータやキーボードを主に操作するK.K.さんとSheepさんの歌というミニマムな構成)を生で聴いたのは初めてですが、ほんとうに圧倒されました。すごかった。何よりも、ほぼ全曲をまったく新しいアレンジで展開していて、ドラムンベースっぽい緻密なリズムが前面にぐいぐい出てくる。クラブっぽいサウンドに仕上がっていてよかったです。イントロ(新曲?)、Cloud、Timer、Mito、Core(コア:新曲)、Shang-hi LoveSickという曲順だったかと思います(失念していたら失礼)。mona records mixをリリースしてほしいものです。

初ライブということで「慣れていません」とSheepさんからMCがありましたが(一方で「落ち着いてきました」というコメントも途中でありました)、存在感のあるボーカルだったと思います。歌うと別人になってしまうところは、このひとは根っからのシンガーだ、と思いました。Shang-hi LoveSickでは、Sheepさんのボーカルにエフェクトを処理して、さらにK.K,さんがマイクからヴォコーダーをコントロールする、という演出に感激しました。ヴォコーダーの響きは、80年代にYMOなどの音楽の洗礼を受けてきたぼくにはたまりません。

歌声は最大かつ最小の楽器だと思います。特別な楽器がなくても、歌うひとさえいればすぐに表現ができる。「ポップな曲を最後にやり逃げして終わります」というSheepさんのコメントから演奏されたラストのShang-hi LoveSickでは、リアルかつアナログなSheepさんの歌声という音源にもエフェクトをかけ、さらにK.K,さんのマイクからヴォコーダー処理された音声をミキシングすることによって、ライブでありながらもリアルとデジタルが溶け合う経験が新鮮でした。どちらかというとラップトップ・ミュージシャンたちの演奏は自分の世界に入り込んでしまうようなイメージがあり(今回のライブでも目をつぶっている聴いているひともいました)、演奏が終わってもMCもご挨拶もなしというドライな印象があったのですが、Lotusloungeはお客さんとのコミュニケーションもあり(ときには笑いも入れたりしながら)、限りなく緻密に計算された音楽の世界が展開されていく。リアルとデジタルの融合、と括ってしまうとステレオタイプになるのですが、アンドロイド的な世界に鳥肌が立ちました。

Lotusloungeは夫婦ユニットであり、音楽という創造だけでなくプライベートでもパートナーのユニットです。今後は若いおふたりも父親や母親になっていくことでしょう。だからこそCoreという細胞の「核」を思わせるような新曲があったのではないかと想像するのですが、力強いビートが新しい未来に前進する感じがして、またよいと思いました。まだ眠っている新しい生命にその鼓動が届いたのではないでしょうか。

音楽は創造的な活動ではあるけれど、まったく現実から切り離された形而上的な美しさを追求するものだけではありません。ラップトップで奏でられたとしても、そのソフトウェアには現実のクリエイターの生命が通っている(通わせることができるはず)。冷めたテクノロジーだけでなく、感情やリアルな生活がその背景にある。理屈で語ってしまうとまた堅苦しくなるのですが、午前中の次男の入園式を含めてさまざまな感動があった一日でした。

+++++

■Lotusloungeのサイト。
http://alterego.fem.jp/

*1:ほろ酔い状態で書いたので文章に締まりがなく誤字も多かったので、翌日に落ち着いて見直しつつ修正しました。

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2006年4月14日

未来を感じさせるもの。

今年は平成18年だそうです(だそうです、じゃなくて平成18年です)。西暦であれば覚えているのですが、年号を書こうとすると、はて今年は何年だっけ?と忘れてしまうことがよくあります。今日も年号がわからなくなりました。そこでインターネットで年号の早見表を検索して、そうか平成18年だった、と確認したのですが、最近は自分の年齢さえ忘れそうになります。忘れた方がいいのかもしれないけど。

さらに忘れてしまいそうなのが、いまは21世紀だということです。子供の頃には、21世紀といえばロボットが生活のなかに入り込んで夏休みには宇宙旅行にも行けるものだ、と思っていたのですが、ロボットは登場しているものの、まだ20世紀の延長線上にあるような気がします。ぼくの子供たちが大人になる頃には、もう少し21世紀らしくなっているのかもしれない。ほんとうの大変化はこれから始まる、というキャッチコピーがありましたが、水面下で動き出した変化が表面化するのは、まだ先のようです。

感情と表現について調べていたところ、少し前の記事ですがNECとNECデザインと日本SGIで、気持ちを光で表現する「言花(KOTOHANA)」を共同開発という記事をみつけました。

楽しさは黄色、興奮は赤など、音声を認識して感情に合わせて花の形をした端末が光るそうです。IPテレビ電話などで話をしながら、パソコンに接続された「言花」が光る感じでしょうか。感情認識エンジン「ST」(ST:Sensibility Technology)によって制御されているらしいのですが、こういう研究は楽しそうです。並行して本を何冊か読み進めているのですが、「心脳マーケティング」という本にも、人間のコミュニケーションの80%は非言語的なものによる、ということが書いてありました。もちろん、その非言語的な「空気」を読むのが大事なのですが、最近、空気を読めないひとが増えている、ということも何かで読んだ記憶があります。「言花」のような感情インターフェースが小型化されて、みんなが頭の上にのせて、あっあのひとは赤だから注意だ、なんて感情を読む時代がくるのでしょうか。NECのアドバンスデザインのページは未来的なツールが掲載されていて、興味深いものがあります。

音声認識といえば、CNET Japanに「グーグル、音声検索技術を開発か--特許出願が明らかに」というニュースもありました。グーグルならあり得る、という感じがしますが、マップと組み合わせるとほんとうにナビゲーションが充実する気がします。さらにできれば「言花」的な感情認識エンジンも組み込んでほしい。コールセンターはすべてロボットになってしまうかもしれません。といっても、きめ細かな対応はやはり人間に限るのかもしれませんが。

バイオ的な視点からは、以前、健康管理として人間にチップが埋め込まれる、などということを書いたのですが、ペットの世界ではそれが始まっているようです。やはりCNET Japanですが「ワンニャン村 チップ埋め込み犬猫販売 全頭に迷子防止対策」という記事がありました。以下、抜粋です。

ペット用のマイクロチップは、直径約二ミリ、長さ約十一ミリの円筒形カプセルに包まれた電子標識。これを、ペットの背中に皮下注射で埋め込む。注入されたマイクロチップは、体の中を移動しないように工夫されており、臨床試験でもペットにほとんど負担をかけないことが立証されているという。

ちょっとかわいそうかも。

一方で、R25 No.89には、カプセル型内視鏡「Sayaka」「NORIKA」の記事がありました。これは、胃カメラを小型のカプセルにして飲み込めるようにしたもので、カプセルを飲み込むと発行ダイオード(LED)で胃腸のなかを照らしながら、内蔵されたCCDカメラで毎秒30枚の写真を撮るらしい。まさに「ミクロ決死圏」です(人間は小型化できませんが)。ネーミングは研究室に貼っていたポスターの女優、女性研究員から取ったらしいのですが、最終的にはトイレで流されちゃう「Sayaka」「NORIKA」はどうだろう。

米ライス大学が開発したナノカーのイメージも面白いと思いました。世界最小のクルマだそうです。人間のDNAよりも薄いらしい。目に見えないようなところではありますが、21世紀の人類の技術は進歩しているようです。

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2006年4月12日

「適当論」高田純次

▼book06-026:飄々と生きるのもよいものです。

4797333456適当論 [ソフトバンク新書]
ソフトバンククリエイティブ 2006-03-16

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今朝、通勤の電車が車両事故によって遅れてしまい、電車のなかはものすごい混雑でした。ぼくの前にいたバーコードのおじさんが、なんだか怒りまくっていて、ごつごつ周囲にぶつかりながらぼくの背中も押してきて痛い。気持ちはわかるんだけど、あなただけじゃないんだよ、みんな嫌な気分なんだ、と思いました。とはいえ、コンディションによってはぼくも荒れ果てた気持ちになることがある。世界中にツバを吐きたい、あらゆるものを蹴飛ばしたい気分になることがある。仕方ないよね、どうどう。という感じです。

とはいえ、そうした混雑のなかでも、やわらかく存在するひともいるものです。みんなが右に揺れたら右に揺れて、左に揺れたら左に揺れる。ちょっとぶつかったりすると、あ、ごめんなさい、と素直謝って、にこっとする。しなやかに存在するひとは、実はごつごつぶつかるひとよりも強い。弾力性のあるこころは、ぽきっと折れることがない。

そんなひとでありたいものです。

高田純次さんはそういうひとであるような気がします。そもそも、余裕のある男はかっこいい。紳士とは、礼儀も大事だけれど、こころの余裕があるひとかもしれません。だから女性にもモテる。若い頃というのは、とにかくやりたい気持ちでいっぱいなので、余裕がありません。しかし、オトナはそんな力もなくなりつつあり、できなくてもいいけど一緒にいて楽しければよいか、とある意味、適当になってくる。その適当な感じが、客観的には余裕にみえるものです。よいことなのか損なのか、ちょっとよくわかりませんが。

この本は実は高田さんが書いているのではなくて、精神科医である和田秀樹さんが高田さんの言動を分析するというスタイルになっています。そこが面白い。和田さんはいろいろと意味付けをするんだけど、たぶん高田さんはそんなこと面倒で考えていない気がします。精神科医が定義した高田純次的な理屈通りに生きても、きっと高田さんにはなれない。ぼくは高田純次さんは特別なひとではないと思うのだけど、その飄々とした肩の力が抜けた人生になんだか癒されました。トサマミさんという新潟でIT関連の専門学校でセンセイをやっている方がおすすめしていた本ですが、とかく頭でっかちになりがちなぼくにとっては、こころに余裕ができるような本でした。4月12日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(26/100冊+27/100本)

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分解する力。

豊聡耳(とよとみみ)と呼ばれた聖徳太子は10人の話を同時に聞いた、というエピソードを勝手に覚えていたのですが、Wiki pediaの聖徳太子の解説によると、どうやら同時に聞き分ける力に優れていたのではなく、順番に聞いた話を覚えていたらしい。つまり記憶力に優れていたようです。もちろん10人の話をすべて覚えている聖徳太子の能力もすごいと思うのですが、混在している音を聞き分ける能力もすごいと思います。

バンドをやっていた時期があるのですが、譜面がない曲は「耳コピー」といって、なんども曲を聴いてテープレコーダーにポーズをかけながら音を探したものでした。しかしながら他の音にかぶってしまっていてどうしても聴き分けられない音がある。何度聴いても聴き取れない。けれどもそれはぼくがシロウトだからであって、音楽を専門にされているプロの方は、絶対音感的なもので瞬時にその音を当ててしまうのもかもしれません。

全体としてまとまっているものを分解する力が必要になるときがあります。音に限らず、そもそも分析という科学的な手法は、分解能力を駆使する思考が求められるものです。先日も点描画の話を書きましたが、ジョルジュ・スーラが光の構成要素を色のドットに置き換えるのも、大変な能力が必要になるのではないでしょうか。また、例えば仕事で何か問題になっていることの解決方法を探るときも、この分解能力が必要とされます。問題というのは漠然と広がっているもので、それを体系的に腑分けしていくのは、結構骨が折れる。とはいえ、分解して何か見えてくるものと、分解することによって余計にわからなくなるものもあります。

昨日、DTMで音のドットを積み上げながら曲を組み立てていったのですが、ある域を超えると全体としての音の塊になってしまい、どの音がまずいんだろう、という分解不能な状態に陥ってしまうことに気付きました。それはたぶんぼくの能力不足によるものだとは思うのですが、たとえばマスタリングの作業などでも、プロの方はどの周波数が不鮮明になっている、ということを瞬時に判断できるような気がします。ぼくの場合はなんだかよくわからずに、イコライザーを上げたり下げたりしているのですが、プロの場合は、足りない周波数をちょい上げるだけでずいぶん音が変わって聴きやすくなる、などの技があるようです。

黒川伊保子さんの本にも、こんな話が書かれていました。ヴァイオリン奏者が演奏を前にして「今日はどの周波数でいこうか」という話をされていて驚いたそうです。つまり、コンサートホールによっていちばんよく響く音は違う。またその日の天候によって響きも変わってくる。そんな変化に合わせてプロの奏者は演奏も変えていくそうです。これはすごいと思いました。当然かもしれないのだけど、人間のコンディションも変わるもので、そのことも考慮しなければなりません。やはりバンドをやっていたときのことですが、ライブでアガるとリズムも走りがち(テンポが速くなること)になります。でも、バンドの全員が速いリズムになれば、それはそれでまとまって聴こえるものだよね、などという話を聞いて、納得したことがありました。

仕事にも同じことがいえます。打ち合わせや企画のプレゼンでも、いつも同じ状況ということはありません。一期一会といってしまうとなんだか胡散臭くなりますが、同じ場は二度とないものです。マニュアル通りにやればいいというものではなく、その日の気分を察知して、柔らかくいくか、硬めに押さえるか、フレキシブルに変える必要があります。柔軟に対応できるのがプロかもしれません。

昨夜、深夜までかかってあれこれ検討していた「Oxygen(弦バージョン)」は、自分でも判別不能になってしまい頭を抱えつつ、とりあえずアップロードしました。ピアノのパートだけは先日公開しましたが、最終形を数日後にはmuzieのぼくのページで公開する予定です。ピアノ+弦楽四重奏(?)らしきものができました。モーツァルトになりたいと思ったのですが、天才にはなれません。1分20秒の曲にへとへとになり、クラシックの方が聞いたら首をひねりそうな作品になりました。

シンフォニー(交響曲)を書いているモーツァルトの頭のなかはいったいどうなっているのでしょうか。全体として鳴っていたのか、個々の音が積み重なって鳴っていたのか、そんなことが知りたくてたまらない。モーツァルトの頭のなかは知ることはできませんが。

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2006年4月11日

いい感じ、そして閑話休題。

何がどうだということは言いにくいけれども、いい感じの日々です。帰宅するときには雨が降っていたのだけれど、傘を差さずに帰ってきました。コートの上にぽつぽつと雨が当たって音がしたので、かなり降っていたのだと思うのですが、特に煩わしい感じはありませんでした。DTMに没頭して夜更かしだったので眠くて頭痛もしたけれど、それもまた心地よい。このいい感じが長くつづけばいいと思うのですが、なかなかバランスを取るのは難しいものです。

最近、小説をあまり読まなくなってしまったのですが、それはひょっとしたら映画を観ているからかもしれません。物語的なものは映画で充足しているので、物語ではないものを書物に求めているような気がします。現在、小説としてはパウロ・コエーリョの「11分間」を読んでいるのですが、遅々として進みません。保坂和志さんの「カンバセーション・ピース」も購入したまま、手付かずの状態です。そんな状態なのに今日、gadochanさんがコメントで紹介されていたカート・ヴォネガット・ジュニア(ジュニアが入るんですね)の「タイタンの妖女」を買ってしまいました。

小説ではない本は、HiRosさんのブログで「心脳マーケティング」のなかにメタファについて言及されていたことを知り、未読だったのですが最初から再読をはじめました。以前読んだときには気付かなかった「ORの圧制」という言葉を発見し、これは「ビジョナリー・カンパニー」にも書かれていたことであり、認識を新たにしています。同時に高田純次さんの「適当論」を半分ぐらい読み進めて、妙に癒されたりしています。ついでに、今日は茂木健一郎さんの「意識とは何か−<私>を生成する脳」も購入。ほんとうに小遣いは大幅に減少し、未読本などが増えていくばかりです。

けれども、このあらゆるものにちょっとだけ手をつけながら未完な状態もまた、いい感じです。あらゆる可能性がぼくの周囲に散らばっている感じがする。若い頃には、とにかく動かなきゃ、あれもやらなきゃ、あそこに行かなきゃという脅迫観念のようなものがあり、また他人を必要以上に気にしたりもしていたのですが、最近、そんな自分の意識から解放されつつあります。年を取ったのかもしれません。でも、狭い世界であっても、自分の好きなものたちに囲まれ、理想の世界を追求して、のんびりまったり生きてみるのもいいのではないでしょうか。

パソコン関連では、古いマシンにLinuxをインストールしてみようと思っていたりして、ハードディスクを整理しています。点描画のような音楽制作と並行して、こつこつといろんな試みをやってみようと考え中です。一方で、9歳の長男にパソコンを教えるために、古いVAIOを彼のために設定し直そうと思っています。

外はまだ雨が降っているようです。仕事も忙しくなりつつあるのですが、効率的かつ高度な仕事ができることを心がけつつ、自分の時間(と息子たちとお話する時間)を大事にしたいものです。

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2006年4月10日

テイキング・ライブス

▽cinema06-027:想定内であることの愉しみ。

B0006NKDIUテイキング・ライブス ディレクターズカット 特別版 [DVD]
ジョン・ボーケンキャンプ
ワーナー・ホーム・ビデオ 2005-01-21

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連続殺人事件を解明しようとするFBIの女性捜査官イリアナ(アンジェリーナ・ジョリー)の物語です。冒頭では、のどかなエピソードから一転して目を覆うような残虐なシーンになり、こいつが犯人だろうということは明確なのですが、いや犯人じゃなかったりして?と思わせるようなシナリオが上手いと思いました。また、これで最後だろう、と思いつつも、さらに展開をする脚本にも脱帽です。しかも、それらが最終的には、すべて想定内の展開と感じられました。あまりにも想定外なストーリーであると、観ているひとはストーリーの飛躍についていけなくなる。しかしながら、あまりにも想定内であるとつまらない。やっぱりね、という想定内でありつつも最後まで観させるのがよいサスペンス映画という気がします。痛い映像は苦手なのですが、それほど直接的には描かれていないのでなんとか直視することができました。時々挿入される超アップな映像が、不安感をそそります。イーサン・ホークがいい感じです。あとは、濃厚なラブシーンがあるのですが、アンジェリーナ・ジョリーがナイスバディでまいりました。ふっくらとした唇に注目してしまった。しかし、ほんとうにまいったのは心理的な描写だったりもします。こちらのほうが痛い。4月10日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(25/100冊+27/100本)

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否定演算子¬。

3歳の息子がミスタードーナッツでもらったジグソーパズルで遊んでいたのですが、どうやらひとつのピースをなくしてしまったらしい。そこだけが抜けてしまっていました。その光景から思ったことですが、なくしたピースの部分に注目すると、それ以外のピースはすべて揃っている、ということになります。一方で、なくしたピース以外の部分からみると、その部分だけが足りない。つまり、どちらに焦点を当てるかによって、見方が変わってくるわけです。よく例に挙げられることですが、水がコップに半分あるときに、もう半分しか残っていないのか、まだ半分もあるのか、その見方によって考え方が変わってくる。

相変わらず「東大式絶対情報感」という本の内容を引っ張るのですが、この本のなかに、否定演算子¬(ちなみにこの縦のカギかっこのような記号が、数学的な否定の記号なんですね。ノットで変換したり、否定で変換するとこの記号になります)を使って情報をみる、というような部分があったような気がします。実は本を貸してしまって現在手もとにはないのですが、確かモバイルツールの市場性について考察するときに、その考え方が示されていたような気がしました。携帯できるもの、携帯できないもの、デジタルなもの、デジタルではないもの、という軸によって4つの象限を作り、それぞれを考察していく。このときにちょっと目からウロコだと思ったのが、「そうではないもの」によって対象を浮き彫りにするという考え方でした。

ちょうど切り絵のようかもしれません。色紙を切り抜いていき、最後に黒い台紙に重ねると切り抜いたところが絵になる、あの伝統芸能です。切り取ったものではなくて切り抜かれて残ったものが絵になる。そんな風に意識も切り抜くことによって、あるもの「ではない(¬)」ものによって対象を浮き彫りにする考え方もありそうです。安易なところでは、自分のいない社会のことを考えることによって、自分らしさを発見する、という感じでしょうか。アナログを追求することによって、デジタルとは何かを述べる。書かれなかったものを追求することによって、何が書かれているのかを発見する。そんな感じです。

討論などでも、ものすごく活発に議論されているようでいて、実は切り抜かれた部分のことを言っているのと、切り抜いた部分を言っていることのように、結局はどちらを選択するかという違いだけで同じことを言っている場合があります。議論に熱くなると冷静にとらえることができなくなるのですが、地と図のどちらを選ぶかということであっても、大局からみると同じだったりもします。

否定的な考え方であっても、実はポジティブな場合がある。逆にものすごく肯定的なことを言っていても、ネガティブな場合もある。その凹凸の付け方が面白いと思います。

完成されなかったジグソーパズルを息子は結局ばらばらにしてしまったのですが、ばらばらにしてしまうと、欠けているのか欠けていないのかわからないし、どうでもいいことのように思えました。

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2006年4月 8日

動画で表現すること。

入学式や卒業式のシーズンです。デジタルスチルカメラやデジタルビデオが活躍する時期になってきました。ぼくの持っているカメラやビデオは旧式のもので、新しいものが欲しいなあと思っているのだけれど、なかなか買い換えることができません。両方抱えて撮影するのは結構大変なものです。カメラとビデオが一体化している機種もありますが、動画と静止画は撮影するポイントが違うような気もしています。動画だから生きる構図、静止画だから生きる構図というのがあるような気がする。もちろん素人なので「気がする」というレベルですが。

息子が幼稚園や小学校に入ったときに、わが子を撮影しようとするおとうさん、おかあさんの意気込みにはすごいものがあると思いました。ぼくも必死でファイダーを覗くのですが、ビデオで撮ることに集中しすぎて、全体の雰囲気がどうだったかということを覚えていないことも多かった。そこで、ファインダーを覗くのをやめてみると、逆にああ撮っておけばよかったと思うものです。もちろん記憶のなかにしっかりと残しておけばいいのですが、カメラマンとしての自分と父親としての自分を、うまく共存できないものかといつも悩みます。21世紀なので、子供にチップか何かが埋め込まれた服を着てもらって、そのチップを自動追跡して録画してくれるようなAIビデオが登場してほしいものです。

一方で動画を掲載するサイトがにわかに注目を浴びつつあります。海外のYouTubeというサイトが盛り上がっているようです。これがアマチュアか?というように、高度な編集をされたものもある。けれども一方で投稿された動画を解析したところ、テレビ番組や映画をまるごと掲載するようなひともいたため、投稿できる動画は10分間までという制限をかけたというニュースも3月の終わりにありました*1。日本でも、PeeVeeというサービスがスタートして、注目されていました。

「東大式絶対情報感」という本にも書いてあったことですが、伊東先生の講義では、自分で研究テーマを決めてPowerPointを使った発表をして、その発表している姿をお互いにビデオに撮影する、というようなこともやっているようです。別に大学ではなくても、小学校の高学年でも可能かもしれません。先進的な私学などではやっているかもしれないのですが、夏休みの自由研究で、まずインターネットで情報検索して、実際に町に出てひとに聞いたり図書館でさらに調べる。それをプレゼンテーションとしてまとめて発表し、発表の風景を録画したものをみせる。見ながら、お互いによいところや悪いところを指摘し合うこともできそうです。自分では完璧だと思っていても、客観的にプレゼンをみると、とほほなことも多いものです。

ぼくもやってみたほうがいいかもしれません。けれども、いざ自分がやるとなると正直なところ抵抗があります。文章や創った音楽を公開することはできても、ナマの自分の動画をみるのは恥ずかしい。自分でみるのが恥ずかしいぐらいなので、公開するのはもっと恥ずかしい。小学校でやったらどう?という提案をしておきながら、いやぼくは勘弁してください、とまことに腰砕けな状態なのですが、これも一歩踏み出すと自然にできるようになるのでしょうか。どうだろう。

YouTubeでは自分をプレゼンテーションする動画もあるようです。そのあたりはさすが自己主張する欧米社会だな、という印象を持ちました。日本も頑張りましょう。

+++++

■YouTube(英語)。面白い映像を紹介するリンク集やブログも増えそうです。
http://youtube.com/

■こちらは日本のPeevee.tv。イヌ・ネコなどの癒される動物映像はいけると思います。子供の映像などは、社会的な課題もありそうです。
http://peevee.tv/

*1:CNET Japanの記事を引用しようとしたのですが、先日からどうもサーバーが落ちているようなので断念しました。残念です。

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2006年4月 7日

「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」黒川伊保子

▼book06‐025:生活知としての音のクオリア。

4106100789怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか (新潮新書)
黒川 伊保子
新潮社 2004-07

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冒頭で著者の黒川さんは自分の息子さんがおっぱい(という言葉はなんだか書いていて照れくさいのですが)にしゃぶりついたときの状況を正確にとらえて、haMという言葉について分析されています。このときのMを「お、なんて美しいMだろう」と書いている。概念的な知から分析するのはなく、みずから母として息子と接したときの経験を踏まえながら言語についての知を述べる姿勢に共感を得ました。学術的な言葉に傾倒せずに、どこかブログ的とさえ感じられるような文章なのですが、それも好感です。Mの音が女性的であり、一方で破裂音が男性的な音感であることが書かれているですが、その最もベーシックなものものが、パパ(papa:破裂音の繰り返し)、ママ(mama)であることにも納得します。そしてママは、食べ物という栄養(マンマ)をあげる存在である、という事実にもあらためて頷ける。

どちらかというと左脳的に言葉の意味ばかりを考えていたのですが、マントラのように音が意識に影響を与えるということに、あらためてすごいと思いました。「a」という母音を語として認識するのは日本人だけである、というようなことも書かれています。つまり欧米人にとっては認識されない語もあるということです。

マーケティングとしてネーミングのような分野に活用できる知でもあるし、何よりも子供の命名にも活用できる。正直なところ息子たちの名前を決めるときには、画数ばかりに注目していて音感などは考えていませんでした。もし女の子にモテなかったら、命名した父の責任です。ごめん。情報に対する感度という意味で、語感に対する知識や認識も重要であると思いました。4月7日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(25/100冊+26/100本)

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音のクオリア。

ほろ酔い気分でブログを書いています*1。会社を辞めたあと、いろいろと経由して、いまはバーをはじめた知人の店で飲んできたところです。自分の部屋のような落ち着いた雰囲気についつい和んでしまい、時間の経つのを忘れました。お客さんはふたりしかいなかったけど、逆にそれがよかった。また行きたくなるような感じです。つづけるのは辛いかもしれないけど、つづけてほしいですね。お店らしくなかったけど、それが個性的であり、いつかよいお店になりそうな感じがしました。頑張ってください。

さて、「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」という本を、朝の通勤電車のなかで読み終えました。あまりの偶然に感激してしまったのですが、最終章では、絶対音感という言葉が出てきました。何気なく(ほんとうに内容を読んだわけではなかったのに)本屋で物色した「東大式絶対情報学」とこの本の二冊がつながった。「東大式絶対情報学」にも絶対音感という言葉が出てきます。ぼくは別にオカルト的なものは信じていないのですが、ほんとうに何かを考え続けていたり、問題意識を持っていると、直感という磁石が近い内容のテキストを引き寄せてしまうのかもしれない。すごい。

「東大式絶対情報学」では、インフォメーション(情報)はもちろん、その情報をインテリジェンス(知恵)に変えるということが書かれていましたが、情報感度を高めるもうひとつの「I」として、インスピレーション(直感)があるのかもしれないとぼくは思いました。この3番目のIは技術やテクニックとして万人が使えるようにするのは難しいのですが、問題意識をもち、大量の情報に接して情報の引き出しを増やすことよって、別に超能力者ではなくても獲得できる能力ではないかという気がしました。直感も特別な能力ではなく、訓練によって獲得できるもののような気がしています。

話が脇道にそれましたが、「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」は非常に興味深い本でした。というのも著者である黒川伊保子さんは、もともと人工知能(AI)を研究されていたそうです。人工知能のなかでも、自然言語解析が専門とのこと。ぼくも実は、企業のマーケティング活動をお手伝いするにあたって、アンケートの自由回答を分析しなければならないことからテキストマイニングに関心があり、一方で、趣味としてつづけているDTMでは、Vocaloidというソフトウェアによる音声合成に興味があります。そんなわけで音素(Phoneme)というのは見なれた言葉だったし、すっとぼくの意識に入ってくるものでした。

この本のなかでは音のクオリアということが言われているのですが、クオリアというのは現実に存在する対象を脳内で再現したときの質感です。茂木健一郎さんの著作などでは重要なキーワードかもしれません。音のクオリアを、サブリミナル・インプレッションとして整理されているのですが、これがものすごく面白い。抜粋すると以下のようになります。すべて黒川さんの著書からの抜粋および要約、そしてぼくの解釈による編集です。

■静音「K」:からくち(辛口)のキレを持つ→硬さ、強さ、緊張感、乾き

■静音「T」:確かな手ごたえ→湿度・粘性、充実感、賑やかさ、中身の詰まった感じ

■静音「S」:爽やかさ→光と風のモニュメント、爽快感、風・光拡散のイメージ

■静音「H」:光の未来→広さ、空気感、早さ

■静音「N」:ナイーブ→ベッドルーム、癒し、なめらかさ

■静音「M」:満ち足りた女性→やわらかさ、まるさ

■静音「R」:理知的→哲学的、透明感

■濁音「B・G・D・Z」:男性的な膨張+放出+振動

(母音は世界観)

■「a」:意識の向う対象

■「i」:対称に突き進む

■「u」:ちいさな閉空間

■「e」:永遠、遠さ、へりくだり

■「o」:大きな閉空間

破裂音は男性の生殖機能的なイメージを持つ言葉だそうです。つまり、溜めて放出するイメージらしい。だから男の子はこの音を好む。ビーバップなどの言葉は、男性的な力強さを感じさせます。けれども女性は生理という憂鬱な「重さ・滞り」の感覚から、この言葉を嫌悪する。したがって、「S」の音感を心地よく思うそうです。だから「サンリオ」は女の子にうける。「沢村さん」「俊介くん」のようなS行の名前が、若い女の子にはもてる(そうだったのか)。

このサブリミナルが最も効果的なのは、名前であるということも書かれていました。つまり幼い子供にとって、もっとも自分に呼びかけられる言葉は名前です。まいった、子供が生まれる前に読んでおけばよかった、という後悔したのですが、どの音感を持つ名前をつけるかどうかによって、その子供の性格をサブリミナル的に決定してしまう。これはペンネームやハンドルネームも同じかもしれません。

名は体をあらわす。それは本名であっても、ハンドル(匿名)であっても同様です。もちろんマーケティングとしてネーミングするときにも重要になる。きちんと考えたいものだ思いました。

+++++

*1:ほんとうはかなり酔っていたのですが、あとで読み直したところ、それほどひどい文章になっていないので驚いた。

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2006年4月 6日

その先の未来。

東京タワーを間近でみてきました。こんなに近くでみたのは久し振りです。昨日とはうって変わって快晴の春の青空に、すくっと屹立する東京タワーは凛々しいな、と思いました。赤と銀色の配色が美しい。「Always 三丁目の夕日」という映画ではCGで建設途中のタワーが再現されて象徴的に扱われていましたが、やはり日本人の気持ちを代表する何かがあるような気がします。中断したまま読んでいないリリー・フランキーさんの「東京タワー」を思い出したりもしました。

ところで、この東京タワーですが、まった別の場所に新東京タワーができるとのこと。伝統的な東京タワーは333mですが、新東京タワーの方は610mです。墨田区にできることが決定したというニュースがありました。デジタル放送関連の機能が集約されるらしい。機能的なものはもちろん、21世紀のぼくらの気持ちを象徴するような建築物であってほしいと思ったりもします。

ぼくが今日、東京タワーをみたのは別に東京見物をしていたわけではなく、東京プリンスホテルパークタワーで開催されているIDF(インテル・デベロッパー・フォーラム Japan 2006)に参加したからでした。半導体の最大手インテル社が主催するイベントです。

基調講演を拝聴したのですが、同時通訳の機械を外して聞いてみました。英語はあまり得意ではないのですが、同時通訳はありがたい一方でちょっと混乱もします。美しいプレゼンテーションの画面を集中してみていると詳細はともかく、なんとなくプレゼンテーターが強調していることは伝わってきました。今回は、途中でゲストのスピーカーを壇上に呼んで、お話をうかがうような形式でしたが、なかなか説得力がありました。マッシュアップ的などという言葉も安易に言ってしまいそうになりますが、ひとりのプレゼンテーターが話しつづけるよりも新鮮です。それぞれのゲストスピーカーの方に特長があり、いろいろと考えさせられました。

ふたつの基調講演のあいだに映像が流されたのですが、この映像がよかったです。各国の子供たちが、ITについて語るのですが、昔のことを覚えているよ、というキーワードでいろんなことをお話します。たとえば、「昔は人に道を聞いたんだよね」「パパはオフィスって場所で働いていたんでしょ」「ダイアルアップってものがあったよね。がーって音がして」のような過去を「覚えているよ」と延々と語りつづける。結局、モバイルPCによるナビゲーションで道がわかる、無線によりどこでも仕事ができる環境になる、アナログによるインターネットは消滅するなどのことから、あらゆる技術が過去のものになってしまうことで、その先の未来のことを喚起させるような映像です。ちょっと感動しました。いま当たり前のような現実も、きっと子供たちにとっては過去のものになるはずです。UMPCも発表になりましたが、大きくハードウェアの世界に変化がありそうな予感もあります。そして、それを支えるのがインテル社の技術という印象を持ちました。

講演の壇上に並べられたマシンのなかにはIntel Macのマシンもありました。ちょうどアップルからIntel MacでWindows XPが動くBoot Campというソフトウェアを提供するニュースが盛り上がっていました。詳細についてはあまり公開されていないためアナリストによっては懐疑的な見解もあるようですが、大半はこの動きを評価しているようです。ぼくもこれはいいな、と思っています。思わず、Intelが入っているMac miniが欲しくなった。

基調講演の最後には、デジタル・ヘルスとして医療分野に向けたインテル社の取り組みについてのプレゼンテーションもありましたが、これも興味深いものでした。壇上で、医療用のタブレットPCを操作して、電子カルテの実演のようなものをされていたのですが、実際に息子(次男)が喘息で入院したとき、入院した病院は最先端の施設が導入されていて、看護婦さんはベッドの脇に備えられているタッチパネル式の機械を操作して、診断結果などを入力していたことを思い出しました。その画面はテレビにもなっていて、キッズチャンネルのようなアニメをみることもできる。さらにぼくは使わなかったのですが、病室外と、テレビ電話のようなこともできたような気がします。

ゲストスピーカーである日本医療情報学会理事長(兼学会長 東京医科歯科大学 情報医科学センター センター長)の田中先生という方は、次のようなお話をされていました。電子カルテのような医療のIT化をすすめるにあたっては、まず標準化がある。次に個々にあわせたカスタマイズがある。そしてさらにユビキタスとして、いつでもどこでも健康状態がモニタリングされていて治療を受けられる社会がある、ということです。

個々に合わせたカスタマイズ、ということでちょっと思ったのは、個人の遺伝子情報もデータベース化されるんじゃないだろうか、ということです。というのも、Googleが地図情報や図書館情報だけでなく、遺伝子情報もデータベース化しようとしている、というニュースを読んだことがあったからです。真偽は不明なのですが、SF映画のような未来が身近に迫っている感じもあります。

いつも健康状態をモニターされているのもちょっと困りますね。ナノレベルの目にみえないRFIDのようなチップを身体に埋め込んで(というよりも薬を飲むようにチップを飲み込んだり注射で身体に入れて)、モニターされた情報は無線で身に着けている時計のような機器に送って管理する。そんな感じかもしれません。問題が生じると「ストレス・ガ・ジョウショウチュウ・キュウソク・ヲ・トッテクダサイ」などと、デジタル・ヘルス・エージェントに言われてしまうのでしょうか。いずれは立体映像のような形で、チップから読み取った情報を解析して異常が認められると、ぽんと妖精のようなバーチャル・エージェントが出てきて「ねえ、ちょっと頑張りすぎよ。休んだら?っていうか、休みなさい」と警告されるのかもしれません。

どんな未来になっても自分の健康は自分で管理したいものですが、そんなSFっぽい未来もちょっと期待しています。

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2006年4月 5日

漱石の二年間二万冊。

雨降りでした。東京のサクラは一気に葉桜でしょうか。儚いものです。

夏目漱石は二年間のロンドン留学中に二万冊の本を読破した、というエピソードが「絶対情報学」に引用されていました。このエピソードを読み、あらためて漱石はすごいなと思ったのですが、そんなに無理をしたら神経衰弱になるのも当然です。過ぎたるは及ばざるがごとし。過剰に書きすぎるハイパーグラフィアはもちろん、過剰に読みすぎることも精神のバランスを崩すのではないでしょうか*1。とはいえ、その過剰さがあったからこそ漱石は文豪に成り得たのかもしれません。この程度でよかろう、ほどほどにしておこうと妥協していたなら、その後の漱石はなかったのかもしれない。

情報洪水のようなインターネット社会では、ものすごい量の情報の海を泳ぎきらなければなりません。ブログの登場によって、さらに一日に読むテキストの量が増えました。ぼんやりしていると途方もないテキストの洪水に押し流されてしまいそうです。とはいえ大量に情報があっても、重要なのはその一部だったりもします。ロングテールという現象は個人にも当てはまるような気がするのですが、自分にとってほんとうに必要な情報はテールではない部分のほんのわずかに過ぎない。「東大式絶対情報学」にも書かれていましたが、多くの情報はジャンクです。途方もないジャンクのなかから宝を探し出さなければならない。逆に言うと、すべての情報をきちんと最初から最後まで受け止めようとしていると、疲弊もするし破綻もする。

この本のなかに、ひとが意識のなかにあるイメージ(あるいはクオリア)を言葉に置き換えるとき、ものすごく複雑な演算がなされている、ということが書かれていました。接した情報すべてに対して均等に、この演算をしようとするから疲れてしまう。レッスン2「手と目と脳でもっと加速する」では「音読・黙読・視読・熟読」として、書かれたものを意味ではなく音として意識に取り込んだり、音のスイッチを切ったりするようなエクササイズが提示されています。あらゆる言葉の意味を理解するのではなく、情報を音として脳のなかにアーカイブする。必要なときにその音を意味に還元する(なんだか乾燥ワカメみたいなイメージですが)という接し方もあるのかもしれません。聞き流す、読み流す、といってしまうといい加減に聞こえますが、たとえばひとつの文書でも、脳内にきちんと意味を生成する箇所と、意味化で手を抜く箇所があってもいい。つまりツボさえ押さえておけば、あとは手を抜くのが賢い。大切な部分と手を抜くところを逆転させてしまうと、まずいとは思うのですが。このツボを押さえられるかどうかが、情報の達人としての条件になります。

伊東先生は声に出して読むこと、音読することの重要性を述べられています。いま読んでいる黒川伊保子さんの「怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか」という本にも、ブランドマントラとして音のもつ質感がぼくらの意識に影響を与えるということが書かれていました。マントラとはインドの真言のことで、記述されずに呪文のような言葉だけで古くから継承されてきたようです。そして、つぶやくだけで神秘的な気分になる言葉がある。

この言葉の感覚をブランディングにうまく活用されているものとして、黒川さんの本では日立の「Inspire the Next」を冒頭の部分で取り上げています。文字や意味はともかく閃光のイメージをもつヒタチという言葉と、Inspireという先鋭的な英語の語感を組み合わせたところが優れている、という指摘がありました。カローラ、クラウンなどのように、クルマの名前にはCからはじまるとヒットするような法則もあるとのこと。マーケティング的にも面白い見解です。さらに、こころをなごませる語と、緊張感を持たせる語があることなどが書かれていて、特に名前があらわすイメージなどは興味深く読み進めています。

最初の速読の話に戻ると、伊東先生の講義では「知恵蔵」を1〜2時間で読破させるそうです。これはちょっと困惑しそうだと思ったのですが、確かに大量の情報を高速で処理する能力があれば、どんなに大量のデータを読み解いて商品を開発するような仕事も、さくっと片付けられそうです。アイディアは組み合わせなので、大量のインプットがあるかどうかでアウトプットの質も変わってくる。理屈では十分に理解できます。じゃあ知恵蔵を読破するかというと、ぼくにはどうも前向きな気持ちにはなれませんが。

ところで、今日は帰りにディビッド・シルヴィアンの「ブレミッシュ」というCDを購入しました。しかしながら、リズムがまったくなく、ギターのハーモ二クスを多用したような、ある意味マントラ的なアルバムを聴きながら、ちょっと困惑中です。

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■「ミニマルなストラクチャー」と書かれていて、確かにそうだ、とは思うのですが。声だけはディビッド・シルヴィアンそのひとで、存在感のある声です。

B0000CBCBFブレミッシュ
デヴィッド・シルヴィアン
P-VINE 2003-10-22

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*1:3月分のブログを印刷してみようとふと思ったのですが、100ページを超えてしまいました。もちろんレイアウトのせいもあるので1ページに2枚ずつ印刷したところ、それでも50ページになった。プリントアウトしたものを前にしながら途方に暮れました。過剰に書き過ぎです。慣れちゃいましたが。

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2006年4月 4日

「東大式絶対情報学」伊東乾

▼book06-024:IT時代のすぐれた教育書。

4062133717東大式絶対情報学
講談社 2006-03

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会議やミーティングの場で、あのひとがまとめると必ずうまくいく。どんなプレゼンを聞いても適切な質問をしたり核心をついたコメントができる。けれども決して情報を武器に誰かを論破しようとするのではなく、創造的な対話ができる。そんな実社会ですばらしい仕事を残せるような、「できるのに優しい人」を育成するために書かれた本です。ITによる情報の洪水にのまれずに、ひととしてのあたたかいコミュニケーションができるような人材を育成する方針に貫かれた、21世紀型の優れた教育書だと思います。しかも理論というよりも実践として、そのノウハウを「知的反射神経」としてトレーニングする方法が書かれています。個人的には速読法や心理テストのようなものはあまり好きではないのですが、表層的なマニュアルにとどまらず深い洞察があります。

伊東先生のような教育者が最高の学府にいる限り、日本の次世代の子供たちも大丈夫だ、とぼくは考えてしまいました。こうした教えを受け、その意思を引き継ぐことができる東京大学の学生さんがうらやましい。と、同時にぼくも講義を受けてみたいと思ったし、見栄などはまったく関係なく、このような最高の教育が受けられるのであれば、息子を東大に行かせたいと思いました(無理だけど。ちなみに次男に聞いてみたら、いかない、と言われてしまった。幼稚園児に聞いても無理というものです)。伊東先生のような理系と文系を横断した新しい教育者の方に、たくさん登場していただきたいと願っています。ぼくも父として微力ながら努力することにします。4月4日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(24/100冊+26/100本)

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絶対情報感というセンス。

すごい本に出会ってしまった。4月なので何か新しい本を、ということで昨日は書店に立ち寄ったのですが、結局4冊の本を購入してしまいました。未読の本がたくさんあるのに、かなしいサガという感じです。しかしながら購入したうちの一冊「東大式絶対情報学」という本に感銘を受けました。

第一印象では、まず「東大式」という言葉に抵抗がありました。なんとなくうさんくさいものもあった。どうやら出版社の思惑だったようですが、タイトルにはない方がよかったような気もします。しかしながら読んでみると、一気に内容に引き込まれました。とにかく一行一行がぼくには刺さる言葉ばかりです。そもそも思考をめぐるさまざまな領域の問題意識がぼくにはあったので、この書物に書かれていることのひとつひとつに共感できたのかもしれませんが、考えていたことの解がすべてがこの本のなかにある錯覚さえ感じました。背筋に電気が走るような感覚を何度も味わった。だからこそ、夕飯の間にもページをめくり、一気に読んでしまったのですが。

著者の伊東先生*1は、作曲とオーケストラやオペラの指揮を専門としながら、物理学、脳認知科学、表象文化論などを学んで東京大学で情報の講義をされているそうです。このアカデミックな現場の臨場感あふれる教育の実例をベースにしながら、情報の洪水といわれるIT社会において、どのように自分を表現し他者を尊重していくのかという知恵(インテリジェンス)の獲得方法を展開していきます。これは「本質を捉える知」「他者を感じる力」「先頭に立つ勇気」という三つを備えた人材を育成するという、東京大学の小宮山総長の教育方針を忠実に再現されているともいえるのですが、伊東先生の生きざまのようなものがあって熱い。冷めた学問ではありません。

伊東先生は、まず情報には「第一人称性」情報感、「第二人称」情報感、「第三人称」情報感というものがあると述べています。これは「私」のオリジナリティを確立するためのセンス、特定の誰かとコミュニケーションするためのセンス、そして不特定の誰かに何かを伝えようとするセンスといえるかもしれません。この三つを意識して情報の読み書きを展開するだけでなく、最終的には「ブラインドタッチ」のように無意識でも(どんなに自分の状態が悪くても)習慣のように最適なコミュニケーションができるような人材を育成することを目指されているようです。

具体的には、身体のほぐし方というエクササイズから、大量の情報から重要な情報を拾い出すための速読、メールの書き方、マトリックスによる世界の捉え方、プレゼンテーションの仕方、アプリシエーション、俯瞰型知識構造力学(これは結構興味あり)まで多岐にわたります。まず誉めて対案を出す、というプレゼンの評価の仕方まである。幼児に対する音楽の才能教育(ソルフェージュ)を基盤に考えられたようですが、それらが実践のマニュアルではなく理論ときちんと結びついていることがすばらしい。読み進めながら、次から次へと繰り出される知の技法に、ぼくはほんとうに眩暈がしました。参りました。おこがましいけれど「立体的な思考のために」というプレゼンシートを作ったときに、こういうことをぼくはやりたかったものです。教育の世界には、すばらしいひとがいるんだなあ、と感動しました。

レッスン7「予防公衆情報衛生 ブロードバンドの光と闇」の部分は、帰りの電車のなかで読んでいたのですが、あやうく涙をこぼしそうになりました。知り合いが宗教のためにマインドコントロールされて、その人生を破壊されてしまった。そのことから情報メディアが引き起こした「人災」を二度と起こさないように、情報の怖さとそれを阻止するための方法を研究し広めているとのこと。その使命感に共感します。さらに最終章の猪瀬先生に対する回想の部分も感動的な言葉が綴られています。戦争で亡くなった友人がいる。けれども自分は「生かしてもらっている」のだから、できることをしなければ、と猪瀬先生は語られたそうです。長く腰を据えて考えつづけること。途中で投げ出さずに完成させること。それがいちばん大切なことかもしれません。そしてそのためには、なぜ継続しなければならないのか、という中心になる考え方をきちんと持つことが重要です。

知というものは、難しい言葉を使いまわして賢そうなフリをするためにあるものではなく、人間どうしのつながりを介して存在するものであり、よりよく豊かな人生を生きるためにあるものだと思います。そんな「あたたかさ」を徹底した知の教育のなかに垣間みることができました。

この本のすばらしさについてはもっと書きたいのですが、うまく書くことができずにもどかしさを感じています。思考について書き散らしたぼくのブログなんて、学問としての裏づけも薄っぺらで実際に次の世代の子供たちのために実践しているわけでもなく、しょうもないもんだなあと感じて恥ずかしくなりました。しかしながら、この本で学んだことも吸収しながら、これから10年間、同じ場所に穴を穿ちつづければ、せめてもう少し高い場所にはいけるのではないかと思います。

この本のなかには色のクオリアという言葉が出てきたのですが、同時に購入したもう一冊の本は「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」という本で、こちらはマントラとして音のクオリアが書かれています。それから、あるひとに勧められて購入した高田純次さんの「適当論」もあたたかい人柄にあふれた癒される本です。これから読むようにします。

ちょっと感動しすぎて熱くなってしまいましたが、まだ触れていない部分がたくさんあります。いくつかのキーワードはまた取り上げようと思います。

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*1:通常ぼくはこのブログでは先生とか氏という言葉をなるべく使わずに、さんで呼ばせていただいています。失礼なことかもしれませんが、ぼくにとってはあえてそう呼ばせていただきたいと考えていました。けれども、この本を読むと、先生と呼ばなくては、という気持ちになります。その理由は...読んでいただければわかります。

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2006年4月 3日

「ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則」ジェームズ・C. コリンズ , ジェリー・I. ポラス

▼book06-023:時代を超えて存続する企業の条件。

4822740315ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則
James C. Collins
日経BP社 1995-09

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1995年に初版の本ですが、書かれていることは現在でもまったく色あせない真理ばかりです。逆にいまだからこそ鮮やかな視点も多い。第一章では「時を告げるのではなく、時計をつくる」企業がビジョナリー・カンパニーであると書かれていますが、Googleなどの企業もテクノロジーによって時計をつくる企業ではないか、と思いました。カリスマ的な経営者によって時を告げるタイプの企業ではなく、ハードではないけれどもインターネットによるサービスという時計作りをする企業です。さらに第6章の「カルトのような文化」をもつこと、第7章の「大量のものを試して、うまくいったものを残す」という特長も該当します。さらに、BHAG(ビーハグ:Big Hairty Audacious Goals)という社運を賭けた大胆な目標を掲げるという点もぴったりです。Web2.0関連の企業であっても、基本的にはビジョナリー・カンパニーの法則の上で成り立っているような印象を受けました。

仕事の15%を自分で考えたプロジェクトに費やすという15%ルールも紹介されていました。けれどもそのプロジェクトには、不文律の規範のようなものがある。それが企業の価値観であったり、文化というものです。目先の利益も重要だけれど、愛社精神をもち仕事にのめりこめるような文化を創り出したときに、企業は創設者がいなくなってもその意思を存続することができる。そのためには、価値観を共有すること、自分たちの価値観とは何か、ひとつひとつ判断することが重要になります。いま自分が働く価値観とは何だろう、ということを考えさせられました。すばらしい本です。4月3日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(23/100冊+26/100本)

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メモのためのツール。

昼間には強風が吹き荒れていました。最近は風の強い日が多いようです。とはいえ4月の最初の月曜日、新入社員か就職活動中なのか、街中にはスーツ姿のひとが目立ちました。なんとなくフレッシュな感じがします。

新入社員の頃、入社した会社の先輩が会議中にノートブック(東芝のダイナブック)を開いてメモを取っているのをみて、おおっビジネスマンはかっこいい、と思ったものでした。その先輩が退社するときにダイナブックを譲ってもらって、しばらくは真似をして使っていたことを覚えています。とにかく学生時代には人差し指でワープロを打っていたのですが、会社に入社してまずブラインドタッチの訓練を叩き込まれました。しかしながら、結局のところ仕事がものすごく忙しくなって、速く打たざるを得ない状況になった。気付くと喋るのと同じスピードで打つことができるようになっていたのですが、研修よりも実戦の場で磨かれるものです。会社によってはじっくりと新人研修をやる職場と、いきなり現場に引き出される会社とあると思います。郷に入りては郷に従え、という言葉もありますが、頑張ってほしいものです。

ところでぼくはその後、PDAを使っていたこともあります。クリエでPalm OSの速記のような入力方法を覚えました。しかしながらノートパソコンにしてもPDAにしても、個人的には会議や打ち合わせ内容をメモするツールには向いていないようです。というのも、ぼくのメモというのはノートにばらばらに単語を書いて線で結んだり囲ったりというスタイルなので、テキストと図形が必要になり、電子機器ではメモがうまく取れない。いまではすっかり紙のノートに手書きです。ツールが小型軽量化して紙のようなパソコンが登場して、ペンで入力できるようになればいいのに、と考えたりもします。資源節約や環境のためには、そんなツールが理想的かもしれません。

Origamiとコードネームで呼ばれていたマイクロソフトのUltra Mobile PCも、ついにベールを脱ぎました。日本版の第1弾「SmartCaddie」は9万9800円だそうです。CNET Japanでは、「フォトレポート:Origamiへの道--写真で振り返るモバイルPCの歴史」としてハードウェアの変遷が紹介されています。持ち運べるパソコンというのは、やはり人類の夢みたいなものなのでしょうか。希望としては腕時計ぐらいの大きさまで小型化するといいのですが。21世紀なので、そういう未来的なハードウェアに期待します。。マイクロソフトのプレスリリースを読むと、立命館小学校に導入が決まっているようです。この環境で育った子供たちは、現在のデスクトップのPCなどをみたときに、えっ?パソコンって画面がキーボード(スクリーン キーボード)じゃないの?ペンはどこにあるの?なんてことにもなりそうです*1。

ノートパソコンやPDAなどのデジタル機器でメモを取るメリットとしては、テキストをその場でメールに添付して配布したり、2次利用できることにあると思います。議事録などを書く場合には、ノートを見ながらわざわざ文字を入力するのは手間がかかります。そういう意味で、パソコンによるメモというのは便利です。

少し古い記事ですが、アメリカの大学で講義中にノートパソコンによるメモを禁止したところ、大きな話題になったという記事がありました。CNET Japanの「「授業中のノートPC使用禁止」--米大学教授の判断にブログ界は賛否両論」という記事から引用します。

この教授は、コンピュータのせいで学生の注意力が散漫になり、講義内容を熟考することよりも、自分の一言一句を書き写すことに没頭してしまうと述べている。大学側は、今回の判断は同教授の一存によるものとしているが、これによってある興味深い疑問が生じている。それは「はたして学生は、自分に最も都合のよい任意の方法で講義ノートを作ってもかまわないのだろうか」ということだ。現在われわれが向き合っているのは、勉学にコンピュータが欠かせない環境の中で育ってきた世代の大学生や大学院生だ。彼らからそうした機器を取り上げ、おそらくは一度も試したことのないノートの取り方を強要するのは、公平と言えるのだろうか。

この文を読んで感慨深いものがありました。手書きでノートを取る経験のない学生がいる。そういう時代になってきたのか、と実感しました。もちろん、英語圏だからという前提条件はあるかもしれませんが、日本でもそんな学生が増えてくるのでしょうか。

デジタルの恩恵という意味では、百式の田口さんが作られているcheck*padを最近活用するようになったのですが、これは便利です。ブログで書きたいネタなどを備忘録として書きとめておいています。

読書しているときにも、よいと思った表現などを書きとめておきたい衝動にかられることがあるのですが、抜き書きしたりページ数をメモするのは面倒です。そのまま放っておいて、後であの言葉はどこで読んだっけかな?と思うことがあるのですが、ページを必死でめくってもみつからない。Googleが書物をテキストでアーカイブしてくれるのを待つしかないのでしょうか。

*1:4月5日追記

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2006年4月 1日

ビジョンを残す。

「ビジョナリーカンパニー」という本をやっと半分あたり(第六章「カルトのような文化」226ページ)まで読み進めました。さすがに多くのひとに絶賛されている本だけに、読んでいるといくつものキーワードが腑に落ちる印象があります。同時に梅田望夫さんの「ウェブ進化論」を再度目を通してみたのですが、新しい「あちら側」の企業であるGoogleの文化などの点で合致することが多い。「ビジョナリーカンパニー」の初版は1995年ですが、その洞察には時代を超えて通用するものがあったのだと思います。こんなにすばらしい本を未読の山のなかに埋もれさせていたのが恥ずかしい。ぜひ続編も読んでみたいと思います。

ところで、仕事をしながらいろんな記事に目を通していたところ、不覚にも読んでいて泣けそうになってしまったのが、ITMediaの「ひきこもりからIT社長に "paperboy"の軌跡」という記事でした。paperboy&co.についてはレンタルサーバーを探していたときに知ったのですが、その社長の家入一真さんのブログを以前に拝見したときは、デザインも優れているし、何よりもお子さんの何気ない生活の一部を切り取った写真がほのぼのとしていて素敵です。訥々としているけれど、ユニークなコメントも面白い。

確かに社長というよりもクリエイターというイメージがあります。「まさか社長になるとは」と書かれていますが、きっとその言葉の通りだったのでしょう。ひきこもりから社会に出て、ネットで女子高生だった奥さんと出会い子供も生まれて、このままではいけない、なんとかしなければ、と思いつつ、それでも好きなことをやりたいと自分の好きなことに打ち込んだ結果、ひとも集まってきた。そんな経緯があるようです。

家入さんの人柄によるところが大きいのではないかと思うのですが、ITMediaの記者もその人柄をうまく伝えています。書き方がうまい。うまいだけではなくて、家入さんの生き方に共鳴したことが文章全体を覆っているような印象を受けました。署名原稿で、岡田有花さんという記者が書かれているようですが、このような文章を読むとやはりプロは違うと感じます。もちろんブログの文章も楽しいけれども、紙の新聞を含めてクオリティの高いメディアの取材記事は、これからも存続してほしい。ブログの脅威にさらされることがあるかもしれないのですが、プロの記者の誇りというのは、やはりぼくには及ばない高みにあると感じました。

「ビジョナリーカンパニー」には、ビジョンによって存続する企業は、スタート時から明確な方向性があったわけではなく売る製品も決まっていなかったことさえある、ということが書かれていました。ソニーにしても最初は電気ざぶとんのようなものを作っていたし、ヒューレットパッカードもとにかく売れるものを何でも売った。しかしながら、ある時期に何かを売るという目標とともに存在意義のようなビジョンを固めていきます。文章にしていない不文律であってもかまわないのだけど、なぜわれわれが存在するのか、という考え方を明確にしていく。市場によるシェアや売り上げの数値に固執するか、存在意義をテツガクとして持つか、という点で「時代を超えて」創業者の意思が存続するかどうか、ビジョナリーカンパニーになるかどうかという分岐となると書かれています。

結局のところ、どんなきっかけでもいいからまず眼前にあるものを売る。とはいっても、自分の好きなことに真摯に向き合う、集中することが大切なのでしょう。そうして、軌道にのったところで、あらためて存在意義を確かめる。ビジョンを考える。力を持ったビジョンを確立することができれば、創業者が引退しても、その企業文化は残りつづけるわけです。

ぼくは次の世代に何を残せるだろうか。仕事はもちろん、家族に何が残せるのか、ということを考えました。あまりにも大きいものを考えすぎると手をつける前に挫折しそうなので、試みとして、このブログに書いてきたことのエッセンスをまとめてみようと思っています。

いい天気です。今日は夕方から親戚の結婚式に出席します。夜桜を見ながらの結婚式になるのでしょうか。喘息の次男が心配だけど、たまには外出もいいものです。

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■社内研究開発制度「ペパ研」から、なんとインディーズレーベルまで立ち上げたとのこと。紅白をめざすそうです。しかも、デビューしたシンガーは会社の広報の女性?うーん、面白すぎる。というかすごい。こういう楽しいことを考えていたいですね。

http://ieiriblog.jugem.jp/

■paperboy&co.広報Kayoさんのプロモーションページです。視聴したところ、さわやかでいい感じ。ぼくの曲も使ってくれないかなあ。それこそ新曲をがりがりと徹夜で作って無償で提供しちゃうのですが。

http://kayo.in/

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