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2006年4月20日
「11分間」パウロ・コエーリョ
▼cinema06-027:冒険としての恋愛。
11分間 (角川文庫) 旦 敬介 角川書店 2006-01-25 by G-Tools |
マリーアという娼婦の愛の遍歴について書かれた物語です。特別なことが書いてあるわけでもなく、どちらかというと想定できる範囲の物語が展開するのですが、最後を読み終わったあと、なんともいえない質感のある気持ちがぼくに残りました。これは何だろう。ぼくはこの「11分間」を論理的に解説する言葉をみつけられないのですが、読み終わったあとに主人公マリーアの人生が、何かリアルに生き始めるという感覚がありました。
高尚なものから性の営みに関する直接的な表現まで、この物語に書かれていることは幅広く、それだけ許容力のある小説といえます。突っ込んだことを書くとかなりあからさまになりそうなので避けますが(ほんとうは書きたい気もするけど書かない)、パウロ・コエーリョのあとがきに、実際に娼婦からの実体験の原稿を受け取ったときに、そこに書かれているものが「彼女の冒険」であるという表現をみつけて、なるほど、これは冒険小説なのかもしれないな、と思いました。
いま本棚に埋もれていてみつけられないのですが「ハリウッド脚本術」のような本に、物語の構成について書かれていて、出会い・対立・和解のような物語の構造分析があったような気がします。つまり、ドラゴンクエストのようなロールプレインゲームでもかまわないのですが、主人公が誰かと出会い、対立し、その対立を乗り越えて何かをつかみとること。それがエンターテイメントの骨子となります。同様に、この「11分間」とはマリーアがオルガスムスを得るための冒険でもある。さらにそこには痛み(サド・マゾ的なあちら側の快楽)や、高尚な形而上的に結晶化された愛という伏線もある。それがうまい。
という論理的な分析ではないことを語りたいと思ったのですが、なかなか難しい。11分間とは、愛し合う行為は服を脱いだりお互いを愛撫するような時間を除くと、わずか11分間の営みに過ぎない、ということをいっています。けれどもその11分間が永遠よりも長い時間になることもある。久し振りにレビューしにくい小説に出会ってしまいました。いまぼくはこの小説の核心について書けないのですが、書けない何かを腑分けしつつ、本を閉じたあとで広がる世界の可能性を感じています。このことについて考えてみたいと思っています。4月20日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(27/100冊+28/100本)
投稿者 birdwing : 2006年4月20日 00:00
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