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2006年4月17日

ほろ酔い気分。

ほろ酔い気分というのは、いいものです。父親が大酒飲みだったからか、ぼくもお酒は好きで、毎日欠かさず何かを飲んでいます。特に何かにこだわるわけではなく、ビールだったり、ウィスキーだったり、焼酎だったりします。美味い酒であればその方がいいのですが、アルコールであれば何でも美味しくいただく感じです。ワンカップでも十分。そういえば、先日、髪を切りにいったときに、ワンカップ・バーというのが流行っている、と美容師さんから聞いたことを思い出しました。

しかしながら、愚痴で盛り上がる酒は好まないので、仕事がらみのお酒は極力控えめにしています。そんなわけで、お酒は好きなんだけどある意味、非常にお付き合いの悪いひとです。愚痴で発散することも必要だとは思うのですが、かえってネガティブループに陥ることも多い。外で飲むより、家でまったり飲むタイプかもしれません。もちろん仕事がらみであっても、将来のこと、文学や映画のこと、子供のことなどをお話できるひととは飲みたいと思うのですが。

正体をなくすほどに飲むこともなくなりました。昔はそういうこともよくあり、徹夜で飲んで家に帰ったこともあったのですが、最近はとてもお行儀のよい感じの飲みが多い。年を取ったんだと思います。正体をなくすことはないけれど、一定量を超えて飲むと意識がなくなります。それでも自動操縦で帰ってくることができるので、人間というのはたいしたものです。

このほろ酔い気分のとき、世界がとても素敵なものにみえることがあります。ほどよく肩の力が抜けて、けれどもまだ現実的な感覚は残っていて、あらゆるものを許せそうな気がする。お酒を飲まなくても、この状態に意識を持っていくことができれば、きっとしあわせに生きることができそうな気がします。科学的な裏づけはわからないのですが、このときの脳の感じというのも、きっと測定可能なのでしょう。

パウロ・コエーリョの「11分間」という小説を読んでいて、前半に関してはなんとなくまどろっこしいというか淡々とした物語だなと思っていたのですが、中盤あたりでちょっと琴線に触れた部分がありました。主人公はマリーアという女性で、彼女は成り行きで売春婦になっている。その彼女が、あらゆることを経験しているけれども幸せになれない画家ラルフ・ハートと出会うのですが、暖炉の前でふたりでワインを飲みながら、お互いに大切にしていたものを交換する。プレゼント交換をするわけです。このシーンがいい。

身体に触れると終わってしまう、というような表現もあったかと思うのですが、抑制しつつ相手に対する感情を維持するという状態が、ほろ酔い気分のようなものをイメージさせました。ほんとうに酔ってしまうと、その後には、二日酔いだとか飲みすぎの不快感だとか、そうしたものがやってくる。けれども、飲まなければ、現実という殺伐とした世界から抜け出すことはできない。ほろ酔い気分もやがては冷めてしまいます。でも現実にいながら、少し現実から解放された夢のような感じというのが、生きていく上で必要なものかもしれない。

映画や音楽などもそういうものだと思います。映画を観ているときには、映画の世界に没頭して、まさにその映画に「酔う」けれども、物語が終わってしまえばまたぼくの淡々とした人生に戻らなければならない。ライブで音楽を聴いているときには、そこで表現される世界に「酔う」けれども、ライブは一回性のものであり、その感覚は少しずつ現実の生活のなかで失われていく。

それでも、そのときに感じていた「酔い」の感覚は、その後の生活に何かを与えてくれるものだと信じていたい。ぼくは映画に酔い、小説に酔い、音楽に酔うような日々が、なかなか「よい」と思っています。泥酔してしまうとわからなくなるのですが、ほどほどに酔うことができるしあわせを大切にしたいものです。

投稿者 birdwing : 2006年4月17日 00:00

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