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2006年4月22日

ひらめきという光。

昨夜おいしいスペイン料理やお酒を堪能させていただいたせいか、にわかにインスピレーションがやってきて、早朝から久し振りに趣味のDTM(パソコンによる音楽制作)に没頭してしまい、自室に引きこもりパパになってしまいました。反省。子供がどたばたはしゃいでいる音をきくと、ちょっと見にいったりしてみるのですが、どうしても作りかけの曲が気になってパソコンの前に戻ってしまう。あまりに集中しすぎると、奥さんの機嫌も損ねかねないので、ほどほどにしなければ。ちょっとイエローカード気味なので、明日は家族サービスしましょう。

創作に集中すると、ものすごく神経が衰弱します。これは別にDTMに限ったことではなく、小説を推敲するようなときも同じだと思うし、絵画などもそうじゃないかという気がします。緻密な作業の繰り返しであり、デジタルな制作といっても、ひとつひとつの履歴をきちんと記録しているわけではないので、一度設定をクリアしてしまうと、二度と再現できなくなるようなこともある。今日もVocaloidの設定をリセットしてしまい、微妙なニュアンスが失われてしまって落ち込みました。

他のクリエイターさんはどうか知らないのですが、ぼくは創作の作業はすべて高揚と落ち込みの繰り返し、という感じです。インスピレーションに支配されて、いわゆる神様が降りてきた状態のときには、ひょっとしてとんでもないものができそうだ!という高揚感があるのですが、ちょっと現実生活に戻って再び作業を再開してみると、こりゃだめだ(涙)、と落ち込む。あの光に包まれていたような感じは何だったんだ、と思うことになります。もちろんぼくのようなアマチュアがみている光は、あやしいものが多く、プロの方がとらえる光はもっと輝いているものなんじゃないかと思います。茂木健一郎さんの「意識とは何か」という本を読んでいるのですが、モーツァルトは交響曲の全体を一瞬のうちに構想したという文章があり、衝撃を受けました。きっとそれは楽譜ではなく、ある種の光として全体をキャッチするようなものなのかもしれません。たしかにぼくも、一瞬のうちに全体がみえる、ということがあります。しかしながら、みえている全体をこつこつと部分から構築しようとしたときに、みえていた何かは跡形もなく消えてしまうことがある。思考のスピードで、ひらめきを形にできればいいのですが。

ぼくはきわめて普通の凡人なので、あまりあちらの世界に行ってしまわないように気をつけたいものです。創作活動には若干危険な部分もあり、宗教に通じるような危うさも孕んでいます。茂木健一郎さんの「意識とは何か」にも書かれていて、ぼくは苦笑とともに共感を得てしまったのですが、茂木さんは幼い頃に「ただいま」ということの意味について深く考えてしまったそうです。「ただいま」というのは、親とのコミュニケーションとしての言葉であり、そういうものだとやさしく解釈すると、現実はとくに問題のないものとなる。ところが、「ただいま」の意味とは何か、本質は何かということを考えはじめると、やばい領域に踏み込んでしまう。まさにぼくのブログはそんな危うさがあります。さらに創作の分野にもその危険性があって、この音が意味するものは何か、と考えはじめるとかなり危険です。しかしながら、だからこそ創作にぞくぞくするようなよろこびがあるともいえます。マヤクのようなものなのでしょう。快楽と危険性が同居している。

大切なのはバランス感覚です。あちら側の世界を垣間みつつ、こちらにとどまっていられるかどうか、ということをきちんと認識しておくことにします。

投稿者 birdwing : 2006年4月22日 00:00

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