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2006年4月26日

「自分の感受性くらい」茨木のり子

▼book06-030:詩集を読む贅沢な時間。

4760218157自分の感受性くらい
花神社 2005-05

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詩集を買うのは小説を買うのとはちょっと違います。だいぶ違うかもしれない。脳科学に関する新書を買うのとも違うし、分厚いビジネス書を買うのとも違う。そもそも詩集など一生買わないひとだっているかもしれません。というのも、詩集はそもそも高い。高いうえに文字が少ない。文字が少ないのに難解です。それでも(というか、だからこそ)詩集を買うこと自体が贅沢です。その言葉ひとつひとつを味わうのは、とてつもなく贅沢な時間ではないでしょうか。

七井李紗さんのブログ「ほっと!ぐらふ」はお気に入りのブログのひとつですが、七井さんの幼馴染みにmaiさんという方がいて、maiさんのブログもとてもいい。広報のお仕事をされている七井さんのやわらかな印象とは対象的に、maiさんはちょっと文語調の結晶化されたような硝子のような文章を書かれています(というのはぼくの印象です。最近、かなりやわらかくなったような気もしますが、どうしてでしょう?)。実はそのブログで、 畠山美由紀さんのことを知り即行でCDを購入しました。そして畠山さんの曲の雰囲気に影響を受けて「サクラサク。」という曲のイメージができた(ぜんぜん似ていませんが)という、そんな経緯もあります。わらしべ長者的かもしれません。さらに、やはりmaiさんのブログで茨木のり子さんの詩集が引用されていて、これもいいなと思っていて、なんとなく買おうかどうしようか迷っていたのですが、本日やっと購入しました。延々と種明かしをしてどうする、という気もするのですが、ぼくはお会いしたことがないネットのひとたちに影響を受けやすい。けれども、その影響が、ぼくの創作(を含めて、ぼくの瑣末な日常)を支えてくれているような気がします。ということを言っておきたかったわけです。あらためてmaiさん、そしてみなさま、ありがとうございます。

さて、この詩集のなかでいちばんインパクトがあるのは、タイトルにもなっている「自分の感受性くらい」です。「ぱさぱさに乾いていく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて」ではじまり、すべてが心に刺さる。「初心消えかかるのを/暮らしのせいにはするな/そもそもが ひよわな志にすぎなかった」もがつんとくる。

それにしても、詩人が使うと、どうして言葉は豊かになるのでしょうか。まず、白い余白のなかで視覚的に活字が浮き立ってみえる。次に黙読すると、そのなめらかさに驚きます。音読するとさらに響きが広がる。「即興のハープのひとふし」「くだまく呂律 くしけずる手」「言の葉さやさや」(「存在の哀れ」)、「ひんぴんとみる夢(「殴る」)」などなど。抜粋しようとしていたら、どの言葉もすばらしく思えてきたので断念しました。

詩として紡いだ言葉に、音のクオリアがあるような気がします。書店に行って、ししゅうはどこですか?と店員に聞いたら刺繍の本の場所に連れて行かれたという「詩集と刺繍」のように、言葉に対する感度が研ぎ澄まされているように思います。という視点からぼくが好きな詩は、「波の音」ですね。酒をつぐ音が「カリタ カリタ」と聴こえる国、波の音が「チャルサー チャルサー」と聴こえる国があるらしい。

あっという間に読めてしまうのですが、何度も読み直したい詩集です。ブログにコメントいただいたglasshouseさんおすすめのセルジュ・ゲンズブールを聴きつつ読んでいるのですが、ちょっとはまりますね。これは。4月26日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(30/100冊+29/100本)

投稿者 birdwing : 2006年4月26日 00:00

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